津田葛根と書物との邂逅 - Waseda University津田葛根と書物との邂逅 (249)1096...

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  • 津田葛根と書物との邂逅

    (247)1098

    一、はじめに

     

    早稲田大学図書館には国文学者・横山重氏(一八九六〜一九八〇)

    がかつて所蔵していた古典籍が多く所蔵されている)1(

    。その中に、平

    安時代末期に起きた保元の乱・平治の乱を主材とする軍記物語であ

    る『保元物語』『平治物語』の写本も存在する)2(

    。この写本は『保元

    物語』『平治物語』ともに同じ装丁であることから、両物語が一対

    の作品として存在していたことが分かる資料である。このうち『平

    治物語』の下巻末尾において、「津田葛根」なる人物が、本書を購

    入した経緯と当該写本の特徴を述べた識語が確認出来る。この津田

    葛根という人物は、これまでどのような素性の者か不明とされてき

    た。しかし今回、論者の調査により、葛根は江戸時代後期〜末期に

    生きた、小浜藩酒井家に仕えた藩士であることが判明した。『保元

    物語』『平治物語』の諸本のうち、比較的古い段階に位置する本は

    一二三〇〜四〇年前後に成立したと考えられる)3(

    が、その後も改作さ

    れながら享受され続け、江戸時代には版本として出版され人々に広

    く読まれることになる。そのように版本が流通した江戸時代におい

    て、古写本はどのような存在であったのか、そして、どういった立

    場の人物に両物語の古写本が享受されたのか、その一例を明らかに

    することは、当時の版本と写本の位置付けや、近世における軍記物

    語の享受の様相を考えることに繋がろう。本稿では、早稲田大学図

    書館蔵津田葛根識語本(以下、津田本と称す)を対象に、写本購入

    者として葛根の素性を追うことで、近世における『保元物語』『平

    治物語』の享受の実態の一つを捉え、以上の問題を考える足掛かり

    としたい。

    二、津田本の特徴について│葛根の識語に沿って│

     

    まずは津田本の識語を確認し、その情報に沿いつつ当該本の特徴

    津田葛根と書物との邂逅

    ││

    早稲田大学図書館蔵『保元物語』『平治物語』購入の背景

    ││

    滝 澤 み か

  • 1097(248)

    を捉えていくこととしよう。識語の全文は、次に挙げる通りである

    (﹇図版1﹈)。

    此保元平治物語六冊予在洛中購得焉/比校于水府参考本〈京師

    本杉原本鎌倉本半井本岡崎本普通之印本/凡六本〉大同小異於

    京師本也然水府彰考/館之儒未見之一奇書欤可貴可愛矣/文化

    十二年十月若狭藩士近江津田/葛根識

    (花押)

    (/は改行、〈 

    〉内は割注)

     

    この識語は文化十二年(一八一五)十月に「若狭藩士近江津田葛

    根」が記したものであり、葛根が京都にいたときに一組で売られて

    いた『保元物語』『平治物語』を購入したことや、水戸藩の制作し

    た『参考保元物語』『参考平治物語』(両書ともに一六九三刊)と対

    校した結果が記されている。識語冒頭に「此保元平治物語」と記さ

    れているように、両物語が一組の作品として扱われていたことが分

    かる。これと併せて、書誌情報を確認したい。次の表1は津田本の

    書誌情報をまとめたものである。

    ﹇図版1﹈ 

    津田本識語

    表1

    保元物語

    平治物語

    所蔵

    早稲田大学図書館

    早稲田大学図書館

    番号

    リ〇五 

    一二四二八

    リ〇五 

    一二四二九

    巻冊

    三冊

    三冊

    表紙

    青色

    青色

    寸法

    縦三〇.九㎝×横二二.三㎝縦三〇.八㎝×横二二.三㎝

    外題

    「保元物語 

    上」(題箋・中央

    配置・写)

    「平治物語 

    上巻」(題箋・中

    央配置・写)

    内題

    「保元物語 

    上」

    「平治物語 

    上巻」

    目録

    (なし)

    (なし)

    装丁

    袋綴じ・四つ目綴じ

    袋綴じ・四つ目綴じ

    料紙

    楮紙

    楮紙

    見返し

    各巻文字の記載なし。

    中巻のみ、裏見返しに本文の

    記載が続く。

    紙数

    上・六十二丁/中・七十七丁

    /下・四十九丁

    上・四十六丁/中・四十三丁

    /下・四十三丁

    半葉行数

    十行×二十四字前後

    十行×二十四字前後

    字高

    二五.七㎝

    二六.一㎝

    用字

    かな・漢字

    かな・漢字

  • 津田葛根と書物との邂逅

    (249)1096

     

    本書は大型の寸法である。また、題箋には草花の模様が金で描か

    れていることから、比較的豪華本寄りの作りであることが分かる。

    本文は両物語ともに同筆であり、半葉行数や用字も同じである。外

    題・内題もともに同筆と考えられることから、表紙は原表紙と見る

    のが穏当である)4(

    。これを踏まえると、前述したように装丁が両物語

    とも同一であることも、津田本の『保元物語』『平治物語』が一組

    の作品として享受されていたことの証左となろう。

     

    津田本の本文について、識語の中で葛根は「水府参考本〈京師本

    杉原本鎌倉本半井本岡崎本普通之印本凡六本〉大同小異於京師本

    也」と述べ、京師本に似ていると結論付けた。この津田本の本文に

    関する先行研究としては、原水民樹氏の報告が注目される。氏は津

    田本の『保元物語』は犬井分類)5(

    で言うところの宝徳本系統に属し、

    中でも「松井本系列の初期形態を残している」本である可能性を示

    し)6(

    、他方で津田本の『平治物語』は取り合わせ本であることを指摘

    した上で、「中巻後半部│八行本系統、他部│金刀比羅本系統蓬左

    本系統」とした)7(

    (永積分類)8(

    で言うところの凡そ四類本〈金刀比羅本〉

    に属する)。さらに氏は、葛根が諸本の中でも京師本と位置付けて

    いる識語の判断は、現在の諸本研究の分類からは正しくはないので

    はあるが、参考本には金刀比羅本は含まれておらず、杉原本より京

    師本とする判断については正しいことを指摘している。以上の原水

    氏の見解については、論者も否定する要素は持たない。

     

