現象学的心理学の可能性 - 大阪経済法科大学...現象学的心理学の可能性 —...
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アジア太平洋レビュー 2010
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現象学的な心理学の問題点
フッサールの創始した現象学の考え方を心理学に応用し、現象学の観点から心理学の諸問題を考察しようとする研究には、記述心理学、現象学的精神病理学、人間性心理学などが存在するのだが、現象学の徹底した原理的思考を理解すれば、そこに大きな可能性があることは否めない。しかし現在、これらの現象学的な心理学は、心理学のマイナーな学派としてわずかに認知されているにすぎず、主流の実証科学的な心理学と比べると、また無意識の解釈によって人気を博してきた深層心理学と比べても、その影響力は大きく水をあけられている。その理由として、次の二つのことが考えられるだろう。
第一に、自然科学の飛躍的な発展によって、科学的に実証されざる理論には価値がない、といった考え方が心理学の領域全般に広まっていること。このため、現象学のように主観的な意味や価値を問題にする学問は、あまり重視されない傾向がある。だが、主観的な意味や価値を扱わずして、はたして人間の心を研究することなど可能なのだろうか? まさしくこうした問題意識から現象学的な諸々の心理学が登場したのだが、科学の急速な進展のなかで、その主張は掻き消されてしまった。
第二に、従来の現象学的な心理学は主観的な意味を重視している点で、実証科学では掬い取れない問題をフォローしてきたと言えるが、
フッサールの主張した現象学本来の思考を十分活かしきれていない。これは、現象学の難解さゆえに、またフッサールの記述の晦渋さゆえに、誤った現象学理解が心理学の世界に浸透していることに原因がある。
本稿はこうした現状に対して、フッサール現象学の原点に立ち返り、これまでの現象学的な心理学の功績と問題点を精査すると同時に、現象学を基盤とする心理学の本来の可能性を考察することをテーマとしている。現象学の理論を正しく理解し、その思考法をうまく活用できるなら、次のような可能性が開かれるであろう。
まず「本質観取」という現象学的思考法の正確な理解と使用によって、心理学における諸概念の本質を明らかにし、心理学諸理論の意義を明確にすることができる。このことは、こうした諸理論における対立を解消する可能性を開いてくれるだろう。それは、臨床その他の応用分野における基本的な共通原理を見出す上で、はかりしれないほどの寄与をもたらすはずである。
また、フッサール現象学の中心概念である「超越論的還元」の意義が理解されれば、「心」という認識対象の本質を明確にする可能性が開かれる。そして心の本質が明らかになれば、現象学的な心理学は多様な心理学の一潮流にとどまらず、心理学という学問全体の土台を築くことができる。それは、実証科学的な心理学や深層心理学の進展においても大きな意味を持つはずだ。
このように、現象学に基盤を置く心理学の可能性は広大で、しかも従来の現象学的な諸心理学が踏み込んでいない問題が数多く残されている。だがこれらの考察に移る前に、まずは従来
現象学的心理学の可能性
キーワード:記述心理学、現象学的精神病理学、人間性心理学、現象学、本質観取、超越論的還元
山竹伸二( )大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター
現象学的心理学の可能性
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の現象学的な心理学を実証科学的な心理学や深層心理学と対比することで、その理論と成果を確認しておくことにしよう。
心理学の三つの潮流
心理学の源流は、17 世紀に登場したデカルトの心身二元論とロックのタブラ・ラサ説に遡るが、「心」が科学的研究の対象となり、心理学が自然科学の一分野となったのは、19 世紀末、ブントがライプチヒ大学に心理学実験室を開設したときからであった。といっても、ロックの観念連合の考え方を受け継いだブントは、内観によって意識内容を個々の要素に還元して分析し、それらがいかに結合するのかを研究していたので、ある意味で現象学と通じるものがあった。
しかし、こうしたブントの構成主義(要素主義)も、後にウィリアム・ジェイムズの機能主義によって批判されている。ジェイムズによれば、問題は「なぜ心はそのように機能するのか」という点にあったからだ。この考え方は行動主義に継承され、意識を重視した内観的方法は封印されることになった。意識内容よりも行動が重視されるようになったのである。
1920 年代に台頭してきた行動主義は、心理学でありながらも「心」という主観を排した、徹底的な客観主義に基づいていた。ワトソンによれば、人間の行動はすべて「刺激-反応」という観察可能な対象に還元することができる。これはパブロフの条件反射説を応用した考え方だが、すべては条件づけによって学習可能である、というワトソンの確信は、健康な赤ちゃんを自分に預けてくれれば、いかなる人物にもしてみせる、と豪語したことからも窺い知ることができる。そして彼は、心理学は厳密な行動科学であるべきだと主張し、後の心理学に大きな影響を与えたのである。
無論、ワトソンの発想では「一切の人間行動は反射運動にすぎない」ということなってしまうため、1930 年代には行動主義の内部にも多くの批判が噴出することになった。たとえばトールマン、ハルといった心理学者たちは、行
動の原因をすべて外部の刺激に求めるのではなく内的要因を重視すべきだと主張し、スキナーは行動の原因に過去の経験が深く関わっていると考え、プログラム学習や行動療法の原理を確立した。
一方、人間は要素全体の布置(ゲシュタルト)を知覚していると主張した、ウェルトハイマー、ケーラー、コフカらのゲシュタルト心理学も、要素主義のみならず、行動主義の考え方と鋭く対立しており、この考え方は後に認知心理学にも影響を与えている。1960 年代に登場した認知心理学は、当時の人工知能研究に触発され、人間の心を情報処理システムとして捉えるものであった。これは観察不可能な心の内部について、古典的な行動主義のように切り捨てるのではなく、仮説を提示することで積極的に考察しようとするものであり、いまや現代心理学の主流をなしている。
