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ISSN 18805949 8 目 次 論  文 「判官びいき」と義経観 ……………………………………… 藪本 勝治 1 藤原道長の法華三十講 ………………………………………… 大谷久美子 21 小鹿島橘氏の治承・寿永内乱 ─鎌倉幕府成立史に寄せて─ ……………………………… 岩田 慎平 45 研究ノート 鎌倉幕府成立期における文士 ─二階堂氏を中心に─ …………………………………… 山本みなみ 63 2010年 3 月 宗教・文化研究所ゼミナール

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ISSN 1880−5949

第 8 号

目 次

論  文

 「判官びいき」と義経観 ……………………………………… 藪本 勝治 1

 藤原道長の法華三十講 ………………………………………… 大谷久美子 21

 小鹿島橘氏の治承・寿永内乱   ─鎌倉幕府成立史に寄せて─ ……………………………… 岩田 慎平 45

研究ノート

  鎌倉幕府成立期における文士    ─二階堂氏を中心に─ …………………………………… 山本みなみ 63

2010年 3 月京 都 女 子 大 学宗教・文化研究所ゼミナール

紫  

第 

八 

二〇一〇年

はじめに

 「判官びいき」とは、劣勢に立たされた者に対して同情し、

応援する態度を表す言葉である(

1)。例えば『日本国語大辞典(

2)』

の「判官びいき」の項には以下のように記されている。

  

(薄幸の九郎判官源義経に同情し愛惜する意から)不遇

な者、弱い者に同情し肩を持つこと。また、その感情。

 

弱者への同情・応援の意味であり、現在における「判官

びいき」の一般的な意味を表す妥当な記述であると言える。

また、こうした態度・感情は、しばしば日本人の国民性と

結びつけられる。『語源海(

3)』の「判官びいき」の項を一例と

して以下に掲げよう。

  

源義経など悲劇的人物に対して声援をおくる心情。日

本の国民的同情をあらわす言い方。

 

また「判官びいき」という言葉は、源義経を描いた前近

代の文学作品を論じる際にもしばしば使用されてきた。稿

者が現在関心を寄せている、義経の一代記である『義経記』

が論じられる際にも、この言葉は極めて頻繁に用いられて

いる。例えば早く高橋富雄氏は、著書『義経伝説 

歴史の

虚実』の第六章「義経記の世界」において、「『義経記』は、

義経が追討する物語ではなしに、義経が追討される物語で

ある」と述べ、「滅びる義経の正当性を証明することによっ

て、この悲劇的な英雄のあわれを、さらに劇的にえがこう

とする」傾向のある作品と規定している(

4)。そして同書の終

章「判官贔屓」においては、そのような『義経記』を「判

官贔屓と呼ばれる特殊な義経崇拝を文学の理想に定めた」

作品であると称している(

5)。

 

しかし、『義経記』は本当に悲劇の英雄を描く「判官びい

き」の物語であろうか。『義経記』という作品の一般的なイ

メージと『義経記』本文を読んだ時の印象との懸隔について、

利根川清氏は次のように記している(

6)。

  

『義経記』はややもすると、歴史上の義経の持つ悲劇性

「判官びいき」と義経観

                    

藪 

本 

勝 

とその末路に目が奪われがちであるが、全体に描かれ

た活躍ぶりは自由奔放であり、随所に笑いと諧謔をたっ

ぷり盛り込んだ作品なのである。それが『義経記』の

素顔である。

 

利根川氏の述べる通り、『義経記』はいわゆる悲劇の英雄

としての義経を描いた作品ではない。その点ひとつをとっ

ても、「判官びいき」の文学として『義経記』を論じること

の危うさは明らかである。そもそも、「国民」という概念が

近代の産物であることは常識化して久しい。「国民的感情」

として語られる「判官びいき」を、前近代の文学を解釈す

るために用いることは本来できないはずである。更に、後

述する笹川祥生氏が中世における「贔屓」の用例検討から

指摘した通り(

7)、「判官びいき」という言葉の意味合いそのも

のにも、少なからず議論の余地が残されている。

 

しかし、この言葉がどのような歴史を経て現在の意味を

獲得したのか、という点については、これまで本格的に論

じられることがなかった(

8)。「判官びいき」観と義経観、あ

るいは義経を描く文学への見方がある程度連動する関係に

ある以上、この言葉の歴史を検証することは、義経を題材

とする文学を研究する上で不可欠の作業であろう。そこで

本稿では、まず「判官びいき」という言葉の語誌をたどり、

中世・近世の文学に現れた義経のイメージを検討した上で、

それらを踏まえて『義経記』の性質における一側面を指摘

したい。

1.二つの「判官びいき」

 

まず前提を整えるために、「判官びいき」という言葉の基

本的な意味、性質について確認しておく。この言葉の意味

内容はどのような要素によって構成されているのだろうか。

「判官びいき」について、鈴木健一氏は次のように述べてい

る(9)。

  

現在では、「判官びいき」は、力の弱い者(できれば美

しい者)が、強い者(多くの場合、絶対的な権力を持っ

ている)に立ち向かう時に送る、大衆の拍手喝采の意

味で、広く用いられている。

 

この記述には、「判官びいき」が成立するためには「力の

弱い者」と「強い者」、そして「大衆」という三つの立場が

必要であることがよく表れている。弱者が存立するために

は強者が対置される必要があり、弱者に同情するのは強者

/弱者の構造の外にいる第三者である。「判官びいき」とい

う言葉が用いられる時には、そうした三者鼎立の構造が前

提とされている。

 

しかし、「判官びいき」という言葉を用いるのは、三者の

いずれでもない。この言葉の運用について一般的な見解が

読みとれるものに、保立道久氏の発言がある)

(((

  

個人的な経験にもどれば、戦後しばらくまでは、いわ

ゆる「判官贔屓」という言葉が生きていたように思う。

(中略)「判官贔屓」という文化は、強者を排撃し、弱

者を尊重するという社会常識を支える文化意識として、

大人にとっても相当の意味をもっていたのである。

 

少なくとも保立氏が幼少であった「戦後しばらくまでは」、

「判官びいき」は「社会常識を支える文化意識」だったとい

う。弱きを助け強きをくじく「判官びいき」の態度は、一

種の社会規範として、言外に肯定的な評価を受けていたこ

とがわかる。

 

しかし一方では、そうした「判官びいき」への肯定的評

価に対して反省を促す発言もなされている。例えば高橋富

雄氏は、先にも引いた著書の中で、「「判官贔屓」として、

現在理解されているところを要約すると、それは、正しく

てしかも世にいれられない弱者に対する同情を、義経につ

いて典型化した国民感情、というようなことになるようで

ある」とした上で、「判官贔屓は、挫折した英雄義経に、無

限の可能性をローマン的に空想する。そこにあらゆる種類

の英雄造型を実験する。それによって、とげられなかった

英雄の歴史を物語の歴史のなかに実現しようとするのであ

る」という。そして「義経の戦いを通して、大衆がみずか

らの戦いをたたかい、義経を守ろうとして、じつはみずか

らを守ることにもなったのである」「判官贔屓とは、そのよ

うにして国民大衆が、義経においておのれじしんの英雄を

見、その理念化に陶酔するこころである」と断ずる)

(((

。高橋

氏は「国民感情」である弱者への同情を「国民大衆」の無

批判な「陶酔」として批判しているわけである。

 

このように、「判官びいき」の語が用いられるとき、同情・

応援という弱者への評価を意味するとともに、そうした評

価を下す第三者に対する評価をも伴っている。その第三者

への評価は一般的には、道徳的な観点からなされる肯定的

な評価である。また一方では、「判官びいき」を行う第三者

が陥りがちな善悪の判断停止を批判する、否定的な評価も

なされている。いずれにせよ、現在用いられる「国民的感情」

としての「判官びいき」は、前者の評価を前提としている

と言ってよい。それでは次に、現在用いられる「判官びいき」

の評価が成立してゆく過程を検討してゆこう。

2.「国民的感情」としての「判官びいき」

 「判官びいき」に対する現在の評価が形成されるにあたっ

て、大きなターニングポイントとなった時期は一九二〇~

三〇年代である。大正十三年(一九二四)、歴史学者の小谷

部全一郎氏による著書『成吉思汗ハ源義経也)

(((

』が刊行され、

ベストセラーとなった。この書は、義経は生きていて密か

に大陸へ渡り、モンゴル帝国の皇帝となってチンギスハン

と名乗り、アジア大陸を征服した、という内容の書である。

歴史論文として出版されたにもかかわらず、十一月十日に

初版が刊行されてから十二月五日には早くも第六版が出て

おり、爆発的にヒットしたことがわかる。この書の奇抜な

主張に対する反応として、当然ながら冷静な学問的反論が

多く寄せられた一方で、ジャーナリストや教育者、および

大川周明や甘粕正彦といったナショナリストに絶賛された。

ヒットの背景には当時の日本の満蒙領有化を肯定するアナ

ロジーが働いていたものと考えられる)

(((

 

源義経=チンギスハン説が吹き荒れた一九二〇年代半ば

以降の日本は、国民が雪崩を打って軍国主義に突き進む、

ナショナリズム昂揚の時代にあった。例えば翌大正十四年

(一九二五)には治安維持法が公布され、思想・言論の自由

が大幅に制限された。昭和三年(一九二八)の張作霖爆殺

事件、昭和六年(一九三一)の満州事変を経て、翌昭和七

年(一九三二)には満州国が建国され、また五・一五事件

が起きている。このように軍部の牽引による中国東北部占

領が進行する中で、昭和八年(一九三三)、小谷部氏は『満

州ト源九郎義経』を刊行し、『成吉思汗ハ源義経也』の主張

を繰り返した。日本はその後、昭和十一年(一九三六)の二・

二六事件で軍部主導の政治体制を確立させ、翌昭和十二年

(一九三七)の盧溝橋事件を発端に日中戦争へと突入した。

そして翌昭和十三年(一九三八)には国家総動員法が公布

され、軍国主義の極地に至る。このような時代情勢の中で、

「判官びいき」という言葉は「国民的感情」として語られ始

める。

 

この時期のアカデミズムにおける文学研究の重鎮、藤村

作氏は、昭和二年(一九二七)三月に刊行した『近世国文

学序説』の中で、「判官びいき」について「古今を貫いてゐ

る国民性の一部と見ゆる」と述べている。また「此の判官

贔屓の感情は我が国民心理中の事実として、多くの時代に

存した」と言い、類似の例として菅原道真・曾我兄弟・楠

木父子・豊臣秀吉・大石良雄・西郷隆盛・伊藤博文・大隈

重信を列挙している)

(((

 

また、藤村氏と同じく東京帝国大学で教授を務めた中世

文学研究の権威、島津久基氏は、昭和十年(一九三五)正

月に刊行した『義経伝説と文学』の本編第一部「義経伝説」

第三章「全集団としての義経伝説」において、次のように

考察している。まず、「義経伝説に自由の展開を遂げしめた

もの」は「「判官贔屓」の一語によつて現されてゐる国民の

無限の同情」であるとする。そして「判官びいき」の源泉

について、「それは義経の人物と末路の悲惨とがその主因を

なしてゐるのは言ふまでもない。かくて義経は国民の希望

と努力とによつて益々偉大となり、国民は又自ら作り上げ

た偉大なる英雄を尊仰して、その感化恩沢を受けようと希

ふのである」「判官贔屓とは、即ち正しくして而も運命境遇

に恵まれざる弱者に同情する世人の声で、その意味での典

型的対象を史上に捜めて、我が九郎判官に於て全く条件の

該当する人物が見出された結果、この語にそれが結象した

のである」という。また、同書の序編第一部「日本に於け

る武勇伝説の考察」の第一章「武勇伝説の語義と本質」で

は、「英雄譚乃至武勇伝説は言はば成人の御伽噺であり、国

民的な理想英雄に対する信仰心に基づく大衆の共同製作で

あるから、最もよく国民性や民族精神を映してゐると言へ

る」と述べている)

(((

。島津氏が義経伝説の展開の要因を「国

民の無限の同情」である「判官びいき」に求め、それは「国

民性や民族精神」に基づくと考えていることは明らかであ

る。その見方は、「判官びいき」を「国民性の一部」「我が

国民心理中の事実」と評する藤村氏の論考と軌を一にして

いる。つまり、両氏は、「判官びいき」を「国民的感情」の

枠組みで語っているのである。

 

ところで、藤村氏や島津氏の用いる「国民」という概念

がいかなるものであったか、という点については明確にし

難い。しかし、最近の佐谷真木人氏の研究によると、日本

における「国民」意識は、初めて近代的新聞メディアの報

道を伴った対外戦争である日清戦争(一八九四~九五)に

より誕生したという。佐谷氏は「たしかに、この戦争は日

本人がはじめて「国民」であることを、強く認識した歴史

的経験であった」「日清戦争がもたらしたのは、社会の再

編成だった。天皇を君主として上に戴くことで、国民が平

等であるという実感が醸成された」と述べている)

(((

。つまり

この頃の「国民」とは、国家の構成員として個々人を均一

化した概念であったと考えられる。この点に関して、島津

氏が昭和八年(一九三三)九月に刊行した『国民伝説類聚』

の「自序」に書かれた次の一節は参考になる)

(((

  

国民伝説と言へば、対外的に異国民・異民族のそれと

区分しての日本国民の伝説の謂であることは言ふまで

もないと同時に、この術語は一面更に狭義には対内的

に民間伝説と対称をなすものであると言ひ得る。前者

の場合でも、広義に観れば民間伝説をも含ませ得るの

であるけれども、而も猶、国民的な伝説こそ所謂国民

伝説の精粋であらねばならない。そして民間伝説を含

ませるばあいは、これと混同せぬ為にも、日本伝説と

呼ぶが妥当であらう。

 

