火薬陰謀事件の13人 (研究ノート) The Thirteen...

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39 -  1 Bulletin of the Faculty of Foreign Studies, Sophia University, No. 412006火薬陰謀事件の13(研究ノート) The Thirteen Conspirators in the Gunpowder Plot 東郷 公 TOGO Takanori The Gunpowder Plot was an unsuccessful terrorist attempt intended to blow up the King and other important figures in England with the gunpowder hidden beneath the floor of the Parliament when it was going to start a new session on 5th November, 1605. This note presents a series of brief descriptions of all the thirteen conspirators who were involved in the plot in the chronological order of the timing of their participation. はじめに エリザベスⅠ世(ElizabethⅠ)の治世に引き続き、ジェイムズⅠ世 JamesⅠ)治世下のイングランドでも、カトリック教徒たちは様々な宗 教上の迫害に遭っていた。火薬陰謀事件(The Gunpowder Plot)とは、 そうした宗教的迫害に耐え切れなくなったカトリック教徒の過激不満分子 が、1605115日の議会初日に、議会場直下に仕掛けた大量の火薬によ り、国王とその家族、国会議員である貴族や高位聖職者たちを一度に爆死 させようとした、いわば17世紀初頭の大規模テロ未遂事件であった。本研 究ノートでは、その13人の首謀者たちについて、ひとりひとり簡単に説明 をつけることにより、事件のあらましについて、複数の異なる視点から基 本的な知識を確認することを目的としている。リストの順番は、計画立案 者からはじめて、この陰謀計画に参加した順序になっている。

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1Bulletin of the Faculty of Foreign Studies, Sophia University, No. 41(2006)

火薬陰謀事件の13人(研究ノート)

The Thirteen Conspirators in the Gunpowder Plot

東郷 公TOGO Takanori

The Gunpowder Plot was an unsuccessful terrorist attempt

intended to blow up the King and other important figures in England

with the gunpowder hidden beneath the floor of the Parliament when it

was going to start a new session on 5th November, 1605. This note

presents a series of brief descriptions of all the thirteen conspirators

who were involved in the plot in the chronological order of the timing of

their participation.

はじめに

エリザベスⅠ世(ElizabethⅠ)の治世に引き続き、ジェイムズⅠ世(JamesⅠ)治世下のイングランドでも、カトリック教徒たちは様々な宗教上の迫害に遭っていた。火薬陰謀事件(The Gunpowder Plot)とは、そうした宗教的迫害に耐え切れなくなったカトリック教徒の過激不満分子が、1605年11月5日の議会初日に、議会場直下に仕掛けた大量の火薬により、国王とその家族、国会議員である貴族や高位聖職者たちを一度に爆死させようとした、いわば17世紀初頭の大規模テロ未遂事件であった。本研究ノートでは、その13人の首謀者たちについて、ひとりひとり簡単に説明をつけることにより、事件のあらましについて、複数の異なる視点から基本的な知識を確認することを目的としている。リストの順番は、計画立案者からはじめて、この陰謀計画に参加した順序になっている。

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1.ロバート・ケイツビィ(ロビン) Robert Catesby(Robin)

火薬陰謀事件の中心人物。寛大で、優しく、ハンサムで、身長が6フィートと体格も良く、態度も立派であり、周りの人々から理想的な男性として敬愛されていた。「ロビン(Robin)」と呼ばれていた。

1573年にウォリックシャーのラップワースで生まれたらしい。ケイツビィ家は歴史のある家柄だった。父親のサー・ウィリアム・ケイツビィ(Sir William Catesby)はカトリック信仰のために長く投獄されたことがあった。オックスフォード大学のグロスター・ホールに通ったが、学位をとらずに退学した。19歳の時(1592年)に、金持ちのプロテスタントの娘キャサリン・リー(Catherine Leigh)と結婚する。息子がふたり生まれるが、上の息子は幼いうちに死んでしまう。1598年には、まず父親が亡くなり、さらに妻キャサリンも亡くなる。ケイツビィがカトリック信仰に転向したのはこの妻の死が原因だったと多くの人が考えている。その後、カトリック教徒の立場を改善する望みを抱いてエセックス伯爵(the 2nd

Earl of Essex, Robert Devereux)の反乱に加わり、4000マーク(約3000

ポンド)の罰金を科された。それを支払うために住んでいた屋敷(オックスフォードシャーのチャスルトン)を売り払った。その後は、未亡人になった母親とノーサンプトンシャーのアッシュビィ・セント・レジャーズに住んだ。火薬陰謀事件の計画をいつごろケイツビィが思いついたのか、はっきり

したことは分からない。しかし、1604年2月の終わりに、ケイツビィは火薬によって議事堂を国王もろとも吹き飛ばす計画を、まずトマス・ウィンター(Thomas Wintour)に打ち明ける。議事堂を選んだのは、そこでカトリック教徒を苦しめる様々な法案が可決されて来たからであった。このふたりが中心となり、さらに3人のメンバー、ジョン・ライト(John

Wright)、トマス・パーシー(Thomas Percy)、ガイ・フォークス(Guy

Fawkes)を集めて、中核となる5人のメンバーが揃うことになる。5人が初めて会合を持ったのは1604年5月20日日曜日で、場所はロンドンのストランドにあるダック・アンド・ドレイクという宿屋だった。5人は秘密を守る事を誓った。宣誓の後で別室に移り、ジェラード神父(Father

Gerard)がミサを挙げ5人は聖体拝領を受けた。このことが後に、ジェラ

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ード神父は彼らの陰謀計画を知っていてそれを是認したのだと言われ、問題となった。その後、メンバーは次第に数を増し、最終的には13人にまで膨れ上がった。延期が続いた後、最終的に1605年11月5日に議会が召集される事になり、ケイツビィらは、その日を目指して準備を進めた。議会上院の下の部屋で実際に火薬に点火する役割を担当するのはガイ・フォークスと決まった。ケイツビィは、陰謀の第二段階として爆破後に蜂起を起こすために11月4

