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【資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述】 2006年発行版 新編新しい社会歴史 記述 ポイント 韓国併合 「1910年、韓国は日本に併合されました。日本は、朝鮮総督府を設置して、武力を 背景とした植民地支配をおし進めました。学校では朝鮮史を教えることを禁じ、日 本史や日本語を教えて、日本人に同化させる教育を行いました。 写真「朝鮮総督府と朝鮮王朝時代の王宮」「総督府を取りこわしたあとに復元された門」 「日本語で授業を受ける朝鮮の子どもたち」 アジアの独立運動 「ソウルで独立をめざす知識人や学生らが・・・独立運動な短期間に朝鮮全土に広 がりました。朝鮮総督府は武力でこれを鎮圧する一方、これまでの武断的な支配 をゆるめる姿勢を示したため、朝鮮の近代化を求める動きが活発になりました」 中国の5・4運動、朝鮮の3・1独立運動、インドでの非暴力運動などを同じ章で取り扱って いる。関連資料:5:4運動の写真、コラム「インターナショナリスト柳宋悦」では3・1独立運 動に共感した日本人を紹介。本文や脚注で日本に対する民族運動が中国や朝鮮の近代 化を促した面を評価している。 満州事変 「現地の軍部は、1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、そ れを機に軍事行動を開始しました」 日本軍の陰謀についてはあっさりとした記述で、曖昧。 日中戦争 「1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった日中両国軍の武力衝突により、日 中戦争が始まりました」 宣戦布告がなく、なし崩し的に始まったことについては触れていない。関連写真:らくだで 物資を運ぶ日本兵(日本軍が物資不足や補給手段に困っていたことを表現) 南京虐殺 「日本軍は同年末に首都南京を占領しました。その課程で、女性や子どもをふくむ 中国人を大量に殺害しました(南京事件)」「脚注:この事件は、南京大虐殺として 国際的に非難されたましたが、国民には知らされませんでした」 関連写真「南京陥落を祝う人たち」 真珠湾 「1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まりました」 関連写真:「真珠湾攻撃」(炎上する軍艦) 都市空襲 「アメリカ軍は、経済的打撃をあたえ、戦争に早く勝つため、大都市を空襲しまし た」「1944年には、サイパン島が陥落して本土への空襲が激化し、特に、1945年3 月の東京大空襲では、8万人以上の市民が犠牲となり、100万人の人びとが焼け 出されました。」 関連資料なし 沖縄戦 「1945年3月、アメリカ軍は沖縄に上陸し、激しい戦闘が行われました。沖縄の人 びとは、子どもや学生をふくめて、多くの犠牲者を出しました」「写真脚注:この戦 争での沖縄県民の犠牲者は、県出身の兵士もふくめると、当時の沖縄県の人口 のおよそ4分の1に当たる、12万人以上と推定されています」 写真「火炎放射器で攻撃するアメリカ軍」 広島・長崎 「アメリカは、原子爆弾を8月6日広島に、9日長崎に投下しました。」 関連写真「一瞬にして廃墟となった広島(ドーム)」「脚注:投下から数年以内に、広島市で は約20万人以上、長崎市では約14万人以上の人びとの生命がうばわれたと推定されて います」 その他 「日本が侵略した東アジアや東南アジアでは、戦場で死んだり、労働に借り出され たりして、女性や子どもをふくめて、一般の人びとにも、多くの犠牲者を出しまし た。いっぽう、日本に連れてこられて、意思に反して働かされた朝鮮人、中国人な どもおり、その労働条件は過酷で、賃金も低く、きわめてきびしい生活をしいるもの でした」 関連写真「徴発されて鉄道工事に従事する住民」(写真脚注:タイからビルマに軍需物資を 運ぶための鉄道の建設では、現地の住民や捕虜が働かされ、数万人の死者が出たとい われます)、「日本軍による犠牲者の記念碑」(写真脚注:シンガポールでは、多くの中国 系市民などが、日本軍に非協力的だとして殺害されました)

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【資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述】

2006年発行版 新編新しい社会歴史記述 ポイント

韓国併合

「1910年、韓国は日本に併合されました。日本は、朝鮮総督府を設置して、武力を背景とした植民地支配をおし進めました。学校では朝鮮史を教えることを禁じ、日本史や日本語を教えて、日本人に同化させる教育を行いました。

写真「朝鮮総督府と朝鮮王朝時代の王宮」「総督府を取りこわしたあとに復元された門」「日本語で授業を受ける朝鮮の子どもたち」

アジアの独立運動

「ソウルで独立をめざす知識人や学生らが・・・独立運動な短期間に朝鮮全土に広がりました。朝鮮総督府は武力でこれを鎮圧する一方、これまでの武断的な支配をゆるめる姿勢を示したため、朝鮮の近代化を求める動きが活発になりました」

中国の5・4運動、朝鮮の3・1独立運動、インドでの非暴力運動などを同じ章で取り扱っている。関連資料:5:4運動の写真、コラム「インターナショナリスト柳宋悦」では3・1独立運動に共感した日本人を紹介。本文や脚注で日本に対する民族運動が中国や朝鮮の近代化を促した面を評価している。

満州事変「現地の軍部は、1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、それを機に軍事行動を開始しました」

日本軍の陰謀についてはあっさりとした記述で、曖昧。

日中戦争「1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった日中両国軍の武力衝突により、日中戦争が始まりました」

宣戦布告がなく、なし崩し的に始まったことについては触れていない。関連写真:らくだで物資を運ぶ日本兵(日本軍が物資不足や補給手段に困っていたことを表現)

南京虐殺

「日本軍は同年末に首都南京を占領しました。その課程で、女性や子どもをふくむ中国人を大量に殺害しました(南京事件)」「脚注:この事件は、南京大虐殺として国際的に非難されたましたが、国民には知らされませんでした」

関連写真「南京陥落を祝う人たち」

真珠湾「1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まりました」 関連写真:「真珠湾攻撃」(炎上する軍艦)

都市空襲

「アメリカ軍は、経済的打撃をあたえ、戦争に早く勝つため、大都市を空襲しました」「1944年には、サイパン島が陥落して本土への空襲が激化し、特に、1945年3月の東京大空襲では、8万人以上の市民が犠牲となり、100万人の人びとが焼け出されました。」

関連資料なし

沖縄戦

「1945年3月、アメリカ軍は沖縄に上陸し、激しい戦闘が行われました。沖縄の人びとは、子どもや学生をふくめて、多くの犠牲者を出しました」「写真脚注:この戦争での沖縄県民の犠牲者は、県出身の兵士もふくめると、当時の沖縄県の人口のおよそ4分の1に当たる、12万人以上と推定されています」

写真「火炎放射器で攻撃するアメリカ軍」

広島・長崎「アメリカは、原子爆弾を8月6日広島に、9日長崎に投下しました。」 関連写真「一瞬にして廃墟となった広島(ドーム)」「脚注:投下から数年以内に、広島市で

は約20万人以上、長崎市では約14万人以上の人びとの生命がうばわれたと推定されています」

その他

「日本が侵略した東アジアや東南アジアでは、戦場で死んだり、労働に借り出されたりして、女性や子どもをふくめて、一般の人びとにも、多くの犠牲者を出しました。いっぽう、日本に連れてこられて、意思に反して働かされた朝鮮人、中国人などもおり、その労働条件は過酷で、賃金も低く、きわめてきびしい生活をしいるものでした」

関連写真「徴発されて鉄道工事に従事する住民」(写真脚注:タイからビルマに軍需物資を運ぶための鉄道の建設では、現地の住民や捕虜が働かされ、数万人の死者が出たといわれます)、「日本軍による犠牲者の記念碑」(写真脚注:シンガポールでは、多くの中国系市民などが、日本軍に非協力的だとして殺害されました)

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【資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述】

大阪書籍 中学社会歴史的分野 占有率:15.4%

記述 関連資料・備考

韓国併合「日本は、朝鮮の外交権をうばい、韓国統監府をおき、さらに内政権もにぎって・・・日本は1910年、軍隊の力を背景にして朝鮮を植民地にしました。これを韓国併合といいます。」

安重根、抵抗運動の弾圧、政治活動の禁止、新聞発行の制限、強制的な皇民化政策について説明。関連資料:「朝鮮総督府」「日本語で授業を受ける朝鮮の子どもたち」写真、啄木の短歌「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ秋風を聴く」

アジアの独立運動「1929年に日本人学生の侮辱的な言動に抗議して光州学生事件が起こり、翌年、対戦でも霧社という地域の住民が労役に反対して、日本人の警察や学校をおそいました」

満州事変「1931年9月、満州に配置されていた日本軍は、奉天付近で鉄道線路を爆破し、これを中国側の行動として出兵し、やがて満州全土を占領しました」

日本の陰謀であったことを明確に記述している。関連資料:「満州についての新聞報道」、地図「満州の鉄道の利権と満州事変」、写真「満州伊で開拓を進める日本の農民」コラムで「満州を日本の領土にしないほうがよい」と論じた石橋湛山の説を紹介。

日中戦争

「1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突する事件が起こりました。現地では停戦協定が結ばれたにもかかわらず、日本政府の方針が定まらなかったこともあって、戦火は上海にも広がり、宣戦布告もないままに全面的な日中戦争が始まりました。」

写真「中国大陸を進軍する日本兵」、地図「日本の中国侵略」、「盧溝橋事件についてー日本と中国の見解の違い」と題して、蒋介石の日本の内閣書記官長の談話を紹介

南京虐殺「12月に占領した首都南京では、捕虜のほか、婦女子をふくむ多数の住民を殺害しました(南京事件)」「脚注:南京事件は、日本ではその事実を知らされず、戦後の極東国際軍事裁判で、その規模や犠牲者の実態が始めて明らかにされました。ただ 被害者数については さまざまな調査や研究が行われていて確定されてい

写真「南京の陥落を祝う街のようす」

真珠湾

「、1941年12月8日、ひそかに開戦の準備をしていた日本軍は、イギリス領のマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地を奇襲して太平洋戦争が始まりました」

脚注:「この戦争を、当時、日本政府は、日中戦争をふくめて「大東亜戦争」とよびました。現在では、戦場となった地域から、「アジア太平洋戦争」というよび方もされています。」写真「真珠湾攻撃」 写真脚注:日本の交渉打ち切りの通告が遅れたため、この攻撃はアメリカの国民を団結させ、「リメンバー・パールハーバー」が合言葉になりました。

都市空襲

「1944年7月、サイパン島の日本軍が全滅して連合国軍に占領されると、大型爆撃機による大規模な日本本土への空襲が始まりました。1945年3月、東京では焼夷弾による無差別爆撃を受け、一般市民を中心に一夜で約10万人が犠牲になりました。」

資料「空襲を受けた主な都市と死者数」(広島、長崎の原爆被害者も含まれている)、写真「東京大空襲で避難する人々」、脚注で焼夷弾について説明。

沖縄戦

「1945年3月、連合国軍は沖縄に上陸を始めました。日本軍は沖縄を本土の防壁として、中学生や女学生までを兵士や従軍看護婦に動員し、住民もまきこんで戦いました。沖縄の南部は焼き尽くされ、6月には日本軍の組織的な抵抗が終わりましたが、集団自決を迫られた人々もあり、沖縄県民の4人に1人が犠牲になるという 悲惨な結果になりました」

写真「沖縄で捕虜となった少年兵」、脚注:犠牲者数は、病死者や餓死者をふくめると、軍人・軍属(ひめゆり部隊や健児隊に動員された中学生・女学生もふくむ)に住民を合わせて、12万人以上と推定されています。この犠牲者数は、本土からの兵士の犠牲者数を大きく上回りました。

広島・長崎「アメリカは、戦後の世界でソ連に対して優位に立つことなどを意図して、1945年8月6日、広島に世界で最初の原子爆弾を投下し、9日には長崎にも投下しました。両市とも、数千度の高熱と猛烈な爆風を受けて一瞬のうちに壊滅し、大量の放射線を浴びました 犠牲者数は 数週間 うちに 広島 万人 長崎 万人に達

写真「被爆直後の広島市のようす」、資料「原爆による広島市と長崎市の被害」、「第二次世界大戦での主な国の犠牲者数」→原爆被害について詳しく記述し、犠牲者が市民であったことを強調。一方で、全世界の犠牲者数を統計的に示して、メガデスの相対化を図 る

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【資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述】

日本書籍新社 わたしたちの中学社会-歴史的分野- 占有率:11.8%記述 関連資料・備考

アジアの独立運動「日本の植民地支配に苦しんでいた朝鮮の人々も独立を求めて立ち上がった」「日本は軍隊を派遣し、きびしい弾圧を加えた(脚注:死者8000人)」

3・1独立運動、5・4運動について、地図1枚、写真3枚、脚注などで詳しく述べている。

満州事変

「1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自分たちの手で爆破した。そしてこれを中国軍のしわざだとして、事前の計画にしたがってただちに軍事行動に移り・・・」「日本があやつる「満州国」を建国」

日本の陰謀であったことを明確に記述している。

日中戦争「盧溝橋で日本軍と中国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本は中国との全面戦争をはじめた」

南京虐殺

「日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなかったため、きびしい国際的非難をあびた(南京事件)」「脚注:殺害された中国人の数については、さまざまな説がある」

ビジュアル資料はなし。「三光作戦」についての脚注あり。

真珠湾

「戦争で手に入れた権益を失うことをおそれた日本政府はひそかに開戦を決意し、1941年12月8日、・・・ハワイの真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争がはじまった」

脚注で、日本は「大東亜戦争」、アメリカは「太平洋戦争」という名称を使っていたが、昨今は中国等での激しい戦闘を重視して「アジア太平洋戦争」という呼び方が使われていることに触れている。

都市空襲

「アメリカ軍は、はじめは軍需工業地帯を目標にしていたが、しだいに年への無差別爆撃に戦法を切りかえ、3月10日の東京大空襲では10万人もの死者が出た。さらに、空襲は地方都市にまで拡大していったため、交通は止まり、生産は激減し、国民の繊維もしだいにおとろえていった。」

沖縄戦

「1945年4月にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸し、県民もまきこんだはげしい戦闘が行われ、県民の犠牲者は12万人にものぼった。また、日本軍にスパイ容疑で殺されたり「集団自決」を強制されたりした人々もあった。」「脚注:軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾を配るなどして集団的な自殺を強制した。」