以上が実証科学を土台に据えた心理学の展開であり、別名「実験心理学」とも呼ばれている。一方では、精神分析を中心とする深層心理学の系譜が存在し、実証科学中心の実験心理学と並んで心理学の二大潮流をなしている。
フロイトが精神分析を創始したのは 19 世紀末のことであり、ブントによって実験心理学が生み出された時期とほぼ一致する。両者とも科学的客観性を重んじている点では同じだが、深層心理学は「無意識」という科学的に証明し得ない仮説を導入しており、実証主義の心理学者たちからは厳しい批判を受けてきた。だが、それでも精神分析は 20 世紀前半の精神医学、思想・文芸に巨大な影響を与え、一般の人々にも広く受け入れられてきた。精神分析を中心とする深層心理学の諸学派(自我心理学、対象関係論、ユング派、アドラー派、ラカン派)の系譜は、実験心理学とは異なったかたちで、その存在感を示してきたのである。
こうした心理学の二大潮流に対して、「現象学的心理学」という名称を表立って標榜している記述心理学的な研究(ジオルジ、キーン)は、心理学の傍流に位置する一学派にすぎない。しかし、20 世紀前半に登場した現象学的精神病理学(ヤスパース、ビンスワンガー、ブランケ
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ンブルク)、1960 年代に登場した人間性心理学(ロロ・メイ、ロジャーズ、マズロー)など、現象学的なアプローチを含んだ心理学の総称として現象学的心理学を捉えるなら、それは実験心理学と深層心理学に次ぐ第三の学派と見ることもできるだろう。実際、人間性心理学などはしばしば心理学の「第三の勢力」と呼ばれてきた。したがって、現代心理学は上の表のような三つの潮流に分けることができる。
以下、従来の現象学的心理学を、①記述心理学(個人の内面における意味を研究)、②現象学的精神病理学(病者の内面的意味から精神疾患を研究)、③人間性心理学(個人の成長と精神疾患の治癒を研究)の三つを含んだものとして捉え、順次検討することにしよう。
記述心理学の系譜
近年、心理学のみならず医療・看護などの領域において、「質的研究」と呼ばれる研究法が注目を浴びているが、質的研究は自然科学的な量的研究、すなわち実験・観察のデータから問題を数値化(量化)して考える研究とは異なり、対話などをとおして相手の心理的内容を記述、整理し、何らかの答を引き出すものだ。方法としては、KJ法、グラウンデット・セオリー、エスノグラフィー研究、ナラティヴ・アプローチ、ライフ・ストーリー研究など多岐にわたる。現象学的方法もそのひとつとして位置づけられているが、これらの方法が共有する内面記述と意味の分析は、従来の現象学的心理学とほぼ一致する。
そもそも人間科学におけるこのような手法の源流は、19 世紀末に活躍したディルタイやブレンターノにまで遡ることができる。彼らの方
法は「記述心理学」と呼ばれ、後の現象学的心理学に先立って、早くから意味や価値の問題を人間科学の主要テーマとして捉えていた。
ディルタイの『精神科学序説』によれば、「意識の事実の分析は精神科学の中心であり、こうして精神的世界の原理の認識は、歴史学派の精神に呼応して、精神的世界それ自身の領域のうちにとどまり、精神科学はそれだけで独立した体系を形成している(1)」。これは要するに、精神の原理を意識の外部に求めてはいけない、意識の分析こそが精神の原理を明らかにする、という主張である。人間の精神を研究する上で必要なのは主観的な意味の研究であり、自然科学の観点から、精神と外部環境の因果関係に焦点を当てても、本質的なことは何一つわからない。このことを、ディルタイは早くから気づいていた。
こうした考え方は現象学と共通しているが、しかし一方でディルタイは、ロック、ヒューム、カントらは「経験や認識を表象に属する事実から説明してきた」と批判し、経験や認識の根底には「全体的人間」を置くべきだと述べている
(2)。これはつまり、意識の背後に身体を備えた人間存在が前提とされているわけだが、現象学的に考えれば、これは証明し得ないことであり、留保(エポケー)しなければならない問題であった。
同じことはブレンターノの記述心理学にも言える。ブレンターノもまた、心理学は意識体験と関わりをもつべきだと考え、意識に現われた対象の意味を分析する記述心理学を標榜した。しかも彼が心的現象に固有な性格として捉えていた「志向性」の概念は、フッサールの現象学に大きな影響を与えている。しかし、「残念なことに彼は、本質的な点で自然主義的伝統から
(1) ヴィルヘルム・ディルタイ『ディルタイ全集(第1巻)精神科学序説Ⅰ』(牧野英二編)法政大学出版局、2006 年、8頁(2) 同上(3) エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(細谷恒夫・木田元訳)中央公論社、1995 年、419 頁
《心理学》 《精神医学》実験心理学 ・・・・ 行動主義、認知心理学 ――― 生物学的精神医学深層心理学 ・・・・ 精神分析、ユング心理学 ――― 力動精神医学現象学的心理学 ・・・・ 記述心理学、人間性心理学 ――― 現象学的精神病理学
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くる先入見にとらえられていた(3)」とフッサールは述べている。これはブレンターノが意識の実在性を前提としていたことへの批判である。
確かにディルタイとブレンターノの記述心理学は、意識の現象に焦点を当てている点で現象学と共通の地盤に立っている。しかし、意識は身体を持った人間に属する実在的対象と見なされおり、意識の実在性を留保するフッサールとは対照的である。また、ディルタイとブレンターノの記述心理学が意識に現われた対象の意味を研究するとしても、現象学が主要テーマとしているような、多くの人が共通了解し得る意味=
「本質」の考察を目的としているわけではない。要するに、フッサール現象学と記述心理学は
意識に現われた経験の意味を重視する点で共通しているが、フッサールはこれに加えて、意識の実在化を前提にせず(エポケー)、そうした実在性の問題の解明も射程に入れていた。これは「超越論的還元」という思考法によってはじめて解明できる。また意味を重視するにしても、他者と共通了解し得る意味(本質)を取り出すことを重視しており、これには「本質観取」という思考法が必要になる。
