伝染病の大流行と信仰 - Matsue...明治10年(1877)清国の厦門でコレラ流行...
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松江市史講座 2014年10月18日
伝染病の大流行と信仰
喜多村 理子
全国のコレラ・赤痢・腸チフスの患者数と死者数の推移
(『日本帝国統計年鑑』 単位:人)
中野操編著『錦絵医学民俗志』(1980)
「虎列刺退治」木村竹堂画、明治19年
虎狼狸が合体した怪獣
←
俗称コロリ
☆浅田宗伯は「古呂利考」(『暴瀉須知』明治13年)の
中で、コロリはコレラの転語ではなく、流行病にか
かって卒倒する意味で前から使われていたと説く。
明治10年(1877) 清国の厦門でコレラ流行
内務省「虎列刺病予防法心得」を府県に達する。
流行地から来航する船舶の検疫
港口において離島または人家隔絶の地に避病院を設置し、
黄色の地にQ字を黒記した旗を立てる。
各市邑に流行した時には群集停止、仮病院を設ける。
地方庁は患者数と死者数を土曜日ごとに内務省に報告する。
病勢盛んな時、地方長官は死者数を管内に告示する。
消毒方法、汚物・死体の取り扱いについて細かな注意、その他
9月長崎入港の英国商船・横浜の米国商館 → 国内に侵入
☆西南戦争の軍隊の移動が拡大要因
島根県の患者数と死者数は少ない。
明治12年(1879)コレラが初夏~秋に大流行
6月27日 太政官布告第23号「虎列刺病予防仮規則」
7月14日 太政官布告第28号「海港虎列刺病伝染予防規則」
7月21日 太政官布告第29号(第28号改正)「検疫停船規則」
8月25日 太政官布告第32号(第23号改正)「虎列刺病予防仮規則」
明治13年(1880)7月9日 太政官布告第34号「伝染病予防規則」
島根県域の変遷
*明治4年(1871)11月 松江県・広瀬県・母里県・隠岐地方 ⇒ 島根県
*明治5年(1872)12月 隠岐地方 ⇒ 鳥取県に移管
*明治9年(1876) 4月 浜田県 ⇒ 島根県に編入8月 鳥取県 ⇒ 島根県に編入
県域は島根鳥取両県の範囲になる
*明治14年(1881) 9月鳥取県再置 ⇒ 島根県の県域は現在と同じ
明治12年(1879) 島根県(現島根・鳥取県)
『島根県甲号布達』『島根県乙号布告』明治12年 (飯南町役場所蔵)
6月18日、山口県からコレラ患者が初発から105名であると電報
6月17日夜、加賀浦の女性が発症、19日死亡。
6月21日、県内陸海要衝の35カ所に検察所を設置。
出雲9カ所(松江・美保関・江角浦・加賀浦・宇龍浦・鷺浦・安来・
赤名・小馬木村)
石見10カ所、伯耆8カ所、因幡5カ所・隠岐3カ所
6月24日、取締委員に管轄の町村を巡視して説諭することを求める。
清掃すること、吐瀉物や排泄物は人家離隔の土地に埋めること、
死者が出た時は医師診断書を添えて速やかに郡役所と警察署に
届けること等々。
7月8日、「内務省衛生局報告第十一号 虎列刺病予防及消毒法心得」を配布7月12日、コレラ患者を運ぶ所(人家隔絶の空き家・寺院・掘立小屋)を
避病院と呼び、黄色に「コレラ」と黒記した旗を立てる。患者・死者を運ぶ時は黄色の小旗に「コレラ」と黒記する。
★鳥取市街・米子ほか 8月15日~群集停止★浜田ほか 8月23日~群集停止★鳥取市街・米子・浜田ほか 9月 3日~検疫法実施★松江市街・平田ほか 9月 6日~群集停止・検疫法実施☆浜田ほか 9月18日~群集停止・検疫法の解除☆松江市街ほか 9月27日~群集停止・検疫法の解除☆鳥取市街ほか 10月14日~群集停止・検疫法の解除☆米子ほか 10月23日~群集停止・検疫法の解除
明治12年(1879)県内のコレラ患者3317名(死者2149名)致死率約64.8%鳥取市街は「其残酷ヲ極ル」 ・・・『県治要領』から
