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稿使アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2) ( 1 )

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『古事記』における漢字の音仮名用法と正訓字用法の関係

はじめに

本稿では、漢字万葉仮名交じり表記である『古事記』に

おいて、漢字の仮名用法と正訓字用法とが、どのような関

係をもって本文の表記を実現させているかということにつ

いて考察を加える。

先行研究より、『古事記』の仮名字母となる文字は本文中

の正訓字としてあまり使われず、仮名用法と正訓字用法と

に両用しないことで、その文字が仮名であるか正訓字であ

るかをあらかじめ示す傾向にあると指摘される。しかしそ

れは、本当に正訓字との衝突を避けるよう意識した字母選

択の結果なのであろうか。何か文字を選択するということ

は、その背景に選ばれなかったが候補となった文字がある

ことを想定している。この候補となった文字の存在を見通

した上で、「文字選択」は言われなければならないであろう。

このような、「選ばれなかった文字」を想定することで、『古

事記』に選ばれた文字の特徴について考えたい。

『古事記』における正訓字と音仮名の区別方法

『古事記』は漢字万葉仮名交じりの表記を採用した上代

の散文資料である。その本文の用字方法は非常に意識的で

あり、春日政治(一九三三)は次のように述べる。

古事記の如きは用字上に一定の標準を立てて記された

のである。先づ力めて字母の複用を避けたことであつ

て、一音に異字母を数個あてたものがないではないが、

其の内の或文字は極めて特殊な地名・人名に限つて用

ゐられ、広く用ゐられる標準字母は少数に止まる

(五七頁)

指摘のとおり、『古事記』は原則的に仮名として一音節に

は主要一字母のみを当てる傾向を示す。このことは、ある

音節に対して同じ字母を繰り返し用いることで、字母と音

節との結びつきが強くなり、よみの固定化・効率化につな

がるものと思われる。

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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また、漢字万葉仮名交じり表記という表記体の中で、『古

事記』の本文における音仮名部分は、いわゆる「以音注」

を付すことによって明示され正訓字部分と分けられている。

例)國

久羅下那州多陀用弊流之

くにわかくうけるあぶらのごとくして

ときに

流字以上十

字以音。

(上・二六頁・四行)(1)

以音注による仮名部分の明示も、正訓字と音仮名とが区

別されることにより、よみの固定化・効率化につながる。

正訓字と万葉仮名の字体が同じ漢字であるこの時代、漢字

万葉仮名交じり表記をする上でこの区別が必要とされたこ

とがうかがえる。

ほかに正訓字と音仮名を区別する方法として、西宮一民

(一九八八)は字体による区別を指摘している。西宮によ

れば、『古事記』では正訓字「あまる」は「餘」字で、音仮

名ヨは「余」字で表記しており、そのほか正訓字「うさぎ」

の「菟」と音仮名トの「兔」、正訓字「はふ」の「莚」と音

仮名ヤ行江の「延」、正訓字「きたなし」の「邪」と音仮名

ザの「耶」、正訓字「ひげ」の「須」と音仮名スの「湏」が

同様の関係にあるという(西宮一九八八:九七頁)。

こういった注や字体による明示的な方法がある一方で、

『古事記』では正訓字と音仮名を区別するために、同じ漢

字を訓字用法と音仮名用法とに両用しないよう配慮してい

るという指摘がこれまで多くなされてきた。

神田秀夫(一九六二)は、大宝戸籍に見える「安、以、衣、於、

之、太」といった仮名字母が『古事記』に使われていない

ことを指摘し、次のように述べる。

恐らく、「於」に三水を付して「淤」としたやうに、訓

読部分との混同を避けて、古事記は「以」「衣」「之」「太」

なども使はなかつたのであつて、この点、万葉集とは

立場もちがふが、しかし「安」を避けなければならぬ

理由は遂に見いだすことができない。

(一三一~一三二

頁)

神田は具体的に、「音仮名「淤」は「於」を避けたもの。」

「音仮名「夜」は「也」を避けたもの。」「「碁」といふ音仮

名は「其」を避けたもの。」(一四九~一五二頁)と示してい

る。これを受け、犬飼隆(二〇〇五)は次のように述べる。

『古事記』は、漢文の助字として頻用される字を万葉

仮名として用いないように配慮している。オの「淤」、

ヲの「袁遠」は、それぞれ「於」「乎」の使用を避けて

用いたものである。

(一九三~一九四頁)

川端善明(一九七五)は、このようなことを『古事記』

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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を読みやすくするための内面からの用意として取り上げ、

また次のように正訓字側からと音仮名側からとの両方に用

法の衝突を避ける意識があったことを述べる。

『古事記』には、全般的に一つの漢字について真仮名

・正訓字の両用を避ける傾向がかなりはっきりしてお

り、(一)比較的多く真仮名に使用されている漢字には、

正訓字としては全く使われなかったり、そうでなくて

も、量的な、あるいは用法的な限定をうけてのみ正訓

字にも用いられているという例が多い。(中略)(二)

正訓字使用度の高い字は、真仮名に採用することをひ

かえるという傾向もあったのではないか、(一四二頁)

