航空自衛隊創設期の旧軍航空関係者の役割と米空軍 …107...

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105 航空自衛隊創設期の旧軍航空関係者の役割と米空軍の関与について 中島 信吾 西田 裕史 <要旨> 旧日本陸海軍航空は、航空機の誕生以来、その兵器としての重要性と可能性に着目し、 当初はヨーロッパからの技術を導入することで、列強に比しても、 ある分野ではむし ろ速い進度で航空兵力を発展させた。第二次世界大戦後、旧陸海軍関係者が将来を見 越して再軍備研究を行っていたことはよく知られているが、旧陸海軍の航空関係者も 1950 年頃から再軍備研究を行っていた。1952 年夏から秋にかけて生起したソ連による 領空侵犯は、日本に対する最大の脅威が共産圏からの経空脅威であるとの共通認識を 日米双方に抱かせ、航空自衛隊の創設が本格的に始まる。その創設に際しては、戦争 が終わって 10 年近くが経過し、航空機がプロペラからジェットの時代へと移行してい た中で、航空機の操縦法だけでなく、航空警戒管制に象徴されるような新たな概念や それにまつわる組織が米国から導入されることになった。航空自衛隊は、装備品、機 材などのハード面を全面的に米国に依存したことはもちろん、種々の教育等ソフト面 に至るまで米国式を受容することで出発したのである。 はじめに 戦後日本の防衛力の再建の中で、陸・海自衛隊の創設に関する研究は蓄積が進んで いるものの、航空自衛隊の創設についてはほとんど研究がなされていない状況である 1 航空自衛隊は 1954 7 月に創設された。そしてこの過程の中では、装備、訓練などの 面で米空軍が全面的に支援した。他方、日本側で主な担い手となったのは旧陸海軍の 航空関係者であり、彼らは占領中から、戦後における航空兵力再建のための研究活動 1 航空自衛隊の創設を取り上げた研究としては、以下のものがある。岡田志津枝「戦後日本の航空兵力再建―― 米国の果たした役割を中心として――」『防衛研究所紀要』第 9 巻第 3 号(2007 2 月)、西田裕史「航空自衛隊 創設期に関する一考察――再軍備研究を中心に――」『戦史研究年報』第 22 号(2019 3 月)、増田弘『自衛隊 の誕生 日本の再軍備とアメリカ』(中央公論新社、2004 年)172-232 頁。また研究ではないが、大嶽秀夫編『戦 後日本防衛問題資料集第 3 巻』(三一書房、1993 年)669-709 頁、読売新聞戦後史班編『昭和戦後史 「再軍備」 の軌跡』(中央公論新社、2015 年)479-522 頁は参考になる。

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航空自衛隊創設期の旧軍航空関係者の役割と米空軍の関与について

中島 信吾西田 裕史

<要旨>

旧日本陸海軍航空は、航空機の誕生以来、その兵器としての重要性と可能性に着目し、当初はヨーロッパからの技術を導入することで、列強に比しても、 ある分野ではむしろ速い進度で航空兵力を発展させた。第二次世界大戦後、旧陸海軍関係者が将来を見越して再軍備研究を行っていたことはよく知られているが、旧陸海軍の航空関係者も1950年頃から再軍備研究を行っていた。1952年夏から秋にかけて生起したソ連による領空侵犯は、日本に対する最大の脅威が共産圏からの経空脅威であるとの共通認識を日米双方に抱かせ、航空自衛隊の創設が本格的に始まる。その創設に際しては、戦争が終わって 10年近くが経過し、航空機がプロペラからジェットの時代へと移行していた中で、航空機の操縦法だけでなく、航空警戒管制に象徴されるような新たな概念やそれにまつわる組織が米国から導入されることになった。航空自衛隊は、装備品、機材などのハード面を全面的に米国に依存したことはもちろん、種々の教育等ソフト面に至るまで米国式を受容することで出発したのである。

はじめに

戦後日本の防衛力の再建の中で、陸・海自衛隊の創設に関する研究は蓄積が進んでいるものの、航空自衛隊の創設についてはほとんど研究がなされていない状況である 1。航空自衛隊は 1954年 7月に創設された。そしてこの過程の中では、装備、訓練などの面で米空軍が全面的に支援した。他方、日本側で主な担い手となったのは旧陸海軍の航空関係者であり、彼らは占領中から、戦後における航空兵力再建のための研究活動

1 航空自衛隊の創設を取り上げた研究としては、以下のものがある。岡田志津枝「戦後日本の航空兵力再建――米国の果たした役割を中心として――」『防衛研究所紀要』第 9巻第 3号(2007年 2月)、西田裕史「航空自衛隊創設期に関する一考察――再軍備研究を中心に――」『戦史研究年報』第 22号(2019年 3月)、増田弘『自衛隊の誕生 日本の再軍備とアメリカ』(中央公論新社、2004年)172-232頁。また研究ではないが、大嶽秀夫編『戦後日本防衛問題資料集第 3巻』(三一書房、1993年)669-709頁、読売新聞戦後史班編『昭和戦後史 「再軍備」の軌跡』(中央公論新社、2015年)479-522頁は参考になる。

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を行っていた。そこで本稿では、戦前期における陸海軍航空の概要を踏まえた上で、第 1に、旧軍

航空関係者の研究活動の概要と、戦後新たに建設しようとしていた航空兵力の内容や将来的な方向性について検討する。第 2に、航空自衛隊創設に際しての米軍の支援、指導を、日本側、特に直接の担い手となった旧軍航空関係者がどのように受容し、この新しい独立した航空兵力をどのように養成していこうとしたのか検討する。これらの作業を通じて、航空自衛隊の創設に旧軍航空と米空軍がいかなる役割を果たしたのか、換言すれば、日本の航空兵力における戦前・戦後の連続と断絶という問題に、一定の回答を与えることになるだろう。本稿は、はじめに・第 1章(中島)、第 2章・第 3章(中島執筆部分を除く)(西田)、第 3章(2)イ(ウ)b・おわりに(中島)の分担によって執筆された。

1.戦前期における陸海軍航空の概要

ライト兄弟が、世界初の有人固定翼動力機での飛行に成功したのは1903年のことだった。その 7年後、徳川好敏および日野熊蔵両陸軍大尉がヨーロッパに派遣され、航空機の操縦を修得して帰国した。そして同年、1910年、フランスとドイツから輸入した機体を組み立てて、両大尉により日本で初となる有人固定翼動力機(アンリーファルマン式機とグラーデ式機)による飛行が行われた。一方日本海軍での初飛行は、これに遅れること 2年後の 1912年のことであった 2。第一次世界大戦(1914年~ 1918年)を通じて、航空戦力は陸・海に次いで欠かせない新たな戦力としての地位を新たに確立したが、そうしたヨーロッパでの戦いの様相について、日本では陸海軍とも情報を収集した。空軍を陸海に並ぶ第 3の軍種として独立させるべきであるとの意見は、日本の中で早くから存在していた。同大戦末期の 1918年 6月、陸軍参謀本部第 3部は空軍創設に関する意見を提出し、航空戦力を陸海軍の補助兵力ととらえることは誤りであり、ここから独立させることを主張したのである。欧州戦の趨勢から、航空戦力は国防上重要な要素として陸海軍と鼎立させるべきであるというのがその内容であった。翌年にも、陸軍内から空軍独立論が提唱されている。この段階では、世界でも英国のみが独

2 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸軍航空の軍備と運用<1>―昭和 13年初期まで―』(朝雲新聞社、1971年)23-25頁、日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(1)用兵篇』(時事通信社、1969年)4頁。

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航空自衛隊創設期の旧軍航空関係者の役割と米空軍の関与について

立空軍を保有していた。陸軍内でコンセンサスを得ていたわけではなかったが、日本でも空軍の独立を提唱する声が存在していたのである 3。一方海軍では、航空母艦の必要性を早期に認識し、1919年、世界に先駆けて設計当

初から空母として計画された鳳翔を起工した。しかし、独立空軍を創設することについては、海軍と共同作戦を行う際の用兵上の問題が指摘され、海軍は反対であった。そして 1920年、陸海軍航空協定委員会が設置され、その中で空軍独立問題について調査研究がなされたが、海軍の反対と陸軍内部の意思不統一によって、引き続き陸海軍に航空部隊を分属させるとの結論に終わった。またこれは、陸軍からの提起によって行われた研究だったが、田中義一、加藤友三郎陸海軍大臣の協議に基づいて実施されたものであり、陸海軍合同でかつ公式に空軍独立問題について検討した唯一の機会となった 4。

1930年代になると、日本の航空戦力は国防上いっそう重要な位置を占めるようになっていく。1931年に生起した満州事変を契機として、日本軍が極東ソ連軍と長大な国境線をはさんで対峙するようになると、陸軍航空関係者は、陸海軍の航空兵力を統一し、開戦劈頭に極東ソ連空軍に徹底した打撃を加えることを主張した。極東ソ連空軍は大幅な増強を果たしており、これに対抗するためには独立空軍を創設することが必要と考えられたのである。世界を見渡してみても、1930年代半ばまでには、すでに独立空軍を保有していたイギリスに加え、伊仏独ソが独立空軍を保有するに至っていた 5。一方海軍では、大型巡洋艦と潜水艦が 1930年のロンドン軍縮条約によって量的に制限されたことから、その対策として航空隊の増強が図られた。さらには、 航空機の性能が向上したことから、海軍の航空関係者の一部には「航空主兵、戦艦廃止」を主張する者も登場した。しかし、それはあくまでも海軍力増強の観点から唱えられたのであって、独立空軍の創設はむしろそれとは相容れないと考えられた。したがって、陸軍航空関係者から海軍航空関係者に対して空軍独立について呼びかけがあったものの、海軍側の反対によって公式の検討委員会が設置されることなく収束した 6。