しかし、現象学の応用分野と目されてきた現象学的心理学の諸研究のほとんどが、ディルタイやブレンターノの記述心理学を継承したものにすぎず、現象学に特有な思考法(超越論的還元および本質観取)を用いてはいない。それは意識内容の記述と意味の抽出を中心に据えている点で、確かに現象学的と言えなくないし、それなりに意義のある研究ではあるだろう。だが、このような研究は記述心理学の範囲を超え出ておらず、心の実在性についても、心の本質についても解明することができない。
たとえば心理学者アーネスト・キーンは、明快な現象学的心理学の入門書のなかで、こう語っている。「現象学的心理学の目標は、私達がすでに黙示的には理解しているようなもろもろの物事を、露わにして、明示的な理解とすることである(4)」。それは、ある経験の中にかく
された構造と意味を明確にすることをめざしている。そうした経験の当事者の意識に現われた対象について、先入観を排して見つめ(現象学的還元)、想像のなかで背景にある地平をいろいろと変えてみれば(想像変更)、ひとつの明確な意味が浮かび上がってくる(解釈)。そのような意味は、当人が暗黙のうちに理解していることなのだが、はっきりと自覚していたわけではない。キーンによれば、こうした経験(現象)の中核的な意味を明らかにすることこそ、現象学的心理学の中心的な仕事なのである。
また、アメリカの現象学的心理学を牽引してきたジオルジは、次のように述べている。
現象学に基礎を置く心理学は、第一に、眼の前に繰り広げられる現象へと開かれてある、という態度で対することによって、現われてくることをできる限り無前提なやり方で記述することに関心を示します。(中略)第二に、やはり記述によって、現象に関してそのつどとられるパースペクティヴの背後にある諸前提と、それが現われてくる文脈をできる限り明確にしようと努めます。第三に、事実を通して明らかになってくる、現象の生きた意味を把握しようと努めます(5)。
個人の経験の主観的世界(意識に現われた世界)について、一切の前提(先入観)を置かず、当事者の主観に寄り添って記述し、その内容の背景にある文脈を考慮しつつ、その意味を取り出すこと。これが現象学的心理学の方法であり、目的である、というわけだ。
ジオルジによれば、こうした主観的な意味、本質の解明は、自然科学の枠組みでは不可能であり、現象学を基盤とした人間科学の枠組みが必要になる。「意味に対して自然科学的パースペクティヴを仮定してみても、その現象の本質的特徴が見逃されるばかりか、より深い志向的関係に達することすらできはしない(6)」。その意味で、彼は現象学的心理学を単なる心理学の
(4) アーネスト・キーン『現象学的心理学』(吉田章宏・宮崎清孝訳)東京大学出版会、1989 年、232 頁(5) アメディオ・ジオルジ『心理学の転換』(早坂泰次郎監訳)勁草書房、1985 年、58 頁(6) アメディオ・ジオルジ『現象学的心理学の系譜』(早坂泰次郎監訳)勁草書房、1981 年、212 頁
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一学派として捉えるのではなく、心理学全体の基盤をなす考え方として捉えていたと言える。
以上のように、現象学的心理学と称される研究の多くは、フッサール現象学よりもディルタイおよびブレンターノの記述心理学に近く、個人の内面を記述し、その意味を理解する、というものであった。無論、記述にあたって先入観を排することを「エポケー」と呼び、意味を取り出す上で多様な背景を想定する過程を「想像変更」、取り出された意味を「本質」と呼ぶなど、現象学の概念は使われている。しかし、これはフッサール現象学における「本質観取」の思考プロセスとは異なっているし、概念の使用も正確なものとはいえない。この点については、後ほど本質観取の方法を論じる際に説明しよう。
現象学的精神病理学
次に現象学を精神医学の世界に応用した現象学的精神病理学について説明しよう。
現象学的精神病理学とは、フッサール現象学またはハイデガー実存論を基盤に据えた精神病理学の総称である。現在の精神医学の主流は、科学的な客観性を重視した生物学的精神医学であり、それは脳や遺伝的要因に病気の原因を求めるような、心身の因果論に基づいている。これに対して現象学的精神病理学は、患者の主観的世界に焦点を当てることで、患者が受けとっている世界の意味を理解しようとするものだ。
現象学的精神病理学の創始者であるヤスパースによれば、「現象学の行なおうとすることは、患者が実際に体験する精神的状態をはっきりとわれわれの心の中に描き出し、それに似たいろいろの関係とか情況に基づいて観察し、できるだけはっきりと区別をつけて、しっかりと定
まった術語をつけることである(7)」。ヤスパースがディルタイの記述心理学を受け継いでいることは明らかだが、そこにフッサール独自の方法(本質観取)を見出すことはできない。だがそれでも、こうしたヤスパースの考え方はシュナイダーやコンラート、フーバーらに受け継がれ、後に精神病理学の主流派を形成するほどの影響力を持っていた(8)。
ところで木村敏によれば、「ヤスパースの精神病理学がフッサールの哲学的現象学に依拠していることをはっきり表明しながら、実はその一側面だけを、つまり理論的先入見を取り去って記述に徹するという側面だけを受け入れてきたのに対して、フッサール現象学のもう一つの側面である本質直観を精神病理学に導入しようとする動きが、やはり今世紀初頭から活発になっていた(9)」。それはビンスワンガーやミンコフスキーらの理論だが、しかし彼らの現象学理解(特に本質直観の捉え方)は、いくつかの点でフッサールの主張とは異なっている。
後で詳しく説明するが、現象学的方法としての本質直観(「本質観取」とも言う)(10)は、「自由」「不安」「死」「心」「欲望」等々の概念を対象とし、誰もが共通して了解し得る意味(普遍的な意味)を取り出す作業である。それは、個別的な主観性の記述・了解を超えた本質を明らかにし、精神病理の解明や治療に寄与することができる、と私は考えている。
しかし、ビンスワンガーやミンコフスキーの主張する本質直観は、「他者の内面を直観的に把握すること」と見なされている。たとえばビンスワンガーはこう述べている。「精神病理学的現象の現象学的考察というものはすべて、(中略)まず最初に病める人間の本質へと眼を向け、この本質を直観にまでもたらすものなのだ(11)」
