歴史を超える建築の普遍性 · 2019-01-15 ·...

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52 KINDAIKENCHIKU JANUARY 2019 53 KINDAIKENCHIKU JANUARY 2019 もうひとつの近代建築 −− 建築史の語らない設計へのヒント Vol.13  歴史を超える建築の普遍性 三谷 克人 ( 建築家、ウィーン在住 ) 連載 三谷 克人(みたに・かつひと) 1950 年大阪府生まれ。1975 年京都大学建築学科卒 業。1979 年渡墺。ウィーン工大在籍のかたわら設計 事務所勤務。1992 年コンペ一等入選を機に独立。以 降「TRANSPOLIS」を主宰、現地の建築家の職能を 遂行中。日本での客員講演多数。オーストリア建築家 中央連合会会員。 近代主義者の歴史とその弊害 ウィーンは、時の流れを検証するのに適し た街である。世界の最先端だった文化が、 100年前にショック・フリーズされ、近代化と いう資本のバトルに煩わされることもなく、 そのままひっそりと「冷存」されているからだ。 ただ、解凍するだけでいい。ゲノムが脈を打 ち始めるだろう。その鼓動に耳を澄ませると、 歴史の記述と実際の出来事との食い違いが、 聞こえてくる。 糾すとか、そういうことではない。建築が 行き詰まっていることを認めるのなら、近代 のそういう展開を支えてきた歴史自身が、曲 解したり記述の対象から外した事象を、見直 すべきではないか。 たとえば、ウィーンの近代建築を担った建 築家たちが、「古典」を尊重していたという事 実。「古典 = 様式 = 装飾」と短絡して伏せよう とするから、ロースハウスのオーダーの解説 が舌足らずになる。もうひとつは、歴史の『バ ウハウス』一辺倒。1920年代のウィーンでフ ランクという建築家が、この「モダン」の行く 末(すなわち今日の窮状)に警鐘を鳴らしたこ とは、誰も語らない。 さて今回は、ゼムパーの実務的検証。本 連載の1から4も参照して戴きたい。 19世紀のアーキテクトの実務 様式を旨とした19世紀。建築家は、最先 端の構法に通じている必要があった。英国か ら温室が伝わり、その開放感が、施主たちを 魅了したからである。19世紀の大家カール・ フリードリッヒ・シンケル(1781 ー1841)。 そ の、新古典主義の端整な建築「ティー・パビ リオン」(1830)に、当時の実務を推察して みよう。 ガラスを使って外部を内部空間に取り込む のは、時代を問わない有効な手段だ。鋳鉄 の細いサッシを採用したのは、開口の存在感 を消して、ファサードを自律させるためだろ う。問題は、開閉・施錠が必要なテラスの扉。 工匠が建築家の意を汲んで、提案をする。 <開口の四方に木枠を用意し、蝶番や建付け を伝統的に処理すること。構造的な理由から 開口高とし、幅は重さからガラス2枚分が限 度。細い縦桟に扉枠を納めるのは難題。施 錠のメカは円形のブロンズ製筐に収まる。建 築 家 の 指 示: 取っ手の回転軸を円の中心に 設定、同仕様の円盤を化粧金物として、隣 接クロス部に施工すること。> 多分、こういう遣り取りがあったはずだ。 でもこの、設計と施工との摺り合わせは、我々 の業務といかほども異ならない。建築の実 務に関するかぎり、19世紀は遠くない。 『様式論』、瀕死の建築への処方箋 19世紀の中葉、大量生産の弊害が工芸の 分野にも及び始めた。たとえば鋳物が、鋳 造パーツを合体する製法に移行しはじめた。 型の再利用が目的だから、簡単に外せない ようだと不都合だ。現場は雛形から、邪魔な ものを取り除こうとする。 建築家の役割を、諸工芸を統合して総合 芸術に高めることと、認識していたゴットフリ ード・ゼムパー(1903ー1879)にとって、工 芸品から手の痕跡が失われるのは、建築の 危機だった。<放ってはおけない。現場工場 主や非熟練労働者の意識を、啓蒙しよう。 業の成立過程を詳しく解説し、素材と加工技 術が拮抗するところに、造形の「スタイル(= 様式)」が成立することを説けば、むやみに致 命的な変更はしないだろう。> これが『様式論』の主旨なのであり、「実務 家のための手引書」たる所以なのだ。しかし、 聞く耳を持つ者は少なかった。そればかりか、 美学の学者から「もの」と「技術」に偏重が過 ぎると非難され、大勢がそれに与した。