細胞生物学の巨匠Dr. Gordon H....

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1 細胞生物学の巨匠 Dr. Gordon H. SATO 逝く Young Researcher に Freedom を。研究費は俺が集める。若手は好きな研究を。こ んなことを実行してこられた科学者がいるとは。Lake Placid を訪問時に Gordon とテ ニスをした後 Beer を飲みながら〔Good business, based on good research〕と、想 っていることを話したら、とても関心をもってくれました。これが、Gordon との出会 いでした。その時のテニス仲間は、Gordon/Dr. Hoshi vs. 松尾親子(息子)でした。 これが縁で、1989 年から彼の研究所にお世話になることとなりました ★無血清培地 からモノクローナル抗体(mAB)開発:Gordon は UCSD で長く教職/研究生活を送り、 その後 NY 州北にある Lake Placid にあった W. Alton Johns Cell Science Center の所 長時代を通じて沢山の日本人を育ててきました。彼は Brandeis University(マサチュ ーセッツ州ウオルサム)の准教授の頃、「Mammalian Cell をBacteria のように培養さ せる」と豪語して周りの方たちからキチガイ扱いされていました。でもそれを成功さ せ、加えて無血清培地まで開発しました。この偉業は多くの Growth Factor の発見や mAB 開発に、さらには iPS 細胞の研究にも繋がっています。縁があって、田中先生と 松尾の共通の日本での恩師、堀尾武一先生(阪大名誉教授)は、Gordon のチャレンジ 精神に惚れて何人もの弟子を Postdoc として送り込まれました ★Gordon は 2017 年 3 月 31 日に 89 歳で逝去されました。一つの時代が終りました。5 月 3 日付けで次の ような公式アナウンスが UCSD から出されています。哀悼の意を表して原文と要所に 和訳を付け紹介します。 UC SAN DIEGO CAMPUS NOTICE University of California San Diego (UCSD と略称されている) OFFICE OF THE DEAN - DIVISION OF BIOLOGICAL SCIENCES 生物科学の学部長事務所 May 3, 2017 ALL ACADEMICS, STAFF AND STUDENTS AT UC SAN DIEGO ・UCSD の全アカデミアスタッフ並びに学生諸氏 SUBJECT: Passing of Professor Gordon Sato, Renowned Biologist at UC San Diego ・UCSD で高名なゴードンサトウ教授が逝去

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細胞生物学の巨匠 Dr. Gordon H. SATO 逝く

Young Researcher に Freedom を。研究費は俺が集める。若手は好きな研究を。こ

んなことを実行してこられた科学者がいるとは。Lake Placid を訪問時に Gordon とテ

ニスをした後 Beer を飲みながら〔Good business, based on good research〕と、想

っていることを話したら、とても関心をもってくれました。これが、Gordon との出会

いでした。その時のテニス仲間は、Gordon/Dr. Hoshi vs. 松尾親子(息子)でした。

これが縁で、1989 年から彼の研究所にお世話になることとなりました ★無血清培地

からモノクローナル抗体(mAB)開発:Gordon は UCSD で長く教職/研究生活を送り、

その後 NY 州北にある Lake Placid にあった W. Alton Johns Cell Science Center の所

長時代を通じて沢山の日本人を育ててきました。彼は Brandeis University(マサチュ

ーセッツ州ウオルサム)の准教授の頃、「Mammalian Cell を Bacteria のように培養さ

せる」と豪語して周りの方たちからキチガイ扱いされていました。でもそれを成功さ

せ、加えて無血清培地まで開発しました。この偉業は多くの Growth Factor の発見や

mAB 開発に、さらには iPS 細胞の研究にも繋がっています。縁があって、田中先生と

松尾の共通の日本での恩師、堀尾武一先生(阪大名誉教授)は、Gordon のチャレンジ

精神に惚れて何人もの弟子を Postdoc として送り込まれました ★Gordon は 2017 年

3 月 31 日に 89 歳で逝去されました。一つの時代が終りました。5 月 3 日付けで次の

ような公式アナウンスが UCSD から出されています。哀悼の意を表して原文と要所に

和訳を付け紹介します。

UC SAN DIEGO

CAMPUS NOTICE

University of California San Diego

(UCSD と略称されている)

OFFICE OF THE DEAN - DIVISION OF BIOLOGICAL SCIENCES

生物科学の学部長事務所

May 3, 2017

ALL ACADEMICS, STAFF AND STUDENTS AT UC SAN DIEGO

・UCSD の全アカデミアスタッフ並びに学生諸氏

SUBJECT: Passing of Professor Gordon Sato, Renowned Biologist at UC San Diego

・UCSD で高名なゴードンサトウ教授が逝去

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In Memoriam, Gordon H. Sato, 1927-2017

・Gordon H. Sato(1927-2017)を悼んで(以下、Gordon と略称)

Professor Gordon H. Sato, a pioneer in understanding the protein growth factors that

allowed mammalian cells to grow in tissue culture, died at the age of 89 on March 31st.

・Gordon は哺乳動物細胞を組織培養できるようにした蛋白増殖因子研究の先駆者で、3 月

31 日に 89 歳で死去。

As an outcome of his work at UC San Diego, Gordon and coworkers made the

first monoclonal antibody against the EGF receptor (now called Eribitux or Cetuximab)

to be developed into an effective therapeutic for human cancers.

・UCSD での彼の研究成果として、Gordon と共同研究者がヒト癌治療に効果的な EGF 受

容体に対する最初のモノクロ抗体を作製したことを挙げることができる。Arbitux あるいは

Cetuximab と呼ばれている。

After he left UC San Diego, Gordon became the Director of the W. Alton Jones Cell

Science Center in Lake Placid, NY.