島津氏は「国民伝説」という術語を「民間伝説と対称を

なすもの」と考えている。つまり、島津氏の用いる「国民」

の概念は、地方によりばらつきのある「民間」と対をなす

概念であるらしいことが窺える。とすれば、少なくとも島

津氏の用いる「国民」という概念は、佐谷氏の言うような、

国家共同体の構成員として均一化された「国民」であると

考えることができる。

 

では、藤村氏や島津氏のように「判官びいき」を「国民性」

として評する見方はどのようにして形成されたのだろうか。

藤村氏が大正十三年(一九二四)に創刊した『国語と国文

学』の昭和六年(一九三一)十月号は「中世文学号」と銘

打たれている。その巻頭を飾るのは斎藤清衛氏の「中世文

学の史的定位」という論文であるが、その中で「判官びい

き」の語が用いられている。斎藤氏は「庶民精神の文芸上

への影響」として「強直、端的な感性」「空想的猟奇的性情」

「信仰と迷信の精神」「武将崇拝、実力讃美」「現実的、土俗

的方面よりの取材」「享楽的楽天的の性情」「縦横二面の交

錯による表現性」を挙げる。そのうち「武将崇拝、実力讃美」

の説明で、「中世文学に於る戦記物」は「形骸の文化に対し

実力崇拝の庶民的精神と、「武徳」の讃美に目ざめた作者の

合響楽によるものでなければならぬ」とし、「義経は、人気

の最焦点を作り、舞曲・謡曲・古状揃等普く引かれ判官贔

屓の言葉さへ新造せしめてゐる。今弁慶や曾我兄弟等の特

性を検するに、贔屓の感を発せしめる主因は、その恩情の

精神と愛すべき単純性に存する」と記している。

 

斎藤氏の「庶民精神」「庶民的精神」や「愛すべき単純性」

という表現からは、この頃の「判官びいき」が、素直で教

養の高くない庶民の心性として語られていたことが読みと

れる。これは後述する近世の「判官びいき」の用法を継承

しているのであるが、この論文の四年前に藤村氏が、四年

後に島津氏が「判官びいき」を「国民的感情」の枠組みで

語っているわけである。このことから、次のような見通し

を立てることができる。すなわち、斎藤氏の言う「庶民」が、

国家共同体の構成員たる「国民」として語られることで、「判

官びいき」は「国民的感情」となった、という筋道である。

 

先述した時代背景を鑑みるに、この時期「国民的感情」

と評された「判官びいき」は、道徳的な観点からなされる

肯定的評価を伴う言葉として用いられたと考えるのが自然

であろう。そしてこのとき、源義経は、列強に対抗する日

本のアナロジーとして機能していただろう。この時期の「判

官びいき」は、いわば国家公認の道徳であった。しかし、

そうした「判官びいき」の公認は、この時期の特殊な現象

であるらしい。近世における「判官びいき」の用例をみると、

現代と同じく肯定的/否定的の二通りの評価が見られるか

らである。次にその点を検討したい。

3.近世における「判官びいき」

 

近世の膨大なテキストを全て洗い出すには至っていない

が、現在目にすることのできる「判官びいき」の用例はさ

ほど多くないようである。論の展開上、近世後期から前期

にかけて時代を遡る形で見てゆく。なお、使用する用例は

いずれも、当時の一般的な思考方法を抽出できると思われ

る作品や、広く人々に読まれたジャンルの作品である。

 

まず、人情本『貞操婦女八賢誌』初輯の用例を取り上げ

たい。この初輯は初代為永春水により書かれ、天保五年(一

八三四)に刊行されている。『貞操婦女八賢誌』全体は『南

総里見八犬伝』を模して構想されており、「仁義忠孝礼智信

を正面から振り翳して書かれてゐる)

(((

」。その初輯巻之一の中

で、丁稚上がりの村役人である平左衛門は、故主の形見の

少年、梅太郎をこき使う。そんなある時、「浪切不動の本祭」

で一通り賑わった村人達が庄屋の家に集まる。そこで梅太

郎は「茶の給仕」をするが、「村中寄つて梅太郎を、賞めそ

やす」一方で、平左衛門に悪態を吐く。その場面において、

以下のような評が語られる)

(((

  

酒が云はする悪体も、弱きを憐れむ判官贔屓、実に人

情の常なりかし。

 

まず、強い立場にある平左衛門に対して弱い立場にある

梅太郎、という構図がある。そして梅太郎に対して同情・

肩入れ、つまり「判官びいき」を行う第三者として村人達

が描かれる。更に、文脈やテキストの性質を考慮すると、

そうした村人達の態度は肯定的に評価されていることが窺

える。この例では、弱きを助け強きをくじく「判官びいき」

の態度が一種の道徳性を帯びているわけである。そのよう

な「判官びいき」観は、先に確認した近現代の「判官びいき」

観に通じている。

 

次に、少なくとも十七世紀末から十八世紀末にかけて連

綿と確認できる、「判官びいき」という言葉の典型的用法を

みてゆく。それは近世中期の二つの用例に端的に現れる。

ひとつめは、一条家の公家侍である松葉軒東井が天明七年

(一七八七)に編纂した諺語辞書、『譬喩尽』の一項である)

(((

  

判官贔屓とて立た

つこゐざるこ

児座児も引く是人徳なり

 

もうひとつは、享保五年(一七二〇)に刊行された江島

其磧の浮世草子『花実義経記』巻之六の一節である)

(((

  

判官につき奉る人々はいまだ恩賞を蒙らざる輩なれ共

一命をなげうつて忠勤をはげみぬるは是良将のいはれ

末世の今に至る迄判官贔負と犬うつ童迄いひつたへけ

るは誠に古今類ひなき名大将とはしられける。

 

二つの引用文にはいずれも、子供ですら「判官びいき」

と言い敬愛する立派な人物・義経、という言い回しが用い

られている。『譬喩尽』という書の性質から、この言い方が

天明期には定型化していたことがわかる。

 

こうした諺に評言を加えたものに『そしり草』(平賀源内

(一七二八~七九)作と伝えられるが不明)の例がある。こ

の書は、守屋大連・聖徳太子以下三十七人の人物と仙人・

宗論・論語談について、世間では評価されているが実は誹

謗に値する、ということを述べ連ねた著作である。その「廿

九 

義経」には、次のように書かれている)

(((

  

去ば末代の今に至り、児女幼童に至るまで、梶原が讒

言を憎て、既に景時々々と嘲る。一向義経を哀悼して、

諺に判官贔負と称するも、理義の仁心を感ぜしむる所

にして、是則義経の陰徳ならずや。嗚呼痛ましい哉義

経、(中略)客四友先生不覚の落涙しければ、是を見て

油煙公からからと笑て、先生も諺の判官贔負にや、豈

義経古今無双の英雄ならんや。(中略)義経才智有なが

ら、斯る無道を行ひしは、諺の猿智恵にて、信の智は

なき人にや。

 

これと極めて近い例として、長崎の学者である西川如見

により書かれた『町人嚢』があるので併せて考えたい。こ

の書は元禄五年(一六九二)の自序を持つ教訓書であり、「重

商主義時代の倫理の確立を計ろうとした意図は、安定期に

入った幕藩体制期の必読書として、度々版も改まって刊行

され、ひろく一般に迎えられた」という)

(((

。その巻三に、以

下のようなくだりがある)

(((

  

梶原といひぬれば、誰も大悪人なりと疾み、判官殿と

いへば、三歳の童子も善人なりとして崇む。世にいふ

判官贔負是なり。梶原、義経に非義有事を頼朝に訟へ

しは、道理にあたりて忠義有とかや。義経のふるまひ

にも非義多かりし事、古記に見えたり。是皆天の見る

所と、人の見る所と異なる事あれば也。

 

『そしり草』と『町人嚢』ではいずれも、誰しも「判官

びいき」を行うが、歴史的に見ると実は義経にも非があり、

義経を陥れたとされる梶原にも理があった、という主張が

なされている。「判官びいき」は「諺」として扱われており、

そうした俗諺的発想に対して善悪の検証不足が批判されて

いるわけである)

(((

 

子供ですら「判官びいき」をして敬愛する立派な人物・

義経、という定型化した言い回しは元禄期から存在してお

り、『町人嚢』『そしり草』では、そうした「諺」から導き

出される歴史認識は実は誤っている、ということが言われ

ていた。「判官びいき」の意味する弱者への肩入れそのもの

に対する評価は、どの例にも直接的には語られていないも

のの、「立児座児も」「犬うつ童迄」「児女幼童に至るまで」「三

歳の童子も」という表現からは、この諺の世間への浸透度

とともに、もののわからない子供でも、という低俗視のニュ

アンスが読みとれる。少なくともここでは、「判官びいき」

は卑俗な俚諺として扱われているということが指摘できる。

 

更に、「判官びいき」への評価がよりはっきりとした形で

わかる用例がある。近松門左衛門による享保六年(一七二一)

初演の浄瑠璃『心中宵庚申』巻之下に現れる、次の一節で

ある)

(((

  

八百屋半兵衛が母が、嫁を憎んで姑去りにしたと沙汰

あつては、まんまん千代めが悪いになされませ。判官

贔屓の世の中、お前の名ほか出ませぬ。

 

嫁である千代を追い出そうとする姑に対して、千代の夫

である半兵衛がそれを宥める場面である。笹川祥生氏はこ

の一節を「この場において批判されているのは、「判官贔屓

の世の中」でこそなければならない」「世間において判官贔

屓が広く行われているという現実を明らかにしているとと

もに、それが正しいことではないと考える人間の存在して

いたことをも示していると見るべきである」と読んでいる)

(((

文脈を鑑みるに、笹川氏の解釈は理にかなっていると言え

よう。

 

以上の例から、「判官びいき」という言葉は少なくとも近

世前期から中期にかけて、卑俗な俚諺として否定的な評価

を伴う語としても用いられてきたことがわかった)

(((

。より正

確には、弱者を応援する第三者であるところの庶民・大衆

の善悪の判断停止を批判するための言葉だったと言えよう。

しかし逆に、以上の例は、少なくとも十七世紀末から十八

世紀末にかけて、人々がこぞって「判官びいき」を行って

いたことも示している。おそらく、諺語辞典や『心中宵庚申』

において批判的に言及されていた「判官びいき」を行う世

�0

間一般の人々は、『貞操婦女八賢誌』に描かれていた村人の

ように、正当な肩入れであるとの意識をもっていたのであ

ろう。

 

このように、近世における「判官びいき」は、一方では

正当な尽力として広く行われ、他方ではそのような「判官

びいき」行為に対して善悪の検証不足を批判する文脈で用

いられる言葉としてあらわれる。同様の構図は、義経が政

治的に利用される一九二〇~三〇年代を隔てて、戦後に至

り「国民的感情」として広く行われる「判官びいき」に対

して、高橋富雄氏による批判が行われた構図と重なる。近

代に成立した「国民的感情」の道徳性を差し引いてみれば、

近世から現代に至るまで、二つの「判官びいき」が共存し

ていたことが窺えよう。

4.『毛吹草』の「判官びいき」

 

ここまでの考察により、近世から現代に至るまで、「判官

びいき」に対する二つの評価が共存していたことがわかっ

た。ここで、本論から些か外れるが、「判官びいき」という

言葉の初出資料である『毛吹草』について触れざるを得ない。

 

『毛吹草』は、京都の旅宿業者にして貞門の俳人、松江

重頼によって書かれた俳諧作法書である。寛永十五年(一

六三八)の自序を持つが、正保二年(一六四五)が最初の

公刊と考えられている)

(((

。その巻第五には春夏の発句が収載

されており、その中に有名な「世や花に判官びいき春の風」

の句がある。この句の解釈として一般的なものは、市古貞

治氏による「一句の意味は美しい桜花が心なき春風にはか

なく吹き散らされるのを、ちょうど不遇の英雄義経に贔屓

し同情を寄せるのと同様な気持を以て、世人挙って愛惜し

たというのであろう」との解釈である)

(((

。この句は「判官び

いき」の語の初出としてよく引用されるが、多くの論者は

市古氏の説に準ずる解釈をもって解説している。市古説は

それだけ妥当性の高い、自然な解釈であると言える。

 

しかし他の見方ができないわけではない。例えば和歌森

太郎氏は「兄頼朝の勘気をこうむって、失意のうちに吉野

に落ちていく、気性のよい義経にたいする深い同情をこめ

た発句と解されます。頼朝方がわが世の春をうたうならば、

吉野落ちの義経にも春の風は誘うことだろう。そんな気持

ちをうけた句のようです」と解釈している)

(((

。単に春の花を

詠んだと見るのではなく、その背景に具体的な義経の物語

を重ねた句と見ているのである。市古説と矛盾するわけで

はないが、この句の多義性がよく窺われる解釈であろう。

このように実は難解な『毛吹草』の句であるが、市古氏の

解釈に正面から異を唱えたのは笹川祥生氏である)

(((

。笹川氏

は、中世における「贔屓」の用例を検証した延長上に「判

��

官贔屓」を位置付ける方法をとっている。そのため笹川氏

による『毛吹草』の句の解釈を見る前に、そこへ至る論の

展開を紹介しておく。

 