写真「目のうつろな少女」

広島・長崎

「アメリカは、8月6日には広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下して、いっしゅんのうちに街を完全に破壊した。」「脚注:1950年末までの死者は、広島20万人、長崎10万人にのぼった。原爆投下には、戦後の世界で、ソ連に対して優位に立つというねらいもあった。」

対ソ原爆外交説の紹介。また「さらに深める学習:広島・長崎への道」で、ゲルニカ→重慶→東京大空襲における無差別爆撃を紹介し、広島・長崎への原爆投下は無差別爆撃を極端にまで推し進めたもの、という解釈を呈示している。「考えてみましょう、調べてみましょう:あなたは、これらの無差別爆撃についてどう考えますか」

その他

「さらに深める学習:まぼろしの大東亜共栄圏」→シンガポールでの華人大虐殺、泰緬鉄道、バターン死の行進、朝鮮中国強制連行について詳しく述べている。「考えてみましょう、調べてみましょう:アジア各国の教科書では、戦時中のことはどのように書かれているのでしょう」

従軍慰安婦については非常に曖昧な記述(軍の要請によって、日本軍兵士のために朝鮮などアジアの各地から若い女性が集められ、戦場に送られました)。

「さらに深める学習:敵の顔、人間の顔」→戦中のプロパガンダについて、一方で敵国に向けられた人間としての温かな視点についても紹介。「考えてみましょう、調べてみましょう:たがいに戦った国々の間では、戦後も感情的なしこりや反発が残るものです。それを乗り越えるためには、何が必要なのでしょうか」

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【資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述】

教育出版 中学社会歴史-未来をみつめて 占有率:11.8%記述 関連資料・備考

韓国併合

「日本は、武力を背景に韓国を保護国とし、韓国の外交権をうばって統監府をおきました。」「日本は韓国の抵抗をおさえて・・・韓国を植民地都市(韓国併合)、韓国を朝鮮とあらため、朝鮮総督府をおいて支配しました」「朝鮮人の権利や自由はきびしく制限されました。朝鮮人の学校では、日本語や日本の歴史、修身が教えられるようになりました」

「保護国から植民地へ」と題して、韓国併合と辛亥革命に対して詳しく記述。関連資料:朝鮮で使用された日本語の歴史教科書、日本語授業の様子、韓国皇太子と伊藤博文の2ショット写真。義兵の写真。脚注でこの時期に朝鮮で手都度や農業用水等の施設の整備が進んだことに触れている。

満州事変「1931年9月、満州に駐留していた日本軍は、奉天の郊外で、南満州鉄道の線路を爆破しました。そして、日本軍は、これを中国側がしたことして攻撃をはじめまし

日本の陰謀であったことを明確に記述している。関連資料:「満州は日本の生命線」と報じる新聞、「満蒙開拓青少年義勇軍」の写真

日中戦争「1937年7月、中国の北京の郊外で日中両軍の衝突がおこったのをきっかけに、日中戦争がはじまりました」「宣戦布告をしないままに、日本は次々に戦線を拡大

地図「日中戦争の広がり」

南京虐殺

「同年12月、中国の首都南京を占領しました。このとき、日本軍は混乱のなかで、多数の捕虜や住民を殺害して、国際的に非難を受けました(南京事件)」「脚注:このことは当時、国民には知らされていませんでした。国民がこのことを知ったのは第2次世界大戦後でした」

関連資料:「南京占領にわく銀座の街」の写真

真珠湾「12月8日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、海軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、太平洋戦争がはじまりました」「脚注:政府は「大東亜共栄圏」を建設するための戦争だと主張し、この戦争を「大東亜戦争」と呼びました」

関連資料:「日本軍の真珠湾攻撃で炎上するアメリカの戦艦」戦艦アリゾナの残がいが眠るアリゾナ・メモリアル」

都市空襲

「1944年7月、日本を直接爆撃できる距離にあるサイパン島がアメリカに占領されました。これ以後、日本の多くの都市や軍事施設は、はげしい空襲にさらされました。特に、1945年3月10日の東京大空襲では、一夜で約10万人の人々が犠牲になり、多くの人々が焼け出されました」

関連資料:「東京大空襲の焼け跡」(脚注:「午前零時から2時間以上にわたり、アメリカのB29爆撃機が100機以上来襲し、十数万発といわれる爆弾を投下していきました。東京は下町を中心に家屋の約40%が焼けたと言われています」

沖縄戦

「1945年3月にはアメリカ軍が沖縄に上陸しました。沖縄では、中学生や女学生をふくむ多くの県民が守備隊に配置されるなど、はげしい戦闘にまきこまれました。沖縄戦では、当時約60万人運の県民のうち、死者が12万人以上を数え、戦闘は日本の降伏後も1ヶ月近くつづきました」

写真「アメリカ軍による洞窟への火炎放射」「ひめゆりの塔」(脚注:看護活動を行っていた「ひめゆり学徒隊」が、地下壕で飢えや自決のために亡くなっていったことを追悼してつくられたものです)

広島・長崎

「アメリカは、戦後のソ連より優位に立つねらいもあって、8月6日広島に、8月9日長崎に、原子爆弾(原爆)を投下しました。死者は被爆後の死者をふくめて広島が、20万人以上、長崎が10万人以上におよび、街は廃墟になりました。」

対ソ原爆外交説の紹介。関連資料:写真「原子爆弾の被害にあった広島(ドーム)」「長崎に投下された原子爆弾(きのこ雲)」。沖縄と原爆、中国残留孤児、シベリア抑留という一連の流れを「おびただしい死者たちの上に」という章で説明している。同じ章で、解放に沸くソウルの様子も紹介している(「1945年8月15日のソウル」)

その他「アウシュヴィッツのユダヤ人」という章をたてて、第2次世界大戦の起源について詳しく紹介。

関連資料:「連行されるユダヤ人」「アウシュヴィッツ強制収容所」「ロンドン空爆」「ヒトラー・ユーゲント一行の来日」の写真。「働けば自由になる」、人種差別主義、負の遺産などについて説明

「長い間、欧米諸国の植民地とされてきたアジアの人々は、日本軍に期待をしました。しかし、占領地では、住民にっきびしい労働をさせたり、戦争に必要な物資を取り立てたりすることもありました。」

写真「泰緬鉄道建設にかり出された現地の人々」

「やってみよう!:第二次世界大戦の犠牲者は全世界でどのくらいか調べ、今の日本の人口と比べてみよう」

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【資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述】

清水書院 新中学校歴史改訂版-日本の歴史と世界- 占有率:2.4%記述 関連資料・備考

韓国併合

「韓国に関しては、欧米の強国の支持を得たうえで1905年に保護国とした。外交権をうばい、統監をおいて内政の監督もはかった。これに対し、韓国民ははげしく抵抗し、独立運動家の安重根が初代統監の伊藤博文を暗殺した。その翌年1910年、日本は韓国併合を強行した」

アジアの独立運動「日本は朝鮮総督府をおき、台湾と似た統治をおこなったが、古い歴史を誇る朝鮮の人びとは抵抗をつづけ、1919年にはもとの皇帝の死去を機に独立運動を展開して、日本のきびしい弾圧を受けた。」

3・1独立運動の地図1枚、レリーフの写真(柳寛順)

満州事変

「日本は大陸での日本の勢力を失うことをおそれ、中国山東省に出兵した」「日本の軍隊は、藩陽付近の鉄道の一部をみずから爆破して戦争のきっかけをつくり、中国軍を攻撃してたちまち全満州を占領した」「国内の新聞などもこうした軍部のうごきを大々的に報道し、国民の多くはこれを熱狂的に支持した」

日本の陰謀であったことを明確に記述している。

日中戦争 「満州国の実権をにぎった日本の軍部は、さらに華北を侵略した。」

南京虐殺

「日本軍は占領した地域で物資や労働力を徴発し、食料などもその地で確保した。このため物資の略奪・放火・虐殺などの行為もしばしば発生した。とくに南京占領にさいしては、捕虜・武器をすてた兵士、老人・女性・子どもまで含めた民衆を無差別に殺害した。戦士した兵士もあわせたこのときの死者の数は、多数にのぼると推定されている。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどはこの事実さえ知らなかった。こうした日本軍の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。」

「日本軍と中国民衆」というコラムで詳しく記述。

真珠湾

「1941年12月8日、日本海軍はアメリカのハワイにある真珠湾を奇襲し、またそれよりさきに、東南アジアでは陸軍がマレー半島に上陸を開始した。」「日本の軍部・政府は、日本の経済力や国際情勢をしっかりと判断できず、中国だけでなく、アメリカ・イギリスも敵に回した戦争をはじめたのである」

写真は「インドシナ進駐」と「真珠湾攻撃」

都市空襲「1944年末から、アメリカ軍の日本本土空襲が本格化し、全国の100近い都市が爆撃された。1945年3月10日の東京大空襲では約10万もの人びとが姓名をうばわれた。」

「深める歴史」の中で東京大空襲の写真とともに、全国で約20万人が犠牲となり、240万戸の家屋が損失したと紹介。また、「戦争の被害~手記や体験記などから「そのころ」をさぐろう」というコラムでも東京大空襲の手記を紹介。共に、原爆の被害とセットで紹介して

沖縄戦

「1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸し、はげしい戦闘ののち、6月にこれを占領した。沖縄戦では住民の12万人以上が犠牲となった。」「写真脚注:県民の犠牲者のなかには、非戦闘員の人びとが多かった。なかには、強制されて集団自決した人もいた。」

写真「白旗をかかげる少女」 「深める歴史:戦争と民衆と」の中で東京大空襲、沖縄、原爆、満州からの逃避行を説明。「国内では最後でもっともはげしい戦場となった沖縄、原爆が落とされた広島・長崎でもたくさんの人々がなくなっています。」「戦争の悲惨さ、平和のたいせつさを伝える場所を調べてみよう」の中で平和の礎を紹介。日本唯一の地上戦の場所であること、軍人より一般住民の死者がはるかに上回っていること、国籍・立場を問わず犠牲者全ての名が刻まれていることなどを紹介している。

広島・長崎

「アメリカは戦争の早期終結を名目に、ソ連に対抗する目的もあって、1945年8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾を投下した。原爆は、一瞬のうちに両都市を壊滅させ、二十数万もの生命をうばった」「脚注:原爆の投下時に広島市にいた約35万人が放射能に被ばくした。長崎でも27万人が被ばくしたと推定されている。」「

対ソ原爆外交説の紹介。見返しに関連写真、同じページに写真「原爆投下直後の広島」(相生橋で撮られた有名なもの)。「深める歴史:戦争と民衆と」の中で「日本国民も被害者となった」と題して東京大空襲、沖縄、原爆、満州からの逃避行を説明。写真「原爆によって被災した浦上天主堂」(脚注:1945年8月9日、原爆が長崎市の浦上地区に投下され、6-7万人が死亡したと推定されています」「戦争の悲惨さ、平和のたいせつさを伝える場所を調べてみよう」というコラムで、原爆ドーム、広島平和祈念資料館、長崎原爆資料館を紹介

その他

「コラム:戦時下の朝鮮」→「総督府は日本語の使用を強制し、伝統的な姓名にかえて日本式の氏名をつくらせて、公的な場ではこれを使わせるようにし、神社への参拝も義務付けた。・・・長い歴史をもつ朝鮮の文化や社会を根本から破壊するものであり、朝鮮の人びとは深いいきどおりをもった。」

従軍慰安婦については非常に曖昧な記述(軍の要請によって、日本軍兵士のために朝鮮などアジアの各地から若い女性が集められ、戦場に送られました)。

「深める歴史10:戦争と民衆と」 この中で、日本が植民地や占領下の民衆に略奪・暴行を行い、強制労働・徴兵・強制連行を行ったこと、こうした問題に対して戦後補償の課題が残っていること、日本の民衆も空襲や沖縄戦、原爆、満州などで犠牲になったことを詳しく説明している。従軍慰安婦については「過酷な労働を強いられたりしたのは男性だけでなく、女性も含まれていました」という記述にとどまる。

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【資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述】

帝国書院 社会科中学生の歴史-日本の歩みと世界の動き- 占有率:14.2%記述 ポイント

韓国併合

「日本は韓国の植民地化を進め、陸軍・海軍の軍備を増強させ・・1910年、日本は韓国を併合して、植民地としました。朝鮮総督府をおいて支配を開始し、韓国を朝鮮と改め、首都漢城も京城と名をかえさせました。

写真「朝鮮の王宮前に建てられた朝鮮総督府」「東京で撮影された韓国皇太子と伊藤博文」、石川啄木の短歌と初代朝鮮総督の短歌の比較、地図「日本の韓国併合に対する朝鮮民衆の抵抗運動」、コラム「韓国の教科書に見る安重根」では、日本では暗殺者である安が韓国では民族的英雄であることが紹介されている。コラム「ネルーが娘に語った歴史」では、日本の朝鮮侵略についてのネルーの発言を紹介している。

アジアの独立運動

満州事変

「中国は、日本の中国での権益の中心であった、南満州鉄道に並行する鉄道を建設しようとしました。この動きに対し、「満州」にいた日本軍は、1931年9月、南満州鉄道の奉天付近で爆破事件を起こし(柳条湖事件)、これを中国側のしたこととして攻撃をはじめ、「満州」全体を占領しました」

関連資料「1931年の新聞記事」(日本民族の血と汗の結晶!特殊権益 断じて侵略を許さず)、写真「旧関東軍司令部(長春)」

日中戦争「1937年7月、北京郊外で日中両軍が衝突した盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が始まりました」

宣戦布告がなく、なし崩し的に始まったことについては触れていない。関連地図:日中戦争

南京虐殺

「日本軍は中国の南部からも侵攻し、上海や、当時首都であった南京を占領しました。南京では、兵士だけでなく、女性や子どもをふくむ多くの中国人を殺害し、諸外国から「日本軍の蛮行」と非難されました(南京大虐殺)。しかし、このことは、日本国民には知らされていませんでした」

「南京大虐殺」という言葉を使用。

真珠湾「1941年12月、日本軍はイギリス領であったマレー半島に上陸する一方、これと並行してハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地を奇襲しました。日本は、アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争(アジア太平洋戦争)が始まりました」

関連写真:「真珠欄攻撃」(炎上する軍艦)、脚注:戦争中、日本は大東亜共栄圏をつくる目標から、大東亜戦争とよんでいました。太平洋戦争は本来アメリカ側が用いた呼び方で、近年は、アジアも戦場であったことから、アジア太平洋戦争ともよばれています。