(7) カール・ヤスパース『精神病理学原論』(西丸四方訳)みすず書房、1971 年、41 頁(8) こうしたヤスパース以降の精神病理学の主流については、木村敏の「精神医学における現象学の意味」(『分裂病と他者』弘
文堂、1990 年、92-93 頁)に詳しくまとめられている。(9) 木村敏『心の病理を考える』岩波書店、1994 年、43 頁(10)本質直観には二通りの意味があり、ひとつは事物の意味を推論をはさまず直接的に把握する場合であり、もうひとつは概念
の本質を直観と推論によって取り出す場合である。後者が現象学的方法としての本質直観であり、「本質観取」とも呼ばれる。(11)ルートウィッヒ・ビンスワンガー「現象学について」『現象学的人間学』(荻野恒一・宮本忠雄・木村敏訳)みすず書房、1967 年、
46 頁
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と。またミンコフスキーは、単なる患者の内面記述ではなく現象学的直観が必要だとしながらも、彼にとっての現象学的直観とは、患者の話に耳を傾けると、ある瞬間、全体の核心を知り得たという確信が生じる、というものであった
(12)。言うまでもなく、このような理論は科学的根拠のないものと見なされ、さまざまな批判を呼び起こしてきた(13)。
一方、現象学的精神病理学のなかには、フッサール現象学よりもハイデガーの哲学に大きな影響を受けている者も少なくない。ビンスワンガーはその先駆者であった。もともとハイデガーによる現存在の分析は、フッサールの本質観取(本質直観)を人間の存在(あり方)に適用した、優れた現象学的分析と言えるものだ。したがって、これを精神病理の問題に応用することは有効であり、その意味でビンスワンガーの試みも評価できる。しかしその反面、ハイデガーは人間のあり方を「本来的」と「非本来的」に区分し、「現存在は本来的な自己存在可能としてのおのれ自身から、さしあたってはいつもすでに脱落していて、『世界』へ頽落している」
(14)と主張している。これは証明し得ない仮説であるが、本来、現象学ではこのような仮説は一切排除(エポケー)しなければならない。しかし、ハイデガーの仮説を踏襲したビンスワンガーは、精神病者を「頽落」という概念で記述している点で、ひとつの物語仮説になっている面があるのだ(15)。
同じくハイデガーの影響を受けたメダルト・ボスも、神経症の説明に「頽落」の仮説を援用しており(16)、結果的に問題の多い理論となっている。一方でボスは、心理的治療に関する優れた本質的分析を残しているのだが、後期ハイデガーの形而上学的な理論をも受け継いでいるため、理論的矛盾を生じている(17)。
晩年のビンスワンガーはフッサール現象学に回帰し、躁鬱病を超越論的還元などの概念を用いて分析しているが、木村敏によれば、これは彼の現存在分析に比べ、あまり評判のいいものではなかった。分析対象が躁鬱病であったことが、現象学的分析の利点を活かせなかった原因であり、「現象学はきわめて『分裂病向き』の知的姿勢に対応し、分裂病はそれ自体きわめて
『現象学的』な事態だ(18)」、と木村敏は述べている。現象学では日常の現実性を還元するため、現実性にゆらぎのある分裂病(統合失調症)の分析に向いている、というわけだ。これはなかなか鋭い指摘である。
なるほど、確かに分裂病者の特徴として、現実感の喪失、日常性のゆらぎというものがある。こうした日常の現実感は「客観的世界が実在している」という確信(信憑)に基づいているが、現象学ではこの確信を保留にし(エポケー)、確信の根拠を問い直す。これが超越論的還元と呼ばれる作業である。したがって、超越論的還元は分裂病における現実感喪失の本質を解明する上で、きわめて有効な方法でもある。
(12)本質直観に関するミンコフスキーの捉え方については、木村敏の「精神医学と現象学」(『自己・あいだ・時間』弘文堂、1981 年、180-181 頁)を参照。
(13)たとえば斎藤環は、松尾正の批判に依拠しつつこう述べている。「分裂病者との出会いにおいて現象学的精神病理学者は、その独自の内的本質直観主義に導かれ、かつそれを他者一般にまで拡大するという誤りをおかしてしまう」(「箴言の基体としての精神病理学」『文脈病』青土社、2001 年、388 頁)。この批判は現象学的精神病理学の過ちを鋭く指摘している反面、現象学の本質直観に対して十分な説明ができていない。
(14)マルティン・ハイデッガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)筑摩書房、1994 年、373 頁(15)たとえば、ルートウィッヒ・ビンスワンガー『精神分裂病Ⅱ』(新海安彦・宮本忠雄・木村敏訳、みすず書房、1961 年、119 頁)
における、症例ユルク・ツュントの分析などが典型的。(16)「病的に非本来的な、停滞した生命の事実的な諸現象は、(中略)いろいろのニュアンスをもった負い目の感情、劣等感、さ
らにはヒステリー症状や強迫症状をもこえて、もっとも重篤な身体障害にまでも至る」(メダルト・ボス『精神分析と現存在分析論』笠原嘉・三好郁男訳、みすず書房、1962 年、79 頁)という記述が典型的。
(17)ボスは心理的治療の本質を自由の獲得だと主張する一方で、人間は「存在の明るみの境域として言い求めをうける」(同上102 頁)と述べている。これは人間の自由が存在に規定されていることを意味するため、彼の治療の本質と矛盾している。
(18)木村敏「精神医学における現象学の意味」『分裂病と他者』弘文堂、1990 年、102 頁
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このような方向性で分裂病を分析し、優れた成果を残したのがブランケンブルクである。彼は分裂病の根幹には「自明性の喪失」があると考え、この問題を透徹した論理で次のように記述している。「自然な自明性の喪失は、それ自体、間主観的に構成されたものといわなくてはならない。ということは、分裂病性疎外の本質は、それ自体生活世界の間主観的構成の欠陥に基いたものだということである(19)」。自然な自明性とは、日常生活における「あたり前」な実感(現実感)であり、彼はこれを間主観性によって構成される、と論じているわけだが、ここには現象学的理解の深さが窺える。実際、他者の言動は世界の実在性を確信させる重要な契機となっており、自明性の喪失が他者との関係性における障害に起因することは、きわめてわかりやすい理屈である。ブランケンブルクはこれを意識における「構成」として論じているため、やや問題を不明確にしている面もあるが、それでも彼の分析は現象学的精神病理学における最良の成果と言えるだろう。