    他方で原水氏は、「微細な固有語句も見られるが、とりたてて論

    じるほどのものではない」とし)9(

    、津田本に見える他系列本との細か

    な語句の異同については特には踏み込んで分析していない。しかし、

    この異同は書写年代等を考える手掛かりとなる可能性がある。そこ

    でまず着目したいのは、津田本の『保元物語』に本文と同筆で系図

    が付けられている点である(『平治物語』にはない)。『保元物語』

    上巻には冒頭2オから2ウにかけて白河院から後鳥羽院までの皇室

    系図が付き、同中巻2オから3ウにかけてと、同72オから73ウにか

    けての二箇所それぞれに源氏系図が付けられている。この源氏系図

    の中では「土岐祖」、「宇野祖」、「足利祖」、「細川祖」、「新田祖」と

    いった記載が見られ、特に前者源氏系図の中(﹇図版2﹈)では「源

    章段名

    (なし)

    (なし)

    書き入れ(なし)

    青いボールペンで記入あり。

    識語

    (なし)

    「此保元平治物語六冊予在洛

    中購得焉比校于水府参考本

    〈京師本杉原本鎌倉本半井本

    岡崎本普通之印本凡六本〉大

    同小異於京師本也然水府彰考

    館之儒未見之一奇書欤可貴可

    愛矣文化十二年十月若狭藩士

    近江津田葛根識(花押)」

    蔵書印

    「早稲田大学図書」

    「早稲田大学図書」

    備考

    横山重氏旧蔵。上巻冒頭に皇

    室系図、中巻巻頭・巻末に源

    氏の系図(線なし)が載る

    (本文と同筆・本紙記入)。

    横山重氏旧蔵。

  • 1095(250)

    賢」なる人物を「波々伯部祖」とする)10(

    。波々伯部氏は室町幕臣とも

    なる氏で)11(

    、軍記物語の中では『太平記』に名前が登場する。同書巻

    八では以下のように名を連ねている。

    其外久下・長澤・志宇知・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・

    小山・波々伯部、其外近国ノ者共、一人モ不残馳参リケル。篠

    村ノ勢無程集テ、其数既ニ二萬三千余騎ニ成リケリ。

    (旧大系288)

     『保元物語』に付けられた系図であるにも関わらず、物語に登場

    しない波々伯部氏に敢えて言及するのは、当時世に浸透あるいは注

    目されていた氏であるためと考えられる。この波々伯部氏の例が室

    町時代に関わることを踏まえると、津田本の『保元物語』において

    いくさのことを「陣」と表現している部分も、書写時代の検証に関

    わると考えられることから看過出来ない。この表現は『保元物語』

    で二箇所確認出来、次に挙げるのは『保元物語』における、乱での

    為朝の戦いぶりを記述した箇所である。

    ﹇津田本﹈

    そもそも八郎為朝、このぢんに二十四さしたる矢二こし、十八

    さしたる矢さんこし、九ツさしたる矢一こしいたりけるが

    ﹇宝徳本)12(

    ﹈(金刀比羅本・陽明本も同様)

    抑八郎為朝、この軍いくさに廿四差したる矢二腰、十八差したる矢三

    腰、九差したる箭一腰射たりけるが

     

    傍線部分に示した津田本の「ぢん」(陣)は、いくさのことを意

    味していよう。この用法は、桃源瑞仙(一四三〇〜一四八九)著『史

    記抄』(一四七七年成立)、惟高妙安(一四八〇〜一五六七)著『詩

    学大成抄』(室町末期成立)、朝倉教景(一四七四〜一五五五)の教

    訓書である『朝倉宗滴話記』(十六世紀末成立か)などに見られ、

    室町時代以降に確認出来る)13(

    。宝徳本系統本の中では原水氏の言う松

    井本系列の松グループの諸本)14(

    に同様の表現が確認出来、共通異文と

    なるが、同じ松井本系列と言っても例えば静嘉堂文庫蔵玄圃斎旧蔵

    本など含む別グループの諸本にはそうした表現は見えず、他系列の

    諸本にも確認出来ない)15(

    。また、津田本の『保元物語』の全てのいく

    さという語句において陣という表現が用いられているわけではない

    が、津田本の『平治物語』にはこの表現は一切確認出来ず、両物語

    ﹇図版2﹈ 

    源氏系図

  • 津田葛根と書物との邂逅

    (251)1094

    で異なる。つまり津田本は、津田本書写者が新たに作成したオリジ

    ナルの本文を有するのではなく転写本であり、親本が存在する可能

    性が考えられるのである)16(

    。その場合、系図内の記述や語句の表現を

    踏まえると、津田本の親本となった本は室町時代以降に作成された

    ものであり、津田本への転写もそれ以降と推定出来る。

     

    さて、津田本で最も着目したいのは、葛根が「大同小異於京師本

    也」と結論付けつつも、最終的に「然水府彰考館之儒未見之一奇書

    欤可貴可愛矣」と記し、その検証をまとめている点である。『参考

    保元物語』『参考平治物語』は、『保元物語』『平治物語』の注釈書

    としては最も流通していたものであり、この時代、両物語の古写本

    の検証はこの参考本が基準となっている)17(

    。敢えて「水府彰考館之儒」

    に言及されていることからも分かるように、葛根はこの津田本を彰

    考館の儒学者が見たことがないため「一奇書欤」としている。すな

    わちそれは、当時流通していた参考本を相対化させる可能性がある

    本であることに着目しているのであり、そこに葛根は「可貴可愛矣」

    という価値を見出していることが分かる。『保元物語』『平治物語』

    の写本の価値の基準は、当時人々の手に渡っていた版本ではなく、参

    考本の世界を相対化させる側面があるかどうかであったと言えよう。

    三、購入者「津田葛根」について

     

    では、この津田葛根とは何者なのか。原水氏はこの津田本の識語

    に見える対校結果を踏まえ、「津田葛根については知るところがな

    いが、購得した伝本の素性を『参考本』を用いて探っている点、そ

    れなりの識見を持ち合わせた人物だったと思われる」と指摘するに

    留めているように)18(

    、津田本から得られる情報には限りがある。そこ

    で葛根が作成に関わった他の資料も踏まえることで、彼が軍記物語

    の古写本を購入した背景を捉えたい。

    ⑴ 

    葛根の来歴│その交流関係から│

     

    手掛かりとなるのは、まず本人が津田本の識語の中で若狭(現福

    井県)の藩士と述べていることである。中でも葛根は小浜藩に属し

    ていたと考えられる。

     

    小浜藩は国学者・伴信友(一七七三〜一八四六)がいた藩として

    著名であり、小浜市立図書館酒井家文庫には信友に関わる書物が現

    在でも収蔵されている。その中の一つに、信友の著作の一つである

    『東寺古文零聚)19(

    』があるが、その第一巻の序文には次のような記述

    がある)20(

    (﹇図版3﹈)。

    京の東寺に古き文書数多あり。漫に人に見する事なし。しかる

    を、己れともだちなる)21(

    葛根・吉従と三人、いと懇切に見まほし

    う乞たりしかば、彼寺僧某、一山の中びとにたちて、見するこ

    とをゆるしてけり。かれ、文化八年四月十八日より同十一年二

    月廿一日まで、としの四とせを、いとまあるごとに彼寺に行通

    ひて、朝より日の暮るゝまでこれを見る。

    (傍線論者)