都市空襲

「南洋群島のサイパン島がアメリカ軍によって占領されると、ここを基地として日本本土の爆撃も行われるようになりました」、資料「日本本土への空襲」:アメリカの日本本土への空襲は、はじめは夜間に工場をねらっての爆撃でしたが、のちには焼夷弾を使って都市を焼き払うようになりました。・・・」

地図「全国の空襲の被害」を用いて、東京大空襲を始めとする全国の空襲を説明。広島・長崎も含んで記述。

沖縄戦

非常に詳しいので略 コラム「戦場となった沖縄」では1Pを使って詳しく沖縄戦を記述。写真「火炎放射器を使うアメリカ兵」、「ふりそそぐ砲弾でつくられた穴」、「平和の礎」(脚注:国籍を問わず沖縄戦で亡くなった23万人の名前が刻まれています。一部の遺族は刻まれることをこばみ、空白のままです)、地図「沖縄で行われた地上戦」、資料「記録に残る家族たち」(南風原町の

広島・長崎

「戦争の早期終結を望むアメリカは、8月6日に広島に、8月9日長崎に原子爆弾を投下しました。1945年8月6日午前8時15分に投下された一発の原子爆弾により、14万人もの人が殺され、広島市の中心部は壊滅しました。そのときに生き残った人々も、放射能の後遺症などによって苦しみ、その後も死者は増え、5年後の1950年までに死者の数は20万人以上に達したといわれています。長崎でも、1945年末までに7万人を数える死者を出しています。」

関連写真「原爆によって崩壊した広島市内」(ドーム)、地図「原爆の被災の範囲」(広島)、コラムと資料「ある少女の日記」(広島第1県女の森脇瑶子さんの記録)、原爆の関連年表(マンハッタン計画~)、やってみよう「アメリカはなぜ原爆を使ったのか、その理由をいくつかあげてみよう」

その他

「第五章:植民地の支配と抵抗」 中国での抗日運動や、植民地における日本の弾圧とそれに対する抵抗運動について、資料を用いて詳しく説明している。関連資料:写真「朝鮮神宮」、「民家にえがかれた抗日へのよびかけ」、「日本語を学ぶニューギニアの人々」。コラム「外国の教科書が教える日本の支配」では、インドネシアの教科書の一部を紹介し、日本の略奪についての記述を掲載

その他「第8章:それぞれの敗戦と「戦後」の出発」:「日本の植民地とされた朝鮮や台湾、日本軍に占領されていた中国や東南アジアの人々は、解放を喜びました」「日本が占領したアジアや太平洋の地域の人々にも多くの人的・物的な損害をあたえまし

敗戦と戦後を一連の流れに位置付けているのが特徴。シベリア抑留や中国残留日本孤児についても記述。関連資料:コラム「それぞれの敗戦」、資料「第2次世界大戦の犠牲者数」、写真「敗戦をつげるラジオを聞く人々」

その他

「挑戦!:戦時下の資料を読んで」⇒「人々はなぜ戦争をささえ続けたのでしょうか。戦争に疑問をいだかなかったのでしょうか」、資料1「戦時下の人々は戦争をどのように考えていたのだろう」、資料2「子ども用の絵本などはどのような内容だったのだろう」、資料3「戦時下の報道はどうだったのだろう」

雑誌「少年倶楽部」に寄せられた小学5年生の作文、絵本「日本再生桃太郎」、アニメ「桃太郎海の神兵」、ミッドウェー海戦に関する日米の報道記事の比較。発禁になった毎日新聞の記事などの資料を用いて、戦時下のプロパガンダについて考えさせる構成となっている。

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【資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述】

日本文教出版 中学生の社会化歴史-日本の歩みと世界- 占有率:1.4%記述 ポイント

韓国併合

「日本は韓国を保護国とし、統監府をおいて、内政の実権・・・日本をにぎり、韓国の軍隊を解散させた。日本は、反日抗争を軍隊と警察の力でおさえ、1910年、韓国を日本の領土に日本に併合し(韓国併合)、朝鮮とよんで、植民地として支配した。朝鮮の人々は、祖国を失い、同化を強制され、満州や日本への移住を余儀な

写真「朝鮮の学校での日本語の授業」(脚注:日本語を強制して、日本に同化させようとした)、統計「朝鮮の小学校における授業時間」、写真「安重根」(脚注:韓国では「救国の英雄」とされ、ソウル南山に記念館が建てられている。)

満州事変「1931年9月、関東軍は、奉天(藩陽)付近で南満州鉄道を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして戦争をはじめ、満州を占領した。これを満州事変といい、いわゆる日中15年戦争となっていった。」

日本軍の陰謀であることを明示。15年戦争という言葉を紹介している唯一の教科書。関連写真「満州国の建設」、「満州の開拓」、「リットン調査団」

日中戦争「1937年7月、ペキン(北京)郊外の盧溝橋で、華北に駐屯していた日本軍は、中国軍と衝突した。これをきっかけに、日中戦争が始まった。日本の戦線は、中国の主要都市をはじめ、各地に広がっていった。」

宣戦布告がなく、なし崩し的に始まったことについては触れていない。関連写真:「日中両軍が衝突した盧溝橋」

南京虐殺「日本軍は、ナンキン占領のとき、大ぜいの中国民衆を殺し(南京虐殺事件)、国際的に非難されたが、日本の国民には知らされなかった」

関連写真「日本軍のナンキン入城」。「南京虐殺事件」という言葉を使っている。

真珠湾「1941年12月8日、陸軍は、イギリス領マレー半島の北部に上陸をはじめ、海軍は、ハワイの真珠湾を奇襲した。この日、日本は、アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争が始まりました」

関連写真:「マレー半島に兵を進める日本軍」「日本軍の攻撃で炎上するアメリカの軍艦」→マレー半島進軍を並列に取り扱っている唯一の教科書

都市空襲「1944年にサイパン島が、翌年硫黄島がうばわれると、日本の多くの都市や軍事施設は空襲にさらされた」「1945年3月になると、、東京をはじめ、重要都市への大規模な空襲がはじまり・・・」

絵「東京大空襲」(脚注:1945年3月10日、アメリカ軍の爆撃機が、東京を空襲した。約8万人がなくなり、26万前後の家屋が焼失した」~「沖縄・広島・長崎」という章立ての中で、東京大空襲も敗戦に至る過程として紹介している。

沖縄戦「・・・沖縄では、アメリカ軍とのはげしい地上戦が3ヶ月にわたってつづいた。この戦闘には、多くの中学生や女学生も加わり、敗退する中で集団自決した住民もいた。激戦の末、沖縄は占領され、日本の敗戦は決定的となった」

写真「アメリカ軍の沖縄上陸」(脚注:沖縄戦での死者は20万人を数え、日本軍兵士9万人のほか、沖縄の一般住民9万人あまりが犠牲になったといわれる」

広島・長崎

「アメリカは、孤立しても戦いつづける日本に対して、8月6日に広島、ついで9日には長崎に、原子爆弾を投下した。アメリカが原子爆弾を用いたのは、戦後の世界で、ソ連に対して優位に立とうとするねらいがあったからだともいわれている」

関連写真「被爆直後の広島市(左-原爆ドーム)と長崎市(右-浦上天主堂)」(脚注:原子爆弾によって、広島では約14万人、長崎では約7万人の人命が失われたといわれ、放射能をあびて、いまなお苦しんでいる人が多い」、コラム「見て・感じて・つかむ歴史:平和の尊さ」の中で「原爆の図」(丸木夫妻)を紹介。

その他「植民地の台湾や朝鮮では、兵士の募集がはじまった。宮城や神社に向かっておがまされ、また、固有の姓名を日本式に変えさせられた(創氏改名)。植民地の人々は、戦争下にあって、「天皇の民」にふさわしい、皇国の臣民となるように同化

関連写真「台湾での徴兵検査のようす」「朝鮮神宮」

「コラム:女性と子どもの歴史」:少国民の生活:陸海軍は、不足する戦力を補うため、少年飛行兵制度をつくり、全国の中学校へ人数を割り当て、少年兵志願者をつのりました。大量に速成された「若鷲」は、出撃すれば二度ともどることができない神風特別攻撃隊などに参加し、多くが戦死しました。

「日本の戦争とアジアの人々」:「日本は、この戦争を、欧米の植民地からアジアの民族を解放するための戦争と位置付け、大東亜戦争とよんだ。しかし、植民地の独立を認めず、占領下の住民を労務者として徴発した。朝鮮から約70万、中国から約4万の人々が労働力不足をおぎなうために日本に連れてこられ、炭鉱などで過酷な労働に従事させられた。東南アジアの占領地では、日本軍が、食料や資源など戦争に必要な物資を取り立て、住民にきびしい労働を強制した。」

写真「シンガポールで日本軍に虐殺された中国系住民の慰霊碑」

「この日は、日本の植民地であった台湾や朝鮮、日本に占領された中国などの人々にとって、民族解放の日となった。いっぽう、満州などにいた日本人は、飢えになやまされながら、日本に帰るべく、苦しい日々を強いられた。日本の降伏によって、第2次世界大戦は終結し、満州事変から15年に及んだ日本と中国との戦

写真「独立を祝う朝鮮の人々」、統計「第2次世界大戦の被害」(連合国・枢軸国別の兵力・死傷者・戦費の比較)

コラム「見て・感じて・つかむ歴史:平和の尊さ」→「ゲルニカ」(ピカソ)、「アウシュヴィッツ」、「エルベの誓い」、「農夫のなげき」、「鋤鍬捨てて」、「原爆の図」等の絵や写真を紹介

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【資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述】

扶桑社 改訂版新しい歴史教科書中学社会 占有率:0.4%記述 ポイント

韓国併合

「日本韓国に統監府を置いて支配を強めていった。欧米列強は・・・自国の植民地や勢力圏の支配を日本が認めることなどと引きかえに、日本が韓国を影響下におさめることに異議をとなえなかった。日本政府は、日本の安全と満州の権益を防衛するために、韓国の併合が必要であると考えた。1910年、日本は武力を背景に韓国内の反対をおさえて、併合を断行した。・・・植民地政策の一環として、鉄道・灌漑の使節を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。」

写真「朝鮮総督府の建物」、「韓国服の伊藤博文」、「人物コラム:八田輿一」で、台湾総督府において台湾の灌漑施設工事に挑み、台湾の人々に感謝された人物を紹介し、植民地下で日本が貢献したこともあったことを併せて紹介している。

アジアの独立運動「(中国の排日運動について)暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受け、過激な性格を帯びるようになった」

資料「中国の情勢についての米外交官マクマリーの見解」の中で、中国人の暴力性についての他国の批判を紹介している。

満州事変

「1931年9月、関東軍は奉天(現在の藩陽)郊外の柳条湖で、満鉄の線路を爆破し、これを中国側のしわざだとして、満鉄沿線都市を占領した」「その後、日本と中国とのあいだで停戦協定が結ばれ、満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのもと、日本の重工業の進出などにより経済成長をとげ、中国人などの著しい人口流入もあった」

写真「南満州鉄道」、地図「満州事変満州国の建国」、写真「リットン調査団」

日中戦争「1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおきた。これをきっかけに、翌日には中国軍と戦闘状態になった。・・・こうして、以後8年間にわたる日中戦争が始まった」

宣戦布告がなく、なし崩し的に始まったことについては触れていない。関連写真:「盧溝橋」「市街戦で破壊される上海市内」

南京虐殺

「日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏するだろうと考え、12月、南京を占領した」脚注「このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。なお、この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」

「軍民」という曖昧な記述。データの信憑性にも疑問を呈示。

真珠湾

「1941年12月8日、日本海軍はアメリカのハワイにある真珠湾基地を空襲し、アメリカ太平洋艦隊に全滅に近い打撃をあたえた」、「アメリカ政府は、日本の交渉打ち切りの通告が真珠湾攻撃よりも遅れたのは、卑劣な「だまし討ち」であると自国民に宣伝した。日本の真珠湾攻撃は軍事的には成功したが、今まで戦争に反対していたアメリカ国民を「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、対日戦争に団結させる結果をもたらした」

関連写真:「ハワイの真珠欄攻撃」~「奇襲」でなく「空襲」と記述している唯一の教科書。「だまし討ち」は米国のプロパガンダだとして紹介している。

都市空襲

「1944年7発、日本の委任統治領だったマリアナ諸島の一つのサイパン島が陥落し、制空権をにぎった米軍は、同年末から爆撃機B29による日本本土への空襲を開始した。・・・1945年3月10日には、東京大空襲が行われ、一夜にして約10万人の市民が命を失った」

写真「東京大空襲の惨状」(脚注:米軍は、東西5km、南北6kmの区域内に焼夷弾を落とし、火の壁で人々の退路を断って爆撃した。

沖縄戦「4月、米軍は沖縄に上陸し、日本軍の死者約9万4千人、一般住民の死者も約9万4千人を出す戦闘の末、2ヵ月半のちに沖縄を占領した」

関連資料なし。沖縄に関する記述が少ない。

広島・長崎

「日本政府は、対日参戦をひそかに決めていたソ連に、そうとは知らずに連合国との講和の仲介を求めた。ポツダム宣言が発表されると、鈴木貫太郎首相や主要な閣僚は、条件付きの降伏要求であることに着目し、これを受諾する方向に傾いた。しかし、陸軍は反対し、本土決戦を主張してゆずらなかった。政府はしばらくソ連の仲介の返答を待つことにした。そのあいだに、8月6日、アメリカは世界最初の原子爆弾を広島に投下した。…8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、翌日、満州に侵攻してきた。また同日、アメリカは長崎にも原爆を投下した。」

関連写真「広島に投下された原子爆弾(きのこ雲)」、資料「日本を壊滅から救ったアメリカの外交官」ではポツダム宣言の作成にあたって親日派のグルー国務次官が果たした役割について紹介してある。~原爆をソ連の侵攻とからめて記述してあるのが特徴

その他

「この戦争は、戦場となったアジア諸地域の人々に大きな損害と苦しみを与えた。とくに中国の兵士や民衆には、日本軍の侵攻により多数の犠牲者が出た・・・日本の南方進出は、もともと資源の獲得を目的としたものだったが、アジア諸国で始まっていた独立の動きを早める一つのきっかけともなった」

関連写真「日本の占領統治(フィリピンでの日本語学習の様子」、コラム「アジアの人々を奮い立たせた日本の行動」、「日本を解放軍としてむかえたインドネシアの人々」の中で、欧米列強の支配に苦しむアジアの人々が日本の進軍を喜んだ側面もあったことを紹介。

