『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行につ...

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について ― 127 ― 1.問題の所在 昨年に引き続き、筆者は、『大日経疏』(以下、『経疏』)や『大日経広釈』(以下、『広釈』) のような注釈書の解釈に先立ち、この経典を『大日経』として成り立たせている思想の根幹 を、『大日経』の文脈そのものから読み解こうとしている。その試みは現行の『大日経』の 構造を再検討する作業を伴い、本年は第2章・具縁品(漢訳:入曼荼羅具縁真言品、Tib.: dkyil h 4 khor du dgod pah 4 i sn 4 ags kyi mdsod、曼荼羅を建立する真言の蔵)の内容確認に着 手した。そこでまず、「具縁品は本当に住心品の続きの章なのか」という前提から問うた。 真言教学の伝統的な区分によれば、この具縁品は住心品の「教相」に続く「事相」すなわち 実践面への導入部にあたる。その内容は曼荼羅の作壇法や儀礼の手順の説明が大半であり、 教理的な背景にはほとんど言及しない。その中から住心品との思想的な脈絡を探るうちに、 今回取り上げる具縁品中盤の三昧が、住心品と同じ思想・同じ世界観を有しているのではな いか、との想定に至った。それらの三昧は、内容と特徴から次の2種に大別できる。 a)諸仏の三昧 1 b) 一生補処の菩薩、八地の菩薩、声聞、縁覚、世間にわたる5種の「三昧道(Tib. tin 4 n 4 e h 4 dsin gyi tshul、三昧の理趣)」 しかし、これらの三昧と具縁品に説かれた儀礼との関係は明確ではない。何故、この場面 で以上2種の三昧が説かれたのか。その意義を前後の文脈と住心品との関係から検討するこ とが拙論の意図である。 2.仏の三昧と三昧道 2.1 2種の三昧が説かれた経緯と問題点 具縁品中盤、大悲胎蔵生曼荼羅の諸尊を説明し終えて後、金剛手秘密主が次のような感興 の言葉を述べている 2 漢訳)無量倶胝劫 所作衆罪業 見此漫茶羅 消滅盡無餘 『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について 文学研究科仏教学専攻博士後期課程3年 馬場えつこ

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

― 127 ―

1.問題の所在

 昨年に引き続き、筆者は、『大日経疏』(以下、『経疏』)や『大日経広釈』(以下、『広釈』)

のような注釈書の解釈に先立ち、この経典を『大日経』として成り立たせている思想の根幹

を、『大日経』の文脈そのものから読み解こうとしている。その試みは現行の『大日経』の

構造を再検討する作業を伴い、本年は第2章・具縁品(漢訳:入曼荼羅具縁真言品、Tib.:

dkyil h4

khor du dgod pah4

i sn4ags kyi mdsod、曼荼羅を建立する真言の蔵)の内容確認に着

手した。そこでまず、「具縁品は本当に住心品の続きの章なのか」という前提から問うた。

真言教学の伝統的な区分によれば、この具縁品は住心品の「教相」に続く「事相」すなわち

実践面への導入部にあたる。その内容は曼荼羅の作壇法や儀礼の手順の説明が大半であり、

教理的な背景にはほとんど言及しない。その中から住心品との思想的な脈絡を探るうちに、

今回取り上げる具縁品中盤の三昧が、住心品と同じ思想・同じ世界観を有しているのではな

いか、との想定に至った。それらの三昧は、内容と特徴から次の2種に大別できる。

 a)諸仏の三昧1

 b) 一生補処の菩薩、八地の菩薩、声聞、縁覚、世間にわたる5種の「三昧道(Tib. tin4

n4e h4

dsin gyi tshul、三昧の理趣)」

 しかし、これらの三昧と具縁品に説かれた儀礼との関係は明確ではない。何故、この場面

で以上2種の三昧が説かれたのか。その意義を前後の文脈と住心品との関係から検討するこ

とが拙論の意図である。

2.仏の三昧と三昧道

2.1 2種の三昧が説かれた経緯と問題点

 具縁品中盤、大悲胎蔵生曼荼羅の諸尊を説明し終えて後、金剛手秘密主が次のような感興

の言葉を述べている2。

漢訳) 無量倶胝劫 所作衆罪業 見此漫茶羅 消滅盡無餘

『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

文学研究科仏教学専攻博士後期課程3年

馬場えつこ

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何況無量稱 住眞言行法 行此無上句 眞言救世者3

訳)無量倶胝劫の長きにわたって為したところの諸々の罪業も、この曼荼羅を見

れば悉く消え失せるでしょう。ましてや、無量に称讃される者が真言の行法に住

して、この無上の句[すなわち]真言の救世者[の句]を行ずるならば、更に何

を言おうか[言うまでも無い]。

Tib.)  bskal pa bye ba du ma ru//sdig pa bgyis par gyur ba gan4//

de kun dkyil h4

khor h4

di h4

dra ba//mthon4 bas byan4 bar h4

gyur lags na//

grags pa mthah4

yas sn4ags spyod pah4

i//tshul la gnas na smos ci h4

tshal//

skyob pah4

i gsan4 sn4ags bzlas na ni//go h4

phan4 bla na med par h4

gyur//4

訳)誰であれ幾倶胝劫にわたって罪を犯した者、その彼ら全てでさえもがこのよ

うな曼荼羅を見ることによって清浄となるのであれば、無量の称讃あるもの[す

なわち]真言行の理趣に住するならば[その功徳は]言うまでもありません。救

世者の真言を唱えたならば、無上の境地に至るでしょう。

 すなわち、曼荼羅を目にするだけでも無量倶胝劫にわたって犯した罪が浄化されるのだか

ら、「真言行法(Skt. mantracaryānaya, Tib. sn4ags spyod pah4

i tshul、真言行の理趣)」に住

するならば何をか況や、それ以上の功徳があるだろう、というものである。そして、世尊毘

盧遮那に更なる詳細を問うのであるが、その質問の内容は概ね、

1.曼荼羅作図の補足(彩色の手順、門の大きさなど)

2.曼荼羅を前にして行う諸儀礼について(華香等の供養、灌頂、護摩など)

