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第四章

■張先和韻詞二首繋年考

――夏承燾「張子野年譜」訂補――

はじめに

宋代詩歌における、古今體詩と詞を同時に視座にくみいれた、總合的研究の必要性が説かれ

てからすでに久しい。しかし、蘇軾等ごく少數の代表的作家を除いて、この方面の研究はなお

いまだ大きな進捗を見ていない、というのが現狀であろう。樣々なレベルの困難がそこに内在

しているからにほかならないが、あえてもっぱら對象の内側にその理由を求めるならば、より

多く詞に――そのジャンルとしての特性に――大きな原因があるように考えられる。

詞は歌辭文學として發生し、少なくとも宋代までは、歌われることを前提として製作されて

いた。樂府(古樂府、擬古樂府)がそうであったように、おおむねその表現は客體化され、作品

によって程度の差はあるが、作者個人が作品の前面に出てこない、という特性をもっている。

全ての總合的研究が、個別的、分析的研究の基礎を前提として成り立つとするならば、詞にお

けるこの特性は、個々の作品レべルの分析段階ですでに樣々な困難をもたらすと豫想される。

北宋中期以降、詞牌の他に題注(小序)を附して、製作の狀況説明を加える傾向が現れたが、

それも全體から見れば少數に屬する。したがって、作品の背景にある客觀的事情を系統的に知

ろうとするとき、多大な困難をともなう場合が多い。

つまり、詩と詞の個別的な比較を試みようとしても、――古今體の詩が比較的容易にそれを

推定し得るのに對し――詞の多くが製作の時間や場所等の具體的な製作背景を特定できないた

め、作者の經歴に卽應した分析が不可能な場合が多く、實際には甚だ困難を極める。樣式論、

題材論等の、主として内容面からのアプローチはもちろん可能である。しかし、ひとたび一歩

立ち入って、作者の生涯における文學的營爲の全體像の中で、詩と詞の相互位置づけを正確に

行おうとすれば、多くの詞はあたかもそれを拒否せんばかりに大きく立ちはだかるのである。

詞が詞である所以は、まさにこの表現特性にこそあるともいえるが、結果としてこの點が詩と

詞の總合研究を阻害する一大要因となっている。

さて、本稿で扱う張先(九九○―一○七八、字子野、烏程〔浙江省湖州〕の人)は、詞牌の他に題

注(小序)を附すことをした最初期の詞人である。傳存する彼の詞の總數からみれば、題注(小

序)のある作品はやはり少數に屬するが(

)、それでもこれらは、われわれに探求の絲口

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を少なからず與えてくれている。

近人夏承燾はこの絲口をもとに、「張子野年譜」(①民智書局『詞學季刊』創刊號〔一九三三年四月〕

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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第四章 張先和韻詞二首繋年稿

初出、のち『唐宋詞人年譜』所收〔②初版本=一九五五年十一月、上海古典出版社、③修訂重版本=一九七

九年五月、上海古籍出版社〕)を著し、われわれに多大なる利便と更なる探求の絲口を與えてくれ

た。しかし、仔細にその考證の跡を辿ってみると、にわかには贊同し難い部分も含まれている。

本章では、二首の張先和韻詞に關して、夏氏年譜を再檢討し、幾つかの疑問點を提示しつつ、

その部分的な補訂を試みたい。

しかし、本論の最終目的は、張先の主要作品の編年にあるわけではない。筆者は、和韻、と

りわけ次韻という作詩技法に着目しつつ宋代詩歌史の具體的相貌を考察してきた。北宋中、後

期に至って、古今體詩は面貌を新たにし、それに歩調をあわせるかのように、にわかに和韻(次

韻)の風が盛行し始める。また詞史においても、北宋中期に大きな質的轉換があったと從來繰

り返し指摘されてきた。そして、古今體詩と同樣に、この時期に詞においても和韻が使用され

始めた(本論第十二章參照)。

和韻(ことに次韻)盛行の意味、和韻(次韻)によってもたらされた具體的な文學的狀況の變

化、そして和韻(次韻)という共通項を通して見た詩と詞の問題等、一連の考察の一環として、

筆者は本論を位置づけたい。詞において、一體いつ頃から和韻(次韻)が使用され始めるのか、

という問題に對する解答を、現存作品の限りで、可能なかぎり嚴密に推定する、というのが本

論の目標である。

なお、本章において引用する詞は、すべて中華書局刊『全宋詞』(一九六五年六月、唐圭璋編)

に據る。

一、張先「少年游・渝州席上和韻」繋年

――詞における「和韻」の導入時期――

詞における「和韻」

古今體詩において、和韻(依韻、用韻、次韻)が作詩の一技法として定着したのは、九世紀の

初頭、中唐のことである。また詞という樣式が、士大夫によって盛んに作られるようになった

のも、中・晩唐以降である。近年、張璋・黄畬の兩氏によって、唐五代凡そ三百三十年間にお

ける詞の總集『全唐五代詞』(一九八六年二月、上海古籍出版社)が編纂刊行された。『全唐五代

詞』所收の作品の中には――とりわけその「唐詞」部分には――(五代)宋以降の詞を基準と

した場合、にわかに詞と認定しがたい作例をも含まれるが、さしあたってこの書に基づき槪算

すると、唐代部分(卷一~三)では、中唐以降の作例が約八割の頁數を占めている。この事實

から、少なくとも、現存の資料の限りにおいて、詞の製作がより一般化したのは中唐以降とい

う事實を確認できよう。

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このように、中唐の詩人たちに新たなる文學樣式として意識されるようになった詞ではあっ

たが、同樣にこの時期に一つの作詩技法として定着した和韻の各技法が、詞製作の場面で使用

された形跡はない。晩唐、さらに下って五代においても、まだ和韻の作例を見出すことはでき

ない。たしかに和韻の作例と斷定できるものは、十一世紀後半、北宋も中葉を過ぎて以後のこ

とである。

張先の和韻詞

『全宋詞』を閲すると、宋代詩人の中で、最初期に和韻を使用したのは、張先(九九○―一

○七八)であることがわかる。張先の詞のあるものには、その詞の詠まれた背景を説明する題

下注が附されているが、それにより、和韻を使用した(あるいは使用した可能性のある)詞が若干

含まれていることがわかる。次の七首がそれである。

①「好事近・和毅夫内翰梅花」(『全宋詞』〔以下『全』と略稱〕六二頁上段)

②「漁家傲・和程公闢贈別」(『全』七三頁上段)

③「少年游・渝州席上和韻」(『全』七三頁下段)

、、

④「定風波令・次子瞻韻送元素内翰」(『全』七四頁上段)

⑤「定風波令・再次韻送子瞻」(『全』七四頁上段)

、、

⑥「木蘭花・和孫公素別安陸」(『全』七四頁下段)

⑦「勸金船・流杯堂唱和翰林主人元素自撰腔」(『全』八二頁下段)

、、

右の七首の中、①④⑤の三首を除いては、原篇が存在しない。したがって、「和~」と題す

る②⑥⑦の三首が、はたして和韻を用いたのか否か斷定することはできない。

この七首の中、⑥は製作時期がまったく不明であるが、他の六首に關しては、かなりそれを

限定できる。いまここで、⑥を除く六首を、ひとまず夏承燾「張子野年譜」に從って、時代順

に竝び變えれば、以下のような順になる。

〔②+③(皇祐年間〔一○四九―五四〕。夏譜ではほぼ同時期とし先後に關する記述なし)〕

à

〔①(治平四年〔一○六七〕)〕

à

〔⑦、④、⑤(煕寧七年〔一○七四〕)〕

早期の詞二首(②③)の中、前述のように、②は現在これを和韻の作か否か判定する術はな

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い。したがって、ここでは、たしかに和韻を使用したとわかる、③「少年游・渝州席上和韻」

を檢討し、その作製時期を確認し、現存作品の限りで、詞において初めて和韻が導入された時

期(の下限)を確定しておきたい。まず、該詞の全文を以下に掲げる。

聽歌持酒且休行○

雲樹幾程程○

眼看檐牙

手搓花蘂

未必兩無情○

拓夫灘上聞新雁

離袖掩盈盈○

此恨無窮

遠如江水

東去幾時平

○=韻字

夏氏年譜の誤り

夏承燾は、この詞に關して、「天仙子・別渝州」及び「漁家傲・和程公闢」とともに、仁宗

の皇祐三年(一○五一)の項で言及し、張先が渝州(重慶)知事の任にある時の作としている。

そして、(

集中)又有少年游『渝州席上和韻』、皆春間去渝贈別之作、不知何年。

というコメントを加えている。夏氏の右のコメントは、該詞の編年が便宜的なものであったこ

とを説明しているが、いずれにしても、その論據として擧げられた梅堯臣の詩の扱いに基本的

な誤りがあり訂正を要する。

夏氏「張子野年譜」は、上海古典出版社(のち、上海古籍出版社)から出版された『唐宋詞人年譜』

に收錄され、單行本として刊行される過程で、『詞學季刊』の初稿に一部改訂が加えられている。張

先の渝州知事赴任に關しても、皇祐三年から、皇祐四年に改訂されている。しかし、解説は初稿と同

一の文をそのまま掲載するため、解説文で「定張子野知渝州在此年(皇祐三年)」といいつつも、實

際には皇祐四年に繋年する、という齟齬が生じている。そこでここでは、記述に一貫性、合理性のあ

る初出年譜の記述に基づき、その補訂を試みる。ただ、離任の時期に關しては、初稿年譜には關連記

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載がないので、『唐宋詞人年譜』所收「年譜」に基づき補訂する。

