親鸞とルター 一向一揆とドイツ農民戦争-宗教社会学 明治大...

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Meiji University Title �-�-�(1) Author(s) �,Citation �, 30(2): 207-236 URL http://hdl.handle.net/10291/12611 Rights Issue Date 1992-03-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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  • Meiji University

     

    Title親鸞とルター 一向一揆とドイツ農民戦争-宗教社会学

    的アプローチ-試論的ノート(1)

    Author(s) 倉塚,平

    Citation 明治大学社会科学研究所紀要, 30(2): 207-236

    URL http://hdl.handle.net/10291/12611

    Rights

    Issue Date 1992-03-25

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 第30巻第2号 1992年3月

    《特別研究》

    親鴛とルター 一・向一揆とドイツ農民戦争

          一宗教社会学的アプローチー

             試論的ノート(1)

    倉 塚 平☆

    Shinran und Luther, der Ikko-Aufsttirnde und der deutsche Bauernkrieg

    -ein Versuch aus dem Standpunkt der Religionssoziologie;Memorandum(1)

    Taira Kuratsuka

    はじめに

     周知のことではあるが,カール・バルトはr教会教義学』の中で次のような興味ある指摘をしてい

    る。

     「次のことはまさに神の摂理的めぐり合せによるといってよいだろう。すなわち,私が知る限り,

    キリスト教に最も厳密に,包括的に,明瞭に対応する“異教的”対応物が極東に存在しており,この

    宗教形成物はローマ的あるいはギリシァ的カトリシズムとではなく,すぐれてキリスト教の宗教改革

    派的な形態とパラレルな関係に立っており,それゆえまたこの首尾一貫した恩寵の宗教としての形態

    をとったキリスト教に対し,その真理性をとう問いの前に立たせているということである。それはア

    ッシジの聖フランシスコ,トマス・アクイナス,ダンテの生きた時代である12,13世紀,日本で起っ

    た二つの関連し合っている仏教的形成物,すなわち法然坊源空によってつくられた浄土宗セクトと彼

    の弟子親鱒によってっくられた浄土真宗セクトである」(Karl Barth, Die kirchliche Dogmatik I/2

    S.372)

     バルトはまた次のようにもいう。

     「この浄土教は,少くとも16世紀以来現在に至るまで無数の人々の意識の中に存在しているような,

    いささか単純に考えられたキリスト教的プロテスタンチズムと,あるいはとくにルター主義のある種

    の自己理解や自己記述(もっともそれは部分的にはルター自身のものでもあるのだが)と,無理なく

    ひじょうによく似ているのである。……実際かくも多くの照応関係がある以上,先にのべたような相

    違も,浄土教がより純粋な形態へのさらなる内在的な発展をすることによって,脱け落ちていき(キ

     ☆本学政治経済学部教授

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  •                 明治大学社会科学研究所紀要

    リスト教との接触によってそれが刺戟されないとはいいきれない),それとともに,キリスト教的プ

    ロテスタンチズムとの,より直載にいえば,恩寵宗教としてのキリスト教の最も純粋な形態とほぼ完

    全に相似したものになることも起るかもしれないのである。」(ibid.,1/2 s.375)

     実際,仏教とキリスト教という宗教それ自体の発想の根本的な相違にもかかわらず,また13世紀日

    本と16世紀ドイツという時空の大いなる距りにもかかわらず,両者の信仰観の相似性はまことに著し

    いものがある。勿論その詳細に入っていけば,差異は大きく見えてくるかもしれないが,信仰観の骨

    格の同質性は否定しがたいものがあると私は考える。すでに16世紀スペインの宣教師は真宗門徒を見

    て,ルター主義の悪魔が日本にいると書き送った。また明治初期日本にやってきたルター派宣教師た

    ちは,Amidaismusの広汎な存在を発見して,ルター主義伝播の恰好の土壊となると狂喜した。爾来,

    両宗派の信仰観の比較研究は細々とではあるが営々として続けられ,世人の目には隠れているが,い

    くつかのすぐれた研究が現われている。

     だが,これらの研究は神学的,哲学的あるいはいわゆる比較宗教学的領域にほとんど限定されてい

    る。これら形而上学的研究もさることながら,この相似する二つの信仰観が生みだした社会的帰結の

    対比も,これに優るとも劣らぬ興味をかきたてる。なぜなら,親鶯の教えが民衆の魂の中に彼らなり

    の理解の仕方で受入れられ根づくとともに,15-16世紀の目本を揺がす巨大な一向一揆となって爆発

    するし,ルターの教えを革命的な仕方で受入れた民衆はドイツ史上空前絶後の巨大な農民戦争をとき

    放つに至るからである。しかもより興味深いのは,一向一揆が規模においても持続力においても強力

    な力を発揮しえたのは,ようやく土一揆を通じて惣へと結集してきた農民に対し,親鶯から発する真

    宗門徒の同朋同行という平等主義的結合原理が彼ら農民の連帯感を宗教的に正当化するものとして強

    くアピールしえたからであった。だが,これとちようど同じように,古き法の名のもとに聖俗領主に

    対し経済的利益と村落共同体の自治確立のためすでに各地で永らく戦い続けていたドイツ農民が,宗

    教改革運動が勃発すると僅か数年にして一挙に立上るに至ったのは,ルターの聖書原理から引き出さ

    れた神の法(窮極的には隣人愛に集約しうる)の観念により領主の常軌を失した収奪を根底から否定

    するイデオロギー的根拠を得たためであり,さらに重要なことは,信仰義認論の系としての万人祭司

    制とそこから引出されるゲマインデ原理(教区共同体による教区教会自主管理原則)が村落共同体の

    政治的教会的完全自治の要求を正当化するものとして理解されたことによるのである(教区と村は外

    延内包を同じくしていた)。

     「ただ阿弥陀仏の慈悲によってのみ」:「ただ神の恩寵によってのみ」,「ただ阿弥陀仏への信仰によ

    ってのみ」:「ただ神への信仰によってのみ」救われるという親驚とルターとにおける信仰観のパラレ

    リズムは,呪術的信心や功績による救いの体系の中に閉されていた民衆の心を解放するという点でも

    同じパラレリズムを示した。だが,これらのパラレリズムにもかかわらず,その裏面には両国中世に

    おける社会的文化的伝統の相違から発する微妙な差異も隠されていた。ことに親驚とルターとの間で

    は,さほどのギャップと思えなかったような社会観の違いは,両農民斗争の敗北の段階になると一目

    瞭然たるものになってくる。ドイツの戦いでは兄弟愛実践の場に村落共同体を作り変えようとして果

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    たさず,領邦的集権化の力によって押し潰され,幾万の血を流して敗れ去っていったのに対して,こ

    の地では,同朋同行たるべき真宗農民が真の自治連合体形成の代りに,あろうことか本願寺一族に誘

    引されつつ,それを戦図大名的支配者へと祭り上げ,この一族の赤裸々な教団的政治的利益に奉仕す

    べく,仏敵打倒の掛声のもとあたら数卜万の命が無意味にもかっ憐れにも,屠り去られていくのであ

    る。勿論,それは政治的諸状況によって生み出されたが,そればかりではない。やがて行論の中で詳

    細に追求するところだが,仏教に由来し親鷲によっても克服しえなかった社会観上のある種の欠落,

    蓮如ら本願寺一族によって自立化を阻止されてしまった門徒農民たちの倫理的非自立性,さらに窮極

    的には個の自立を蟻地獄の中に引きずりこむようにして呑みこんでしまう日本社会の精神風土そのも

    のに,それは起因しているといえよう。

     以上のごとく親鶯とルター,一向一揆とドイツ農民戦争という二つのパラレリズムの表と裏とを究

    明することが本稿の課題である。だが私の研究は病気勝ちもあって遅々として進まず,まだ緒につい

    たばかりであり,だがにもかかわらず直ちにその研究成果なるものを提出せざる破目に陥った今,こ

    こに全く意に反して第一部の第一章について,草稿のためのノートを掲げることにした。あらかじめ

    読者に私の研究の遅きをお詫びしつつ御諒承をお願いする次第である。

    第一部 親鶯対ルター

     1 中世後期カトリシズムと顕密体制とにおける信心形態

     親鶯は9歳で比叡山延暦寺に入り,やがて堂僧となって修業,29歳にして山を去り,法然の下に投

    じ,6年後の1207年一門の法難に遭い,彼は越後に流罪となった。ルターは22歳でエルフルトのアウ

    グスチヌス会修道院に入り,やがてヴィッテンベルク大学聖書学教授となり,1517年公然と順宥状を

    攻撃し,宗教改革の口火を切って落した。両者ともに既存の教団の中で育ち学び,やがて苦悶し,新

    しい信仰を発見し,それをもって既成宗教と対決し,宗教改革者となっている。その際,これら二つ

    の宗教,黒田俊雄のいう顕密仏教体制と中世カトリシズム,に色濃くまとわりつき信心の形態を規定

    していた呪術的なるものを,彼ら二人は激しく攻撃することになる。もっとも彼らがこの呪術的なる

    ものを批判したのは,それ自体に目的があったわけではない。衆生を啓蒙し,呪術的抑圧下から解放

    してやろうとしたのではない。真の目的である阿弥陀仏や神に対する心からなる帰依,それに基く救

    いを,呪術的なるものが妨げると思ったからである。だが禁欲的プロテスタンチズムが,またそれと

    比較すると無に近いほど僅かであるとはいえ真宗が,絶対者と対面する個の内面的主体性を確立する

    と同時に外的世界をザツハリッヒなものとして対象化することが可能となったのは,脱呪術化を,前

    者は断固として後者は微温的ではあるがともかくも,推進していったからにほかならない。それゆえ,

    親驚とルターのそれぞれの信仰観の社会学的機能と影響を対比するためには,まずこの戦いの姿を知

    る必要があるし,さらにその前提として,打破らるべき二つの呪術の園の見取図を描いてみることが

    必要がある。そこでは,救済はどのような呪術を媒介にしてなされたのであろうか。極度によく制度

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    化され理解し易いカトリック教会のそれをまず眺め,っいで混沌として捉えどころのない顕密体制の