  • 1093(252)

     

    信友が、東寺に収められた所謂東寺百合文書の調査を行ったこと

    は有名であるが、『東寺古文零聚』は、その文書を一部写したもの

    である。この序文には、当時三十九歳であった信友が東寺百合文書

    を調査しに行った経緯が書かれており、傍線部に見えるように、そ

    の調査に同行した者の中に「葛根」の名が確認出来ることから、葛

    根が信友の友人であったことが分かる。もう一人の同行者「吉従」

    とは、文化年間頃の人である興田吉従(生没年未詳)のことであり、

    小浜藩の儒臣である)22(

    。東寺の調査は、京都勤務中の文化八年(一八

    一一)四月より同十一年(一八一四)二月二十一日に至るまでの間

    に行われたらしく、津田本の識語と照らし合わせれば、この京都滞

    在の間に葛根は『保元物語』『平治物語』を購入し、勤務を終えた

    後の文化十二年(一八一五)に識語を記したことになる。

     

    葛根の生没年に関する情報は、彼自身が記した書物から窺える。

    高知県立高知城歴史博物館蔵『御外伝附録)23(

    』の奥書には、彼の来歴

    に関わる詳しい情報が書かれている(﹇図版4﹈)。以下、該当箇所

    を挙げてみよう。

    書御外伝之後/尊藩之 

    祖公在尾張之黒田城也外臣〈葛根〉之

    /祖亦主於海部中島葉栗丹羽之四郡而拠于岩倉/城脣歯相倚同

    盟合従矣伊勢守信安不敏失邑也/間行而倚頼于/尊藩矣接侍甚

    盛愛顧之隆以終天年然子孫流離/窮困無所不至不断猶線以至

    〈葛根〉也〈葛根〉不敏尋旧故/得 

    允而出入于 

    高門又賜拝

    謁眷顧殊常荷恩尤/重〈葛根〉思報徳者久矣然〈葛根〉生稟鄙

    鈍文武時事都/不通暁加之犬馬之年古稀之遅暮駑駘日甚無由/

    報焉間者入于一故家之文庫而見所謂名山石」室之秘書/尊藩先

    公之故事履歴星羅雲布昭々乎即於/坐攬筆書於紳焉退為一冊其

    他之典籍中遇/尊藩之事実輙繕録者数条為之附録以献 

    左/右

    之執事伏惟/尊藩文献当富矣愧献芹負暄也 

    憐〈葛根〉之寸忱

    /庶政之暇辱賜 

    一観終身之幸無以加焉伏紙惶恐/不勝戦慄以

    ﹇図版3﹈ 

    小浜市立図書館酒井家文庫蔵『東寺古文零聚』

  • 津田葛根と書物との邂逅

    (253)1092

    稟執事云爾/

    天保十三年六月 

    外臣 

    若狭家僕津田権大夫平〈葛根〉謹

    (/は改行、」は改頁、〈 

    〉は小字)

     『御外伝』は、土佐藩に纏わる歴史上の出来事をまとめた本編一

    冊と附録一冊からなる書物である。その執筆に「外臣」すなわち若

    狭国小浜藩の藩士である葛根が関わった理由は、この奥書に従えば

    土佐藩の山内氏と津田氏の先祖が元々は同盟を組むほどに交流が

    あったことに由来すると言う。それは山内家の祖先(山内一豊〈一

    五四五〜一六〇五〉)がかつて尾張の黒田城におり、葛根の祖先も

    また尾張国の四郡にいたことに端を発する。葛根の時代となり、旧

    縁を尋ねて、彼は山内家に出入りすることが叶った。山内家の秘書

    を見る機会に恵まれたところ、そこには山内家の先祖の故事が多く、

    それを集めて一冊にまとめ、また他の典籍から記事を集めたものを

    附録とし、献上したという。

     

    この書が記された天保十三年(一八四二)時点において「古稀」

    であると言うのであるから、葛根は安永二年(一七七三)の生まれ

    ということになる。信友も安永二年の生まれであることを考えれば、

    二人は同い年であったことも、「ともだち」である一要因であった

    のかもしれない。葛根の生年から計算すると、津田本の識語を記し

    たのは四十二歳のときである。また、没年は不明であっても天保十

    三年までは生存の確認が出来ることから、享年七十四歳の信友と同

    程度に葛根も長寿を全う出来たようである。

     

    さらに葛根には、常陸国土浦藩士になった四男奥田図書がいる。

    図書もまた信友と交流があったようであり、小浜市立図書館編『酒

    井家文庫総合目録)24(

    』附録「交名列(抄)」には、「奥田圖書 

    通称孫

    ﹇図版4﹈ 

    高知県立高知城歴史博物館蔵『御外伝附録』奥書

  • 1091(254)

    三郎 

    常陸国土浦 

    津田葛根四男」とある。さらに土浦市立博物館

    寄託安藤家文書の『藩士年譜』には、

    実 

    酒井修理太夫様御家来津田権太夫四男 

    初 

    孫三郎

                   

    同 

    図書

    という記述が残っている)25(

    ように、葛根が酒井家の「御家来」であっ

    たことは確実である。

     

    このように葛根は小浜藩の藩士としての立場を持って活動してい

    たことが分かる。また同藩の国学者や儒臣と友人関係にあり、特に

    信友とは、葛根のみならずその子どもも交流があったほど深い関わ

    りであった。次に、その小浜藩士としての葛根の職務に光を当てて

    みたい。

    ⑵ 

    小浜藩士としての葛根│書物の痕跡から│

     

    葛根や信友が属していた小浜藩は、代々酒井家が統治に当たって

    いた。前節で示した葛根の生きた年代(一七七三〜一八四二〜没年

    未詳)と照らし合わせてみると、酒井家九代目藩主忠貫(一七五二

    〜一八〇六)、十代目藩主忠進(一七七〇〜一八二八)、十一代目藩

    主忠順(一七九一〜一八五三)、十二代目藩主忠義)26(

    (後に忠禄と改

    名)(一八一三〜一八七三)の四代が関わることになる。

     