笹川氏は「「判官贔屓」を論ずるためには、一応「贔屓」

ということばについてふれなければならないであろう」と

し、まず「贔屓」の語誌を通覧する。それによると「贔屓」

の「平安時代における用例」は専ら「力を用いる、つとめ

る」という意味で現れる。これが「室町期に入ると」「不当

に一方に偏した不当な尽力という感情を含ん」だ語となり

「悪徳の一つとみなされた」。そうした用例の多くは戦国武

将の家訓にみられるが、「帰趨常ない武士たちを、自らの指

揮下にとどめておくためには、精神訓話もさることながら、

恩賞に過不足を生じない配慮が特に望まれた」という時代

的背景に基づく意味変化であったという。更に「近世にお

ける「贔屓」の使用の様態を検討すると、中世における用

法から全く外れて、新しい意味を獲得したともいい難いよ

うである」とし、「常識的立場に立脚していない、というひ

け目、あるいはうしろめたさを伴っていたことがうかがわ

れる」と主張する。そこから先に引いた『心中宵庚申』の

用例を検討し、「もし、「贔屓」ということばにかなりの重

味をつけて考えるならば、弱者あるいは敗者に対する同情

の気持ちが、マイナスの効果をともなって発動する状態を

さして、「判官贔屓」ということばが用いられたのではない

だろうか」という推測を導き出す。そして最後に、このよ

うな「贔屓」を行うのは「不当な尽力だという非難を充分

覚悟の上で後援してくれる人たちである」「贔屓が悪徳とし

て指弾される一方では、それを臆面もなくやってのける人

たち、そしてそれを期待する人たちが少なからず存在して

いたという事実は、中世(とくに後期)の精神を語る上で、

見逃せないことではないだろうか」「絶対的な権威の存在を

否定し、自らの信ずる価値判断にしたがって行動する」「中

世精神の一つのあらわれとうけとることは理にかなってい

るといえよう」と評する。

 

笹川氏はこのように、「贔屓」の語に非難の意味合いが潜

むことを論じた後、それが「判官贔屓」の語にも引き継が

れている可能性に言及している。その根拠の一つが『心中

宵庚申』の用例であるが、その解釈における注の中で、笹

川氏は『毛吹草』の句に対する以下のような解釈を試行し

ている。

  

世間ハ花ニ埋マツテイル。ソノ花ヲ春風ガ早ク散ラセ

タリ遅ク散ラセタリシテイル。(ドノ花モ遅クマデ咲カ

セテオケバヨイノニ。)と釈することはできないだろう

か。『中華苦木詩集』(寛永一〇年版)には、春の花の

��

開くのに遅速あることをうたつた横川の詩のうち、「主

人若し春の権柄を掌らば万紫一紅一度にひらかしめん」

という句について、「吾レ若シ。天道ノ如クニ。花ノ権

柄ヲ。持ナラハ。サヤウニヒイキ偏頗ヲシテ。花ニ遅

速ヲハ。アラスマイソ。」という意味だと試明している。

このことから考えて、落花にも遅速があるのだから、

その遅速あることを、春風が何のわけもないのに贔屓

をするからだ、とうらみに思っている。という気持で

はなかろうか。

 

つまり、「判官びいき」を行うのは「世」ではなく「春の

風」であると考え、そのように贔屓する「春の風」を非難

する句である、との解釈を提案するのである。

 

しかし笹川氏の解釈に対しては、現在のところ反論も肯

定もなされていない。言葉の意味を転義させることで遊ぶ

俳諧連歌の性質から考えても、この句の意味から「判官び

いき」の語意を抽出することは困難を極めるため、この用

例の解釈に関しては、本稿においても保留したい。しかし

ここで重要なのは、『毛吹草』において「判官びいき」とい

う言葉が不当な尽力という意味合いを持ち得たかどうか、

という点である。そこで、『毛吹草』の他の箇所から、この

テキストにおける「判官びいき」という言葉の意味につい

て論じたい。

 

『毛吹草』には巻第五の他に、巻第二にも「判官びいき」

の語を載せる箇所がある。巻第二「世話付古語」は俳諧用

語集となっており、次に引用するように、俚諺成句が二つ

セットで列挙されている)

(((

   

長者富にあかず

  

よくにいたたきなし

   

ねみみにみづのいることし

  

あしもとからとりのたつことし

   

いそがばまはれ

  

はやうしもよとをそ牛もよど

 

以上の三対は連続して出現する本文である。一々の解説

は省略するが、いずれも類義の言葉、あるいは連想される

言葉を番えていることがわかる。そして引用した三対の次

に「判官びいき」が現れる。

   

はうぐはんひいき

  

よはきいゑにつよきかうはり

 

つまり、「はうぐはんひいき」の語義は「よはきいゑにつ

��

よきかうはり」と類似の意味として捉えられていたことが

わかる。「よはきいゑにつよきかうはり」とは、漢字をあて

るなら「弱き家に強き勾こ

張ばり

」であろう。勾張とは、『日本国

語大辞典』によると、「物が倒れないようにささえる木。つっ

かい棒」であり、転じて「あと押しをすること。かばいだて。

支持。庇護」を意味する言葉である)

(((

。そして同辞典には、「こ

うばり強うて家倒す」という成句が立項されている。その

意味は「家が倒れないようにと支えた材木が強すぎて、逆

に家を倒すこと。転じて、助けとなるものが強すぎて、かえっ

て物事を悪くするたとえ」であり、『北条氏直時代諺留』『可

笑記』『世話尽』の三例が用例として挙げられている)

(((

。特に

次に引く『可笑記』の用例は、「ひいき」行為の負の側面を

よく表している)

(((

  

あまりにひいきづよく、還って其の友をあやまつも有

り。是れぞまことに下らうのことばに、かうばりつよ

くして家押したふすといへり。

 

以上の情報から明らかな通り、「よはきいゑにつよきかう

はり」とは、まさしく「家が倒れないようにと支えた材木

が強すぎて、逆に家を倒すこと。転じて、助けとなるもの

が強すぎて、かえって物事を悪くするたとえ」を表す「下

らうのことば」、すなわち「世話」(=俚諺)であった。な

らばこれと類義の文言として捉えられていた「はうぐはん

ひいき」もまた、類似の意味を喚起する言葉であったと考

えることができるだろう。つまり、『毛吹草』にみえる「判

官びいき」の例も、後世の典型的な用法と同じく、善悪の

判断停止を批判する意味合いを含んだ語である可能性が高

いのである。

5.二つの義経像

 

ここまで、「判官びいき」という言葉の用法を検証してき

た。一般的に前提とされるのは、弱者への肩入れを道徳的

に肯定する用法である。しかし、弱者への盲目的な肩入れ

に対して善悪の検討不足を批判する用法もまた、近世初期

以来現代に至るまで確実に存在していることがわかった。

それでは、この言葉の二面性を斟酌したとき、表象の枠組

みにおいて「判官びいき」という言葉と不可分の関係にあ

る義経のイメージは、どのように改められるだろうか。次

にこの点を見てゆく。

 

「判官びいき」という言葉が、劣勢に立たされた者に対

する正当な肩入れとして用いられる時、下敷きとなってい

る義経像は、当然、徳人であり善人であるところの義経像

である。この義経像は、梶原景時の讒言で窮地に立たされ

��

た義経が己の正当性を切々と綴ったという「腰越状」のイ

メージに代表される、悲劇的英雄像であると言えよう。伊

藤一美氏は、まさに「「腰越状」が語る義経」と題された論

文の中で、以下のように述べている)

(((

  

� 

江戸時代から明治初めの人びとにとって、「腰越状」

は手習いの教科書でもあった。いま手元にあるいくつ

かの『庭訓往来』をめくってみると、真偽は別として

「弁慶状」までおさめられている。その御家流の書体は、

江戸時代の公用文に使われるものであり、「読み・書き・

そろばん」のうちの教養の基礎となっていたのである。

  

� 

しかし、書体のみではなく、その内容にも知らず知

らずのうちに読み込まれていったであろうことは想像

がつく。多くの人が「判官びいき」となったのも、実

はこうした学習があったからではないだろうか。

 

「判官びいき」の前提となる義経像は、「腰越状」の学習

を通して広く近世社会に浸透していたと考えることができ

る、との指摘である。首肯すべき見解であろう。

 

更に、悲劇的英雄としての義経像は、その淵源を辿ると、

義経在世の時代にまで遡ることができる。例えば九条兼実

は、都を落ち西国へと逃れた義経が官軍に討ち取られたと

の噂を聞き、「於武勇与仁義者、貽後代之佳名者歟、可歎

美々々々」という有名な評言を記している)

(((

。また、このよ

うな義経イメージは『吾妻鏡』にも顕著に現れている。『吾

妻鏡』が一貫して義経を同情的に描くことは、上横手雅敬

氏が指摘している通りである)

(((

 

このように、悲劇的英雄としての義経像は、中世初期以

来近現代まで継続的に再生産されてきたと言える。この義

経像が、一九二〇年代半ば以降、政治的に利用されるに至っ

たことは既に述べた。

 

ところで、浅見和彦氏は、『義経記』前半に描かれる傍若

無人な義経像を評して、「義経の貴公子化、判官贔屓にとっ

てはまことに都合の悪い、義経の〝悪〟行であったといえ

よう」と述べている)

(((

。確かに、浅見氏の注目する『義経記』

の巻第二「義経陵が館焼き給ふ事」では、義経が当時大罪

であった放火を臆面もなく行っている。こうした義経の「悪」

行は、御伽草子『弁慶物語』に見える義経の洛中千人斬り

説話にも窺える。浅見氏の述べる通り、こうした義経像は「判

官びいき」とは隔絶していると考えるのが、現在では一般

的であろう。しかし、先述の不当な尽力を批判する意味で

用いられる「判官びいき」の用法に照らして考えると、こ

のような善人や徳人から程遠い義経像は、むしろ広く想定

されて然るべきであろう。実際、同情に値する悲劇的英雄

��

としての義経像だけが継続的に流布してきたのかといえば、

そうではない。一方では、悲劇的英雄としての義経像とは

別の義経像もまた、中世においては並行的に存在していた

のである。

 

池田敬子氏は、『太平記』や謡曲「屋島」等中世の文学に

現れる義経像の分析により、「中世人の義経像」は「異類・

修羅のイメージ」であったことを指摘している)

(((

。また、樋

口州男氏は、『保暦間記』や御伽草子『さがみ川』、および

赤木文庫本『義経物語』の含状説話を検討し、義経の死去

以来、義経に対する御霊信仰が存在していたことを推測し

ている)

(((

。「判官の亡魂荒れたまひて、怨敵に加はる者、一人

も残さず、取り殺したまふ事こそ、恐ろしけれ」と結ばれ

る『義経物語』の末尾に明らかな通り、少なくとも中世に

おいて義経が荒ぶる御霊としてイメージされていた側面の

存することは確実である)

(((

 

ここまで、悪・修羅・御霊といった、いわば同情に値し

ない義経像の存在を見てきたが、このような義経像は他に

も多様に見出すことができる。例えば『源平盛衰記』が伝

える義経と建礼門院との醜聞は有名である。しかし、とり

わけ『義経記』においては、悲劇的英雄とは別の義経造型

が顕著である。先述した放火のくだり以外にも、例えば義

経が兵法書獲得のために鬼一法眼の娘を一通り利用した挙

げ句、非情にも捨ててしまう場面がある(巻第二)。また義

経が土佐坊に夜討ちをかけられる、いわゆる堀川夜討の場

面では、義経は臣下達の忠告を無視して無用心なまま泥酔

して寝てしまっており、静や喜三太に助けられて何とか防

戦するなど、同情に値しない描かれ方をしている(巻第四)。

他にも、山伏姿で奥州へ潜行する途中、義経が愛発山で披

露した地名由来説話が、弁慶によっていとも安易に訂正さ

れるのは有名である(巻第七)。このように『義経記』は、

義経の「善人」や「徳人」から程遠い側面を特に強調して

描く性質がある。この性質は、『義経記』が義経の最も華々

しく活躍する時期を省筆することからもわかる。なぜ『義

経記』がこのような性質を帯びているのか、という点につ

いては別に論じる必要があるが、ここではひとまず、悲劇

的英雄とは別の義経像がいかに広範な裾野を有していたか、

という点を確認しておきたい。

 

更に、義経の非英雄的イメージは、近世においても脈々

と受け継がれていたことが指摘できる。『太平記』や『義経

記』は近世においても確実に享受されていた。現存する版

本の刊記から見れば、両書共に、主には一七〇〇年代前半

まで盛んに刊行されていたことが推測できる。刊記の最も

新しいものでは、『義経記』は宝永五年(一七〇八)版が十

本、『太平記』は嘉永元年(一八四八)版が一本現存してい

��

る)(((

。また、大坂本屋仲間記録を繙くと、文化九年(一八一二)

改正「板木総目録株帳)

(((

」には『義経記』『太平記』ともに記

載があり、近世後期まで板木(刊記)を改めずに版行が重

ねられた可能性は十分に想定できる。加えて、同じ資料に

よると、「義経記」には「同絵入」「義経記仮名」といった

バリエーションが列挙されている。また、「同大全」(=『義

経記大全』)の名も確認できるが、これは『義経記』全文を

載せる注釈書である。

 

悲劇的英雄像とは別の義経像が近世に受け継がれていた

ことは、他の材料からも裏付けることができる。延宝四年

(一六七六)刊の俳諧付合語辞典である『俳諧類舩集』では、

「銜ふ

くむ」の項で「義経の状」が付合語として挙げられている)

(((

同書には他にも、「名の立」の項の説明文に「女院は義経と

同舩せられし」との記述があり、「修羅」の項の説明文には

「義経の幽霊も修羅道の有さまあらハすとうたへり」とある。

俳諧の場で用いられる観念は参加者にある程度共有されな

ければならないが、義経の含状説話、建礼門院との醜聞、

修羅となった義経のイメージが、そのような場で用いるの

に適切な観念として記載されているわけである。このよう

に、中世から近世に至るまで、悲劇的英雄としての義経像

が存在し続ける一方で、「善人」や「徳人」からは程遠い非

英雄的義経像もまた、脈々と存在し続けていたのである。

おわりに

 