しかし、その後、半世紀近くを経たいまでも、現象学的精神病理はブランケンブルクの水準をまったく超えていない。いや、むしろこの偉大な仕事は忘れられつつあり、現象学的精神病理学は退潮の兆しを見せている。それはやはり、現象学における本質観取、超越論的還元が正確に理解されてこなかったからではないだろうか。
現象学的立場の心理療法
1910 年代に登場した現象学的精神病理学は、患者を理解するために患者の主観性を重視していたが、フッサール現象学やハイデガー実存論の考え方が直接的に治療に応用されたわけではなかった。しかし 1950 年代になると、現象学的精神病理学はアメリカに紹介され、それにと
もなって、現象学や実存論を心の治療に応用した考え方・技法の一群が登場することになった。来談者中心療法、ゲシュタルト療法、フォーカシングなど、いわゆる人間性心理学の心理療法がそれである。
来談者中心療法は、現在、最も信頼され、多用されている心理療法のひとつだが、この治療法を創始したカール・ロジャーズの影響力は、ロジャーズ派以外のカウンセリングにも広く及んでいる。彼はカウンセラーが身につけておくべき条件として、「無条件の肯定的配慮」「共感的理解」「自己一致」の三つを挙げ、特に「自己一致」――自分の感じていることを自覚し、言動に矛盾がない状態――を重視していた。たとえばクライエントの話にイライラしているのだが、そうした自分の感情に気づかないまま、共感するような発言をしていれば、クライエントはカウンセラーの微妙な表情や身ぶりからその矛盾に気づき、不信感を抱く。「彼が内面では、あるいは無意識の水準では別の感情を経験しているのに、外面にはある態度または感情の見せかけを示している程度だけ、成功的なセラピィが起こる可能性は減少する」のである(20)。
カウンセリングを受けるクライエントは、基本的に自己不一致の状態にある人たちであり、過度の抑制によって、自分の感情を理解することが難しくなっている。そこでカウンセラーはクライエントの話を聞きながら、声のトーン、身振り、表情、服装など、あらゆる徴候に感覚を集中させることで、患者の欲望や不安を感じ取り、その感じた内容を言葉にしてクライエントに返す。そうすると、クライエントは「本当の自分」に気づき、自己一致に至ることでができるのだ。
このように、自己理解(「本当の自分」に気づくこと)を心理療法の中心に据えているのは、クライエント中心療法だけでない。ロジャーズ、マズローとともに、人間性心理学の先駆者であ
(19)ヴォルフガング・ブランケンブルク『自明性の喪失』(木村敏・岡本進・島弘嗣訳)みすず書房、1978 年、237 頁(20)カール・ロージァズ「クライエント中心療法の現在の観点」『クライエント中心療法の最近の発展』(伊藤博編訳)岩崎学術
出版社、1967 年、42 頁(21)ロロ・メイ『存在の発見』(伊東博・伊東順子共訳)誠信書房、1986 年、150 頁
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るロロ・メイもまた、心理療法はクラエントが自己のあり方に気づくよう援助することだ、と主張している(21)。また、ジェンドリンのフォーカシングという技法は、「からだの内部でのある特別な気づきに触れてゆく過程(22)」であり、
「いま、ここ」で生じている感情の体験過程、言語化されていない身体的な過程に焦点を合わせ、意味を見出す技法だが、それは身体感覚のなかに「本当の自分」を見出そうとする作業にほかならない。ゲシュタルト療法を開発したパールズも、「クライエントが発見しようとしている本来の自己を表出することを勇気づけねばならない(23)」と述べている。
このように、人間性心理学の心理療法では「本当の自分」に気づくことを重視している。しかもそれだけではなく、人間には生来、「本当の自分」へと向かう傾向、自分を成長させようとする欲求があるため、セラピストが少し援助しさえすれば、後は自然によくなる、と考えられている。ロジャーズによれば、「成長の傾向、自己実現の欲求、あるいは前進していく傾向、といったどんな言葉で呼ぼうと、それは生命というものの根本的な動機である。最終的にすべての心理療法が頼りにしているのはこの傾向なのである(24)」。
この考え方は人間性心理学の枠を超え、巨大な文化運動にまで発展する力をもっていた。1970 年代以降、アメリカの西海岸を中心に発展したニューエイジ・ムーブメント(人間性開発運動、エンカウンター運動を含む)がそれである。しかし、人間性心理学が強調した自己実現や自己成長の仮説には、心理療法において一定の有効性を持つ反面、「本当の自分」を発見することが人生の目的と化すような危険性も潜んでいる。
そもそも自分の感情に目を向け、「本当の自分」に気づくことが必要なのは、自分が本当に
望んでいることを理解し、その可能性に向けて歩み出すためにほかならない。自分が望む方向性が見えてくれば、そちらへ向かうのはあたり前であり、その結果として自己実現や自己成長が起きるのであって、生来的に自己成長への傾向があるわけではない。カウンセラーが悩めるクライエントに対して、「いまのその気持ちが、ほんとうのあなた自身ではありませんか」と問いかけることは、「ありのままの自分」に気づかせてくれるだろう。だが、「〈本当の自分〉を発見しなければならない、それを実現することが本当の生き方だ」などと言われれば、それはむしろ「ありのままの自分」を抑圧してしまう危険性がある。
ロゴセラピーを提唱したヴィクトル・フランクルは、人間性心理学と同じく実存主義的な立場にありながら、こうした自己実現論の問題点を明確に理解していた。フランクルによれば、セラピストに必要なのは、患者が自分の生きる意味と価値を見出し、その見方を広げることである。これによって、患者は自分がその意義を感じることのできる行為や生き方を認識し、自分の自由な意志によってそれを選び取ることができる。そして、その行為や生き方によって生の意味が充足すれば、その程度に応じて自己実現は生じ得る。「一般に人間の現存在において自己充足や自己実現が問題になる場合、それらはただ結果として達せられるのであって、意図してではありません(25)」という彼の言葉は、自己実現を目的化した考え方に対する警鐘となっている。