写真資料「出撃する特攻隊」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

1966年検定/1968年発行記述 関連資料・備考

韓国併合

「ポーツマス条約によって、日本の韓国に対する指導的な立場がみとめられたので、日露戦争ののち、日本は韓国を保護国として、外交と内政を監督することにした。これに対して、韓国人の間にはげしい反対運動がおこったが、日本は1910年、ついに韓国を併合した。」

写真「伊藤博文と韓国皇太子」(脚注:初代の韓国統監になった伊藤は、韓国の一青年にハルビン駅頭で暗殺された。翌年、日本は韓国を併合した」

アジアの独立運動

写真「五・四運動」(脚注:講和会議で、山東半島のドイツの権益を日本にわたすことがきまると、1915年5月4日、北京の学生を中心にして、これに反対する民族運動がおこり、民衆に支持されて各地に広がった」

中国の5・4運動とインドでの非暴力運動を並列に扱っている。パリ講和会議と民族自決主義との関連のみで、日本に対して、という記述はない。また、朝鮮の3・1独立運動についての記述もない。

満州事変「こうしたなかで、日本の陸軍は、1931年鉄道爆破事件をきっかけにして、奉天(藩陽)の近くで国民政府軍と戦いを始めた。政府は事件の大きくなるのをおさえようとしたが、軍部は政府の方針を無視して満州を占領した。」

日本軍の陰謀については記述なし。関連写真「出征する日本軍と当時の新聞記事(満州は日本の生命線)」

日中戦争

「こうして、華北ではげしく対抗するようになった日中両軍は、1937年7月、北京郊外で衝突した。これをきっかけにして日本軍は急速に戦線を広げた。政府は不拡大の方針をとなえたが、戦いはたちまち華北一帯にひろがり、戦火はやがて上海にもおよんだ。これを日華事変とよんでいある。」

「日華事変」という呼称を使用。盧溝橋事件については記述無し。地図:日華事変

南京虐殺「日本軍は半年の間に華北を占領し、さらに南京をおとしいれた」 記述はなし

真珠湾「これまでの例をやぶって現役の軍人東条英機が首相となり、軍人内閣を組織した。この内閣のもとでひそかに開戦が決定され、12月8日、合衆国の海軍基地ハワイの真珠湾に奇襲がおこなわれ、合衆国・イギリス・オランダに対する宣戦が布告された 」

関連写真:「開戦」(炎上する軍艦と新聞記事)(脚注:12月8日朝、日本軍はハワイの軍港に停泊中の合衆国艦隊を奇襲した)

都市空襲「【太平洋戦争のなりゆき】合衆国軍は、サイパン島を基地にして日本本土の空襲をはじめ・・・」「東京や大阪をはじめ、おもな都市に対する空襲がはげしくなった。」

写真「焼け野が原の東京(脚注:サイパン島が占領されると、本土空襲がはげしくなった。多くの都市は爆撃にうちひしがれ、美しかった国土は荒廃した」

沖縄戦「合衆国軍は、サイパン島を基地にして日本本土の空襲をはじめ、翌年、ついに沖縄が戦場となった」

関連資料なし

広島・長崎

「日本はこれ(ポツダム宣言)をうけるかどうかためらっていたが、合衆国は8月6日、原子爆弾を広島に投下した。ソ連も8日、日本に宣戦を布告して、満州に侵入した。ついで9日には、長崎にも原子爆弾がおとされた。

関連写真「焼土と化した広島」(ドームの写真と新聞記事)脚注:「この建物の真上におとされた一発の原子爆弾で、当時の広島の人口約40万人のうち、約2分の1の人命は一瞬の内にうばわれた。戦後後遺症による被害は今日もなおつづいている。」~統計数字が現在のものより多い(年内に死んだ人が14万人、5年後までで20万人というのが現在の統計)

戦後(核関連)

「広島と長崎に投下された原子爆弾は、その威力があまりにも大きかったので、原子爆弾の使用はもちろん、その製造を禁止することは世界の人々の心からの願いであった。しかし、・・・原子爆弾よりもはるかに強力な水素爆弾が完成した。・・・いっぽうでは、原水爆の製造と実験の禁止を要求する運動は全世界にひろまり、1959年には、国際連合でも全面完全軍縮を決議した、また、…1963年部分的核実験停止条約を結んだ。」

写真「原水爆禁止世界大会」(脚注:原水爆禁止の訴えは世界にひろがった。写真は、1955年広島で開かれた第一回大会)、脚注「1945年3月、合衆国が南太平洋でおこなった水爆実験で、日本の漁船が「死の灰」をかぶったことは、水爆のおそろしさを世界の人々にじっさいに知らせた。

むすび

「永久の平和をうちたてることは、じっさいにはむずかしいことである。しかし、日本は世界最初の原爆被災国であることも考えて、しんぼう強く平和の達成につとめなければならない。それには、まずおたがいの人権を重んじ、相手の立場を尊重する民主主義をいっそう発達させ、心から平和を愛する国に育てあげることがたいせつである」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

1968年検定/1969年発行 改訂 新しい社会2記述 関連資料・備考

韓国併合「ポーツマス条約によって、韓国に対する日本の優越的な立場が認められたので日露戦争ののち、日本は韓国の外交と内政とを監督することにした.その後、1910年、韓国の間におこったはげしい反対をおしきって、日本は韓国を併合した。」

写真伊藤博文と韓国皇太子伊藤博文」~前回版とほとんど変化なし

満州事変「こうしたなかで、満州にいた日本軍(関東軍)は、1931年、奉天(藩陽)の郊外で鉄道爆破事件をおこし、これをきっかけにして中国の軍隊と戦いを始めた。陸軍は政府の方針を無視して戦線を広げ、満州を占領した。これを満州事変という。」

写真「満州事変を報じる新聞」

日中戦争「こうしたなかで、華北で対立していた日中両軍は、ついに1937年7月、北京郊外で衝突した。政府は、はじめは不拡大の方針を唱えたが、戦線はたちまち華北一帯に広げられ、戦火はやがて上海にもおよんだ。これを日華事変という。」

66年版からほとんど変更なし

南京虐殺 「日本軍は半年の間に華北を占領し、さらに南京をおとしいれた」 66年版からほとんど変更なし

真珠湾

「外交交渉が進まないまま、1941年12月8日、日本海軍の航空隊が合衆国の海軍基地であるハワイの真珠湾を奇襲して、ここに太平洋戦争が始まった。」

関連写真:「開戦」(炎上する軍艦と新聞記事)(脚注:12月8日朝、日本軍はハワイの軍港に停泊中の合衆国艦隊を攻撃した)、「脚注:日本は、合衆国・イギリス・オランダに宣戦し、この戦争を、日華事変をも含めて、大東亜戦争と名付けた」~「太平洋戦争」について明確に記述。

都市空襲1944年。サイパン島を占領した合衆国軍は、ここを基地にして日本本土の空襲を始め、翌年には、東京・大阪をはじめ、おもな都市が焼け野が原となった。」

写真「焼け野が原の東京(脚注:サイパン島が占領されると、本土空襲がはげしくなった。多くの都市は爆撃にうちひしがれ、美しかった国土は荒廃した」

沖縄戦「太平洋戦線では、マッカーサーの率いる合衆国軍が、フィリピンからさらに北上して、ついに沖縄が戦場となり、本土への空襲も強まった。」

関連資料なし

広島・長崎

「日本政府が、ポツダム宣言を受け入れるか戦争をつづけるか、きめかねているうちに、合衆国は、8月6日、世界最初の原子爆弾を広島に投下した。ソ連も日ソ中立条約を無視して、8日、日本に宣戦し、満州に攻め込んできた。合衆国は、9日、長崎にも原子爆弾を投下した。

関連写真「焼土と化した広島」(ドームの写真と新聞記事)脚注:「この建物の真上におとされた一発の原子爆弾で、当時の広島の人口約40万人のうち、約2分の1の人命は一瞬の内にうばわれた。戦後後遺症による被害は今日もなおつづいている。」~66年版と殆ど変化無し。

戦後(核関連)

「広島と長崎に投下された原子爆弾は、おそろしい被害をもたらしたので、これを知った世界の人々は、その使用はもちろん、その製造も禁止することを心から願った。しかし、・・・1949年には、ソ連も原子爆弾をもっていることが明らかにされた。そして、1952年に合衆国が水素爆弾の実験に成功すると、ソ連も翌年に水爆の保有を発表した。…世界には、そののちも、人々を不安におとしいれる事件(脚注:ハンガリー動乱、スエズ侵攻、キューバ危機)がたびたびおこった。」

写真「「原爆の子」の像」(脚注:これには、「これはぼくらのさけびです。これはわたしたちの祈りです。世界平和を築くための」ときざまれている。原爆ドームが左後方にみえる。)、写真「部分的核実験禁止条約の調印式」

むすび

「永久の平和をうちたてることは、今日ではむずかしいことのようにみえる。しかし、日本は世界最初の原爆被災国であるから、日本人は、平和がいかにたいせつであるかを痛切に感じている。わたしたちは、おたがいの人権を重んじ、相手の立場を尊重する民主主義をいっそう発達させ、心から平和を愛する国に日本を育てあげよう。それとともに、世界のすべての国々との間に理解を深め、人類全体の幸福をめざして努力していこう」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

1978年検定/1979年発行 新しい社会 歴史的分野記述 関連資料・備考

見返し資料「原子爆弾の惨禍」:原子爆弾の恐ろしさ、被害者の痛ましさを世界の人々伝え、再びこうした惨禍がおきぬよう祈りつつ描かれた、「原爆の図」(丸木位里、俊 画 埼玉県 丸木美術館蔵)

韓国併合

「ポーツマス条約によって、韓国に対する日本の優越的な立場が認められると、日本は韓国の外交権を管理し、統監府を置いて内政・警察を支配した。これに対して、朝鮮全土ではげしい抵抗運動がおこったが、日本は軍隊を出してこれを鎮圧した。さらに、1910年、韓国を日本に併合する条約に調印させ、朝鮮を植民地とした」「日本は朝鮮を植民地にすると、土地調査を行い、そのため多くの朝鮮人が土地に対する権利を失った。・・・朝鮮人の民族としての自覚をなくして、日本に同化させようとした。そのいっぽう、日本人の間には朝鮮人をさげすむ意識が強められていった」

写真「韓国皇太子と伊藤博文」(脚注:韓国皇太子に日本の服装をさせている。伊藤は統監府が置かれると、初代の統監になった)~同じ写真ながら、脚注が全く変化。写真「朝鮮の児童への同化教育」~初登場。→韓国併合に関する記述が全面的に詳しくなっている。負の部分について記述。

アジアの独立運動

「朝鮮では、1919年3月1日、京城(ソウル)で「独立万歳」をさけぶ示威運動がおこった(三・一運動)。この運動は、日本の植民地支配に苦しめられていた民衆の共感をよんで、各地に広がったが、日本の軍隊と警察とによって、鎮圧された」

関連地図「三・一運動」~中国の五・四運動についての記述もある。

満州事変

「1931年9月18日、満州にいた日本軍は、奉天(藩陽)の郊外で鉄道爆破事件をおこし、これをきっかけにして中国の軍隊と戦いを始めた。政府は初め戦いを拡大しない方針を示したが、陸軍はこれを無視して戦線を広げ、満州を占領した。これを満州事変という。」

写真「満州事変を報じる新聞」

日中戦争

「華北で対立していた日中両軍は、ついに1937年7月、北京郊外で衝突した。政府は、はじめは不拡大の方針を唱えたが、戦線はたちまち華北一帯に広げられ、戦火はやがて上海にもおよんだ。こうして日中戦争が始まった。」

地図「日中戦争」、日華事変→日中戦争に呼称が変更。

南京虐殺

「日本軍は半年の間に華北を占領し、さらに南京を攻めとって、各地で多くの中国民衆の生命を奪い、その生活に大きな損害をあたえた。」「脚注:南京に入城した日本軍は、その直後に、婦女子、子ども、武器を捨てた兵士や平服の兵士をふくむおびただしい数の中国人を殺傷した。この事件は、南京虐殺として諸外国から非難をあびたが、日本の一般国民は、その事実を知らされなかった。」

南京虐殺についての記述が急激に変化

アジア民衆の弾圧「さらに多数の朝鮮人や、中国人までも強制的に連れてきて、ひどい条件のもとで炭鉱などの重労働に従事させた」

真珠湾

「日米交渉が進まないまま、1941年12月8日、日本海軍の航空部隊が、ハワイの真珠湾にあるアメリカ軍の基地を奇襲して、ここに太平洋戦争が始まった。」「脚注:日本は、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦し、この戦争を、日中戦争をも含めて、大東亜戦争と名付けた」

関連写真:「開戦」(炎上する軍艦の遠景)(脚注:日本軍はアメリカの太平洋艦隊を奇襲して大打撃をあたえた。「真珠湾を忘れるな」というのがアメリカ国民の合言葉となったといわれる。)

都市空襲

1944年になると、アメリカ軍は、サイパン島を占領し、ここから日本本土の空襲を始め、翌年には、東京・大阪をはじめ、おもな都市が焼け野が原となった。」

写真「焼け野が原の東京」(脚注:東京だけで約90万戸の家が焼かれ、被災者は310万に達した。とくに、1945年3月10日の東京空襲では、約10万の人々が生命を失い、100万の人々が家を失ったといわれる)

沖縄戦

「太平洋戦線では、アメリカ軍が、フィリピンを取りもどし、さらに北上して、1945年にはついに沖縄が戦場となった。戦場となった沖縄では、およそ9万もの兵士と、15万もの一般民衆が死んだ。」

コラム「戦争と国民生活」の中で、「沖縄県史、沖縄戦記録1」から資料を紹介。「沖縄の戦いでは、中学校や高等女学校などの生徒たち約2000名が、男子は兵士として、女子は看護婦として、戦いに参加し、その約半数が死亡した」と記述。

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

広島・長崎

「アメリカは、8月6日、世界最初の原子爆弾を広島に投下した。ソ連も8日、ヤルタ協定に基づき、日ソ中立条約を無視して日本に宣戦し、満州に攻め込んできた。アメリカは9日、長崎にも原子爆弾を投下した。」「原子爆弾によって、広島では約20万以上、長崎では約10万以上の人の生命が奪われた。高熱を爆風によるぎせい者だけでなく、放射能を浴びた人々の多くは数週間以内に死亡した。さらに、その後20年以上にわたり新たに発病・死亡する人々が続いている。こうした原爆後遺症による被害は、核兵器の恐ろしさをいまも人々に示している」