源義経といえば悲劇の英雄である、という認識が現在一

般的であることは、誰もが認めるところであろう。しかし

ここまで見てきたように、少なくとも中世・近世においては、

悲劇的英雄としての義経像がもてはやされる一方で、その

イメージに留まらない多様な義経像が共存していた。そし

て「判官びいき」という言葉もまた、近世においては、世

の人々がこぞって正当な肩入れとしての意識をもって用い

た一方で、その善悪の検証不足を批判する言葉として用い

られていた。不当な肩入れとしての「判官びいき」の用法は、

現代においても近世と同様に見ることができる。

 

しかし、近代のある時期において、この言葉は「国民的

感情」として語られるようになり、「判官びいき」批判の用

法はすなわち「国民的感情」への批判を意味するようになる。

従って、高橋富雄氏が「国民的感情」としての「判官びいき」

を正面から批判したことは、おそらく一旦は忘れられた「判

官びいき」の批判的用法の復活であったろう。近代の同じ

時期に政治利用された源義経に対するイメージもまた、「判

官びいき」という言葉と同じく、非英雄的な部分が忘却さ

れていったものと思われる。図式的に言えば、国民的英雄

という単一的な義経観が、本来共存していた多様な非英雄

的義経像を一旦駆逐したことが推測できるわけである。

��

 

その意味で、笹川氏)

(((

が「判官びいき」という言葉の不当

な尽力としての側面の指摘に続けて、「贔屓が悪徳として指

弾される一方では、それを臆面もなくやってのける人たち、

そしてそれを期待する人たちが少なからず存在していたと

いう事実は、中世(とくに後期)の精神を語る上で、見逃

せないことではないだろうか」「絶対的な権威の存在を否定

し、自らの信ずる価値判断にしたがって行動する」「中世精

神の一つのあらわれとうけとることは理にかなっていると

いえよう」と主張されたことは注目に値する。中世における、

義経を描く文学もまた、単一的な価値観に搦め取られるこ

となく複数の価値観が共存し得た時代の産物として読まれ

なければならない。

 

本稿では、特に『義経記』が、英雄的義経像とは別の義

経を殊更に描くことを指摘した。『義経記』が高橋富雄氏に

より「悲劇的な英雄」の文学と称さていれたことは最初に

述べた。島津久基氏もまた、「史実に公平冷静であることに

叙述の意図を置かずして、義経の性格を完全化理想化し、

その境遇の数奇を力説しようとする」書であると述べてい

る)(((

。このように『義経記』には、悲劇の英雄としての義経

像をクローズアップした作品として評されてきた歴史があ

る。もちろん、利根川氏の言葉を引用した通り、現在でも

そのような見方が主流であるわけではない。しかし、悲劇

的英雄としての義経イメージとは別の義経を描く作品とし

て『義経記』を解釈することの重要性は、いくら強調して

も強調しすぎることはないだろう。今後はとりわけ、複数

の価値観が共存する時代の文学として『義経記』を読み解

くことが必要であると考えている。その実践については稿

を改めなければならない。

 

本稿では主に近代・近世を考察の対象として述べてきた

が、資料収集の面でも考察の面でも詰めるべき部分が多く

残されている。今後の課題として、御批判を賜ることがで

きれば幸甚である。

註(1�

)「判官びいき」の表記は他に「判官贔屓」「判官贔負」等もあるが、

本稿では引用文を除き基本的に「判官びいき」の表記を用いる。

(2�

)『日本国語大辞典』第二版(小学館、二〇〇〇年一二月~二

〇〇二年一二月)。

(3�

)杉本つとむ編、東京書籍、二〇〇五年三月。

(4�

)高橋富雄『義経伝説 

歴史の虚実』(中公新書、一九六六年一

〇月)一四七頁。圏点省略。また、参考文献の敬称は省略した。

以下も同じ。

(5�)前掲註4の高橋著書、一六〇頁。

(6�)「古典への招待 『義経記』の読み方」(梶原正昭校注・訳、

新編日本古典文学全集『義経記』小学館、二〇〇〇年一月)一

〇頁。

��

(7�

)笹川祥生「贔屓について──中世精神の一側面」(『京都府立

大学学術報告 

人文』二一、一九六九年一一月)。

(8�

)「判官びいき」の精神を分析対象とした研究としては、本稿

で触れた諸論考の他にも池田弥三郎「判官びいき」(『国文学解

釈と鑑賞』二二─九、一九五七年九月)、小川要一「「判官びいき」

寸考」(『解釈 

国語・国文』七─三、一九六一年三月)、同「「判

官びいき」をめぐって」(『中世文芸』四二、一九六八年一一月)、

小松茂人「「判官贔屓」と義経」(『芸文』一四、一九八二年一一月)

等がある。

(9�

)鈴木健一『義経伝説 

判官びいき集大成』(小学館、二〇〇四

年一一月)二二五頁。

(�0�

)保立道久『義経の登場 

王権論の視座から』(NHKブックス、

二〇〇四年一二月)一六頁。

(���

)前掲註4の高橋著書、一六四~一六八頁。また、桜井好朗「〝判

官びいき〟とその展開」(『中世日本の神話と歴史叙述』岩田書

院、二〇〇六年一〇月。初出一九九七年一二月)は、義経主従

の物語が英雄の悲劇から民衆の哀話へと転換したところに生ま

れる「敗北、もしくは崩壊の形式」として「判官びいき」を定

位する。難解な行論だが、結論においては高橋の批判と対応し

ている。この路線を押し進めたものに森村宗冬『義経伝説と日

本人』(平凡社新書、二〇〇五年二月)がある。

(���

)冨山房刊。

(���

)前掲註��の森村著書に詳細に述べられている。

(���

)雄山閣刊。一二三~一三九頁。旧漢字や繰り返し記号は現代

的表記に改めた。以下の引用文も同じ。

(���

)明治書院刊。五二六~五二七頁および三頁。

(���

)『日清戦争 

「国民」の誕生』(講談社現代新書、二〇〇九年

三月)一五一頁および一七二頁。

(���

)大岡山書店刊。一~二頁。

(���

)『梅川忠兵衛廓うぐひす 

貞操婦女八賢誌上巻』(人情本刊行

会、一九一五年六月)「解題」。

(���

)本文は前掲註��の書に依った。ルビ省略。なお、以下の引用

文でも難読部分を除き、ルビは省略した。

(�0�

)本文は『譬喩尽並ニ古語名数』(同朋舎、一九七九年一一月)

に依った。

(���

)本文は『八文字屋本全集 

第七巻』(汲古書院、一九九四年

一一月)に依った。

(���

)本文は『平賀源内全集 

下』(平賀源内先生顕彰会、一九三

四年七月)に依った。

(���

)『日本古典文学大辞典 

第四巻』(岩波書店、一九八四年七月)

「町人嚢」の項(中西啓執筆)。

(���

)本文は日本思想大系『近世町人思想』(岩波書店、一九七五

年一一月)に依った。

(���

)『町人嚢』はそこから「世間の毀誉褒貶に依て、人の善悪は

定がたき理なり」という論を帰納するが、この部分に関する詳

しい解説は古川哲史「判官贔屓」(岡見正雄・角川源義編『日

本古典鑑賞講座 

第一二巻 

太平記・曽我物語・義経記』角川

書店、一九六〇年二月)により既になされている。

(���

)本文は日本古典文学大系『近松浄瑠璃集 

上』(岩波書店、

一九五八年一一月)に依った。

(���

)前掲註7の笹川論文、六六頁。

(���

)このように見てくると、もともと批判的であった「判官びい

��

き」への評価が近世後期にいたって肯定的なものへと変化した

と見ることもできそうである。そのような可能性はありうるが、

通時的な変化を論じるには用例が不足しているため、今は判断

を保留したい。

(���

)竹内若「毛吹草の刊年及び諸本考略」(『毛吹草』岩波文庫、

一九四三年一二月)。

(�0�

)「判官贔屓考──中世小説を中心として」(『中世小説とその

周辺』東京大学出版会、一九八一年一一月。初出一九四五年七

月)七四頁。

(���

)『判官びいきと日本人』(木耳社、一九九一年六月。初出一九

六六年一〇月)一七~一八頁。

(���

)前掲註7の笹川論文。

(���

)本文は加藤定彦編『初印本毛吹草』(ゆまに書房、一九七八

年五月)に依った。なお、この部分に解釈を加えた論文は管見

に入っていない。

(���

)前掲註2の辞典。この辞典では用例として、近世初期成立の

軍学書『甲陽軍鑑』の「家康と云、武道の強き侍に、内々かふ

ばりを仕ると云義を」と、近松の浄瑠璃『女殺油地獄』下の「あ

んまり母があいだてない、かうばりが強ふて、いよいよ心が直

らぬと、さぞ憎まるるは必定」が挙げられている。

(���

)『北条氏直時代諺留』は慶長四年(一五九九)成立の諺集。

『可笑記』は寛永一九年(一六四二)成立の仮名草子。『世話尽』

は明暦二年(一六五六)成立の諺集。なお、『世話尽』には「判

官びいき」の語も載せられている。

(���

)本文は『近代日本文学大系 

第一巻』(国民図書、一九二八

年一二月)に依った。

(���

)伊藤一美「「腰越状」が語る義経」(関幸彦他編『義経とその

時代』山川出版社、二〇〇五年五月)一三六~一三七頁。

(���

)『玉葉』文治元年(一一八五)一一月七日条。

(���

)『平家物語の虚構と真実(下)』(はなわ新書、一九八五年一

一月)、黒板勝美『義経伝』の「解説」(中公文庫、一九九一年

九月)、『源義経 

流浪の勇者──京都・鎌倉・平泉』所収「い

まなぜ義経なのか」(文英堂、二〇〇四年九月)等。

(�0�

)浅見和彦「義経と『一寸法師』」(『説話と伝承の中世圏』若

草書房、一九九七年四月。初出一九九四年一月)三一七頁。

(���

)池田敬子「中世人の義経像──文学にたどる」(『軍記と語り

物』四二、二〇〇六年三月)。

(���

)樋口州男「御霊義経の可能性──敗者から弱者へ」(『軍記と

語り物』四二、二〇〇六年三月)

(���

)樋口氏は、御霊信仰から判官贔屓へ、という段階的展開を推

測されている。この見方は角川源義氏(『語り物文芸の発生』

東京堂出版、一九七五年一〇月)、丸谷才一氏(「お軽と勘平の

ために」『鳥の歌』福武書店、一九八七年八月。初出一九八五

年五月)の見解を継承、補強したものである。しかしそもそも、

御霊信仰と「判官びいき」は共存不可能な観念ではない。山折

哲雄「源義経は祟らず」(『悲しみの精神史』PHP研究所、二

〇〇二年一月)は、怨霊信仰の融和された形態として判官贔屓

が生まれたと述べているが、本稿で指摘するように、中世・近

世の義経像は同情に値する悲劇的英雄としてのイメージと、同

情に値しない非英雄的イメージの両面が並存していた。おそら

く非英雄的義経像が近代に至り忘却されてゆく過程において、

怨霊的義経像が見えにくくなっていったのであろう。

�0

(���

)国文学研究資料館ホームページのデータベース「日本古典籍

総合目録」による。

(���

)大阪府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録 

第一三巻』(大

阪府立中之島図書館、一九八七年三月)。

(���

)野間光辰監修『近世文芸叢刊 

第一巻 

俳諧類舩集』(般庵

野間光辰先生華甲記念会、一九六九年一一月)を参照した。

(��)前掲註7笹川論文。

(��)前掲島津著書、六八三頁。

��

   

はじめに

 

『栄花物語(

1)』巻第十五〈うたがひ〉は、寛仁三年(一〇

一九)の藤原道長の出家を契機として、その為政者として

の業績と仏教活動を総括し、これからの栄華を称えた巻で

ある。その巻において道長は、出家の戒師を務めた天台僧・

院源によって「世の固め、一切衆生の父としてよろづの人

をはぐくみ、正法をもて国を治め、非道の政な」(②一七八頁)

い為政者と言われ、出家にあたっては「弘法大師の仏法興

隆のために生れたまへる」、「また天王寺の聖徳太子の御日

記に、「皇城より東に仏法弘めん人をわれと知れ」とこそは

記し置かせたまふなれ」(②一八五頁)とまで言われている。

 

その記事に続いて述べられるのが、道長による法華経の

隆盛である。

  

� 

わが御世の始めより、法華経の不断経を読ませたま

ひつつ、内、東宮、宮々に、皆このことを同じく勤め

おこなはせたまふ。次々の殿ばら、摂政殿をはじめた

てまつりて、皆おこなはせたまふ。その験あらはにめ

でたし。これを見たまふて、この御一類のほかの殿ば

ら皆、あるは不断経、あるは朝夕に勤めさせたまふ。

時の受領どもも皆このまねをしつつ、国の内にても不

断経読ませぬなし。かかるほどに、この法を弘めさせ

たまふになりぬれば、御功徳のほど思ひやるにかぎり

なし。�

(②一八七~一八八頁)

 

道長の功徳は法華経を弘めたことにあるとされ、その仏

教的業績が讃えられる。これらの功徳によって道長は「現

世は御寿命延び、後生は極楽の上品上生に上らせたまふべ

きなり」(②一七八頁)と院源に賞賛されたのだった。その

道長の法華経隆盛の第一の例として挙げられているのが、

法華三十講(以下三十講と記す)である。

 

平安時代には、天皇や貴族によって、公事・私事ともに

数多くの法華講が催された。三十講は道長の主催した法会

のひとつで、長保四年(一〇〇二)から万寿三年(一〇二六)

まで、毎年一回、二十五年間二十五回催された。この小稿は、

道長主催の三十講の実態と目的を明らかにし、『栄花物語』

がこの法会を記すことの意味を考察しようとするものであ

藤原道長の法華三十講

大谷久美子

��

る。

   

一 

法華八講と法華二十八講

 