以来 ゼムパーの論は、美学のアンチ・テーゼに成 り下がり、建築史も美学史に追従している。 だが幸いなことに、ウィーンの土壌に根を下 ろし、世紀末建築の展開に、主導的な役割 を果たすことになる。 「様式論」応用の可能性 ゼムパーの論を最もクリエイティブに応用 したのは、建築家ジョーゼ・プレチュニック (1972ー1957)だった。だが多分に作家的だ から、もっと身近な例が望ましいだろう。と いうことで憚りながら、筆者の仕事を参照に 供させていただきたい。 最初の例は、ウィーンのブルク劇場裏にあ る、ガソリン・スタンドだ。 その屋根には、 曲面ガラスが載っていて、母屋を受ける大梁 が固定された柱頭に、ゼムパーのいう「結合 部のアーティキュレート」を試みた。金属の 刃をスリットが入った2本の棒で挟み、それに 線材を緊固に巻いて固定するというアルカイ ックな手法で、天秤のようにバランスを保つ 軽さを、与えようと考えた。 もうひとつは、カトリック教会の「ゆるしの 秘蹟(= 懺悔)」の空間。これはゼムパーの「テ キスタイルと空間」に関する論考に、直喩的 に対応している。螺旋的に巻き上がる青い布 で守られた左側が、懺悔の房(セル)で、右 の麻布で囲まれたスペースは、聖職者と語り、 共に祈る空間。旧来の狭小で陰鬱なボックス ではなく、希望の光に満ちた空間を提案した。 「様式論」参照の可能性 ゼムパーの論は逆方向にも機能する。建 築家が意識しないのに、その造形がゼムパ ーの論と共鳴することがある。 まずヘルツォーク&ド・ムーロンの「バーゼ ルSBB駅の信号所」。磁気遮蔽のための覆い を銅板のストライプでセーターのように編み 上げ、開口部に「むくり」をつけた外観は、テ キスタイルそのものだ。 つぎはペーター・ツムトーアの「聖ベネデ ィクトのチャペル」。 外皮から分離した柱の裏 を銀色に塗り自影を消す、という操作は、ゼ ムパーの説くディテールの極意に響きあう。 最後に村野藤吾の「シトー会西宮の聖母修 道院」のチャペル。村野には、テキスタイル だと気付く造形が少なくないが、ここでは天 井の僅かなむくみと、柱間の壁面の傾きが、 それを暗示する。静謐な空間。 この三者は、好んで建築の部位をアーティ キュレートする。だからだろう。 時空を越えて建築を探索しよう ヨーロッパにいると、過去が近くなる。世 紀末のワグナーやロースはもう、感覚的には 名誉教授の「叔父さん」的存在だ。それに対 して、日本にいて近代を過去に問う場合、明 治維新で終わるしかないというのは、重い時 間的な足枷だ。 しかし、悲観する必要はない。建築家とい うのは、ある時代を生きて得たインプットを、 人として作品にアウトプットする存在だ、とい うことを座右の銘にすればいい。そうすれば 時空を越えて、ギリシャ・ローマの時代から から今日までに、建築の実践のあり方を学ぶ ことができる。「生きて」と「人として」を、強 調しておきたい。それを視野に入れることで、 ギーディオンのいう「プレーボーイ建築」に流 れなくて済む。村野の資本論も、ミースの 記念碑も、理解できるようになる。 ゼムパーは、精一杯「生きた」人だった。 彼から始まってフランクまでを見直すことが、 もうひとつの近代建築の発見につながる、そ ういう実感がある。(了) ①サンスーシー庭園のティー・ハウス(1830) K.F.シンケル、正面外観 ②サンスーシー庭園のティー・ハウス テラス側開口 ③サンスーシー庭園のティー・ハウス 開閉施錠機構 ④サンスーシー庭園のティー・ハウス 化粧金物 ⑤サンスーシー庭園のティー・ハウス 下部扉枠(木製) ⑥ウィーン旧市街のガス・ステーション(1990) 筆者設計、正面外観 ⑦ゆるしの秘蹟・ボックス(2014) 筆者設計、対話室を見る ⑧ゆるしの秘蹟・ボックス 秘蹟をうける房(セル) ⑨ゆるしの秘蹟・ボックス 正面外観 ⑩聖ベネディクト・チャペル(1988) P.ツムトーア、外観 ⑪バーゼル SBB 駅の信号所(1994-98) ヘルツォーク&ド・ムーロン ⑫聖ベネディクト・チャペル(1988) P.ツムトーア、内部 ⑬シトー会西宮の聖母修道院・チャペル(1971) 村野藤吾、内部 出典:①②③④⑥⑬筆者撮影 ⑦⑧⑨K.コスタデドイ ⑩⑪⑫ウィキ・コモン ウィーン旧市街のガス・ステーション(1990) 筆者設計、側面外観 筆者撮影