このように、現象学的あるいは実存主義的な立場と言われる心理療法の多くは、自己成長の仮説を持ち込み、自己実現を目的化している点で、少なからぬ問題点を抱えている。現象学の視点からは「本当の自分」もひとつの仮説にすぎないが、しかし「本当の自分」を確信する可
(22)ユージン・ジェンドリン『フォーカシング』(村山正治・都留春夫・村瀬孝雄訳)、福村出版、1982 年、29 頁(23)フレデリック・パールズ『ゲシュタルト療法』(倉戸ヨシヤ監訳)ナカニシヤ出版、1990 年、133 頁(24)カール・ロジャーズ『ロジャーズが語る自己実現の道』(諸富祥彦・末武康弘・保坂亨共訳)、岩崎学術出版社、2005 年、
37 頁(25)ヴィクトル・フランクル『精神医学的人間像』(宮本忠雄・小田晋訳)みすず書房、2002 年、55 頁
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能性は誰にでもある。それは、それまで抱いていた自己像が崩れ、新しい自己像を受け入れた瞬間であり、自己の了解が生じたことを意味している。自己の了解は人間の存在本質であり、私たちが自分の欲望とその可能性を知り、納得のできる生を得る上で欠かせないのである。その意味で、人間性心理学の心理療法が「本当の自分」に気づくことを重視したこと自体は、やはり正しかったと言えるだろう。
フッサール現象学と本質観取
すでに述べたように、人間の心を研究するためには主観的な意味や価値といった問題を扱う必要がある。実証科学が切り捨ててきたこれらの問題に対して、従来の現象学的な立場に立つ心理学は一定の成果を挙げてきたと言える。事実、ここまで説明してきたとおり、記述心理学や現象学的精神病理学は、対象となる人物の主観的世界を理解する方法を提示してきたし、人間性心理学のセラピーも数多くの治療成果を挙げてきた。
しかし、現象学については誤った理解が人文科学の領域に広まっており、そのため従来の現象学的心理学においても、フッサール現象学の持つ本来の有効性を十分に活かすことができていない。この問題は次の二点に集約できるだろう。
第一に、主観的な意味を重視していても、それはディルタイ的な記述心理学の範囲にとどまっており、個別的な意味を超えて、そこから共通了解を導き出すような本質考察にいたっていない。これは本質観取(本質直観)という現象学独自の方法がほとんど使われていない、ということでもある。本質直観が重要だと主張する精神科医や心理学者の文献にさえ、他者の内面を直観的に理解する方法であるかのような、誤解した記述が散見される。
第二に、超越論的還元の意味が正確に理解されていない。還元は単に「先入見の排除」を意味するにすぎず、実存的な意味への還元という
意味として理解されている。まず本質観取の問題から考察することにしよ
う。すでに触れたが、本質観取とは「自由」「不安」「死」「言語」「欲望」「感情」「身体」等々の概念を対象とし、誰もが共通して了解し得る意味(本質)を取り出す作業であり、本質直観とも呼ばれるのは、それが意識において直観された意味を出発点にして、他者と共通了解し得る意味に練り上げていく作業であるからだ。
たとえば「不安」という言葉を聞くと、私たちは「不安」の意味を直観的に受け取っているものだが、その意味は必ず他者と共通した部分を含んでいる。そうでなければ、「不安」という言葉を使って他者とコミュニケーションする際、何の齟齬もなく話が通じる、というわけにいかない。だが、そうした共通了解し得る意味を明確化し、誰もが納得し得る言葉に置き換えるのは容易でない。まず自分の主観的な解釈を排し、よくよく誰もが納得し得るか否か、考え直してみる必要があるだろう。その上で、多くの人が共通了解し得る「不安」の意味を熟考し、これを取り出すことができれば、それが「不安」の本質だと考えることができる。
こうした本質観取の方法は、心理学の領域においてもきわめて有効である。先入観を排して意識現象に眼を向け、「心」に関わる諸概念(知覚、感情、記憶、欲望など)の本質を本質観取によって明らかにすることができれば、心理学にとって実りある成果が得られるはずだ。フッサールが「現象学的心理学」(純粋心理学)と呼んでいるものは、このような本質観取の作業を意味している。「心理学的現象学は、こういう仕方において明らかに、「形相的現象学」として基礎づけられることができるのであって、このとき、それは、もっぱら不変な本質諸形式のみに目を向けるのである(26)」。
しかし従来の現象学的心理学は、本質観取によって心理学的な概念の本質を見出す、という仕事をほとんどしてこなかった。本質的な考察もなくはないが、それも自覚的に本質観取という思考方法を使ったものではない。ただ、フッ
(26)エトムント・フッサール『ブリタニカ草稿』(谷徹訳)筑摩書房、2004 年、22 頁
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サールから多くを学んだサルトルやメルロ =ポンティのように、心理学における本質観取の意義を明確に理解していた者もいる。
初期のサルトルは心理学的概念の本質観取を試み、これを現象学的心理学と呼んでいる点で注目に値する。たとえば、彼は「情動」という心理学概念について、「情動の本質というものに暗々裏に訴えているのでなければ、さまざまな心的事実のなかから情動性をもった事実という特定グループをえりわけてくることも、不可能になってしまう(27)」と述べている。情動の心理学は情動の本質考察を抜きにしてはあり得ない、というわけだが、この考え方は本質観取の意義を十分に理解していると言えよう(28)。
メルロ = ポンティはサルトルと同様、心理学的概念の本質観取を形相的心理学(本質を対象とする心理学)と呼び、次のように述べている。