    葛根がどのように藩に仕えていたのかという問題もまた、彼の記

    した書物から追うことが出来る。葛根は小浜藩で複数の書物を書き

    残しており、そのうちの一つである、小浜市立図書館蔵『忠貫公御

    書上御系譜)28(

    』は、原題は『系譜』と考えられ)29(

    、酒井家の祖である忠

    利(一五五九〜一六二七)に始まり、歴代の酒井家の代々の人々の

    系図をまとめたものである。その奥書は次の通りである(﹇図版5﹈)。

    重修御系譜之所由/往時寛政中有/公命徴諸家之譜牒我/国主

    之/先公亦奉上焉然当時勉節約過謙遜其文略不具/祖宗之勲続

    殊遇存十一于千百也今茲/君公有深 

    旨特/命微臣〈葛根〉俾

    以重修旧譜〈葛根〉雖罷駑奉/教幸頼 

    威霊而洽捜羅文庫政局

    之群藉竊参考/閫外不出之秘蘊以補綴其不足是正其差誤又/君

    公親自校讐〈葛根〉何功之有書成而比之於旧貫」則数十百倍若

    摛錦而布繍美哉善矣/国家之盛誉光輝昭昭乎始彰焉豈不嘉乎仰

    酒井家系図 (=養子関係、│親子関係)

       (1752〜1806)(在職1762〜1806)

      忠貫

          (1770〜1828)(在職1806〜1828)

        

      忠進

             

     (1791〜1853)(在職1828〜1834)

             忠順

                   (1813〜1873)(在職1834〜1862/1868〜1873)

               

        忠義(忠禄)

    (27)

    10

    11

    12・14

  • 津田葛根と書物との邂逅

    (255)1090

    而/歓俛而喜伏紙惶恐不堪戦競以復/命焉/

    天保十二年八月 〈臣〉津田権大夫平〈葛根〉 

    誠惶誠恐頓首

    百拝謹識

    (/は改行、」は改頁、〈 

    〉は小字)

     

    系図は後の十一代目藩主忠順の誕生後までとなっている。それは

    一七八九年〜一八〇一年の間に幕府によって編集された『寛政重修

    諸家譜』(完成は一八一二年)の中で言及されている酒井家の人物

    と一致しており、「重修旧譜」を補正したという奥書の記述が信用

    出来るものであることを窺わせる。『忠貫公御書上御系譜』の中で、

    最も新しい日付は忠進の項に見える寛政八年(一七九六)九月十九

    日、さらに系図の次の丁に寛政十一年(一七九九)の年記も確認出

    来る。奥書から分かる、最終的に本書がまとめられた年である天保

    十二年(一八四一)には、葛根は七十近い年齢に達しており、藩主

    は既に十二代目忠義の時代である。「命」を受けて、晩年まで酒井

    家に関わる書物、それも公に提出した『寛政重修諸家譜』の修正と

    いう重要な作業を担っていたことや、そのために「文庫政局」の書

    物群以外にも「閫外不出之秘蘊」を参考にすることが可能であった

    ことからも、葛根は小浜藩の中でも相応の立場にいた家臣であった

    と考えられる。加えて、西尾市図書館岩瀬文庫には「俗文稿 

    津田

    次右衛門」と表記され、あるいは本文中に「臣〈葛根〉謹按」とい

    う記述が確認出来る『広徳院殿年譜)30(

    』が存在する。これは広徳院こ

    と酒井忠利(一五五九〜一六二七)のみの年譜を示した資料であり、

    誤った伝承に対しては検証も加えていることが確認出来る。

     

    さらに葛根が著した書物として、小浜市立図書館蔵『京識考)31(

    』が

    ある。これは、京の官職である左京大夫・右京大夫について、『令

    義解)32(

    』、『職原抄』、『官職秘抄』などの書物を用いて考察した、三丁

    ばかりの小冊子である。奥書に拠れば文化四年(一八〇七)二月二

    ﹇図版5﹈ 

    小浜市立図書館蔵『忠貫公御書上御系譜』奥書

  • 1089(256)

    十一日に記され、巻末には「左京右京のことはかねて考ふる所なく

    候へ共都て朦朧なる事にて御坐候へとも猶此上考案候よすかも御坐

    候はねは一わたり考候まゝに記して奉る」とあるように、葛根が左

    京大夫・右京大夫について一つの書物にまとめたのは、「奉る」と

    いう表現からも分かるように、人に送るためであった。その相手は

    元々は信友であったとされる)33(

    が、本書は最終的には、『酒井家文庫

    総合目録』に拠ると「酒井忠禄公御手持」とされ、十二代目藩主酒

    井忠義(忠禄)の所持へと移行している。「忠禄」という後の名(一

    八六二年改名)で手持ちであったことが伝わっていることから、後

    年まで所持されていたのではないかと推察することも可能である。

    忠義は後年「右京大夫」と称したことも、この書を所持していたこ

    とと関係しようか。

     

    以上、葛根が藩に献上するために制作した『忠貫公御書上御系譜』、

    あるいは『広徳院殿年譜』や『京職考』から分かるように、葛根は

    系譜等の作成に職務として携わり、多くの資料を網羅し、それをま

    とめる能力に長けた藩士だったと考えられる。先に挙げた『御外伝

    附録』の中でも、『新撰信長記』、『藩翰譜』、『常山紀談』、『家忠日記』

    などをまとめた痕跡がある。さらに『御外伝附録』奥書には「不敏」

    「犬馬之年」「駑駘」といった自身を遜る表現が多用されていること

    から、実際に同書が山内家に献上されたであろうことが分かり、藩

    のトップの人間に献上しても問題ないものを葛根が作成可能であっ

    たことを裏付けている。抑もこの『御外伝』『御外伝附録』を記し

    た経緯は、奥書を見る限り、藩から依頼されたというよりも葛根自

    身が積極的に記したものと考えられ、葛根がそうした自身の能力を

    自負していたからではないかと考えられるのである。

    ⑶ 

    葛根と書物との邂逅│葛根を中心に見る書物の流動│

     

    系譜や年譜を作るには、『忠貫公御書上御系譜』の奥書に見える

    ように、資料を「洽捜羅」する必要がある。「群藉」に当たるとは

    どういったことだったのか、またそれ以外に葛根はどのように情報

    収集をしていたのか。葛根の周辺における書物の流動を、『保元物

    語』『平治物語』の古写本購入の背景も含め、最後に確認したい。

     

    埼玉県立図書館には『武野燭譚(ママ) 