また、尾崎知光(一九八九)は、『古事記』に使用される

各音節の主要な音仮名全体を一覧として表示したうえで、

本文中で表意文字として使用されることが全くないものや

回数の少ないものに傍線を付し、次のように述べる。

ここで注目すべきは、これらの文字には、表意文字と

して使用されることが全く無いか又は使用されてもそ

の回数が極めて少ないものが多いことである。(中略)

つまり古事記においては、これらの文字は音仮名専用

として選び出され、表意的用法の文字とできるだけ競

合しないやうな配慮が加へられてゐるとみてよい。

(一八頁)

以上のように、『古事記』において漢字万葉仮名交じり表

記で正訓字と音仮名とを区別するための方法として、使用

する文字の選択結果が正訓字と音仮名の衝突しない状態を

用意し、それらの区別を支えていることが言われてきた。

しかし疑問なのは、これらの用字は同時代的に想定されて

いる音仮名字母が本当に複数ある中での選択的結果であっ

たのかということである。候補が複数あり、選ばれた上で

『古事記』の表記があるのだということと、選択肢が他に

ない中で結果的にいまの表記があるだけで、他にあり得た

形はなかったのだということは、結果となる表記が同じで

あっても意味するところが大きく異なる。先行研究の見方

は、すべて選択の結果であるという前者の形を想定してい

ると思われるが、その根拠となる詳細な検討の過程を明示

した論はほとんどないように思われる。本稿では、これら

のことをふまえ、『古事記』の万葉仮名字母の再検討を試み

たい。先行研究の主張について、独自にその裏付けをとる

内容に終始するきらいはあるが、そういった具体的な検証

の中で、音仮名字母には正訓字との用法の衝突を避けてい

ない字母はなかったのか。もしあったとしたら、それらは

ここに挙げた以外の方法で正訓字と音仮名の混同を避けて

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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いるのではないかということにも言及したい。

想定される万葉仮名字母

まず、『古事記』の万葉仮名字母として、想定されるもの

が複数あった上で字母選択がなされたのだとしたら、想定

されていた字母群はどのようなものであったかを検討する。

厳密に言えば、『古事記』の表記者が想定していた字母を完

全に証明してみせることはまず不可能である。しかし、同

時代の漢字万葉仮名交じり資料との比較で、ある程度他に

あり得た字母の選択肢を想像してみることは可能であるよ

うに思う。

対照とする資料としては、『万葉集』の訓字主体表記(2)

を扱う。『万葉集』は韻文資料ながら、『古事記』と同時代

の呉音系の万葉仮名が使用されており、分量的にも豊富で

比較に足るものである。また訓字主体表記は漢字万葉仮名

交じり表記であるため、表記体の点でも比較に適している

と考える。用字に意識的な整理がなされているとされる『古

事記』とは異なり、『万葉集』は全二十巻が多元的に成立し

たと考えられ、その書記者も複数が想定されるため、全体

が統一的な表記方針を持っているとは考えられない。『古事

記』に対して仮名字母の種類が多量であることもそれを示

唆する(古事記一六三種に対し万葉集三六一種)。そのため、

同時代の漢字万葉仮名交じり表記において、特に統一的な

表記方針が示されなかった場合の、比較的未整理である状

況が『万葉集』で見られると考えられる。これと、『古事記』

の整理された(とされる)用字とを比較するのである。

また、『万葉集』訓字主体表記と比較する『古事記』の万

葉仮名としては、散文本文中に使用されたものを考察の対

象とする。『古事記』には他に歌謡と割注内に使用された万

葉仮名が見られるが、このうち歌謡は一字一音の万葉仮名

で全体を表記しており、漢字万葉仮名交じり表記とは言え

ない。このような音仮名と正訓字とを交えないことを前提

とした表記体においては、すべて文字を音読みしていけば

よめるのであって、正訓字との区別にことさら注意を払う

必要は生じなかったと考えられる。割注部分に使用される

仮名については、以音注や訓注にあたり、「~以音」や「訓

(正訓字)為~」の形で定型的に使用され、そのことで正

訓字との区別は明らかである。前掲の川端(一九七五)は、

正訓字として多用される「何」や「等」「与」字が、『古事

記』の歌謡にのみ仮名「何」「等」「与」として使用され、

ト乙

散文本文中には使われないことを示し、「歌謡や訓注は、正

訓字の属する本文に対してその表記次元を異にする。それ

に対し、同次元に属する本文の正訓字と真仮名を、字母に

おいて分けようとする傾向は、それとして、よむことの一

つの工夫でなければなるまい。」(一四三頁)としている。

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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【表1】各音節における音仮名用例数上位二位の主要音仮名字母