日の夜遅くにジョン・ライトとトマス・ベイツと共にミッドランド地方に向かった。11月5日早朝に、議会の下の部屋で火薬の樽とともにガイ・フォークスが捕まり、火薬陰謀計画が発覚し、ロンドンにいたメンバーはミッドランドへ逃げ出す。最初にケイツビィに計画失敗を知らせたのはルークウッド(Ambrose Rookwood)だった。この段階ではまだケイツビィたちが逃亡するチャンスもあったかも知れ

ないが、ケイツビィは逃亡せずに戦うことを選び、西に向かって逃避行を続けた。途中で母親のいるアッシュビィ・セント・レジャーズの直ぐそばまで来たが、ケイツビィは母親にはそれを伝えずに通り過ぎた。11月7日夜10時頃、逃亡者の一団はスタフォードシャーのホルビーチ・ハウスに到着する。その夜、彼らは濡れた火薬を暖炉の前に広げて乾かそうとした。そこで暖炉の火花が飛んで火薬が激しく爆発し、死者は出なかったものの多くが負傷した。ジョン・グラント(John Grant)は眼が見えなくなった。翌11月8日午前11時頃、サー・リチャード・ウォルシュ(Sir Richard

Walsh)とマスケット銃で武装した200人の部下たちがホルビーチ・ハウスを包囲し、直ぐに攻撃を始めた。仲間たちが次々と撃たれて倒れていった。最後、ケイツビィはトマス・パーシーと同じ弾丸に打ち抜かれて倒れた。撃たれた後で、ケイツビィは家の中に這って行き、聖母マリアの絵を探し出して抱きしめて息絶えたという。遺体は一旦墓に埋葬されたが、後に掘り起こされ、晒しものにするために頭を切り落とされた。

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2.トマス・ウィンター(トム) Thomas Wintour(Tom)

火薬陰謀事件の首謀者たちの中で、ロバート・ケイツビィに次ぐナンバー2の立場にあった。ケイツビィとは親戚であり、彼はケイツビィを愛していた。聡明で強い性格だった。背丈は低くずんぐりとしていた。丸顔だったがハンサムだった。議論好きで論争に強かった。

1571年生まれでケイツビィよりも2歳年上だった。法律家としての教育を受けたが、法律の世界で活躍することはなかった。大陸に渡り、スペイン領ネーデルランドのフランドル地方で、初めはイングランド軍に加わりプロテスタントの反乱軍を助けてスペイン軍と戦った。しかし、その後1600年頃に熱烈なカトリック信者となる。フランドルにおけるイングランド軍の戦いが不当であることに気付いたから、というのが理由だった。

1601年末、更に1603年にもスペインに赴き、イングランドのカトリック信者たちへの資金援助を得るために枢密院と交渉した。交渉の中でトマスが「スペイン軍がもしもイングランドに上陸して戦うなら、イングランドのカトリックは2000頭の馬を提供する用意がある」と持ちかけたとサー・エドワード・コーク(Sir Edward Coke)が後に述べているが、真偽のほどは疑わしい。

1604年2月末にケイツビィに呼び出され、火薬陰謀計画への参加を持ちかけられ、ケイツビィの計画に加わった最初のメンバーとなる。その直ぐ後に再び大陸に渡り、ガイ・フォークスに会って彼を仲間に引き入れることに成功する。4月25日ころにフォークスとともにイングランドに戻り、5

月20日にダック・アンド・ドレイクで開かれた事件首謀者5人による最初の会合に参加した。

1605年11月5日に上院議場下の部屋でフォークスが逮捕され火薬陰謀計画が発覚すると、トマスは最後までロンドンに残って情報収集に努めた。が、計画が全て失敗に終わったと知ると彼もロンドンから逃げ出して、11

月6日午後にはハディントンで仲間に合流する。7日になってフルビーチ・ハウスで火薬が大爆発し仲間に負傷者が出た際に、トマスは義父ジョン・タルボット(John Talbot)のもとに協力を求めて会いに行っており不在だった。タルボットからの援助は得られずに追い返された後で、人づてに仲間たちに起こった事故について知るが、トマスは逃げ出すことなく仲間

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のもとに戻った。8日にサー・リチャード・ウォルシュの手勢にマスケット銃で攻撃を受けると、トマスは早くに肩を撃たれて腕が利かなくなるが、殺されることなく捕らえられる。

1606年1月27日に行われた裁判では、兄ロバートを巻き込んだ事を後悔し、絞首刑になることを望んだ。処刑されたのは1月30日。処刑台の上で、トマスはイエズス会士たちを無罪であると弁護し、最後に十字を切り、真のカトリックとして死ぬと宣言した。それで首吊り役人の慈悲を受けることが出来なかったのかも知れない。トマスは首を吊られた後、1~2回揺れただけでロープが切られ、意識があるうちに、局所を切り取られ内蔵を取り出されるという処刑の次の段階に遭遇しなければならなかった。

3.ジョン・ライト(ジャック) John Wright(Jack)

ケイツビィの親友。クリストファー・ライト(Christopher Wright)の兄でトマス・パーシィの義兄。身長が高く体格もたくましかった。美男子ではなかったが、人好きのする顔立ちだった。力が強く寡黙なヨークシャー人だった。忠実な人柄で、議論よりも剣を使った行動が得意だった。エセックス伯爵の反乱に加わり、しばらく独房に入れられた。その後、

ヨークシャーからリンカンシャー北部のトゥイッグムア・ホールに移り住む。そこはカトリック司祭が出入りする場所として知られていた。

1605年11月8日、逃亡中にホルビーチでサー・リチャード・ウォルシュとその部下たちによる銃撃で死亡した。

4.トマス・パーシー(Thomas Percy)

第4代ノーサンバランド伯爵(the 4th Earl of Northumberland)の曾孫で、第9代ノーサンバランド伯爵ヘンリー・パーシー(the 9th Earl of

Northumberland, Henry Percy)のまたいとこの子。ジョン・ライトとは義兄弟。最初の妻との間に出来た幼い娘は1603年にケイツビィの8歳の息子と婚約していた。利口だが無節操で「油断がならず、へつらうのが上手く、危険な奴」と