3.真言の「相(Tib. mtshan ñid、特徴)」について

4.三昧について

 以上の4項目である5。この一連の金剛手の発言から推測すると、曼荼羅をただ目にする

以上の効果を求めて真言行の理趣に住するにあたり、三昧もまた何らかの役割を有している

と考えられる。そして、この4.三昧に関する質問への回答こそが、諸仏の三昧と5種の

「三昧道(Tib. tin4 n4e h4

dsin gyi tshul、三昧の理趣)」のいずれか、あるいは両方である。

 しかし、この2つの三昧についての説明は他に比べて唐突であり、奇異にも感じられる。

質問の項目中、三昧を除いた他の3つは、真言行に従事する者が行うべき具体的な所作とし

て紹介されている。だが、この三昧だけは、具縁品中に説かれる諸儀礼との関連が示されな

い。

2.2 諸仏の三昧とは

 この三昧について回答するにあたり、世尊毘盧遮那はまず三昧の一般的な意味を挙げ、そ

の上で諸仏の三昧に言及する。

漢訳)略説三摩地 一心住於縁 廣義復殊異 大衆生諦聽 

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

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佛説一切空 正覺之等持 三昧證知心 非從異縁得 

彼如是境界 一切如來定 故説爲大空 圓滿薩婆若6

訳)三昧とは簡略に言えば一心に対象に集中することである。

詳説すればまた様々である、摩訶薩よ、良く聴け。

仏陀は「一切空が正等覚者の三昧である」と説いている。

三昧において心を悉知することであり、他の対象から得られるものではない。

以上のような境地が一切の如来の禅定なのである。

故に“大空”と言い、一切智[者の智慧]を完成するものである。

Tib.)  tin4 n4e h4

dsin ni mdor na sems//yan4 dag mgu ba7yin par bśad//

sems dpah4

chen po khyad par ni//yid gcig bsdus la mñan par bgyis//

san4 s rgyas kun gyi tin4 h4

dsin ni//ston4 pa ñid ces rgyal bas gsun4 s//

de ni sems yon4 s śes pa las//thob par h4

gyur gyi gshan las min//

de dag8ñid ni span4 s pa ste//rdsogs san4 s rgyas kyi yin par h4

dod//

ston4 pa chen po shes bya ste//kun mkhyen ye śes rdsogs byed pah4

o//

de bas rnam pa thams cad du//ston4 ñid rtag tu dran par byah4

o9//10

訳)三昧とは要を言えば心が喜ぶことであると言われる。

摩訶薩よ、特に心を一つにして傾聴せよ。

“一切の仏陀の三昧とは空性である”と勝者によって説かれている。

それは心を悉知することから得るより他にない。

それらを離れたものであり、[それ故に]正等覚者の[三昧]であると認められ

る。

大空というものであって、一切智者の智慧を完成させるものである。

それ故に、あらゆる方法において常に空性が憶念されるべきである。

 そこで諸仏の三昧とはすなわち空性の三昧であり、心を悉知することによって得られると

いう。また、一切智者の智慧の獲得に通じることから、本経住心品のいわゆる「如実知自心

(Tib. ran4 gi sems yan4 dag pa ci lta ba bshin yon4 s su śes pa、あるがままに自分自身の心を

知ること)」との関連が予想される。

2.3 5種の三昧道とは

 以上に述べた諸仏の三昧と、次いで説かれる5種の三昧道とを分ける最も顕著な特徴は、

「道(Tib. tshul、理趣)」の語の有無である。有名な大勤勇の偈11に続いて、以下の5種類の

三昧道が説明される。

 1)一生補処の菩薩

漢訳) 復次祕密主。一生補處菩薩。住佛地三昧道。離於造作知世間相。住於業地堅住佛

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地12。

訳)また次に秘密主よ、一生補処の菩薩は仏地の三昧道に住しており、はたらき

を離れて世間の在りようを知っている。[その上で]はたらきの境地に留まって

仏地に堅く定まっている。

Tib.) gsan4 ba pah4

i bdag po gshan yan4 byan4 chub sems dpah4

skye ba gcig gis thogs

pa san4 s rgyas kyi sa la gnas pa rnams kyi tin4 n4e h4

dsin gyi tshul ni//

dgos pa dan4 ni bral ba ru//h4

jig rten mtshan ñid śes nas ni//

dgos pah4

i sa la gnas de rnams//san4 s rgyas sa la gnas pa yin//13

訳)秘密主よ、また次に、一生補処であり仏地に住している者たちの三昧の理趣

とは─

はたらきを離れ、世界の在りようを知り、[その上で]はたらきの境地に留まっ

ている、その彼らが仏地に定まった者たちである。

 2)八地の菩薩

漢訳) 復次祕密主。八地自在菩薩三昧道。不得一切諸法。離於有生。知一切幻化。是故

世稱觀自在者14。

訳)また次に、秘密主よ、第八地において自在である菩薩の三昧道とは、一切諸

法を[対象として]仮構せず、存在や発生[という概念]を離れ、全ては幻のよ

うに出来ているものだと知っている。それ故に世間は[八地の菩薩を]“観自在

者”と呼ぶのである。

Tib.) gsan4 ba pah4

i bdag po gshan yan4 byan4 chub sems dpah4

sa brgyad pah4

i dban4

phyug rnams kyi tin4 n4e h4

dsin gyi tshul ni//

chos rnams thams cad mi dmigs śin4//srid dan4 skye ba rnams span4 s pah4

i/

h4

jig rten sgyu ma ltar śes nas//h4

jig rten h4

jig rten dban4 du h4

dod//15

訳)秘密主よ、また次に、菩薩にして第八地の自在者たちの三昧の理趣とは―

一切の諸法を認識[対象と]せず、諸々の存在と発生[という概念]を捨て去っ

ている、[そのような菩薩は]16世間を幻のようなものと知って、各々の世間にお

いて自在であると認められている。

 3)声聞

漢訳) 復次祕密主。聲聞衆住有縁地。識生滅除二邊。極觀察智。得不隨順修行因。是名

聲聞三昧道17。

訳)また次に秘密主よ、声聞たちは対象を有する境地に留まっている。発生と消

滅とを知り、[常恒と断滅との]両極端[な見方]を取り除いている。詳細な観

察の智慧によって[輪廻の法則に]逆らう修行の発端を得る。 これを声聞の三

昧道と名づける。

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

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Tib.) gsan4 ba pah4

i bdag po gshan yan4 ñan thos dmigs pa dan4 bcas pah4

i sa la gnas pa

rnams skye ba dan4 h4

jig par rtogs nas mthah4

gñis bśig pas rgyu mi dmigs pah4

i

phyir//śin tu dn4os po med pah4

i ye śes mi spyod de h4

di ni ñan thos rnams

gyi tin4 n4e h4

dsin gyi tshul lo//18

訳)秘密主よ、また次に、対象を有する境地に留まる諸々の声聞たちは、発生と

消滅とを知って両極端[な見方]を破ることによっては原因を[正しく]捉えら

れないが故に、実体が存在しないという智慧を行ずることができないのであるが、

これが声聞たちの三昧の理趣である。

 4)縁覚または独覚

漢訳) 祕密主縁覺觀察因果。住無言説法。不轉無言説。於一切法證極滅語言三昧。是名

縁覺三昧道19。

訳)秘密主よ、縁覚は原因と結果とを観察して、言語を離れた法に留まり、言語

を離れているということを[説法して]世に現そうとしない。一切法において言

語を滅し尽くした三昧を体得している。これを縁覚の三昧道と名づけるのである。

Tib.) gsan4 ba pah4

i bdag po ran4 san4 s rgyas rgyu dan4 h4

bras bu rnam par bśig nas

brjod du med pah4

i chos kyi tshul la gnas pa rnams ni//chos thams cad brjod

du med do sñam pah4

i ye śes h4