夏氏は、梅堯臣の別集『宛陵先生文集』(六十卷)中の作品が基本的に編年編集されている

ことに基づき、その卷三九に「送張子野屯田知渝州」詩が編せられている事實から、張先の渝

州(重慶)知事赴任の時期を推定している。張先の現存傳記史料が粗略のため、この間の事實

關係を他に論證する術はなく、梅堯臣のこの詩がほとんど唯一の資料である。

さて、夏氏は、梅堯臣の「送張子野屯田知渝州」詩が編せられている卷三九の一卷前、卷三

八に「讀月石屏詩」が收錄され、その題下に、「自此起皇祐三年五月至京後」と小字注がある

ことに着目して、まず該詩の作製時期の上限を、皇祐三年五月とした。そして、卷四○に、梅

堯臣が母の喪に服するため、都を離れ歸郷(梅堯臣の故郷は、安徽省宣城)し、その途次に詠んだ

詩(「寧陵阻風雨寄都下親舊」詩)があり、その詩句に基づき、下限を皇祐四年とした。

問題は、『宛陵先生文集』卷四○所錄の詩「寧陵(河南省寧陵)にて風雨に阻まれ都下の親舊

に寄す」の詩句の扱いにある。この詩は、計五十句からなる長編の五言古詩だが、その第九、

第十句に以下のようにある。

予生五十二

予が生

五十二

再解官居憂

再び官を解きて憂に居る

夏氏は、この「予生五十二」の句から、右の詩を梅堯臣

歳の作とし、生年から計算して皇

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祐四年の作とした。手順は全く正しいのであるが、夏氏はここでケアレスミスを犯している。

すなわち、梅堯臣の生年を咸平四年(一○○一)としていることである。歐陽脩の「梅聖兪墓

誌銘并序」(『居士集』卷三三)に、梅堯臣は嘉祐五年(一○六○)に沒し、享年五十九と明記され

ており、この記述から逆算して、梅堯臣の生年は、咸平五年(一○○二)でなければならない。

梅堯臣の生年に關しては、從來異説はない。したがって、「寧陵阻風雨寄都下親舊」詩は、皇

祐五年(一○五三)の作とするのが正しい。

夏氏年譜初稿の約五十年後、朱東潤著『梅堯臣集編年校注』(一九八○年十一月、上海古籍出版

社)が刊行され、朱氏の考證により、この「送張子野屯田知渝州」詩は皇祐五年(一○五三)に

編年されている(卷二三、七○○頁)。さらに、この詩の五首前に、「八月三日詠原甫庭前林檎花」

と題する詩があることから、梅堯臣のこの詩の製作時期(張先の渝州赴任)を、皇祐五年(一○

五二)の秋(八月以降)から冬の間と限定できる。

以上の點から、「少年游・渝州席上和韻」詞の作製時期も、皇祐五年の秋(八月)以前である

ことは考えられなくなる。

修訂本『唐宋詞人年譜』所收「張子野年譜」(一八二頁)では、皇祐四年(一○五一)の記載の

末尾に、

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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察本年冬卽離蜀、子野當不久于任、故皇祐五年卽返永興軍晏幕。

と記し、皇祐五年の項に、「重游長安」と記している。この根據となっているのは、張先の「玉

聯環・送臨湽相公」詞(『全』六三頁下段)である。「臨湽相公」とは、晏殊(九九一―一○五五、

字同叔、撫州臨川〔江西省臨川〕の人)を指す。夏承燾は晏殊の年譜も著しており(「二晏年譜」。『唐

宋詞人年譜』所收)、その年譜において、晏殊が永興軍(陜西省西安)の知事から河南府(河南省洛

陽)知事兼西京留守に移り、臨湽公に封ぜられたのを、皇祐五年(一○五三)の秋としている(修

訂本『唐宋詞人年譜』二五二頁)。その根據は、宋庠(九九六―一○六六)の「晏公喪過州北、哭罷

成篇二首」其一(『元憲集』卷一五、『全宋詩』卷二○一-

4-2302

)の起句に附された、「癸巳(=皇祐

五年)の秋、公(=晏殊)長安より余(=宋庠)に代はり洛に守す」という宋庠の自注である。

そして、張先の「玉聯環・送臨湽相公」詞に、「不須多愛洛城春」とあり、「葉落灞陵如剪

……上馬便、長安遠」とあることから、この詞を、皇祐五年(一○五三)秋、晏殊が河南府知

事に轉任の際、長安東郊において送別した作とする。この考證に基づき、夏氏は、張先が着任

後間もなく渝州を離れて、長安の晏殊のもとへ赴き、彼を送別したと推論しているわけである。

しかし、前述のように、張先の渝州知事は、早くとも、「皇祐五年の秋」であって、初稿「年

譜」にいう「皇祐三年」でもなければ、『唐宋詞人年譜』所收「年譜」にいう「皇祐四年」で

もない。晏殊の送別に關する事實は、むしろこう解釋すべきであろう。

すなわち、皇祐二年(一○五○)に通判として永興軍に着任した後、張先は皇祐五年の秋ま

でずっと知事晏殊とともに長安に滯在していた。したがって、夏氏年譜にいうように、張先が

皇祐二年から同五年の三年間に、長安→開封→渝州→長安という足跡を殘したわけではなく、

この三年間はずっと長安にいて、晏殊を送別した後、張先自らも長安を離れて上京し、然る後

に渝州に向ったものと考えられる。宋代における地方官の任期は三年が限度であるが、張先の

補注1

永興軍通判着任の時期が皇祐二年の秋であったとしたら、ちょうど皇祐五年の秋で三年滿期と

なり、宋代の地方官制の任期規定にも符合する。

〔補注1〕

本論初出發表時點(一九九一年十月)においては未見であったが、姜書閣氏に「夏承燾『張子

野年譜』辨誤」(『湘潭大學學報』社會科學版、一九九一年第一期)という論文があり、そこでも拙論と

同一の趣旨が述べられている。ただし、呉熊和、沈松勤『張先集編年校注』(一九九六年一月、浙江古籍

出版社、兩浙作家文叢)では、姜氏辨誤の事實認定に誤りがあるとして夏承燾の舊説を支持している。

筆者が改めて關連の史料に當たって調査したところ、呉・沈兩氏の反論にも誤りが認められた。結論を

いえば、本論の右の説はなお有効である、と判斷される。

そのもっとも大きな誤まりは、晏殊の永興軍知事離任時期の推定にある。呉・沈兩氏は、それを「十

月」のこととし、『續資治通鑑長編』の記事を根據としている。『續資治通鑑長編』には、晏殊の離任時

期についての記載は存在しないが、晏殊に代わって永興軍知事に着任した文彦博の赴任に關する記載が

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ある。『張先集編年校注』は、それを「十月戊申」のこととして原文を引用するが、中華書局校點本『續

資治通鑑長編』を閲すると、「十月」ではなく「八月戊申」の記事であった(卷一七五、四二二八頁)。

そもそも、「十月」は冬であるから、宋庠の自注とも齟齬を來すことになる。

張先「少年游・渝州席上和韻」繋年

以上の考證によって、張先の渝州知事着任の時期は、皇祐五年(一○五三)八月以降である

ことを確認できたが、離任の時期は、夏氏の考證に誤謬が存したことを論證したと同時に、特

定不可能になった。

しかし、前述のように、宋代の地方官は任期三年未滿であるから、離任の時期は最も遲くて

皇祐五年の三年後、すなわち嘉祐元年(一○五六)ということになる。また、彼の「天仙子・

別渝州」が、晩春の内容であることから推して、張先が渝州を離れたのが晩春だと假定すれば、

張先の渝州知事離任の時期の下限は、嘉祐元年(一○五六)の晩春ということになろう。

前述のごとく、夏氏は、「少年游・渝州席上和韻」を、「天仙子・別渝州」及び「漁家傲・

和程公闢」とともに、春の作とする。しかし、該詞の後闋第一句に「新雁を聞く」という表現

があり、これを春の表現とするのは無理であろう。「新雁」とは、北から渡って來たばかりの

雁を指す。したがって、この詞が製作された季節は、晩秋から初冬の間と見るべきである。

以上の推測が正しければ、「少年游・渝州席上和韻」詞は、着任間もない皇祐五年(一○五三)