いう評判があった。実際に地所をめぐる不正行為が明るみに出た、という

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記録も残っている。政治的な人間で、そのカトリック信仰は行動的だった。白髪のせいで年齢よりも老けて見えたが、並外れて身長が高く、とても立派な体格をしていた。非常に真面目な性格だったが、同時にある種の魅力も持ち合わせていた。知的・肉体的なエネルギーに満ちていた。汗かきで、1日に2度もシャツを取り替えたという。剣を振り回し、荒っぽい連中と行動する、といった荒れた青春時代を過

ごすが、熱烈なカトリック信仰を持つようになると、おとなしくなった。1591年にマーサ・ライト(Martha Wright)を最初の妻とするが、後にこの妻を捨て、ウォリックシャーで別の女性と結婚した。第9代ノーサンバランド伯爵から信頼され、1596年にはスコットランド

国境にある一族の砦アルンウィック城の城主に任命された。さらに、エリザベス女王が亡くなる前に、イングランドのカトリック教徒の為の秘密の使節として、スコットランド国王ジェイムズⅥ世のもとにパーシーは3回ほど遣わされた。この際、スコットランド国王は、将来自分がイングランド国王となったらカトリック教徒を単に解放するだけでなく、むしろ積極的に支援するといった内容の約束を口頭でパーシーにしたという。事実がどうだったのかは分からないが、おそらく、パーシーはかなり誇張して報告したのだろうし、またジェイムズも、後に彼自身が認めたよりもはるかに多くのことを約束したのだと思われる。ケイツビィの陰謀計画には1604年5月から、最初から関わった5人の中

核メンバーのひとりとして参加した。5月20日のダック・アンド・ドレイクで開かれた最初の会合で、「諸君、我々は口先だけで、結局何もしないのか」と言ったと伝えられる。

1604年6月9日には、ノーサンバランドから儀杖衛士(Gentleman

Pensioner:総勢50名の国王のボディーガード)のひとりに任命される。この際に、国王至上の誓い(the Oath of Supremacy)をノーサンバランドがパーシーに課さなかったことが後に問題とされた。ロンドンに滞在する口実が出来たパーシーはウェストミンスターに小さな住居を借り、そこにガイ・フォークスがパーシーの召使「ジョン・ジョンソン」(John

Johnson)として住み込んだ。1605年3月には、その住居の近くに地下室を借りた。その地下室は上院の真下にあった。陰謀者たちはそこに大量の火薬を運び込んだ。

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実際の陰謀計画実施にあたってパーシーに与えられた役割は、チャールズ王子(Prince Charles)が11月5日の爆発の際に議事堂に居合わせず生き残った場合に、王子をロンドンにある彼自身の屋敷から誘拐することだった。11月1日には、パーシーはチャールズ王子の屋敷を訪れ、誘拐の際に必要となる情報を聴き出そうとした。しかし、その後計画実行直前にケイツビィ、ウィンター、パーシーの3人が協議した結果、人員不足の状況では、ロンドンの屋敷からチャールズを誘拐するよりも、ミッドランドでエリザベス王女(Princess Elizabeth)を誘拐する方が簡単だという結論に達し、チャールズ王子誘拐計画は破棄されることになった。

11月4日の午前中に、パーシーはロンドンの西、テムズ河畔にあるノーサンバランド伯爵の屋敷であるサイオン・ハウスを訪ねた。計画が露顕していないか、様子を探る事が目的だった。とりあえず伯爵の対応に変わった点はなく、パーシーは安心して帰る。この時、パーシーは恩人である伯爵に何らかの形で危険を伝えるなどして伯爵が爆発の際に議場に居合わせないように仕向けることによってその身を守ろうとはしなかった。ロンドンに戻ったパーシーはその足でロンドンにあるノーサンバランドの住まいであるエセックス・ハウスにも立ち寄り、さらに情報を集めようとした。こうしたパーシーの行動が、事件後、ノーサンバランド伯爵を窮地に追い込む事になる。4日の夕方に、パーシーはウィンター、ジョン・ライト、ロバート・キーズ(Robert Keys)らに「全て順調にいっている」と報告した。グレイズ・イン・ロードにある自宅に戻ったパーシーは、翌朝非常に早い時間に出発出来るように4頭の馬を用意しておくように召使に命じた。

11月5日の早朝に上院議場下の地下室に隠れていたガイ・フォークスが捕らえられた際、トマス・パーシーの召使の「ジョン・ジョンソン」と偽名で名乗る。そこで政府が出した最初の逮捕状はトマス・パーシーに対するものであった。パーシーはクリストファー・ライトと共にロンドンから逃走したが、途中で出会った召使に「もうだめだ」と言ったという。

11月8日にホルビーチにおけるサー・リチャード・ウォルシュの部下たちによる銃撃の最中に、パーシーはケイツビィと同一の弾丸に当たって倒れ、少し後に死亡した。一度埋葬された遺体はケイツビィのものと一緒に後に掘り起こされ、頭を切り落とされた。その頭はウェストミンスターの

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議事堂のかどに晒された。

5.ガイ・フォークス(ギド) Guy Fawkes(Guido)

火薬陰謀事件に参加した13人の内で後に最も有名になり、事件そのものの代名詞にすらなっている人物であるが、実際のリーダーはロバート・ケイツビィであった。また、13人の内で他の者と血縁関係になかったのはサー・エヴァラード・ディグビィ(Sir Everard Digby)、トマス・ベイツ(Thomas Bates)(ケイツビィの召使)とこのフォークスの3人だけだった。その点でフォークスは他の主要メンバーたちとは若干距離のある存在であった。彼は20代の大部分を軍人としてフランドル地方のスペイン軍に加わって