jug ste//n4ag śin tu h4

gog pah4

i tin4 n4e h4

dsin la

yan4 dag par reg par byed pa h4

di ni ran4 san4 s rgyas rnams kyi tin4 n4e h4

dsin gyi

tshul lo//20

訳)秘密主よ、また、原因と結果[という見方]を破って、言葉に出来ない法の

理趣に留まっている独覚たちは、「一切法は言葉にできない」という智慧に通暁

して、“言語を離れた三昧”に到達するものであるが、これが独覚の三昧の理趣

である。

 5)世間

漢訳)祕密主。世間因果及業。若生若滅。繋屬他主。空三昧生。是名世間三昧道21。

訳)秘密主よ、世間における原因や結果およびその影響力は、ある時には発生

し、ある時には消滅するものである。他の造物主を拠りどころとして空の三昧が

生じる。これを世間の三昧道と名づけるのである。

Tib.) gsan4 ba pah4

i bdag po gshan yan4 h4

jig rten pa rnams rgyu las h4

bras bu dan4 las

las h4

byun4 bah4

am//ln4og par rtog cin4 gshan gyi dban4 gis ston4 pa ñid kyi tin4

n4e h4

dsin kun tu skye bar h4

gyur te h4

di ni h4

jig rten pa rnams kyi tin4 n4e h4

dsin

gyi tshul lo//22

訳)秘密主よ、また次に、諸々の世間の者たちは、原因からの結果とその潜勢力

より発生し、あるいは消滅すると考えて、[その結果]他者の力に基づいて空性

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の三昧が生じるに至る。これが世間の三昧の理趣である。

2.4 三昧道とは何か

 では、この三昧道とは何であるのか? 具縁品には総括として次のように述べられている。

漢訳)爾時世尊而説偈言

祕密主當知 此等三昧道 若住佛世尊 菩薩救世者

縁覺聲聞説 摧害於諸過 若諸天世間 眞言法教道23

如是勤勇者 爲利衆生故24

訳)そこで世尊は偈をお説きになった。

「秘密主よ、まさに知るべきである。これらの三昧道とは、もし仏世尊・菩薩救

世者、縁覚・声聞[の三昧道]に住するならば、諸々の過失を破ると説かれる。

もし諸々の天や世間[の三昧道]ならば、[それもまた]真言の儀軌の理趣であ

る。このようにして勤勇とは衆生を利益するものであるから」 

Tib.) gsan4 ba pah4

i bdag po//

h4

di ni tin4 n4e h4

dsin gyi tshul//yin te de la gnas pa yi//

san4s rgyas dan4 ni ran4 san4s rgyas//byan4 chub sems dpah4

skyob rnams dan4//

ñan thos des pa sdig bcom par//grags pa gan4 dag yin pa dan4//

h4

jig rten pah4

i lha gan4 yin//gsan4 sn4ags spyad pah4

i cho gah4

i tshul//

sems can rnams la phan h4

dod pas//dpah4

bo de tshe h4

chad par byed25//26

訳)秘密主よ。 これが三昧の理趣である。それ[=三昧の理趣]に定まる仏陀

と、独覚と、菩薩救世者らと、善き声聞という、悪に打ち勝つ名高き者たちと、

世間の人にとっての神であるものとは、真言行の儀軌の理趣である。衆生らを利

益するために、勤勇がそのおりに説くものである。

 蔵漢で訳文の趣旨は異なるが、齟齬を修正して要約すれば、「これらの三昧道に住してい

る仏と菩薩と声聞と縁覚と世間の天とは“真言行の儀軌の理趣(漢訳:道、Tib.:tshul)27”

であり、これは衆生を利益するために勤勇が説くものである」ということになる。

 まず、三昧道の三昧とは何のための三昧なのかといえば、それは仏・菩薩・声聞・縁覚・

世間の天がそこに住することを目的とした三昧であり、書いてある通りに理解すれば、具縁

品で曼荼羅に入ろうとしている真言行者にこれらの三昧道の実践を勧めたものではなく、導

師である阿闍梨の行うべき所作でもない。しかし、真言行と何らかの関係は有している。

 しかし、仏も住するであろう三昧道の中に仏の三昧道がない、という不明な点もある。で

は、仏が住するのは三昧道ではなく、先に説かれた諸仏の三昧なのか。だとすれば、「道

(Tib. tshul、理趣)」の語の有無に何の意味があるのか。

 以上の疑問を解き、これらの三昧道と真言行との関係を明らかにできれば、この一連の諸

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

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三昧を説いた意義もより明確に把握できるだろう。そこで、具縁品における前後の文脈から、

そして先行する章である住心品との関係から、これら三昧道と仏の三昧とが真言行とどのよ

うに関連するものなのか検討する。

3.三昧と真言行

3.1 大勤勇の偈と諸仏の三昧

 具縁品には仏の三昧と5種の三昧道との間に、大勤勇すなわち世尊毘盧遮那の降魔成道を

描写した以下の有名な偈がある。

漢訳)爾時毘盧遮那世尊。與一切諸佛同共集會。各各宣説一切聲聞縁覺菩薩三昧道。

時佛入於一切如來一體速疾力三昧。於是世尊復告執金剛菩薩言

我昔坐道場 降伏於四魔 以大勤勇聲 除衆生怖畏

是時梵天等 心喜共稱説 由此諸世間 號名大勤勇

我覺本不生 (中略)

此第一實際 以加持力故 爲度於世間 而以文字説28

訳)そこで毘盧遮那世尊は一切の諸仏と一同に集まって、個別に全ての声聞・縁

覚・菩薩の三昧道を説き明かした。その時に仏[=毘盧遮那]は“一切如来一体

速疾力三昧”という名の三昧に入って、その状態で世尊は執金剛菩薩[=金剛手

秘密主]に次のように仰せになった。

「私はかつて菩提道場に座して四魔に打ち勝った。大勤勇の声でもって衆生の畏

怖を取り除いた。その時、梵天らが歓喜してもろともに私を称讃した。これによ

って、諸々の世間では私を大勤勇と呼んでいる。私は本不生の理を覚り、(中略)

この最高の真実が、加持の力によって、世間を救済するために文字として説かれ

るのである」

Tib.) de nas bcom ldan h4

das rnam par snan4 mdsad san4 s rgyas thams cad dan4 thabs

gcig tu yan4 dag par mos29nas//ñan thos dan4 ran4 san4 s rgyas dan4 byan4 chub

sems dpah4

rnams kyi tin4 n4e h4

dsin so soh4

i tshul du gsun4 s so//

deh4

i tshe yan4 san4 s rgyas thams cad dan4 rgyud gcig pah4

i stobs kyi śugs śes

bya bah4

i tin4 n4e h4

dsin la sñoms par shugs so//

de nas yan4 bcom ldan h4

das kyis byan4 chub sems dpah4

phyag na rdo rje la

bkah4

stsal pa//

byan4 chub sñin4 por h4

dug nas su//bdud ni rnams pa bshi bcom pas//

de nas dpah4

po chen po shes//tshan4 s las sogs pa30lha tshogs rnams//

h4

jigs pa thams cad med pah4

i sgra//dgah4

bshin du ni sgrogs par byed//

de phyin chad ni n4a dpah4

bo//dpah4

bo chen po shes su grags//

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skye ba med pa n4as rtogs pa//(中略)

n4a yi de ñid dam pa h4

di//h4

jig rten snan4 bar byed pa ste//

byin gyis brlabs kyi stobs kyis ni//yig h4

bru rnams su bstan nas su//

sems can rnams la sñin4 brtseh4

i phyir//n4as ni thams cad rab tu bśad//31

訳)そこで、世尊毘盧遮那は一切の仏陀と諸共に語って、声聞と独覚と菩薩らの

個別の三昧の理趣を仰せになった。またその時、“一切如来と一つに合流する速

疾力”という三昧に入った。それから再び世尊は金剛手菩薩に仰せになった。

「菩提道場にあった時、四魔軍に打ち勝ったことによって、それ故に“大勤勇よ”