音節 音節

那105 ナ 奈225 南8 阿57 ア 安49 阿42迩79 ・ 4 ニ 尓2266 二301 伊171 イ 伊137 印2奴22 沼4 ヌ 奴126 濃4 宇83 ・ 1 ウ 宇55 于2泥22 祢1 ネ 祢27 年8 愛5 エ怒6 濃1 ノ甲 努17 怒3 意44 淤12 オ 於30 意2能70 乃1 ノ乙 乃1586 能208 迦50 訶29 カ 可323 加60波78 貝1 ハ 波243 薄5 賀35 ガ 我126 賀18婆16 バ 婆56 波16 岐71 吉22 キ甲 伎39 吉38比317 卑1 ヒ甲 比73 避1 藝35 岐1 ギ甲 藝29 伎9・ 133 ビ甲 妣9 婢3 紀15 貴3 キ乙 紀6 騎2斐6 肥6 ヒ乙 斐7 悲6 疑3 ギ乙 疑4 宜2備22 ビ乙 備56 飛1 久59 玖27 ク 久229 苦25布34 賦6 フ 布53 不9 具15 グ 具47夫20 服1 ブ 夫16 扶2 祁27 ケ甲 家170 計26弊2 幣1 ヘ甲 敝15 部3 下1 ゲ甲 雅2弁11 ベ甲 便55 辨2 氣60 ケ乙 氣39 潔1倍2 閇2 ヘ乙 倍59 閇2 宜9 ゲ乙 宜1 義1

ベ乙 倍22 古89 高15 コ甲 古7 孤7富33 本28 ホ 保73 寶10 ゴ甲 胡7 呉3煩2 ボ 許34 コ乙 許83 己37麻37 摩22 マ 麻92 萬13 碁3 ゴ乙 期10 其5美131 弥2 ミ甲 美88 弥26 佐86 沙27 サ 左168 佐122微1 ミ乙 未4 味3 耶52 奢6 ザ 射10 邪3牟25 ム 武139 牟105 志86 斯41 シ 之668 思169賣338 咩1 メ甲 賣8 馬3 士16 自3 ジ 自35 盡8米26 メ乙 米41 ・ 90 州1 ス 須74 珠2毛10 モ甲 受22 ズ 受16母14 木1 モ乙 勢19 世4 セ 世55 勢52夜43 ヤ 也108 夜32 蘓5 宗2 ソ甲 蘇13 素3由12 湯2 ユ 由38 遊6 曽29 ソ乙 曽336 増9延7 江 要9 延3 ゾ乙 叙36 序7用3 ヨ甲 欲11 用1 多90 當10 タ 多133 他2余16 豫3 ヨ乙 与40 余18 ・ 13 陀6 ダ 太37 ・ 3良51 羅21 ラ 良329 樂10 知36 智10 チ 知22 智8理88 リ 里88 利48 遅53 治4 ヂ 治5 遅2流22 琉6 ル 流247 留59 都72 津3 ツ 都131 追9礼32 レ 礼161 例3 豆36 ヅ 豆21 頭15漏5 樓1 ロ甲 路1 弖9 手2 テ 弖25 天17呂39 侶1 ロ乙 呂36 侶6 傳2 代2 デ 代7 弖5和70 丸11 ワ 和75 斗14 刀13 ト甲 刀9 土1

ヰ 為3 位3 度12 ド甲 度2 土1恵11 ヱ 恵16 登49 ト乙 登182 等121袁30 遠14 ヲ 乎1255 呼28 杼15 騰1 ド乙 杼55 騰14字母の種類数(太字/全体)=37/78

毛931母212

『古事記』散文『万葉集』訓字

主体表記『古事記』散文

『万葉集』訓字主体表記

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『古事記』散文本文部分(割注は除く)と『万葉集』訓

字主体表記に見える一音節の音仮名字母を調査し、その用

例数上位二位までの字母を比較して示したものが前ページ

の【表1】である。

どちらの資料にも音仮名用例のない音節(ゼ・ゾ甲)は

表中から除いてある。またどちらかの資料に音仮名用例の

ない音節は網掛けにし考察の対象から除外する。『万葉集』

には上代特殊仮名遣いの甲乙の区別がない音節モも同様で

ある。また、『古事記』の用例数第一位の字母が『万葉集』

のそれと一致しない場合を太字ゴシック体にして示した。

これを見ると、どちらの資料にも音仮名の用例のある音節

が全七八音節あるうち、第一字母が一致しないものは三七

音節と半数近くに上る。以下、それぞれの字母を個別に見

ていく。四

『古事記』と『万葉集』で一致する第一字母

―概観―

先に『古事記』と『万葉集』とで使用頻度第一位の字母

が一致した四一音節について検討を加える。先行研究によ

ると、『古事記』では正訓字として使用頻度の高い漢字は音

仮名字母としての使用をひかえたということである。それ

をふまえれば、これら使用頻度第一位の字母は、正訓字と

して使用されないかもしくは使用頻度が他の字母よりも低

いのではないか。また、『万葉集』でも同字母が多く使用さ

れたことから、そもそも字母の選択肢として想定されるも

のが他にないという可能性も考えられる。もしこれらに当

てはまらない字母があるとすれば、他に何か使用の理由が

あるのだろうか。共通の第一字母について、その漢字が『古

事記』中に正訓字として使用された回数

を調査したも

(3)

のが次ページの【表2】である。

表をみると、それぞれの字母が正訓字として使用される

回数はすべてあまり多くはない。三〇例を超えるものはわ

ずかに「知」と「夫」のみである。表の右側欄外には、参

考までに『古事記』の第一字母ではないが同じ音節をあら

わす字母として有力なものについて、『古事記』中にそれら

が正訓字として使われる回数を括弧書きで示した。各音節

の左側欄外には、各字母の正訓字としての用例数等を考え、

使用状況を分類し記号にして記した。それぞれの記号につ

いて説明を加える。

◎…正訓字としての用例なし

(伊宇藝紀弖杼婆斐倍賣米呂恵)