3 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸軍航空の軍備と運用<1>』137-138頁、柳澤潤「日本におけるエア・パワーの誕生と発展」石津朋之・ウィリアムソン・マーレー共編著『21世紀のエア・パワー 日本の安全保障を考える』(芙蓉書房、2006年)98頁。

4 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸軍航空の軍備と運用<1>』137-138、648頁、柳澤「日本におけるエア・パワーの誕生と発展」100-101頁、日本海軍航空史編纂委員会編『日本海軍航空史(1)』443-444頁。

5 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸軍航空の軍備と運用<1>』228-236、423-433頁。6 柳澤「日本におけるエア・パワーの誕生と発展」112-113頁。航空碑奉賛会編・発行『陸軍航空の鎮魂』(1978年)

126-127頁。なお、空軍独立をめぐる 1930年代に生起した陸海軍間の論争については、生田惇「帝国陸海軍の空軍独立論争」『軍事史学』第 10巻第 3号(1974年 12月)、角田求士「空軍独立問題と海軍」『軍事史学』第 12巻第 3号(1976年 12月)に詳しいが、戦後においてもこの問題をめぐる旧陸海軍の理解の相違が継続していることがうかがえる内容になっており、非常に興味深い。

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独立空軍の創設が遠のく中、陸軍航空関係者は 1936年に航空兵団を設置し、陸軍航空のみで独立空軍に近似した組織を建設しようと試みた。ここにおいては、航空撃滅戦が最重要視され、地上部隊への支援がそれに次ぐ任務として位置づけられた。しかし、こうした考え方に対して陸軍内から批判が生起し、1940年に「航空作戦綱要」が策定された。これによって、 航空撃滅戦は引き続き重視されたものの、地上作戦支援の比重が高まり、航空部隊が作戦全般の要求に応じることが示された。つまり、地上部隊に対してより貢献することが求められたのである。一方海軍でも、 海軍の空軍化を主張した 1941年の井上成美中将の提案があったものの、海軍主流からは黙殺された。航空の重要性は認識されたものの、依然として補助兵力と見なされたのである。すなわち、航空兵力の技術的な進歩によって陸海軍の補助的兵種から独立した用法への展望が開けたが、総じて陸海軍の主流はそれを認めなかったのであった 7。こうして陸海軍航空は、第二次世界大戦を陸海軍それぞれに分属する形で迎えることになった。よく知られているように、開戦当初、日本の航空兵力は大きな戦果を挙げた。1941年 12月、空母機動部隊は真珠湾に奇襲攻撃を行い、敵主力艦等に大きな打撃を加えた。続いて生起したマレー沖海戦では、海軍航空隊が英海軍の戦艦 2隻を撃沈した。1942年 6月におけるミッドウェー海戦の直前までは日本の航空戦力の絶頂期だったとも言えようが、 その後は守勢一方だった。しかも、航空戦力が単に航空機から構成されているのではなく、飛行場の設営技術、

航空機の生産能力、搭乗員等の養成能力、通信、航法、早期警戒、気象、情報等総合的な国力から成っていることに気づくのが遅すぎ、 そしてそれに気づいた後も対策をとることができなかった。これは、米軍が開戦当初の手痛い教訓から学び、航空兵力発揮の根源たる空母を中心とするように体制を変更し、 その脆弱性を防御するための装備等を進化させたこととは対照的であった。そしてそうした両国の取り組みは、マリアナ沖海戦 (1944年 6月 )、 レイテ沖海戦 (同年 10月 )においててきめんに現れ、日本の空母機動部隊は事実上消滅した。そしてついには、航空戦力の特性を無視した用法であるともいえる、航空特攻の採用に踏み切っていくのである 8。航空戦力の特性への誤解、理解不足は大戦末期の旧陸軍にも内在していたが、加えて、

「航空は伸びて居るから締め上げてやれ」といった複雑な感情、さらには「航空兵たたき」ともいえる現象が見られることになる。1944年 5月 4日早朝、東條英機首相兼陸軍大臣は抜き打ちの視察を陸軍航空士官学校に対して行い、同日午後に職員、生徒に対して訓示した。この中で、航空士官学校の「教育に失望」したことに触れた上で、「決

7 柳澤「日本におけるエア・パワーの誕生と発展」119頁。8 同上、122-128頁。

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死敢闘の気魄の昂揚、教育は万事精神主義であるべき」と強調した。「東條旋風」と呼ばれたこの視察の後、学校長は職員に対して「東條大将の指摘は一応もっともであるが、本校には本校の行き方があるので、校長の方針に従い職務に勉励せよ」と述べた。なお、くしくもこの時の学校長は、本稿の冒頭で紹介した、日本における初の航空機飛行を行った徳川好敏である。また生徒隊長は、「決死敢闘精神、そして科学的精神を強化する必要がある」と訓示し、生徒たちの多くは、東條の強調した精神主義に科学的精神を追加したこの内容に同感したという。しかし「東條旋風」を契機として、従来の中・区隊長の大半が歩兵出身に代わった

ことで、歩兵的教練が多くなる一方、航空兵を養成するための教育と訓練がおろそかになることが心配される事態となったのである。戦後、陸軍航空関係者によって編さんされた『陸軍航空士官学校』では、これを踏まえた上で以下のように記している。

「陸軍は、全般として精神的充実が第一義であり、その外面的現れとして、各人の挙措・動作の厳正と、部隊行動の斉一とが軍紀振作の実証として、尊重された。これに対し、航空部隊では、まず飛行機を飛ばすことが最優先課題であるから、

精神的充実の重視とともに、科学技術をも尊重すべき立場にあった。(中略)航空士官学校は、航空作戦を最も先進的に考え、作戦機能を組織的に総合した

戦力の最大発揮を目標として、教育に努力を傾注していた。したがって、『軍隊内務令』の丸暗記などよりも、最新の科学技術を最大に活用するという教育を優先していたのは、当然であった」9。

航空戦力に内在する特性を十二分に発揮するには、陸海軍に分属する形では限界があり、陸海軍と鼎立する独立空軍の建設が不可欠である――戦後の航空自衛隊建設に携わった旧軍航空関係者のこうした心情が、次章以降で述べる彼らの活動を支えていったのである。

9 陸軍航空士官学校史刊行会編『陸軍航空士官学校』(1996年)226-232頁、「森繁弘オーラル・ヒストリー」防衛省防衛研究所戦史研究センター編『冷戦期の防衛力整備と同盟政策②防衛計画の大綱と日米防衛協力のための指針<上>』(防衛省防衛研究所、2013年)23-28頁。

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2.旧軍航空関係者の戦後における活動と目的

(1)旧陸軍関係者による航空再軍備研究戦後旧陸海軍は米国主導で武装解除されて完全に解体され、これを構成した旧軍人のうち少尉以上の将校が公職追放の対象となった 10。一方で、将来を見越して服部卓四郎を中心とする旧陸軍グループや、野村吉三郎を筆頭とする旧海軍グループが再軍備研究を行っていたことはよく知られている。同様に旧陸海軍の航空関係者も航空再軍備研究を行っていた。旧陸軍航空関係者は、1950年頃から研究を開始した。谷川一男(陸士 33期)が航空再軍備研究を提起し、原田貞憲(31期)、三好康之(同)、秋山紋次郎(37期)、浦茂(44期)、大平義賢(同)、田中耕二(45期)が加わった。このうち、大平の出席は少なかったようである。秋山によれば、谷川が提起した航空再軍備研究の政治的な連絡調整は三好と原田が担い、それぞれの経験に基づき三好が米軍関係を、原田が財界関係を担任した 11。実際の研究作業は、秋山以下浦および田中の 3名が主体となって行った。浦もほぼ同様にそれぞれの役割について、谷川が研究のマネージメント・まとめ役、三好が政府および米軍との連絡調整と戦闘機操縦経験者として全般構想を指導、原田は軍需総局・航空本部整備部長の経験から生産・予算・整備などの全般指導を行い、秋山が編成・教育、浦自身は航空機の資材整備・補給等後方装備面、大平がパイロット要員養成、田中が全体構想や作戦目標設定および部隊編成・練成を、それぞれ担当したと述べている。研究の基本的な態度として当時の日本の実状に照らし、実現可能なものを構想・立

案することに留意した。基本構想としては、防空主体の独立空軍を念頭にまず東京要域を、次に日本全域の防空を日本が自ら担えるよう 2段階で整備する考えであった。当時、日本独自に空軍をつくることは技術的にも経済的にも不可能であり、米軍の全面的な支援を得るとともに日米共同を柱とする構想であった。準備段階において空軍を構成する人材は、大戦で本土防空を担任した旧陸軍航空関係者が担い、構想実現の段階になって旧陸海軍双方から人材を集める考え方であった。ただし、旧海軍関係者との間で時折意見交換を行って意思疎通を図っていた。また、秋山は本土防空については旧陸軍の方が多くの経験を有しているゆえに、旧海軍関係者からともに研究はするが旧陸軍側に委任されたと回想している。浦も旧海軍側が海洋作戦を主体で考えて