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52 KINDAIKENCHIKU JANUARY 2019 53KINDAIKENCHIKU JANUARY 2019

  もうひとつの近代建築 −− 建築史の語らない設計へのヒント 

Vol.13 歴史を超える建築の普遍性三谷 克人( 建築家、ウィーン在住 )

連載

三谷 克人(みたに・かつひと)1950 年大阪府生まれ。1975 年京都大学建築学科卒業。1979 年渡墺。ウィーン工大在籍のかたわら設計事務所勤務。1992 年コンペ一等入選を機に独立。以降「TRANSPOLIS」を主宰、現地の建築家の職能を遂行中。日本での客員講演多数。オーストリア建築家中央連合会会員。

近代主義者の歴史とその弊害

 ウィーンは、時の流れを検証するのに適した街である。 世界の最先端だった文化が、100年前にショック・フリーズされ、近代化という資本のバトルに煩わされることもなく、そのままひっそりと「冷存」されているからだ。ただ、解凍するだけでいい。ゲノムが脈を打ち始めるだろう。その鼓動に耳を澄ませると、歴史の記述と実際の出来事との食い違いが、聞こえてくる。 糾すとか、そういうことではない。建築が行き詰まっていることを認めるのなら、近代のそういう展開を支えてきた歴史自身が、曲解したり記述の対象から外した事象を、見直すべきではないか。 たとえば、ウィーンの近代建築を担った建築家たちが、「古典」を尊重していたという事実。「古典=様式=装飾」と短絡して伏せようとするから、ロースハウスのオーダーの解説が舌足らずになる。もうひとつは、歴史の『バウハウス』一辺倒。1920年代のウィーンでフランクという建築家が、この「モダン」の行く末(すなわち今日の窮状)に警鐘を鳴らしたことは、誰も語らない。

 さて今回は、ゼムパーの実務的検証。本連載の1から4も参照して戴きたい。

19世紀のアーキテクトの実務

 様式を旨とした19世紀。建築家は、最先端の構法に通じている必要があった。英国から温室が伝わり、その開放感が、施主たちを魅了したからである。19世紀の大家カール・フリードリッヒ・シンケル(1781 1ー841)。その、新古典主義の端整な建築「ティー・パビリオン」(1830)に、当時の実務を推察してみよう。 ガラスを使って外部を内部空間に取り込むのは、時代を問わない有効な手段だ。鋳鉄の細いサッシを採用したのは、開口の存在感を消して、ファサードを自律させるためだろ

う。問題は、開閉・施錠が必要なテラスの扉。工匠が建築家の意を汲んで、提案をする。<開口の四方に木枠を用意し、蝶番や建付けを伝統的に処理すること。構造的な理由から開口高とし、幅は重さからガラス2枚分が限度。細い縦桟に扉枠を納めるのは難題。施錠のメカは円形のブロンズ製筐に収まる。建築家の指示: 取っ手の回転軸を円の中心に設定、同仕様の円盤を化粧金物として、隣接クロス部に施工すること。> 多分、こういう遣り取りがあったはずだ。でもこの、設計と施工との摺り合わせは、我々の業務といかほども異ならない。建築の実務に関するかぎり、19世紀は遠くない。

『様式論』、瀕死の建築への処方箋

 19世紀の中葉、大量生産の弊害が工芸の分野にも及び始めた。たとえば鋳物が、鋳造パーツを合体する製法に移行しはじめた。型の再利用が目的だから、簡単に外せないようだと不都合だ。現場は雛形から、邪魔なものを取り除こうとする。 建築家の役割を、諸工芸を統合して総合芸術に高めることと、認識していたゴットフリード・ゼムパー(1903ー 1879)にとって、工芸品から手の痕跡が失われるのは、建築の危機だった。<放ってはおけない。現場工場主や非熟練労働者の意識を、啓蒙しよう。業の成立過程を詳しく解説し、素材と加工技術が拮抗するところに、造形の「スタイル(=様式)」が成立することを説けば、むやみに致命的な変更はしないだろう。> これが『様式論』の主旨なのであり、「実務家のための手引書」たる所以なのだ。しかし、聞く耳を持つ者は少なかった。そればかりか、美学の学者から「もの」と「技術」に偏重が過ぎると非難され、大勢がそれに与した。以来ゼムパーの論は、美学のアンチ・テーゼに成り下がり、建築史も美学史に追従している。だが幸いなことに、ウィーンの土壌に根を下ろし、世紀末建築の展開に、主導的な役割を果たすことになる。