過ごした軍人であり、兵士らしい勇気に満ちた人物だった。その容姿は印象に残るものだった。背が高く体格は立派であった。髪の毛、口髭、顎鬚はみな濃くて赤褐色だった。意思がとても強く、後に拷問に掛けられた時にも簡単には口を割らなかったことからも分かるように、並外れた不屈の精神の持ち主だった。肉体的な力があっただけではなく、知的にもすぐれており、議論も得意だった。ガイ・フォークスが生まれたのは1570年4月。4月16日に洗礼を受けた

記録が残っているので、恐らく4月13日が誕生日ではないかと考えられている。エドワード・フォークス(Edward Fawkes)とイディス(Edith)との間にヨークのストンゲイトで生まれた。父エドワードは平凡なプロテスタントであったが、母親はカトリックの家系出身だった。8歳の時に父親が死亡し、2~3年後に母はカトリック信者と結婚した。ガイ・フォークスが幼かったころの家庭環境は十分カトリック的であったといえる。学校はヨークにあるセント・ピーターズ・スクールに通った。同窓生には陰謀参加者であるジョンとクリストファーのライト兄弟(クリストファーは同級生)や、イエズス会士テシモンド神父(Father Tesimond)、オールドコーン神父(Father Oldcorn)などがいた。フォークスはミサに熱心に参加する敬虔なカトリック信者で、軍人仲間の間では稀に見るほどの模範的な生活をしていた。結婚についてのはっきりした記録は残っていないが、どうもヨークシャ

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ーにいたときに結婚して子供もいたらしい。相手はマリア・プラン(Maria Pleine)という女性で(プラン家はフォークスが通ったセント・ピーターズ・スクールの校長の家系であった)、1 5 9 1年にトマス(Thomas)という息子が生まれたという。しかし、その後の如何なる記録にもガイ・フォークスの妻子についての記述は残っていない。おそらく長男誕生後の早い時期に妻子が共に死亡したのではないかと考えられている。こうした悲劇があったせいでフォークスは故郷であるヨークを離れ、後にはフランドルに渡ることになったと想像出来るのである。フォークスは1590年代初めに大陸に渡るが、その直前の数ヶ月間、サセックスで初代モンタギュー子爵(the 1st Viscount Montague, Anthony

Browne)の従僕となった。しかし、初代モンタギュー子爵はフォークスを気に入らなかったようで、フォークスは解雇される。後に、フォークスは今度は二代目のモンタギュー子爵(the 2nd Viscount Montague,

Anthony Browne)に給仕として雇われる。火薬陰謀事件の首謀者の一人を雇っていたということで、このことは後にモンタギュー子爵にとっては面倒な過去の事実となってしまう。大陸に渡ったフォークスは10年ほどスペイン領ネーデルランドのフラン

ドル地方で軍隊生活を送ったらしい。1603年夏には司令官サー・ウィリアム・スタンリー(Sir William Stanley)の下で大尉にまで昇進した。

1603年7月半ばから、フォークスはスペインに赴き、同僚のアントニー・ダットン(Anthony Dutton)と共に、イングランドのカトリック教徒たちにたいするスペインからの支援を働きかける私的な活動を行う。枢密院(the Spanish Council)と国王フェリペⅢ世(Philip Ⅲ)は彼らを丁重に扱った。スペインの記録保管所に残されているフォークスについての記録によると、彼がスペインで述べたイングランドの状況は、現実とは大きくかけ離れたものだった。実際にはジェイムズはスペインとの和平を求めていたのだが、フォークスはジェイムズがイングランド国内のカトリック教徒の財産を没収し、それを財源にヨーロッパのカトリック諸国に戦争を仕掛けようとしていると言う。また、同時に、非常に激しい反スコットランド感情も溢れていた。フォークスやダットンには見えていなかったが、スペイン側もジェイムズ国王下のイングランドとの和平を模索していたので、ふたりのスペイン訪問は何も成果を生み出さなかった。だだ、こ

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の訪問を機会に、ガイ・フォークスは名前をギド(Guido)と改めた。フォークスは1604年4月頃にフランドルを訪れたトマス・ウィンターに

会い、火薬陰謀計画に参加することになる。4月25日頃にイングランドに上陸しケイツビィと初めて会う。そして一ヵ月後の5月20日、フォークスは最初の会合に出席した5人の中のひとりとなった。さらに同じ頃、フォークスはトマス・パーシーが借りたウェストミンスターの住居にパーシーの召使「ジョン・ジョンソン」として住み始めた。1605年3月25日には、パーシーが上院会議場下の地下室(実際には1階部分)を借りたが、後にその部屋は「ガイ・フォークスの地下室」と呼ばれるようになった。彼らはそこに火薬を運び込んだ。

1605年夏に、フォークスは再びフランドルへ渡り、イングランドのカトリック教徒への支援を呼びかけようとした。この旅行の間に、フォークスの名前はソールズベリー伯爵ロバート・セシル( the 1st Earl of

Salisbury, Robert Cecil)のスパイ情報網を通じてイングランド政府に知られるようになった。しかし、ギド・フォークスと「ジョン・ジョンソン」という人物の関係や、火薬陰謀計画の存在自体はまだ知られていなかった。ただ、フォークスがケイツビィと何らかの繋がりがあることは知られていたようである。フォークスは1605年8月までにはロンドンに戻った。そこで、地下室に

置いてあった火薬が変質してしまって使えなくなっていることに気付く。そこで陰謀参加者たちは新しい火薬とそれを隠すための薪を新たに地下室に運び込んだ。

10月になって、計画における細かい役割分担などが決められた。フランドルでの戦争体験を通して火薬の扱いにも慣れていたフォークスは、計画の実行部分を担当することになった。彼は、まず地下室で導火線に火をつけ、急いで外に出てボートでテムズ川を渡って逃げることになっていた。

10月30日水曜日、ガイ・フォークスはウェストミンスターの地下室を点検して、火薬に異常が見られないので満足した。最近ウィンターと傷んだ火薬を新しいものと取り替えたばかりだったので、火薬が傷んでいるかどうかについてまでは確かめなかった。が、実は火薬は大部分が傷んで使い物にならなくなっていたのだった。