10 増田弘『公職追放 三大政治パージの研究』(東京大学出版会、1996年)6-9頁。11 三好は米国武官補佐官の経歴を持ち岡崎勝男外相・内閣官房長官とのつながりがあり、原田は軍需省にいた関係で財界とのつながりがあった。

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いることから、本土防空については旧陸軍側がその経験を活かし、第 1に防空専門の空軍を建設することを念頭に置いた旨を述懐している。浦によれば、浦自身がこの研究より以前に服部卓四郎を中心とする再軍備研究グループに航空関係者として加わった経験はあるが、本航空再軍備研究と服部グループの再軍備研究とは直接関係するものではなく、アイデアを共有することはなかったという。この航空再軍備研究活動の最大の目的は、大戦中に旧陸海軍の付属的なものに過ぎなかった航空を独立させること、すなわち 3軍の一翼としての独立空軍をつくることであった 12。例えばこの研究に携わった秋山紋次郎は、終戦直後に大戦中の陸軍航空を総括して次のような一文を残している。

「即ち我が国力、特にその保有する工業力において、今次戦争の要請せる航空勢力に到達する唯一の道は、独立空軍を創設し、凡百の力をこれが発展に注入するのほか道なかりしなり(中略)。しかして事ここに至りし真因は陸軍中枢部の航空戦力に対する認識の透徹せざりしに存せるものと断じ得べし」13。

なお後述するように、旧陸軍関係者はこの研究の成果として、1952年 6月および 7月、吉田茂首相およびオットー・ワイランド(Otto P. Weyland)米極東空軍司令官に意見書を提出している。浦はこの意見書の中身について、旧海軍側との意思疎通はあったが彼らの意見を反映させるようなことはなく、旧陸軍側が単独で日本政府および米軍へ提出した上でその旨を旧海軍関係者に通報したと証言している。また、旧陸軍関係者によるこの研究成果に基づいて、旧陸海軍関係者は合同の意見書をそのほぼ 4ヶ月後の 11月に吉田首相に対して提出している。換言すれば、旧陸海軍関係者が合同で提出した意見書の基盤は、この旧陸軍関係者の航空再軍備研究なのである。

(2)旧海軍関係者による航空再軍備研究海上自衛隊前身の海上警備隊(1952.4.26-7.31、1952.8.1から警備隊)創設準備組織は

Y委員会である。Y委員会の議事摘録によれば、1951年 11月 2日、第 2回定例委員会で「新機構の組織編制」との議題にて特に考慮すべき事項の 1項目に「将来は航空兵

12 平 17防衛 02042100「自衛力創設 2(1/ 4)」(「秋山紋次郎元空将談話空軍再建研究活動について」)、平 17防衛02630100「創建等関係資料 1(1/ 3)」(「秋山紋次郎元空将談話空軍再建研究活動について」の音声データ(推定))、平 17防衛 02045100「自衛力創設 2(4/ 4)」(「元空将浦茂談話要旨空軍再建研究活動について」)、平 17防衛 02748100「防衛力育成 3(1/ 4)」(「元空将浦茂談話要旨空軍再建研究活動について」の音声データ(推定))国立公文書館所蔵。なお、このあと同様に表記する資料はすべて国立公文書館所蔵のものである。

13 由良富士雄「[航空自衛隊]旧陸軍上層部への憤懣を原動力に誕生」『太平洋戦争⑩占領・冷戦・再軍備』(学研、2011年)101-102頁、秋山紋次郎「陸軍航空沿革史陸軍航空編制制度(原本)」防衛研究所戦史研究センター所蔵。

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力が主要ポストを占めるべきこと」とあり、将来的に航空の重要性が強調されたことがうかがえる。しかし、このあと委員会は米国から貸与される艦艇の受け入れとそれらを運用する要員養成、そしてそのための予算取りや組織編成の在り方に関する議論が中心となり、航空に関する発言等はほとんど記録されていない 14。

Y委員会の設置経緯について、そのメンバーであった寺井義守(海兵 54期)は、日本政府の米貸与艦艇受け入れ方針に従って岡崎勝男内閣官房長官から山本善雄元海軍少将(47期)に対し、貸与艦艇を受け入れて使用する機関を設置する準備委員会の人選と運営について要請があったと回想している 15。Y委員会は米貸与艦艇受け入れと運用のための組織を準備するものであり、同委員会の議事が艦艇を中心として進行したのは当然の成り行きであった。この頃を振り返ってある旧海軍出身者は、「米のボロ艦を貰い受けることに全エネルギーを使っていた時代」だったと述べている 16。旧海軍航空関係者の再軍備研究に関する回想証言は、旧陸軍に比べると少ないものの奥宮正武(海兵 58期)による回想談話などが残っている。それらによれば、主要メンバーには愛甲文雄(51期)、池上二男(同)、奥宮がおり、その上に福留繁(40期)、保科善四郎(41期)らがいる海空技術懇談会で航空再軍備研究を行っていた。保科によれば、その開設は 1952年 7月 2日である。Y委員会を経て旧海軍の航空再軍備研究は、この懇談会に引き継がれたものと思われる。奥宮によれば、旧海軍航空関係者は今後建設すべき航空防衛力について、島嶼国日

本の防衛のために大戦中陸軍航空が海軍航空に比し島嶼・海洋での能力が著しく劣っていたことから、旧海軍航空に似たものでなければならないと考えていた。渡辺初彦(58期)はさらに踏み込んで、新設される海上自衛隊の主任務は対潜警戒であり、水上艦艇部隊は潜水艦に対する防御力が弱いという観点から、これらを護衛してともに行動できる航空防衛力を整備しなければならないとしている 17。つまり、旧海軍航空関係者の航空再軍備研究の目的は、水上艦艇部隊と一体的に行動できる航空防衛力の創設であった。あくまで海空一体の航空再軍備をめざしていたのである。寺井も同様の趣旨の文書を残している 18。なお、1952年 6月および 7月、旧陸軍航空関係者が提出した意見書に相当する旧海

14 平 17防衛 02397100「防衛論叢 1(1/ 10)」(「昭和 26.10.31~ 27.4.25Y委員会議事摘録永石資料」)。15 平 17防衛 02436100「防衛論叢 5」(「海上自衛隊創設期における将来構想について寺井義守」)。16 平 17防衛 02077100「創建関係資料 2(2/ 4)」(「渡辺初彦元空将回想証言摘録」)。17 平 17防衛 02043100「自衛力創設 2(2/ 4)」(「元空将奥宮正武回想談話要旨空軍再建の研究及び推進活動―旧海軍側―」)、「自衛力創設 2(1/ 4)」(「秋山紋次郎元空将談話空軍再建研究活動について」)、平 17防衛 02048100「自衛力創設 3(3/ 5)」(「海上防衛力等の再建(保科善四郎提供史料)」)、「創建関係資料 2(2/ 4)」(「渡辺初彦元空将回想証言摘録」)。

18 平 17防衛 02049100「自衛力創設 3(4/ 5)」(「寺井義守資料海上防衛力建設関係(Ⅰ)」)。

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航空自衛隊創設期の旧軍航空関係者の役割と米空軍の関与について

軍航空関係者単独の再軍備研究成果は、管見の限り見あたらない 19。

(3)「航空自衛力建設促進に関する意見書」の作成1952年 6月、旧陸軍関係者は単独で意見書を提出し、11月、旧陸海軍関係者は合同で意見書を提出した。以下、その内容を分析する。ア 「空軍兵備要綱」(旧陸軍関係者による航空再軍備計画)旧陸軍関係者単独の意見書等は、1952年 1月から同年 7月にかけて作成された吉田首相とワイランド米極東空軍司令官あての意見書、意見書の具体的内容である空軍兵備要綱、そして研究案からなっている。これらのうち、吉田首相および米極東空軍司令官あての意見書本文と、その別冊で航空再軍備計画の本体となる空軍兵備要綱について見る。

1952年 6月提出の吉田首相あて意見書は、「航空戦力創設に関する意見書」である。日本の国土防衛は、航空が国防戦力の骨幹となるべきことが前大戦で実証されたことから、新軍備建設では航空を中核として陸海空 3戦力の調和を図るのが根本的な要件だと主張する。だが、現状の防衛力強化案は陸海戦力に偏重し航空を等閑視しており、早急にこれに着手せねば取り返しのつかないことになると警鐘を鳴らす。そこで、別冊の航空軍備案を作成したこと、同じものを米極東空軍にも提出する旨を付記している。同年 7月、ワイランド米極東空軍司令官あて意見書は、「日本空軍創設に関する意見書」である。日本政府に既出の本計画は、米国に依存せず日本自ら空軍を新設しようとするものだと述べる。現在、日本政府は陸海軍再建を企図する一方、経済的事情から空軍建設を企図していない。よって、日本経済の許す範囲で、専ら自国防衛のみに限定した小規模な空軍を計画するものである。日本の航空技術が戦後停滞し低下していることに鑑み、空軍新設はたとえ小規模でも今直ちに着手しなければならず、陸海軍と同時にその第 1歩を踏み出すべきであり、本研究に対する米軍からの建設的批判と支援を希望する旨をもって結ばれている。末尾には 1952年 7月 17日の日付と、三好・原田・谷川・秋山・浦・田中の連名で提出されたことが記されている。別冊の空軍兵備要綱本文は、基本要