と、梵天を始めとする諸尊が、あらゆる畏れの無い声で喜び[私を]称讃した。

それから私は“勤勇よ、大勤勇よ”と称讃されるのである。不生は私によって覚

られた。(中略)私の最上の真実であるこれを世間に開示せしめるものであり、

加持の力によって諸々の種字を示現して、衆生を憐れむが故に私は一切を説き明

かすのである」

 この大勤勇の偈は仏の覚りについて言及したものである。ということは、先行する諸仏の

三昧によって得られる覚りと同じ内容、同じ質の覚りであって然るべきではないか。手がか

りとして、具縁品前半に、同様に降魔成道に触れた偈がある32。そこでは、過去・現在・未

来の諸仏が「眞言妙法(Tib. gsan4 sn4ags kyi cho ga、真言の儀軌)」に通達し、それによっ

て菩提樹下で覚りを得たことが示唆されている33。この大勤勇の偈は、覚るための具体的な

行法には全く触れていないが、もしこれが真言の儀軌による覚りだとすれば、特にその具体

的な方法が示されていない「自心を知ること」と、「真言による修行」とを単純に同じ位相

の出来事と見做してよいものか、疑問が残る。具縁品にこの両者を統合する理論が示されて

いない以上、解決法は不明であるが、この場で諸仏の三昧と大勤勇の偈とが並べて記された

背景には、これら2つの覚りを同じものとする何らかの前提があっただろうと思われる。

3.2 大勤勇の偈と三昧道

 また、この大勤勇の偈と三昧道との関係であるが、ここで着目すべきは偈の締めくくりの

部分である(3.1の引用文下線部参照)。そこには、大勤勇の覚りである最高の真実が、衆

生済度を目的とした加持力によって文字として説かれる、という流れが示されている。そし

て、続く金剛手の言葉は、言語表現を離れた法が言語によって説かれるということ、すなわ

ち、真言の相が二諦に拠っていることを讃えている。

漢訳)諸佛甚希有 權智不思議 離一切戲論 諸佛自然智

而爲世間説 滿足衆希願 眞言相如是 常依於二諦34

訳)諸々の仏陀は甚だ稀有なもの、方便と智慧とは不思議なものです。

あらゆる言語活動を離れたものが諸仏の本来の智慧です。

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

― 135 ―

しかし、世間のために説法をして、衆生らの願いを満たします。

真言のありようも同様に、常に二つの真理に拠っているものです。

Tib.)  san4 s rgyas kun gyi thabs dan4 ni//śes rab bsam yas n4o mtshar che//

spros pa kun dan4 khral ba yi//chos rtogs nas ni ran4 byun4 rnams//

h4

jig rten kun gyi re ba kun//yon4 s su rjogs par byed pa ston//

gsan4 sn4ags mtshan ñid de lta bu//bden pa gñis la legs gnas pa//35

訳)全ての仏陀の方便と智慧とは不思議であり、稀有なものです。

あらゆる言語活動から解き放たれた法を知り尽くしており、まさに自然生者たる

方々です。

一切の世間のあらゆる望みを満たすものをお示しになっている。

真言のありようも同様に二つの真理に定まっている。

 この一連のやり取りによって、大勤勇の偈の趣旨が、言語による衆生救済の表明にあった

と分かる。言葉で表すことができない無相の真理を言葉を始めとする有相によって表現する

ことが、真言行の理趣であり儀軌であるという主張は、この具縁品の随所に見られる36。三

昧道もまたその総括において真言行の儀軌の理趣と呼ばれ、衆生の利益のために勤勇すなわ

ち仏によって説かれたものである、という点で軌を一にする。ここから、一つの真理をあら

わす多様な手段としての三昧道のあり方が推測され、それが「道(Tib. tshul、理趣)」とい

う語を伴う理由であると考えられる。

 では何故、とりわけ“三昧”を取り上げて差別化する必要があったのか?