11月4日深夜あるいは5日早朝に、ガイ・フォークスはウェストミンスタ

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ーの地下室に潜んでいるところを逮捕された。捕まった時、フォークスは外套を着て、黒い帽子をかぶり、拍車つきのブーツを履いていた。彼は、自分はジョン・ジョンソンという名前で、トマス・パーシーの召使だと言い、その後48時間、拷問に掛けられるまでその主張を変えなかった。取調べに対して、フォークスは落ち着いた様子で応えた。爆破計画が成

功しなかったのは残念で、後悔はしていない。計画が露見してしまったのは神の力によるものではなく悪魔の仕業だ。カトリック貴族たちに警告を発して事前に助けようとは考えなかった。このような残虐な企てを実行しようとしたのは、危険な病には荒っぽい治療方法が必要だったからだ。この爆発でスコットランド人たちを故郷まで吹き飛ばして帰すつもりだった。などといった供述を淡々と続けた。フォークスの示した自制心の強さについては、国王ジェイムズでさえも感心して、まるでローマ人のようだと讃えたという。

11月6日になって、「ジョン・ジョンソン」を拷問に掛ける決定が国王によってなされた。王の手紙には「まずゆるやかな拷問にかけ、次第にいちばん厳しい拷問にまでもっていくのが良い」と書かれていた。「ゆるやかな拷問」とは手枷(manacle)、「いちばん厳しい拷問」とは拷問台(rack)のことだった。実際にどのような拷問が行われたのかは不明だが、確実なことは、11月7日のある時点で、フォークスが遂に拷問に耐え切れずに話し始めたということだ。その後、8日、9日と拷問と証言が続いた。彼に加えられた拷問が如何に長く厳しいものだったかは、拷問に掛けられる前と後のフォークスの署名を比べてみれば一目瞭然だ。拷問の後の署名は字が震え、ファミリー・ネームが書かれるべきところにあるのは、ペンが引き摺られた跡だけなのだ。裁判では、拷問の結果得られたフォークスの証言の他に、お互いに隣り

合った独房に入っていたフォークスとロバート・ウィンター(Robert

Wintour)が交わした会話の内容が証拠として読み上げられた。ふたりは誰にも聴かれていないと思っていたのだが、実は政府のスパイが聞き耳を立てていたのだった。ガイ・フォークスの処刑は1606年1月30日金曜日にウェストミンスター

のオールド・パレス・ヤードで、トマス・ウィンター、アンブローズ・ルークウッド、ロバート・キーズらの処刑とともに執行された。4人のうち

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でフォークスの順番が最後だった。拷問と病気によりかなり衰弱していたので、フォークスは梯子を昇るのにも執行人の手助けが必要だった。しかし、弱りきっていたお陰で落下と同時に首の骨が折れて意識を失い、引き続き行われる肉体解体の苦しみは味あわずに済んだ。ガイ・フォークスは火薬陰謀事件のリーダーではなかった(本当の指導

者はロバート・ケイツビィ)が、事件発覚時に地下室に潜んでいたところを捕らえられたことから、13人の火薬陰謀計画参加者のうちで最も有名になった。11月5日に儀式として焼かれる人形は「ガイ」と呼ばれ、11月5

日は「ガイ・フォークスの日」となった。

6.ロバート・キーズ Robert Keyes

1604年に40歳に近い、信頼できる正直で勇敢な男であった。背が高く、赤い髭を生やしていた。父親はノースダービーシャーでプロテスタントの牧師をしていた。母親はリンカンシャーのティリット(Tyrrwhitt)というカトリックの有名な家柄の出身であった。彼は母親の家の宗教であったカトリックを常に愛していた。妻のクリスティアーナ(Christiana)は彼と結婚したときに未亡人であったが、聡明な人で、ノーサンプトンシャーのドレイトンにあるモードント卿(Lord Mordaunt)の屋敷で子供たちの家庭教師をしていた。キーズは結婚後、モードント卿から馬と住まいを与えられていた。アンブローズ・ルークウッドはキーズの従妹の夫だった。

1604年10月ころ、キーズは陰謀計画に6番目のメンバーとして参加した。当面彼に与えられた役割は、ランベスにあるケイツビィの家を管理することだった。事件発覚後、キーズは仲間と別れ、ドレイトンのモードント卿の屋敷の近辺でしばらく潜伏したが、結局は捕らえられた。裁判の最後に発言を許された時、キーズは、如何なる時よりも今、しかも他の理由によるのではなく、今回の理由で死ぬのが良い、と言って悠然としていたという。処刑の際に、キーズはおとなしく死んでいくことを拒否した。改悛した

様子は見せず、力強く梯子を昇り、首に縄が巻きつけられると、執行人の助けを待たずに自ら飛び出した。(ある人は、キーズが執行人に不意をつかれるのではなく、自分が選んだ瞬間に死にたいと考えたのだろうと書い

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ている。)だが、残念ながら勢いでロープが切れてしまい、キーズは生きたままで四つ裂きにされる目に遭った。

7.トマス・ベイツ Thomas Bates

ケイツビィの召使。とはいえ、決して卑しい身分ではなく、鎧兜を所有し、自分自身も召使を使うことを許されていたから、むしろ家臣と言った方がふさわしいのかも知れない。ひたむきに主人に仕える忠実な男であった。独立心の強い妻マーサ(Martha)と子供がいた。彼は1605年の初めに第7番目のメンバーとして火薬陰謀計画に加わっ

た。ガイ・フォークス、エヴァラード・ディグビーと並び、13人の陰謀者たちの中で、ベイツは他のメンバーと血縁関係を持たない3人のうちのひとりであった。計画実施予定日の前日、1605年11月4日の夜遅くに、ベイツは主人であ