関連写真「一瞬にして廃虚となった広島」(ドームの写真)、資料「爆心からの距離による広島の被害状況」

戦後(核関連)

「1949年、ソ連が原子爆弾を所有し、アメリカの核兵器独占が破れると、さらに強力な水素爆弾をめぐって米ソの核実験競争が行われ、核兵器が大量に生産されるようになった。・・・1950年、世界の各地からストックホルムに集まった各国の代表者は、核兵器の製造・使用禁止を世界の人々に強く訴え、冷戦下の平和運動に大きな役割を果たした。このようななかで、1954年、太平洋上で行われたアメリカの核実験によって、日本の漁船が「死の灰」を浴び、乗組員が死亡する事件が起きた。これをきっかけにして、世界で原爆の被害を受けたただ一つの国である日本国民の間に、原水爆禁止運動がもりあがった。そして、日本の訴えが世界の各国にも影響をあたえた。

写真「「原爆の子」の像」、「水爆実験とその影響」(脚注:アメリカの核実験によって、放射能に汚染された魚がとれ、人々の不安が高まった。右は、これに対し、核実験水域でとれたものではないことを強調する魚の小売店)、キューバミサイル危機やそれに続く部分的核実験禁止条約、核兵器拡散防止条約についても説明

戦後(補償関連)「日本は、過去に、戦争を通じて中国国民に重大な損害をあたえたことを深く反省し、・・・」

むすび

「永久の平和をうちたてることは、きわめてむずかしいことである。しかし、世界で原爆の被害を受けたただ一つの国である日本の国民は、平和がいかにたいせつであるかを痛切に感じている。わたしたちは、過去の歴史に学んで、未来の平和な日本、そして世界をつくりあげるために、互いの人権を重んじ、相手の立場を尊重する民主主義をいっそう発達させよう。」

1981年検定/1982年発行 新しい社会 歴史的分野→1978年検定版から下記を除いてほとんど変更なし

記述 ポイント

沖縄戦

「この戦争は、ことばでは言い表せないほど、悲惨なぎせい者が出た。軍人ばかりでなく、中学校、女学校の生徒もいっぱんの人々とともに戦った。鉄血勤皇隊、ひめゆり隊などがそれである、そして多くの人々が戦死したり、みずから命を絶ったりした。」

「自由研究のページ」で沖縄戦について、戦後の復帰運動や基地問題とも関連づけて詳しい記述がなされている。写真「ひめゆりの塔」「各県の慰霊塔」

戦後(核関連)

記述は前回版とほぼ同じ 資料「ストックホルム世界平和大会のポスター」、写真「水爆実験」(脚注:太平洋上のビキニ環礁でおこなわれた。このとき、「第五福竜丸」の乗組員が、放射能に汚染された灰を浴びた)

戦後(補償関連)「在日韓国人・朝鮮人に対する偏見や民族差別、さらにはアイヌ系住民に対する社会生活のなかでの差別をなくすことも、早急に解決をせまられている課題である」

むすび

「世界で、原爆の被害を受けたただ一つの国である日本の国民は、平和がいかにたいせつであるかを痛切に感じている。わたしたちは、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」(日本国憲法前文)ことのできる世界をつくりあげるために、過去の歴史に学びながら歩んでいこう」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

1984年検定/1985年発行 改訂 新しい社会 歴史記述 関連資料・備考

見返し資料

「第2次世界大戦の惨禍」:原子爆弾の惨状を世界にうったえるため描かれた原爆の図(丸木位里、俊 画 埼玉県 丸木美術館蔵)、「平和を願う人々の祈り」:広島での被爆33回忌の平和記念式典のようす(1977年)。(広島平和記念公園)

韓国併合

「ポーツマス条約が結ばれると、日本は韓国の外交権を管理し、統監府を置いて内政・警察を支配した。朝鮮ではげしい抵抗運動が全土にわたっておこったが、日本は軍隊を出してこれを鎮圧した。さらに、1910年、韓国を日本に併合する条約に調印させ、朝鮮を植民地とした」「日本は朝鮮を植民地にすると、土地調査事業を始めた。しかし、朝鮮では、それまで土地の所有権が不明確であったので・・・朝鮮人の民族としての自覚をなくして、日本に同化させようとした。そのいっぽう、日本人のあいだには朝鮮人をさげすむ意識が強められていった」

写真「韓国皇太子と伊藤博文」(脚注:韓国皇太子に日本の服装をさせている。伊藤は初代の統監になった)、写真「朝鮮の児童への同化教育」(脚注:韓国併合後、日本は朝鮮人を同化させようとして、天皇を尊ぶことなどを内容とする同化教育をおし進めた)

アジアの独立運動

「朝鮮では、1919年3月1日、京城(ソウル)で、知識人などが日本からの独立を求める独立宣言を発表した。これを契機として、学生たちは「独立万歳」をさけんで運動をおこした。この運動は、日本の植民地支配に苦しめられていた民衆の共感をよんで、各地に広がった。これを三・一運動とよんでいる。運動は日本の軍隊と警察とによって鎮圧されたが・・・」

関連地図「三・一運動のひろがり」、写真「五・四運動の記念碑」~中国の五・四運動についての記述もある。

満州事変

「1931年9月、満州にいた日本軍は、奉天(藩陽)の郊外で鉄道爆破事件をおこし、中国と戦いを始めた。政府は、初め、戦いを拡大しない方針を示したが、陸軍は、戦線を広げて満州を占領した。これを満州事変とよんでいる。」

写真「原野のただ中に立てられた満州国政府の庁舎、現在の中国のチャンチュン(長春)」

日中戦争

「華北で対立していた日中両軍は、ついに1937年7月、北京郊外で衝突した。日本軍は、戦線をたちまち華北一帯に広げ、また、上海でも戦いを始めた。こうして宣戦布告のないままに、日中戦争が始まった。」

写真「戦火に追われて町を逃れるシャンハイの人々」(脚注:日本軍の中国侵略は急速であったが、やがて、家を焼かれ、肉親を失った中国民衆から根づよい反攻をうけることとなった)~宣戦布告なく意図的に日本軍が広げた戦争であったことを明示。

南京虐殺

「日本軍は華北を占領し、さらにナンキンへ侵攻して、各地で多くの中国民衆の生命を奪い、その生活を破壊して大きな損害をあたえた。」「脚注:ナンキンを占領した日本軍は、数週間のあいだに、市街地の内外で多くの中国人を殺害した。その死者の数は、婦女子、子どもをふくむ一般市民だけで7~8万、武器をすてた兵士をふくめると、20万以上ともいわれる。また、中国では、この殺害によるぎせい者を、戦死者をふくめ、30万以上とみている。この事件は、ナンキン大虐殺として、諸外国から非難をあびたが、日本の一般国民は、その事実を知らされなかった。」

死者数の統計値が紹介され、南京虐殺についての記述が更に詳細に。

アジア民衆の弾圧

「日本軍は、占領したシンガポールで、日本軍に抵抗するとみなした6千人以上もの中国系住民の生命を奪ったのをはじめ、フィリピンなどの各地で、軍の方針に反した人々を、厳しく処罰するような強圧的な支配をおこなった。このような占領政策の結果、日本の支配に対する抵抗運動が各地に広がった。」「さらに多数の朝鮮人や、中国人までも強制的に連れてきて、ひどい条件のもどえ炭鉱などの重労働に従事させた」

真珠湾「1941年12月8日、日本は、ハワイの真珠湾にあるアメリカ軍の基地を奇襲して、太平洋戦争が始まった。」「脚注:日本は、アメリカ・イギリスに宣戦し、この戦争を、日中戦争も含めて、大東亜戦争と名付けた」

関連写真:「開戦」~前回版とほぼ同じ

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

都市空襲

1944年になると、アメリカ軍は、日本本土の空襲を始め、爆撃の対象は、軍事施設や工場ばかりでなく、住宅地域にまでおよんだ。翌年には、東京・大阪をはじめ、おもな都市が焼け野が原となった。」「自由研究のページ:資料③日本本土の空襲とその被害の状況、資料④東京大空襲(早乙女勝元)」

写真「焼け野が原の東京」(脚注:東京だけで約90万戸の家が焼失し、被災者は300万をこえた。ひと晩の空襲で10万人もの死者が出たときもあった)、写真「空襲をうけて避難する人々(東京浅草付近)」~空襲の被害資料の中に、広島と長崎は含まれていない。

沖縄戦

「太平洋戦線では、アメリカ軍がフィリピンを取りもどし、さらに北上して、1945年4月にはついに沖縄が戦場となった。沖縄本当の南部は、ほとんど焼きつくされ、およそ9万もの兵士と、15万ともいわれる多くの一般民衆が死んだ。」

写真「米軍の野戦病院で傷の手当てを待つ沖縄の住民」(脚注:沖縄戦では、一般の市民や中学生まで戦闘に協力させられた。避難した住民のあいだでも多数のぎせい者がでて、一村ほとんどが全滅した村もあった) 「自由研究のページ:戦中・戦後の沖縄」では戦後の復帰や基地問題とからめて、沖縄戦についての詳しい記述が行われている。資料①「ひめゆりの塔」と戦争直後の沖縄の人口、資料②戦場となった沖縄の人々(沖縄県史 沖縄戦記録1より)

広島・長崎

「アメリカは、戦後予想されるソ連との対立で優位に立つことなどを考え、8月6日、世界最初の原子爆弾を広島に投下した。ソ連も8日、ヤルタ協定に基づき、日ソ中立条約を無視して日本に宣戦し、満州に攻め込んできた。アメリカは9日、長崎にも原子爆弾を投下した。」「原子爆弾による被害があまりにも大きかったため、その正確な死傷者の数は分かっていないが、投下から数年以内に、広島では約20万以上、長崎では約14万以上の人の生命が奪われたと推定されている。高熱を爆風によるぎせい者だけでなく、放射能を浴びた人々の多くは数週間以内に死亡した。さらに、現在なお新たに発病したり死亡したりする人々が続いている。こうした原爆後遺症による被害は、核兵器の恐ろしさをいまも人々に示している」

関連写真「一瞬にして廃虚となった広島」(ドームの写真)、資料「爆心からの距離による広島の被害状況」~アルペロヴィッツの原爆外交説が初登場。統計値の不正確さについても記述され、長崎の死者数が大きく変わっている。

戦後(核関連)

「1949年、ソ連が原子爆弾を所有し、アメリカの核兵器独占が破れると、さらに強力な水素爆弾をめぐって米ソの核実験競争が行われ、核兵器が大量に生産されるようになった。・・・1950年、世界の各地からストックホルムに集まった各国の代表者は、核兵器の製造・使用禁止を世界の人々に強く訴え、冷戦下の平和運動に大きな役割を果たした。このようななかで、1954年、太平洋上で行われたアメリカの核実験によって、日本の漁船が「死の灰」を浴び、乗組員が死亡する事件が起きた。これをきっかけにして、世界で原爆の被害を受けたただ一つの国である日本国民の間に、原水爆禁止運動がもりあがった。そして、日本の訴えが世界の各国にも影響をあたえた。

1978年版から変更なし。

戦後(補償関連)「日本は、過去に、戦争を通じて中国国民に重大な損害をあたえたことを深く反省し、・・・」

1978年版から変更なし。

むすび

「世界で、原爆の被害を受けたただ一つの国である日本の国民は、平和がいかにたいせつであるかを痛切に感じている。わたしたちは、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」(日本国憲法前文)ことのできる世界をつくりあげるために、過去の歴史に学びながら歩んでいこう」

1981年版から変更なし。

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

1986年検定/1987年発行 改訂 新しい社会 歴史記述 関連資料・備考

見返し資料

「昭和時代 第2次世界大戦の惨禍」:原子爆弾の惨状を世界にうったえるため描かれた原爆の図(丸木位里、俊 画 埼玉県 丸木美術館蔵)、「昭和時代 平和を祈って」:原爆のぎせいとなった人々の霊をなぐさめる灯ろう流し。

広島の写真が変更

韓国併合

「日本は朝鮮を植民地にすると、土地調査事業を始めた。この調査で、朝鮮の多くの農民が、所有権が明確でないとされて土地を失った。」

写真「朝鮮の児童への同化教育」(脚注:韓国併合後、日本は朝鮮人を同化させようとして、天皇を尊ぶことなどを内容とする同化教育をおし進めた。)~伊藤博文の写真がなくなる。記述は前回版から微変更程度。

アジアの独立運動前回版から変更なし 関連地図と写真「三・一運動のひろがり」、写真「五・四運動の記念碑」~三・一運動

の写真が付加される。

満州事変前回版から変更なし 写真「満州事変を支持する日本の新聞」、「鉄道の建設」、「原野のただ中に立てられ

た満州国政府の庁舎、現在の中国のチャンチュン(長春)」

日中戦争

前回版から変更なし 地図「日中戦争の広がり」(脚注:中国はおもな工業都市とほとんどすべての鉄道を日本に占領された)、写真「中国民衆の抵抗」(脚注:日本軍の占領地域が広がっても、戦線の後方に抗日遊撃隊の根拠地がつくられ、日本軍を攻撃した。民衆はゲリラ活動や、建物に抗日スローガンを書くなど、さまざまな方法で、日本の侵略に抵抗した)

南京虐殺

「日本軍は華北へ侵攻し、ついで首都のナンキン(南京)を占領した。」「このとき、日本軍は、婦女子や子どもをふくむ、おびただしい数の中国人を殺害し、ナンキン大虐殺として諸外国から非難を浴びた。しかし、日本のいっぱんの国民は、その事実を知らされなかった。」「脚注:その死者の数は、数週間の間に、市街地の内外で、婦女子・子どもをふくむいっぱん市民で7-8万、武器をすてた兵士をふくめると、20万にもおよぶといわれる」

アジア民衆の弾圧前回版から変更なし

真珠湾

前回版から変更なし 関連写真:「日本軍の奇襲と宣戦の布告」(脚注:日本は、真珠湾を攻撃する直前に宣戦の通告をする予定であったが、アメリカへの伝達がおくれ、通告は攻撃のあととなった。このためアメリカでは、日本の攻撃をひきょうな不意打ちであると非難し、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」が合言葉となった。)→“奇襲”の経過について、詳細に記述