か至和元年(一○五四)、または至和二年(一○五五)の晩秋ということになろう。

以上の考證を總合すると、張先の「少年游・渝州席上和韻」詞は、皇祐五年(一○五三)~

至和二年(一○五五)の晩秋、内容から判斷して、誰かの送別の宴席での作とするのが、最も

妥當な判斷といえよう。

また、夏氏年譜において渝州知事時代の作とされる②「漁家傲・和程公闢贈別」詞も、和韻

が使用された可能性を持つが、こちらは、冒頭「巴子城頭青草暮」の句で始まり、晩春の作と

知られるから、至和元年(一○五四)~嘉祐元年(一○五六)の春の作である可能性が高い。

補注2

しかし、二首ともに原篇は佚して傳わらないため、「漁家傲・和程公闢贈別」はもとより、

「少年游・渝州席上和韻」もまた、和韻三形態(依韻、用韻、次韻)の何れを使用したものなの

かは確定できない。具體的に和韻の三形態のどの一つを使用したかが判定可能な最初期の作例

が、つづいて檢討する張先の「好事近・和毅夫内翰梅花」である。

〔補注2〕

前掲『張先集編年校注』の卷末に「張先事迹補正」が附錄され、その中に「知渝州與離渝任年

代」の一項が立てられている(二八三頁以下)。そこでも夏氏年譜の補訂が試みられ、〔補注1〕で記し

た點を除けば、おおむね本論と論旨を同じくしている。また、張先の渝州離任時期について、程師孟(字

公闢)關連の資料を用いて、嘉祐元年(一○五六)の春と推定しているので參照されたい。

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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二、張先「好事近・和毅夫内翰梅花」考

――詞における「次韻」の導入時期――

現存の詞の中で、たしかに次韻を使用したと知られる最初期の作例は、張先の「好事近・和

毅夫内翰梅花」である。本稿では、この作品の編年を試み、現存作品の範圍内で、詞において

次韻が最初に使用された時期を推定する。張先の「好事近・和毅夫内翰梅花」詞は、すでに村

上哲見氏によって指摘されているように(一九七六年三月、創文社『宋詞研究・唐五代北宋篇』二○

○頁)、鄭獬(一○二二―七二、字毅夫、安陸〔湖北省〕の人)の「好事近」に次韻した作品である。

本論では、ひとまず、鄭獬原篇と張先和篇の、それぞれ作品内部に着目し、まず外的情報を

極力排除した上で内容分析を試み、可能な限り兩者の「好事近」を關係づけてみたい。然る後、

史的事實の論證を通じて、夏承燾「張子野年譜」を再檢討し、それと作品分析による結果を有

機的に結びつけつつ、張先の該詞が作製された最も可能性の高い時期を特定する、という方法

を採る。

鄭獬「好事近」―内容分析

―(ⅰ)

鄭獬「好事近」には、

この詞の製作時における作者の具體的狀況を知る手がかりを提供す

る、題注(小序)等の情報が皆無である。したがって、それらをわずかにでも知ろうとするな

らば、作品を虛心坦懷に讀み、その中から絲口を見出すほかはない。この節では、鄭獬「好事

近」の諸表現の中、特に、「江梅」、「好把素香收取、寄江南消息」、「故人莫問在天

涯」の、三つの表現に着目し、その分析を通じて、より整合的、合理的な解釋を導き出したい。

鄭獬「好事近」(『全』二一○頁下段)

把酒對江梅

花小未禁風力●

何計不敎零落

爲青春留得●

故人莫問在天涯

尊前苦相憶●

好把素香收取

寄江南消息●

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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「江梅」

―江南と梅―

(1)原篇が製作された狀況を絞り込んでいく上で、語彙レベルで第一に問題となるのは、前闋第

一句「江梅」の語であろう。文字通り解釋した場合、「河」に對する「江」という語源レベル

の字義を强く意識すれば、長江河畔の梅、より廣くとらえれば、主に中國南方の川、その川べ

りの梅、の意となろう。この漢字二字そのものからはいささか離れるが、「江南の梅」という

イメージも結びやすい。

中國詩歌における詠梅詩は、すでに『詩經』召南に「摽有梅」があり、長い歴史をもつ。し

かし、「摽有梅」に詠われた「梅」は、花ではなく、實であった。花が注目され、詩歌の題材

として普遍化するのは、六朝以後といってよい。樂府「梅花落」(郭茂蒨『樂府詩集』卷二四、横

吹笛辭四)が、詩人により盛んに詠まれるようになるのが、六朝、とりわけ南朝の諸詩人によ

ってであったという事實も、この點を傍證している。と同時にこれら諸作品が、――詩歌の題

材としての――梅花イメージの定着に大きく寄與したといってよい。さらに重要なのは、彼ら

の作品の大部分が、彼らが南朝詩人であったがゆえに、必然的に江南において製作された、と

いう點である。

『詩經』においては、――花ではなく實であるとはいえ――召南、すなわち陝西地方(北方)

の歌謠として收錄された梅の詩であったが、南朝詩人によって多作された梅花詩によって、梅

花=江南のイメージが固まった。南朝宋の詩人・陸凱の「贈范蔚宗」や、もと梁に仕えのち北

朝に仕えた詩人・庾信の「梅花」は、ここに述べた點を象徴的に物語っている。

贈范蔚宗

折梅逢驛使

梅を折りて驛使に逢ひ

寄與隴頭人

隴頭の人に寄與す

江南無所有

江南

有る所無し

聊贈一枝春

聊か贈る一枝の春

(中華書局『先秦漢魏晉南北朝詩』「宋詩」卷四、中册一二○四頁)

梅花

常年臘月半

常年

臘月

半ばにして

已覺梅花闌

已に梅花の闌なるを覺ゆ

不信今春晩

信ぜず

今春

晩れ

倶來雪裏看

倶に來りて雪裏に看るを

樹動懸冰落

動きて

懸冰

落ち

枝高出手寒

高くして

手を出せば寒し

早知覓不見

早に知る

覓めて見ざるを

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眞悔著衣單

眞に悔やむ

著衣の單なるを

(中華書局『先秦漢魏晉南北朝詩』「北周詩」卷四、下册二三九八頁)

陸凱の詩は、「江南にはこれといって何もないから、さしあたって手折った梅の枝を、飛脚

に托して、北の隴山のほとりにいる君に贈る」という大意である。この詩の中では、江南と隴

頭(關中)という南北の對比の中で、友情を繋ぐ媒介として梅花が登場している。「江南無所有」

という表現の中に、作者の北方に對する思慕が間接的に表出しているわけであるが、何れにせ

よ、江南に身を置く作者が、北方の友人に自己の心情を示す、その象徴として、梅の花を選ん

だ點が重要である。

庾信の詩では、冒頭の二句に、梅=江南の意識が、より鮮明に表れ出ている。庾信は、周知

の通り、數奇な運命に翻弄され、生まれ育った江南を離れ、北方で抑留生活を餘儀なくされた

詩人である。この詩の中で梅は、郷愁を誘う江南のよすがとして登場している。

思いをすでに北方(にいる友人)に馳せている陸凱にとって、「江南の梅」は、不幸にして

南方にいるという自己の現實を否が應もなく確認させる存在であった。一方、南方出身の庾信

にとって、梅は、思慕して止まぬ江南の日々のよすがであり、嚴しい寒さに凍えて開花の氣配

すらない北方の梅は、江南への思いを募らせるとともに、不如意感を増幅する存在でもあった。

陸凱と庾信とでは、「江南の梅花」のもつ意味が好對照ではあるが、江南を象徴するものとし

て梅花が描かれているという點では、はからずも一致している。

このように、梅花の詩的イメージの形成過程を想起すると、たしかに「江梅」の語は、江南

の梅というイメージと結びやすい側面をもっている。「江梅」→①(主として南方の)川べりの

梅→②長江河畔の梅→③江南の梅という三段階の解釋の中、地域的に最も限定的な③の解釋も、

詠梅詩の歴史に鑑みると、まったく無理のないもののように映る。

しかし、各種索引類、用語集につき、宋以前の用例を檢索してみると、「江梅」の用例數が

計八例と著しく少なく(杜甫、鄭谷に各二例、劉長卿、雍陶、李郢、張泌に各一例)、明らかに③の意

で使用していると特定できるものは見出せなかった。この中から、杜甫の用例を見てみよう。

江梅

(『杜詩詳注』卷一八)