    それを前者を引照基準にして見ていくことにしよう。

     1 中世後期カトリシズムの救済システム

     カトリック教会は,地上における神の代理人たる法王のもとに普遍公同の救済アンシュタルトとし

    て構成され,呪術的救済財を独占していた。それゆえ人々はこのアンシュタルトに帰属してのみ,救

    いにあずかることができるとされた。そしてひとたびこの制度と教えを信じると,人々は地獄の絶望,

    煉獄の恐怖にふるえあがると同時に天国の甘美にも酔いしいれた。実際,カトリックのこの救済シス

    テムは,脅すと同時にすかし,罰すると同時に愛し,最後には結局いずれの日にか天国に行ける希望

    を与えてやるものであった。キリストの花嫁と自称しているカトリック教会は,いたずら坊やや我儘

    娘である中世人に対して慈母として,時にはrr一マの母」として,振舞っていたのである。ではそ

    の救済システムの各々を見ていこう。

     1.秘蹟制度sacramentum  これらの救済システムの中で最も効果的に機能したシステムは秘蹟

    制度であった。ウェーバーによると,「ある神的実体を享受し,神的威力をわが身に摂取することが

    できると考え,あるいはまたなんらかの神的本質を密儀を通じて分有し,それによって悪から身を守

    るという秘蹟恩寵の考えは,本質的に呪術的である」といっている (M.Weber, Wirtschaft und

    Gesellschaft,2Teil S,338)。カトリック教会ではアウグスチヌス以来,この秘蹟の効果は,それを授

    ける聖職者やそれを受ける信徒の内面を問題にすることなく(後者の場合,時に必要とされた),客観

    的な「為されたる業」によって効験があるとされた。かくすることによってのみカトリック教会は巨

    大なヒエラルヒーとして存続しえた。否,かかる秘蹟制度を中核としてこそ,この教会自体が形成さ

    れえたのである。この秘蹟制度がいかに人生のリズムに適合しながら信徒たちの心を呪縛していたか

    を簡単に見ていくことから始めよう。

     まず人は生まれ落ちるやいなや,洗礼baptismusの秘蹟を与えられた。本来洗礼は,信仰を得た者

    が「キリストの体」であるキリスト教会に加入する儀式であり,そのため,加入せんとする者にはこ

    れまでの罪深い生活を悔い改め,信仰に生きる確たる決意が要求された。ところがカトリック教会が

    形成される二世紀以降,異教の祓い清めと同じように洗礼の水に触れることによってすでに罪が潔め

    られるという呪術的なるものへの変質が発生し(額に注がれた聖別された水自体に神的なカがふくま

    れている),やがて諸民族が丸ごとキリスト教に改宗するとともに,新生児にも洗礼を与えて恩寵の生

    命を伝え,教会の一員として迎え入れることになった。洗礼を受ける前に死んだ子は天国に浮かばれ

    ないと信じられ,生まれと二,三日以内に教会に連れていって受洗さすことになった。だがこうなる

    と,受洗者の側の自発的な信仰を要求することは不可能になる。授洗の儀式には悪魔祓いの言葉,十

    字切り,試験と信仰告白などがそのまま保持され,洗礼立会人が受洗する幼児を代理した。要するに,

    「洗礼は,不可思議な魔術的作用をもった言葉と行為のメカニズムになり終ってしまった」(Hans von

    Schubert, GrundzUge der Kirchengeschichte,11 Auflage 1950)。

     幼児洗礼を受けた者は,ほぼ7歳で堅振礼confirmatioの秘蹟を受ける。これは全く意志をもたな

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    い幼児に対してなされた洗礼の補足であり,按手と額への十宇の塗油を通じて,今後,キリスト者へ

    と教育する出発点とされた。その教育のため代父母がたてられた。堅振礼は事の性質上,最も秘蹟的

    性格が稀薄であるが,それでも按手と塗油という可視的しるしを通じて,見えざる神の恩寵が授堅者

    たる聖職者を通じて受堅者に伝達されるものとされた。

     やがて成人して結婚matrimoniumするが,それも秘蹟とされた。その理由は,婚姻は一種の契約

    ではあるが,特殊的性質を有し,宗教的聖性をもった契約だからだという。すなわち婚姻の目的であ

    る子づくりは,神の創造の行為に対する参与という点で聖性をもっているというのである。勿論,聖

    書の中には婚姻の秘蹟性を立証する言葉はないが,パウロrエペソ人への手紙』の次の句が引き合い

    に出されて,その類比から婚姻には超自然的恩寵が与えられていると見なされた。「キリストが教会

    を愛してそのためにご自身を捧げられたように,妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは水で

    洗うことにより,言葉によって,教会を清め聖なるものとするためであり……栄光の姿の教会を御自

    分に迎えるためである」(5.26-27)。またイエスが「神が合わせられたものを人は離してはならな

    い」(マタイ19.6)といって,婚姻に厳格な規律を課したのは,婚姻にその重い責任を果すよう,そ

    れに必要な聖寵を生ぜしめる神秘的な力が与えられたためであるとしている。しかし婚姻の秘蹟は,

    結婚式の祝別やその儀式執行の中にではなく,婚姻契約行為そのものの中にあるとされている。だか

    ら,この秘蹟の執行者は婚姻に立会い祝別する司祭ではなく,新郎新婦にほかならない。両者が互い

    に「……妻として愛し続ける」,「……夫として従いつづける」という約束の言葉から秘蹟は始まり,

    初夜における両者の性交で完成するのである。但し,このような聖なる事柄は当然教会が管理すべき

    であり,従って婚姻契約上の諸問題(重婚,未信者との婚姻,不能者との結婚,近親婚など)に対し

    て教会は裁治権をもつことになる。

     いよいよ老いて臨終を迎えようとすると,終油extrema unctioの秘蹟を中心とする一連の儀式を

    通じて,あの世に旅立っていくことになる。ローマ教会は揺籠から墓揚まで人々を後見し,脅しなが

    らも,天国行きまで世話してくれる有難い宗教であった。実際,ここにローマ教会の永続性の秘密も

    宿っているといえよう。

     死去するまでに時間があってフルコースの死の儀式を順序通り行うことができる揚合,悔俊の秘蹟

    が先行し,ついでミサの秘蹟,その後で終油の秘蹟がくる。だがこれで終るわけではなく,臨終の全

    免償を与え,いよいよ最後に諸聖人への執成しの祈りを行い,聖職者は神の権威をもって,「父と……

    子と……聖霊と……処女マリアの御名により……この世を去れ」と命じる。だがそれでもまだ生きて

    いると,聖ヨゼフから始まり延々と諸聖人,天使,聖なる童貞童女の名が次々と呼ばれ,執成してく

    れるよう祈られる。さらにこれら聖人天使たちが,死にゆくものの霊魂を迎えに降りてきて,華麗な

    隊伍をつくって,それを取囲んで昇天して下さるよう祈る。死後,教会では毎日のミサの際,その手

    から離れていった霊魂を犠牲として神の御前に捧げるために天使の手にこれを委ねる。これによって

    信者の死はキリストの犠牲と結合して,神の意に沿う生命の犠牲の完成となる。

     終油の秘蹟は,いよいよこの世を去るに当って,これまで犯してきたすべての罪を帳消しにして許

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    してくれるというのであるから,天国行きの最大の保証であり,あらゆるサクラメントの中で最重要