明治15年(1882) コレラ流行
*島根県域の変遷
明治14年(1881) 9月鳥取県再置 ⇒ 島根県の県域は現在と同じ
明治15年(1882)島根県の患者360名・死者251名
致死率約69.7%
(『日本帝国統計年鑑』)
患者・死者の総数は3年前より少なかった。
松江市街と周辺部に広がった。
「松江市街ヲ以テ其惨酷ヲ極ルモノトス」(『県治要領』明治15年)
☆「虎列刺病死者運搬紛議」(『山陰新聞』明治15年9月23日付)
明治19年(1886) コレラ・赤痢・腸チフスの大流行
島根県の伝染病 (『日本帝国統計年鑑』)
病名 罹患者 死者 致死率コレラ 1735名 1023名 約59%赤痢 717名 170名 約23.7%腸チフス 376名 116名 約30.9%
県全体では、明治12年(1879)、明治15年(1882)を上回る惨状
とくに江角浦は、100名近いコレラ患者を出す。(『島根県甲号布告』明治19年)
信仰に関する記述
*明治12年(1879)7月14日 県の布達
「近来伊勢参宮金比羅参ト唱ヘ陸続他出致候モノモ有之趣、
右ハ此節専該病流行ノ土地柄ニシテ・・・該病流行ノ地方
山口広島岡山大分愛媛大坂京都ノ六県二府 エ向ケ出行不致様・・」
*『山陰新聞』明治15年9月23日付
「本月十一日は意宇郡八幡村なる武内神社の祭礼にて・・・・
本年は虎列刺病流行に付参詣人非常に多く、その賽銭昨年は
九十六円余なりしも本年は弐百拾三円余ありしと。」
木野山神社
岡山県上房郡津川村今津
(現高梁市)
木野山信仰 明治13年掛軸の狼様
木野山神社祭神
大山祇尊・豊玉彦命・大已貴命
眷属神として狼神を祀る
古くから周辺の信仰を集めていた。
明治9年(1876)から講社組織を作る。
コレラの大流行
⇒「狼は虎よりも強い」
⇒山陽山陰四国地方に信仰拡大
木野山神社講社簿冊 ○は現存、×は所在不明
○ 第1 ~ 43号 43講社
× 第44 ~251号 208講社
○ 第252~273号 22講社
○ 第274~362号 89講社
× 第363~499号 137講社
○ 第500~592号 93講社
○ 第593~683号 91講社
○ 第684~770号 87講社
○ 第771~862号 92講社
○ 第863~934号 72講社
○ 第953~1126号 174講社
○ 第1145~1491号 347講社
1876年(M9)7月~1877年(M10)4月1877年(M10)5月~1879年(M12)8月1879年(M12)8月1879年(M12)8月1879年(M12)8月1879年(M12)8月~1880年(M13)4月1880年(M13)5月~1880年(M13)10月1880年(M13)旧8月~1884年(M17)旧11月1884年(M17)旧7月~1907年(M40)10月1908年(M41)11月~1912年(M45)5月1912年(M45)5月~1919年(T8)4月
1920年(T9)4月~1940年(S15)8月
明治12年(1879)8月 木野山信仰が急速に拡大山陰地方における講社結成の始まり
明治12年8月に結成された講社の全体数
?号(251号以前)~503号⇒252講社以上
252講社のうち山陰は90講社
会見郡(米子含む)56講社
日野郡 22講社
能義郡 5講社
島根郡 3講社(新材木町)
意宇郡 1講社(横浜町)
楯縫郡 3講社※これ以上の可能性あり
✬隠岐は明治16年~
✬石見は明治19年~
↓
山陰地方では明治12年8月~昭和15年(1940)に
255講社以上が加入
✬会見郡より東には
広がらない
木野山神社を勧請するには、代
表者が実印を押して講社規約に
誓約しなければならない。
御神号掛字・木札・御守を授かる。
松江市の木野山講社 34講社*明治12年(1879)
*明治13年(1880)