この字母は正訓字としての用例が『古事記』中にないた

め、使用頻度第一の字母として頻用されても訓字用法との

衝突が一切なかったと考えられる。

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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音節 字母 正訓字 音節 字母 正訓字* ヒ甲 比 3 ◎ イ 伊 0◎ ヒ乙 斐 0 ◎ ウ 宇 0* ビ乙 備 10 ◎ ギ甲 藝 0■ フ 布 4 (賦0、不162) ◎ キ乙 紀 0■ ブ 夫 31 (扶1) ○ ギ乙 疑 3 (宜8)◎ ヘ乙 倍 0 ■ ク 久 5 (玖3、苦6)■ マ 麻 4 (萬1) * グ 具 9■ ミ甲 美 16 (弥0) * ケ乙 氣 6◎ メ甲 賣 0 ■ ゲ乙 宜 8 (義1)◎ メ乙 米 0 ○ コ甲 古 2 (高71)■ ユ 由 17 (遊13、湯10) ○ コ乙 許 9 (己26)■ ラ 良 4 (羅1) * ズ 受 8○ ル 流 10 (留14) * ソ乙 曽 1* レ 礼 7 ■ タ 多 18 (當5)◎ ロ乙 呂 0 ■ チ 知 56 (智0)■ ワ 和 10 (丸1) * ツ 都 3◎ ヱ 恵 0 ○ ヅ 豆 3 (頭10)

◎ テ 弖 0■ ド甲 度 28 (土24)○ ト乙 登 9 (等104)◎ ド乙 杼 0○ ヌ 奴 9 (沼36)* ハ 波 6◎ バ 婆 0

【表2】共通の第一字母と『古事記』における正訓字としての用例数

◎…正訓字としての用例なし○…正訓字としての用例あるが、他の字母 よりは少ない*…正訓字としての用例あるが、他に候補 となるような字母なし■…正訓字としての用例あり、他に候補と なるような字母もある

○…正訓字としての用例はあるが、他の字母よりも少

ない

(疑古許豆登奴流)

この字母は、『古事記』中に正訓字としての用例が見られ

たが、ごく少なく、他に考え得る字母(『万葉集』や『古事

記』に用例のあるもの)の方がより正訓字としての使用頻

度が高いため、使用頻度第一位の字母として頻用されても、

訓字用法との衝突が比較的少なかったと考えられる。(コ乙

類の音節について、正訓字「許」九例に対する正訓字「己」

二六例など)

*…正訓字としての用例はあるが、他に候補となるよ

うな有力な字母なし

(具氣受曽都波比備礼)

この字母は、『古事記』中に正訓字としての用例が見られ

たが、他に同じ音節をあらわす字母として有力なものがな

かったため使用頻度第一位の字母となったと考えられる。

ここに分類されるものは、他に当該の音節をあらわす字母

として想定される選択肢がなかった上での用字ということ

になる。同一音節をあらわす他の字母について、それが字

母の候補として有力であるかどうかは、便宜上『古事記』

と『万葉集』それぞれの第一字母の用例数に対してその十

分の一以上用例数があれば有力、なければ有力ではないと

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みなした。

ここまでで、表2に挙げた四一字母中の二九字母を数え

る。『古事記』と『万葉集』に共通の第一字母のうち、四分

の三近くがやはり正訓字としての使用頻度が低いものや、

他に同一音節をあらわすものとして選択肢となる字母がな

いものだということになる。

■…正訓字としての用例もあり、他に候補となるよう

な字母もある、使用理由不明の字母

(久宜多知度布夫麻美由良和)

これらの字母は、『古事記』中に正訓字としての用例が見

られ、さらに同じ音節をあらわす字母として他に有力なも

の(玖義當智土賦扶萬弥遊湯羅丸、これらが有力な字母で

あるという判断の基準については*の項にて述べた。)があ

り、使用字母の候補として想定されたと考えられるにもか

かわらず、「久宜多知度布夫麻美由良和」が選択されている

ものである。正訓字と音仮名としての用法が衝突すること

を避けるならば、なぜこれらの字母が選択されたのか、そ

の理由に検討が必要なものとなる。ここに分類されるもの

は、表2の四一字母中十二字母を数え、例外の数としては

無視できない。次節において、これら■に分類された字母

について個別に検討を加える。

『古事記』と『万葉集』で一致する第一字母

―例外の検討―

前節で『古事記』本文中に「正訓字としての用例もあり、

他に候補となるような字母もある、使用理由不明の字母」

に分類された字母群について、本節で個別に事情を考えた

い。個々の事情によっては、これらの字母を使用する必然

性が見いだせるのではないか。

まず音節クをあらわす「久」字について、仮名クには他

の字母として『古事記』に「玖」が、『万葉集』に「苦」が

相当数使われる。「苦」字については、『古事記』中の正訓

字としての用例が「久」字よりも一例のみではあるが多く、

また『万葉集』中にもたとえば、

夜干玉之其夜乃月夜至于今日吾者不忘無間苦思念

たま

その

つく

にわれ

わすれず

おもへ

(巻四・七〇二)