    であるはずのものであるが,実際は第五番目の秘蹟とされ,さして重要視されていなかった。なぜな

    ら,この秘蹟でいったいどんな罪を赦すのか定かでないからである。というのは,洗礼の秘蹟で原罪

    は赦されているし,その後は悔俊の秘蹟で犯した罪をその都度告白し願罪してきたし,さらに終油の

    秘蹟の一寸前に行われる悔俊の秘蹟で一生を通じて犯した罪をすべて告白し赦されているはずなので,

    今さらなにを赦したらよいのかということになる。結局アルベルトウスは罪の残存物を赦すのだとい

    い,トマス・アクイナスはこの残りものを概念化して,「栄光と恩寵の生活を推進していく完全な活

    力を欠いだ無気力,無能力」とし,終油の秘蹟は悔俊の秘蹟に介入するものではなく,ただ罪の残り

    ものに対するいわば薬あるいは死の恐怖を取除いてやる安心剤としての効果をもつものだとした。結

    局,悔俊の秘蹟の附属品的扱いを受けることになったのである。

     ところで,終油の秘蹟は本来病を癒す塗油から派生してきたが,もし万一,この秘蹟のおかげでか

    瀕死の床にある者が元気になったらどうするのか。また死にかけたら終油をほどこすのか。学者たち

    の議論は百出したが,トマスはこの秘蹟の効果は永続的ではないので繰返してもよいとした。なお終

    油は体のどこに塗るのか,1439年のExsultate Deoでは,トマスに従って次のように書いている。

    「ものを見た目,ものを聞いた耳,ものを嗅いだ鼻,ものを味わい話した口,ものに触れた手,歩い

    た足,喜びを感じた腰」に対してであり,司祭は祝別されたオリーヴ油をこの七つの器官に対して塗

    りながら,それぞれ次のようにこの秘蹟の言葉を語るg例えば,「この聖なる塗油と慈悲とによって,

    腰をもって汝が犯した罪を主が赦し給わんことを。アーメン」。トマスは,御婦人方に対して足と腰

    の塗油するときには,その董恥心を考慮すべきことと注意している。

     そもそも終油の秘蹟の聖書的根拠は次の二個所である。すなわち,rマルコによる福音書』6:12.13

    「(イエスに汚れた霊を制するよう命じられ)そこで彼ら(12使徒)は出て行って,悔改めを宣べ伝え,

    多くの悪霊を追い出し,大ぜいの病人に油を塗っていやした」。rヤコブの手紙』5:14~16「あなた

    がたの中に,病んでいる者があるか。その人は,教会の長老たちを招き,主の御名によって,オリー

    ブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈りは,病んでいる人を救い,そして主はその人を立

    ちあがらせ{下さる。かつ,その人が罪を犯していたなら,それも許される。だから互いに罪を告白

    し合い,また癒されるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈りは大いにカがあり,効果がある

    ものである。」

     これらの文言は後に様々に解釈され様々な救済手段をつくり上げていく根拠になったが,この二つ

    の文言に共通なのは,病人を塗油で癒すこと,すなわち塗油に薬としての効力があること,病気と罪

    乃至悪霊とは結果と原因の関係として捉えられていること,さらに病や罪から癒されるため悔改め,

    罪の告白を要求していることである。実際,古代の民衆は病は気から,すなわち罪から,また罪の原

    因をなす悪霊から生じると考えていたのである。古代教会では塗油は主として肉体の病気回復のため

    と考えられ,オリゲネスのように病を道徳的病と結びつける例は少なかったと思われる。イレナエウ

    スの話しによると,こんな例もある。すなわちマルコスのグノーシス派セクトは死にゆく者に油と水

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    を混ぜたものを塗り,彼らのために祈り,霊界の敵勢と彼らの魂が交わらないようにさせようとした

    というのである。テルトリアヌスによれば,キリスト者プロクルスはアントニウス帝の父セヴェルス

    を塗油で全快させたという。それでセヴェルスは教会に行き壼の中の洗礼水とランプの油を奪い,家

    にもっていって病気の予防や治療の薬としたという。416年インノケンティウス1世は『ヤコブの手

    紙』を解説した手紙の中で,塗油は秘蹟だから順罪中のものには授けられてはならないとしている。

    彼は病人の塗油だけのべて,死にゆく者にはふれていない。また塗油を受けるのは義務ではなく権利

    だといっている。8世紀末から塗油の教義化が始まり,オルレアンのテオドルフは塗油油に悔俊とミ

    サの秘蹟を結びつけようとした。836年のアーヘン公会議は塗油の機能をまだ病気の癒しに限ってい

    る。850年のパヴィアの教会会議では,塗油は罪の赦しであり,その結果健康が回復する秘義であり,

    信じて欲せよといっている。ここではじめて罪の赦しが前面に出てくる。塗油はくり返されてよいの

    かという問いに対し,1100年ごろシャルトルの司教イヴォは,塗油はサクラメントの類いであり,従

    ってアンブロシウスやアウグスチヌスによれば繰返しえないと答えてとる。ここでは塗油はすでに死

    にゆくものに与えるという観念が前提にある。実際,当時の民衆は,塗油後回復した者は大地に裸足

    で触れてはならい,性交や肉の楽しみをしてはならないと考えていた。彼らはこの世の人々の中にあ

    って,しかもこの世に別れを告げた者だからだというのである。1141年に死んだサン・ヴィクトール

    のフーゴーが終油をはじめて神学体系の中で論じ,アルベルトゥス,ボナヴェントウラが詳論しだし,

    ついでトマスがr神学大全IV』で終油の秘蹟を体系的に展開し,これで教義的には主要な点で確立する

    ことになる。そして1439年のブイレンツェの公会議でトマス説に立ってエウゲニスIVが教勅Exultate

    Deoを発し,終油の秘蹟はやっと制度的に確定されることになった。

     ところでロー一マ教会は,終油の秘蹟や諸聖人への執成しの祈りでもなお満足しない。罪の残りかす

    を切取っても,死にゆく者が地獄落ちしないとしても,煉獄でなお瞭罪のための長い長い苦業をして

    泣き叫ぶのではないかとおそれて,臨終の全免償(全賊宥)を与えてやるのである。罪人は罪を赦さ

    れも,その罪の腰いをしなければならないが,それもすべて免じてやり直ちに罪入の魂を天国に飛び

    上らせてやろうというのである(なおこれについては最後の項目で再度説明したい)。もっとも,こ

    の罪人がほんとうに天国に行いったがどうかはなお確実ではない。なぜならそれは彼がこの聖なる恩

    寵を心から受入れる気になっていたかどうかにかかっていたからである。生き残った者はその死んだ

    肉親が煉獄で泣き叫んでいるのではないかと不安にかられ,死者ミサを挙げたり,祈ったり,彼のか

    わりに貧者に施し,教会に献金する。死にゆく者もその肉親も結局は天国に行けるようあらゆる救い

    の手段を用いるのである。後に見られるように天国行き保険はまだまだたくさんあるのだから。

     rr・一マ教会は,人が生まれ落ちて死ぬるまで,さらに煉獄に落ちて天国の門にやっと迩りつくまで,

    ひたすら信徒たちを救ってやろうと努めてきた。だがそれでも人は日々罪を犯すし,さらに欲深いこ

    とに,目に見える救いの証拠として神的実体を所有したいと要求する。その対策として,ローマ教会

    は前者に対しては改俊の秘蹟を,後者に対してはミサの秘蹟をつくり出して与えることになる。

     悔俊poenitentiaの秘蹟とは,洗礼後犯した罪を告白し,その罪を赦され,神の前で罪なき者と認

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  •                  明治大学社会科学研究所紀要