フッサールの考えでは、すべての経験的心理学には形相的心理学が先立たなければなりません。つまり、それは、心理学のつねに用いている基本的諸概念を、自分自身の経験との触れあいから作り上げていこうとするような反省的努力を、まず必要とするのです。事実の認識は心理学の仕事だが、この事実を精錬するに役立つ諸概念の定義は現象学の仕事だ、とフッサールは考えるわけです(29)。
形相的心理学は心理学の諸概念の本質を考察し、その定義を明確にすることで、自然科学的な経験的心理学に寄与し得る、というのだ(30)。この形相的心理学こそ、まさに現象学的心理学のあるべき研究のかたちだと思えるが、しかし、従来の現象学的心理学の展開を見るかぎり、こ
のような作業はほとんど為されていない。本質観取による心理学的諸概念の本質考察は、現在にいたるまでほとんど研究されてこなかったのである。
ハイデガー実存論の影響
サルトルやメルロ = ポンティとは異なり、ハイデガーは本質観取の必要性について積極的には言及していない。しかし、彼の主著『存在と時間』には、人間の日常的なあり方に関する優れた本質観取を見ることができる。人間存在だけでなく、不安、死、時間、良心などの現存在分析は、まさに本質観取による現象学的な分析でもあり、しかもその考察の深さは他の追随を許さないほど卓抜なものである。そのため、ハイデガーの哲学は現象学的あるいは実存主義的立場に立つ心理学者たちに、フッサール以上に深い影響を与えてきた。
ハイデガーによれば、人間(現存在)とは、自己の気分を了解しつつ、それによって開示される可能性をめがけて行動する存在にほかならない。たとえば、道端で怪しげな人物が自分を見つめていたとしよう。このとき、私たちは妙な胸騒ぎを感じ、急いでその場を立ち去ろうとするだろう。自らの不安な気分から、その場を危険な状況として受け止め、「逃げる」という可能性を選んだわけである。これはほとんど無自覚のうちに、とっさに採った行動であるが、気分の了解にはもっと自覚的で、より明確に意識して行動を選択することもある。嫌々していたはずの仕事を終えて、その仕事にわくわくした面白さ、期待感を抱いている自分に気づいたとすれば、私たちはその仕事をまだまだやりたいと思いはじめ、継続することを決断する。こ
(27)ジャン・ポール・サルトル「情動論粗描」『自我の超越 情動論粗描』(竹内芳郎訳)人文書院、2000 年、100 頁(28)もっとも、サルトルは情動の本質を「魔術的なものへの意識の性急な墜落」(同上、165 頁)だと述べているが、これは情動
の一面でしかないだろう。(29)モーリス・メルロ=ポンティ「人間の科学と現象学」『眼と精神』(滝浦静雄・木田元訳)みすず書房、1966 年、33-34 頁(30)メルロ = ポンティは「身体」の本質観取を試み、「私の身体をしてけっして一つの対象でなく、けっして『完全には構成され』
たものでなくしている所以のものは、私の身体とは一般に対象が存在するようにさせている当のものだ、ということだ」(モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学Ⅰ』竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1967 年、163 頁)と述べている。これは身体の本質を鋭く捉えた分析と言えるだろう。
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の場合もまた、気分から自分の欲望に気づかされ、その欲望を充足させる道を選んだことになる。
このように、人間は自己の気分を了解することで、そこから導かれる可能性をめがけて生きている。この点について、ハイデガーは次のように述べている。
了解するということは、実存論的には、現存
在自身がおのれの存在可能を存在することであり、そのさいこの存在は、おのずからにして、おのれ自身の要所(おのれ自身が何に懸けられているか)を開示しているのである(31)。
私たちは気分を了解することで、自分の欲望や不安を事後的に知らされる。気分(情状性)は自分がどうしたいのか、という自己の欲望や関心を示しているからだ。それは(知らなかった)自己自身に気づくこと(自己了解)であり、このような自己了解があるからこそ、私たちは自らの欲望・関心の向かう先に眼を向け、その可能性へと歩み出すことができる。自己了解によって可能性をめがけながら生きること、それが人間の存在本質なのである。
このような人間のあり方に関する現存在分析は、実に見事な本質観取であり、反論の余地がないほど優れたものだと言える。だが、すでに指摘したように、ハイデガーは証明し得ない仮説(「本来性」「非本来性」の区分)を導入している。普段の私たちは日常の雑事やおしゃべりに没頭し、本来の可能性をめがける生き方を忘れている。そこで、良心の呼び声に耳を傾け、本来の生き方に立ち戻る必要がある、というわけだ。しかし、このような考え方は仮説の域を出ず、およそ原理的なものとは言い難い。
ハイデガーの哲学は心理学や精神医学の領域に深い影響を与えてきたのだが、それらはこうしたいい面と悪い面のどちらも受け継いでい
る。たとえば、すでに述べたビンスワンガーとメダルト ・ ボスは、ハイデガーが実存の本質を鋭く捉えているがゆえに、一定の説得力を持っているが、精神疾患を本来的な生からの逸脱(頽落)と見なすなど、ハイデガーの証明し得ない仮説を持ち込み、結果的に問題の多い分析となっている。
人間性心理学の心理療法においても、「本当の自分」(「本来的なあり方」)を目的化しがちな点で、やはりこの仮説の影響を蒙っている面がある。しかし一方では、ハイデガーの見出した自己了解の原理が活きている。ロジャーズやロロ・メイらの重視する、「本当の自分」に気づき、自分らしく生きること=自己実現、それは多くの場合、気分の了解によってこそ可能になる。だからこそ、自分が本当に望んでいることに気づかされ、納得のいく生き方に立ち返ることができるのだ。なぜ、彼らが「本当の自分」に気づくことを重視し、クライエントの自己了解を促そうとするのか、最早説明するまでもないだろう。
現象学的心理学の各領域において、ハイデガーの影響力は広範に渡っている(32)。それは、ハイデガーの人間存在に関する本質観取が、人間の主観的な意味や価値を問題とする場合、きわめて有効なものであるからだ。その功績を否定することは誰にもできない。しかし、それゆえにと言うべきか、その後、現象学を人間論に応用しようとする試みは、ハイデガーの主張を無批判に転用したものが多く、自ら本質観取を試みようとする研究者がほとんど出ていない。