梅蕊臘前破

梅蕊

臘前に破れ

梅花年後多

梅花

年後に多し

絕知春意好

絕はだ知る

春意の好しきを

最奈客愁何

最も客愁を奈何せん

雪樹元同色

雪樹

元と色を同じくし

江風亦自波

江風

亦た自から波だつ

故園不可見

故園

見るべからず

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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174

巫岫鬱嵯峨

巫岫

鬱として嵯峨たり

右の詩は、大暦二年(七六七)夔州(四川省奉節)において作られた。したがって、杜甫が詠

じた「江梅」は、蜀江=長江河畔の梅、と判斷できよう。前掲三種の釋義の中、①と②は適當

であるが、③は明らかに該當しない。

ところで、北宋末南宋初の人、趙次公(彦材)は杜甫の右の詩に注して、次のようなコメン

トをのこし、前掲三種の釋義とは明らかに一線を劃する第四の釋義に言及している。

江梅者、江邊之梅也。如在嶺、曰「嶺梅」、在山、則曰「山梅」、在野、則曰「野梅」、

官中所種、則曰「官梅」。而後之學者、凡見梅、便謂之「江梅」、誤矣。

趙次公は、杜甫の詩に鑑みて、「江梅」に對する前掲三種の釋義の中、①(または②)を支

持しているわけであるが、注目すべきは、最後の條である。「而るに後の學者、凡そ梅を見れ

ば、便ち之を江梅と謂ふ。誤てり」という。つまり、趙次公にいわせれば、「江梅」の本義で

ある「川べりの梅」を逸脱して、後世、その生えている場所に關係なく「江梅」の語が用いら

れるようになった、ということであろう。「江梅」が必ずしも「川べりの梅」を指さない用法

が存在したことを、このコメントは示唆している。

趙次公のいう「後之學者」が、具體的にいつの時代の誰を指していったものなのかは不明で

ある。しかし、趙次公の指摘した傾向を、彼のやや後の人、范成大の語によって、より明確に

確認できる。范成大の「梅譜」(『百川學海』所收)はいう

江梅、遺核野生、不經栽接者、又名「直脚梅」、或謂之「野梅」。凡山間水濱、荒寒

淸絕之趣、皆此本也。花稍小而疎痩有韻、香最淸、實小而硬。

范成大は、「江梅」を品種の一つのごとく扱い、「野生の梅」の總稱としている。

以上の點を總合すると、「江梅」の意味としては、A川べりの梅(前掲①②)と、B野生の

梅、の二つが、現存資料で確定できるという點で、より確率が高いといえよう。「江南の梅」

の義は、前述のごとく、梅花詩の系譜を念頭に置くと、至って自然に思い當たる釋義ではある

が、むしろ現存資料からは特定しがたい。江南の梅を「江梅」と表現する可能性は大いにあり

うるが、逆に「江梅」の一語を以て、直ちにそれを江南の梅を指すと特定しうるほど、詩語「江

梅」のイメージは固定的な用いられ方をしていない、と見なされる。

【補】

「好把素香收取、寄江南消息」

(2)鄭獬「好事近」の中で、他に解釋上の問題があるとすれば、後闋最後の二句であろう。「寄

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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175

江南消息」の句は、①の項で引用した、陸凱の「贈范蔚宗」を踏まえる。この詩が生まれて以

來、梅の枝を贈ることが、遠くの友に友情を示す風雅な行爲として詩の中でしばしば描かれて

いる。

さて、この二句の解釋上、とりわけ、「好」の語を如何にとらえるかが、大きな問題となる。

文脈を押さえつつ語法的に見た場合、この「好」は、主として次のAB二通りの解釋を許容し

よう。A

.「便于、合宜」(~するのに都合がいい、うってつけだ)(商務印書館刊『辭源』修訂本、漢

語大詞典出版社刊『漢語大詞典』)の意。

B.「請、期望」(どうか~してほしい)(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九○年五月、中州古籍出版

社〕)、あるいは「可以」(~するがよい)(漢語大詞典出版社刊『漢語大詞典』)の意。

Aを採れば、「梅の芳香をあつめて、江南の便りを寄せるにはちょうどよい季節」という方

向の解釋になろう。Bを採れば、「梅の芳香をあつめて、江南の便りを寄せていただきたい」

または「~寄せるがよい」という解釋になろう。

Aの場合は、「江南消息」を「寄」せる主體が、作者であっても、詞にいう「故人」であっ

ても、そのどちらでも構わない。しかし、Bの場合は、論理的にいって、「故人」でなければ

ならない。

「故人莫問在天涯」

(3)次に、以上の分析を踏まえつつ、鄭詞における、作者と「故人」の間にある狀況を想定して

みたい。

まず、後闋第一句「故人莫問在天涯」によって、兩者が離ればなれであることを明確にでき

よう。そして、後闋最後の句「寄江南消息」によって、そのいずれか一方が「江南」にいるこ

とを確認できよう。作者が江南に身を置いていると假定するならば、「天涯」=「江南」とな

る。また、「江梅」は、最も限定的な「江南の梅」の意と解しても差し支えない。「好」は、

必然的にAの用法に限定される。

逆に「故人」が江南に身を置いていると假定するならば、「江梅」は、より普遍的な釋義で

ある、川べりの梅、もしくは野生の梅がより相應しい。また、當然「天涯」は「江南」以外の

地となる。「好」は、AとBのいずれでも構わないが、作者の江南の梅に對する思慕(「故人」と

それを前に杯を交わした思い出)がより前面に出てくるという點で、Bがより相應しい。

以上、いくつかの可能性を同時に提示しつつ、鄭獬の「好事近」の作品内容を分析してみた。

この詞の狀況設定を、もっぱら作品内部に求めて考察した場合、

において示した二つのケー

(3)

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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176

スに限定するまでが限界であろう。ここで、小結として、右の分析にもとづく二通りの譯例を

示しておく。鄭獬の原篇を單獨に解釋した場合、以下に掲げる二通りの解釋はともに同程度に

有効であると考えられる。

〔譯例一〕酒を手に、梅に向いあうと、花は小さく、とても寒風に耐えられそうにない。どうすれば、この花

を謝らさずに春まで殘すことができようか。/友人よ、聞いてくれるな、なぜわたしが(江南を離れて

遠い)最果ての地にいるのだ、と。こうして酒を前にしていると、あの頃(江南で)ともに酌み交わした君の

ことがとても懷かしく思われる。どうか梅花の香を集めて、江南のたよりを寄せてくれ。

〔譯例二〕酒を手に、江南の梅に向いあうと、花は小さく、とても寒風に耐えられそうにない。どうすれば、

この花を謝らさずに春まで殘すことができようか。/友人よ、聞いてくれるな、なぜわたしが(都を離

れて遠い)天涯の地にいるのだ、と。こうして酒を前にしていると、あの頃ともに酌み交わした君のことが

とても懷かしく思われる。梅花の香を集めて、君に江南のたよりを寄せるにはちょうどよい時節。

張先「好事近・和毅夫内翰梅花」―内容分析

―(ⅱ)

つづいて、張先の和篇を檢討する。鄭獬の原篇には題注が附せられていないので、製作時の

背景を知るためには、虛心坦懷にその本文を吟味し、そこからより高い可能性を追求してゆく

ほかなかった。一方、張先の「好事近」には、「毅夫内翰の梅花に和す」と題注があり、前節

で分析を試みた鄭獬の原篇を踏まえて製作されたことが明示されている。和篇である以上、原

篇の各表現との間に、内容上、一定の呼應關係が認められるのが通常である。それゆえ、和篇

に着目することによって、原篇の解釋上のゆれをより小さくすることも可能となる。

張先「好事近・和毅夫内翰梅花」(『全』六二頁上段)

月色透横枝

短葉小花無力●

北客一聲長笛

怨江南先得●

誰敎强半臘前開

多情爲春憶●

留取大家沈酔

正雨休風息●

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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右の張先の和篇の中で、直接、原篇および原篇の作者・鄭獬を連想させる表現は、前闋第三、

第四句「北客一聲長笛、怨江南先得」であろう。

笛と梅花の關わりは、すでに前節

「江梅」のところでも言及したように、古樂府「梅花落」

(1)

より起こっている。「梅花落」は――郭茂倩の『樂府詩集』で「横吹曲辭」に分類される――

笛によって演奏された曲である。宋詞において梅の花見の宴が描かれるとき、しばしば「吹梅

花(笛で梅花落のメロディーを奏でる)」という類の表現が用いられる。よって、この二句は、「北

客は、梅花落のメロディーを笛で奏で、江南で北方よりも早く梅が花開くことを恨めしく思う」

という大意になろう。

さて、この二句の中で、關鍵の語は「北客」である。「北客」の語は、語法的には、「北か

らやって來た旅人」とも、「北への旅人(または、北に客寓する人)」とも、兩樣に解釋できる。

しかし實際に、索引・用語集によって用例を檢索してみると、後者の用例はなく、もっぱら前

者の意味で用いられていることがわかる。その代表的なものを三例掲げる。

瀘水南州遠、巴山北客稀(岑參「巴南舟中思陸渾別業」/『全唐詩』卷二○○)