    められる秘蹟である。この秘蹟の聖書的根拠とは,ヨハネ福音書20:21-23の復活したイエスが弟子

    たちに語ったといわれる言葉に求められた。「安かれ,父がわたしをおつかわしになったように,わ

    たしもまたあなたがたをつかわす。」そして彼らに息を吹きかけて仰せられた。1聖霊を受けよ。あな

    たがたが許す罪は,だれの罪でも許され,あなたがたが許さずにおく罪は,そのまま残るであろう。」

    カトリック教会によれば,この秘蹟は裁判的1生格をもっている。この法廷で罪人は自分自身の犯した

    罪を告発する原告として,また告発される被告として,神ならびに神によって鍵の(繋釈権)を与え

    られた繊悔聴間僧の前に立つ。そして裁判官たる彼はその罪を聞いた後,赦免を与えかつ犯した罪の

    償い(貝責罪)を命じるのである。

     この秘蹟は次の順序で行われる。

    (1)痛悔contritioこれは神への愛から発するところの犯した罪に対する完全な嫌悪であり,これが

    あって悔凌の秘蹟は成立つわけである。だが,こんな悔悟の念をもつものは少いし,人の内面を知る

    ことはできない。だから教会は不完全な痛悔attritioも認めることにした。これは地獄その他の神罰

    や世間の糾断に対する恐怖から発する悔悟の念である。かかる悔悟の念も,それだけでは神の前で義

    しいと認められることはできないが,この悔俊の秘蹟では,義認への十分な内的準備になるという。

    (2)告解(告白,繊悔)confessio 痛悔した告白者は公然とではなく秘かに聴問僧の前に赴きその罪

    の告白をするが,その告白内容は,この秘蹟によってすでに前回までに赦されている罪を除くすべて

    の大罪を告白しなければならない。小罪は祈りと断食などによって赦されるから告白すべきではない。

    告白は明瞭率直かつ真実になされなければならないが,恥を知らない者のように不謹慎に語ってはな

    らない。記憶していない罪は,記憶している大罪の告白の中に含まれているものと見なされる。なお

    告解は少くとも年に一度は行うべきものとされ,復活祭のミサの直前が慣習となった。身も心も清ら

    かになって,聖体を拝領すべきだからである。

    (3)赦罪absolutio 罪を聞き終った聴問僧は告白者に対して罪の赦しを宣告する。すなわち,ラテ

    ン語で,「われ父と子と聖霊の御名により汝を汝の罪から赦す。」ふつうこれに希願の言葉がともなう。

    聴問僧の赦罪権は,法王または司教から付与されたものである。法王や司教はある種の罪(例えば異

    端)にっいては自己に留保し,その告白者を呼びよせて聴問し,罪の償いを決めることができる。

    (4)っいで償罪乃至賦罪satisfactio が聴問僧によって課せられる。赦罪されたのだからこれでみな

    済んだということにはならない。罪には償いが伴わなければならない。だからこの償いが赦罪の条件

    をなしている。聴問僧は審判者であり同時に魂の医者としての立場から,罪の状況と告解者の能力に

    応じて治癒的な方法で償いを課する。ふっうr順罪規定書』に従って行った。その際,この秘蹟が神

    の慈悲から発したものであることを常に念頭におくべきものとされている。

     この秘蹟執行において,聴問僧は神の立場に立って,告解者の内面に入ることができたわけである

    から,様々なスキャンダルを起すことになった。そもそも聖職者であるかぎり,大罪を犯していよう

    と,その官職そのものに秘蹟を執行し神の赦しを代って行うカリスマがあると考えられ,その者個人

    の主観は問題にならなかったからである。また注意すべきことだが,この罪の告白は,犯した個々の

                        一214一

  •                  第30巻第2号  1992年3,月

    罪であって,それを告白すれば,消滅してしまう。また同じ罪を犯せぱ,また告白すればよろしいと

    いうことになる。神から金銭を借りて,その都度支払えば済むというようなものである。だから,ウ

    ェーバーが強調しているように,中世人は倫理的にその日暮しであり,いわば倫理的に蓄積されるこ

    とがなかった。ここではおよそ一個の統一された人格などというものは問題にならなかったといえる

    であろう。

    〔補論 悔俊の秘蹟の歴史的由来〕  使徒後の時代どこのゲマインデでも,神の民は聖なるもので

    なければならないという意識は強烈であった。洗礼後に犯した罪のために,信者は悔改めて罪を腰う

    ならば神の赦しを獲得しうるし,またそうしなければならないとされた。なぜなら神は,罪を犯して

    自分から離れていった信者を再び自分のもとに引き寄せるために悔俊の可能性を贈られたからである

    というのである。信徒同志は互いに罪を犯さないよう諫め合い,罪を犯した時には皆して執成しの祈

    りを行った。ふつう日曜日の主の食卓の前に罪を告白した。それによ・・てキリストの犠牲が汚されな

    いためである。信徒仲間に対し罪を犯した者は,必要とあれば,皆から忌避され,悔い改めを行うま

    で口をきかれなかった。心からなる悔俊は,われわれを癒し給う神への代価と考えられた。そのため

    に,祈りと断食と施しという三つの瞭罪方法が用いられた。施しは罪を軽減するものとされた(以上,

    第1及び偽の第2クレメンス書翰より)。後に組織化される公的な悔唆の訓練はまだ2世紀の初めま

    では行われていなかった。120~140年の間に書かれたと思われる『ヘルマスの牧者』になると,いさ

    さか様子が変ってくる。これまで重い罪(罪の三位一体といわれた背教,殺人,姦通)は,洗礼の時

    だけ赦され教会に受入れられたが,二度目にやった場合は赦罪なきまま追放されていた。だがここに

    至って,二度目の重罪に対しても罪の赦しを与えてよいとした。そのため,後に教会の倫理的堕落の

    第一歩をこのrヘルマスの牧者』は踏みだしたものと見なされることになった。だが,ヘルマス自身

    は終末は近いという彼自身の期待に基づいて,できるだけ多くの人々を悔い改めさせ救いだそうとし,

    恩赦期限を設定した結果,二度目の重罪をも認めることになったのである。もっとも終末の日は来ず,

    恩赦期限も過ぎてしまったが,rヘルマスの牧者』のおかげで二度目の悔俊と赦しを保証することが

    教会のルールとなってしまった。

     2世紀末から3世紀初めテルトゥリアヌスは,裁判用語を用いて悔俊を説明しそれをルターに至る

    まで法律的発想の鋳型に閉じこめてしまった。例えば,「裁判官たる神は彼の義が実現されることを注

    目されている」,「しかし恩寵のゆえに罪人を悔俊を通じて呼びもどされようとしている。罪人は行為

    の罪だけでなく意志の罪からも自己を浄化しなければならない。」「罪人は神に対しては賠罪の債務者

    である。」「われわれが弁償することを神は欲せられている。」「その弁償の範囲とは,苦痛を感じざる

    をえない度合いに応じて,神は赦し給う。」「それに応じて悔俊は罪を殺し,弁償する力をもっ。」「悔

    俊とはたんに良心の問題だけでなく特定の行為の問題でもある。すなわち業OpUSなのだ。」信徒大衆

    の前で深く悔い改めて罪を告白し,断食と祈りと涙で聖職者や殉教者の前にへりくだらなければなら

    ないとすると,それもまた罪の自己克服といえるというのである。ところが彼はやがて二度目の悔俊

    を許さぬといってモンタノス派に移り,極端な道徳的厳格主義者となってしまった。カルタゴ司教の

                        一一215_

  •                 明治大学社会科学研究所紀要

    放塒ぶりが頭にきたためである。小アジアから発したモンタノス派はテルトゥリアヌスにカをえて,

    一時はローマ,ガリア地方にも拡がった。

     実際 コンスタンチヌス帝に至るまでの古代教会を貫く対立は,迫害と教勢の拡大のシーソーゲー

    ムから不可避的に生じてくる道徳的厳格主義と道徳的まあまあ主義の対立であった。前者は量より質

    を重んじ,結果的にセクト化する傾向があった。後者は量的拡大の上に巨大な聖職官僚制を築き上げ

    ることに最大の関心があった。従ってつねに現実と妥協しながら組織を温存確保しようとし,それに