3.3 真言の相と三昧

 「何故“三昧”なのか」を考える手がかりとして筆者が着目したのは、先に金剛手が質問

したうちの3.真言の「相(Tib. mtshan ñid、特徴)」についての回答である。そこでは、

声聞と縁覚との真言に相違があることの根拠として、三昧の違いに触れている。

漢訳) 若有扇多字 微戍陀字等 當知能滿足 一切所希願

此正覺佛子 救世者眞言 若聲聞所説 一一句安布

是中辟支佛 復有少差別 謂三昧分異 淨除於業生37

訳)もし扇多の字や微戍陀の字などがあれば、

まさに知るべきである、これはあらゆる望みを満たす

正等覚者と仏子たる救世者[=菩薩]の真言である。

もし声聞[の真言]ならば一つ一つの句を充てる。

この中で辟支佛[の真言]にはまた相違点がある。

すなわち、三昧が[声聞と]異なっており、業による生涯を浄化している」と。

Tib.)  shi bah4

i yi ge rnam par dag//re ba thams cad rdsogs byed pah4

i//

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― 136 ―

gsan4 sn4ags san4 s rgyas thams cad dan4//byan4 chub sems dpah4

skyob pah4

i yin

//

ñan thos rnams kyi gsan4 sn4ags ni//gcig po gshan ni gcig la gnas//

ran4 san4 s rgyas kyi h4

dra de bshin te//khyad par dag ni bśad bya ni//

tin4 n4e h4

dsin gyi khyad par las//las tshe rnam par sbyon4 shes bya//38

訳)寂静[=śānta]の字と清浄[=viśuddhaの字]とは、一切の望みを達成する

一切の仏陀と菩薩救世者の真言である。

声聞たちの真言は、それぞれが一つ[の句]に住している。

独覚の[真言]はそれ[=声聞]に似ており、相違点を説明すると、

三昧の違いゆえに業寿を清浄にしている、ということである」と。

 この一節は一つの視点を提供するものである。ここにおいて三昧の相違とは、真言の背後

にあって真言の諸相の相違をもたらすものとして示されている。ならば、様々に区別された

三昧道に言及したのは、むしろ、この真言の相がさまざまに異なる理由を説明する必要に応

えてのことではないか。その場合、衆生済度のために具体化されたという点で三昧道と真言

とは同じものであり、究極的にはひとつの真理の異なる表現であったと言えるだろう。

 大勤勇の偈からこの真言の相についての説明に至るまでの一連の文脈を一貫したものと見

做し、筆者はひとまずここで一つの仮説を立てたい。「三昧道の区別は真言の区別を説明す

るために設けられたものである」と。

4.住心品との共通項

4.1 諸仏の三昧と「如実知自心」

 次に住心品との共通項であるが、まず、諸仏の三昧については、先に指摘したように(2.2

参照)住心品のいわゆる「如実知自心」が挙げられる。

漢訳) 菩提心爲因。悲爲根本。方便爲究竟。祕密主云何菩提。謂如實知自心。祕密主是

阿耨多羅三藐三菩提。乃至彼法。少分無有可得39。

訳) [一切智者の智慧は]菩提心を因とし、悲を根本とし、方便を最終的な到達

点とする。秘密主よ、菩提とは何であるかというと、あるがままに自らの心を知

ることである。秘密主よ、これは無上正等菩提であり、その存在の構成要素はほ

んの少しも知覚できない。

Tib.) rgyu ni byan4 chub kyi sems so/tsa ba ni sñin4 rje chen poh4

o/mthar thug pa

ni thabs so/ gsan4 ba pah4

i bdag po/de la byan4 chub gan4 she na/ran4 gi sems

yan4 dag pa ci lta ba bshin yon4 s su śes pa ste/de yan4 bla na med pa yan4 dag

par rdsogs pah4

i byan4 chub po/ /gsan4 ba pah4

i bdag po/de la ni chos rdul

tsam yan4 med cin4 mi dmigs so//40

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

― 137 ―

訳)[一切智者の智慧の]因とは菩提心である。根本とは大悲である。最終的な

到達点とは方便である。秘密主よ、そこで菩提とは何かというと、あるがままに

自分自身の心を知ることであり、それはまた、無上正等菩提である。秘密主よ、

そこにおいて存在の構成要素は塵ほども無く、知覚できない。

 「如実知自心」は諸仏の三昧と同様に一切智智を完成させるものであり、以前拙論で指摘

したように41、菩提に直結する決定的な手段である。また、心を知ることが空性の三昧を得

るきっかけであるとする具縁品の説明とも矛盾しない。以上のことからも、これら諸仏の覚

りに関しては住心品と具縁品との双方に認められる共通の理論があると言えるだろう。

4.2 住心品の世界観と三昧道

 一方、三昧道の記述に通じるものを持つ文章は、住心品の冒頭、金剛手が一切智者の智慧

の因・根・究竟を問う場面に現れる42。

漢訳) 世尊云何如來應供正遍知。得一切智智。彼得一切智智。爲無量衆生。廣演分布。

隨種種趣種種性欲。種種方便道。宣説一切智智。或聲聞乘道。或縁覺乘道。或大

乘道。或五通智道。或願生天。或生人中及龍夜叉乾闥婆。乃至説生摩睺羅伽法。

若有衆生應佛度者。即現佛身。(中略)各各同彼言音。住種種威儀。而此一切智

智道一味。所謂如來解脱味。43

訳)世尊よ、どのようにして如来・応供・正遍知は一切智者の智慧を獲得なさる

のでしょうか。彼は一切智者の智慧を得て、無量の衆生のために広く説明し分け

て、様々な境涯と様々な性向と様々な方便の理趣とに従って一切智者の智慧をお

説き明かしになります。あるいは声聞乗の理趣を、あるいは縁覚乗の理趣を、あ

るいは大乗の理趣を、あるいは五通智の理趣を、あるいは天に生ずることを願い、

あるいは人間の中に、あるいは龍・夜叉・乾闥婆に、乃至、摩睺羅伽に生まれる

ための教えをお説きになります。もし仏によって救われる衆生がいれば仏の身体

を現し、(中略)それぞれがかの[示した身体をもって救うべき衆生の]言語と

同じ[言語を用い]、様々な威儀に住しています。しかもこの一切智者の智慧の

理趣は一味なのです。いわゆる如来の解脱の味です。

Tib.) bcom ldan h4

das ci ltar de bshin gśegs pa dgra brcom pa yan4 dag par rdsogs

pah4

i san4 s rgyas rnams kyis thams cad mkhyen pah4

i ye śes brñes nas/thams

cad mkhyen pah4

i ye śes de sems can rnams la rnam par phye ste/tshul sna

tshogs dan4/bsam ba sna tshogs dan4/thabs sna tshogs dag gis ston cin4 kha

cig la ni ñan thos kyi theg pah4

i tshul kha cig la ni ran4 san4 s rgyas kyi theg pah4

i

tshul/kha cig la ni theg pa chen poh4

i tshul/kha cig la ni mn4on par śes pa

ln4ah4

i tshul/kha cig la ni lhar skye bar bya ba dan4/kha cig la ni mir skye bar

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― 138 ―

bya ba nas lto h4

phye chen po dan4/klu dan4/gnod sbyin dan4/dri za dan4/lha

ma yin dan4/nam mkhah4

ldin4 dan4/mi h4

ma cir skye bar bya bah4

i bar du chos

ston lags/de la sems can la la san4 s rgyas kyis gdul bar bya ba dag gis ni san4 s