心理学の基礎づけ
ところで従来の現象学的な心理学の多くは、現象学的還元とは、先入見を排除して心的現象のみに立ち戻り、その経験の実存的な意味を明らかにすることだ、と捉えている。それも間違っ
(31)マルティン・ハイデッガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)筑摩書房、1994 年、313 頁(32)近年、現象学の考え方は看護ケア研究の領域においても注目されているが、特にハイデガー実存論の影響は少なくない。そ
れは、ハイデガー哲学に基づく人間観を看護理論に応用したベナーの仕事が、現在の看護理論に広く浸透しているからだ。ベナー看護論については、パトリシア・ベナー/ジュディス・ルーベル『現象学的人間論と看護』(難波卓志訳、医学書院、1999 年)が参考になる。これも広い意味では、現象学的心理学に含めることができるだろう。
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ているわけではないのだが、しかしフッサールが主張した現象学的還元には、もっと別な意味も含まれている。
フッサールは、まず純粋な心的現象に立ち戻ることを「現象学的-心理学的還元」と呼び、そこから一般性(本質)を取り出す作業のことを本質観取と呼んでいる。従来の現象学的心理学には本質観取の作業が欠けているが、還元の意味としては「現象学的-心理学的還元」とほぼ同じだと考えていいだろう。この場合、還元によって得られる意識とは、世界の中に存在する「純粋な心」であり、意識の外部にある世界の実在性は問われていない(33) 。
しかし厳密に言えば、こうした実在性を保証するものはなにもない。私たちは眼の前に広がる世界が実在していると信じているのだが、それは私の意識に現われた世界であり、私の意識の外部に世界があるかどうかは証明不可能である。では、一体なぜ私たちは、眼の前の世界が実在している、と確信しているのか。
このような問いは超越論的問題と呼ばれ、デカルト、カント、ヒュームらが問い続けてきた、近代哲学最大の難問であった。フッサールはこの問題を主観における確信成立の問題として捉えなおし、こう考えたのだ。眼の前の世界が実在するか否かは疑えるが、世界が意識に現われていること、見えていること自体は疑えない。この「見えている」という現象の不可疑性こそ、
「世界が実在する」という確信の根拠である、と。この場合、世界の実在性への確信は保留にされている。そしてこのような主観への還元こそ、フッサールが「超越論的還元」と呼んだものなのだ。
一見すると、超越論的還元は哲学上の認識論としては重要であっても、心理学あるいは人間科学においては必要ないようにも見える。超越論的問題を主題化せずとも、「先入見の排除」によって実存的な意味に還元すれば(つまり現象学的-心理学的還元だけで)、他者と共通了
解が可能な意味(本質)を取り出すことは、ある程度まで可能なように思えるからだ。しかし、フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において次のように述べている。
われわれは、心の固有な本質をことばにもたらさんとする記述的心理学の理念の純粋な展開のうちで、現象学的-心理学的な判断中止と還元との超越論的なそれへの転換が必然的に達成されるのを、驚きをもって――とわたしは思うのだが――認める(34)。
ここでフッサールが「記述的心理学」と呼んでいるものは、本質観取を用いた「真の意味での記述心理学」のことであり、彼が「現象学的心理学」または「純粋心理学」と呼んだものに相当する。「現象学的-心理学的還元」によって先入見を排し、意識における意味に焦点を当てて「心」の本質を求めれば、必然的に「心」の実在性が主題化され、「現象学的-心理学的還元」は「超越論的還元」に転換する、とフッサールは言うのである。
確かに、知覚、記憶、想像など、心理学の諸概念は意識という主観的領域(=心)の存在を前提にしており、心理学の対象である「心」は超越論的問題を含んでいる。したがって、心理学的な諸概念の本質を本質観取によって探求すれば、あらゆる対象は意識において確信されており、「心」も例外ではない、という結論に突き当たる。つまり、私たちが「心」というものの存在を確信する根拠は何なのかを問うような、超越論的問題に突き当たるのだ。そしてこのとき、超越論的還元の正確な理解が必要になる。
したがって、これからの現象学的心理学を構想するとしたら、超越論的還元を十分に理解し、
「心」という認識対象の本質を明らかにすることが重要な課題となるだろう。すでにこのような現象学的研究は、竹田青嗣によって興味深い
(33)この問題についての詳しい研究は、西研『哲学的思考』(筑摩書房、2001 年、170 頁)が参考になる。(34)エトムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(細谷恒夫・木田元訳)中央公論社、1995 年、456
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試みが展開されている。竹田によれば、「心的存在」(心)は「単に“対象化される”存在であるだけでなく、まさしくそれ自身が、諸対象をつねに“対象化する”存在である、という存在本質を持つ(35)」。従来の実証科学的な心理学は、「心」を“対象化される”存在として研究してきたのだが、「心」が世界を“対象化する”存在でもある以上、世界を主観的に意味づけるような「心」の学が必要になる。そして後者の心理学こそ、これまで現象学的心理学と見なされてきたものなのだ。
以上のことから、現象学的心理学は心理学全体の基礎づけを担っている、と考えることができる。超越論的還元と本質観取をとおして「心」の本質を明らかにできれば、心理学全体の土台となる基礎的な考え方が確立されるだろう。また、そうした原理論を踏まえた上で、心理学における諸概念を本質観取するなら、従来の心理学諸理論の意義を明らかにするだけでなく、心理学全体の可能性を見据えることができる。まさにそれこそが、これからの現象学的心理学にとって真に重要な仕事となるはずである。
(35)竹田青嗣/山竹伸二『フロイト思想を読む』日本放送出版協会、2008 年、81 頁