のように、忘れずに思い続けることを「苦しく思う」と表

現するかのような仮名の使い方や、「妻尓戀樂苦」(巻八・

つま

こふ

一六〇九)のように、「樂」と「苦」という相対する意味の

文字を仮名として並べて「らく」をあらわす使い方など、

仮名でありながら義字的な用例が多いという傾向をもつ。

そのため『古事記』における純粋に表音的な仮名として、

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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「苦」は一般的で有力な字母とは考えられなかったであろ

う。「玖」のほうは、正訓字としての用例が「久」よりも少

なく有力字母と言えるが、なぜか用例は「久」ほどに達し

ていない。両字の『古事記』における分布を見ると、上巻

「久」三七例「玖」〇例、中巻「久」一七例「玖」二五例、

下巻「久」三例「玖」二例と、「久」は上巻、中巻、下巻に

広く用いられるが、「玖」は中巻以降に集中して上巻には一

例も用いられない。このことから、編纂上の理由があった

ことが疑われるが、依然理由が明らかではない用字である。

音節ゲ乙類をあらわす「宜」字について、ゲ乙類の字母

には他に『万葉集』に「義」が一例見られ、『古事記』にお

ける正訓字用例も「宜」八例「義」一例と「義」の方が少

ない。しかし、仮名「義」は『万葉集』訓字主体表記には

他に用例がないものの、仮名主体表記にギ乙類としての用

例が六例ある。この字はゲ乙類音節のみを専用であらわす

音仮名ではなかったことになり、そのことが「義」字を避

ける理由となったかとも考えられる。しかし一方で、「宜」

字もゲ乙類以外に『万葉集』のギ乙類の仮名として訓字主

体表記に二例、仮名主体表記に九例使われている。このあ

たり、どのような事情によって『古事記』で「宜」がギ乙

類ではなくゲ乙類に当てられたか、なお検討が必要である。

音節タをあらわす「多」字については、『古事記』中にも

音節タの仮名として他に「當」が一〇例とかなり使用され

ており、正訓字として用例の少ない「當」字の方が仮名と

してよりふさわしく思われる。しかしこの字は仮名用例の

全一〇例すべて「當藝」や「當岐」といった表記で、「當」

が漢字音としてもつng韻尾を後続音節の頭子音gに重ね、

二字で二音節をあらわす連合仮名として、固有名詞やそれ

に準じる語の表記でのみ使われる。尾山慎(二〇〇八)の

指摘によると、連合仮名は「それまでの社会的規範性をも

った表記の継承もしくは流用だとみるのが穏当」であって、

「少なくともこのたび古事記を書き記していくにあたって

あらたに創出されたものではない」(一八頁)と想定される

ようである。よって、「當」字は『古事記』を編む際に選択

した文字というわけではなく、音節タの表記として新たに

頻用されるような有力字母ではなかった。「多」は使用字母

として想定されるものが他になかったため使用頻度第一位

の字母となったと考えられる。同様の事情は音節ワをあら

わす第一字母「和」に対する「丸」にも見受けられる。音

仮名「丸」は、全一一例すべてが「丸迩」という固有名詞

表記に使われ、そのn韻尾を「迩」の頭子音nに重ねた形

で用いている。「當」同様、「丸」も音節ワの表記として新

たに頻用されるような有力字母ではなかったのである。

音節チをあらわす「知」字についてはなぜこの字が頻用

されるのかはっきりしない。正訓字としての用例は「知」

五六例に対して「智」〇例と「知」の方が圧倒的に多いに

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もかかわらず「知」が使用頻度第一位の字母となっている。

また、巻による仮名「知」と「智」の用例数の偏りなども

見られず、他の理由も見いだしがたい。

音節ド甲類をあらわす「度」字について、『万葉集』には

他にド甲類の仮名として「土」が見えるが、この字母は『万

葉集』仮名主体表記を合わせても一例しかなく有力字母と

は言えない。

音節フをあらわす「布」については、音節フの仮名とし

て他に『古事記』に「賦」六例、『万葉集』に「不」九例が

用いられる。「不」字は言うまでもなく打ち消しの助字とし

て漢文中に多用され、『古事記』も例外ではないため仮名字

母として選択されないことは頷ける。「賦」については、『古

事記』中の正訓字として「布」四例に対し「賦」〇例と、

正訓字としての用例は「賦」が少ないものの、文字の画数

が圧倒的に多い。このことが「賦」を第一字母にすること

を妨げたのであろうか。

音節マをあらわす「麻」については、この字の正訓字と

しての用例が四例であり、「萬」の一例よりも多い。そのた

め「萬」を使用した方が正訓字との衝突が少ないと考えら

れるが、『古事記』には別字体の「万」が正訓字「よろづ」

として九例あり、「萬」の正訓字用例一例も「よろづ」の表

記であるので、『古事記』中の「よろづ」の正訓字表記は「萬」

と「万」で計一〇例あることになる。西宮(一九八八)が

指摘したように、たとえば字体の違いで仮名マ「萬」と正

訓字よろづ「万」を使い分ければ良かったとも言えるが、

字体で使い分けるまでもなく有力字母「麻」があればそち

らを使うのが自然であろう。まして「麻」は、『古事記』中

に正訓字用例があるとはいえ四例のみであり、仮名との衝