    明良洪範抄)34(

    』という書物が存在

    する。これは元々、『武野燭譚』(正式名称は『武野燭談』)と『明

    良洪範』を合冊にしたものと考えられ、この『明良洪範抄』の末尾

    には「文化五年閏月抄出 

    津田葛根」という葛根の識語が確認出来

    る。『明良洪範』は、江戸中期に成立した、十六世紀〜十八世紀初

    頭における武士の逸話集であり、埼玉県立図書館本は葛根が酒井忠

    勝及びその家系の関係記事を抄出した内容となっている。つまり、

    葛根が既に編集された逸話集からも情報収集をしていたことが分か

    る。合冊された『武野燭譚』の原裏表紙と考えられる丁には「津田」

    という名前が書かれていることから、葛根あるいはその周辺人物の

    蔵書であった可能性は多分にあろう。『武野燭談』もまた、武士の

    逸話集となっており、酒井家の者の記事のみ抄出されていることか

  • 津田葛根と書物との邂逅

    (257)1088

    ら、葛根が編集し直した可能性は高い。葛根が『御外伝附録』を作

    る際に山内家の典籍から『常山紀談』のような作品を拾っているこ

    と)35(

    と、このように武士に関わる逸話集に触れていることは無関係で

    はあるまい。系譜や年譜を作成する際には、このような書物をも参

    照していたと考えられる。

     

    さらに、国立国会図書館蔵『銘尽』も葛根に関わる一資料である。

    葛根と信友が東寺を調査していたことは先述した通りであるが、

    『銘尽』はその東寺の子院である観智院に伝来した現存最古の刀剣

    書であり、国立国会図書館蔵『銘尽』の袋には葛根の名が記されて

    いるのである(﹇図版6﹈)。以下、該当箇所を挙げてみよう。

    京都東寺子院〈観智院〉所伝

    刀剣鑑定之書

    応永三十年之古写〈本書正和五年著作〉

    観智院法印権僧正住宝所貺

            

    津田葛根蔵

    (〈 

    〉は割注)

     

    同書が観智院の法印権僧正である住宝により葛根に与えられ、所

    蔵されていたことが分かる。これを裏付ける資料として、西尾市図

    書館岩瀬文庫蔵『剣工古書』が参考になろう。同書の奥書には以下

    のように記される。

    右剣工鑑定之書一局応永卅年之古写本蓋/正和之頃所撰也巻首

    欠逸且失題名所存四十五/紙雖監定家所未曽見也云元所捜得於

    東寺/中観智院古什物之筥底也津田葛根与院主/住宝法印善文

    化中住宝出其書為什物員外/反故貺之葛根々々伝領珍之秘匿日

    久矣今于/茲文政十二年 

    乞借厥本偸閑雇眼鏡自親騰/写文字

    素希異譌舛不尠悉隨本不改或字有剥/爛蠧損頗若模九月五日功

    ﹇図版6﹈ 

    国立国会図書館蔵『銘尽』袋(画像は国立

    国会図書館のウェブサイトより)

  • 1087(258)

    畢蔵以備攷古之/一券 

    伴信友

    (/は改行)

     

    この信友の記述からもまた、観智院の住宝から葛根が書物を伝領

    したことが分かり、『銘尽』の袋の記述と一致する。さらにそれを

    信友が文政十二年(一八二九)に「乞借」、原本のままに写したと

    いう記述が見えるように、葛根と信友の間に古書の貸し借りがあっ

    たことが明確に確認出来る一例である。

     

    そして信友が編集した『武辺叢書)36(

    』にもまた、両者間の書物のや

    りとりの類例が確認出来る。天保二年(一八三一)に信友が『武辺

    叢書』の第十七巻に『立花朝鮮記』を収録する際、津田氏の本を以

    て対校をした記述が以下のようにある。

    天保二年八月十六日 

    以津田氏)37(

    蔵本一校了    

    信友

                 

    此本称朝鮮南大門合戦記

     

    ここに見える『朝鮮南大門合戦記』は、天野貞成(一五六二〜一

    六〇三)が記した朝鮮出兵に纏わる軍記である。葛根にとって軍記

    の作品も収集対象であったと言える。

     

    以上から、葛根が武士の逸話集や刀剣書、さらには軍記といった、

    武に纏わる書)38(

    を継続的に活用・収集・所持しており、彼を中心にこ

    れら武に纏わる書物が人の間を行き交いしていたことが分かる。特

    に逸話集については、年譜や系譜の作成に実際に活用していた。す

    なわち葛根を『保元物語』『平治物語』の購入へ向かわせたのは、

    そうした活動の中で得た彼の関心と乖離するものではないと考えら

    れる。津田本の奥書(﹇図版1﹈)を見るに、「葛根」の名前の字の

    大きさは他の文字と同じである。葛根は公的に作成した本において

    は自身の名は小さい文字で記す(﹇図版3﹈﹇図版4﹈参照)ので、

    『保元物語』『平治物語』の古写本は私的に購入したものと考えられ、

    葛根の武への関心は、公私を越えて培われていったと言えよう。

     

    さて、四天王寺国際仏教大学図書館恩頼堂文庫には、『烏帽子折

    問答 

    附赤鳥再顕)39(

    』という複数の作品の合冊が所蔵されているが、

    このうち、『赤鳥再顕』において葛根の様子を窺うことが出来る。

    奥書を次に挙げてみよう。

    古は義彰主の田邨敬則翁(朱で「字節蔵」と傍記)にかたり/

    給ひしを往年 

    田邨翁の〈葛根〉に/語られしなりこたひ立伴入

    ぬしの/かきつけ物せよとありけるに/聞置つるよしを筆のま

    に〳〵物し/つるなり 

    文化八年葉月廿日/の夜平安の都二条

    堀川の御舘)40(

    に/宿直のいとま書つけつ/江戸人)41( 

    津田葛根」右

    吾友津田葛根に乞て自記しつけて贈られし本也 

    後の考に備ふ

    べし 

    伴信友(蔵書印)

    (/は改行、」は改頁、〈 

    〉は小字)

     

    文化八年(一八一一)に書かれたこの本は、行方の分からなく

    なった今川家の宝である「赤鳥のさし物」が見つかるまでの経緯が

    語られたものである。元々の語り手として示される「義彰主」は今

    川義彰(一七五六〜一八一八)のことである。彼の語りをかつて聞

    き、葛根にそれを伝えた田村節蔵敬則(生没年未詳)は十八世紀前

  • 津田葛根と書物との邂逅

    (259)1086

    期〜十九世紀初頭に活動した、富山藩の小笠原流礼法家である。義

    彰の正室は小笠原家の人間であるため、それにより義彰と敬則に繋

    がりがあったと考えられる。敬則は他に、『有識抄』、『弓馬故実撮記』、

    『装束図説』、『年賀之次第』といった故実書、さらには『今川壁書』

    のような書も写している)42(

    、広い見識を持った人物であり、葛根の

    ネットワークの広さを窺わせる。信友のような現在でも名の残る国

    学者だけでなく、葛根のような人物もまた、個別にこうしたネット

    ワークを持っていたと考えられるのである。

     