るケイツビィと共に、計画の第2段階であるカトリック教徒の蜂起に加わるためにミッドランド地方へ向かった。計画が発覚した後、11月6日に、ベイツはケイツビィの言いつけにより、コートン・コートにいるガーネット神父(Father Garnet)や同僚の神父たちに状況を知らせに赴いた。そこにテシモンド神父がやって来た時に、「われわれはみな完全に破滅だ」という絶望の声をベイツは聞いた。その後、ベイツは、ケイツビィたちが最後を迎える銃撃戦の前にホルビーチを抜け出したが、結局はスタッフォードシャーで逮捕された。他のメンバーがロンドン塔に入れられたのに対して、身分が劣るベイツだけはゲイトハウス刑務所に入れられた。ベイツは例えばテシモンド神父などイエズス会士たちについて不利な証言、言い換えれば当局にとって都合の良い証言をした。しかし、ベイツの自白は陰謀事件をめぐる証拠の中でも信頼度が低いとされている。それは彼の身分が低かったために、拷問をはじめとする様々な圧力を他のメンバーよりもさらに一層強く受けねばならなかったからである。ベイツは最後にはそうした証言を撤回し、彼が不利な証言をした人々に謝罪した。トマス・ベイツの処刑は1606年1月30日木曜日にサー・エヴァラード・

ディグビー、ロバート・ウィンター、ジョン・グラントら3人と一緒にセント・ポール大聖堂の墓地で行われた。刑場に続く道は、刑場まで橇に乗

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せられて運ばれていく罪人たちを一目見ようという群衆で一杯になっていた。ベイツの妻マーサは、そうした群集に紛れ込み、夫が前を運ばれていく時に上手く警備員を避けて夫のもとに走り寄り抱きついた。彼女は悲惨な運命を嘆いて大声で泣き叫んだ。実際的な人物であったベイツはこの機会を逃さず、妻に金の入った袋の隠し場所を教えることが出来た。彼の処刑の順番は4人の内で最後だった。彼は、主人であったケイツビィへの愛情のために神と王と国に対する義務を忘れてしまった、と述べた。処刑される前にかれは神と王と全王国の許しを乞い、彼らみなの無事を願う祈りを捧げた。ベイツは自分のやったことを深く後悔している様子だったという。

8.ロバート・ウィンター Robert Wintour

トマス・ウィンターの兄。1568年生まれ。ウスターに近いハディントン・コートとかなりの財産を相続した。ロバートは財産を良い目的のために使い、寛大だという評判だった。立派で頼りになる人物だったが、弟のトマスと比べると性格はおとなしかった。熱心なカトリック教徒でもあった。妻のガートルード(Gertrude)はシュルーズベリー伯爵(the Earl of

Shrewsbury)の親族であるタルボット家の出身で、やはり敬虔なカトリックだった。彼の屋敷ハディントン・コートは司祭の避難所として知られていた。彼が陰謀計画に参加したのは1605年3月25日であった。事件発覚につい

ては、11月5日の夕方に、ケイツビィと彼の母親の住むアシュビィ・セント・レジャーズの家のそばで落ち合った際に、「フォークスが捕まり、陰謀が全て露見した」とケイツビィから聞かされた。ケイツビィたちがウォリック城を襲って馬を奪おうとした際には、ロバートは大きな騒ぎを引き起こすという理由で反対した。ホルビーチで11月7日の夜起きた爆発事件について、前の夜にロバートは災難を予言するような夢を見た。焼け爛れた仲間たちの顔を見たときに、ああ、これはまさに夢に出てきた顔だと思ったという。ロバートは、翌日の銃撃戦の前にホルビーチを抜け出し、その後2ヶ月間逃走を続けたが、1606年1月9日に遂に逮捕された。最後の9

日間は、スティーヴン・リトルトン(Stephen Littleton)とともにウスタ

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ーシャーにあるハグリーという家で過ごしていた。彼らの逮捕は料理人の裏切りによるものだった。彼は女主人が食べるにしては食事の量が多すぎることを不審に思ったのだ。その料理人はこの手柄のために年金を与えられた。裁判でも、処刑場でも、彼は非常に無口であった。彼が処刑されたのは

1606年1月30日木曜日であった。彼はほとんど何も語らず、静かに祈りを捧げながら死に赴いた。

9.ジョン・グラント John Grant

彼はウィンター兄弟の妹ドロシー(Dorothy)と結婚していて、彼らの義弟だった。寡黙で意志が強く、頑固ですらあった。なかなかのインテリで、楽しみでラテン語その他の外国語を勉強していた。インテリらしく憂鬱な雰囲気を漂わせていたが、必要とあらば並外れて毅然とした態度をとることも出来た。彼は1605年3月25日に陰謀計画の仲間になった。同じ時にロバート・ウ

ィンターおよびクリストファー・ライトも仲間に引き入れた。事件発覚後、1605年11月7日の夜、ホルビーチにおける火薬爆発事故で炎によってひどい火傷を負い、目が見えなくなった。目が見えなかったので簡単に逮捕された。裁判では「企てられたが実行されなかった陰謀」という罪を犯したと述べたという。1606年1月30日に処刑される時、陰謀計画参加者の中でただひとり自分たちの企てを正当化し、「神に対する罪ではない」と語った。

10.クリストファー・ライト(キット) Christopher Wright(Kit)

ジョン・ライトの実弟でトマス・パーシーの義兄。兄のジョンと同じように身長が高く体格もたくましかった。健康な赤ら顔だった。兄と同じように無口で力が強いヨークシャーの男であり、議論よりも剣を使った行動の方が得意だった。もちろん熱心なカトリック信者だった。ヨークのセント・ピーターズ・スクールではガイ・フォークスと同級生だった。火薬陰謀計画には1605年3月25日から参加した。計画発覚後、1605年11月8日、ホルビーチでの銃撃戦で兄に続いて撃たれ死亡した。

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11.アンブローズ・ルークウッド Ambrose Rookwood

ロバート・キーズの従妹エリザベス・ティリット(Elizabeth Tyrwhitt)と結婚した。1604年秋にルークウッドは火薬の入手をケイツビィに依頼されたが、その時点では火薬陰謀事件については知らされていなかった。実際に陰謀計画に引き込まれたのは1605年9月29日のミカエル祭で、この時、はじめてルークウッドは計画のことをケイツビィから聞かされて、即座に熱烈な11番目のメンバーとなった。ルークウッドは20代半ばと他のメンバーと比べて若かったが、裕福で信