三十講が始められる以前から行われていた法華講に、法

華八講と法華二十八講がある。

 

法華八講の起源については、『三宝絵』に収められている、

延暦十五年(七九六)勤操の石淵寺八講の話がよく知られ

ている。一般的に法華八講は、その法会の目的から、故人

追善の為に行われる「追修八講」、長寿を祝い余齢の延長を

願う「算賀八講」、死後の為に予め追善を行う「逆修八講」、

参会者の罪を滅し菩提の縁を結ぶ「結縁八講」の四つに大

別される。いずれも『妙法蓮華経』八巻を、一座一巻、一

日二座ずつ講ずる四日間の法会であるが、「或ハ開結経クハ

ヘテ十講ニヲコナフ所モアリ」(『三宝絵(

2)』一三〇頁)とも

あり、五日間の法会として行われることもあった。

 

そのうち、「提婆達多品第十二」を含む五巻を講ずる日は

「五巻日」と呼ばれ、特に盛大な儀式が営まれた。これは、

釈迦の故実に倣って薪を背負い、若菜と水を持って堂内か

ら庭を三巡する儀式で、参会者がその日の捧物を持ってこ

れに続いたので「捧物めぐり」または単に「薪」などとも

呼ばれる。廻るときには「法花経ヲ我ガエシコトハタキヾ

コリナツミ水クミツカヘテゾエシ」(同前)という和歌を口

にするという。

 

法華八講のうち、もっともよく催されたのが追修八講で

あった。とくに平安中期の、忌日を結願日として行われる

天皇・皇后の為の御八講や、貴族の為の八講──一条天皇

の円教寺御八講、藤原詮子の慈徳寺御八講、藤原兼家の法

興院八講など──は、故人の成仏を祈る仏教行事であると

同時に、「天皇あるいは有力貴族を中心とする主従意識、お

よび各氏族内に次第に台頭してくる家流意識(

3)」を確認し、

強めるための行事でもあったことが明らかにされている。

 

法華二十八講についても見ておきたい。これについては

道長の同母姉である詮子が長徳二年(九九六)二月に行っ

たものが「おそらく貴族の行った法華一品講の最も早い例(

4)」

であると言われている(

5)。

 

法華二十八講は法華経二十八品を一座一品ずつ講ずる法

会で、『日本紀略(

6)』は

  

廿二日癸巳。東三條院臨時法華講。十四箇日。

(長徳二年二月二十二日条)

として、法華八講のように一日二座ずつ講じ、十四日間で

終わったとするが、『小右記(

7)』同年三月十日条には、

  

十日、庚戌、(中略)余参女院、(中略)廿八講了、公

家給度者、有御諷誦、其後一両所有諷誦、納言以下執

��

請僧禄、秉燭退出、

とある。この年の二月は小の月なので、二月二十二日に始

められたとすれば三月十日までは十八日間あり、必ずしも

二座ずつ行われたわけではなかったらしい。

 

この法華二十八講でも、「提婆達多品第十二」を講ずる日

は法華八講の五巻日に当たるものと考えられていた。

  

二日、壬寅、参内、左武衛相公同車参女院、(中略)依

当五巻日、有捧物事、依雨不廻庭中、只廻殿上、多人無便、

�(『小右記』長徳二年三月二日条)

 

法華八講の「五巻日」と名称が一致することから、この

法華二十八講は法華八講の大きな影響下で催されたもので

あったと考えられ、法華二十八講の「五巻日」の儀式有様

については法華八講のそれとほぼ同様であったと判断され

る。

   

二 

三十講

─開始年・日取り─

  

1.開始年

 

藤原道長が始めた三十講は、これら先行する法華講の流

れを受けて成立した。

 

三十講に関する記事の初見は『権記(

8)』にある。

  

一日丁酉 

詣東院、詣左府、於新堂安置釈迦普賢文殊

弥陀観音勢至像、又被始卅講、有行香、

(『権記』長保四年(一〇〇二)三月一日条)

 

長保四年三月一日、道長は上東門第において、釈迦如来

を始めとした諸仏を安置した「新堂」を供養し、その「新堂」

において三十講を始めた。この年の三十講は四月一日まで

行われた。三月は小の月なので、期間は三十日である。

 

この三十講のことを、『栄花物語』は、

  

この経をかく読ませたまふのみにあらず、世の始めよ

りして、年ごとの五月には、やがてその月の朔日より

始めて晦日までに、無量義経より始めて、普賢経に至

るまで、法華経二十八品を、一日に一品を当てさせた

まひて、論義にせさせたまふ。�

(②一八八頁)

として、法華経二十八品に開結二経を加えた三十座の講を

行う三十日間の法会であると説明している(

9)。

 

この三十講が、とくに東三条院の法華二十八講を範とし

たことは、『権記』長保五年(一〇〇三)五月十三日条に「左

大殿廿八講」と記されていることから明らかである。『三宝

絵』に見られた如く、八講に開結二経を加えて十講行って

も「法華八講」と呼ばれる)

(((

ことから、この法会も「廿八講」

と呼ばれても三十講行われていたのではないかと思われる。

道長の三十講を「廿八講」とするのはこの一例だけだが、

東三条院が行った二十八講と道長の三十講は同じであると

��

いう見方があったことを示しており興味深い。

 

先にも述べたように、道長が初めて三十講を行ったのは、

長保四年(一〇〇二)のことと考えられている)

(((

のであるが、

ここでもう一度その開始年について考察してみたい。

 

後年の記録から、道長が初めて三十講を催した際、願文

が作られていたことが知られる。

  

今日関白三十講始、(中略)仍申剋許詣高陽院、(中略)

請僧云、有願文、有毎年可修之文、関白云、先公始修

之年有願文云々、仍俄一昨以義忠所令作、

(『小右記』長元二年(一〇二九)八月四日条)

 

万寿三年(一〇二六)道長生前最後の三十講が行われて

から三年後の長元二年八月、頼通主催による初めての三十

講が行われた。その発願日には「これから毎年三十講を修

する」という内容の願文が用意されており、これは道長が

はじめて三十講を修した年に願文があったので、それに倣っ

て一昨日急いで作らせたものであるという。この願文が道

長に倣って作られたものである以上、願文の内容も道長の

それに倣って作られていたものと考えられる。つまり、道

長が初めての三十講を行った際にも「毎年可修之文」が書

かれた願文が用意されていた可能性が高いのである。事実

道長は長保四年から死の前年の万寿三年まで二十五年間欠

かすことなく三十講を行っている。

 

願文は一般的に、造寺造仏供養や、故人追修などを目的

とした種々の法会に提出される)

(((

が、例年の三十講には提出

されない。例年の三十講はそれらとは別の目的で修されて

いたからだと考えられる。道長が三十講に際して願文を作

るとすれば長保四年の「新堂」供養の年がもっとも自然で

ある。

 

また、『左経記)

(((

』万寿二年(一〇二五)十月一日条には、

「於上東門院文殊堂卅講始云々」とある。長保四年に供養さ

れた「新堂」には「文殊」も安置されていたから、これが

長保四年に完成し供養された堂であろうと考えられる。道

長は出家後、自ら建立した法成寺無量寿院を一族にとって

重要な寺として扱ったが、それでも三十講は上東門第で行

われた)

(((

。三十講が行われるべき場所は上東門第であって無

量寿院ではなかったということである。三十講が「上東門

院文殊堂」に拘らねばならなかったのは、この長保四年に

作成された文殊堂供養願文の拘束力によるものであろう。

 

以上から、道長の三十講は、やはり長保四年に初めて修

されたものであり、上東門第文殊堂の完成供養を契機とし

たとするのが妥当である。

  

2.日取り

 

次に、三十講がどのような日取りで行われるものであっ

��

たかを確認したい。史料から確認される道長の三十講の発

願日、五巻日、結願日などを一覧にしたものが〈表Ⅰ〉で

ある。五月一日に発願して三十日に結願した例はなく、三

十日間行われた例も少ない。

 

次に三十講が開催された月を確認したものを〈表Ⅱ〉と

して挙げる。長保四年を例外として見れば、五月から遅れ

ることはあっても、五月以前に行われることはなく、三十

講が五月に行われることを基本としたことは疑いない。法

華三十講は五月に行われることを基本とし、それ以外の月

に行われている年には、延引せざるを得ない理由があった

ものと考えられる)

(((

〈表Ⅱ〉開催月(�

全二十五例、月をまたぐばあい、日数の

多い月に含んだ)

  

三月 

一例(長保四)

  

五月 

十七例(�

長保五、寛弘二、寛弘三、寛弘四、寛弘五、

寛弘六、寛弘七、寛弘八、長和二、長

和三、長和四、長和五、寛仁一、寛仁二、

寛仁三、治安元、万寿元)

  

六月 

一例(長和元)

  

七月 

二例(寛弘元、寛仁四)

  

八月 

一例(治安二)

  

九月 

二例(治安三、万寿三)

  

十月 

一例(万寿二)

 

三十講の開催日数を数えたものが〈表Ⅲ〉、五巻日が何日

目に行われたかをまとめた表が〈表Ⅳ〉である。法華三十

講が行われた日数は、二十五日間の例が最も多く、次いで

三十日間である。ほとんどの年は二十日以上かけて行われ

ているが、時代が下るにつれて、期間が短縮される傾向に

あるといえそうである。もっとも短いのは万寿二年の十四

日間で、これは当初十五日間の予定であったが、結願日が

欠日であると分かったため、一日早く結願したものである)

(((

提婆達多品第十二は、開経から数えれば十三番目にあたる

ので、やはり十三日目に五巻日の儀式が行われた例が最も

多い。

〈表Ⅲ〉開催日数(全二十五例)

  

三十日間  

四例(長保四、寛弘四、寛弘五、長和元)

  

二十八日間 

一例(寛弘元)

  

二十七日間 

一例(寛弘六)

  

二十五日間 

六例(�

寛弘二、長和三、長和四、寛仁元、

寛仁二、寛仁三)

  

二十四日間 

一例(寛弘三)

��

  

二十三日間 

二例(寛仁四、万寿元)

  

二十二日間 

一例(寛弘七)

  

二十一日間 

二例(寛弘八、治安三)

  

十六日間  

二例(長和五、万寿三)

  

十四日間  

一例(万寿二)

  

不明    

四例(長保五、長和二、治安元、治安二)

〈表Ⅳ〉五巻日(�

全二十五例、表中の〈 

〉は三十講の日

数を示す)

  

十三日目 

十二例〈三十日間〉�

長保四、寛弘五、長和

          

〈二十八日間〉寛弘元

          

〈二十七日間〉寛弘六

          

〈二十五日間〉�

長和四、寛仁元、寛仁二、

寛仁三

          

〈二十四日間〉寛弘三

          

〈二十二日間〉寛弘七

          

〈不明〉長保五

  

十二日目 

四例 

〈三十日間〉 

寛弘四

          

〈二十五日間〉寛弘二

          

〈二十一日間〉寛弘八

          

〈不明〉長和二

  

十一日目 

一例 

〈二十一日間〉治安三

  

八日目  

一例 

〈二十五日間〉長和三

  

七日目  

四例 

〈十六日間〉 

長和五、万寿三

        

〈十四日間〉 

万寿二

        

〈不明〉治安二

 

不明   

三例〈二十三日間〉寛仁四、万寿元

        

〈不明〉治安元

 

三十講を三十日かけて行った年は『栄花物語』が述べる

ように一日一座ずつ行われたが、期間が三十日より短い年

は一日一座の日と二座の日とが組み合わされて行われた。

開催日数と五巻日から、各回おおよそ一日何座ずつ行われ

たのかの予想が立つ。しかし、一座の日と二座の日の組み

合わせ方に特に法則があるようには見えない。

 

寛弘五年(一〇〇八)は五巻日に二座行われた)

(((

。寛弘五

年の期日は三十日間なので、五巻日に一日二座行うと、五

巻日以後の残りの講数(十六講)に比べて残りの日数(十

七日)の方が多くなってしまう。寛弘四年(一〇〇七)も

同様に、残りの講数に比べて残りの日数の方が多くなる例

である。三十講期間中、講が行われない日が存在したもの

としか考えられないが、これに関する記録はなく、疑問が

残る。

��

   

三 

儀式次第

 

三十講は上東門第文殊堂で行われ、発願日から結願日ま

で毎日講を行うことを基本としたと考えられるが、その中

でも重要な日は、発願日、五巻日、結願日の三日である(こ

の三日以外の日を例講日と呼び、その日に行う講を例講と

呼ぶことにする)。発願日、例講日、五巻日、結願日はそれ

ぞれ儀式次第が異なる。以下、三十講では何が行われてい

たかを見ていく。

  

1.発願日 付初講

  

一日、壬戌、(中略)冒雨参大殿、宰相々従、今日三十講始、

申剋許講説始、講師律師懐寿、問律師明尊、臨昏行香、

 

(『小右記』寛仁二年(一〇一八)五月一日条)

  

一日、丁巳、今日入道殿三十講始、未剋許参入、坐御

堂南廊、(中略)小時移坐御堂、〈坐簾中、大僧都尋円・前大

僧都尋光祗候、〉即打鐘、摂政着堂前座、下官及大将教通、・

左衛門督頼宗、・皇太后宮権大夫経房、・伊与守兼隆、・左

大弁道方、・右兵衛督公信、・修理大夫通任、・三位中将二

人〈左道雅・右兼経、〉次第着座、講師律師懐寿、問律師明尊、

論義了行香、摂政已下、僧等退下之後還給南廊、

(『小右記』寛仁三年五月一日条)

 

未刻に道長第の御堂に参上し、少時あって法会の開始を

告げる鐘が鳴らされる。その後、身分に従って順に着座する。

僧による講説、講師と問者による論義)

(((

が終わると行香が行

われ、僧が退出して後、参会者が退出する。

 