rgyas kyi gzugs su mthon4/(中略)ran4 ran4 gi tshig brjod pah4

i tshul dag dan4

/spyod lam sna tshog su mthon4 la/thams cad mkhyen pah4

i ye śes de yan4 h4

di

ltar de bshin gśegs pah4

i rnam par grol bah4

i ror ro gcig pa lags so//44

訳)世尊、一体どのようにして、如来・応供・正等覚者たちによって、一切智者

の智慧が獲得されたのでしょうか、その一切智者の智慧は衆生らに対して分類さ

れ、種々の理趣と、種々の性向と、種々の方便などによって示され、ある人には

声聞乗の理趣を、ある人には独覚の理趣を、ある人には大乗の理趣を、ある人に

は五神通の理趣を[説き]、ある人には天に生まれさせる、ある人には人に生ま

れさせる、乃至、マホーラガと龍と夜叉とガンダルヴァと非天とガルーダとキン

ナラとに生まれさせる教えをお説きになる。そこで、とある衆生で仏によって化

導されるべき者たちによっては仏の身体として見られ、(中略)それぞれの言語

を話す諸々の理趣と様々な威儀として見られますが、その一切智者の智慧も次の

ように、如来の解脱の味において一味なのです。

 文中では大乗にあたる菩薩や声聞・縁覚の理趣に言及した点は三昧道と共通の世界観を連

想させるが、仏教の外にある世間の天については、「道(Tib. tshul、理趣)」という呼称は

用いず、各々の境涯に生まれ変わるための教えとして示されている。むしろ、世間の天の三

昧道の内容に近いのは、住心品中盤の六十心の説明に入る直前に説かれた、愚童凡夫の誤っ

た空性理解の描写である45。そこで愚童凡夫は8つの段階を経るが、最後に梵天や自在天な

どの天を讚仰するよう善友に勧められている。そして、仏教から見れば外教であるこれらの

諸天を信奉したことをきっかけとして、唯一の本質としての空性を想定するに至る。具縁品

における世間の三昧道が菩薩・声聞・縁覚の三乗いずれにも属さない外教である点や、他者

(漢訳ではより明確に「他主」)をきっかけに空性を理解する点、空性を誤解している点から、

住心品のこの箇所との類似を指摘できるだろう46。

 更に、「仏の理趣」を設けていない点も具縁品に通じるものがある。諸仏は衆生の性向に

合わせて真理をさまざまに分けて示すが、その現れが声聞乗であり、縁覚乗であり、大乗で

あり、天に生まれ、あるいは人に生まれる方法である。様々に区別されてはいるが、究極的

には全てが一味の一切智智に帰結する。あえて仏の理趣というものを立てようとすれば、そ

れは全ての理趣を合わせた総体ということになるだろう。

 そして、具縁品の三昧道もまた、全て衆生の利益のために説示されたものである。住心品

についての上述の想定を具縁品の当該箇所に当て嵌め、あえて仏の三昧道を設けるとしたら、

それは全ての三昧道を合わせた総体であって、その全てが真言行の儀軌の理趣として究極的

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

― 139 ―

には一味であるのだから、それらとは別に仏の三昧道を示す必要は無い、と考えられる。す

なわち、仏はあらゆる三昧道に住することが可能なのである。

5.小結 

 以上の検討をもとに、筆者はこの具縁品において三昧と三昧道とが説かれた意義について

以下のように考察する。

 まず、三昧道の区別は真言の相の違いに理由をつける必要からこの場で説かれた、という

仮説を立てた(3.3参照)。この推測が正しければ、それぞれの三昧道は真言の背後にあっ

て個々の真言を差別化するものである。その場合、三昧道についての記述は「三昧とは何か」

ではなく、「真言の相とは何か」という問いに答えたものと言えるだろう。そして、三昧道

の5種とは数あるうちの代表か、あるいは大まかな分類であって、実際には個別の尊格の真

言の数だけ存在するのかもしれない。その多様な三昧の境地は全て、表裏の関係にある真言

を通じて真言行のもとに包括されるだろうが47、それは理念の上での網羅であって、真言行

者がそれら諸々の三昧を網羅的に実践する必要はないと思われる。

 一方、心を知ることによって獲得される諸仏の三昧は、修行者が最終的に菩提を獲得する

ためには必ず行われるべき三昧である(4.1参照)。そしてその覚りは大勤勇の偈に説かれ

たものと内容を同じくするはずである(3.1参照)。そこで、このような意見もあるだろう。

この仏の三昧を真言に置き換えたものが第6章・悉地出現品所説の、大勤勇の偈を象徴した

阿味囉 欠(a vi ra hūm4

kham4

)ではないのか、と。しかし、住心品と具縁品とに限って

は、菩提を得る唯一の手段としての「自心を知ること」が、そのまま真言の念誦や種字の観

想などに置き換えられるものであるか否かに言及しない。三昧道が真言に置き換え可能であ

ると仮定する時、諸仏の三昧が“三昧「道(Tib. tshul)」”と呼ばれないのは、悟りに直結

する三昧を真言によっては代替できない、ということを示唆しているのではないかと考えら

れる。

参考文献

a.引用・参照したテキスト

 『大日経』:本文中に特に断りの無い限り、漢訳・Tib.訳両方を指す。

 漢訳『大日経』: 『大毘盧遮那成佛神變加持經』、大正新脩大蔵經(以下、大正蔵)第18巻

所収

 Tib. 訳『大日経』: rNam par snan4 mdsad mn4on par rdsogs par byan4 chub pa rnam par

sprul ba byin gyis rlob pa śin tu rgyas pa mdo sdeh4

i dban4 po rgyal po

shes bya bah4

i chos kyi rnam gran4 s、影印北京版西蔵大蔵経(以下、北

京版)第5巻所収

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― 140 ―

    併せて、[越智 1997]も参照した。

 『経疏』: 『大毘盧遮那成佛經疏』、大正蔵第39巻所収。併せて、天台宗典編纂所 編『續天

台宗全書 密教1』(春秋社、1993年)所収の『大日経義釈』(正式名称『毘盧遮

那成佛神變加持經義釋』、清田寂雲校訂)も参照した。

 『広釈』: rNam par snan4 mdsad mn4on par byan4 chub pa rnam par sprul bah4

i byin gyis brlabs

kyi rgyud chen poh4

i bśad pa(北京版目録より、Skt. Mahāvairocanābhisambodhi-

vikurvitādhist44

hāna-mahātantra-bhās4

ya、通称『大日経広釈』未再治本)、北京版第

77巻所収

  併せて、[酒井 1987]も参照した。

b.先行研究

 中條[1982]: 中條賢海「『大日経』における自性と影像(1)」『豊山学報』第26・27号、

1982年

 中條[1985]: 中條賢海「『大日経』における自性と影像(2)」『豊山学報』第30号、1985

 中條[1987]: 中條賢海「『大日経』におけるBuddhaとSam4

buddhaについて」『豊山教学

大会紀要』第15号、1987年

 de Jong[1974]: J.W. de Jong, “Notes on the sources and the text of the Sang Hyang

Kamahāyānan Mantranaya”, Bijdragen tot de Taal-, Land-en

Volkenkunde, 130, no:4, Leiden, 1974(http://www.kitlv-journals.nlより

PDFをダウンロードして参照)

 石井[1988]: 石井和子「古ジャワ『サン・ヒアン・カマハーヤーナン・マントラナヤ

(聖真言道大乗)』」『東京外国語大学論集』第38号、1988年

 岩本[1977]: 岩本裕「南海の密教」『密教の歴史 講座密教第2巻』春秋社、1977年

 岩鶴[1938]:岩鶴密雲「西蔵文大日経 具縁品和訳」『新更』特別号第5輯、1938年

 松長[1966]: 松長有慶「大日経の梵文断篇について」『印度学仏教学研究』14‐2、1966年

 越智[1997]: 越智淳仁「新校訂チベット文『大日経』(続)」『高野山大学論叢』第32巻、

1997年

 酒井[1986]: 酒井真典『修訂 大日経の成立に関する研究』国書刊行会、1986年第四刷

(初版は1962年)

 酒井[1987]:酒井真典『大日経広釈全訳』(酒井真典著作集第二巻)法藏館、1987年

 桜井[1989]: 桜井宗信「行タントラ」「附篇Ⅰ.Nāmamantrārthāvalokinīに引用された

『大日経』住心品の一節」の項、塚本啓祥・松長有慶・磯田煕文 編『梵語

仏典の研究Ⅳ 密教経典篇』平楽寺書店、1989年 所収

 桜井[1993a]: 桜井宗信「Kriyāsam4

grahapañjikāに説かれた灌頂前行の諸次第(1)

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

― 141 ―

──梵文校訂テキスト──」『インド学密教学研究 下──宮坂宥勝博士

古稀記念論文集──』法藏館、1993年

 桜井[1993b]: 桜井宗信「Kriyāsam4

grahapañjikāに説かれた灌頂前行の諸次第(2)

──「弟子受認(śisyādhivāsanā)」、和訳と註解──」『智山学報』第42

輯(『豊山教学大会紀要』第21号との合併号)、1993年

 Speyer [1913]: J. S. Speyer, “Ein altjavanischer mahāyānisticher Katechismus”,

Zeitschrift der Deutschen Morgenlandischen Gesellschaft 67-2, 1913

 栂尾[1984]: 栂尾祥瑞 編『栂尾祥雲全集(別巻Ⅱ) 大日経の研究』臨川書店、1984年

 津田[1995]: 津田真一『和訳 金剛頂経』東京美術、1995年

 Wayman [1984]: Alex Wayman,“ The Mahāvairocanasūtra and the Kriyā-Sam4

graha”,

『弘法大師と現代』筑摩書房、1984年

 Wayman [1998]: Alex Wayman / Ryujun Tajima, The enlightenment of Vairocana,

Delhi, 1998 (1st.ed. 1992), pp. 107-110, “Difference between the two

parts of V-A-T, Chap. Two.”

 荻原[1972]: 荻原雲来「爪哇に於て発見せられたる密教要文」『荻原雲来文集』山喜房佛

書林、1972年(当該論文の初出は1916年)

 Wulff [1935]: K. Wulff , SANG HYANG KAMAHĀYĀNAN MANTRĀNAYA,

København, 1935

c.拙論

 馬場[2008]: 馬場えつこ「『大日経』住心品における如実知自心の位置づけ」『東洋大学

大学院紀要』第44集(文学研究科)、2008年3月、pp. 193-213所収

 馬場[2009-1]: 馬場えつこ「『大日経』住心品における真言門の位置づけ──六無畏と

〈三劫〉に基づく考察──」『印度学仏教学研究』第57巻第2号、2009年

3月、pp. 1044-1041所収

 馬場[2009-2]: 馬場えつこ「六無畏と〈三劫〉から見た『大日経』住心品の真言門」

『東洋大学大学院紀要』第45集(文学研究科)、2009年3月、pp. 123-143

所収

註1 このような呼称は経典中に表れないが、その内容から便宜的に名付けた。2 この金剛手の感嘆の偈と同じ趣旨のものがSkt.写本の残るKriyāsam

4

grahapañjikāにあることを桜井[1989]が紹介している。その箇所の指摘と校訂テキスト化はWayman[1984]が先行しているが、筆者は桜井[1993a]、桜井[1993b]の校訂テキストと和訳を参照した。蔵漢両訳の引用文は、このSkt.では以下の通りである。

    anekakalpakot4

ibhir yat kr4

tam4

pāpakam4

purā/

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― 142 ―

    tat sarvam4

hi ks4

ayam yāti drst4 44

vā mand4 4

alam īdr4

śam//

    kim utānantayaśasām4

mantracaryānaye sthitah4

     yad apy anuttaram4

yāti japam4

vai mantratāyinām//(桜井[1993a], p.266、訳は筆

者による)