突の機会はそう多いとは考えられないのである。

音節ミ甲類をあらわす「美」字は、正訓字としての用例

が同じミ甲類の仮名として使われる「弥」字よりも多い。

ただし、これについては前掲の川端(一九七五)が言及し

ている。そこには、「「美」字はミ(甲)の仮名にも正訓字

にもわたって用いられているけれど、正訓字としてはその

一六例中、「美人」「麗美」という熟合においてそれぞれ九

例と五例を占め」(一四二頁)ており、正訓字としての用法

が限定されるために音訓の識別の目安となった例であると

述べられる。

音節ブをあらわす「夫」字も、「美」と似た傾向をもつと

考えられる。「夫」は『古事記』中に正訓字として三一例用

いられるが、その内訳は「壮夫」九例、「其夫」五例、「膳

夫」四例、「老夫」三例、「賤夫」三例、「愛夫」二例、「婿

夫」一例、「嫁夫」一例、「我夫子」一例という熟語として

用いられる例が計二九例であり、「夫」字単独で用いられる

のは二例のみであるため、これら正訓字としての「夫」は、

音仮名ブとしての用法と文脈において衝突しなかったと考

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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えられる。

音節ユをあらわす「由」字については、他にユをあらわ

す仮名「遊」が『万葉集』に六例ある。この仮名は、『万葉

集』で雁が「遊群」などの表記に用いられ、鳥が遊ぶよう

に群れて移動する意味を字面であらわし、義字的に用いら

れることで用例が多くなったものである。音節クをあらわ

す「苦」同様一般的な有力字母とは言えないことが考えら

れる。『古事記』には他に「湯」もあるが、これは訓仮名で

あって音仮名と同様には使えなかったであろう。

音節ラをあらわす「良」字に関しては、正訓字としての

用例がより少ない「羅」字の画数の多さが避けられたかと

も考えられる。また、『古事記』中に音節ラをあらわす仮名

については、全七二ある用例のうち、六八例までが音仮名

に続く箇所に使用されている。つまり、たとえば「左

之御

ひだり

美豆良

」(上・三五頁・二行)のように、「豆」という

三字以音

下效此

音仮名の後に接して用いられることで、「良」字も音仮名で

あるという想定がたやすくなるのであり、正訓字とみなさ

れる可能性が低くなっていたのではないか。また、「良」が

正訓字として使用される四例はすべて「不

良」という漢字

よくあらず

の熟合による語であり、「美」などと同様、正訓字としての

用例が限定されることが音訓の識別に役立ったかと考えら

れる。

以上、「久」「宜」「知」「布」の四字母については、他の

字母を退けて用例数第一位の字母となるための確たる理由

が見いだせなかったが、「多」「度」「夫」「麻」「美」「由」「良」

「和」の八字母についてはそれぞれ何らかの理由が見いだ

された。前節で見たとおり、『古事記』と『万葉集』で使用

頻度第一位となる音仮名字母の三分の二ほどについては、

正訓字としての使用頻度が低いものであることや、他に同

一音節をあらわすものとして選択肢となる字母がないとい

う点で頻用されるに支障がなく、その他のものについても

多くが他の字母よりも有利である理由や正訓字との衝突を

回避する理由が見いだされ、例外はごく少数であることが

分かった。

『古事記』と『万葉集』で異なる第一字母

―概観―

続いて、『古事記』と『万葉集』で使用頻度第一位の字母

が異なる三七音節について検討を加える。

第一字母が両資料で異なる場合、表記が意識的で整理さ

れていると言われる『古事記』の第一字母の方が、『万葉集』

の第一字母よりも『古事記』中に正訓字としての使用頻度

が低いと期待される。異なる第一字母がそれぞれ『古事記』

に正訓字として使用される回数を示したものが次ページの

【表3】である。

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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表を見ると、字母によっては正訓字としての用例が一〇

〇例を超えて頻用されるものも少なくない。しかし、正訓

字としての用例数が三〇以上となる字は『古事記』の第一

字母に「下」一例のみしか見いだせず、そのほとんどは『万

葉集』の第一字母に偏って見受けられる。二資料の比較の

上で用例数の状況を分類し、記号にして表の左側欄外に記

した。それぞれの記号について説明を加える。

○…正訓字としての用例数が、『古事記』使用字母より

も『万葉集』使用字母の方に多いもの

(古事記第一字母:阿意迦賀岐祁碁佐耶志士勢陁

遅傳斗那迩能毗弁微夜用余袁)

この類の音節は多く、表3に挙げた三七音節中の二六例

を数える。これらの音節は、『古事記』使用字母の方が正訓

字としての用例が少なく、『万葉集』で使用頻度第一位であ

る字母を『古事記』で採用しなかったのは、正訓字として

の用例との衝突を避けた可能性がある。先行研究の指摘ど

おり、字母の選択肢が複数ある場合、大勢は正訓字として

の使用頻度が低い字母を選ぶ傾向にあるようである。

△…正訓字としての用例数が、『古事記』使用字母と『万

葉集』使用字母とで同じく皆無であるもの

(古事記第一字母:湏蘓泥弊牟延)