年年漸見南方物、事事堪傷北客情(白居易「送客之湖南」/『白居易集箋校』卷一六)

北客若來休問事、西湖雖美莫吟詩(葉夢得『石林詩話』卷中に引く、文同の詩句/何文煥輯

『歴代詩話』所收)

①は、岑參が嘉州(四川省樂山)刺史を離任し、長江沿いに故郷の江陵(湖北省)へと向う船

中の作である(大暦三年〔七六八〕)。「瀘水」は、四川省瀘州一帶の長江を指す。また、篇題の

「陸渾」は、洛陽の西南約五十キロにある土地。岑參は早くに父を喪い、成人前に兄に從い河

南嵩山の周邊を轉々としたことがあった。岑參が「思」い起こす陸渾の別業には、おそらくそ

の頃暮らしたのであろう。

この二句は、青年期に暮らした北方の日々を思い、いま自分が北から遠く離れた僻遠の地に

あることを描く。それを强調するものとして、自分と共通の記憶、心情を持つ「北客」、つま

り北からやって來た旅人はほとんどいないと詠じ、自らの孤獨感を描出している。

②は、白居易が江州(江西省九江)司馬の任にあった時の作。この詩を詠む前年(元和十年〔八

一五〕八月)に、都長安での職を解かれ、江州に左遷されている。白居易は北方出身(河南新鄭)

の詩人であり、しかも當時まだ都長安を離れて一年と經っていない頃であった。この句におけ

る「北客」は、白居易その人を指し、北(都)からやって來て南に客寓する人の意、と解する

べきであろう。白居易は、「北客」の語を比較的多く使用した詩人で、他に六例あるが、何れ

も北からの旅人の意で使用され、その多くが自分自身を指して用いられている。

③は、蘇軾が新法論議に破れ、都開封を離れ杭州へ外任した際(煕寧四年〔一○七一〕)に、文

同が贈ったとされる詩の一節である。過激な蘇軾の言論が災禍を招くことを心配した文同が、

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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親族の年長者の一人として彼を訓戒した言葉だという。この「北客」は、都からやって來た人、

の意にとれよう。

以上のように、「北客」は、北からの旅人、より限定的に言うならば、都から南にやって來

た人、の意味である。これらの用例から判斷すると、張先の和篇における「北客」も、北(都)

からやって來た人の義でなければならない。

次節以降において言及するが、少なくともこの詞が作られたと推定される數年間において、

張先が自分自身を指して「北客」と稱する、客觀的狀況は想定し難い。それならば、この「北

客」は、自分以外の誰か、それも北方(あるいは都)からやって來た人でなければならない。

さらに、題注に鄭獬に和した事實が明示されていることを考慮に入れれば、この「北客」が他

ならぬ鄭獬その人を指している、と考えるのが最も自然であろう。

以上の分析をもとに、この張先「好事近」の譯例を以下に示す。

〔譯例〕月影が梅の斜めにのびた枝を穿つかのようにふりそそぐ。ひときわ明るく照らしだされた梅は、ま

だ花も葉も小さく力ない。北からやってきたあなたは、笛を吹いて、江南の梅が早くも花をつけてしまっ

たことを恨めしく思う。/一體誰が、臘の祭りより早く、梅の大半を開花させてしまうのか。多感な

あなたは、まだ來ぬ春のために思いやる。(あなたは、どうすれば梅の花を謝らさず、春まで留めておけ

るのか、と問う。一つお答えしよう。)みなを引き留めてたっぷり酔わせ給え。そうすれば、うまい具合

に、雨も風もおさまることでしょう。

譯例の基本的なスタンスとしては、張詞の前闋は原篇の前闋前半の二句を、後闋は原篇の前

闋後半の二句を受けた表現ととらえた。後闋の最後の二句は、おそらく大きく解釋の分れると

ころであろうが、ひとまず、鄭獬の原篇前闋の後半二句「何計不敎零落、爲青春留得」を受け

た言葉ととり通釋した。

以上の二節において、もっぱら兩者の表現に基づき、製作時の狀況を探ってみた。鄭獬の原

篇に關しては、兩樣の解釋を提示したままであり、張先の和篇全體との相關關係という點も、

充分に説明し盡くしたとはいえないが、ここでは結論を急がず、幾つかの可能性をそのまま提

示した形に止めておく。次節以降、主に作品外部からアプローチを試み、それら外的事實から、

この二節で導き出した複數の可能性に限定を加え、最も妥當な一つを選び出してゆきたい。

夏氏年譜の編年

夏承燾「張子野年譜」における「好事近・和毅夫内翰梅花」の編年狀況と、編年の根據を確

認しておく。夏氏年譜では、治平四年(一○六七)、張先

歳の年に編年されている。

78

夏氏年譜は、全般的な敍述の傾向として、編年した全ての作品について必ずしもその理由を

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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明確に説明してはいない。この作品に關しても、夏氏の考證の過程が具體的に記されているわ

けではない。それゆえ、にわかには判斷し難いのではあるが、夏氏によって示された史實とこ

の編年の結果とを、筆者の推測により繋げると、おそらく次のような過程から、この詞が治平

四年に編年されたものと考えられる。

夏氏は、題注の「毅夫内翰」語に着目し、「毅夫」すなわち鄭獬が、「内翰」すなわち翰林

學士であった時期にこの詞は製作されたと判斷した。そして、『宋史』鄭獬傳および宰輔表中

の記載から、鄭獬が翰林學士を拜命した時期を治平四年であるとし、そのままこの詞を治平四

年に編年したものと考えられる。

鄭獬の翰林學士在任期間が、もしかりに治平四年(一○六七)の一年間だけであったならば、

この説にも一定の説得力がある。しかし實際には、煕寧二年(一○六九)の五月まで、足かけ

三年に及んで鄭獬が翰林學士の任にあったことを、他の史料によって確認することができる(後

述)。したがって、この詞が鄭獬の翰林學士在任中の作だという前提に立つとしても、煕寧元

年でもなく、煕寧二年でもない、他ならぬ治平四年でなければならない、その明確な論據が提

示されなければならない。しかし、夏氏年譜にはその論據が明示されていない。よって、夏承

燾「張子野年譜」におけるこの詞の編年はきわめて便宜的なものであり、再考の餘地なしとし

ない。

張先と鄭獬の接點

後の考察を容易にするため、ここで鄭獬と張先の經歴を整理しておく。

鄭獬略歴

鄭獬は、字毅夫、安陸(湖北省)の人。仁宗の乾興元年(一○二二)に生まれ(こ

(1)の時、張先は

歳)、仁宗の皇祐五年(一○五三)

歳の時、狀元で進士に及第し官途についた。

33

32

以後、英宗の治平二年(一○六五)までの十二年間における履歴に關しては、その離着任の具

體的時期を知ることはできないが、『宋史』本傳及び南宋・秦焴「隕溪集序」(淳煕十三年、四庫

全書館輯本『隕溪集』卷頭所載)によれば、進士及第後、まず將作監丞を授かり陳州(河南省淮陽)

の通判となった。その後、試に召されて館職の直集賢院を得、度支判官、修起居注、知制誥を

拜命した。英宗卽位の後、仁宗埋葬の問題、在野の人材の任用問題等に關して直言したが、皆

採用されず、中央を離れ荊南軍(湖北省江陵)知事となった。

呉廷燮『北宋經撫年表』(一九八四年四月、中華書局)では、鄭獬が荊南知事に着任したのを、

仁宗の嘉祐八年(一○六三)のこととしている(卷五、荊湖北路、三四五頁)が、おそらく誤りで

あろう。鄭獬『隕溪集』(文淵閣四庫全書本)卷一五に、「黄州重建門記」と題する文があり、「治

平二年、予佩荊州印、浮舟跨長江、而南道出于黄……」で始まり、「治平三年十一月十七日、

右司諌知荊南軍府事、安陸鄭某記」で終っている。李燾『續資治通鑑長編』卷二○五「治平二

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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年八月」の條にも、「知制誥鄭獬時知荊南、上疏曰、……」とあり、この點を傍證している。