    書き入れや蔵書印が確認出来ることから、恩頼堂文庫本が信友の

    自筆本と考えられるが、これと同じ本と考えられるものとして、京

    都大学文学研究科図書館に『和字衆説 

    冠服問答 

    道風像考 

    烏帽

    子折問答 

    赤鳥考 

    赤鳥捺物再顕記』の合冊が、イェール大学に

    「赤鳥捺物再顕記」所収『和字聚説』が所蔵されている)43(

    。京都大学

    本の『赤鳥捺物再顕記』の奥書では、恩頼堂文庫本と同じ信友の識

    語の後に、「右赤鳥考再顕記伴信友ぬしの蔵書を/こひて文政七年

    甲申後八月十五日うつしけり/北條平氏定」とある。字体からも葛

    根や信友が写したものではないことは明らかであり、蔵書印「北条

    氏蔵書」も併せて考えれば、北条氏定が文政七年(一八二四)に記

    したものである。イェール大学本は、イェール大学所蔵日本関連資

    料調査プロジェクトの奥書の翻刻に従えばさらにそれを転写したも

    のと考えられ、北条氏定の識語の後に、「甚五郎」なる人物が北条

    氏蔵の本を写したこと、それが「嘉永三七月八日」であることが書

    かれているという。このように、葛根の書いた書物が藩を越えて広

    がっていく様子を窺うことが出来、葛根の文筆活動は、小浜藩に限

    定して考えるべきではない問題であることが分かるのである。

    四、おわりに

     

    以上、早稲田大学図書館に所蔵される『保元物語』『平治物語』

    の検証とともに、これまで素性不詳とされていた、同書識語に見え

    る「津田葛根」が写本を購入した背景を、彼が作成・書写・収集し

    た書物との関わりから探ってきた。それらの奥書等から分かる若狭

    国小浜藩士としての葛根の役割は、藩の歴史や年譜、故実などを検

    証する立場にいた人物であり、それと連動して武に関わる書籍を多

    く有していた。そうした葛根と書物との関わりの延長線上に、古写

    本の『保元物語』『平治物語』、すなわち遥か過去の歴史を著した軍

    記物語の購入・所有もあったと考えられる。

     

    また、参考本に言及されていない異本を購入している点も注目さ

    れよう。古典籍のうち、稀覯本や異本がこうした国学者のような人

    物たちの購入によって現在まで残った例は多くある。鈴鹿連胤(一

    七九五〜一八七〇)が購入した『今昔物語集』は著名な例であるし、

    他にも連胤は『榻鴫暁筆』の写本購入において、それまでとは別種

    類の写本を市場で手に入れ「嗚呼、非値太平之世、何有如此之愉快

    乎」と述べている)44(

    。これは葛根が早大本の識語において、「然水府

  • 1085(260)

    彰考館之儒未見之一奇書欤可貴可愛矣」と述べている喜びに通じよ

    う。こうした彼らの購入行為があってこそ、版本が流通する中でも

    その出版の波に乗ることのなかった写本が残ってきた。

     

    また、葛根の書物の貸借や調査は、結果的に友人である信友の学

    識の一端を支えていた。信友の交友関係と言えば藩を越えた繋がり

    が目立つが、その信友のような著名な国学者の側に葛根のような現

    在では名の埋もれた人間もいたのである。それと同時に、葛根周辺

    にもまた独自に書物を通して複数の藩と関係が築かれていたことも

    見えてきた。葛根と書物との邂逅は、近世後期〜末期における知の

    ネットワーク形成の一端をも窺わせるのである。

    (1) 

    早稲田大学図書館『特別展示「江戸の稀覯本」』(早稲田大学図書館、一

    九九六・十一)。

    (2) 

    元々本書は、玉英堂書店から横山氏が購入した経緯を持つ。横山氏宛の

    購入明細書は本書と共に保存されている。

    (3) 

    各物語の成立年代については、日下力氏『『平治物語』の成立と展開』(汲

    古書院、一九九七刊)、同氏『平家物語の誕生』(岩波書店、二〇〇一刊)

    などを参照。

    (4) 

    玉英堂書店編「玉英堂稀覯本書目123号」(玉英堂書店、一九七八・六)

    における説明の中でも「原装・原題簽付」と記されている。

    (5) 

    犬井善寿氏「宝徳本系統『保元物語』本文考│四系列細分と為朝説話追

    加の問題│」(『和歌と中世文学』東京教育大学中世文学談話会、一九七七刊)。

    (6) 「『保元物語』写本目録稿」(「徳島大学総合科学部言語文化研究6」一九

    九九・二)および同氏『『保元物語』系統・伝本考』(和泉書院、二〇一六

    刊)。前者では「早大本」と称し、後者では「津」と称して論じている。

    なお、「松井本」は静嘉堂文庫蔵松井簡治氏旧蔵本のことを指す。

    (7) 「『平治物語』流布本系統並びに京都大学文学部国文学研究室蔵本考」

    文化十一年(一八一四)

    二月二十一日

    四十二歳

    東寺の調査が終わる。

    文化十二年(一八一五)

    十月

    四十三歳

    在京中に購入した早大本

    『保元物語』『平治物語』を

    参考本と対校し、識語に記

    す。★

    文政十二年(一八二九)

    忠順

    五十七歳

    信友に『銘尽』を貸す。

    天保十二年(一八四一)

    八月

    忠義

    六十九歳『忠貫公書上御系譜』が完

    成する。★

    天保十三年(一八四二)

    七〇歳

    (古稀)

    『御外伝』『御外伝附録』が

    書かれる。★

    ﹇附録﹈ 

    津田葛根関連年譜(★自筆の可能性が高いもの)

    年号

    藩主

    年齢

    出来事

    安永二年(一七七三)

    忠貫

    一歳

    誕生。

    寛政年間(一七八九〜一

    八〇一)

    十七歳〜

    二十九歳

    幕府によって『寛政重修諸

    家譜』が完成する。

    文化四年(一八〇七)

    二月二十一日

    忠進

    三十五歳『京識考』が書かれる。★

    文化五年(一八〇八)

    閏月

    三十六歳『明良洪範抄』(『武野燭談』

    とのちに合冊)が書かれ

    る。★

    文化八年(一八一一)

    四月

    三十九歳

    伴信友・興田吉従と共に、

    東寺の調査を行い始める。

    文化八年(一八一一)