*明治15年(1882)
*明治16年(1883)
*明治17年(1884)
*明治34年(1901)
*昭和11年(1936)
*昭和12年(1937)
→新材木町3講社、横浜町1講社
→長海村1講社、野原村1講社、紙屋町1講社
上意東村1講社、下意東村1講社、東岩坂村2講社
→加賀浦別所2講社、野波浦1講社、御津浦1講社
中原町1講社
→加賀浦別所1講社、野波浦2講社、御津浦1講社
加賀浦6講社、新材木町1講社、大芦浦2講社、
笠浦1講社
→笠浦1講社
→北浦1講社
→野井浦1講社
→片江浦1講社
新材木町の講社について
✬木野山神社の講社簿の記載
「出雲国島根郡新財木町
第三百二十八号 拝礼講社
二十六戸 百五人
明治十二年八月加入
世話人(六名の氏名)
十六戸、十九年旧九月十二日加入
東本町三島由太郎商店の屋敷地
に神祠あり。講はかなり以前に解
散、祭礼なし。
• 扁額には「明治十九年八月」と寄進者10名。
• 『本県甲号布告』(明治19年)から
新材木町の新患者数
7月17日~7月31日8時 16名
7月31日8時~8月31日8時 9名
8月31日8時以降 1名
• 7月から8月に多くのコレラ患者を出した。
→ 講員の有志が扁額を奉納し、さらに旧9月
12日(10月9日)新たに16名が講員になった。
大東町畑鵯の延命地蔵尊
・江戸期に畑鵯の畑に住む男性が、
夢さとしによって隠岐島後の中村
海岸に漂着した地蔵様を見つけ
て、連れて帰った。
・屋敷続きの竹藪に小さな堂を建
てた。病気平癒で評判になった。
・明治期に畑の人々が地蔵堂を建
てて、そこに移した。
(中)延命地蔵尊
何度も塗り直している
(左)延命地蔵尊を運ぶ時の厨子
各地に招かれる。
毎月24日には地元に戻って祭ら
れる。
延地蔵尊の回る事例ー昭和40年代の6月27日~7月11日
畑→①玉湯町下大谷→②玉造温泉の某旅館→③東忌部町大谷→④東
忌部町大川端→⑤八雲
村平原の畑→⑥平原の
殿畑→⑦平原の奥→⑧
平原の畔石室→⑨平原
の向側→⑩平原の中組
→⑪玉湯町中大谷→⑫
宍道町田根→畑
延命地蔵祭(玉湯町布志名)
玉湯町布志名の伝承✬明治34年(1901)は赤痢流行
初発~9月30日まで県内の
患者490人(死者112名)。
✬布志名の講帳
明治35年旧8月8日
明治34年に疫病が大流行して、死者
続出した。寺の住職と代表者が畑鵯
に行き、勧請を懇請した処、「疫病各
所に大流行のため勧請の申し込みが
多く連日出張続きのため、9月7日まで
は契約済で、9日は忌部村の予定だ」
と言われた。そこで、9月8日に迎えて9日に忌部に送ることになった。
『布志名誌』(1981年)
✬玉湯町大谷5区の講帳 明治13年から✬佐草町山口の講帳 明治14年から
地蔵堂の建立は明治20年(1887)梵鐘の鋳造は明治21年(1888)
「延命地蔵尊定例念佛日割帳」昭和2年、畑区中
昭和2年(1927)に回っていた地域は
現松江市・現雲南市・現奥出雲町の範囲
明治期とは入れ替わっている可能性あり
旧玉湯村:下大谷・中大谷・奥大谷・城床・
玉造・布志名・林
旧大庭村:西組・佐草・草谷・平原
旧忌部村:西忌部・東忌部
旧来待村:佐倉・大森・上来待
旧乃木村:乃白・福富
松江市:横浜・乃木浜
✬「松江市乃木浜」明治22年(1889)市制施行の際に、乃木村の一部が松江市に編入された。
5月27日に海潮村薦沢から迎えて、6月23日に畑に返すまでひと月近く勧請。地蔵は一か所に留まるのではなく、周辺を回っていたのではないか?
✬畑鵯の延命地蔵信仰講社化されなかった。畑では当番が、出て行かれる時と戻られる時を管理するだけ。出張先で地蔵がどのように祭られているのか関与しない。賽銭とともに地区から地区へと担がれて地元に戻られるという、人々の善意を前提にして維持されてきた素朴な信仰。