したがって、鄭獬の荊南知事外任は、八月以前の治平二年(一○六五)と考えるべきである。

荊南知事の後、鄭獬は召還され、三班院に判し(具體的な職名は不明だが、三班内の副使になった

のであろう)、治平四年(一○六七)九月に翰林學士に任命される(『學士年表』〔南宋・洪遵編『翰苑

群書』〈知不足齋叢書〉所收〕及び前掲夏承燾「張子野年譜」參照)。

やがて、權發遣知開封府(位階が二等級より下の者がポストに就くとき、〈權發遣〉の語を職名の前に

加える)を兼ね、神宗の煕寧二年(一○六九)五月、翰林學士の職を解かれ、翰林侍讀學士、戸

部郎中をもって、杭州知事に任命される。

宋代杭州知事の離着任時期に關しては、南宋の『乾道臨安志』(卷三「牧守」)中に詳細に記

錄されている。宋代の地方志は槪して後世に比較して記載が詳細であるが、中でも『乾道臨安

志』における宋代の知事に關する記錄は、殆ど記載の漏れがない上に詳細であり、同時代の他

の主要な地志と比較しても、良質な資料と考えられる。

『乾道臨安志』では、鄭獬の知事着任と離任を、それぞれ煕寧二年(一○六九)五月(癸未)、

煕寧三年(一○七○)四月(己卯)と記している。

杭州知事の後、鄭獬は、やはり翰林侍讀學士、戸部郎中のまま、青州(山東省臨博)の知事

に移ったが、病を得て、鄭獬は退職を請う。『續資治通鑑長編』卷二一八「煕寧三年十二月」

の條に、謝景温の言葉として、「知青州鄭獬臥病、乞別選近臣代之」の語を引用し、杭州知事

の趙抃が青州知事に着任したことを記している。また、『乾道臨安志』にも、趙抃が「(煕寧

三年)十二月庚申、徙知青州」とあり、符合する。

煕寧三年十二月(一○七○)、青州知事の任を離れた鄭獬は、翌煕寧四年九月、提擧鴻慶宮(祠

官)を授かり(『續資治通鑑長編』卷二二六)、煕寧五年(一○七二)に

歳で沒した。

51

張先略歴

―皇祐五年以後―

(2)鄭獬と張先の交遊が始まるとしたら、おそらく鄭獬が官界に登場した仁宗の皇祐五年以後と

考えるのが妥當であろう。そこで、ここでは、鄭獬が進士第一人で及第した皇祐五年(一○五

三、張先

歳)以後、鄭獬他界の煕寧五年(一○七二、張先

歳)までを中心に張先の足跡を追っ

64

83

てみたい。

皇祐五年(一○五三)の秋、約三年間、通判として滯在した長安を離れ、一度、都開封に上

った後、ただちに渝州へ知事として赴任する(詳細は、本章一を參照)。その後、嘉祐元年(一

○五六)春まで渝州に滯在した(本章一および〔補注2〕參照)。渝州知事離任後一年餘の足跡は

未詳だが、嘉祐三年末から同四年(一○五九)の初めの間には、安陸(安州)に知事として赴任

したようである。しかし、安陸に滯在したのは短期間で、すぐ都に戻り、同年の秋、虢州(河

南省靈寶)知事に任命されるが、致仕して湖州へ歸郷し、赴任しなかった(前掲『張先集編年校注』

附錄三「張先事迹補正」三「張先知安陸考」)。この後の行跡は細かなことは不明であるが、基本的

に杭州にて隱居生活を送っている。鄭獬が沒した煕寧五年(一○七二)にも杭州に居り、同七

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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181

年春、杭州より故郷の湖州へ戻った。そして、元豐元年(一○七八)、享年

歳で沒した。嘉祐

89

四年前後に致仕した後の張先は、故郷の湖州との間を幾度か往復してはいるが、遠隔地に旅し

た形跡もなく、基本的にはずっと杭州で生活し、晩年の數年間を湖州で過ごしたようである(前

掲『張先集編年校注』附錄四「張先年譜」)。

張先と鄭獬の接點

(3)以上、二人の略歴を追ってみたが、現存の資料の限りで、兩者が接觸したと確定できる時期

は、唯一、鄭獬が翰林學士をやめ、知事として杭州に在任した、煕寧二年(一○六九)の五月

から、煕寧三年(一○七○)の四月までのおよそ一年間である。

他に可能性を求めるならば、鄭獬が館職を得て度支判官、修起居注、知制誥を歴任した嘉祐

年間に都で交流の機會があったかもしれない。しかし、張先は鄭獬より三十歳以上も年長であ

るから、同じ職場の同僚にでもならない限り、親密な交流は生まれにくいと考えるのが普通で

あろう。だが、彼らが同じ部署にいたことを證する現存資料は存在しない。

鄭獬の杭州赴任(熙寧二年)以前において、兩者の關係を知る唯一の資料が、鄭獬「安州重

修學記」(『隕溪集』卷一五)の次の一節である。

嘉祐初、司農少卿魏君琰、慨然圖之、乃於州域之南門外東偏、作夫子殿及東西二堂

八齋室、安陸之民始適然、相與環聚而觀之、而喜我邦之有學也。而猶未覩教育之盛。

及職方郎中張君先、始集諸生、鼔篋而升堂、講明六經之奥。……某里人也。嘗得告南

歸、謁諸生於學、顧不能倡率諸生、朝夕從事於其間、而猶得爲文、託名於巨石之末、

竊有喜焉。蓋學之成、在仁宗下書之後二十六年、歴四刺史、乃克大備、其難也如此。

來者幸無以廢之爲易、則吾鄉之學、雖與鄖溪夢澤並存可也。熈寧元年七月十五日記。

故郷安陸の州學の沿革を述べた中で、鄭獬は四人の功績者の一人として張先の名を擧げてい

る。張先が安陸に赴任した時、鄭獬はすでに官途を歩み始めていたので、安陸における直接の

交流はおそらくなかったであろうが、少なくとも杭州赴任以前において、鄭獬が郷里の教育振

興に力を盡した知事の一人として張先を認識していた事實を右文によって確認できる。

張先「好事近」の製作時期

以上の各節において整理した點を基礎として、張先「好事近」の最も可能性が高い製作時期

を考察する。

まず、夏氏の治平四年説を檢討したい。先に記したように、鄭獬が翰林學士に在った期間と

かりに限定するならば、自ずと煕寧元年および同二年も含まれるわけであるから、治平四年に

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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この二年を加えた上で考えてみたい。

この説の最大の缺點は、本章において分析した兩者の作品が、原篇和篇という本來ある

べき緊密な關係で結ばれなくなる、という點にある。

翰林學士在職中、鄭獬は都開封にいる。一方、張先は杭州にいる。このような兩者の位置關

係を踏まえつつ兩者の「好事近」をみてみると、原篇である鄭獬詞においては、まず、提示し

た二つの譯例の中、作者が江南にいる、「二」の解釋は、可能性として消滅する。しかしのこ

る「一」にも幾つかの大きな問題が生じる。それは、「天涯」の語である。詩語としての「天

涯」は、多分に相對的かつ主觀的な地理槪念であり、詩人が邊鄙だと感じれば、どこでも「天

涯」と稱される可能性を含んでいる。しかし、鄭詞の場合、作者は開封にいるので、京師を指

して「天涯」と稱したことになり、これはかなり異例である。特別な寓意のない限り、こうい

う用法は想定しがたい。

より大きな矛盾は、張先の和篇における問題である。すなわち、張先該詞が鄭獬の翰林學士

在職中の作とすると、この詞における「北客」が、鄭獬ではなくなるからである。「北客」は、

すで確認したように、北(都)からやって來た旅人の意であった。この時點で、鄭獬はまだ都

にいるわけであるから、張詞の「北客」は少なくとも鄭獬以外の誰かでなければならなくなる。

そうすると題注で、鄭獬の詞に和した、と明示していながら、張先は鄭獬を眞っ先に念頭に置

くことなく詞を詠んだことになり、和詩(和詞)の通念からするとまた極めて例外的な詠じ方

をしたことになる。

以上のように、治平四年説には、幾つかのかなり本質的な矛盾がのこる。また、片や都、片

や江南というように、離れ離れの狀況で詞の酬答をしたとするならば、一般的に考えて、それ

までの間に、兩者がある程度親密な交遊した時期を共有していると考えるべきであろう。前節

において記したが、その可能性は絕無ではないものの、現資料ではそれを確認できず、その可

能性も決して高くはない。この點からも、鄭獬が翰林學士の職にあった時に張先の和篇が製作

された蓋然性はかなり低い、と見積もられる。

結論を先に述べるならば、鄭獬の原篇も張先の和篇もともに――兩者が交遊した事實を現存

資料で唯一確認できる――鄭獬の杭州知事在任中に作られた可能性が最も高い。しかし、ここ

で新たに問題となるのは、張先の題注にいう「毅夫内翰」の語である。「内翰」は翰林學士の

別名であり、鄭獬はその翰林學士の職を解かれて、杭州に赴任してきたからである。彼は「翰

林侍讀學士」をもって外任したが、この「翰林侍讀學士」は經筵官であり(いうまでもなく、こ

こでは實務を伴わない官位のランクづけ主目的とする虛職ではあるが)、名稱は類似するものの、翰林

學士の職掌とは異なる。また當時、「翰林侍讀學士」の任に在った人を、「内翰」と稱する慣

習もなかったようである。したがって、この間の矛盾が解決されなければ、該詞が鄭獬知杭州

在任中に製作されたとする説も、説得力を失う。

ここで筆者の推論を述べれば、張先は鄭獬を、現職名ではなく、直前のポストであり文人に

とって最高の榮譽といってよい翰林學士の名をあえて使用して呼んだのだ、と考える。現職名

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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ではなく當該人物にとっての最高の榮譽職の名を用いるという呼稱法は、唐宋期にしばしば見