「様式論」応用の可能性

 ゼムパーの論を最もクリエイティブに応用したのは、建築家ジョーゼ・プレチュニック

(1972ー 1957)だった。だが多分に作家的だから、もっと身近な例が望ましいだろう。ということで憚りながら、筆者の仕事を参照に供させていただきたい。 最初の例は、ウィーンのブルク劇場裏にある、ガソリン・スタンドだ。その屋根には、曲面ガラスが載っていて、母屋を受ける大梁が固定された柱頭に、ゼムパーのいう「結合部のアーティキュレート」を試みた。金属の刃をスリットが入った2本の棒で挟み、それに線材を緊固に巻いて固定するというアルカイックな手法で、天秤のようにバランスを保つ軽さを、与えようと考えた。 もうひとつは、カトリック教会の「ゆるしの秘蹟(=懺悔)」の空間。これはゼムパーの「テキスタイルと空間」に関する論考に、直喩的に対応している。螺旋的に巻き上がる青い布で守られた左側が、懺悔の房(セル)で、右の麻布で囲まれたスペースは、聖職者と語り、共に祈る空間。旧来の狭小で陰鬱なボックス

ではなく、希望の光に満ちた空間を提案した。

「様式論」参照の可能性

 ゼムパーの論は逆方向にも機能する。建築家が意識しないのに、その造形がゼムパーの論と共鳴することがある。 まずヘルツォーク&ド・ムーロンの「バーゼルSBB駅の信号所」。磁気遮蔽のための覆いを銅板のストライプでセーターのように編み上げ、開口部に「むくり」をつけた外観は、テキスタイルそのものだ。 つぎはペーター・ツムトーアの「聖ベネディクトのチャペル」。外皮から分離した柱の裏を銀色に塗り自影を消す、という操作は、ゼムパーの説くディテールの極意に響きあう。 最後に村野藤吾の「シトー会西宮の聖母修道院」のチャペル。村野には、テキスタイルだと気付く造形が少なくないが、ここでは天井の僅かなむくみと、柱間の壁面の傾きが、それを暗示する。静謐な空間。 この三者は、好んで建築の部位をアーティキュレートする。だからだろう。

時空を越えて建築を探索しよう

 ヨーロッパにいると、過去が近くなる。世紀末のワグナーやロースはもう、感覚的には名誉教授の「叔父さん」的存在だ。それに対して、日本にいて近代を過去に問う場合、明治維新で終わるしかないというのは、重い時間的な足枷だ。 しかし、悲観する必要はない。建築家というのは、ある時代を生きて得たインプットを、人として作品にアウトプットする存在だ、ということを座右の銘にすればいい。そうすれば時空を越えて、ギリシャ・ローマの時代からから今日までに、建築の実践のあり方を学ぶことができる。「生きて」と「人として」を、強調しておきたい。それを視野に入れることで、ギーディオンのいう「プレーボーイ建築」に流れなくて済む。村野の資本論も、ミースの記念碑も、理解できるようになる。

 ゼムパーは、精一杯「生きた」人だった。彼から始まってフランクまでを見直すことが、もうひとつの近代建築の発見につながる、そういう実感がある。(了)

①サンスーシー庭園のティー・ハウス(1830) K.F.シンケル、正面外観 ②サンスーシー庭園のティー・ハウス テラス側開口 ③サンスーシー庭園のティー・ハウス 開閉施錠機構④サンスーシー庭園のティー・ハウス 化粧金物 ⑤サンスーシー庭園のティー・ハウス 下部扉枠(木製) ⑥ウィーン旧市街のガス・ステーション(1990) 筆者設計、正面外観⑦ゆるしの秘蹟・ボックス(2014) 筆者設計、対話室を見る ⑧ゆるしの秘蹟・ボックス 秘蹟をうける房(セル) ⑨ゆるしの秘蹟・ボックス 正面外観⑩聖ベネディクト・チャペル(1988) P.ツムトーア、外観 ⑪バーゼルSBB駅の信号所(1994-98) ヘルツォーク&ド・ムーロン ⑫聖ベネディクト・チャペル(1988) P.ツムトーア、内部⑬シトー会西宮の聖母修道院・チャペル(1971) 村野藤吾、内部出典:①②③④⑥⑬筆者撮影 ⑦⑧⑨K.コスタデドイ ⑩⑪⑫ウィキ・コモン

ウィーン旧市街のガス・ステーション(1990) 筆者設計、側面外観筆者撮影

② ③

⑦ ⑧

⑩ ⑪