都市空襲前回版から微変更 写真「焼け野が原の東京」の脚注で、東京大空襲の死者数が10万→8万に減少。

沖縄戦

「太平洋戦線では、アメリカ軍がフィリピンを取りもどし、さらに北上して、1945年3月にはついに沖縄が戦場となった。沖縄本当の南部は、ほとんど焼きつくされた。この戦争での沖縄県民のぎせい者は、県出身の兵士もふくめて、当時の沖縄県の人口の4分の1に当たる15万人に達すると推定されている。」「沖縄戦では、いっぱんの住民や、中等学校の男女生徒までもが、弾薬の運ぱん、負傷者の手当teなどに協力した。それにもかかわらず、住民のなかで、日本軍によってスパイの疑いをかけられて殺害される人々があったなど、悲惨な事態が各地に起こった」

写真「破壊された沖縄」(脚注:アメリカ軍の攻撃により沖縄有数の都市那覇も廃虚となった)、写真「戦場となった沖縄」(脚注:アメリカ軍の上陸を、肩を寄せ合い、不安な表情で見ている)~沖縄に関する本文中の記述が非常に詳細になった。 「テーマ学習のページ:切りはなされた沖縄」で、戦後の沖縄の歩みと沖縄戦をからめて紹介

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

広島・長崎前回版からほとんど変更なし。 前回版から変更なし

戦後(核関連)

前回版から微変更 コラム「核兵器廃絶の願い」の中で、国連軍縮総会における被爆者代表のスピーチ(no more Hiroshima, no more Nagasaki, no more War, no more Hibakusya)と、「水爆実験によるぶきみなきのこ雲」の写真を紹介。(写真脚注:核兵器の被害を受けただ一つの国として、核兵器廃絶へ向けて日本の果たす役割は大きい), 「学習をふりかえって」の年表コラムの写真として「原爆の子の像」を使用。

1990年検定/1991年発行 改訂 新しい社会 歴史記述 関連資料・備考

戦後(核関連)

「1949年、ソ連が原子爆弾を所有し、アメリカの核兵器独占が破れてのち、米ソは核実験を繰り返し、はげしい核兵器の生産競争が始まった。これに対して、1950年、世界の各地からストックホルムに集まった知識人たちは、核兵器の製造・使用禁止を世界の人々に強くうったえた。また1957年には、日本、アメリカ、イギリス、ソ連など各国の科学者たちがカナダのパグウォッシュで会議を開き、核兵器の脅威を世界の人々に警告した。日本では、1954年に、太平洋上で行われたアメリカの核実験によって、漁船(第五福竜丸)が「死の灰」を浴び、乗組員が死亡する事件が起きた。これをきっかけにして、日本国民の間に起こった原水爆禁止運動は、世界各国に広がった。日本は世界で唯一の被爆国として、核兵器を「もたず、つくらず、もちこませず」という非核三原則を政府の方針と定め、1972年に返還された沖縄にもこれを適用した。」「1962年、キューバにソ連が・…核戦争の危機が生じた、この危機を経験した米ソは、対立を緩和していった。しかし、米ソの軍備拡張はその後も続き、両国の持つ核兵器の破壊力は急増して、核戦争が起こると、どちらか一方が勝つというのではなく、全人類が破滅すると考えられるようになった。・・・1980年代前半には、世界各地で核軍縮を求める新たな動きが高まった。…1987年、米ソは首脳会談で、中距離核戦力全廃条約を結び、さらに軍縮の努力を続けていくことで合意した。」「1986年、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で大きな事故が発生し、放射線被害が国をこえて広がったことは、原子力利用のありかたに大きな反省を促した。」

写真「水爆実験」、年表「核兵器の時代と軍縮」、写真資料「国連軍縮総会でうったえる被爆者の代表」、写真「広がる軍備縮小、核兵器反対の声」~パグウォッシュ会議、非核3原則、80年代前半の反核運動、原発事故などの史実を反映。

むすび

「一国だけの繁栄をめざすのではなく、諸外国や諸民族との共存をはかること、また、地球の資源には限りがあることをわきまえて、節度ある生産と消費に努めることなどが、国際社会のなかで日本に期待されている。それとともに、文化などの面でも、諸外国との交流をさかんにし、おたがいの理解を深めることが、今後の日本にとっての大きな課題である。」

内容が大きく変化。

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

1996年検定/1997年発行 新編 新しい社会 歴史記述 関連資料・備考

見返し資料

「原爆の図」:核兵器の悲惨さを世界にうったえるためえがかれた(丸木位里、俊 画埼玉県 丸木美術館蔵)、「ひめゆりの塔」:第2次世界大戦で戦場となった沖縄では、一般の住民や男女生徒までが動員された。犠牲となった女子生徒や先生の死をいたみ、ひめゆりの塔が建てられた

沖縄関連資料が見返しに初登場。

章冒頭資料「平和の像」:平和を祈って被爆地長崎につくられた。核兵器の廃絶は、人類共通の悲願であり、課題である。

韓国併合

「日露戦争後、日本による韓国の植民地化が本格化した。1905年、韓国は外交権をうばわれて日本の保護国とされ、伊藤博文が韓国統監となった。日本はさらに、1907年には皇帝を退位させて内政をにぎり、軍隊を解散させた。日本の侵略に対して、韓国では民族的抵抗運動が広がった。・・・1910年、韓国は日本に併合され、朝鮮総督府によって武力を背景とした植民地支配がおし進められた。学校では朝鮮史を教えることが禁じられ、日本史や日本語を教えて、民族の誇りと自覚をうばい、日本人に同化させる教育が行われた・・・土地を失った農民は、小作人になったり、日本や満州へ移住することを余儀なくされたうえ、さまざまな社会的、経済的差別を受けた。日本の植民地支配は、その後36年間にわたって続いた。」

写真「日本語で授業を受ける朝鮮の子どもたち」、写真資料「義兵戦争」(日本の侵略に対し、朝鮮の人々は武器を取って戦いました。そのなかで、伊藤博文が朝鮮の青年安重根に射殺されるという事件もおこりました」

アジアの独立運動

「日本の植民地支配のもとに置かれていた朝鮮では、1919年3月1日、ソウルで独立をめざす知識人や学生らが日本からの独立を宣言する文章を発表し、人々は「独立万歳」をさけんでデモ行進を行った。これに刺激された独立運動は、またたくまに朝鮮全土に広がった。これを三・一独立運動という」「1919年5月4日の北京での学生集会をきっかけに、中国国内で学生や労働者を中心とした反日運動がおこり、さらに帝国主義に反対する国民運動へと発展した。これを五・四運動と呼んでいる。」

関連地図「三・一独立運動のひろがり」、写真「朝鮮のジャンヌ・ダルク」(脚注:左の写真は、韓国にある柳寛順という16歳の少女の銅像です。彼女は、朝鮮独立を求める三・一独立運動への参加を人々によびかけたため、日本軍にとらえられました。きびしい拷問を受けても「独立万歳」をさけび続け、ついに命をうばわれましたが、そのきぜんとした態度は、今も人々に語りつがれています。 写真「五・四運動」~五・四運動が反日運動であったことを明言。朝鮮の独立運動についても格段に詳しい記述になっている。

満州事変

「中国での権益を確保するため、満州を中国から分離することを主張していた現地の軍部(関東軍)は、1931年9月18日、奉天(現在の藩陽)郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、それを機に軍事行動を開始した(満州事変)」

資料「満蒙開拓青少年義勇軍のポスター」~関東軍の陰謀についての記述が後退。

日中戦争「1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋でおこった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、宣戦の布告が行われないまま日中戦争が始まった。」

写真「中国軍が日本兵によびかけたスローガン」、写真「抗日民族統一戦線の結成」、地図「日中戦争の広がり」

南京虐殺「戦火は華北から華中に拡大し、日本軍は、同年末に首都南京を占領した。その際、婦女子をふくむ約20万ともいわれる中国人を殺害した(南京大虐殺)。」

写真「南京陥落を祝う人々」(脚注:日本軍の勝利がきそうように報じられるなか、日本中がわきかえった)~日本国人が知らされていなかった事実は記述されていない。

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

アジア民衆の弾圧

「朝鮮では、「皇民化」の名のもとに、日本語の使用や姓名を日本式を改めさせる創始改名をおし進めた。さらに志願兵制度を実施し、朝鮮の人々をも戦場に動員した」「日本の占領のもと、東南アジアの多くの国では、戦争に必要な物資や食料が強制的に取り立てられて、生活は苦しくなった。また、日本軍に反対する人々はきびしく弾圧され、多くの人が処刑された。さらに、民族の歌や旗を禁止し、日本語の使用を強制し、皇居に向かって敬礼させたりする「皇民化教育」が行われた。東南アジアの人々は、「大東亜共栄圏」の実態を経験すると、不満と反発を強め、各地で抗日武装闘争が広がった。」「コラム:大東亜共栄圏のまぼろし」、「しかし、もっとも多くの犠牲を出したのは中国であった。戦闘や強制連行などによって多くの人的被害を出したほか、多くの経済的被害を出した。また、国内の労働力不足を補うため、多数の朝鮮人や中国人が、強制的に日本に連れてこられ、工場などで過酷な労働に従事させられた。従軍慰安婦として強制的に戦場に送り出された若い女性も多数いた。」、「コラム:朝鮮人強制連行」

写真「「朝鮮神宮」に参拝させられる朝鮮の学生たち」(脚注:日中戦争以後、「皇民化」を徹底するため、朝鮮の人々に神社への参拝を強制した。一村に一つの神社の設置が強制され、神社数が急増した」、コラム内では「バターン死の行進」、「泰緬鉄道」、「マレー系住民の虐殺」等について紹介している。写真「住民の徴発(泰緬鉄道の幸司)」、「日本軍による犠牲者の記念碑」、「従軍慰安婦」という記述も初登場。「コラム:朝鮮人強制連行」については、朝鮮総督府による「官斡旋」、すなわち公的機関が関与したものであったことに言及している。

真珠湾

「1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲し、同時に東南アジアでもマレー半島に上陸して、太平洋戦争が始まった。」

写真:「日本軍の奇襲」(脚注:日本の宣戦通告は、アメリカへの伝達がおくれたため、アメリカは日本の真珠湾攻撃をひきょうな不意打ちと非難し、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」が合言葉となった。このとき沈没した戦艦アリゾナは、現在も記念館として保存されている)~アリゾナ博物館に言及

都市空襲

「1944年になるとアメリカはサイパン島を占領し、そこを基地として日本本土への空襲を行った。爆撃の対象は、軍事施設や工場ばかりでなく、住宅地にまでおよび、翌年には、東京や大阪をはじめとする日本の主要都市が空襲の対象となり、市街地の多くが焼け野原となった。特に、1945年3月の東京大空襲では、大きな被害を出し、一夜で8万人以上の市民が犠牲となり、100万人が焼け出された」

写真「大阪の街に降りそそぐ焼夷弾」(脚注:アメリカの爆撃機B29が、ときには数百機の編隊で、おもな都市をくり返し爆撃しました。無差別かつ徹底的なことから、じゅうたん爆撃といわれています)~「本土空襲」としてひとつの節に独立して扱われ、記述も詳細に。

沖縄戦

「アジアでは、アメリカ軍が、東南アジア方面から北上して日本にせまり、1945年3月、沖縄が戦場となった。大規模な地上戦が行われた沖縄本島の南部はほとんど焼きつくされた。この戦争での沖縄県民の犠牲者は、県出身の兵士もふくめて、当時の沖縄県の人口のおよそ4分の1に当たる12万人以上にもなると推定されている。沖縄戦では、一般の住民や、中等学校の男女生徒までもが、弾薬の運搬、負傷者の手当てなどに協力した。それにもかかわらず、住民のなかで、スパイの疑いとの理由で日本軍に殺害されたり、集団自決をする人々があったなど、悲惨な事態が各地におこった。」

図表「終戦直後の沖縄の人口」、「現代の窓:沖縄と基地」というコラムでは、沖縄の地理的条件が、沖縄を「太平洋の要石」としていることを詳しく説明

広島・長崎

「日本の対応がおくれる間に、アメリカは、8月6日、原子爆弾を世界ではじめて広島に投下した。8日、中立条約を破って、ソ連が参戦し、満州・朝鮮などの方面で攻撃してきた。9日、アメリカは、長崎にも原子爆弾を投下した。原子爆弾は、高熱と爆風で多くの死者を出したばかりでなく、放射線被害により多くの人がのちに死亡したり、病気になやまされた。その被害はあまりに大きく、正確な死傷者の数はわかっていないが、投下から数年以内に、広島では約20万人以上、長崎では約14万人以上の人々の生命がうばわれたと推定されている。こうした原爆の被害は、今も核兵器のおそろしさを示している」

関連写真「いっしゅんにして廃虚となった広島」(ドームの写真)~アルペロヴィッツの原爆外交説が消える。

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

戦後(核関連)

「日本は、原爆の被害を受けた世界で唯一の国として、核兵器を「持たず、つくらず、持ちこませず」という非核三原則を国の方針と定め、返還された沖縄にもこれを適用するとした。」「平和については、冷戦が終わったとはいえ、今なおぼうだいな核兵器が残されている。核兵器の廃絶という人類共通の願いの実現に向けて、いっそうの努力が必要である」

写真「平和へのちかい(広島平和式典)」(脚注:戦争への反省が戦後日本の出発であった)

戦後(補償関連)「戦後50年以上たった今日でもなお、日本の侵略の犠牲になった人々への償いは、忘れてはならない課題である。」

むすび

「平和で公正な地球社会を築くために、日本に求められる課題も多くなっている。なかでも日本がその平和主義を今後もつらぬくことができるのかが問われるようになっている。日本が戦後の繁栄を築いた一つの柱は、戦前のような軍事大国にならないという反省であった。わたしたちは、そのことを思い返しながら、日本国民として、同時に「地球市民」として、地域社会に貢献する道を考えていきたい。」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

2001年検定/2002年発行 新しい社会 歴史記述 関連資料・備考

韓国併合

「日露戦争後、日本による韓国の植民地化の動きがいっそう強められました。韓国は、1905年には外交権をうばわれ、1907年には皇帝が退位させられて、内政を韓国統監府ににぎられました。・・・1910年、日本は韓国を併合し、朝鮮総督府を設置して、武力を背景とした植民地支配をおし進めました。学校では朝鮮史を教えることを禁じ、日本史や日本語を教えて、日本人に同化させる教育を行いました。また、土地制度の近代化を名目として行われた土地調査事業では、所有権が明確でないとして多くの朝鮮農民が土地を失いました。・・・植民地支配は、1945年の日本の敗戦まで続きました。」