マ マ

項と第 1期兵備の概要の 2部構成からなる。基本要項では空軍兵備目標として、東京要域防空可能な空軍建設のための第 1期(3年間)と本土主要要域防空可能な空軍建設の第 2期(5年間)とに区分している。この間、日本空軍は米空軍と協同して国土周辺の制空権を確保することを主任務にしつつ、作戦

19 ただし、Y委員会内には 1951年 12月 3日作製の「新空海軍備計画」が存在する。『旧海軍残務処理機関における軍備再建に関する研究資料 3/ 3』防衛研究所戦史研究センター所蔵。

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任務の分担について、第 1期は東京要域防空と日本陸海軍に対する直接協同の大部分を日本空軍が担任してそれ以外の空軍作戦は米軍の担任とし、第 2期で日本本土防空と日本陸海軍に対する直接協同は日本空軍の担任としてそれ以外は米空軍の担任とすることとしている。向こう 3年に相当する第 1期の兵備建設目標は、主力部隊すなわち防空戦闘機主体の空軍兵力として 399機、陸軍直協 324機、海軍直協 138機の計 861

機の第 1線機を整備するというものであった。この別冊の附表第 1属表其 1から、旧陸軍関係者が考えた空軍兵力を構成する具体的な機種が判明する。骨幹兵力は、戦闘機単座 F-86A・288機/複座 F-89A・72機、偵察機 F-89A・12機、輸送機 C-199・27機の合計 399機を整備する。陸軍配属兵力は、L-17・36機、ヘリコプター 36機、P-51・216機、B-26・36機の合計 324機を整備する。海軍配属兵力は、ヘリコプター 18機、F-86A・48機、B-26・72機の合計 138機を整備する。ただしこれらの第 1線機をそろえるために、所要機数はそれぞれ約 2倍程度が見積もられている 20。

イ 「航空自衛力建設促進に関する意見書」(旧陸海軍合同の意見書および具体案)上記の旧陸軍関係者による意見書(以下別冊も含めて「陸軍意見書」と表記)と、

1952年 11月、旧陸海軍関係者合同で提出した意見書である「航空自衛力建設促進に関する意見書」(以下「合同意見書」と表記)およびその具体案である「空軍建設要綱」(以下「要綱」と表記)とを比較してみる。なお、この「合同意見書・要綱」はいずれも公刊された文献に掲載されている。「合同意見書」が、近代軍備において空軍が安全保障の骨幹であり、特に日本の国土防衛では航空戦力が自衛力の鍵となることは前大戦の貴重な教訓である一方、現に進展している防衛力整備が陸海防衛力に偏重し、航空が陸海防衛力の附属力の構想を出ていないのは誠に寒心に堪えないと訴える点は、「陸軍意見書」と軌を一にしている。具体的内容についても、旧陸海軍の両案を改めて合同審議し別冊のような「要綱」を策定したと述べつつ、整備の基本構想が日本が国土防空の一部を担当する第 1期と、国土ならびにその周辺の制空権を確保し海上交通線を援護し敵侵攻兵力を撃攘できるようになる第 2期との 2期に区分すること、F-86A

と F-86Dの違いこそあるが、主力となる戦闘機の機数がともに 288機であることなどを考え合わせると、この「合同意見書・要綱」は、「陸軍意見書」をその基礎としたものであると考えられる。「要綱」に記載されている空軍兵力を構成する具体的な機種を記すと次のとおりであ

20 平 17防衛 02029100「自衛力関係文書 2(1/ 4)」(「航空自衛隊創設関連文書(原田貞憲資料)」)。

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る。いずれも常用機(「陸軍意見書」での第 1線機整備機数と同義であると思われる)として、戦闘機は F-86D・288機/ F-94C・199機の合計 432機、偵察機は B-57A・48機、輸送機は DC-3・16機/ L-126A・22機/ H-19・32機の合計 80機、総計で 560機を整備することとされている 21。

ウ 合同で意見書提出に至る経緯意見書等が旧陸海軍関係者合同で提出されるに至る経緯は、第(1)項で述べた浦

茂へのインタビューから部分的ながら浮かび上がってくる。インタビューの後半で聞き手は、旧陸海軍の航空兵備思想が違うゆえに戦後の再軍備に関する研究活動も陸海別々に行われざるを得なかったと前置きし、7月の旧陸軍航空関係者による意見書上申に続き、同じ年の 11月に陸海合同で吉田首相に意見書が提出されたことについて、このような半年にも満たない短期間に、旧陸海軍が連名で意見を出すに至ったのはいかにも唐突で理解できないと問う。これは、結果的に旧陸海軍航空関係者が「合同意見書」を提出するに至る経緯に対する問いとなった。この問いに浦は、旧陸海軍の航空関係者が別々に研究せざるを得なかった状況を認めつつ、3軍を子供になぞらえて次のように語った。もう長男が生まれ次男が生まれ(陸海軍、すなわち警察予備隊・保安隊、海上警備隊・警備隊を指す)、3男坊(空軍)がまだいつ生まれるかわからない。これでは国の将来を誤る。大戦の経験から考えれば、航空防衛力がまず建設されるべきだ。それゆえに焦り・焦燥感が生じた。そこで福留繁、保科善四郎ら主だった旧海軍出身者と話し合いを始めた。彼らに対し、浦を含む旧陸軍関係者は航空再軍備研究をずっと継続してきており、今彼ら旧海軍関係者から反対されると困ると説明した。同じ航空関係者という立場から、早急に第 3幕僚監部(航空幕僚監部)をつくるべきだとの意見書を提出しようと陸が海を説得し、趣旨に異存がなければ連名で出そうということになった。説得にあたっては、大戦中のわだかまりは捨て、まず防空主体の航空防衛力を建設し、規模が拡大した時点で海洋作戦も視野に入れた航空防衛力を育成することにし、ともかく空軍の芽を吹かせようと述べたという。浦が語る焦燥感、言い換えれば再軍備にあたり国防の基本をなすのは空軍であり、その空軍の再建が遅れていることに対する焦燥感こそが、航空関係者間で旧陸軍が旧海軍を説得して「合同意見書」を提出するに至った最大の要因となったのである。このあと聞き手は、吉田首相・ワイランドあての意見書本文の起案者は誰なのかを

21 大嶽編『戦後日本防衛問題資料集第 3巻』687-696頁。

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問い、浦はとつおいつしながらも谷川が大体の草案をつくってそれを全員で検討したように記憶すると語っている 22。浦によれば、「陸軍意見書」本文の起草は谷川が主であったもののようである。他方、「合同意見書」の本文に関しては、第(2)項既述の奥宮正武が次のように証言している。奥宮は、自身が原稿を起案した「合同意見書」本文は発見できなかったが、添付した別冊(「要綱」を指す)は見つかったという。この「要綱」は前大戦と同じ前提で作成したため航空機の所要機数が多いなど不具合があるものの、奥宮が起案し高橋千隼海軍大佐が加除訂正して完成したものである 23。よって、奥宮によれば、「合同意見書」の本文は彼が原稿を起案し、その具体案である「要綱」についても旧海軍側が主となって起草したことになる。以上から、旧陸海軍が「合同意見書」と「要綱」を取りまとめるにあたり、本文主張の類似点や基本的な 2段階にわたる整備構想、主力戦闘機数の一致を考えると、「陸軍意見書」がその基礎になったことは間違いないだろう。しかし、「合同意見書」および「要綱」を練り上げていく段階では、旧陸軍の研究成果を基本的に受容した旧海軍の関係者が、「陸軍意見書」を元に起案を担当したのではないだろうか。旧陸軍側にしてみれば、合同で研究成果を意見具申するにあたり、自前の案がほぼ受け入れられるのならばそのくらいの譲歩を行っても問題なかったであろう。旧陸海軍の航空関係者に共通する最大の懸念は、陸海軍の再軍備・陸海自衛隊が先行して整備されてゆく中にあって、航空再軍備・航空自衛隊の創設が取り残される状況になることだった。よって、おそらく旧海軍航空関係者は、案についてすでに吉田首相・米極東空軍司令官に提出していた旧陸軍航空関係者のそれに譲歩し、旧陸軍航空関係者は、「合同意見書」の起草について旧海軍航空関係者に譲歩したものと考えられる。

(4)旧軍航空関係者の航空再軍備研究に対する評価ここまで述べてきたとおり旧陸海軍航空関係者は、この時点で陸海軍に相当する組織が次々に形になっていた中で、本来日本防衛の要となるべき空軍に相当する組織が創設されないことへの焦りを背景として、合同で航空再軍備研究の意見書を提出することとなった。それでは、これらの研究成果がその後の航空自衛隊の創設にいかに反映されたのか。航空再軍備研究の当事者の証言を基に検討しよう。まず、旧陸軍航空関係者の回想を取り上げる。航空再軍備研究の中心人物であった

22 「自衛力創設 2(4/ 4)」(「元空将浦茂談話要旨空軍再建研究活動について」)、「防衛力育成 3(1/ 4)」(「元空将浦茂談話要旨空軍再建研究活動について」の音声データ(推定))。

23 「自衛力創設 2(2/ 4)」(「元空将奥宮正武回想談話要旨空軍再建の研究及び推進活動―旧海軍側―」)。

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秋山紋次郎は、初代航空幕僚監部防衛部長(のち航空幕僚副長(1956-1959年))となる人物である。秋山によれば、航空自衛隊創設の準備を担当した航空準備室の設置に彼自身が直接関係することはなく、秋山らの航空再軍備研究と航空準備室の作業とは独立空軍をめざすという方向性は一致していたものの、内容的なつながりはなかった。そもそも、彼らの航空再軍備研究の内容は航空準備室に伝えられていなかったという。また航空準備室主要メンバーである有沼源一郎(のち航空自衛隊幹部学校長等)などは、秋山らが研究を行っていたこと自体を知らなかっただろうとさえ証言している。秋山は、再軍備研究に携わった旧陸軍航空関係者の航空自衛隊入隊時期について、