音節 音節△ 泥 0 ネ 祢 0 ○ 阿 0 ア 安 17■ 怒 9 ノ甲 努 0 ○ 意 0 オ 於 365○ 能 13 ノ乙 乃 50 ○ 迦 0 カ 可 38○ 0 ビ甲 妣 3 ○ 賀 0 ガ 我 71△ 弊 0 ヘ甲 敝 0 ○ 岐 0 キ甲 伎 1○ 弁 0 ベ甲 便 5 ○ 祁 0 ケ甲 家 31■ 富 4 ホ 保 0 ■ 下 182 ゲ甲 雅 0○ 微 1 ミ乙 未 14 ○ 碁 0 ゴ乙 期 6△ 牟 0 ム 武 0 ○ 佐 0 サ 左 13○ 夜 14 ヤ 也 362 ○ 耶 2 ザ 射 12△ 延 0 江 要 0 ○ 志 4 シ 之 1436○ 用 2 ヨ甲 欲 39 ○ 士 6 ジ 自 107○ 余 0 ヨ乙 与 31 △ 0 ス 須 0■ 理 5 リ 里 3 ○ 勢 0 セ 世 26■ 漏 6 ロ甲 路 1 △ 蘓 0 ソ甲 蘇 0○ 袁 0 ヲ 乎 31 ○ 0 ダ 太 25

○ 遅 0 ヂ 治 89正訓字としての用例数 ○ 傳 3 デ 代 44○…古事記使用字母<万葉集使用字母 ○ 斗 0 ト甲 刀 55△…古事記使用字母=万葉集使用字母=0 ○ 那 2 ナ 奈 6■…古事記使用字母>万葉集使用字母 ○ 迩 0 ニ 尓 2

【表3】異なる第一字母がそれぞれ『古事記』に正訓字として使用される回数

古事記第一 万葉集第一 古事記第一 万葉集第一

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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この類の音節は六例ある。これらの音節には、『万葉集』

での使用頻度第一位の字母(須蘇祢敝武要)を避ける理由

が見当たらないが、その逆もまた同じで積極的に『万葉集』

の第一字母を採用する理由も求められない。いまは○に準

ずるものとして考える。

■…正訓字としての用例数が、『万葉集』使用字母より

も『古事記』使用字母の方に多いもの

(古事記第一字母:下怒富理漏)

この類の音節は五例ある。これらの音節には、『万葉集』

第一字母(雅努保里路)の方が『古事記』第一字母よりも

『古事記』に正訓字としての用例が少なく、『万葉集』の第

一字母の方がより正訓字との衝突が避けられるであろうか

ら、先行研究をふまえると『古事記』でこれらの字母を採

用しなかったのは疑問である。■に分類されるものは三七

例中の五例と決して多くはないが、これらが採用された理

由を次節において個別に検討する。

『古事記』と『万葉集』で異なる第一字母

―例外の検討―

前節において「正訓字としての用例数が、『万葉集』使用

字母よりも『古事記』使用字母の方に多いもの」に分類さ

れた音節について、この結果の事情を個別に考えたい。

まず音節ゲ甲類をあらわす「下」字は、正訓字として一

八二例も用例がありながら仮名として使われている。『万葉

集』の第一字母である「雅」字もゲ甲類音の仮名字母とし

て想定され、この字が『古事記』中に正訓字としての用例

をもたないことを考えると、「雅」字を採用した方が自然で

あったように思われる。しかし、『古事記』で音節ゲ甲類を

あらわす仮名の用例は「久羅下」(本稿冒頭の例参照)一例

しかない。さらに仮名「下」は『万葉集』全巻を合わせて

ゲ甲

も用例がなく、一般的な用字とは言えない。この一例は当

該例に合わせた特別な用字と考える必要がありそうである。

音節ホをあらわす「富」も、正訓字として四例使用され

るが、『古事記』の第一字母である。この字は仮名として用

いられた箇所の文字列を見ると、音節ホが仮名であらわさ

れる場合、音仮名に続く箇所に「富」三〇例、「本」二六例、

「蕃」一例の計五七例、正訓字に続く箇所に「富」三例、「本」

二例、「番」七例、「菩」五例、「品」一例の計一八例使われ

る。正訓字に続く箇所に音節ホが仮名書きされる場合、「富」

を使う頻度が低く、「番」や「菩」など他の字母がその位置

を多く占めているように見受けられる。「番」字や「菩」字

は正訓字としての用例がないため、正訓字に続く箇所に使

用されても正訓字とみなされることはなかったと思われる。

このことも『万葉集』で第一字母である「保」を採用しな

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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い理由にはならないが、「富」が正訓字としてよまれること