頼できる人物だった。非常に熱心なカトリックの家系で、本人も強いカトリック信仰を持っていた。カレーに近いサントメールに出来たイエズス会系の学校で教育を受けた新しいタイプのエリートでもあった。父親からサフォークにあるコルダム・ホールを相続し、そこを司祭の避難所として使えるように改築した。陽気な面もあり、また着る物についてお洒落で、贅沢で派手な衣装を好んだ。ルークウッドは馬に対して衣装以上に情熱を注ぎ、コルダムの馬小屋には良い馬がいることが知られていた。ケイツビィはそこに目をつけて彼を新しいメンバーに加えたのであった。ルークウッドは、ケイツビィに説得されて、ストラトフォード・アポン・エイヴォン近郊のクロプトン・ハウスを借りてそこに住まいを移した。計画発覚後、ルークウッドは仲間よりも遅れてロンドンから逃走したが、

すぐれた乗馬の腕前があったのと、途中に用意していた馬も並外れて優れていたので、先に逃げ出した仲間たちを途中で追い越してしまった。最初にケイツビィにガイ・フォークスの逮捕を知らせたのはルークウッドだった。その後、1605年11月7日夜のホルビーチでの火薬爆発事故で火傷を負う。翌1月8日の銃撃戦で撃たれて負傷するが一命はとりとめ逮捕された。ロンドン塔に収監されている間に彼は壁に自分の名前を彫り込んだ。今でもマーティン・タワーの上の階の壁にそれが残っていて見ることが出来る。取調べに対してルークウッドは、ケイツビィに対する特別な感情を抱いていると証言した。裁判でも、ルークウッドは、自分が陰謀計画に参加したのはケイツビィへの愛情によるものに他ならないと述べ、慈悲を懇願した。ルークウッドの処刑は1606年1月31日金曜日にウェストミンスターのオ

ールド・パレス・ヤードで、トマス・ウィンター、ロバート・キーズ、ガ

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イ・フォークスら3人と共に行われた。ロンドン塔から刑場に移送される途中、ストランドで、ルークウッドは宿の窓から見守る美しい妻エリザベスと最後に大声で言葉を交わすことが出来た。処刑される直前には、罪を告白し、悔い改めの手本となるようなスピーチを行った。そのお陰か、意識を失うのに十分なくらい長くロープに吊るしておいてもらうことが出来た。

12.フランシス・トリーシャム Francis Tresham

1568年生まれ。ケイツビィとは母親同士が姉妹で、ふたりは従兄弟の関係であった。1573年生まれのケイツビィよりもフランシスは5歳年齢が上だったが、ふたりの間で常に主導権を握っていたのはケイツビィであった。フランシスについては、性格上の色々な問題があったようだ。まず乱暴

で浪費家であった。また聡明だったが信用出来ない人間だった。弱いところがあって堅実さに欠けていた。カトリック信仰についても決して情熱的ではなかった。1605年9月に父サー・トマス・トリーシャム(Sir Thomas

Tresham)が亡くなると、当時37歳だったフランシスは相続によって豊かな資産家となり、馬や金の入手先としてケイツビィたちの陰謀計画にとって意味のある人物となった。フランシスがケイツビィに誘われて陰謀計画の12番目のメンバーとなっ

たのは1605年10月14日であった。ふたりはクラーケンウェルにあるトリーシャムの義弟スタートン卿の家で会った。ケイツビィがフランシスに要求したのは、まず2000ポンドの資金援助と、次にフランシスが父から相続したノーサンプトンシャーにあるラシュトン・ホールをメンバーが計画のために利用できるようにすることであった。後にフランシス自身が行った供述では、フランシスはこのケイツビィからの要求をふたつとも断ったということになっている。陰謀計画が発覚する直接のきっかけとなったのは、1605年10月26日に

モンティーグル卿(Lord Monteagle, William Parker, 4th Baron, later

13th Baron Morley)のもとに届けられた意味のはっきりしない手紙であった。その内容は、11月5日に召集される議会への出席を見合わせるように勧め、さらに議会に対して大きな打撃を与えることを予告するものだっ

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た。この手紙をモンティーグル卿がソールズベリー伯爵に届けたことが計画暴露への道を開いた。この手紙を誰が書いたのかはいまだに分かっていないが、フランシスはその疑いをもたれたひとりであった。特に仲間から裏切り者が出たことを知ったケイツビィやトマス・ウィンターが最初に嫌疑をかけたのがフランシスだった。結局、ケイツビィたちは疑いを捨てたのだが、こうした逸話からも、フランシスが一番近い仲間たちからでさえ信用されていなかったということが分かる。陰謀計画発覚後、1605年11月12日にフランシスは逮捕され、ロンドン

塔に収監された。12月になって、フランシスは尿道炎のために健康状態が急激に悪化した。ウィリアム・ヴァヴァソア(William Vavasour)という召使が最後まで彼の世話をした。このヴァヴァソアがフランシスの最期の詳しい様子を記録に残している。妻のアン(Anne)は、夫が亡くなる二日前になって漸く面会を許された。フランシス・トリーシャムは1605年12月23日午前2時に亡くなった。死後、その頭は切り落とされてノーサンプトンシャーで晒し首にされた。

13.サー・エヴァラード・ディグビー Sir Everard Digby

陰謀計画に参加した13人の中でいちばん若く、1605年に24歳だった。ガイ・フォークス、トマス・ベイツと並び、13人の中で他のメンバーと血縁関係のない3人のうちのひとりだった。彼は非常に魅力的な青年で、誰からも信頼され愛される人物だった。美貌に恵まれただけでなく、6フィートを越える長身で、運動選手のような肉体の持ち主で、「宮廷でいちばん美しい男」という評判だった。乗馬の達人でもあった。国王からも目を掛けられ、1603年4月23日にナイトの称号を与えられた。美しく裕福な女性メアリー・マルショー(Mary Mulshaw)と10代半ばで結婚し、理想的に幸せな結婚生活を送っていた。夫妻は、それぞれ別々にカトリックに改宗したが、ふたりを改宗させたのは、ともにイエズス会士ジョン・ジェラード神父であった。その後、ディグビーとジェラード神父は非常に親密な間柄になり、神父はディグビーの最初の息子の代父となった。ディグビーが火薬陰謀事件に巻き込まれたのは13人の中でいちばん遅