自身と田中耕二および浦茂は 1954年の航空自衛隊創設時であると語る。一方、航空準備室のメンバーは、同室設置当時(1953年 10月「別室」、1954年 2月「航空準備室」)、すでに陸海自衛隊の前身である保安隊第 1幕僚監部・警備隊第 2幕僚監部に所属していた者から成っていた。そして秋山によれば、航空準備室メンバーから航空準備室の運営や業務の進め方について相談を受けたことはないという 24。次に、第(1)項ですでに述べた、のちに第 5代航空幕僚長(1964-1966年)となる浦茂は、自らが携わった航空再軍備研究と航空準備室および航空自衛隊の創設は関係ないと断言している。また、準備室側の人間についても浦たちの研究を知らなかったと述べ、さらに航空自衛隊ひいては防衛庁との関係についてもあまりなかったと語っている 25。同じく第(1)項既述でのちに航空幕僚副長(1964-1966年)を務めた田中耕二は、航空再軍備研究について「あれはまったく趣味的学究的にやったもの」だと否定的に証言している 26。旧海軍航空関係者の証言では奥宮正武(のち航空自衛隊幹部学校長等)が、航空再

軍備研究と保安庁内航空準備室および防衛庁航空自衛隊との関係について、旧陸軍関係者同様に、航空準備室とは関係なしと答えている 27。なお、森繁弘元統合幕僚会議議長(1986-1987年、旧陸軍出身、戦時中航空士官学校在校、航空自衛隊創設時操縦学生)は筆者らによるインタビューの中で、旧軍航空関係者の再軍備研究と航空自衛隊創設との関係の有無について、

「私はなかったと思う。旧軍関係者は戦後もいろいろ再軍備について研究したり努力

24 「自衛力創設 2(1/ 4)」(「秋山紋次郎元空将談話空軍再建研究活動について」)、「創建等関係資料 1(1/ 3)」(「秋山紋次郎元空将談話空軍再建研究活動について」の音声データ(推定))。

25 「自衛力創設 2(4/ 4)」(「元空将浦茂談話要旨空軍再建研究活動について」)、「防衛力育成 3(1/ 4)」(「元空将浦茂談話要旨空軍再建研究活動について」の音声データ(推定))。

26 平 17防衛 01996100「自衛力の確立 4(4/ 5)」(「田中耕二元空将回想証言摘録」)。27 「自衛力創設 2(2/ 4)」(「元空将奥宮正武回想談話要旨空軍再建の研究及び推進活動―旧海軍側―」)。

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したりしているが、結局米国がイエスと言わない限り実現しない話なのである」28

と答えている。旧陸軍出身で再軍備研究に参加し具体的な研究作業に従事した秋山、浦および田中は航空自衛隊発足と同時に入隊し、それぞれが初代航空幕僚監部防衛部長(のち航空幕僚副長)、第 5代航空幕僚長、航空幕僚副長の要職を務めている。旧海軍出身で再軍備研究に参加した奥宮も航空自衛隊幹部学校長などの要職を務めた。つまり航空再軍備研究に直接参画した旧陸海軍航空関係者が、その後航空自衛隊の創設期を担った人材となったことは間違いない。一方で、関係者の証言を総合すると、旧陸海軍航空関係者による再軍備研究の内容が、航空自衛隊の創設に活用された、もしくは参考にされたとはいいがたい。

3.航空自衛隊創設における米空軍の関与と日本側の受容の在り方

(1)航空自衛隊創設への助走1951年末、米統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff: JCS)はそれまでの方針を変更し、将来、日本に空軍を創設させることを念頭に置いた文書を承認した。この半年後、1952年 6

月に日本海で米軍の B-29が撃墜される事件が生起したことは、この方針転換を後押ししたと思われる。さらに 8月、米国の国家安全保障会議(National Security Council:

NSC)文書、NSC125/2が大統領に承認され、日本に適切な空軍力を発展させるように支援することも決定されたのである 29。

9月には、この方針転換を受けて立案された米空軍参謀本部の日本空軍創設案が JCS

文書として承認されるとともに、米空軍は日本空軍創設の動きが陸海のそれに比し遅れているとも主張した。この提案は、日本の航空兵力として第 1段階で戦闘爆撃機および戦術偵察機を各 1個中隊とその他の支援部隊を整備し、第 2段階以降で迎撃戦闘機 6個中隊および戦闘爆撃機 12個中隊ならびに戦術偵察機 3個中隊と輸送機 6個中隊を整備するという内容であった。これに対して米海軍は時期尚早であると抵抗したが、10月に米空軍の主張は国務省と米陸軍の支持を得て改めて JCS文書となった 30。このような米国側の日本における航空再軍備・航空自衛隊創設への動きに拍車をか

28 森繁弘元統合幕僚会議議長に対する筆者らによるインタビュー(2018年 8月 27日)。29 増田『自衛隊の誕生』177-8頁、岡田「戦後日本の航空兵力再建」73,83頁。30 増田『自衛隊の誕生』178-182頁。

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けたのは、ソ連による領空侵犯であった 31。10月 7日、在日米空軍の B-29が根室北東海上で行方不明となり、米国政府は調査の結果ソ連軍用機の攻撃による墜落と断定し、ソ連政府に抗議を申し入れる事態となった。この事態を受けて米極東軍司令官は、10

月 25日に本国陸軍省へ日本領空を侵犯するソ連機およびソ連同盟国機との交戦許可を米空軍に付与する提案を行い、11月 17日、国務省は駐日米大使宛に米極東軍司令官の要求を承認したと回答した 32。ほぼ同時期の 9月、保安庁内に制度調査委員会が発足している 33。制度調査委員会は、国内政治情勢を踏まえ「防衛」の名称をつけることを回避して設置された、長期的な防衛力整備計画を作成するための組織である 34。米国は明らかにソ連の日本領空侵犯に脅威認識をもっていた。12月 17日、ホイト・

サンフォード・ヴァンデンバーグ(Hoyt Sanford Vandenberg)米空軍参謀総長は、統合参謀本部議長宛覚書で「日本の安全保障に対する最も緊急にしてしかも唯一の脅威は、共産主義国の航空脅威である」とのマーク・クラーク(Mark W. Clark)米極東軍司令官の報告に同意し、早い時期に日本空軍の中核を確立すべき旨を進言した 35。このあと、日米両政府は吉田首相とロバート・マーフィ(Robert D. Murphy)駐日大使との間で会談を行い、1953年 1月、日本政府は今後領空侵犯発生の場合、駐留米軍の協力を得てこれを排除するために必要な措置をとることに決定したと発表した。2月、米極東空軍司令部はソ連機による根室空域侵犯と米軍機がこれを迎撃したことを発表し、実際に行動すると示すことでソ連機の領空侵犯事態は一応の終息をみた 36。しかしながら、この一連の事件は日本がこのような事態に対処する能力を保有していないことと相まって防空問題について国民の関心を喚起するとともに、制空権確保が重要な課題であることを浮き彫りにしたのである 37。

6月、制度調査委員会の第 2次案(警備 5か年計画)が策定された。同案は、保安庁限りの中期防衛力整備計画に相当する。木村篤太郎保安庁長官が 6月 9日、九州での部隊視察時記者団に日本の陸海空`各兵力の警備 5か年計画立案を明言し、航空部隊創設を示唆した。さらに 8月、木村は日本の防衛力に関し一番必要なのは空軍であると

31 同上、196頁、読売新聞戦後史班編『昭和戦後史「再軍備」の軌跡』500-502頁。これらによれば 1952年 10月頃にソ連領空侵犯が頻発した。既述のとおり岡田によれば 6月にも領空侵犯が生起している。岡田「戦後日本の航空兵力再建」83頁。

32 「戦後防衛の歩み」69『朝雲新聞』1990年 3月 29日。33 同上 118『朝雲新聞』1991年 5月 9日。34 植村秀樹『再軍備と 55年体制』(木鐸社、1995年)77-79頁。35 「戦後防衛の歩み」116『朝雲新聞』1991年 4月 11日、増田『自衛隊の誕生』187-189頁。36 「戦後防衛の歩み」70『朝雲新聞』1990年 4月 5日。37 同上 115『朝雲新聞』1991年 4月 4日。