    八月二十日

    三十九歳

    田村敬則から話を聞き、信

    友に乞われ、京都堀川官宅

    において宿直中に『赤鳥捺

    物再顕記』を著す。★

  • 津田葛根と書物との邂逅

    (261)1084

    (「徳島大学総合科学部言語文化研究19」二〇一一・十二)。八行本系統に

    ついては、特に日本大学総合学術情報センター本に近いという。論者も実

    際に両者を比較して確認した。

    (8) 

    永積安明氏『中世文学の成立』(岩波書店、一九六三刊)参照。

    (9) 

    注(6)原水氏論稿。

    (10) 

    管見に及んだものでは、津田本と同系列の九州大学中央図書館蔵樋口氏

    旧蔵本、実践女子大学常盤松文庫蔵本、他系列では尊経閣文庫蔵伝積善院

    尊雅筆『保元物語』(宝徳本系統宝徳本系列)の系図にも同様の記載が見

    える。尊経閣文庫本は、上巻冒頭に源氏系図、中巻冒頭に皇室系図を掲載。

    (11) 

    近藤安太郎氏『系図研究の基礎知識』(近藤出版者、一九八九刊)。

    (12) 

    本文は陽明文庫編『保元物語』(思文閣、一九七五刊)により底本の影

    印を確認した上、犬井善寿氏他校注新編日本古典文学全集(小学館、二〇

    〇二刊)を用いた。句読点は私に改めた場合もある。

    (13) 『時代別国語大辞典 

    室町時代編』(三省堂、一九九四刊)参照。

    (14) 

    分類は注(6)原水氏著書による。津田本と同じ表現であるのは、松井本、

    九州大学中央図書館蔵樋口氏旧蔵本、國學院大學蔵本、実践女子大学図書

    館常盤松文庫蔵本である。但し、松井本と國學院大學本には先に挙げた系

    図は存在しない。

    (15) 

    該当部分が宝徳本系統である本のうち、管見に及んだものは、松井本系

    列では注(14)に挙げた本の他、静嘉堂文庫蔵玄圃斎旧蔵本、天理大学附属

    天理図書館蔵月明荘旧蔵本、宝徳本系列では陽明文庫蔵乙本(宝徳三年写

    本)、今治市河野美術館蔵斑山文庫旧蔵本、同館蔵大型本、学習院大学図

    書館蔵九条家旧蔵本、九州大学中央図書館支子文庫蔵本、彰考館文庫蔵京

    師本、静嘉堂文庫蔵京師本、尊経閣文庫蔵伝積善院尊雅筆本、同蔵大型本、

    中京大学図書館蔵本、東京大学国語研究室蔵『保元記』、金刀比羅本系列

    では金刀比羅宮蔵本、学習院大学日本語日本文学研究室蔵本、国立公文書

    館内閣文庫蔵本、彰考館文庫蔵等覚院本、天理大学附属天理図書館蔵列帖

    装本、東京国立博物館蔵本、早稲田大学図書館九曜文庫蔵文久二年本、陽

    明本系列では陽明文庫蔵甲本、糸魚川市民図書館蔵本、京都大学蔵『保元

    記』、宮内庁書陵部蔵正木本、国文学研究資料館蔵宝玲文庫旧蔵本、佐賀

    県立図書館蔵本、大東急記念文庫蔵屋代本、広島大学蔵本(マイクロ資料・

    影印本含む)。

    (16) 

    親本となったその『保元物語』『平治物語』は、同じ人物により作り出

    されたものではなく、別々のものが津田本あるいは津田本以前の段階で一

    緒になったのではないかと考えることが可能であるが、現段階での断定は

    出来ない。

    (17) 

    原水氏に拠れば、河邨秀興(一七一八〜一七八三)や伊勢貞丈(一七一

    七〜一七八四)なども、参考本を基準として写本の価値を検証している

    (「『保元物語』書写・購求・考証・利用の諸相│江戸時代における古典学・

    古典籍愛好の一齣│」〈「徳島大学総合科学部言語文化研究15」二〇〇七・

    十二〉)。

    (18) 

    注(17)原水氏論稿。

    (19) 

    書誌情報の概略は以下の通りである(外題は第一冊目のもので示す。以

    下、各資料同様)。

    ﹇所蔵﹈小浜市立図書館

    ﹇番号﹈伴22‐1

    ﹇表紙﹈黄土色 

    無地

    ﹇巻冊﹈七冊

    ﹇外題﹈「東寺古文零聚 

    一」(左上・直書き・写)

    ﹇内題﹈「東寺古文零聚草」

    ﹇寸法﹈縦二四.三㎝×横一六.四㎝

    ﹇備考﹈朱書きも多い。序に「文化十一年二月廿九日 

    伴信友艸」とある。

    ﹇蔵書印﹈「伴氏所蔵」

    (20) 

    鈴木彰氏のご教示に拠る。

    (21) 

    原本では「己かとも」と書かれた箇所に、「己れともだちなる」と赤字

    で補筆されている。

  • 1083(262)

    (22) 

    吉従は『諸家家業記』や『三種神宝極秘中秘口伝』などの書物を著して

    いる。また早稲田大学図書館には、黒川真頼(一八二九〜一九〇六)が「此

    ノ本ハ奥(マ

    マ)田吉従自筆ナリトソ」とする狩谷棭斎(一七七五〜一八三五)作

    『古京遺文』が収蔵されている。

    (23) ﹇所蔵﹈高知県立高知城歴史博物館

     ﹇番号﹈第八十七函(K288 

    156 

    山内)

     ﹇表紙﹈薄黄色地に花模様、金箔付

     ﹇巻冊﹈二冊(①御外伝 

    ②御外伝附録)

     ﹇外題﹈

    ①「御外伝」、②「御外伝〈附録〉」(〈 

    〉は文字の大きさが異

    なる)(両者ともに左上・題箋・写)

     ﹇内題﹈(なし)

     ﹇寸法﹈縦二六.九㎝×一九.二㎝

     ﹇奥書﹈「天保十三年六月 

    外臣 

    若狭家僕津田権大夫平〈葛根〉謹誌」

     ﹇蔵書印﹈「山内文庫」、「寄贈」、「高知県立図書館蔵書印」

    (24) 

    小浜市立図書館、一九八七刊。

    (25) 

    土浦市立博物館木塚久仁子氏のご教示に拠る。

    (26) 