    訳)無量コーティナユタ劫かけて犯された罪でも何であれ、

    その全てがこのようなマンダラを見ることで滅尽するに至る。

    何をか況や、永遠に讃えられる者たちの真言行の理趣に住する者が、

    真言救世者たちの無上の念誦に至るをや。3 大正蔵18、p. 8c4 北京5、p. 247、132a5 大正蔵18、pp. 8c-9a、北京5、p. 247、132b. その締めくくりに、 漢訳)云何眞言相 云何住三昧    訳)どのようなものが真言の特徴なのでしょう。どのように三昧に住するのでしょうか。 Tib.)gsan4 sn4ags mtshan ñid ci h

4

dra lags//tin4 n4e h4

dsin du bshed pa gan4//    訳)真言の特徴にどのような種類がありますか。三昧と認められるものは何でしょう。 と問われている。6 大正蔵18、p. 9a7 sems yan4 dag mgu baは、岩鶴[1938] p. 155と酒井[1987] p. 137には「心歓喜なり」、栂尾[1984] p. 55には「心の正しく喜足せること」と訳されている。漢訳と異なるSkt.が充当するかと思われるが、Buddhaguhyaはこの箇所を「心一境の特徴(Tib. sems rtse gcig pah

4

i mtshan ñid)」と、心一境の状態が衰えないように願って「満足すること(Tib. tshim par byed pa)」の2通りに解釈している(北京77、p. 146、165a)。これはmgu baのSkt.原語と考えられるudagra-をekāgra-と同義に採るか、喜びの意に採るかの違いではないか、と筆者は推測している。それ故、漢訳とTib.におけるこの箇所のSkt.原語は同じか、あるいは同じ意味と見做せるものであったと想定し、両者の本来の文意は異ならないものと考える。

8 Tib. de dagについて、『広釈』は当該箇所を引用して、gñis po yon4s su span4s pa ni(訳:2つのものを離れたものが)とし、このgñis poを1.)所執能執、2.)空性の自性に対する二つの観念、という2通りに解している(北京77、p. 146、165b)。経本文のde dagは漠然としており、

『広釈』のように想定したほうがすっきりする。しかし、この一節に相当する文章が漢訳に見当たらないことは疑問である。このgñis poの語は、中條[1987]の指摘するような、san4s rgyasを「所執能執を離れて空性を覚り、十地を円満する菩薩」すなわちbuddhaとし、kun tu san4s rgyasを「所執能執に加えて空性の想念さえも捨てた、つまり2つを離れた、十一地すなわち普賢地に住する者」すなわちsam

4

buddhaと見るBuddhaguhyaの解釈にとって、非常に都合のよいものである。何故なら、この語によってこの諸仏の三昧の偈をbuddhaとsam

4

buddhaの2つの段階に分けることが可能となるためである。だが、その「2つ」にあたるものを経典の本文中に見出すことはできない。そこで筆者はこの一節を、Buddhaguhyaの述べたような解釈の傾向が現れるに伴って付加されたものと推測する。

9 この最後の一節もまた、漢訳には見られない。Buddhaguhyaの解釈によれば、四支念誦や本尊瑜伽等の諸行において常に空性に習熟するべきことを述べたものであるという(北京77、p. 146、

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

― 143 ―

166a)。そこでrnam pa thams cad duは「あらゆる方法において」と訳したが、この偈の話題は仏の三昧に絞られており、心を悉知するより他に得る方法がないはずのものである。この一節が後の付加である可能性も十分考えられる。

10 北京5、p. 247、133a11 筆者がこの語によって指示する範囲は、従来の研究では「大勤勇の三昧(三摩地)」を説明した

ものと見做されている一連の偈文である。その名称はBuddhaguhyaの『広釈』に由来する(北京77、p. 146、166a)。ただし、この「大勤勇の三昧」なる言葉は、本経の第6章・悉地出現品

(Tib. dn4os grub bsgrubs pah4

i de ko na ñid rim par phye brgyas pa、悉地を成就する真実性の広大なる章)におけるa, va, ra, ha, khaの五字の観想をも含んでいる。筆者は、『大日経』の構成と各品同士の関連性を再確認する目的から、この両者の繋がりを自明のものと見ていない。そこで、悉地出現品には言及せずにこの具縁品の当該箇所のみを指すために「大勤勇の偈」という呼称で表現することにした。

12 大正蔵18、p. 9c13 北京5、p. 247、133b14 大正蔵18、p. 9c15 北京5、p. 247、133b16 span4s pah

4

iの属格h4

iの後に、この文章の主語である八地の菩薩が省略されているものと考え、意味を補って訳した。

17 大正蔵18、p. 9c18 北京5、p. 247、133b19 大正蔵18、p. 9c20 北京5、p. 247、133b-134a21 大正蔵18、p. 9c22 北京5、p. 247、134a23 『経疏』は三昧をa)世間の三昧とb) 出世間の三昧の2種に分け、a) には世間の天が説く真言法

教を、b)には仏・菩薩・声聞・縁覚の三昧を当てる(大正蔵39、p. 649a)。世間の三昧とは有相有縁の三昧であり、これを十縁生句でもって対治していくことで出世間の三昧に入り、最終的に大空三昧に至る(同p. 645c)。この三昧を世間・出世間に分ける解釈の仕方こそが、蔵漢の文意の相違に繋がったのではないか。まず、Tib.のgan4 dag yin paとgan4 yinにあたるものが、漢訳の2つの「若」であると考えられる。Tib.では、gan4 dag yin paは仏・菩薩・声聞・縁覚がgrags paであることを示し、gan4 yinもh

4

jig rten pah4

i lhaのみにかかるものではなく、上述の仏を始めとする全体を指すものと思われる。これを漢訳が仏・菩薩・声聞・縁覚と世間の天との2つに区分するための「若」と読んだ原因が、三昧において世間に対する「出世間」という枠組みを立てようとした『経疏』の解釈にあったとしても不思議ではない。それ故筆者はこの箇所について、蔵漢両訳のSkt.原本の文意は同じで、Tib.の翻訳がそれに近いと推測する。

24 大正蔵18、p. 9c25 Tib. h

4

chad par byedに当たるものが、漢訳では「縁覺聲聞説 摧害於諸過」の「説」として訳されているようである。これも三昧道を世間と出世間とに二分しようとする漢訳者の恣意ではないかと思われる。そこで註23と同様にTib.の文意を当該箇所の文意として採用する。

26 北京5、p. 247、134a27 ただし、『広釈』の引用ではtshul gyi cho gaすなわち「理趣の儀軌」である。この語順は具縁品

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の始めに阿闍梨が弟子を勧発する際の偈に見える「真言行道法(Tib. gsan4 sn4ags spyod tshul cho ga、真言の理趣の儀軌)」(所在は註32参照)と同じである。

28 大正蔵18、p. 9b29 北京版にはmos(望む)だが、[越智 1997]に拠ってmol(語る)の意で訳す。30 北京版にはlas sogs paとあるが、[越智 1997]に拠ってla sogs paの意で訳す。31 北京5、p. 247、133a32 漢訳)如是諸賢者 解眞言妙法 勤勇獲種智 坐無相菩提    眞言勢無比 能摧彼大力 極忿怒魔軍 釋師子救世    是故汝佛子 應以如是慧 方便作成就 當獲薩婆若(大正蔵18、p.4b)     訳)彼らのような諸々の聖賢は真言の勝れた法に通達しており、勤勇は一切種智を獲得し