・UCSD のあと Gordon は W. Alton Jones Cell Science Center(Lake Placid、NY)の所

長に就任。

Gordon’s father was a Japanese immigrant, and at the start of World War II, Gordon and

his family were ‘relocated’ to the Manzanar camp in the Owens Valley.

・Gordon の父親は日本移民で、第二次世界大戦勃発の折、Gordon と家族は Owens

Valley(*)にある Manzanar 収容所に収容された。

(*)California 州 LA の北東

Gordon was a PhD student at Caltech with Max Delbruck, and a professor at UC San

Diego from 1969 to 1983. He was elected to the National Academy of Sciences in

1984.

・Gordon は Caltech で UCSD 教授の Max Delbruck に師事、1969-1983 年の 14 年間

UCSD の教授を務めた。1984 年に国立科学アカデミーのメンバー(*)となった。

(*)Proc. Natl. Acad. Sci.,に Communicate してもらった論文がある。

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While at the Jones Cell Science Center, Gordon founded the Manzanar Project, which

was aimed at the development and dissemination of mangrove forest-based

aquaculture that could provide food and income for poor countries.

・Lake Placid にある W Alton Jones 細胞科学研究所に移籍後 Manzanar プロジェクト(*)

を立ち上げた。これは貧困飢餓の国々の人々を救済することを目的としたマングローブの

森を基盤とするアクワカルチャーの展開を目論んだもの。

(*) Manzanar の名称は彼が収容されていた場所の名前にちなんだもの。後年、時のリーガ

ン大統領に「日本人収容が間違った政策であったこと、保証金を支払う」ことを認めさせ

たグループの有力メンバー。多感なティーンエイジのころに受けた「あの屈辱と不条理は

僕のの思考と原動力の原点だ」と言っておられたと記憶します。

This was particularly successful in Eritrea, where approximately one million mangroves

were planted in desert coastlines, which allowed villages to prosper in a country that

has little arable land.

・このプロジェクトはエリトリアで成功し、約 10 万本のマングローブの木が沿岸沿いの

砂漠地帯に植えつけられ、耕作地のわずかな国の村々が栄えるようにした(*)。

(*)追記:マングローブの植生は Low Tech の塊で、「ポイントは鉄分の徐放的供給にあ

る」とのこと。沿岸地帯の砂漠化が減少、育った樹の葉っぱをヤギが食べ、糞尿を肥料

に、ヤギは食肉になる、という連鎖のエコロジー。成功を見届けるには大変な苦労があ

り、機関銃をもって人々を指導した写真が残っている)

A significant finding of this work was that the judicious application of nutrients could

turn otherwise sterile intertidal regions into productive ecosystems.

・この仕事の顕著な点は、栄養の賢明な応用がそうでなければ無毛の潮間地帯を生産性の

あるエコシステムに変換させることが可能となったことにある。

補足:Gordon はこの業績で 2002 年に Rolex 賞(*)を、2005 年には Blue Planet 賞を受賞

した。

Gordon is survived by his wife C. Josette Gaudrea, his children Denry, Susan, Nathan,

Nancy, Sara and Amy and by six of his grandchildren.

・Gordon は奥さんのジョゼットガードルー、子供さんのデンリ―、スーザン、ネイサ

ン、ナンシー、サラ、そしてエイミー、そして 6 人のお孫さんに恵まれて余生を過ごされ

ました。

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In lieu of flowers, the family requests that donations be made to the Gordon H. Sato

Endowment in the Division of Biological Sciences at UC San Diego.

・追悼のお気持ちは、ご家族のご要望により UCSD の生物科学部門にある Gordon H. Sato

寄付講座に寄付ください。

William McGinnis

Dean, Division of Biological Sciences

(*)2002 年に Rolex 賞(環境)を受賞、以下はサイトからの引用(既述の内容と重複する

がよくまといまっているのであえて紹介)

≪http://www.rolexawards.com/40/ja/laureate/gordon-sato≫

高名なアメリカ人生物学者ゴードン・サトウは、2017 年 3 月 31 日に他界するまでの引

退後の日々をエトルリアの人々の自立支援に費やしていた。彼の揺るぎない決意は、ロー

テクで持続可能な農業経済を海岸地帯の貧困地域にもたらした。以前は自生していなかっ

た場所にマングローブを植林するようになった。

飢饉の知らせを聞きつけたサトウは、まずはじめに当時エチオピアからの独立を求めて

いたエトルリアを訪れた。1985 年に養殖漁業を開始。第二次世界大戦中に自身を含めた日

系アメリカ人家族が辛い経験をしたマンザナールをプロジェクトの名前にした。

サトウは何度もエトルリアを訪れており、1992 年に引退してからは、毎年半分をエトル

リアで過ごしている。世界で最も貧しく、乾燥した地域の一つで、彼のマンザナールプロ

ジェクトは、海岸地帯に有り余る資源である日光と海水を活用してかつての不毛の地にマ

ングローブを養成し、動物の飼料や魚の生息地を作っている。大がかりで利益を追求しな

いこの取り組みのおかげで、今日海岸線には 100 万本のマングローブが生い茂っている。

エトルリアの人々を助けるという彼の決意は 2002 年、サトウにロレックス賞をもたら

した。当時 74 歳、最高齢の受賞者だ。マンザナールは今ではモーリタニアにも広がって

いる。150 以上の論文を発表しているサトウは、2005 年にブループラネット賞を受賞し

た。

以上(松尾)