    逆う前者を異端として締め出し,自らは正統と名乗ったのである。217年,第一回目のロ・一一マ教会の

    分裂が起った。ヒッポリトゥスはカリクトゥス1を,彼はあらゆる罪を赦している,判決で排除され

    罪人をも許していると非難した。後者によれば,司教はたとえ死すべき罪を犯したとしても罷免され

    えない。聖職者には,二度目三度目の結婚も,いや妾をもつことも許すというのである。似たような

    分裂は251年にも起きた。今回は迫害の中で棄教し,それがやむと再受入を求める者たちの問題をめ

    ぐって厳格派ノヴァテイアヌスとコルネリウスが争った。当然のことながら勝ったのは,後者の道徳

    的まあまあ主義である。厳格派はノヴァテイアヌス派をつくり,北方やアフリカさらに東方にも拡が

    った。彼らはみずからカタリ派と称し,長期にわたって存続しつづける。

     ノヴァティアヌスと対立したキプリアヌスは,「われわれは兄弟を見とるに当って非人間的であっ

    てはならない。泣いているものとともに泣かなければならない。彼らの績罪の成果と和解の希望とを

    拒んではならない」といっていた。しかし,聖職者たちが瞭罪も果していず,告白状も提出していな

    い棄教者たちに,司教の許可もないのに当然のごとくミサの聖体を授けているのを見て,それは神を

    恐れざる罪であり,主の聖体に対する冒濟である,ましてや「その他の罪人たちがより小さな罪でも

    教会の順罪規定に従ってゲマインデの前で告白し,やっと按手を通じて信徒団と交わる権利を受取る

    のを常としている」のになにごとかと怒った。

     道徳的厳格主義者たるカルタゴのドナトゥス派は,棄教者が任命した司教職は無効であるとして別

    派の教会をつくり,ローマ人の大土地所有に対する下層農民の抵抗と結びつつ,P一マ教会に対抗す

    る一大勢力を築き上げるに至った。これに対してアウグスチヌスはカトリック教会を国教としたロー

    マ皇帝権力に支えられ,ドナトゥス派と論争し,官職カリスマ制論をもって,秘蹟の執行は執行者の

    主観的立場や意志や能力や信仰の如何にかかわりなく,「為されたる業に従って」有効であるとし,

    道徳性の弱化乃至は喪失を代価としつつ,カトリック教会組織に盤石の重みを与え,今にいたるも存

    続しつづけさす重要な貢献をすることになる。彼は悔俊の秘蹟も組織論と同じように以下のごとく展

    開する。信徒の罪を赦しうるのは教会だけである。聖霊がそこに貸与されているからである。罪を犯

    した者は教会に救いを求め,謙虚に公然と悔俊しなければならない。教会を通じて与えられた神の恩

    寵である罪の赦しを軽蔑する者は,聖霊に対し罪を犯すことになる。大小にかかわらずあらゆる不正

    は,人がそれを悔い改めるか,神がそれに報復するか,いずれにせよ罰せられなければならない。悔

    俊し,それによって自己自身を罰することはよいことだ,それによって神の罰に先んずるからだ。「要

    するに,汝がみずから罰するか,さもなくば神に罰せられるかだ。」今罰せられないとしても,神はそ

                        _216-一

  •                  第30巻第2号 1992年3月

    れを先々にとっておかれる。洗礼の際の悔俊の後,またミサで聖体を拝領した後,重罪を犯した者に

    も,神は改めて悔俊する可能性を切り捨てられてはいない。誰も絶望するには当らない。わが医者は

    全能なのだ。かくして悔俊は救いをもたらすものとなる。いやそれだけでなく悔俊のおかげで教会は

    地上に存続しつづける。「悔俊によって教会は失うことはない。なくなったものが見つかるからだ。

    ルヵ15:14のごとくである。」

     古代教会における悔俊はゲマインデの公的行事であり,悔い改めの懲戒訓練といわれるようなもの

    であった。アウグスチヌスもこれを受入れてはいるが,彼の思考の方向はやがて中世初期から始まる

    秘密の私的骸悔に向っていたといえる。それは最初ケルト人教会に発し,徐々に西ヨーr2ッパに拡り,

    ついには全カトリック教会を捉えるに至った。この私的悔俊は,最初様々な形で受入れられ古代教会

    の公的悔唆の諸原則と結びつけられ,スコラ学者の思弁によって多面的に深められ,遂にはあらゆる

    キリスト者の救いに不可欠な完壁な効力をもつ秘蹟へと発展していくことになったが,同時にまた中

    世人の幼児的メンタリテートに適合しつつ,その本質的構成要素となり,今にいたるまでなおカトリ

    ック教会に大きな影響を与え続けることになった。この私的悔俊にとって特徴的なことは,ゲマイン

    デから切離されて,臓悔聴問僧と罪告白者だけで行う秘密の手続の中で罪の赦しを際限なく繰返すこ

    とができるという点にある。その際,聴問僧は瞭罪を課するに当っては,r腰罪規定書』に従って,

    それを厳格に適用した。この規定書は各地でばらばらであったが,カ1・リング改革(813-850年)を

    通じて統一されていくことになった。

     これら規定書によると,悔俊の中心は順罪である。その最古の規則はかなり厳格であり,聖職者に

    よる殺人は10年,平信徒による殺人は3年の破門。牛泥棒は1年の破門と401ヨのパンと水だけを3度

    繰返すこと。聖体奉挙の祈りで,どもった聖職者は50回の叩き。瞳罪規定書は法律化,外面化され抑

    圧的性格を深めていったが,そうなると裏口が出てくる。順罪の罰を逃れるために他の罰に代えると

    か罰金支払で済ますということになって,悔俊者に対する不平等で不正な取扱いに導いていくことに

    なった。もっとも私的悔俊によって公的悔俊がすっかりとって代えられたというわけではなかった。

    12世紀までは両者が併存し,通常,殺人,姦通,偽証の罪は公的違反とされ,灰の水曜日に教会から

    追放され,緑の木曜日にゲマインデの聖体拝領への受入れが行われた。しかし9世紀以降,公的悔俊

    は次第に衰え,重罪の再犯を犯した者も,私的な骸悔告白を行うことが許されるようになった。1000

    年ごろになると,公的及び私的悔俊ともに,罪の瞳いが終らないうちでも,罪の赦しを与え教会に受

    入れだした。これは「悔俊の歴史の中でも決定的事件」といわれるものであった。これは悔俊ことに

    私的悔俊に人々が押しかけだしたので,処理を簡略化しなければならなかったからだといわれている。

    キリスト教の教化によって,粗野で単純な未開のゲルマン人の心中に深く滋悔の感情が根を下してい

    ったのである。アウグマチヌスの名で伝承されてびじようによく読まれた『真実の悔俊と虚偽の悔俊

    についての書』(1050年版)では,悔俊はまさしくキリスト教的な救いの道と救極善の神髄として讃

    えられていた。「悔俊は人間を天使へと導き,被造物を造物主へと導いていく。その中にはすべての

    善がみいだされる。それによって善は確保されるのだ」。12世紀になると重罪の公的悔俊の際,順罪

                        一217一

  •                 明治大学社会科学研究所紀要

    のために教会の功徳を当てることが求められた。聖職者は裁判官の資格で,悔俊者に向いあい,真の

    悔俊には罰の赦しばかりでなく褒美もまた確実に与えられると約束した。1215年のラテラノ公会議は,

    少くとも年一回私的悔俊を行うこと,その際経験豊かな医者によって課せられたもののごとく俄悔聴

    問僧によって課せられた腰罪を果すこと,そして聖体を拝領することを義務づけた。かくして悔俊の

    秘蹟はミサの秘蹟の前提となる条件がつくり上げられていくのである。そして公的悔俊は消滅してし

    まう。

     悔俊を理論づけて秘蹟化したのはトマスである。彼によれば,キリストの受難によって原罪も現に

    犯している罪も赦れうるのだが,それは現実的には秘蹟を受領することによって生じるのである。悔

    俊とはこのような救いに必要な秘蹟の一つなのである。この秘蹟は三つの構成要素から成立つ。一つ

    は心の中での痛悔contritio cordis,聖職者の前で口で行う告解coafessio oris,蹟罪行為satisfactio

    operisである。この秘蹟の質料は悔俊行為であり,形相は聖職者が発する赦しの言葉ego te absolvo