て無相の菩提[の道場]に坐している。     真言の威力は比べるもの無く、かの大力なる暴悪の魔軍を打ち砕く。[その人こそが]釈

迦族の獅子・救世者である。     そのような訳だから、汝仏子よ、まさに同様の智慧を以って修行して成就し、一切智者の

智慧を得るべきである。 Tib.)de dag kun gyis gsan4 sn4ags kyi//cho ga mchog bzan4 h

4

di mkhyen dan4//    dpah

4

bos byan4 chub śin4 drun4 du//thams cad mkhyen pa mtshan med brñes//    gsan4 sn4ags sbyor ba mñam med de//śā kya sen4 ge skyob pa yis//    bdud sde śin du mi zad pa//dpun4 chen dag kyan4 de yis bcom//    de bas kun mkhyen thob byah

4

i phyir//bu yis blo gros h4

di gyis śig //    (北京5、p.244、125a)    訳)彼ら[=諸仏]全てによって、真言の儀軌であるこの最高最良のものが通達され、勤

勇によって菩提樹下で無相の一切智者たることが獲得された。     真言の効用は等しきもの無く、救世者である釈迦族の獅子たる者によって、大変恐ろしい

魔軍も、それ[=真言の効用]によって降伏された。     それ故に、一切智者たることを獲得せんがために、息子によって、この智慧によって[同

じことがなされるべきだ]。  また、この偈は荻原[1972]、松長[1966]、桜井[1989]の指摘にあるように、ジャワで発見

されたSang hyang kamahāyānan Mantranaya(以下、SKM)にSkt.断篇が残っている。その校訂テキストについてはSpeyer [1913]、Wulff [1935]とde Jong [1974]を参照した。また、岩本[1977]、石井[1988]の和訳も参照した。しかし、以下の訳文には『大日経』の断篇という要素を加味し、『大日経』蔵漢両訳の当該箇所に基づいて修正を加えている。(それ故、筆者の訳文はSKMそのものの翻訳文ではない)

   taiś ca sarvair imam4

vajram4

(註1)jñātvā mantravidhim4

param/    prāptā sarvajñatā vīraih

4

bodhimūle hy alaks4

an4

a(註2)//    mantraprayogam atulam

4

yena bhagnam4

mahābalam/    mārasainyam

4

mahāghoram4

śākyasim4

hena tāyinā//    tasmān matim

4

imām4

varya kuru sarvajñatāptaye/    (de Jong [1974]、pp. 469-470。訳と註は筆者)    訳)そして、彼ら全てによってこの吉祥であり最高である真言の儀軌は知られ、    [彼ら]勤勇がたにより、菩提[樹]の根元において無相の一切智者性が獲得された。

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『大日経』具縁品における2種の三昧と真言行について

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   真言のはたらきは並ぶものが無い。    釈師子すなわち守護者によって、大力を有する非常に恐ろしい魔軍は破られた。    それ故に、選ばれし者よ、[汝は]一切智者性を得るためにこの念をなせ。 (註1)当該箇所が漢訳で「諸賢者」、Tib.ではbzan4とあることから、このvajram

4

は『大日経』のSkt.原本ではbhadram

4

であったか、あるいは同義の他の言葉だったのではないかと思われる。よって筆者の訳は具縁品の内容に合わせた。

( 註2) こ の 箇 所 に つ い てSpeyer [1913] はalaks4

an4

āの 可 能 性 を 指 摘 し、Wulff [1935] はalaks

4

an4

āを採用している。筆者もsarvajñatāにあわせてalaks4

an4

āの意で訳した。33 蔵漢両訳では、過去・現在・未来の諸仏と菩提樹下で覚る勤勇とが別の人物であるかのようにも

読めるが、SKMによれば、彼ら諸仏と同じく勤勇(vīra-)も複数形で表されている。すなわち、三世の諸仏こそが諸々の勤勇のことである。

34 大正蔵18、p. 9b35 北京5、p. 247、133b36 一例を挙げれば、大正蔵18、pp. 4c-5aと北京5、p. 244、125b-126aで展開されている、有相と

無相とについての問答がある。そこで有相とは真言行のことであり、無相である「法然(Tib. chos ñid、法性)」の理趣を知ることができない未来世の智慧の劣った衆生のために有相の儀軌が説かれる、との旨が述べられている。

37 大正蔵18、p. 10a38 北京5、pp. 247-248、134a-134b39 大正蔵18、p. 1c40 北京版5、p. 241、117a-b41 馬場[2008]参照のこと。もし住心品と具縁品とに思想の一貫性を認めるならば、筆者が拙論で

立てた “「如実知自心」は真言門の菩薩の初発心を指すものではなく、覚りに直結する決定的な認識である”という仮説は妥当であったと言えるだろう。もし、あるがままに自心を知ることが真言門の初発心であるならば、具縁品の入門儀礼で弟子が発心することを求められた際に(それこそ、津田[1995]の解説で示唆されている、『真実摂経』五相成身観の第一、発菩提心真言に先行する自心通達真言のように)何らかの言及があってもよいはずである。

42 この一節については、桜井[1989]によってNāmamantrārthāvalokinīにSkt. 断篇のあることが報告されている。この断篇は住心品の当該箇所とは異なり疑問文ではない。だが、文章の趣旨は全く合致する。

43 大正蔵18、p. 1b44 北京5、p. 240、116b45 大正蔵18、p. 2b-c、北京5、p. 242、120a46 また、「世尊毘盧遮那は声聞・縁覚・菩薩の三昧道を説こうとした」とあり、世間のそれが挙げ

られていないことも、世間の三昧道の特異な点である。47 密教とは真言や印契によるシンボル操作をもって修行過程を代替するもの、という認識は多くの

人が有するところと思われるが、具体的に何を代替したものなのか、と考えた時、具縁品のこの用例においては「真言は三昧の代替である」と定義することも可能であるかもしれない。ただし、この想定は尊格個別の真言に限る。諸字門や儀礼の所作に対応する諸真言は含まない。また、明妃(vidyā)や心真言(hr

4

daya)とも区別する。

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 The Mahāvairocana-Sūtra(also called Vairocana-abhisambodhi-Tantra in the Indo-

Tibetan tradition)traditionally has been divided into two parts:a theoretical part, as the

first chapter, and a practical part, the second chapter and the rest. To examine the

theoretical consistency between the first and the second chapters of the Sūtra, I deal with

samādhis described in the middle part of the second chapter by the method of contextual

study of the Sūtra itself.

 These samādhis are classified into two:

   a)The samādhi of all buddhas

   b) Five samādhi-nayas:bodhisattvas on the stage of only one more rebirth until

the attainment of buddhahood, bodhisattvas on the eighth stage, śrāvakas,

pratyekabuddhas, and the peoples adoring the deities of non-Buddhism.

a)The samādhi of all buddhas is obtained by knowing the mind oneself, which

corresponds to the idea of“Knowing the self-mind as it is”asserted in the first chapter.

On the other hand, there are b)five samādhi-nayas, which practitioner of Mantracaryā

don’t have to practice. These different ways of the five are made to save sentient beings

and are reflected in the different characteristics of Mantra.

 There seems no need to establish the buddha’s Samādhi-naya separately, because both

samādhi-nayas and Mantras are various manifestations of the one essential nature of

buddhas. In this way, the word naya suggests ‘various means’. On the contrary, the

absence of the word naya in the samādhi of all buddhas should be regarded to indicate

that this samādhi is the single means for enlightenment. Although if five-samādhi-nayas

could be substituted with mantras, practitioner of Mantracaryā have to do practice of

“knowing the self-mind as it is”i.e. all buddhas samādhi to attain the buddhahood.

Because the only samādhi of all buddhas cannot be substituted with Mantra.

On Two Samādhis and Mantracaryā in the Second Chapter of the Mahāvairocana-Sūtra.

BABA, Etsuko