られる現象である。張先と同時代の用例を掲げる。

たとえば、强至(一○二二―七六、字幾聖、錢塘〔浙江省杭州〕の人)に、「上毫州宋内翰書」とい

う書簡がある(新文豐出版公司『叢書集成新編』所収『祠部集』卷三○)。「宋内翰」とは、宋祁(九九

八―一○六一、字子京、開封雍丘の人)のことを指すが、「毫州」の語が冠せられていることから知

られるように、毫州(安徽省)の知事であった宋祁に宛てられた書と推察される。

『學士年表』及び『宋史』卷二八四宋祁傳によれば、宋祁は、慶暦三年(一○四三)に初め

て翰林學士に就いて以來、幾度かこの職に就き、慶暦八年(一○四八)十月にやめて、許州知

事に轉出して以後、この職に就いた形跡はない。宋祁の毫州知事赴任は、慶暦八年十月以後の

ことであるから、むろん現職名ではない。

また、張先自身にも、類似する用法が存在する。本章「一」において言及した、「玉聯環・

送臨淄相公」詞がそれである。前述のごとく、この詞は皇祐五年(一○五三)秋の作である。

晏殊が、「相公」すなわち宰相位(同中書門下平章事)に就いたのは、徐自明『宋宰輔編年錄』

によれば、仁宗の慶暦三年(一○四三)四月、退任したのは、同四年九月のことである。皇祐

五年秋、宰相位を退いてすでに十年が經過した晏殊に對し、張先は「相公」の語を使用してい

る。强

至、そして張先自身の用法から、詩文等において寄贈對象を過去の職名によって呼ぶ呼稱

法が、當時、存在したことを檢證した。したがって、鄭獬が翰林學士の任にない杭州知事の時

代に、張先が彼を「毅夫内翰」と呼ぶことは大いにあり得たわけである。

さて、以上の考證をもとに、鄭獬および張先の「好事近」の製作時期を考察すると、ともに

詞の内容は、晩冬と考えられるから、煕寧二年(一○六九)十二月がもっとも可能性が高い。

そうすると、鄭獬原篇の解釋は、〔譯例二〕が、作者の意圖した作品内容にもっとも近いこ

とになろう。また、鄭獬詞における「故人」は直接張先を指すわけではなく、都にいる誰かを

指して言ったことになる。

以上が本章の結論となるが、あえてもう一つの可能性を提示すれば、鄭獬が杭州を離れた後

に赴任した青州にて原篇が作られた可能性もある。その場合、製作時期は煕寧三年(一○七○)

十二月、原篇の解釋は、〔譯例一〕となり、詞中の「故人」は、張先を指すととれる。張先の

和篇は、「北客」にいくらか無理があるが、「舊時の北客」の意でとれば、一應語義には抵觸

しない。ただし、鄭獬は青州に着任して程なく病に罹っており、煕寧三年(一○七○)十二月

には職を辭しているから、この説は、煕寧二年説よりもかなり可能性が低いと見積もるべきで

あろう。

おわりに

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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以上、二首の張先和韻詞に關して、その編年を試みた。本章各節で試みた分析を基に、夏承

燾「張子野年譜」における、この二首の編年を訂正すると、以下のようになる。

一、「少年游・渝州席上和韻」……夏氏年譜「皇祐三年(一○五一)」→「皇祐五年(一○五三)~至

和二年(一○五五)の何れか一年の晩秋」に訂正。

二、「好事近・和毅夫内翰梅花」……夏氏年譜「治平四年(一○六七)」→「煕寧二年(一○六九)十

二月」に訂正。

したがって、現存の詞で確定しうる作例の中で、和韻の最も早い使用例は、仁宗の皇祐五年

(一○五三)~至和二年(一○五五)、次韻の最も早い使用例は、神宗の煕寧二年(一○六九)、と

もに張先の作ということになる。

詞の中で次韻を多用した最初の詩人は、蘇軾(一○三六―一一○一、字子瞻、眉山〔四川省眉山〕

の人/

例)であったが、その蘇軾が詞を本格的に作り始めるのが、煕寧四年(一○七一)十一

25

月、通判として杭州に赴任して以後のことである。そして、杭州滯在中、蘇軾は張先とも交遊

している。

蘇軾の最初の次韻使用例は、煕寧七年(一○七四)八月の「南歌子(苒苒中秋過)」で、煕寧五

年の自作に次韻したものである。曹樹銘『蘇東坡詞』(卷一「煕寧五年」/一九八三年十二月、臺

灣商務印書館)では、この「南歌子」詞の數首前に、「江城子・湖上與張先同賦時聞弾箏」詞が

編せられ、「南歌子」製作の時點で、張先と蘇軾の間にはすでに交遊關係があった。こうして

みると、少なくとも詞における次韻に關しては、蘇軾は張先の拓いた路線の上をそのまま歩ん

だ、という印象を受ける。

從來、初期の蘇軾の詞に、張先が與えた影響の多大であったことが指摘されている。それを

踏まえて言うならば、張先は、自らが魁となって導入した次韻を、彼の作詞のスタイルととも

に蘇軾に傳えたのだといえよう。

第四章

【注】

蘇軾に關するものとしては、次のような論考がある。○「詩と詞のあいだ―蘇東坡の場合―」村

上哲見(一九六八年一月、『東方學』

)○「東坡にとっての詞の意味―特に詩と比較して―」保

35

苅佳昭(一九八七年、日本大學『漢學研究』

)等。

25

松浦友久『中國詩歌原論』第二部〔八

詩と音樂〕「樂府・新樂府・歌行論」(一九八六年四月、大

修館書店)參照。

詞に題注を附加する傾向について論及したものに、○村上哲見『宋詞研究

唐五代北宋篇』下篇「北

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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宋詞論」第一章「綜論」第二節その他(一九七六年三月、創文社)○興膳宏編『中國文學を學ぶ

人のために』第四章「詞」、三「詩と詞」中原健二(一九九一年三月、世界思想社)等がある。ま

た、蘇軾詞の題注に關する專論に次のようなものがある。○「東坡詞題注小考」野口一雄(一九

七八年六月、東京大學『中哲文學會報』

)。

3

張先と同世代の人では、范仲淹(九八九―一○一五、字希文、呉縣〔江蘇省蘇州〕の人、張先よ

り一歳年長)がいる。『全宋詞』所錄の現存五首の詞には、いずれも題注がある。

○龍沐勛「兩宋詞風轉變論」(一九三四年十月、開明書店『詞學季刊』第二卷第一號)、○前掲、

村上哲見『宋詞研究

唐五代北宋篇』下篇、第一章「綜論」第二節、○呉熊和『唐宋詞通論』第三

章第五節「詞調的演變」(一九八五年一月、浙江古籍出版社)等參照。

張・黄兩氏の『全唐五代詞』の後、さらにそれを補訂した『全唐五代詞』(一九九九年十二月、中

華書局)が編纂刊行されている。曾昭岷、曹濟平、王兆鵬、劉尊明四氏の編にかかるもので、張

・黄兩氏のそれが、詩と詞の辨別が難しい作品をも一緒くたに收錄するのに對し、四氏の編は、

素性のより確かなものを正編に、それ以外を副編に分けて收める。しかしこの新編『全唐五代詞』

によっても、中唐期に作例が急増するという傾向は、同じように認められる。

この「拓夫灘」はおそらく渝州附近の「灘」の名であろうと思われるが、未詳。

四部叢刊初編所收。新文豐出版公司からは、淸・宣統二年上海石印本の影印本が出版されている

(一九七八年十月)。

中華書局、中國古典文學基本叢書本『歐陽修全集』(二○○一年三月)第二册四九六頁。

「都人未逐風雲散。願留離宴。不須多愛洛城春、黄花訝、歸來晩。/葉落灞陵如翦。涙霑歌扇。

無由重肯日邊來、上馬便、長安遠。」

「醉笑相逢能幾度。爲報江頭春且住。主人今日是行人、紅袖舞。淸歌女。憑仗東風敎點取。/三

月柳枝柔似縷。落絮侭飛還戀樹。有情寧不憶西園、鴬解語。花無數。應訝使君何処去。」(『全』七

二頁下段)。

たとえば、陶淵明の「九日閑居并序」(『靖節先生集』卷二)に、「往燕無遺影、來雁有餘聲」とあ

るように、雁が南に飛來するのは、晩秋のことである。「新雁」の用例としては、錢起に「渚邊新

雁下、舟上獨凄涼」(「江行無題一百首」其十五/『全唐詩』卷二三九、中華書局排印本、二六七

七頁)とある。

「巴子城頭青草暮。巴山重疊相逢処。燕子占巣花脱樹。杯且擧。瞿塘水闊舟難渡。/天外呉門淸

霅路。君家正在呉門住。贈我柳枝情幾許。春滿縷。爲君將入江南去。」

ただし、村上氏はこの詞を「治平四年(一○六七)ごろの作」としている。

中華書局刊排印本(一九七九年十一月)では、第二册三四九頁。

中華書局刊校點本『庾子山集注』(一九八○年十月)では、卷四(三六四頁)に收め、第一句「常

年」を「當年」に作る。

上海三聯書店、上海人民出版社『文淵閣四庫全書電子版』、北京大學數據分析研究中心、北京燕歌

行科技有限公司『全唐詩分析系統』、『全宋詩分析系統』、『花間集』、『佩文韻府』、『駢字類編』ほ

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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か。