発願日の打鐘の時刻は、実資が参入した未刻より遅く講

説が始まる申刻のより早い時間であろう。現在でいう午後

三時頃ではないかと思われる)

(((

。終了時刻については、「行香」

が行われた「臨昏」はおよそ「黄昏」のころ、つまり戌刻)

(((

ごろであろうから、発願日の法会には三、四時間ほど要す

ることになる。

 

また、発願日とは別に、「初講」と呼ばれる日が存在する。

  

五日、乙未、   

節会

  

上達部被来、初講、

(『御堂関白記』長和二年(一〇一三)五月五日条)

 

また、表記は異なるが、『御堂関白記』寛仁元年(一〇一

七)五月二日条の「行初」も「初講」と同じことを意味し

ていると考えられる。これに関するような記録は他になく、

解釈に困るが、両年とも前日に三十講が始められた旨の記

事があるので「初講」は三十講開始の意味ではない。発願

日は無量義経の講説なので、「初講」は法華経「序品第一」

の講説が始められたこと、つまりは例講開始の意味だと解

しておきたい。

��

  

2.例講日

  

九日、乙巳、(中略)参左相府、皇后宮大夫同参、此間

講説、講説了論義、〈講師融碩、問日如、〉相府在簾中、(中略)

論義讖法了諸僧出、(中略)相府帰西対、行歩如例、其

後予帰蓽、

(『小右記』長和元年(一〇一二)六月九日条)

  

二日、关亥、宰相来、即参大殿、向晩来云、講説間大

納言斉信已下多参会、主人於簾中被評定論義、今日御

心地頗宜云々、

(『小右記』寛仁二年(一〇一八)五月二日条)

  

七日、戊辰、(中略)摂政被参、申時許講説・論義、〈講

師阿闍梨遍救、問者教円、〉懺法了黄昏退出、

(『小右記』寛仁二年(一〇一八)五月七日条)

  

十日、乙未、(中略)未一剋参卅講所、上東門第、入道殿

自無量寿院歩行渡給、講説・論義如常(中略)酉尅許

事畢罷出、 

(『小右記』寛仁四年(一〇二〇)七月十日条)

 

講説、論義、懺法を行うのが三十講の例講である。参会

者は講説が行われる間にゆるやかに集まり、主人である道

長は、簾中にいて僧等の論義を聞いて論の優劣を評定した。

 

発願日や五巻日、結願日には、儀式の開始を告げる「打鐘」

が行われるが、例講日に「打鐘」が行われたという記述は

ない。しかし、法華八講では例講でも「打鐘」が行われて

いる)

(((

ので、三十講でも当然「打鐘」が行われたであろう。

 

例講日も発願日と同じように未剋に参入し、申剋に講説

が始まっているので、法会の開始は午後三時ごろであろう。

終了時刻は酉剋から戌剋の間、午後五時ごろであったと見

られ、例講一座に要する時間はおよそ二時間程度であった

と考えられる。

  

3.五巻日

  

十三日、甲戌、参大殿、五巻日也、(中略)僧俗入堂、次

諸卿着仏前座、次主人着座、此間諸卿動座、堂童子頒

花莒、了主人已下退下、次僧、々先立、次薪等、次主人・

余次第列、〈上達部、次殿上人、次地下弁・少納言、次地下四位、次

五位外記・史、次地下五位、次六位外記・史、次諸司六位、〉各持捧

物三廻、〈主人・上達部七条袈裟、〉了復座、召人給主人并上

達部捧物、次敷長筵階前置殿上人已下捧物、其外捧物

等諸大夫・近衛府官人已下取置了、次説講・論義、〈講

師律師定基、問律師実誓、〉了居僧前、〈懸盤饗、次主人高坏、[朱器]

已次懸盤、〉一巡了、〈僧座無酒事、〉僧退下、次以各弟子令撤

僧前、先是諸大夫取立書置僧前、(中略)酉剋許余退出、

(『小右記』寛仁二年(一〇一八)五月十三日条)

  

十三日、己巳、(中略)未剋許参入道殿、〈宰相同車、〉今

��

日三十講五巻日、(中略)仏事了後僧俗有饗饌、黄昏退出、

(『小右記』寛仁三年(一〇一九)五月十三日条)

儀式開始の合図の鐘が鳴ると、僧侶と貴族が参入、諸卿・

童子役の貴族が着座し、次いで主人が着座する。童子が花

莒を分け終わると道長以下が退出する。その後、僧を先頭

として、六位の官人が薪・水・若菜を持って行道し、道長

以下官人貴族が捧物を持ってそれに続く。庭から堂内にか

けて三度廻ったあと、一旦座に戻る。次いで堂の階前の廊

に長筵を敷き、殿上人以下の捧物を置く。その後、講説、

論義が行われる。これらの仏事が終わると僧俗に饗饌や禄

が振る舞われ、五巻日の行事は終わる。五巻日に雨が降っ

たときには、薪行道を堂内だけにするなどして対処したが、

寛弘八年(一〇一一)には、五巻日を雨により中止とし、

翌日改めて行った。

 

五巻日も未剋に参入し、酉剋または戌剋に退出している。

終了を午後五時ごろと見ると、発願日と同様に開始から三、

四時間ほどで儀式が終了していることになる。ただし、こ

の寛仁二年の「酉剋許余退出」から考えると、講後に催さ

れた饗宴に参加しなかったので酉剋に退出したということ

であろう。饗宴に参加したときの終了時刻が戌剋ごろだっ

たのではないか。

  

4.結願日

  

廿五日、丙戌、(中略)未剋許参大殿卅講結願、大殿出

客亭、摂政已下祗候、僧等参入之間主人入簾中、僧侶

着座、次摂政及諸卿着座、下﨟依無座席在渡殿座、立

平張庭前積誦経布、百端、講説・論義如例、〈講師律師明尊、

問律師実誓、〉摂政及卿相行香、其後余已下執袈裟・大褂〈太

皇太后五巻日料所令儲、而依内裏穢彼日不被奉云々、〉授僧侶、大

殿布施生絹、褁帋、有等差、殿上人執之置各々前々、(中

略)余申剋許先退出、

(『小右記』寛仁二年(一〇一八)五月二十五日条)

  

廿五日、辛巳、(中略)今日入道殿卅講結願、仍参入、(中

略)被打鐘、摂政已下着堂前座、僧侶参入、講説・論義、

了被修諷誦、信乃百端、摂政已下行香、了中納言已下取禄、

件禄桑絲褁帋、上達部取之、頗以軽々、大納言不取、(中

略)各帋挿解文米欤、置請僧前、僧等退出、了摂政已下

起座(中略)臨晩罷出、

(『小右記』寛仁三年(一〇一九)五月二十五日条)

 

道長の元に参入後、少時あって打鐘し、摂政頼通以下が

堂の前の座に着く。僧侶が参入し、講説、論義を行う。そ

れが終われば、諷誦を修し、摂政以下が行香する。各人禄

を賜い、請僧に禄を賜う。僧が退出してから、摂政以下が

座を起ち退出する。次第は発願日と似ているが、結願日に

�0

は諷誦が修され、禄が配られる。諷誦は東三条院の法華二

十八講の結願日にも修されているので、それを踏襲したも

のであろう。禄は五巻日に捧物として捧げられたものを分

配する。結願後に公事が行われることもあったが、道長に

よって酒宴が儲けられることもあった。

 

寛仁二年の結願日は、未剋に始まって申剋に全ての次第

が終了し実資が退出している。この年の結願の儀式は二時

間ほどで、他の日よりも短い時間で結願日の儀式が終わっ

ているが、これはその前日、道長が「明日卅講結願可早之由」

(『小右記』寛仁二年五月二十四日条)を命じたため特別に

早く終了したものである。寛仁三年は「臨晩」とあり、日

の沈むころまで時間を要したというので、やはり結願日も

三、四時間を要する儀式が行われたものと考えられる。

   

四 

三十講の目的 

─講説・論義─

 

発願日、例講日、五巻日、結願日のすべてで行われるの

は「講説」と「論義」である。三十講の中心となるのがこ

の二つだと言える。この二つから三十講の目的、役割につ

いて考えてみたい。

 

講説とは、法華講や持仏供養などの仏事の中心となる行

事で、講師として招かれた僧が法華経の教えを講義するこ

とである。

 

長和元年(一〇一二)、当時病を患っていた道長はこれを

「寂後事」(『小右記』長和元年六月六日条)と述べた。この

年道長は病が悪化し、体調不良のまま三十講発願の儀式に

臨席したものの、「相府於宿所高声悩吟、満座傾耳、苦悩之

甚、聞者歎息」という有様であった。その後、実資の元に

届いた道長からの手紙には、「依年来願扶病向講説塲、忝被

過坐、喜申侍、今般講説寂後事也」と書かれていた。

 

道長にとって三十講の講説の場は、数年来の願によって、

病をおしてでも参加すべき場であった。講説が「寂後事」

と言われるのは、造寺造仏供養や法華講などの法会は多く

追修の為、人々の滅罪の為に行われること──つまり誰か

の死後成仏の為に行われることを基本としたからである。

たとえば法華八講でも講説は行われるが、例の少ない算賀

八講を除けば、追修・逆修・結縁八講は多く一族の菩提寺

で行われ、目的はともに滅罪、それに従う極楽往生を願う

法会であった。法会の中心は講説であるから、講説はその

為に行われるものであると考えられていたということであ

ろう。

 

道長が三十講によって死後になすべき講説を生前に行っ

ていると発言するということは、道長の三十講は、道長に

とっては逆修を目的とする法会であったということである。

��

法華講をはじめとする仏事を主催する者にとって、講説は

きわめて大きな意味をもっていたのである。

 

あらゆる法会の中心となるのが講説であるのに対して、

三十講における特色と言われる)

(((

のが論義である。

  

年ごとの五月には、やがてその月の朔日より始めて晦

日までに、無量義経より始めて、普賢経に至るまで、

法華経二十八品を、一日に一品を当てさせたまひて、

論義にせさせたまふ。南北二京の僧綱、凡僧、学生数

をつくしたり。やむごとなくおとななるは僧正、ある

は聴衆二十人、講師三十人召し集めて、法服配らせた

まふ。論義のほどなどいとはしたなげなりや、ここら

の上達部、殿上人、僧どもの聞くに、山にも奈良にも、

学問にかたどれるをば、老いたる若き分かず召し集む

れば、ただ今はこれを公私の交ひの始めと思ひ、召さ

るるをば面目にし、さらぬをば口惜しきものに思ひて、

学問をし、心あるは灯火をかかげて経論を習ひ、ある

は月の光に出でて法華経を読み、あるは暗きには空に

浮べ誦じ、ひねもすによもすがらに営み習ひて参り集

まりたるに、経を誦じ論義をするに、劣り勝りのほど

を聞しめし知り、この人々の僧だち勝負を定め、この

方知りたまへる殿ばらさし出でてのたまひなどして、

あるはうち笑ひなどしたまへるほど、めでたうも恥づ

かしげにも。�

(②一八八~一八九頁)

という『栄花物語』の書き方からして、講説よりも「論義」

が行われたことの叙述に重心がおかれていると見える。

 

論義は、講論・法問・問答とも言い、もとは寺院におい

て講師、読師の試験として始められたものであるが、のち

に宮中の年中行事である釈奠、御斎会に取り入れられて天

皇の御前でも行われるようになり、「内論義」と呼ばれた。

さらに陽成朝には皇族の季御読経にも取り入れられ、一条

朝には貴族の私邸での御読経でも行われるようになったと

言われる)

(((

 

当時、法華八講を含む法華講の次第には論義が取り入れ

られないのが普通で)

(((

、論義は、寺院で行われるものと年中

行事を除けば、造寺造塔の際の仏事で催される)

(((

程度のもの

でしかなかった。道長の三十講も、長保四年の上東門第文

殊堂供養が始発であるから、この年の三十講の次第は従来

の法華講に加えて、造寺造塔供養の次第を加えたものと考

えることもできるが、これでは造堂供養を目的としない例

年の三十講において論義が行われることの説明がつかない。

 

道長と同時代に行われていたと考えられている法華講の

中に、延暦寺東塔の三十講がある。この三十講の開始時期、

儀式次第などは判然としないが、山本信吉氏や阿部俊子氏

は道長の三十講の淵源をこれに求められている)

(((

。しかし、

��

講数の共通を主な理由として、延暦寺東塔三十講を儀式次

第に至るまでそのまま踏襲したために、三十講に論議が流

入したと断言するのはためらわれる。

 

道長の三十講には延暦寺僧(天台宗)と興福寺僧(法相宗)

が招かれることが多く)

(((

、論義の組み合わせも延暦寺僧と興

福寺僧を当てることが多いが、論義の判を行う証義には延

暦寺僧が重用された。山本信吉氏は「三十講の初期の時代

には、時の天台座主覚運の影響を無視することができない)

(((

として、覚運が、論義発展史上重要とされる良源)

(((

の法弟で

あり、『続本朝往生伝)

(((

』において「左相府三十講。常為証義

者」(五七三頁)と言われる人物であることを指摘されてい

る。『続本朝往生伝』のこの記述は、同じく延暦寺僧である

院源や慶命が数度に渡って三十講論義の証義を務めた)

(((

こと

と合わせて、道長が三十講の論議において延暦寺僧および

天台宗を重要視する傾向があったことを示している。

 

以上から、延暦寺僧らの論義重視の傾向と道長の天台仏

教への傾倒のために三十講に論義が組み込まれたのだと言

うことが出来よう。

 

この三十講の論義は、『栄花物語』に書かれるように、維

摩会講師を志願する僧の論争の場ともなり得た。長和元年

(一〇一二)には、

  