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発言したのである 38。

(2)航空自衛隊の創設ア 中央機構の形成(ア)中央機構形成および航空自衛隊新設明示までの過程

1953年 9月 27日、自由党吉田首相と改進党重光葵総裁との間のトップ会談で、保安隊を外部からの「直接侵略に対処する自衛隊に改組することで合意した」39。

10月 5日、航空防衛力整備の研究に関し、保安庁長官等を補佐するため専任の要員を配置して制度調査委員会別室が開設された。別室とは、当初航空委員会の仮称で検討されたが、時期尚早として制度調査委員会内に設置するよう変更された、将来的な航空部隊創設に関する研究を行うための組織である。一方、1ヶ月後の 11月 5日、米軍事顧問団も航空班を新設して日本の航空部隊建設に対する支援体制を強化した。同じ月、米国防総省が空軍省起案「日本空軍建設支援計画」、いわゆるブラウン・ブックを保安庁に提示し、制度調査委員会別室が中心となって航空防衛力整備計画該当部分の修正作業を実施し、これが航空自衛隊編成装備の骨格となる。ブラウン・ブックは、整備すべき目標兵力として航空実動部隊数 33個飛行隊と記していた 40。国内の主要政治勢力間で合意が図られた直後、間髪を入れずに航空防衛力整備の研究部署が設置され、1ヶ月後には米側が支援体制を整えて計画を提示し、さらに日本側が迅速にこれに対応したのである。この短期間に、意思決定から計画の策定に至るまで日米両国を通じてその流れが円滑であったことは、周到な準備の存在をうかがわせると同時に、差し迫ったソ連の経空脅威に対して日米が抱いていた危機感の大きさの表れともとれる。

12月、制度調査委員会別室は業務遂行に関する大綱を策定した。それは航空中央機構、航空防衛力、航空部隊機関の編制装備、運用に関する事項、人事管理、要員養成・教育訓練、施設、通信・レーダー関係、気象保安、補給・整備・修理、技術関係、衛生、予算を主要項目とするものであった。12月 28日には中央機構としての組織の具体的在り方について、米空軍の少佐らに米国の中央機構についての意見聴取を行っている 41。日本は、米軍支援計画ブラウン・ブックに基づいて航空防衛力の建設計画を策定し、中央機構整備の検討にあたっても、米国における機構の在り方について在日米空軍将校の意見

38 同上 118『朝雲新聞』1991年 5月 9日。39 植村『再軍備と 55年体制』131頁。40 「戦後防衛の歩み」119『朝雲新聞』1991年 5月 16日。41 同上 120『朝雲新聞』1991年 5月 23日。

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を参照したのである。1954年 1月 27日、吉田首相は国会で施政方針演説を行った。防衛問題について吉田は、基本方針として国力に応じた自衛力漸増方針に変更のないことを述べた上で、自らの手で自らの国を守る体制の 1日も早い樹立は当然の責務であり、そのために保安庁法等の所要の改正、保安隊・警備隊の自衛隊への切り換えとともに、航空自衛隊を新設して自衛隊に直接侵略対処任務を持たせる規定を設けたいと宣明したのである 42。ここに、航空自衛隊の新設は政府の方針として内外に発表された。首相演説によって、政府の方針として航空自衛隊の創設が明示されたことにより、

これまで制度調査委員会別室という内実の不明確な名称であった部署は、2月 1日、航空部隊・第 3幕僚監部の創設準備組織となる航空準備室として正式に発足した。以後航空準備室は、航空幕僚監部の前身としての機能を担う。要員は室長以下 47名で、その内訳は内部部局所属の者が 4名、1幕(陸)所属の者が 37名、2幕(海)所属の者が6名であった 43。こうして航空幕僚監部の原型が保安庁内に正式に発足したのである。

(イ)中央機構・航空幕僚監部の人的構成次に、航空自衛隊発足直後の航空幕僚監部の人的構成を概観する。1954年7月1日に航空幕僚長以下の人事が発令され、航空自衛隊の陣容が決定したが、

当該年度編成予定の部隊・機関の大部分はいまだ編成されず、中央機構・航空幕僚監部も 16課中 12課で課長不在の状況であった。このあと、これらを完全に充足するために 5ヶ月を要している。航空幕僚監部全体での旧陸海軍関係者または第 1・第 2幕僚監部出身者(以下本段落

では単に陸、海と略記)の比率は定かでない。しかし、枢要なポストである航空幕僚長、航空幕僚副長、4部長、16課長の 22名に関しては姓名が明らかになっている。このうち航空幕僚長は文官で東京帝大出身の上村健太郎である。ほかの 21のポストをみると、副長が海、4部長は陸 3名・海 1名、16課長は陸 4名・海 5名・東京帝大 2名・学歴および軍歴不明 5名である。よって 22個の主要ポストのうち、東京帝大 3名と学歴および軍歴不明 5名を除く 14のポストは、陸 7名・海 7名と均衡している 44。航空自衛隊発足時に保安隊から転官した坂梨靖彦(のち空将補)も当時を振り返り、初代空幕長・副長・4部長(監理、人事、防衛、装備)の構成について「官僚 2、陸 2、海 2のバラ

42 『朝日新聞』1954年 1月 27日(夕刊)。43 「戦後防衛の歩み」121『朝雲新聞』1991年 6月 6日。44 平 27防衛 00119100「航空自衛隊創設史(昭和 29年度)」35-37頁。

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ンスのとれた人事配置だった」と記している 45。初代航空幕僚副長にして第 2代航空幕僚長(1956-1957年)の佐薙毅(海兵 50期)は、戦前・戦時中から交流のあった旧陸軍関係者たちと、出身別の観念は「一切払拭し、全員渾然一体となって新しい航空自衛隊の建設に邁進しようと」「完全に意気投合し得たこと」が「なによりも心強く有り難かった」と回想する 46。ただし、空自発足後の歴史的軌跡を見てみると、組織の頂点となる航空幕僚長につ

いては、初代が内務官僚出身の上村健太郎であったのを除き、旧軍出身者は第 2代から第 17代までの 16名であり、その内訳は旧陸軍が 10名、旧海軍が 6名となっている。ちなみに、航空幕僚副長は初代から第 21代までの 21名が旧軍出身者であり、内訳は旧陸軍が 17名、旧海軍が 4名である。つまり、歴代の航空幕僚長および副長については、旧陸軍出身者が旧海軍出身者に比して多数を占めている。

イ 部隊等の設置(ア)全般の構想(1954年度)および米空軍の影響航空自衛隊創設の骨子となったのは、制度調査委員会が立案した防衛力整備計画第

7次案である。この案に基づき検討の結果、航空機については 1954年度から 1958年度にかけて逐次整備し、戦闘機 500機・輸送機 80機などからなる 1197機の航空部隊を整備しようと考えられていた。また、機関・部隊等の組織については、1954年度に第3幕僚監部、各学校(幹部学校・整備学校・通信学校・初級操縦学校)、教育部隊(航空教育隊)、航空廠、輸送飛行隊を整備する方針であった。つまり、初年度の航空自衛隊では、中央機構となる第 3幕僚監部のほかに、学校・教育部隊および整備補給機能ならびに輸送航空隊を整備するものと考えられていたのである。航空警戒管制部隊も、年度の編成要領を示す表中に名称は記されているものの、他と異なり配置・編成要領についてはすべて空欄となっている 47。なお、実際には、7月 1日臨時松島派遣隊(基本操縦教育)を皮切りに、7月 6日操

縦学校、8月 1日航空自衛隊幹部学校・臨時芦屋派遣隊(輸送機操縦教育のちジェット機操縦教育に任務変更)、9月 1日整備学校・通信学校・第 1航空教育隊・航空自衛隊補給処、9月 25日中部訓練航空警戒隊、10月 1日北部・東部・西部各訓練航空警戒隊、1955年 1月 20日臨時築城派遣隊(臨時芦屋派遣隊を廃止し築城に移駐、ジェット機操縦訓練)、2月 1日臨時立川派遣隊(輸送機操縦教育)、3月 1日立川輸送航空隊(臨時

45 坂梨靖彦「ある自衛官の回想④空自創設期の実態(後方体験録)」『軍事研究』第 46巻第 4号(2011年 4月)149頁。46 平 17防衛 02154100「創造関連資料 3(3/ 4)」(「航空自衛隊 25周年記念随想(WING.54.7.11号)」)。47 「航空自衛隊創設史(昭和 29年度)」12-13,15頁。

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立川派遣隊を改編)・第 2航空教育隊・臨時教材整備隊までが当該年度に発足した 48。航空自衛隊部隊建設に対する米空軍の影響に関し、鈴木瞭五郎元航空総隊司令官

(1974-1976年、海兵 68期)は次のように回想している。

「(1954年)12月に入ってMマ マ

AAGIJ(Military Assistance Advisory Group, Japan(在日軍事援助顧問団))から部隊建設 5か年計画に必要な教育量をしめす技術教育計画表が提示され、米空軍の指導と援助にもとづく部隊づくりのレールが確定した(中略)この時期の基地・部隊の建設、人員の募集と教育訓練は月ペースで推進され、じつに繁忙で急速な要

マ マ

請と運用が展開されていった。これらは米空軍の近代的な計画と管理、そして実力の裏付けがあってこそはじめて実現可能であった」49

(括弧内は筆者)。

(イ)創設期の操縦教育と航空警戒管制部隊操縦教育は、航空自衛隊創設直前の 1954年 6月、松島に臨時松島派遣隊が編成され、米極東空軍により T-6練習機による初級教育が開始された 50。当面経験者の技量回復を主目的にとして陸(1幕)24名、海(2幕)11名の合計 35名を操縦学生として航空自衛隊に転官配置し、6月 1日が訓練開始日とされた 51。操縦経験者に対する技量回復に相当するため、リフレッシャー・コースと呼ばれたこの教育に参加したのは、単に操縦経験者というばかりでなく、大戦を生き抜いた旧陸海軍航空の猛者たちであった。一方、在日米空軍は航空自衛隊造成支援のために桜花計画(Project Cherry Blossom)のもと航空自衛隊要員訓練を開始し、この支援を桜花作戦(Operation Cherry Blossom)と呼称した。この作戦のために、T-6練習機 68機が逐次支援部隊に移管される運びとなり、在日米空軍将校ら 131名が選抜されて松島基地に集合した。日本側にとって操縦教育における大きな問題は、語学であった。6月 21日、技量回復をめざす航空自衛隊操縦幹部学生要員 35名が松島に到着し、同月 25日、学校は開校したものの、その2日後には言葉の壁が問題化し計画の一部変更に至っている。入校前に十分な英語能力の慣熟とその選定を航空自衛隊が責任をもって行うこと、35名のうち英語ができる16名が飛行訓練を開始し、残り 19名は松島で日本人教官による英語教育を受けることの 2点が、改めて日米関係者間で取り決められた。航空自衛隊発足後の 7月 26日、第