『杜詩詳注』に引く鶴注に、「當是大暦二年春作」とある(中華書局排印本一五九八頁)。また、『杜

詩詳注』卷頭「杜工部年譜」にも、「大暦二年丁未、公在夔州」とある。

『九家注杜詩』卷三三。

新文豐出版公司刊『叢書集成新編』第

册所收。また、孔凡禮點校『范成大筆記六種』(二○○二

44

年九月、中華書局、歴代史料筆記叢刊本)にも收められている。

○杜甫「王十七侍御掄許攜酒至草堂……」詩、「繍衣屡許攜家醞、皂蓋能忘折野梅。」(『杜詩詳注』

卷十、八六三頁)○牟融「送范啓東還京」詩、「客裏故人尊酒別、天涯遊子弊裘寒。官橋楊柳和愁

折、驛路梅花帶雪看。」(『全唐詩』卷四六七、五三一四頁)○晏幾道「蝶戀花」、「江北江南、更有

誰相比。横玉聲中吹滿地。好枝長恨無人寄。」(『全宋詞』二二四頁下段)等。

比較的よく知られた用例としては、韓愈「左遷至藍關示姪孫湘」の末句、「好收吾骨瘴江邊」があ

る。訓讀では、しばしば「よし」と訓じ、感嘆詞のごとく扱う場合が多いが、元來そういう字義

ではない。松浦友久編『校注唐詩解釋辭典』山崎みどり擔當(一九八七年十一月、大修館書店、

一四三頁)參照。

○前掲、晏幾道「蝶戀花」、○葉夢得「虞美人・逋堂睡起同吹洞簫」、「爲寄一聲長笛、怨梅花」(『全

宋詞』七七七頁上段)等。

前注參照。

陳鐵民、侯忠義校注『岑參集校注』(一九八一年八月、上海古籍出版社)卷四、該詩の解題に、「大

暦三年(七六八)七月東歸途中作」(三六八頁)とある。

朱金城『白居易集箋校』卷一六、該詩の「箋」にいう、「作於元和十一年(八一六)、四十五歳、

江州、江州司馬」(一○○七頁)。

「鄭獬傳」は、『宋史』卷三二一、列傳八○(中華書局排印本、一○四一七頁)。夏承燾氏は、『宋

史』本傳に、「神宗初、召獬夕對内東門、命草呉奎知青州及張方平、趙抃參政事三制、賜雙燭送歸

舎人院、外廷無知者。遂拜翰林學士」とあるのに着目し、『宋史』卷二一一「宰輔表二」に呉奎が

青州知事に外任した期日が治平四年九月と記されている事實より、鄭獬翰林學士拜命を治平四年

九月と推定している。

文瑩『湘山野錄』卷中(一九八四年七月、中華書局、唐宋史料筆記叢刊、二五頁)に、次のよう

にある。「鄭内翰毅夫公知荊南、……鄭公奇之、特爲刊其事於新梁之脅、其末云、『……治平丁未

歳十月、安陸鄭獬於荊南畫堂記之。』……」。「治平丁未歳」は、治平四年にあたる。この記事に基

づくと、鄭獬は治平四年十月の時點でまだ荊南軍にいたことになり、『學士年表』の記載とは異な

る。いずれが正しいのかは未詳。本稿では、さしあたって、『學士年表』に從った。

また、劉摯(一○三○―九七)の『忠肅集』(卷一九)に、「送鄭毅夫舎人被召五首」があり、

江陵觀察推官の任にあった劉摯が、鄭獬を送別したものと考えられる。あるいは、鄭獬荊南離任

時のなにがしかの狀況を推定できるかもしれない。

浙江人民出版社刊『南宋臨安兩志』(一九八三年一月、杭州掌故叢書)所收。

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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中華書局排印本、第

册五二五三頁。

16

中華書局排印本、第

册五五一一頁。また、鄭獬の死去に關しては、第

册五七九七頁(卷二三

16

17

八)に見える。

翰林侍讀學士に關しては、南宋・孫逢吉『職官分紀』卷一五にその沿革が記されている。また、

梅原郁『宋代官僚制度研究』(一九八五年二月、同朋舎)第四章第四節「最上級の館職」の末尾で

も言及されている(同書三九四頁)。職掌は、皇帝のために儒學を敎授する、經筵官であり、「侍

讀」と略稱された事例は、宋人文集に散見するが、「内翰」と呼ばれることはない(確定できる事

例は存在しない)。翰林學士が外任する際、この職名を帶びて出る慣例があったことを、葉夢得『石

林燕語』卷一、卷四によって知ることができる(一九八四年五月、中華書局、唐宋史料筆記叢刊、

一三および五九頁)。

王瑞來校補『宋宰輔編年錄校補』(一九八六年十二月、中華書局)では、晏殊の宰相位着任を「仁

宗慶暦三年四月」に編年し(卷五、二四二頁)、離任を「仁宗慶暦四年九月」に編年している(卷

五、二五六頁)。

蘇軾の編年詞集は、曹樹銘『蘇東坡詞』以外にも、朱祖謀『東坡樂府』(彊邨叢書本)、龍楡生『東

坡樂府箋』(一九五八年、商務印書館)、石聲淮・唐玲玲『東坡樂府編年箋注』(一九九○年七月、

華中師範大學出版社)がともに熙寧七年八月に編している。いずれも淸・王文誥『蘇文忠公詩編

註集成總案』卷一二に「(熙寧七年甲寅八月)十八日江上觀潮作南歌子」とあるのを根據としてい

る。しかし、薛瑞生『東坡詞編年箋證』(一九九八年九月、三秦出版社)では、元祐五年(一○九

○)に編年し、鄒同慶、王宗堂『蘇軾詞編年校註』(二○○二年九月、中華書局、中國古典文學基

本叢書)もそれを踏襲する。早期の傳本(傅幹注本)に「和蘇伯固」と題注のあるものがあり、

これを根據とする。蘇伯固は蘇軾が元祐年間に杭州知事に赴任した際の同僚である。なお、「江城

子・湖上與張先同賦、時聞彈箏」詞については、どの蘇軾編年詞集も熙寧六年(一○七三)に編

年している。『蘇軾詞編年校註』において、和韻のもっとも早期の作例とされているのは、「勸金

船・和元素韻。自撰腔命名」で、熙寧七年九月の作である(上册八七頁)。

【補】

北宋の用例の中には、「江梅=江南の梅」と特定できるケースが複數存在する。たとえば、

【附記】に引用した、鄭獬「江梅」詩は、杭州の梅を指す。王安石にも「江梅」詩があり、や

はり江南の梅を詠じたものである(『臨川先生文集』卷二八)。

【附記】

鄭獬『隕溪集』には、梅花を詠じた詩が少なからず收められている。紙幅の都合上それらに

は觸れられなかったが、本章で扱った「好事近」と關連するものを以下に列擧し、後考の資に

第四章 張先和韻詞二首繋年稿

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供する。

杭州別乘有餘才、戯作佳篇寄我來。

已敎呉娘學新曲、鳳山亭下賞江梅。

(卷二六、「江梅」)

少陵老杜獨憐才、長句還如鐵馬來。

酒味漸佳春漸好、苦敎陸凱詠寒梅。

(卷二六、「和汪正夫梅(十八首)」其一)

江南江北謫仙人、爲愛湖山特地來。

願得春寒過三月、尊前留得臘前梅。

(同前、其三)

流俗休敎見美才、不如長入醉郷來。

江南蚤是多風雨、莫向花前唱落梅。

(同前、其十四)

第四章 張先和韻詞二首繋年稿