    において成立つ。悔俊の秘蹟としての悔俊と順罪行為としての悔俊のうち,彼は前者に優位を与える。

    なぜなら,罪の赦しは瞭罪行為に依拠ているわけだが,なによりもまず悔俊の秘蹟なしにはありえな

    いからである。秘蹟の中で恩寵は媒介されるので,聖職者のみが悔俊の秘蹟でもその管理者なのであ

    り,彼の前でなした告解のみが有効であり,その告解では想い出す限りのあらゆる罪を挙げなければ

    ならない。さもなければ悔俊はたんなる偽善にすぎない。瞭罪の業とは所罰的性格のものであり,悔

    俊者からなんらかのいいものを奪うことにある。例えば,施しや断食や祈りなのである。彼は聖職者

    を教会の裁判官とよび,彼に強制的処罰権を帰属させる。そして神によって罪が赦された後にもなお

    残る期限付きの罰すら聖職者は免除することができるというのである。神が下した永遠の罰,地獄落

    ちだけは法王も教会もどうすることもできないが。聖人たちも鍵の権をもたず,従って罪の赦しを行

    いえないにもかかわらず,罪深い聖職者でもこの力をもち罪を完全に赦すことができるというわけで

    ある(後出)。この世の事柄で教会に損害を与えた者に対しても,教会は神と同じ判決権をもって破門

    することができた。1439年のフィレンツェ教会会議はトマス理論を完全に承認するに至った。

     トーミズムに対立する新派のドン・スコトゥスも悔俊の秘蹟的要素よりいっそう強調し,完全な意

    昧での痛悔など存在しないので,不完全な悔悟の念attritioで充分であり,この秘蹟は神の永遠の罰

    を望み通り除去する完全な作用をもつ。聖職者の鍵の権は,聖体の中にキリストの体を回復する全権

    をもっているので,キリストの神秘の体である教会に対しても全権をもつのだと主張した。後になる

    と新派の中でもオッカムや唯名論者たちは,スコトゥスの「不完全な悔悟の念で充分だ」という主張

    を否定し,15世紀後半になると,ガブリエル・ビールは痛悔なくして悔俊の秘蹟は恩寵を決して伝え

    るものではないとし,さらに神の赦しの行為と秘蹟の作用を切離し,罪人が悔俊の秘蹟を受取る前で

    も,神は痛悔している罪人に恩寵も与えられる,この秘蹟は神の恩寵のしるしにすぎない,鍵の権も

    罪の赦しの原因とみなさるべきではない,それはただ神の赦しの恩寵を後から宣言するという性格の

    ものだ,と主張した。

     一方,民衆の信心が高まれば高まるほど,彼らはこの悔俊の秘蹟を有難がり,悔い改めと祈り,断

                        一218一

  •                 第30巻第2号 1992年3月

    食と施しを熱心に行って晒罪に努めだした。ただ異端のワルドー派はこれを批判し,セクト化した後

    は,聖職者抜きで平信徒同志が互いに告白すればよいとした。神学者ではパウダのマルシリウスやウ

    ィックリフ,フス,さらにエックハルトら神秘主義者はこれに対し痛烈な批判を行った。デヴォチオ

    =モデルナはヴェツセルのガンスフォルトに至って,「痛悔したものはすでに秘蹟受領以前に神に許

    されているのであって,罪を赦すものは神であって聖職者ではない」と断言するに至った。修道院時

    代ルターを絶望の深淵に叩きこみ,さらにそこからはい上って改革者とする発条となったものは,周

    知のようにトマスから発し,スコトウス,オッカムへと俊烈化した悔俊の秘蹟論であった。まさしく

    この秘蹟論を真正直に信じる者にとっては,それは絶望しかもたらしえないものであった。

     ミサmissaの秘蹟は,カトリック教会のあらゆる儀礼,密儀のうちでも最も重要な価値あるもの

    と見倣され,「カトリシズムの心臓はミサの中で脈打っている」といわれている。ミサはまさしく秘

    蹟の代表的なものであったので,しばしばサクラメントとはミサことに聖体を指す言葉として使用さ

    れた。ミサはイエスと弟子たちとが日々ともにした共同の食事に由来しているが,時がたつとともに

    ある共同の食事が特別に分離されてイエスの最後の晩饗を再現するものとなり,さらに祭儀的な愛饗

    となり,パンとブドウ酒にはイエスの体と血という象徴的な意味が付され,神からキリストにおいて

    贈られた賜物となった。だが早くも二世紀になると,司祭が聖別の言葉「これはわたしの体であり,

    これは私の血である」と語るとき,祭壇上に一つの奇跡が起り,パンとブドウ酒はその実質において

    キリストの体と血に変化するという聖変化の観念が発生した。キリストの受肉という観念から,それ

    は容易に類推しえたのであろう。

     だが,さらに三世紀中葉になると,犠牲の観念が結びつくことになる。イエス・キリストは万人の

    罪の身代りとなって順罪の死をとげた。イエスも最後の晩饗で「みな,この杯から飲め。これは罪の

    赦しを得させるようにと,多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイ26:27-28)と

    いっているではないか。これと神を宥めるために償いとして羊やその他のものを犠牲とし捧げ,とも

    に食する賊罪の犠牲という旧約的乃至は異教的観念が結びつくに至った。カトリック教会によれば,

    イエスは最後の晩饗で弟子たちに新しい儀式で新しい犠牲を捧げることを命じ,新約の犠牲を制定し

    た。その犠牲とはイエス御自身であり,翌目それは初めて血をもって行われた。かくしてパンとブド

    ウ酒は形式はそのままであるが,実質はイエスの犠牲の体と犠牲の血に変化し,それを弟子たちに食

    べさせ,彼と彼らの最も密接な一致,従って救いの最も確実な保証を与えることになったというので

    ある。

     従って,犠牲の奉献者はイエス・キリスト自身であり,司祭はその執行のために使用する役者とい

    うことになる(もっとも,パンとブドウ酒をキリストの血と肉に化する聖別権は司祭が所有し,犠牲

    となった聖体の信徒への分与も司祭の権限に属する)。そして神は犠牲として奉献されたイエスの肉

    と血を人々に食物として返却し,それを拝領する。いってみれば,神はその食卓に人々を招待し,彼

    のひとり子の肉と血との宴にあつからせるわけである。信徒のこの神との,そして彼ら同志の交りの

    上に,教会共同体も立つことになる。かくして聖変化したパンとブドウ酒の拝領を通じて,信徒個人

                        一・ 219.一

  •                 明治大学社会科学研究所紀要

    はキリストと神秘的に一体化し,永遠の救いにあつかる物的保証をうることができたし,犠牲観念の

    導入を通じて,信仰共同体にとってはミサ聖祭はその中心的共同祭典となったのである。

     とはいえ,信徒団で行う公諦ミサ以外にも会衆なしで行う私訥ミサ,臨終者に与えるミサ,葬式の

    ミサ,新郎新婦相手のミサ,遺言に基き死者の冥福を祈るためのミサ,先祖の法要のためのミサ等と

    無数のミサがある。要するに,この世の苦しみや悲しみから救われると同時に来世で天国に行きたい

    という人々の願望に応じて,ミサは適応させられていったのである。もっとも,私的なミサには多額

    の謝礼が必要とされた。死後永遠にわたってミサを挙げて欲しい場合,500グルデンを支払わなけれ

    ばならなかった(ちなみに,16世紀当時その地方では子牛1頭2グルデンであった)。さらに重要な

    ことは,聖変化したパンとブドウ酒を聖職者は二つながら拝領するが,中世初期以来,平信徒はパン

    だけしか拝領しなかった。粗相してキリストの血を地面に落し冒漬の罪を犯すことのないようにする

    ためである。パンも小さな煎餅で,大きく開いた口の奥に押しこまれた。

     平信徒があつかりうる秘蹟は以上の六つであるが,聖職者(助祭,司祭,司教)は叙任に際して叙

    品(品級)ordinatioの秘蹟をうける。具体的にはそれは按手である。頭の上に三度手が置かれるこ

    とによって,聖なる力が伝わり,受品者は聖職上の祭式執行及び神の恩寵を仲介する権限が与えられ

    る。これらの権限は,聖職者個人がなんらかの道徳性やカリスマを所有しているかどうかとは全く無