    忠義は文久二年(一八六二)まで十二代目藩主を務めるが、その年に隠

    居し、忠氏(一八三五〜一八七六)に藩主の座を譲る。しかし明治元年(一

    八六八)に再度藩主となり、十四代目を務める。葛根が確実に生きている

    ことが分かるのは、十二代目藩主忠義の時代までとなる。

    (27) 『寛政重修諸家譜』(一八〇一年成立)、『国史大辞典』(吉川弘文館、一

    九八五刊)参照。

    (28) ﹇所蔵﹈小浜市立図書館

     ﹇番号﹈4‐1‐17

     ﹇表紙﹈(後付け)茶色 

    無地

     ﹇巻冊﹈一冊

     ﹇外題﹈「忠貫公書上御系譜」(左上・題箋・写)

     ﹇内題﹈「系譜/御名」

     ﹇寸法﹈縦二四.五㎝×横一六.六㎝

     ﹇奥書﹈ 「天保十二年八月 〈臣〉津田権太夫平〈葛根〉 

    誠惶誠恐頓首百

    拝謹識」

     ﹇蔵書印﹈(なし)

    (29) 

    表紙は後付けであり、原表紙と考えられる丁に「系譜/御名」と記され

    ている(前注の書誌情報では内題とした)。

    (30) 

    同名書が小浜市立図書館にも所蔵されている。

    (31) ﹇所蔵﹈小浜市立図書館

     ﹇番号﹈伴88

     ﹇表紙﹈赤茶色

     ﹇巻冊﹈一冊

     ﹇外題﹈「京識考」(左上・直書き・写)

     ﹇内題﹈「京識考」

     ﹇寸法﹈縦二七.一㎝×横一九.七㎝

     ﹇奥書﹈「文化四年二月廿一日 

    津田〈葛根〉謹検出」

     ﹇蔵書印﹈(なし)

    (32) 

    葛根は信友に『令義解』を貸与しており(『伴信友日記』文化三年〈一

    八〇六〉十二月三日条)、所持していたことが分かる。

    (33) 

    注(24)『酒井家文庫総合目録』に拠る。

    (34) ﹇所蔵﹈埼玉県立図書館

     ﹇番号﹈藜288.2 

     ﹇表紙﹈茶色 

    横刷毛目

     ﹇巻冊﹈一冊

     ﹇外題﹈「武野燭譚/明良洪範 

    抄」(左上・題箋・写)(/は改行)

     ﹇内題﹈「武野燭譚 

    抄出 〈寛永六巳丑 

    十二日より着出〉」 

    完」

     ﹇寸法﹈縦二六.六㎝×横一八.六㎝

     ﹇奥書﹈「文化五年閏月 

    津田葛根」

     ﹇蔵書印﹈「鉛槧」、「埼玉県立熊谷図書館」

  • 津田葛根と書物との邂逅

    (263)1082

    (35) 『御外伝附録』本文中には「古は五十年前二三書にて見侍りしか書名忘

    れ/侍りぬ記憶しまゝを記し侍り」(/は改行)という本人の筆と思われ

    る朱書きも確認出来、奥書の年記よりも五十年近く前の情報も記載してお

    り、その情報収集の範囲の広さを窺わせる。

    (36) ﹇所蔵﹈宮内庁書陵部

     ﹇番号﹈253‐255

     ﹇表紙﹈こげ茶色無地

     ﹇巻冊﹈四十六冊

     ﹇外題﹈「武辺叢書 

    一」(左上・題箋・写)

     ﹇内題﹈「武辺叢書叙」

     ﹇寸法﹈縦二三.五㎝×横一六.六㎝

     ﹇奥書﹈各話の末尾にあり

     ﹇蔵書印﹈ 「伴氏所蔵」、「宮内省図書印」、「宮内省御陵課」、「図書寮印」、

    「諸陵寮印章」

    (37) 「津田氏」が葛根のことを指すという見方は、注(24)『酒井家文庫総合

    目録』に従った。

    (38) 

    葛根は『旗馬符図』(四冊)という書籍も所持し、信友に貸与している

    (『伴信友日記』文化四年〈一八〇七〉二月七日条)が、これも同分類出来

    ようか。

    (39) ﹇所蔵﹈四天王寺国際仏教大学図書館恩頼堂文庫

     ﹇番号﹈恩456

     ﹇表紙﹈浅葱色

     ﹇巻冊﹈一冊

     ﹇外題﹈「烏帽子折問答 

    附赤鳥再顕記」(左上・題箋・写)

     ﹇内題﹈(該当箇所)「赤鳥捺物再顕記」

     ﹇寸法﹈縦二三.一㎝×一六.六㎝

     ﹇奥書﹈ 「文化八年葉月廿日/の夜平安の都二条堀川の御舘に/宿直のい

    とま書つけつ/江戸人 

    津田葛根/右吾友津田葛根に乞て自記

    しつけて贈られし本也 

    後の考に備ふべし 

    伴信友」

     ﹇蔵書印﹈「源伴信友」

    (40) 

    この書を葛根が記した場所である「二條堀川の御舘」は、酒井家の京都

    所司代の官宅であり、信友も『今昔物語集』をこの屋敷で対校している。

    應義塾大学図書館蔵『類聚名義抄』には、「此書、素蔵于平安城南教王護

    国寺一子院中余、以津田葛根・興田吉従為介初見其院主者懇請得寓目也。

    (中略)文化十歳次癸酉年八月晦書於平安城下二條堀川官宅 

    伴信友」と

    記される。保坂三郎氏「類聚名義抄雜記」(「史学17‐2」一九三八・十一)

    参照。

    (41) 「江戸人」は江戸の人、江戸で生まれ育った意味を持つが、自らを江戸

    人と称していることから、葛根と江戸の地が関わりがあった可能性がある。

    同い年の友人信友が、生まれは小浜であるが十五歳から三十六歳まで江戸

    藩邸で暮らしており、江戸藩邸で出生した忠進の相手を勤めていた。葛根

    も似た状況であった可能性がある。

    (42) 

    陶智子氏『近世小笠原流礼法家の研究』(新典社、二〇〇三刊)参照。

    (43) 

    イェール大学所蔵日本関連資料調査プロジェクトホームページ(http://

    www.hi.u-tokyo.ac.jp/exchange/yale/top_page/index.htm

    l

    )に公開された

    情報を参照した。

    (44) 

    拙稿「『榻鴫暁筆』の諸本に関する一考察」(「古典遺産64」二〇一五・三)。

    ﹇付記﹈ 

    貴重な資料の閲覧をお許し下さった諸機関各位に深謝申し上げます。

    また、土浦市立博物館木塚久仁子氏および氏をご紹介下さった池澤一郎

    先生に御礼申し上げます。

     

    脱稿後、葛根に関する資料をさらに見つけることが出来た。本論文の

    論旨・結論に影響はないが、詳細は改めて論じたい。

     

    本稿は、科学研究費補助金・研究活動スタート支援(16H

    07270

    )に

    よる研究成果の一部である。