く、1605年10月22日、事件発覚の2週間前であった。ケイツビィはディグ

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ビー夫妻の住まいであったゲイハーストでエヴァラードと乗馬に出掛けて、そこで陰謀計画を打ち明けて参加するように説得した。ケイツビィが彼を選んだ理由は、裕福で馬を所有している乗馬の達人だったから、という実際的なものだった。ディグビーはケイツビィに頼まれてウォリックシャーのオールスターに

近いコートン・コートを借りて住むことにした。ディグビーに与えられた役割はコヴェントリーに近いクーム・アビィで生活していた9歳の王女エリザベスを誘拐することだったと思われる。しかし、計画の中核部分である議事堂爆破計画について、計画が発覚して破局を迎えるまでディグビーはどうも何も知らされていなかったようである。ディグビーが最初に陰謀の細部までを知ったのは、ガイ・フォークスが逮捕されて計画が発覚した11月5日のほとんど夜になってからであったらしい。ダンチャーチにいたディグビーのもとにケイツビィらが逃れて来て、そこではじめてディグビーは恐ろしい計画の全貌を聴かされたと思われる。ディグビーは驚いたであろうと想像出来るが、結局はケイツビィの魅力と説得力に押され、その後もケイツビィら他の陰謀参加者たちと行動を共にすることになった。しかし、ホルビーチで銃撃戦が起きる前には自首するために仲間から抜け出し、ウォリックで逮捕された。主要なメンバー13人の中で自首したのは彼だけだった。投獄されたディグビィはロンドン塔のブロード・アロー・タワーの独房の壁に自分の名前を彫り込んだが、その跡は今でも残っている。

1606年1月27日に、生き残った陰謀計画参加者8名の裁判が行われた。ディグビーだけが自ら有罪を認めたので、他の7人とは別に裁判に掛けられた。判決の後、ディグビィは「どなたか私を許すと言って下さい。」と叫んだ。それに対して居合わせた多くの貴族たちが「神はあなたを許し、我々も許す」と言ったという。ディグビィの処刑は、1606年1月30日木曜日に、ロバート・ウィンター、ジョン・グラント、トマス・ベイツらの処刑と共に行われた。彼は4人の内で最初に処刑台に昇った。彼は短い時間ロープに吊るされただけでロープが切られ、意識がはっきりしたままで身体を解体されることになった。伝説によると、執行人が彼の心臓を掴み出して高く掲げ、「見よ、謀反人の心臓だ」と叫ぶと、ディグビィは「嘘だ」と応えたという。こうした話が伝わっているという事実そのものが、ディグビィが人々から尊敬されて

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いた人物であった証拠となるのではないだろうか。

おわりに

宗教的な少数派が迫害に遭っている。そのような状況に耐え切れなくなった少数派内部の過激不満分子が破滅的な無差別大量殺人テロを計画する。こうした事件の構図は、21世紀初頭に生きる我々にとって、なんと身近な状況であることだろうか。1605年11月にロンドンで発覚した火薬陰謀事件は、ジェイムズ朝で起きたテロ未遂事件であるが、テロリズムのひとつの典型的な事例として400年後の今も、国家と信仰の自由、宗教迫害とテロリズム、宗教対立と国際関係、といった点について、様々な示唆を与えてくれる。今回はこのような断片的な研究ノートとなってしまったが、今後さらにこの事件について研究を進めて行きたい。

[参考文献]

この研究ノートを作成するにあたり、最も頻繁に参照したのは、次の文献である。Fraser, Antonia. The Gunpowder Plot: Terror and Faith in 1605.

London: Orion Books, 2002. (First published in 1996 by Weidenfeld

& Nicolson)

(邦訳:アントニア・フレイザー著 加藤弘和訳 『信仰とテロリズム:1605年火薬陰謀事件』 東京:慶応大学出版会 2003年)

さらに必要に応じて下記の諸文献を参照した。(前掲書も含む。)Asquith, Clare. The Hidden Beliefs and Coded Politics of William

Shakespeare. New York: Public Affairs, 2005.

De Lisle, Leanda. After Elizabeth: How James, King of Scots Won the

Crown of England in 1603. London: Haper Collins, 2004.

Fraser, Antonia. The Gunpowder Plot: Terror and Faith in 1605.

London: Orion Books, 2002. First published in UK in 1996, by

Weidenfeld & Nicolson.

Gerard, John. The Autobiography of an Elizabethan. 2nd ed. Translated

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from the Italian by Philip Caraman with an Intoroduction by

Graham Greene. London: Longmans, Green and Co, 1956.

Haynes, Alan. The Gunpowder Plot. 2nd ed. Phoenix Mill: Sutton

Publishing, 2005.

Hogge, Alice. God’s Secret Agents: Queen Elizabeth’s Forbidden Priests

and the Hatching of the Gunpowder Plot. London: Haper Collins,

2005.

Lane, Allen (ed). Gunpowder Plot. London: Penguin, 2005.

Milward, Peter. Shakespeare: the Papist. Naples, Florida: Sapientia

Press of Ave Maria University, 2005.

Nicholls, Mark. Investigating Gunpowder Plot. Manchester:

Manchester University Press, 1991.

Shapiro, James. 1599: a Year in the Life of William Shakespeare.

London: Faber and Faber, 2005.

Sharpe, James. Remember, Remember the Fifth of November: Guy

Fawkes and the Gunpowder Plot. London: Profile Books, 2005.

Tesimond, Oswald. The Gunpowder Plot: the Narrative of Oswald

Tesimond alias Greenway. Translated from the Italian, edited and

annotated by Francis Edwards. London: The Folio Society, 1973.

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