廿三日、己未(中略)続詣左相府、(中略)講師融碩、

問法修、両人有申維摩講師、仍今日決雄雌、討論之間、

證義者前大僧都院源・少僧都慶命不判是非、各称非自

宗之由、読師経救、而院源及相府、以経救令判定、再

三辞退、数度被責、仍申是非、諸僧不甘心、余所思者、

證者以学知自他宗法文奥義之人、可謂證者欤、今称不

知他宗事、極奇恠事也、天台宗僧等令

(マゝ)云、我宗今日虧

損面目云々、大僧都定澄今日不参、此座判定之間、依

有所思欤、法修問発難論義、融碩答不当之由、僧侶有

其気色、�

(『小右記』長和元年六月二十三日条)

ということがあった。ともに維摩会講師を希望する講師融

碩と問者法修が論義を行い、院源と慶命が証義として判を

行わねばならなかったが、二人はそれぞれ、興福寺僧融碩

の宗派が天台宗ではないために、これを判ずることができ

なかった。自宗他宗に関わらず、法文の奥義を知る人こそ

が論義の証義者たるべきであり、そうでなければ資質不十

分とされた。三十講は私の仏事であったが、この法会の論

義は延暦寺僧らの思想を反映したものだったために、極め

て仏教色の濃い行事たり得、僧等はその面目を懸けて論義

に臨まねばならないと認識されるに至ったのである。

 

道長の三十講において、論義が恒例のこととして行われ

たのは当時の延暦寺僧らの論義重視の風潮と、道長個人の

仏教への興味の反映であるが、それによって三十講は僧同

��

士がしのぎを削って仏教理解の深さを披露すべき場となり

得た。この三十講は、仏事としての性格と仏教学振興の場

としての性格を兼ね備えた法会だったといえる。それを聴

聞する貴族たちにとっても三十講は学識を深める機会のひ

とつとなったであろう。三十講は、滅罪のための法華講と

しての意味を持ちながら、在家の貴族の仏教理解や学識を

深める学術振興の場としての側面も持っていたのである。

   

五 

臨時行事 

─立義・諸道論義─

 

三十講は、講説と論義を行うことを常としたが、このう

ちの論義は、立義・諸道論義に代えられることもあった。

この二つは臨時行事であって恒例行事ではないが、三十講

の実態の一端を表すものとしてここで確認しておく。

  

1.立義

 

立りゆ

義うぎ

は「豎じ

義ぎ

」「竪り

義うぎ

」ともいい)

(((

、三十講期間中には、少

なくとも寛仁二年(一〇〇五)五月二十四日、翌三年五月

二十二日の二度催された。これは「法要の一部として学僧

の実力を試験するため、興福寺維摩会・延暦寺六月会・薬

師寺最勝会・法成寺法華八講などに行われた論義問答)

(((

」と

説明されるもので、広い意味では論義と大差なく見える。

しかし、儀式次第は論義と異なっており、やはり別のもの

として扱う必要がある。

 

三十講における論義は先に挙げた『小右記』長和元年(一

〇一二)六月二十三日条に見られるように、その日の講師

の講義内容について問者が難を発し、その難について講師

が解答するという形式、つまり延暦寺僧と興福寺僧が一対

一で対峙し、複数の証義がそれを判じて勝敗を決するとい

う形式である。

 

対して、立義の形式は、

  

以僧二人令立義、例講後、興福寺経救登高座、覚運僧

都所作 

五枚、天台僧五人問之、一枚落、一枚未判、

三枚得之、天台僧教円次登高座、澄心律師作 

五枚、

南京僧五問之、一枚未判、四得之、南京注記妙玄、山

注記懐命、儀式各相分、

(『御堂関白記』寛弘二年(一〇〇五)五月二十四日条)

  

着堂前座、立義者二人、〈天台教円、興福寺経救、〉探題小僧

都覚運・律師澄心、問者各五人、天台先問経救、三得、

一不、一未判、法相問教円、四得、一未判、臨秉燭事了、

右大臣修諷誦、

(『小右記』寛弘二年(一〇〇五)五月二十四日条)

の二つの記事から考えるに、いつもの講の後)

(((

、高座に登っ

た「立義者」一人に対して異宗の「問者」五人が一人一問

��

ずつ質問し、その立義者の解答の如何を「探題」が判じる

形式、つまり立義者一人が五人の問いに答え、立義者とは

異宗の探題一人がその解答を判ずるものである。探題が良

しとした解答は「得」、悪いものは「不」または「落」とされ、

判じ難いときは「未判」と処理された。なお「注記」とは

立義の内容を記す記録係である。さらにその後には諷誦が

修されている。

  

2.諸道論義

 

道長はこの三十講中に、仏教以外の諸道に優れた人物を

集めて論義させたこともあった)

(((

  

卅日、乙丑、明経・明法・笇等道博士・学生等令論義、

堂東簀子敷々円座二枚、為問答座、同渡殿為博士等座、

中嶋為学生等、講説了後、召諸道馬場賜饗、従中嶋引

参上着、先召大博士廣澄、令講孝経、為忠問了後、直

講善澄・前得業生(中略)学生三番問答了、明法三番

問答、其論義尤美也、允亮朝臣・允正等候、次笇道三

番問答、忠臣朝臣・敦等也、紀伝博士等候円座、

(『御堂関白記』寛弘四年(一〇〇七)五月三十日条)

 

諸道論議とは、明経道、明法道、算道の博士や学生らの

問答を行うことで、いつも行われる仏道論義の代わりに行

われた。

 

のち、頼通も三十講中に諸道論義を行った。

  

三日丙戌 

天陰降雨、早旦可聞食論義之由、告示明経

博士頼隆、明法道成、算博士雅頼等、悦我道繁昌矣、(中

略)入道太相府之時、卅講中間、有諸道論義、雖無先例、

乗時興事歟、最有興、亦有感。

(『左経記』長元八年(一〇三五)五月三日条)

 

これは頼通が三十講中に「明経算道之論義)

(((

」つまり諸道

論義を行うことを決定した翌日の記述であり、ここでいう

「論義」は諸道論義のことを指している。

 

道長のとき三十講中に諸道論義を行ったのは、先例のな

いことであったが、時代の興に乗って行われたものであろ

うと考えられている。諸道論義を告示された諸道の博士ら

は、我が学問の繁昌であると悦んだというのが注目される。

この諸道論義は博士・学生らを奮起させ、学術を振興させ

る役割を果たすものであったと考えられ、それは道長の諸

道論義においても同じだったろう。

 

立義、諸道論義ともに、論義同様に僧侶や博士・学生の

学識の深浅をはかり、学術を振興させる役割を果たした。

これらの行事は三十講の中心となるものではないが、道長

の幅広い学問への興味の反映であり、三十講の意義を深め

るものとして注目される。

��

   

六 

非時調進者

 

三十講の主催者である藤原道長の『御堂関白記』には、

三十講の行事次第や出来事についての記事は少ないが、法

会に集まる公卿・上達部の人数については、

  

廿二日、辛巳、(中略)卅講結願如常、此間日々上達部

被座、少時六七人、多時十三四人、自例年今年倍、

(『御堂関白記』寛弘五年(一〇〇八)五月二十二日条)

などの記述があり、その一部を知ることが出来る。上達部

だけでこの人数であれば実際に法会に参加している中下級

官吏は甚だ多かったと予想されるが、年を経るにつれ、参

会者の名を記さなくなる。

 

実際に法会を運営する立場にあった道長が、三十講期間

中もっとも頻繁に書き記しているのが、非時調進者の名前

である。『御堂関白記』の記録がない年は自然、非時調進者

の記録が少なくなるし、道長にしても非時調進があるたび

に名前を書き記しているわけではないので、年によって詳

しさがまったく異なるが、参考までに『御堂関白記』『権記』

『小右記』『左経記』に見える非時調進者名一覧を〈表Ⅴ〉

として挙げておく。

〈表Ⅴ〉非時調進者(( 

)内は該当年の官職など)

  

長保四年 

藤原道綱(大納言・春宮大夫・異母兄)

    

五年 

不詳

  

寛弘元年 

源奉職、源高雅(讃岐守)、藤原能通(淡路

守)、藤原陳政(播磨守)、高階業遠(丹波守)、

藤原知章(近江守)、源済政(信濃守)、藤

原行成(右大弁)、源経房(左頭中将)、藤

原説孝(左中弁)、佐伯公行、高階明順(伊

予守)

    

二年 

藤原知章(近江守)、高階業遠(東宮[三条]

大進)、多米国平(家司)、藤原頼親(左中将)

    

三年 

藤原道綱(大納言)、藤原懐平(左兵衛督)、

藤原陳政《等十余人》

    

四年 

源頼親(大和守)、《度々有非時》

    

五年 

藤原頼親(内蔵頭)、源高雅(近江守)、多

米国平、平生昌、源政職、藤原方正、高階

明順、藤原知章

    

六年 

藤原正光(大蔵卿)

    

七年 

源頼光(但馬守)、平生昌、多米国平、平貞

中、橘為義(摂津守・家司)

    

八年 

平生昌、藤原知章(近江守)、藤原信経(越

後守)、藤原惟憲(家司)

��

  

長和元年 

不詳

    

二年 

橘儀懐(備中守)

    

三年 

不詳

    

四年 

源国挙(但馬守)、藤原惟憲(近江守)、源

済政、源頼光(内蔵頭)、藤原済家(家司)、

藤原惟任(丹後守)

    

五年 

藤原惟憲(近江守)、藤原廣業(播磨守)、

藤原済政(讃岐守)

  

寛仁元年 

源済政(讃岐守)、藤原廣業(播磨守)、藤

原知光(備中守)、源頼光(内蔵頭)、藤原

頼任(丹波守)

    

二年 

源済政(讃岐守)、藤原惟憲(近江守・春宮

亮)、平維時(常陸介)、藤原泰通(美濃守)、

藤原廣業(播磨守)、源経相、藤原頼任(丹

波守)、大江清通(太皇太后宮亮)、源頼光、

藤原知光(備中守)、

    

三年 

藤原頼任(丹波守)《倍例年》

    

四年 

源頼光(内蔵頭)

  

治安元年 

源経頼

    

二年 

不詳

    

三年 

不詳

  

万寿元年 

不詳

    

二年 

不詳

    

三年 

不詳

 

「非時」は非時食の略で、僧の午後の食事をいう。法会

の非時は主催する人間の近親者が用意することが多い)

(((

が、

道長の三十講のばあいは、初期に見られる藤原道綱、行成、

懐平、頼親らを除くほぼ全員が受領層の人間で占められて

いる。史料の精粗もあるので一口では言えないが、おそら

く毎年十人近い人数が非時を調進していたのではないかと

考えられる。

 

非時調進者の名は日ごとに書かれることが多いので、一

日分の非時を一人で調進したのであろう。三十講の非時調

進者には、紙や絹や机、装束や牛馬など引き出物まで用意

している者もいる。「頼任朝臣非時、夜装束・紙・饗如常」(『御

堂関白記』寛仁元年五月二十五日条)という道長の書きぶ

りからして、食事ばかりか僧に関する賄い全般を担当する

のが非時調進者の義務と見られ、その用意は大きな負担だっ

たと思われる。

 

また、非時調進者の任国を見れば、伊予国や丹波国、播

磨国など富裕な国が多い。それほど恵まれた国でなければ

三十講の非時は担当できなかったとも、非時を調進するか

らこそ富裕の国に任じてもらうことができるとも言える。

非時調進は、大国・上国に任じてもらう代償として、道長

��

に対して行わねばならない奉仕行為であり、それは受領に

とって成功に他ならない行為であった。非時調進の実態は、

道長と受領層が非時を通して主従意識を明確にし、恩恵を

与え合っていたということを示している。

 

当時の中・下級官人には、労働に奉仕し節制してなお、

法華八講を一度催すのが精一杯であったという実情)

(((

から考

えれば、毎年行われるこの三十講の盛大さは異常でさえあ

る。事実三十講は、道長と頼通以外の貴族に主催されるこ

とがない)

(((

 

三十講が甚大な経費を要した法会であろうことは、『御堂

関白記』に頻繁に記される非時調進者の名や、調進した物

品の料からも明らかである。道長といえど、財力のある受

領からの成功がなければ経営が難しかったのであろう。道

長以外の貴族は催すだけの財力や権力をもち得なかったた

めに催すことが出来なかったのであり、それは三十講を毎

年催すことのできる道長の権力の大きさを証左する。三十

講は、朝廷の政治権力を一手に掌握した道長だったからこ

そ営むことのできた法会であったと言え、極めて仏教的な

催しでありながら、その反面、道長の権力を誇示する政治

的な面を持つ催しでもあったのである。

   

おわりに

 

道長の三十講は、法華八講や二十八講など先行する法華

講の流れを受け継ぎ、法華経二十八品に開結二経を加えた

三十座の法会で、五月に行われることを基本として長保四

年(一〇〇二)から万寿三年(一〇二六)まで二十五年間

欠くことなく行われた。

 

三十講は、長保四年の上東門第文殊堂供養を契機として

始められた法会で、在家の人間の滅罪を目的としたもので

あった。一座にかかる時間はおよそ三時間、儀式次第など

は法華八講にほぼ準じたが、その特色は論義にある。本来

法華講で行われることのなかった論議を次第に組み込んだ

のは、道長の法華経と仏教──とくに天台仏教への興味の

反映であるが、それによって三十講は、参加した僧の仏教・

経典に対する理解が試される場となり得た。この論義が組

み込まれたために、三十講は、僧侶らの仏教学理解、さら

に一般貴族の法華経理解を深め、学術を振興させる役割も

果たす文化的な法会となったといえる)

(((

 

また、その盛大な法会を経済面から支えたのが非時調進

者たる受領であった。道長の権力に追従する受領の成功に

よって道長の三十講は運営されていたのである。三十講は、

道長の深い信仰心と比類無い権力を象徴する法会でもあっ

��

た。

 