    関係に,職位そのものに結びつけられており(官職カリスマ),この職位における恩寵の所有は,使

    徒の継承者として代々の司教に受け継がれてきたとされている。それで正式の授品者は,原則として,

    すでに叙階されている司教である。さらにその司教職は,そこについている司教が異端に陥り,免職

    され,離教しても,つねに有効に授品することのできる終身権限とされている。

     準秘蹟sacramentalia秘蹟は主キリストが定めたが,それに準ずるものとして教会が定めた準秘蹟

    なるものがある。キリストは秘蹟を通じて魂を救済しようとしたが,それだけでなくこの世にあると

    き,悪霊を追い払い,病者を癒し,子供を祝し,パンと魚を増したりした。彼は弟子を派遣する際に

    も,彼らにかかる権能を与えた。だからカトリック教会も人類に役立つ人や物をこの権能をもって祝

    別し,聖別し,悪霊の誘いに対して保護する一以上のような理由によって教会は準秘蹟を制定し,

    聖座によってのみその使用を改廃できるとしている。実際には,準秘蹟の起原は旧約時代の祭式や古

    典古代やゲルマンの異教的土俗的呪術にあり,種々雑多である。例えば,悪魔の吹除悪魔への吐唾,

    塗油,聖水の祝別・撒水,悪魔を捨て神に忠誠を誓うこと,堅振礼における頬打,騎士の祝別におけ

    る剣打,騎馬の祝別における騎馬行列,皇帝戴冠式における法王の皇帝塗油,司教による国王戴冠式,

    大修道院長の祝別,献堂式,聖杯及びパテナの聖別,戦いに出陣する皇帝,国王,兵士の祝別,身分

    や天職に就くときの祝別,土台石,居宅,農家,厩,乗物,家畜,泉井,樹木,田畑,仕事場の祝別,

    産婦祝別,病者,死者の死骸,墓地,聖人の画像の祝別……。

     2 自助的救済方法

     秘蹟は制度を通じて与えられるものであるが,これと同時に信徒みずからの努力で救いを得る自助

    の道もあった。それは善行に励み,天国に入るに足る功徳を積むことである。その主たる方法は修徳

                        一220一

  •                  塑9巻第2号_こ99磐3月

    と祈りである。

     修i徳ascetismusとは完徳perfectioを得るための持久的努力である。すなわち,罪から発し罪に導

    くわれわれのうちなる一切のものを克服し,霊性を十二分に発揮さすことにあるとされた。その模範

    はイエス・キリストであり,父なる神の養子たるにふさわしい人間となろうとする活動ともいえるで

    あろう。修徳とはラテン語でascetismusといわれているように,なによりもまず自己の肉の欲求を抑

    制することである。すなわち,神に向って上昇しようとする霊を肉(これは肉体的欲求ばかりでなく

    世俗的欲求や関心をふくむ)が妨げ,つねに堕落へと向わせると考えられたためである。

     修徳のうちで,キリストの受難にならうものとしていちばん高く評価されたのは殉教martyrium

    である。自己否定の最も徹底したものだからでもある。殉教者はたいてい聖人に祭り上げられ,殉教

    によって積んだ彼の頒っても頒ちきれない大いなる功徳は,融通を願う信者たちの祈願の対象につね

    になっていた。古代教会の教父イグナチウスが,信者たちに自分を死から決して救い出さないでくれ

    と頼んだことは有名である。「神の受難に纐うことを阻げないで下さい……私の地上に対する愛は十

    字架に釘づけにされ,最早物質的存在に対する焔はなく,ただ生命の水が私に囁き,私の内にあって

    父なる神のもとに赴けと叫ぶだけです」全ヨーロッパがキリスト教化されるとともに殉教はなくなっ

    たが,今度は十字軍の戦争による殉教死が生じたし,宗教改革直前になると,アジア・アメリヵへの

    宣教は殉教への情熱にかりたてられた。

     童貞性virginitasも高く評価されている。それは貞潔の最高段階であり,福音的勧告の一つである。

    教会は主の新婦であり,主は処女から生まれ,またイエスは終生独身であったために,男女の童貞性

    は古代教会以来ひじょうに尊重された。パウロも性的禁欲に耐えうるものは結婚するより独身でいる

    ことを勧めていた。童貞性は修道誓願の一つであるが,世俗に住む童貞女も12世紀ごろまで準秘蹟と

    しての聖別を受けた。童貞女たちはキリストとの神秘的婚姻という観念を強く表現していた。カトリ

    ック教会は,生涯童貞性を保った者の報酬として,天国における聖人の栄冠,輪光を受けることにな

    ろうと約束した。なお,想いにおける邪淫,あるいは不完全な外的過失,また大罪となる過失さえも

    肉体的童貞性を失わないが,童貞性の徳を失う。但し,瞭罪によって完全に回復されうるものとされ

    た。

     その他の肉体的苦業として,断食,肉食禁止,徹夜の祈り,苦業衣着用,鞭打,堅い床に眠ること,

    己を低うすることを喜んで堪え忍ぶこと,頭髪の刈りこみ,粗衣,裸足,荒野隠棲,沈黙,入浴禁止,

    氷水入浴,平信徒の場合は性交の抑制等々がある。これらの多くは犯した罪の願罪のために行われた

    が,それ以外にも,天国入りの報賞をうるための功徳の蓄積として行われた。天国にはそう簡単には

    入れない,高い入場料を必要とすると当時の人らは思っていた。しかもその額はさだかではない。他

    のいかなる人々も真似できない苦しみという功績を挙げ,神をして彼の熱誠に感動させ,それに対す

    る報酬として天国の門を開かせようとしたのである。「人間の功徳に対する神のr正しき報賞』は,

    固有の意味における正義に基づくのではなく,天主の慈悲的約束(誠実と忠誠とによる自己拘束)に

    のみ基づきうる」(カトリック大辞典ll 51)。

                        一 221一

  •                 明治大学社会科学研究所紀要

     善行と罪の貸借対照表 中世人はその幼児的性格の故に,先にものべたように一個の統一された人

    格から善行も悪行も発するとは理解せず,従ってある一っの行為からその人間の人格が判断されうる

    とは老えず,その為したる個々別々の功徳とか罪とが,それぞれ貸借対照表のように死後の法廷の帳

    簿に記入されているように思っていた。従って,貸方欄に記入されている罪は悔俊の秘蹟や願罪行為

    によ一・,てできる限り抹殺し(いってみれば神に弁償してタダにしてもらうのである),他方,借方欄に

    記入されている功徳はできる限り増し,少くとも借方の方に秤が傾くようにしようと努めた。また功

    徳が借方欄に高く記入されるためには,なま半可な善行では不充分である。人に数倍する苦痛や苦悩

    を自らに与え,その超人的努力,熱誠で,神の心を動かし,高い値段をつけてもらおうとしたのであ

    る。かくして中世カトリシズムでは,イグナチオ・ロヨラにいたるまで,英雄的苦業者が輩出したが,

    他の者を追い抜かんとして,ともすれば病的な誇張に陥ることがあった。とはいえ,彼らの目をそば

    だてるような奇矯で苦痛に満ちた苦業はある種のカリスマ的力をもって民衆を惹きつけ,信心の再活

    性化,時には爆発をもたらすことになった。

     諸聖人の通功(功徳の融通)communio sanctoru皿  このような善行と罪の貸借対照表的思考と対

    をなすものは,功徳の融通(仏教的にいえば廻向)という思想である。諸聖人はあり余る功徳を積ん

    だお蔭で今や天国にいる。その余剰の功徳は,教会の聖寵財の宝庫の中にたくさん積んである。それ

    を貸方勘定になっている,すなわち償罪の不足している信徒の側に融通していただき,天国行き(少

    くとも地獄落ちではない)を保証してもらうというわけである。ではどのようにして功徳を融通して

    もらうのか。それは代願(執成しの祈り)intercessioによってである。すなわち,融通してもらいた

    い人は聖人にあなたの功徳を私に廻して下さい,そしてその旨,神に話して私のために執成して下さ

    い,と嘆願するのである。こういう功徳の融通や代願という観念は,共同体的相互扶的意識から発し

    たということができる。神学的には,キリストの神秘の体の肢体をなすあらゆる信徒の超自然的生命

    共同体というものが前提にある。この共同体は,a.地上にある現在の教会のメンバー(戦闘の教会)