写真「朝鮮総督府と朝鮮王朝の王宮」、写真「日本語で授業を受ける朝鮮の子どもたち」、資料「朝鮮における日本人地主の数と所有する土地の面積」

章扉絵 「ゲルニカ」

アジアの独立運動

「ベルサイユ条約でドイツ権益の継承が日本に認められたため、中国の反日感情は爆発し、1919年5月4日の北京での学生集会をきっかけに中国国内で反日運動がおこり、さらに帝国主義の侵略に反対する運動へと発展しました。これを五・四運動とよんでいます。」「日本の植民地支配のもとに置かれていた朝鮮では、1919年3月1日、ソウルで独立をめざす知識人や学生らが日本からの独立を宣言する文章を発表し、人々は「独立万歳」をさけんでデモ行進を行いました。これに刺激された独立運動は、またたくまに朝鮮全土に広がりました。これを三・一独立運動といいます。」

写真「柳寛順」(脚注:16歳の朝鮮の少女柳寛順は、三・一独立運動への参加をよびかけたために、日本軍にとらえられ、きびしい拷問を受けて命をうばわれました) 絵「五・四運動」(脚注:反日・反帝国主義の運動は、国民の政治的自覚をうながし、中国の近代化を推し進める力となりました)、「歴史にアクセス:インターナショナリスト柳宗悦」→独立運動に共感を持っていた数少ない日本人を紹介。

満州事変

「満州の日本権益を確保するため、満州を中国から分離することを主張していた軍部(関東軍)は、1931年9月18日、奉天(現在のシェンヤン)郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、それを機に軍事行動を開始しました(満州事変)」

写真「満州国の建国記念日を祝う人々」(脚注:日本は「満州国」を独立国として承認しましたが、実体は、関東軍の完全な支配下に置かれていました)

日中戦争「1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋でおこった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました。」

写真「ラクダで物資を運ぶ日本兵」、地図「日中戦争の広がり」→宣戦布告がなかったことが削除される

南京虐殺

「戦火は華北から華中に拡大し、日本軍は、同年末に首都南京を占領しました。その過程で、女性や子どもをふくむ中国人を大量に殺害しました(南京事件)。」「脚注:この事件は、南京大虐殺として国際的に非難されましたが、国民には知らされませんでした」

写真「南京陥落を祝う準備をする人たち」(脚注:日本軍の勝利に、日本中がわきかえりました)

アジア民衆の弾圧

「朝鮮では、「皇民化」の名のもとに、日本語の使用や朝鮮の姓名のあらわし方を日本式の氏名に改めさせる創始改名をおし進めました。また、志願兵制度を実施し、朝鮮の人々をも戦場に動員しました」「日本が侵略した東アジアや東南アジアでは、戦場で死んだり、労働にかり出されたりして、女性や子どもをふくめて一般の人々にも、多くの犠牲者を出しました。ヨーロッパでは、ドイツによってユダヤ人が徹底的に弾圧され、アウシュビッツなどの収容所で殺害されました。これらの悲惨な体験は、長く記憶されることになりました。」

写真「徴発されて鉄道工事に従事する住民」(脚注:日本は「大東亜共栄圏」の名のもとに、タイからビルマに軍需物資を運ぶための鉄道(泰緬鉄道)を建設し、建設にあたった労務者を捕虜から数万人の死者を出しました)、写真「日本軍による犠牲者の記念碑」(脚注:シンガポールでは、非協力的だとして、多くの中国系市民が殺害されました)~日本軍のアジア民衆弾圧と、ドイツのユダヤ人弾圧を並列表記。

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

真珠湾「1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲し、同時に東南アジアでもマレー半島に上陸して、太平洋戦争が始まりました。」

写真:「真珠湾攻撃」~通告の遅れ、アリゾナ博物館に関する記述は削除。

都市空襲

「連合国は、戦争に早く勝つために、経済的打撃をあたえようとして、日本やドイツの主要都市に空襲を行いました。爆撃の対象は、軍事施設や工場ばかりでなく住宅地にまでおよび、市街地の多くが焼け野原となりました。特に、1945年3月の東京大空襲では、一夜で8万人以上の市民が犠牲となり、100万人が焼け出されました」

沖縄戦

「1945年3月、アメリカ軍は沖縄に上陸し、はげしい戦闘が行われました。沖縄の人々は、子どもや学生をふくめて、多くの犠牲者を出しました。」

写真「沖縄戦で傷ついた子ども」(脚注:この戦争での沖縄県民の犠牲者は、県出身の兵士もふくめると、当時の沖縄県の人口のおよそ4分の1に当たる12万人以上と推定されています)

広島・長崎

「さらに、アメリカは、原子爆弾を8月6日広島に、9日長崎に投下しました。その間、ソ連も日ソ中立条約を破って参戦し、満州・朝鮮に進出してきました。」「脚注:投下から数年以内に、広島市では約20万人以上、長崎市では約14万人以上の人々の生命がうばわれたと推定されています」「わたしたち歴史探検隊:地域の歴史を調べてみよう~軍都から平和都市へ」

関連写真「いっしゅんにして廃虚となった広島」、コラムの中で「廣嶋→ヒロシマ→HIROSHIMA」の推移、平和記念都市建設法についても触れている。

戦後(核関連)核廃絶という人類共通の願いの実現に向けた努力も必要です。

戦後(補償関連)

「歴史にアクセス:未来をともに築く」 写真「戦後補償を求めて裁判をおこした人」(脚注:戦争中の強制的な連行や労働に対する補償を求め、いくつもの裁判が、日本の国や企業を相手におこされています。写真は、企業と和解して記者会見する韓国の男性)、コラムでは日韓問題について金大中大統領の来日関連のスピーチを紹介して理解を促している。

むすび

「このようにグローバル化の進む世界のなかで、日本がどのように生きていくのかが、大きな課題となっています。日本国民として、同時に国際社会に生きる一人の人間として、よりよい社会づくりを考えていきましょう。」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

昭和28年検定/29年発行 新しい日本史 中学校用全記述 関連資料・備考

韓国併合「また日本は朝鮮に対して大きな勢力をもつようになり、ついで10年8月、朝鮮を併合した。」

アジアの独立運動

「第一次大戦がおこるとまもなく、日本は中国に対して21か条の要求をだしていたが、その大部分をむりやりに認めさせた。その内容のおもなものは、ドイツがそれまでもっていた山東省の権利を日本が受けつぐこと、満州や東蒙古を日本の勢力範囲とすることなどであった。これがもとになって、中国人の日本に対する感情はわるくなって、排日運動がおこった。ことに日本の品物を買わないようにする日貨排斥は、日本の資本主義に大きな打撃を与えた。」

資料「中国の排日ポスター」

満州事変

「満州にあった関東軍は、政府の考えを無視して戦争準備をすすめ、ついに31年9月に奉天に鉄道爆破事件をおこし、これをきっかけとして満州事変がおこった。政府は事件の大きくなることをできるだけ防ごうとつとめたが、軍部はこれに従わないで、軍事行動をますますおしすすめて満州全部を占領し、さらに戦は上海にまでおよんだ。その翌年、軍部は満州に軍部の思うままになる独立国をつくった。」

写真「関東軍司令部」

日華事変

「そのころ日本は、満州からさらにすすんで華北を侵略しようとした。・・・このような切迫した情勢のなかで1937年7月、北京の近くで日本軍と中国軍との衝突がおこった。これをきっかけとして軍部は政府の考えを無視して、軍事行動をひろげていった。こうして日華事変がおこり、大がかりな中国侵略がすすめられ、日本軍は中国のおもな都市を占領した。」脚注:「1937年7月に北京郊外の盧溝橋近くで、演習中の日本軍に対して中国軍が発砲したのがきっかけとなり、日華両国軍が衝突し、それがだんだんひろまっていった。」

写真「中国の抗日運動」

南京虐殺 記述はなし

真珠湾

「1941年12月8日の未明、日本海軍はぬきうちにハワイ真珠湾のアメリカ軍基地に攻撃を加え、アメリカとイギリスとに対して宣戦を布告した。」

関連写真「日本軍の奇襲を受けた真珠湾」

都市空襲

【戦争のなりゆき】「日本は42年にミッドウエイ海戦にやぶれたことからしだいに不利となり、さらに44年にサイパン島を失ってからは、本土に対する空襲もはげしくなった。そのため、国民生活の苦しさもひととおりではなく、食物にうえ、家は焼かれ、空襲におびえながら一日一日をすごし、戦争の終るのを願うようになった。しかし、軍部はただ本土決戦のみを強くとなえるだけで、この国民の願いに耳をかそうとしなかった。」

沖縄戦 記述はなし

広島・長崎

「ついで、広島と長崎に対して原子爆弾が投下された。たった一発の原子爆弾による惨害は、人の目をおおわせるものがあった。」脚注「1945年8月6日広島に原子爆弾が投下され、爆心から直径4キロ内は、またたくうちに廃墟となった。これによる死者は20余万といわれる。ついで9日には長崎にも投下され、死者10余万にのぼった。」

絵「原子爆弾の投下された広島」(赤松俊子、丸木位里のかいた「少年少女」)

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

戦後(核関連)記述なし

むすび

「連合国に管理された日本は、一時は社会の秩序が乱れ、産業はおとろえ、人々は生活に苦しんだ。しかしまもなく、ほんとうの民主主義国家としてたちあがるために再出発することになった。そのために新憲法がつくられ、新しい議会政治もはじまった。経済や文化教育にも改革が行われた。これにつれて、だんだん社会の秩序も産業も回復し、生活もしだいに向上している。こうして平和条約も結ばれ、独立国として、発足することとなった。けれども日本の民主主義を、ほんとうに地に足のついたものとするのは、私たちに残されたこれからの課題である。」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

昭和29年検定/30年発行 新しい社会 社会の発展 日本の社会の発展記述 関連資料・備考

韓国併合「また日本は朝鮮に対して大きな勢力をもつようになり、10年8月、朝鮮を併合した。」

アジアの独立運動

「第一次大戦がおこるとまもなく、日本は中国に対して21か条の要求をだしていたが、その大部分をむりに認めさせた。その内容のおもなものは、ドイツがそれまでもっていた山東省の権利を日本が受けつぐこと、満州や東蒙古に日本の利権を認めさせることなどであった。これがもとになって、中国人の日本に対する感情は悪くなって、排日運動がおこった。ことに日本の品物を買わないようにする日貨排斥は、日本の資本主義に大きな打撃を与えた。」

資料「中国の排日ポスター」→微変更

満州事変

「満州にあった関東軍は、政府の考えを無視して戦争準備をすすめ、ついに31年9月に奉天に鉄道爆破事件をおこし、これをきっかけとして満州事変がおこった。政府は事件の大きくなることをできるだけ防ごうとつとめたが、軍部はこれに従わないで、軍事行動をますますおしすすめて満州全部を占領し、さらに戦は上海にまでおよんだ。その翌年、軍部は満州に軍部の思うままになる独立国をつくった。」

写真「関東軍司令部」(はじめ旅順におかれ、満州事変後は奉天におかれた)

日華事変

「そのころ日本は、満州からさらにすすんで華北を侵略しようとした。・・・このような切迫した情勢のなかで1937年7月、北京の近くで日本軍と中国軍との衝突がおこった。これをきっかけとして軍部は政府の考えを無視して、軍事行動をひろげていった。こうして日華事変がおこり、大がかりな中国侵略がすすめられ、日本軍は中国のおもな都市を占領した。」脚注:「1937年7月に北京郊外の盧溝橋近くで、演習中の日本軍に対して中国軍が発砲したのがきっかけとなり、日華両国軍が衝突し、それがだんだんひろまっていった。」

写真「中国の抗日運動」

南京虐殺 記述はなし

真珠湾「1941年12月8日の未明、日本海軍はぬきうちにハワイ真珠湾のアメリカ軍基地に攻撃を加え、アメリカとイギリスとに対して宣戦を布告した。」

関連写真:「日本軍の奇襲を受けた真珠湾」

都市空襲

【戦争のなりゆき】「しかし、物質がゆたかで、近代工業のすすんでいるアメリカが、戦争の体制をしだいに整えるようになると、形勢は逆転し、サイパン島を失ってからは、本土に対する空襲もはげしくなった。そのため、国民生活の苦しさもひととおりではなく、食物にうえ、家は焼かれ、空襲におびえながら一日一日をすごし、戦争の終るのを願うようになった。しかし、軍部はただ本土決戦のみを強くとなえるだけで、この国民の願いに耳をかそうとしなかった。」

微妙に変化

沖縄戦 記述なし

広島・長崎

「ついで、広島と長崎に対して原子爆弾が投下された。たった一発の原子爆弾による惨害は、人の目をおおわせるものがあった。」脚注「1945年8月6日広島に原子爆弾が投下され、爆心から直径4キロ内は、またたくうちに廃墟となった。これによる死者は20余万といわれる。ついで9日には長崎にも投下され、死者10余万にのぼった。」

絵が削除

戦後(核関連)記述なし

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

昭和29年検定/30年発行 新しい社会 世界の発展 わたしたちの社会の問題記述 関連資料・備考

第二次世界大戦

「同盟国がわははじめは勢いがよかったが、連合国、ことにアメリカとソビエトのすばらしい経済力によってしだいに圧迫されていった。こうしてまず43年9月イタリアが、45年5月ドイツが、同年8月には、原子爆弾の洗礼とソビエトの参戦の直後に日本が、それぞれ連合国に無条件降伏して、戦争は終った。」

平和への努力

「朝鮮の戦争の間、世界の人々は戦争にまきこまれる危険におびえていた。しかしどこの国の人々も、ふたたび戦争をしたくはなかった。ことにおそろしい威力をもつ原子爆弾は、各国が熱心に研究を進めた結果、今ではアメリカのほかに、ソビエト、イギリスなどもそれを作るようになった。そこで国連では、この爆弾を戦争に使わないとりきめを作ろうとして、何回も会議を開いて努力している。」

写真「原子爆弾の炸裂」(きのこ雲)

現代の世界のまとめ

「ソ連を中心とする社会主義の国々と、アメリカを中心とする資本主義の国々とは、2つに分かれており、戦争の危険さえ感じられる。しかし第二次世界大戦のおわりごろに現れた原子兵器は、その後急速に進歩してきており、万一戦争がおこったときは、人類の破滅の危険さえ考えられるようになった。2つの世界の間に行われている冷たい戦争を解消し、ほんとうにひとつの世界を作り上げることは、現在の最大の課題である。」