の回避にはなるであろう。

また、『古事記』中の仮名「理」八八例、「漏」五例はラ

ロ甲

行音であるため語頭には使われず、すべてが語中・尾で文

字列として音仮名に続く箇所に使用されている。このこと

で、訓字との並びで訓読みされる可能性は低かったと考え

られ、正訓字との衝突はほとんど問題にならなかったであ

ろう。『古事記』中に正訓字として使われる「理」全五例は、

「修

理」二例(上・二七頁・五行)(中・一二一頁

をさむ・つくろひたまふ

・一一行)、「

」(下・一六六頁・一一行)、「

つくろひたまふ

まことにことわり

也」(下・二一〇頁・五行)、「大

理」(下・二一〇頁

おほきなることわりぞ

・一〇行)であり、すべて正訓字に続く箇所に使用されて

いて音仮名「理」とは使用箇所が重ならない。正訓字とし

て使われる「漏」全六例は、「手

俣漏

出」(上・三三頁・

たなまたよりくきいでて

一〇行)、「木

俣漏逃而」(上・五四頁・五行)、

きのまたより

くきのがして

「令

之」(中・一四五頁・一行)、「雨漏」(下・一六

いひもらさしめたまひき

あめもる

六頁・一一行)、「其漏雨」(同・一二行)、「不漏處」(同)

そのもるあめ

もらぬところ

であり、こちらもすべて正訓字に続く箇所に使用されてい

て音仮名「漏」とは使用箇所が重ならないのである。

ロ甲

唯一、音節ノ甲類をあらわす「怒」のみは『万葉集』で

使用頻度一位の「努」を採用しなかった理由が不明である。

ノ甲類の仮名として使用される「怒」全六例のうち、一例

は正訓字に続く箇所に使用され、他にノ甲類の仮名は「濃」

が一例あるが、正訓字に続いてノ甲類音節を仮名書きする

箇所をこの字が占めているとは思われない。

以上、『古事記』と『万葉集』で使用頻度第一位の字母が

異なる三七音節については、その大部分である三二音節に

おいて『古事記』の第一字母の方が『万葉集』の第一字母

よりも『古事記』に正訓字として使用される頻度が低いか、

もしくは正訓字として一例も使用されないものであった。

例外となる残り五例についても、ノ甲類「怒」の例を除い

て他は特殊な用字や字体の違い、表記の際の文字列によっ

て『古事記』第一字母の使用理由が見出されるものであっ

た。やはり『古事記』において正訓字の用例と衝突しない

ような字母を積極的に使用する傾向は、同時代的に想定さ

れている音仮名字母が複数ある中での選択的結果である可

能性が高いと言うことができよう。

おわりに

『古事記』における漢字の仮名用法と正訓字用法につい

て、その関係を資料全体にわたって調査し、同時代におけ

る他資料と比較しながら検討した。先行研究のとおり、同

一音節をあらわすもので他に候補として想定されるような

仮名字母がある場合でも、『古事記』本文中の正訓字用例と

の衝突を避けるかたちで字母が選択されている様子が見て

アクセント史資料研究会『論集』XI(2016.2)

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取れた。また、その傾向に反するような例も、多くはその

字母を使ってもかまわない何らかの理由が見いだせた。

やはり、『古事記』は同時代に想定された仮名字母の候補

の中から、意識的に文字を選んで資料全体の表記を体系的

に実現させているのであり、このことは、『古事記』の表記

全体が相当程度に統一感をもっていることの裏付けにもな

ると考えられる。

【注】

(1)本稿における『古事記』の本文・訓や用例数は、西宮一民編

『古事記

修訂版』(おうふう

一九七三年初版

二〇一二

年修訂版六刷を使用)による。本稿の本文における『古事記』

のページ番号・行数はこの本によるものである。

(2)本稿では『万葉集』の訓字主体表記巻および訓字主体表記を

巻一~四、六~十三、十六の十三巻およびその表記と定義し、

仮名主体表記巻および仮名主体表記を巻五、十四~十五、十

七~二〇の七巻およびその表記と定義する。なお、本稿にお

ける『万葉集』の本文・訓・歌番号は、塙書房刊『萬葉集

本文篇』による。

(3)本稿での『古事記』における正訓字の用例調査には瀬間正之

『古事記音訓索引』(おうふう

一九九三年)を使用した。

この本は西宮一民編『古事記

修訂版』を基に作成されてい

る。また、用例からは序文・注・歌謡におけるものを除く。

【引用文献】

犬飼

隆(二〇〇五)「古事記と木簡の漢字使用」『木簡による日本

語書記史』(笠間書院)

本稿作成にあたっては、『木簡に

よる日本語書記史(2011増訂版)』(笠間書院

二〇一

一)を参照。

尾崎知光(一九八九)「古事記の序文に於ける一考察―辞理と意況

―」『古事記考説』(和泉書院)

尾山

慎(二〇〇八)「古事記における子音韻尾字音仮名について

―歌謡以外を中心に―」『文学史研究』四八号

春日政治(一九三三)『仮名発達史序説』『岩波講座日本文学』第二

〇回配本(岩波書店)初出

本稿作成にあたっては、『春

日政治著作集』(勉誠社

一九八四)に所収のものを参照。

川端善明(一九七五)「万葉仮名の成立と展相」『日本古代文化の探

文字』(社会思想社)

神田秀夫(一九六二)『日本古典全書

古事記

上』(朝日新聞社)

西宮一民(一九八八)「漢字文4

『古事記』」『漢字講座5

古代

の漢字とことば』(明治書院)

本稿作成にあたっては、『古

事記の研究』(おうふう

一九九三)に「文字の書分けに

ついて」の題で所収のものを参照。

中央大学附属中学校講師

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