    b.煉獄にある死者の霊魂(苦悩の教会)c.天国にある聖人たちの教会メンバー(勝利の教会)をす

    べてふくみ,これら三つの教会は相互の問で祈りによる愛の交流が行われているというのである。a

    とbとは互いに彼らが救われるよう神に祈るし(bも祈ることができる1),またcに対して神に執

    成してくれるよう祈る。cはもはや救われて天にいるので誰の祈りも必要としないが,愛のゆえに神

    に彼らa,bを執成したり,余剰の功徳を融通してやって彼らの償罪の不足を充たしてやるのである。

    宗教レベルのフィナンツィールンクが教会財政上のフィナンツィールンクと結びっくと,そしてあの

    功徳の宝庫の鍵を法王が握っていると主張されるとき,かの免償状(=瞭宥状あるいは免罪符)発売

    へと至るのである。なおこの代願のうちに中世人の幼児的性格はよく覗える。彼らにとって父なる神

    やキリストは律法遵守を命じる厳父であり,最後の審判で裁きを行う恐ろしい兄であった。人々は彼

    らの前で借方を増す値ぎり交渉がこわくてできなかった。それでやさしき母マリアや先輩の聖人たち

    に執成しを頼んだのである。

     祈疇oratio 修徳とならぶ重要な自己救済の方法は祈薦である。祈薦iとは,神と語り,キリスト

                        ー222一

  •                  第30巻第2号 1992年3月

    と話し,望むところを願い,欲することを求む」(4世紀のヨハネスク・リソストムス)。あるいは

    「祈りとはふさわしきものを神から希求すること」(8世紀のダマスクスのヨハネス)といえるかもし

    れない。聖書においてキリストが教えた祈り(マタイ福音書6:9~13)を簡略化するとそう定義し

    うるであろう。ところでこのような真摯な祈りが神に献げられたばかりではない。中世においてはし

    ばしばそれは呪術的なものに転じた。祈りもまた一種の善行と考えられたためである。だから祈りを

    献げることは,赦されたる罪の罰を償う順罪的効力をもち,先にも見たように煉獄にいる霊魂も祈り

    を献げることができたし,さらに地上にいるわれわれのためにこの霊魂たちは代願の祈りをマリア,

    ヨゼフ……の諸聖人に献じてくれることすらできた。法王たちは,この苦悩している霊魂が自分たち

    だけでなくわれわれのためにも祈ってくれることに大いに心を動かされ,彼らを励ますミサを行って

    いる。

     イエスは「祈る場合,異邦人のように,くどくど祈るな。彼らは言葉かずが多ければ,聞き入れら

    れると思っている。だから彼らの真似をするな。あなたがたの父なる神は,求めない先から,あなた

    がたに必要なものはご存じなのである」(マタイ福音書6:7-8)と忠告した。これに反して祈り

    の善行も多ければ多いほどよいと中世人は思った。例えばロザリオの祈りである。それはマリア崇拝

    として行われたが,主祷文15回,アヴェ・マリア150回,栄論15回を諦え,その際,受胎告知からマ

    リアの死に至るまでのハイライト15の玄義を黙想する祈祷である。何回諦えたかわからなくなるので,

    最初は小石や穀物の粒で計算していたが,やがてガラス玉になった。この祈りは,ドミニコ会やシト

    ー会が奨励したので,女子修道会だけでなく平信徒の婦人の間にも大いに拡まった。法王もこれを奨

    め,免償と結びつけられた。マインツ大司教アルプレヒトは,ロザリオの祈り一回につき7,700日の

    免償をうるという命令を出した。告解と聖体拝領の後に聖体の前でロザリオの祈り5連を言甫えれば随

    時に全免償が与えられるという小教書を1927年に至ってもなおヒ゜ウス11世は発している。またカトリ

    ック教会法では,ロザリオの珠数を売却または破損すると免償は得られなくなるとしている(927条

    2項)。小石は祝別されて準秘蹟となっているからである。多々益々便ずというので代表的なのは,

    ウルズラの小船信心会である。それはまるで祈りの預金銀行のようなものであった。ヨーロッパ各地

    に設立されたこの信心会支店には,祈りが振りこまれ,それについて正確な帳簿がつけられていた。

    バイエルン公妃クーニグンデと彼女の天国への旅の道連れたちの振込み額はこう記されている。「ま

    ず至聖なる三位一体をたたえるために,彼女らは栄講を1,000振込み,次にこの処女集団の天にいま

    す花婿イエス・キリストに贈るために,主の祈りを34,000,聖ヨノ・ネの福音書による受難の福音を

    1,000,告白の祈りを2,000,ロザリオの祈りを10,000,ミゼレレを2,000,感謝頒を500,主の祈り

    を5,666このウルズラの小船に振り込んだ。」彼女たちは聖なるノルマを果し終えると,さぞ安らか

    な眠りについたことであろう。

     以上のような修徳と祈り,それに悔俊とミサの秘蹟とは,修道院においては天国に到達するための

    厳格な日課として組合わされ体系的に組織化された。修徳は平信徒身分のものには推賞されたが実行

    を要求されはしなかった。これも功徳の融通のためである。さらに残る自助的救済手段である施しと

                        一223一

  •                 明治大学社会科学研究所紀要

    社会的奉仕活動について見よう。

     施しeleemosynaeは,ほとんどの場合,順罪や免償とか死手遺贈として貧しき者たちに与えられ

    たのであって,彼らに対するヒューマンな同情心からなされたものは,ごくわずかであるように思わ

    れる。イエスが,マタイによる福音書25:40,45で,「あなたがたによくいっておく。わたしの兄弟で

    あるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは,すなわちわたしにしたのである。……これらの最も

    小さい者のひとりにしなかったのは,すなわちわたしにしなかったのである」と説かれたがゆえに,

    貧しき者に対する愛や憐欄ではなく,天国に入りたいというエゴイスティックな動機でやむなく施し

    を与えたにすぎない。だから死手遺贈の場合,必ず「私の瞑福を祈ってアヴェマリアを日になん度唱

    えること」とが「自分に対する死者ミサには必ず出席すること」という条件をつけていた。街頭で見

    ず知らずのルンペンたちに対し施しをバラ撒くときですらそうであった。勿論その条件が守られるは

    ずもなかった。教会もまた金持たちに蹟罪のため貧者に施すよう勧めた。すなわち,悔俊の秘蹟で告

    白し,その犯した罪を赦された後,なおその赦しの条件として課されている罰の償い(順罪)のため

    に,金持たちはホイホイと貧者に金を投げ与えた。下手をしたら,煉獄で長い長い瞭罪をしなければ

    ならなくなるかもしれないからである。さらに教会はその金を貧者より自分のほうに廻させた。絢欄

    豪華な大寺院,美術の枠を集めた内装,中世文化を代表するこれらのものは,ローマ教会の大本山聖

    ペテロ大聖堂をはじめとして,自発的喜捨(これも天国行きのための善行だが)だけでなく,瞭罪と

    しての施し乃至は免償符売買によって建てられたのである。

     社会奉仕活動(愛徳)caritas 施しほどにはエゴイステックではなく,真の意味で,この世に功徳

    を積んだのは,教会の様々な隣人愛の社会奉仕活動であった。マタイによる福音書22:38-40で,イ

    エスは律法の中で最大のものとして,神を愛することとならんで「自分を愛するように汝の隣…人を愛

    すること」を挙げ,人々にそれを実行することを命じ,またトマス・アクィナスは,「われわれが隣

    人を愛するのは,神が彼らの中にあり,また少くとも神が彼らの中にあろうとされているからであ

    る」といった。もっとも中世においては,教会の立場からしても,自然の秩序における強者(健康・

    権力・富・知識ある者)は弱者(それをもっていない者)に対して高い価値を有するものとされてい

    た。とはいえ,あらゆる価値を失った悲惨な人も神の永遠の秩序の中では窮極的神的意義を失っては

    いなかった。なぜなら,キリストは彼らとともにあったし,彼らが存在するからこそ,人々は愛の奉

    仕を行い,それによって天国行きの功徳を積むことができるからである。だから人々は,貧者に対し

    て社会的な罪の意識をもつことなしに,一なぜなら,この世の秩序も神の定めたものだから一自

    覚的には神を愛さんがために,聖フランチェスコのように,みずから財産を棄てて貧者となり(自発、

    的貧困)あるいは半ば無自覚的には天国行きの切符を手に入れるために,社会奉仕に精力的に取組ん

    だ。古代教会はこのため救貧事業担当者として助祭を置いたが,ニケア公会議後,小アジアやヨーロ

    ッパの諸教区や司教座都市では病人,無宿者,浮浪者,孤児,堕落した娘たちのため保護事業を行い,

    バシリウスはカイザリアに最初の大病院をたてた。北ヨーロッパにおけるキリスト教的慈善事業は,

    カール大帝から始まる。彼は司教や司教座聖堂主任司祭に委嘱して救貧・旅人保護の事業を行わせた。

                        一 224 一

  •                  第30巻第2号 1992年3月

    やがて修道院を中心に私設の救貧団体や騎士団,ブルーゲーシャフトなどが,慈善事業に乗りだして

    きた。

     13世紀以降は,繁栄しはじめに諸都市が,市の秩序と衛生と美観を守るため,市参事会を通じ,市

    財政をもって,救貧院,孤児院,精神病院,養老院,伝染病院等をつくり,組織的に対策を講じだし

    た。また市民もこれに呼応し,例えば,ミュンスター市では14世紀,ある靴屋の兄弟が生涯独身で貯

    えつづけた金で10人ぐらい収容できる養老院を六つもつくったが,このような例は,ほとんど各都市

    に見られるところであろう。

     都市によってすでにお株を奪われてはいたが,修道会の慈善事業もそれぞれの専門をもって様々な

    分野に及んだが,そのうち特異なものは,十字軍におけるヨハネ騎士修道会やドイツ騎士修道会の病

    人看護であり,またスイスのアルプスのサン・ベルナール峠ではアウグスチヌス会士たちが旅人や巡

    礼の保護に当っていた(いっぱんに修道院は旅人に宿泊所を提供していた)。聖三位一体修道会士た

    ちは,異教徒の手に落ちた捕虜奴隷たちの身請に当っていた。人類解放史上,不朽の功績を挙げた者

    は,スペインのバルトロメウス・デ・ラス・カサスである。彼は新大陸に法律家として渡ったが,ス

    ペイン人によるインデアンの残酷な取扱いに敢然と抗議の声を挙げ,迫害にもひるまず彼らの人権を

    擁護しつづけた。後にドミニコ会士となり,ついでメキシコ司教となったが,終始この立場に立ち続

    け,晩年スペインに帰ってからは文筆で彼らの人権を訴えつづけた。それは天国入りの切符を得るな

    どという動機をはるかに超えた人類愛とキリスト教精神との最も高貴な発現であったということがで

    きる。もっとも,社会奉仕活動の中にも非合理な要素が多々あった。例えば,病人看護の任に当たる

    修道士がハンセン氏病で死んだ患者の床で一晩寝て明かし,それをもって自己放棄の精神を鍛えると

    いった類である。とはいえ,このような逸脱をふくめて,中世修道院がなした社会奉仕活動は,その

    学校教育活動とならんで,中世ヨー一ロッパの文化と社会に対してそれがなした最大の貢献であった。

     周辺的救済手段  秘蹟の他力的救済方法や苦業・祈り・施し・奉仕などの自助的救済方法以外に

    も,端的に救済手段とはいえないが,民衆の心の中ではそれとほとんど同じものとして受取られ,.ま

    たより身近かなものとして愛好されていた周辺的ともいうべき救済手段があった。そのうち最もポピ

    ュラーなものは聖母マリア崇拝であった。マリアは教会の中でも神の母として聖三位一体に次ぐ高い

    地位にあり,民衆の心の中では,父なる神や子なるキリストよりもはるかに愛されていた。今でもス

    ペイン,ポルトガル系諸国の人々は,キリスト教というよりマリア教を信じているといっても過言で

    はない。歴史的には,マリア崇拝は2~3世紀から始まり,4世紀になると広汎に行き渡った。すな

    わち,マリア聖堂が建てられ,彼女の聖遺物が集められ,彼女に帰せられる多くの奇蹟が発生し,最

    初のマリア讃歌が唱われ,マリア祝日も祝われたらしい。このようなマリア崇拝は,改宗した異教徒

    たちがもちこんできた女神乃至は大地母神崇拝にあるとされている。431年のエフェゾ公会議では,

    マリアを神の母(テオトコス)と宣言し,それに反対するネストリウス派を排除した。中世になると

    マリア崇拝は一段と輸をかけたものになる。9世紀以来土曜日はマリアに捧げられ,ローマ教会が公

    式に定めたマリア祝日は,彼女の被昇天の日と無原罪御孕りの日など6つに上っているe’また地方ご

                        一225一

  •                 明治大学社会科学研究所紀要

    とにマリアの祝日が定められていた。10世紀から教会では聖母マリア小聖務日課が諦えられだし,15

    世紀以降アヴェ・マリアには結尾に希願が附加された。12世紀に始ったロザリオの祈りが熱狂的に拡

    ったことはすでに見た通りである。聖母マリアの名を付した修道会(ordoやcongregatio)や大聖堂

    はいたるところにあり,俗人の信心組織ブルーダーシャフトでマリアの名を冠したものは,どこの都

    市にも無数に形成された。また彼女に捧げた礼拝堂もいたるところに建てられたし,どの教会堂にも

    村々町々の辻々にもマリア石像が眺める者に優しく愛を伝えてくれていた。勿論マリアの画像が額に

    入れて壁につるされていないような家はないほどであった。人々はマリア像に向って祈り讃え,そし

    て甘えた。マリアは