写真「関東軍司令部」(はじめ旅順におかれ、満州事変後は奉天におかれた)

むすび

「しかし、民主化ということがいくら口先でさけばれても、ひとりひとりの国民がそのための努力をおこたったのでは、なんの役にも立たない。わたくしたちの毎日の生活をふりかえってみるとまだまだ民主化が十分に達せられているとはいえない。これを実現して、日本がほんとうに平和を愛する国家になることこそ、これからの日本の国民の大きな課題である。」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

昭和30年検定/31年発行 新しい社会③ 日本の発展新しい社会④ 世界の発展 現代の動き記述 関連資料・備考

韓国併合「この(日露戦争)後、朝鮮は日本の思い通りになるようになり、ついに1910年、朝鮮を併合して日本の領土とした。」

アジアの独立運動

「ヨーロッパ諸国が必死に戦っている間に、日本は中国にできるだけ勢力をのばそうと計った。革命の後、国内が落ち着かない中国に対して、21か条の要求をおしつけ、ドイツが中国でもっていた権利を受けついだほかに、満州や東蒙などに日本の特別の権利も認めさせた。」「脚注:これがもとになって、中国人の日本に対する感情は悪くなり、排日運動がおこった。ことに日本の品物を買わないようにする日貨排斥は、日本の産業に打撃を与えた。」

資料「中国の排日ポスター」

アジア民衆の弾圧「不景気と社会の不安を切り抜ける手段として、中国に対する侵略はますますはげしくなり、国内では軍部の勢力が強くなっていった。」

満州事変

「満州にあった日本の関東軍は、政府の考えを無視して武力による大陸進出を計り、ついに1931年、奉天付近で国民政府軍と戦いを起こした。政府は事件の大きくなることを防ごうとしたが、軍部はその方針を無視して、満州全部を占領してしまった。その翌年には、軍部は満州国をつくり、満州の政治経済を思うままにあやつるほうになった。」

写真「満州事変」(脚注:日本の暗い時代が始まった)

日華事変「やがて軍部は、満州からさらに進んで華北を侵略しようとした。・・・この切迫した事情のなかで、1937年、北京の近くで日本軍と中国軍との衝突がおこった。これをきっかけとして日華事変が起こり、日本と中国との全面的な戦争が始まった。」

南京虐殺 記述はなし

真珠湾「東条内閣は、ヨーロッパにおけるドイツの目ざましい活躍に刺激され、ついに12月8日、アメリカ、イギリスなどに対して戦いを起こした。」

関連資料:「日本軍の真珠湾攻撃」(さし絵は燃え上がるアメリカの戦艦)

都市空襲「日本も1944年にサイパン島を失った後は、本土空襲になやまされ、国民は食物にうえ、家は焼かれ、戦いを続ける力を失った。しかし、軍部はただ本土決戦のみを強く唱えた。」

沖縄戦 記述なし

広島・長崎

「連合国は、日本を早く降伏させようとして、1945年7月にポツダム宣言を発した。8月には、アメリカは広島と長崎に世界最初の原子爆弾を投下し、ソ連も日本に宣戦した。」脚注「1945年8月6日広島に原子爆弾が投下され、爆心地から直径4km内は、たちまち廃墟となり、当時の広島の人口40万人のうち約1/2、20万人余りの人命は一瞬のうちにうばわれた。ついで9日、長崎にも投下され、死者10万人余りに上った。」

写真「広島の焼けたあと」(脚注:手前の建物の上空で原爆が爆発した)

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

世界平和への動き

「第二次世界大戦の末期に、広島と長崎に投下された原子爆弾の威力は、世界中の人々をおそれさせた。このようなざんこくな武器が、二度と使われないように、1946年、国際連合は、原子力の国際管理に乗り出した。しかし国連の中でも、米ソの対立がはげしく、その話し合いはまとまらないありさまである。ところがやがてアメリカのほかに、ソ連やイギリスも原爆を製造し、さらにおそろしい水素爆弾も作られ、原水爆の製造競争が起こった。こうなると人類の破滅をおそれて、原水爆使用反対の声が世界中に高まってきた。世界には、まだ国々の対立は残されているが、おもな国の指導者たちは、原水爆戦争の危険を防ごうとし、「力による解決」よりも「話し合いによる解決」のために努力するようになった。」「脚注:ソ連が1953年に水爆を持っていることがわかると、アメリカも1954年に、南太平洋で大規模な水爆実験を行った。この時、付近にいた日本漁船の乗組員は、放射能をふくむ「死の灰」を浴び、そのうちのひとりは半年後に死んだ。」

写真「ビキニの原爆実験」「放射能とまぐろ」(写真脚注:陸あげされたまぐろは検査され、その多くがすてられた。しかし国民の不安はなくならなかった)

現代世界の文化

「ことに原水爆の完成によって示される科学の発達は、かえって人類をほろぼす危険をはらむようになった。・・・ことに19世紀の末、キュリー夫妻がラジウムを発見し、アインシュタインが20世紀初めにニュートン以来の考え方を改めてから、原子物理学の時代となった。そして原子爆弾がおそるべき破壊力を示した反面、原子力の平和的な利用の道も開かれてきた。原子力の国際管理の方法が決まったならば、世界の動力源は大変革をきたし、農業や医薬などの方面にも影響がおよび、人類の文化生活は非常に進むであろうといわれている。」

写真「原子炉」(さし絵は現代の錬金術ともいわれる原子炉・・・)、「原子力の発見・利用・管理年表」(1896~1954.9)

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

昭和30年検定/33年改訂 新しい社会③ 日本の発展新しい社会④ 世界の発展 現代の動き記述 関連資料・備考

韓国併合「この(日露戦争)後、朝鮮は日本の思い通りになるようになり、ついに1910年、朝鮮を併合して日本の領土とした。」

アジアの独立運動

「ヨーロッパ諸国が必死に戦っている間に、日本は中国にできるだけ勢力をのばそうと計った。革命の後、国内が落ち着かない中国に対して、21か条の要求をおしつけ、ドイツが中国でもっていた権利を受けついだほかに、満州や東蒙などに日本の特別の権利も認めさせた。」「脚注:これがもとになって、中国人の日本に対する感情は悪くなり、排日運動がおこった。ことに日本の品物を買わないようにする日貨排斥は、日本の産業に打撃を与えた。」

資料「中国の排日ポスター」

アジア民衆の弾圧「不景気と社会の不安を切り抜ける手段として、中国に対する侵略はますますはげしくなり、国内では軍部の勢力が強くなっていった。」

満州事変

「これに対して日本の関東軍は、満州は日本の生命線であるという考えから、政府のさしずを待たないで武力を用い、1931年に、満州全部を占領してしまった。その翌年には、軍部は満州国をつくり、満州の政治経済を思うままにあやつるようになった。」

写真「満州事変」(脚注:出征する日本軍と当時の新聞報道)

日華事変

「1937年7月、北京郊外で両軍の衝突がおこった。これをきっかけにして、現地の日本軍は政府の不拡大方針に従わず、急速に戦火をひろげた。このため戦いはたちまち華北一帯にひろがり、やがて上海にも戦火がおよんだ。これを日華事変とよんでいる。」

写真「日華事変はじまる」(1937年7月7日、北京郊外盧溝橋で日中両軍が衝突した。写真は上海の市街戦)、地図「日華事変」

南京虐殺「日本軍は半年の間に華北を占領し、さらに南京をおとしいれたが」 記述はなし

真珠湾「12月8日、合衆国の海軍基地ハワイの真珠湾を奇襲するとともに、合衆国、イギリス、オランダに対して宣戦を布告した。」

関連写真「開戦」(左は開戦の決定をしめす機密文書。上は12月8日、日本軍がハワイ軍港に停泊中の合衆国艦隊を奇襲しているところ)

都市空襲

「日本も1944年にサイパン島を失った後は、本土空襲になやまされ、国民は食物にうえ、家は焼かれ、戦いを続ける力を失った。しかし、軍部はただ本土決戦のみを強く唱えた。」

沖縄戦 記述なし

広島・長崎

「合衆国は、8月6日、原子爆弾を広島に投下した。ソ連も8日、対日宣戦布告をおこなって満州に侵入した。ついで9日には、長崎にも原子爆弾が落とされた。このような矢つぎばやな攻撃を受け・・・」

写真「広島の焼け跡と当時の新聞報道」(脚注:当時の広島の人口約40万人のうち、約1/2の人命が一瞬のうちにうばわれた。)

世界平和への動き

「広島と長崎に投下された原子爆弾は、その威力があまりにも大きかったので、原子爆弾がふたたび使われないようにするため、国際連合は原子力の国際管理問題をとりあげた。意しかし、合衆国とソ連の対立が激化するとともに、科学兵器の競争が激しくなり、1949年にはソ連、つづいてイギリスも原子爆弾を完成した。1952年に合衆国が原子爆弾よりはるかに協力な水素爆弾を完成すると、翌年には、ソ連も水素爆弾を完成。こうして、合衆国とソ連の間には、原水爆禁止の世論にもかかわらずはげしい競争がつづけられ、宇宙兵器さえ現れた」

写真「水爆実験」(写真脚注:1,954年、ビキニ環礁で水爆実験がおこなわれ「死の灰」をうけた日本人漁夫が死亡した)

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

日本の進路とわたしたち

「永久の平和をうちたてることは、じっさいにはむずかしいことである。しかし、日本は世界最初の原爆被災国であり、また、第二次世界大戦に責任のある立場にあることも考えて、しんぼう強く平和の達成に努めなければならない。・・・国際関係のうえでは、日本の周囲だけみても、賠償の実行、朝鮮や中華人民共和国との国交問題などが残されている。・・・わたしたちの祖先や先輩は、・・・このたびは焼土から立ち上がって、十数年で今日の日本をきずきあげた。わたしたちは、ますます広い視野に立って世界に学ぶとともに、誇りを持って日本の国力を高め、世界の平和と進歩に貢献できるようになろう」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

昭和40年検定/41年発行 新しい社会2記述 関連資料・備考

韓国併合

「このような動きがおこっていたとき、日本は日露戦争後韓国を保護国として支配権を強化した。これに対して韓国人の間には、はげしい反対運動が起こったが、日本は1910年、ついに朝鮮を併合した。」「脚注・ポーツマス条約で日本の権益が国際的に認められたので、政府は韓国に統監府をおき、内政の監督と外交をもおこなうことにした」

写真「伊藤博文と韓国皇太子」(初代韓国統監となった伊藤は、韓国の一青年にハルピン駅頭で暗殺された)

アジアの独立運動

「日本は青島を占領してから、1915年、中国に対して21か条の要求をおこなった。それは、山東半島におけるドイツの権益をひきつぎ、中国の満州や内蒙古で日本が特別の権利ももとうとするものであった。・・・しかし、むりにおしつけたこの条約には、中国人が強く反対し、各地に排日運動や日貨排斥がおこり、こののち日本と中国との関係を悪化させる原因となった。」

資料「中国の排日ポスター」

アジア民衆の弾圧「不景気と社会の不安を切り抜ける手段として、中国に対する侵略はますますはげしくなり、国内では軍部の勢力が強くなっていった。」

満州事変

「これを見た日本の陸軍は、奉天の近くで国民政府軍と戦いをはじめた。日本政府は事件の大きくなるのをおさえようとしたが、軍部は政府の方針を無視して満州全部を占領した」

写真「満州事変」(脚注:日本の暗い時代が始まった)

日華事変

「やがて軍部は、満州からさらに進んで華北を侵略しようとした。・・・この切迫した事情のなかで、1937年、北京の近くで日本軍と中国軍との衝突がおこった。これをきっかけとして日華事変が起こり、日本と中国との全面的な戦争が始まった。」

南京虐殺記述はなし

真珠湾「東条内閣は、ヨーロッパにおけるドイツの目ざましい活躍に刺激され、ついに12月8日、アメリカ、イギリスなどに対して戦いを起こした。」

関連資料:「燃え上がる真珠湾軍港」(41年12月8日、日本軍はハワイ諸島のアメリカ軍基地を不意に攻撃した)

都市空襲「日本も1944年にサイパン島を失った後は、本土空襲になやまされ、国民は食物にうえ、家は焼かれ、戦いを続ける力を失った。しかし、軍部はただ本土決戦のみを強く唱えた。」

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資料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述

沖縄戦 記述はなし

広島・長崎

「連合国は、日本を早く降伏させようとして、1945年7月にポツダム宣言を発した。8月には、アメリカは広島と長崎に世界最初の原子爆弾を投下し、ソ連も日本に宣戦した。」脚注「1945年8月6日広島に原子爆弾が投下され、爆心地から直径4km内は、たちまち廃墟となり、当時の広島の人口40万人のうち約1/2、20万人余りの人命は一瞬のうちにうばわれた。ついで9日、長崎にも投下され、死者10万人余りに上った。」

写真「広島の焼けたあと」(脚注:手前の建物の上空で原爆が爆発した)

世界平和への動き

「原子爆弾についで水素爆弾も発明され、アメリカ、ソ連についてイギリスも製造実験に加わるようになった。しかし一方では、人類を滅ぼす原水爆に対し、反対する声が年とともに大きくなってきた。1957年には、世界各国の代表者の参加を得て、広島で原水爆禁止世界大会が開かれた。国連でも、軍備縮小の主要問題として討議が続けられている。」

写真「ビキニの原爆実験」「放射能とまぐろ」(写真脚注:陸あげされたまぐろは検査され、その多くがすてられた。しかし国民の不安はなくならなかった)

現代世界の文化

「ことに原水爆の完成によって示される科学の発達は、かえって人類をほろぼす危険をはらむようになった。」「ことに19世紀の末、キュリー夫妻がラジウムを発見し、アインシュタインが20世紀初めにニュートン以来の考え方を改めてから、原子物理学の時代となった。そして原子爆弾がおそるべき破壊力を示した反面、原子力の平和的な利用の道も開かれてきた。原子欲の国際管理の方法が決まったならば、世界の動力源は大変革をきたし、農業や医薬などの方面にも影響がおよび、人類の文化生活は非常に進むであろうといわれている。」

写真「東海村の実験用原子炉」「原子力の発見・利用・管理年表」(1896~1957国際原子力機関の設立まで)