48 同上、45頁。49 鈴木瞭五郎「ひよこに翼を与えた伝説の神々たち」『丸』第 528号(1990年 7月)85-86頁。50 この臨時松島派遣隊は米極東空軍の教育を受けるための部隊であり既述の 7月 1日発足航空自衛隊臨時松島派遣隊の前身である。

51 「航空自衛隊創設史(昭和 29年度)」31頁。

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2期操縦学生要員 5名が追加入校したが、すでに入校していた者と合わせて 40名中 13

名が英語力不足と技量回復遅延のために原隊復帰を命じられる状態であった。8月 27

日、松島の訓練を無事終了できたのはわずかに 13名であった 52。語学に苦しめられた旧軍のパイロットたちだったが、米軍教育の内容については肯定的にとらえていた。例えば、鈴木瞭五郎は次のように回想している。

「この年度の飛行教育は、T-34(初級)、T-6(中級)により経験者にたいする技量回復を行なったのち、T-33ジェット機および輸送機の操縦訓練へと移行したが、教育の実施も資材の補給も米空軍のまるがかえであった。(中略)マスプロの流れ生産方式による教育訓練も、科学的かつ論理的で効率がよく、教材も教範、技術指令書(TO)、手引書(ハンドブック)など自学自習にも好適であり、徒弟教育方式のわがほうとは次元がちがっていた。管理についても運用、業務、品質、安全の各面において基準化、標準化、細部

手順が整理されており、ミスや怠慢がなければ事故や故障が生じない万全のものであった。これをまなびとったわれわれは、いまや世界水準の技術大国成就の恩恵によくしている。安全管理についてもわれわれは命の軽視を当然と考えがちであった。しかし、これは膨大な人的、物的損耗につながる一大事であった」53。

平野晃元航空幕僚長(1976-1978年、海兵 69期)も、米空軍の教育システムについて、規格が統一されていること、機種ごとに教官課程があって操縦教官は必ずその課程を終えていること、教育が流れ作業方式になっているために教育シラバスの変更にも柔軟に対応できることに感心したと証言している。米空軍では「日本のように『名人芸』を求めるのではなく、パイロットをマスプロ方式で養成する教育システムが確立し(中略)教え方に無駄がない」と受け止めていた。機材についても、無線機がよいということに驚かされた旨を述べている 54。

1955年 2月、松島に到着した R-8(リフレッシャー・技量回復の第 8コース)学生も次のように回想している。航空機等の機材に関しては空地・機内相互交信とも明瞭であるとともに、教育法についても標準化されて教官教育課程も確立され、空地の安

52 森田忠信「航空自衛隊創設の事情と米空軍の果たした役割(完)」『鵬友』第 2巻第 6号(1977年 3月)74-76頁。53 鈴木「ひよこに翼を与えた伝説の神々たち」86-87頁。54 宮本勲「航空自衛隊 50年の歩み『翼の回想録』空自を作り、育てた人々(8)神代の操縦教官たち」『航空ファン』第 54巻第 1号(2005年 1月)70-71頁。

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全対策に関しても我と比較して周到であった。特に計器飛行の程度は遙かに高く、当該技術の教育についてはむさぼるように熱心に学んだという 55。このほか、のちにほぼすべてが航空自衛隊に移管される保安隊航空学校における教育訓練について、米軍式の飛行前安全点検や実践的な教育、米国人の教官が基本に非常に厳格で訓練が徹底的であった旨の証言が残っている 56。日本初のジェット機操縦者であり、戦時中 B-29の要撃任務も経験した竹田五郎元統合幕僚会議議長(1979-1981

年、陸軍航空士官学校出身)によれば、ジェット機という未知の領域に飛び込む際には旧陸海軍航空出身のベテランたちも躊躇し、実際に飛んだ際の離陸速度に驚くとともに、乗るための訓練が厳格であったという 57。また、創設直後の航空自衛隊で、操縦教育を経験した鈴木昭雄元航空幕僚長(1990-1992年、保安大学校 1期)は、自らが受けた教育についてマニュアルは完全に米空軍のものであり、教育機材から装備品に至るまで米軍から譲り受けたものであったと述べている 58。すなわち、語学という大きな壁に直面し、訓練内容の厳格さにとまどいながらも、

創設期の航空自衛隊では操縦教育において、米空軍の機材および教育法ならびに安全対策を、総じて全面的に受容していったのである。航空警戒管制部隊は、先に述べたとおり全般の構想では配置・編成要領が記載され

ていなかったが、実際には 1954年 9月 25日および 10月 1日に編成された。その動向の一端が、北部訓練航空警戒隊(現在の北部航空警戒管制団)初代隊長の回想からうかがえる。航空自衛隊発足直後の 8月 16日、陸上自衛官(当時 3等陸佐)から転官した松本奎一は、航空幕僚監部付北部訓練航空警戒隊隊長要員となり、9月 9日から陸上自衛隊青森駐屯地で編成準備にかかり、10月 1日、編成を完結して初代隊長となった。10月 16日、隊は青森駐屯地から三沢米軍基地内野戦用天幕に移動し、米軍教官からのオペレーター教育が開始され、同時に北海道米軍各レーダー基地内へ部隊を展開した。部隊を構成する隊員は、陸海自衛隊からの転官者たちであった。米軍基地内で、米国人教官から米軍器材・米軍マニュアルによって教育を受けることは非常に大きな困難を伴うものであったようで、米軍基地内の野戦用天幕に起居し野戦釜で炊事を行って立食で済ませるなど、創設期の隊員たちの苦労がしのばれる 59。鈴木昭雄は、旧陸海軍航空と戦後の航空自衛隊との間には明確な境界があると述べ

55 河内山讓「創設期の操縦教育」『鵬友』第 20巻第 1号(1994年 5月)130-131頁。56 読売新聞戦後史班編『昭和戦後史「再軍備」の軌跡』493-495頁。57 同上、520-521頁、「竹田五郎オーラル・ヒストリー」防衛省防衛研究所戦史研究センター編『冷戦期の防衛力整備と同盟政策①四次防までの防衛力整備計画と日米安保体制の形成』(防衛省防衛研究所、2012年)93-95頁。

58 鈴木昭雄元航空幕僚長に対する筆者らによるインタビュー(2018年 8月 10日)。59 松本奎一「北部訓練航空警戒隊創設当時の思い出」『鵬友』第 20巻 4号(1994年 11月)107-110頁。

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ている。鈴木によれば、AC&Wすなわち航空警戒管制によるコマンド ・アンド ・コントロールという新しい概念が入ってきたこと、それに基づいて組織的な防空戦闘を行うこと、さらにそこにミサイルも加わるという空の戦い方そのものが、単に航空機がプロペラからジェットに変わっただけにとどまらず、旧軍人たちにとってまったく新しいものなのであった 60。戦後の航空自衛隊にとって、航空警戒管制部隊は旧軍になかった組織であり、新し

い概念である航空警戒管制任務に就くために米空軍から学ぶことは必然的な流れだったのである。

(ウ)航空自衛隊創設期における学校教育と精神的紐帯等の模索a 航空自衛隊幹部学校の創設航空自衛隊創設初年度、幹部学校が発足した。先述したように、航空自衛隊創設の

骨子は制度調査委員会が立案した第 7次案である。一方で、人員養成に関しては米空軍の強力な指導がその元になっており、その基本はピンク・ブックであった。ピンク・ブックとは「米航空顧問団から提示された『日本空軍創設支援のための飛行・技術訓練計画』(表紙の色から別名ピンク・ブックと呼ばれた)」であり、既述のブラウン・ブックとともに防衛庁の航空防衛力整備に関して影響を与えたものである。佐藤勝雄元空将(陸士 42期、航空自衛隊幹部学校長)によれば「予算はもちろんあらゆる航空自衛隊の動きがこのピンク・ブックによって律せられていたと言っても過言ではなかった」という。だが、実はピンク・ブックには幹部学校およびその教官要員養成についての記述がなかった 61。他方で、幹部学校の在り方については、幹部学校そのものの問題であるとともに、

航空自衛隊教育体系の全体像にかかわる問題であることから、1954年 9月、島田航一(海兵 55期)初代幹部学校長提唱により、浜松所在の幹部学校・操縦学校・整備学校・通信学校の各校長・副校長・教育部長らが航空自衛隊の教育体系を研究することとなった。この研究会では、米空軍の教育体系や旧陸海軍の制度等に基づき自由な議論が行われたようである。その結果、幹部学校の教育課程の案として、

・ 旧陸大式(比較的若い 1・2尉級に約 3年間教育)・ 旧海大式(一応特技に習熟した 3佐・1尉級に約 2年間教育)

60 鈴木昭雄元航空幕僚長に対する筆者らによるインタビュー(2018年 8月 10日)。61 航空自衛隊 50年史編さん委員会編『航空自衛隊 50年史』(2006年 3月)48-49頁、「戦後防衛の歩み」119『朝雲新聞』1991年 5月 16日、佐藤勝雄「創始時代の空幹校」『幹部学校記事』第 1巻第 1号(1958年 6月)49頁。

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・ 米空軍式(各級指揮官に直接必要な比較的短期間の 3段階教育)

の 3案が提起された。結論として、米空軍の指導下で発足中の航空自衛隊各学校の教育体系にも適合する観点から、米空軍式の AWC(幹部高級課程)、C&SC(指揮幕僚課程)、SOC(幹部普通課程)のコースを基本体系として整備することになった 62。なお、島田幹部学校長から幹部学校の在り方研究を特命された植弘親孝(当時 2佐、教官・研究部長)は当時実施した研究内容について次の 3項目を列挙している。

・ 旧陸・海軍大学および陸上・海上自衛隊幹部学校の教育(特に教育課程・カリキュラム)に関する資料の収集

・ 米空軍顧問団を通じ、米空軍大学組織および Cマ

&Sマ

(指揮幕僚課程)のカリキュラム・教程に関する資料収集とその翻訳

・ 浜松所在の幹部学校・操縦学校・整備学校・通信学校の各研究部長で構成された航空自衛隊教育体系に関する合同研究

これらの研究が浜松で実施された後、幹部学校本体は、防府に移転して幹部候補生学校の前身となるとともに、本来の意味での幹部学校は小平付近への移転が決定し、越中島にその準備室が設置され、植弘はこの準備室で勤務することになる。幹部学校開設の準備、特に教育準備については、在防府の島田校長が引き続き指示をすることとなった。植弘も、旧陸大式、旧海大式および米空軍式が検討された結果、当時の航空自衛隊の教育体系全般が米空軍式に準拠し、かつ約 10年の航空に関する空白を埋めるために、まず米空軍式で始めようということになったと記している 63。操縦教育等の技術的側面に関してすでに米空軍式を受容していた航空自衛隊は、組織の根幹を形成する幹部教育においても米空軍式を受容したのである。

b 精神的紐帯の模索すでに見たように、航空自衛隊は旧陸海軍出身者および一般大学出身者等によって構成される、いわば寄り合い所帯として出発したわけだが、これをつなぎとめる精神的な紐帯の源を戦前に求めた点も皆無ではなかった。陸軍航空士官学校で「生徒の精神教育を特に重視し、その就学の心得を明示する」64

62 佐藤「創始時代の空幹校」50-51頁。63 植弘親孝「幹部学校創設期の思い出」『幹部学校記事』第 12巻第 6号(1970年 3月)2-5頁。64 陸軍航空士官学校史刊行会編『陸軍航空士官学校』43頁。

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ものとして用いられた「陸軍航空士官学校生徒心得綱領」(以下「綱領」と表記)では、身につけるべき精神要素の 1つとして「積極進取」が挙げられている 65。「綱領」では、総則で第 1から第 5までに教育目的・学校の使命・教育方針等を総括的に記し、第 6

以降に同校生徒が肝銘すべき徳目が 9項目列挙されているが、そのうちの 1つとして「積極進取」が掲げられているのである 66。一方、森繁弘航空幕僚長(当時、1983-1986年)が、航空自衛隊創設 30周年にあたる 1984年に創設当時を振り返って記した「無形の金字塔」(以下「金字塔」と表記)では、エアマンシップとして「積極進取」を含む 3つの要素が指摘されている 67。「金字塔」で述べられる「積極進取」は、創設期の航空自衛隊が団結するためのキーワードとしてのエアマンシップを構成する 3つの徳目(迅速機敏、積極進取、柔軟多様)のうちの 1要素として挙げられている。森によれば、創設期の航空自衛隊には旧陸海軍航空出身者が多く存在していたこと

はもちろんだが、 それ以外にも航空を経験したことのない旧陸海軍出身者、そして一般大学出身者等多様な出自の者から構成されており、共通する精神的な支柱が存在しなかった。そこで、当時の航空自衛隊のリーダーであった森の先輩たちは、エアマンシップの重要性についてよく口にしていたという。

「『エアマンシップを持て』というのは先輩みんなが言っていた言葉です。私が言い始めたわけじゃない。(中略)それはやっぱりね、航空を知らなくて航空自衛隊に来た人も陸海軍から来ているから、とにかく『航空に来た以上はエアマンシップを持たなければだめだ』と言われました。(中略)(迅速機敏、積極進取、柔軟多様という 3つの徳目・要素については)はっきりと 3つに区分しては言われなかったが、私が、先輩が言っていたことの意味はこうだろうと思って(「金字塔」に)書いたんです」68(括弧内は筆者)。

森が「金字塔」に記したエアマンシップは、文書等に明文化されていたわけではなく、森自身が航空自衛隊創設期を回想してまとめたものだったのである。このように、創設期の航空自衛隊では組織の精神的な紐帯、もしくはよりどころと

して戦前期の陸軍航空に求めたところも皆無だったわけではなかったようだが、その

65 「陸軍航空士官学校生徒心得綱領」航空自衛隊入間基地修武台記念館所蔵。66 記載順に、協同団結、空地一体、責任観念と犠牲的精神、積極進取、純真明朗、自啓自発、克己自制、潤達謙虚、虚心坦懐。

67 森繁弘「無形の金字塔」航空自衛隊連合幹部会機関誌『翼』第 17号(1984年 7月)52-53頁。68 森繁弘元統合幕僚会議議長に対する筆者らによるインタビュー(2018年 8月 27日)。

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在り方は、例えば今日の海上自衛隊において旧海軍の「五省」がそのまま用いられているような、全面的かつ直接的な継承の在り方とは異なっていることに留意が必要である 69。森が述べているように、戦後新たに発足し、多様な出自によって構成された空自をまとめるには、旧日本陸海軍航空いずれかのものをそのまま適用するのではなく、新しい精神的な紐帯を必要としたのだろう 70。

おわりに

旧日本陸海軍航空は、航空機の誕生以来、その兵器としての重要性と可能性に着目し、当初はヨーロッパからの技術を導入し、列強に比しても、 ある分野ではむしろ速い進度で航空兵力を発展させた。陸海軍の補助兵力ではなく、 独立した軍種として新たに空軍を創設させようという意見は特に旧陸軍航空内に存在したが、 それとて陸軍内のコンセンサスを得ていたわけではなく、 況んや海軍はこれに反対であった。旧軍航空関係者-特に陸軍航空関係者-からすると、航空機の兵器としての技術的進歩に伴って、航空優勢の重要性が戦況を左右する最も重要な要素になっていったにもかかわらず、 依然として航空兵力が軍内において補助兵力と見なされ続けた苦い経験は、 戦後の彼らの活動を精神的に下支えした。戦後、連合国による占領下にあって、旧陸海軍関係者同様、旧陸海軍航空関係者も

再軍備研究活動を独自に実施した。その活動に参画した比較的若い者たちは草創期の航空自衛隊を担ったが、彼らの研究内容が航空自衛隊の創設に直接的に結びついたわけではなかった。航空自衛隊創設の直接的な契機は、1952年夏から秋にかけてのソ連領空侵犯により、共産圏からの経空脅威に対する認識が日米双方で高まったことであり、この結果、米空軍が「日本空軍」創設を企図し、これを日本が受容したのである。航空自衛隊の創設に際しては、戦争が終わって 10年近くが経過し、航空機がプロペラからジェットの時代へと移行していた中で、航空機の操縦法だけでなく、航空警戒管制に象徴されるような新たな概念やそれにまつわる組織が米国から導入されること

69 他に、海上自衛隊において旧海軍から直接的に継承している標語としては「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」がよく知られている。また、金曜日にカレーを食べることも旧海軍時代に始まった行動様式である。これらについては橋爪暁子 1等海佐から御教授頂いた。記して感謝したい。

70 なお現在の航空自衛隊では、隊員の精神的基盤としてエアマンシップを位置づけており、その中核に「航空自衛隊魂」を据えている。そして、それを構成する 4つの気質(積極進取、迅速機敏、柔軟多様、協力協調)のうちの 1つとして「積極進取」が含まれている。4つの気質のうち、「協力協調」以外が「金字塔」にある 3つの徳目と共通していることから、この「航空自衛隊魂」を構成する気質の策定にあたっては、森の文章を参照したのであろう。石塚勲「航空自衛隊魂――エアマン・シップ」『SECURITARIAN』第 521号(2002年 4月)18-21頁、連合准曹会発行『連合准曹会』2018年 12月 3日。

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になったが、装備品、機材などのハード面を全面的に依存したことはもちろんのこと、種々の教育等ソフト面まで米国式を受容することで出発した。さらに草創期の空自は、「雰囲気や気質が相当違う」(森繁弘元統合幕僚会議議長)旧陸海軍出身者や一般大学出身者によって構成されていたことから、その精神的紐帯となるべきものを必要とした。草創期の航空自衛隊では、それを旧日本陸海軍航空のいずれかのものをそのまま適用したというよりも、上記のように様々な出身母体から構成された組織として出発し、さらには米国式の空軍組織の在り方を体系的に受容したこともあって、新たな組織を束ねうる、新たな紐帯を模索したのであった。

(なかじましんご 戦史研究センター安全保障政策史研究室長、にしだひろし 2等空佐安全保障政策史研究室所員)