法華八講さえ催しかね、またその功徳は一度であっても

成仏に足ると信じていた当時の大多数の貴族や女房からす

れば、まさしく道長の三十講は「現世は御寿命延び、後生

は極楽の上品上生に上らせたまふべき」催しであり、その

功徳のほどを信じないものなどいなかったであろう。政治

的にも文化的にも大きな意味をもつ三十講の在りようは、

『栄花物語』巻十五〈うたがひ〉で賞賛する道長の姿を端的

に表す材料に相応しい。道長の半生を総括するにあたって、

政治家として仏教者として、両面からの賞賛に値する事蹟

として、『栄花物語』は三十講を描写することを選んだので

ある。

��

〈表

Ⅰ〉

道長

の法

華三

十講

主催者

開催年

発願日

五巻日

結願日

総日数

史料

備考

藤原道長

長保4年(�00�)

3月1日

3月��日

4月1日

�0    権

3月は小の月

長保5年(�00�)

5月1日

5月��日

    権

寛弘1年(�00�)

7月3日

7月��日

7月�0日

��御   権

寛弘2年(�00�)

5月4日

5月��日

5月��日

��御、小、権

寛弘3年(�00�)

5月2日

5月��日

5月��日

��御   権

寛弘4年(�00�)

5月9日

5月�0日

閏5月8日

�0御   権

寛弘5年(�00�)

4月��日

5月5日

5月��日

�0御   権、紀

寛弘6年(�00�)

4月��日

5月9日

5月��日

��御   権、紀

4月は小の月

寛弘7年(�0�0)

5月4日

5月��日

5月��日

��御   権

寛弘8年(�0��)

5月5日

5月��日

5月��日

��御   権、紀

五巻日、��日に行う予定だったが雨の為延引

長和1年(�0��)

6月6日

6月��日

7月5日

�0御、小

長和2年(�0��)

5月4日

5月��日

御、小   紀

長和3年(�0��)

5月1日

5月8日

5月��日

��  小   紀

長和4年(�0��)

5月1日

5月��日

5月��日

��御、小

長和5年(�0��)

5月1日

5月7日

5月��日

��御、小   紀、左

故業遠朝臣高倉第にて修す

寛仁1年(�0��)

5月1日

5月��日

5月��日

��御

寛仁2年(�0��)

5月1日

5月��日

5月��日

��御、小

寛仁3年(�0��)

5月1日

5月��日

5月��日

��  小

寛仁4年(�0�0)

6月��日

7月��日

��御、小

道長病の為、5月から延引

治安1年(�0��)

5月1日

      紀、左

治安2年(�0��)

8月��日

8月�0日

  小(目)、紀

7月、法成寺供養

治安3年(�0��)

9月�0日

9月�0日

9月�0日

��  小   紀

万寿1年(�0��)

5月4日

5月��日

��      紀

万寿2年(�0��)

�0月1日

�0月7日

�0月��日

��  小     左

夏秋障り有り、延引 欠日の為、結願日を一日早める

万寿3年(�0��)

9月8日

9月��日

9月��日

��  小   紀、左

(参考)

藤原頼通

長元2年(�0��)

8月4日

8月��日

8月��日

��  小

長元3年(�0�0)

7月�0日

       紀

前伊予守済家第にて修す

長元4年(�0��)

5月5日

5月��日

5月��日

��        左

長元5年(�0��)

5月��日

5月��日

5月��日

��      紀、左

長元6年(�0��)

5月7日

      紀

長元7年(�0��)

5月5日

      紀

長元8年(�0��)

4月�0日

5月��日

��      紀、左

高陽院水閣歌合

長元9年(�0��)

7月��日

        左

史料略称一覧;御=御堂関白記、小=小右記、小(目)=小記目録、権=権記、左=左経記、紀=日本紀略

�0

注(1�

)『栄花物語』の引用は新編日本古典文学全集『栄花物語』(全

三巻)により、以下書名を省き、小学館新編日本古典文学全集

の巻数と頁数のみを示す。

(2�

)『三宝絵』の引用は新日本古典文学大系『三宝絵 

注好選』

による。

(3�

)山本信吉「法華八講と道長の三十講(上)」(『仏教芸術』七十

七号、一九七〇年九月)

(4�

)山本信吉「法華八講と道長の三十講(下)」(『仏教芸術』七十

八号、一九七〇年十一月)

(5�

)山本氏の述べられる「一品講」の解釈については注意が必要

である。法華経二十八品を、一品を一巻に書写したものを「一

品経」という。この書写した一品経を供養する法会を「一品経

供養」といい、一日の内に法華経二十八品と開結二経の内容を

講説した(法華一品経供養の様子は『栄花物語』巻第十六にく

わしい)。氏のいう「法華一品講」は、法華経二十八品を一座

一巻ずつ講ずる法会を指しているものと考えられるが、法華二

十八講と一品経供養とは別の法会である。

(6�

)『日本紀略』の引用は新訂増補国史大系により、以下、書名

と当該条の年月日のみを示す。

(7�

)『小右記』の引用は大日本古記録により、以下、書名と当該

条の年月日のみを示す。傍書などがある際は適宜表記を改める。

(8�

)『権記』の引用は増補史料大成により、以下、書名と当該条

の年月日のみを示す。

(9�

)『栄花物語』巻第八〈はつはな〉には「五月には例の三十講

など、上の十五日勤めおこなはせたまひて」(①三七四頁)と

あり、必ずしも三十日間行われるものでもなかったことが示さ

れている。なお、この記事が相当する寛弘三年(一〇〇六)は、

五月二日から二十五日まで二十四日間行われており、事実とは

齟齬している。また、開経についての記録は見られないが、結

経が「観普賢経」であったことは『権記』長保四年(一〇〇二)

四月一日条から確認される。

(�0�

)今成元昭「法華八講の『日』と『時』─古典解読のために─」

(『立正大学人文学研究所年報』三十一号、一九九四年三月)に

詳しく述べられている。

(���

)三十講開始年については、山本信吉氏が前掲(4)の論文に

おいて

    

� 

道長の三十講の開始時期を果たして長保四年としてよい

のか、史料の制約もあって明言をはばかるが、『権記』に

よれば、この年三十講の始められた三月一日は、道長の里

第、土御門第の新堂に釈迦三尊・弥陀三尊の安置された日

であること、つまり新堂の完成を期して、三十講が開始さ

れたとみることができること、また、この前年閏十二月、

道長の最大の被護者であった東三条院詮子が崩御してお

り、それと三十講の史料初見との有機的関係がみられ直接

の願趣は詮子追善のためと考えられること、また『僧綱補

任』長保四年項に「長者家始三十講」の朱書注記があり、

その根拠は明らかでないが、何らかの典拠をもつとみられ

ることなどを挙げることができる。

  

と指摘されている。

(���

)平安時代に作られ、かつ現存する願文名を一覧できる資料と

して、山本真吾「平安時代の願文に於ける冒頭・末尾の表現形

��

式の変遷について」(『広島大学文学部紀要』四十九号、一九九

〇年三月)に附属している「平安時代願文一覧稿」が有益である。

平安時代において、願文は寺・塔・仏・曼荼羅・経などの供養、

追修・逆修・算賀・千日講などの講、施入、寺社参拝の際に作

られるものであったことが分かる。

  

� 

しかし、追修を目的とする全ての法会で毎回願文が作られて

いたかについては疑問である。中でも、円融院御八講など、恒

例化した法会には願文は制作されていなかったのではないかと

見られる。追修法会のうち、四十九日、周忌願文の作例は多く、

それらの節目には必ず作られたものと思われるが、『小右記』『御

堂関白記』には恒例化した法華八講で願文が修されたとする記

録はみられない。

(���

)『左経記』の引用は増補史料大成により、以下、書名と当該

条の年月日のみを示す。

(���

)『小右記』寛仁四年(一〇二〇)七月十日条に「未一剋参卅講所、

上東門第、入道殿自無量寿院歩行渡給」とある。長和五年(一

〇一六)だけは「故業遠朝臣高倉宅」(『左経記』長和五年五月

一日条)で修されたが、これは前年の内裏焼亡により上東門第

が東宮御所とされ、そのまま一月二十九日には後一条天皇が即

位、六月二日に一条院に遷御されるまで里内裏として使用され

ていたためである。

(���

)五月以外に行われた年のうち、理由の判明するものを挙げて

おく。初例とみられる長保四年(一〇〇二)は、道長の新堂供

養の意味も兼ねたためである。また、寛仁四年(一〇二〇)は

道長の病の為、五月から延引された。十月に行われた万寿二年

(一〇二五)も、夏秋の間は差し障りがあったために延引され

たのであった。以上二点は『小右記』から確認される。治安二

年(一〇二二)は八月に行われたが、池田尚隆氏が「おそらく

は七月十四日の法成寺金堂供養のためであろう」(池田尚隆「藤

原道長の出家と『栄花物語』」、山中裕編『王朝歴史物語の世界』

一九九一年六月、吉川弘文館所収)と述べられているのに首肯

したい。

(���

)『小右記』万寿二年十月十三日条による。十四日間で終わら

せるために最後二日は三座ずつ講を行った。

(���

)『御堂関白記』寛弘五年五月五日条による。なお『御堂関白記』

の引用は大日本古記録により、以下、書名と当該条の年月日の

みを示す。

(���

)毎回の論義の内容については、『権記』長保四年四月一日条(結

願日)に「定基講観普賢経、遍救問」とあることから、その日

に講じた経──発願日なら観無量寿経、五巻日なら法華経提婆

達多品第十二──の内容や教義理解の在り方について討論した

ものと考えられる。

(���

)公事と重なる為、例外的に早い時間に行われた例もある。

  

�  

一日、甲辰、早旦資平来云、摂政殿三十講、巳剋始、午時

内春季御読経発願、申時上皇令登山給、

(『小右記』長和五年(一〇一六)五月一日条)

  

� 

『左経記』同日条も同じく巳剋に始まったと記している。午

時に参会者は内裏に向かったと『左経記』にあるので、この日

の法会は二時間かからずして終わったことになる。

(�0�)『拾芥抄』上、十二時異名部第六に「黄昏戌」とある。

(���)『小右記』長和元年(一〇一二)五月十六日条による。

(���

)松尾恒一「藤原道長法華三十講の特質─釈教歌成立の基盤の

��

一つとして─」(『日本文学論究』四十五号、一九八六年三月)。

(���

)前掲(��)の論文によれば、季御読経における論義は陽成朝

に始められたものであるが、一条朝において未だに臨時の催し

と考えられていたという。

(���

)法性寺八講や法興院八講、慈徳寺八講で論義が行われたとい

う記録は見えない。例外的に、仁明天皇が清涼殿において三日

間の法華講を催し、三論宗・法相宗・天台宗の僧等に論義(宗

論)を行わせ、それを簾越しに聴かれたという例(『続日本後

紀』嘉祥三年(八五〇)二月二十一日条)、村上天皇が勅命を

出して清涼殿に行った五日間の法華八講で、天台宗良源と法相

宗法蔵に「一切衆生皆成仏理」について論義を行わせた例(『扶

桑略記』応和三年(九六三)八月二十一日条)がある。しかし、

これはらいずれも天皇個人の仏教興味の反映であると思われ、

同時代に行われていた法華講に論義が組み込まれるなどの影響

を与えなかった。毎回の講後に論義が行われたものではないら

しいことからも、釈奠や御斎会などで行われていた内論義の延

長に位置づけることが出来よう。

  

� 

長和元年五月皇太后宮彰子が行った枇杷殿八講や毎年六月の

円教寺御八講のような、一条天皇の為の法華八講の際には「講

説・論義・行香等如例」(『小右記』長和四年六月二十二日条)、

「講説・論義・御誦経等如例」(『小右記』同五年六月二十二日条)

とあり、論義が行われることを常とした可能性があるが、これ

らは道長の法華三十講で論義が行われるようになって以降の例

であるから、むしろ三十講で行われていた論義が法華八講に流

入したものと考えられる。

(���

)造寺・造塔の際の仏事は御斎会を範として行われることが度々

あったためである。松尾恒一氏は前掲(��)の論文において、「こ

の時代、道長の他の法会を含め種々の法会が御斎会に准じて行

われており、道長の三十講も御斎会に准ずる意識が強かったこ

とが考えられる」と述べられ、その例として長保元年七月二十

四日慈徳寺会、寛弘二年十月十九日木幡浄妙寺三昧堂供養、万

寿元年六月二十六日法成寺浄瑠璃院供養、治安二年七月十四日

法成寺金堂供養を挙げておられるが、これらはいずれも造寺造

堂供養に関する記事である。

(���

)延暦寺東塔三十講と道長の三十講については、山本信吉氏が

前掲(4)の論文において、永延二年(九八八)性空の書写山

における六月会が三十講として行われたことを挙げ、

    

これは(大谷注・永延二年(九八八)の性空の六月会は)

叡山における三十講を継承したものとみられ、(大谷注・

延暦寺東塔三十講は)天台寺院で十世紀後半には行われて

いたと推定される。従って詮子の二十八講はその影響によ

るものであろうが、道長もともに一品講の聴聞を受けてい

たらしい。(中略)道長が三十講を行なった思想的基盤は、

いわば詮子によって築かれていたとみることができる。

  

と述べられ、阿部俊子「藤原道長と法華経」(『日本文芸論集』

一五・一六号、一九八六年十二月)においても

    

� 

祖父師輔が誠心の祈願を捧げた叡山の、東塔に行われる

厳しい法華三十講を、そのままに私邸で行って、祖先たち

の追善供養をするとともに、一家の滅罪生善を深く祈った

と思われる。

  

と指摘されている。三十講が始められる以前から延暦寺東塔三

十講が行われていたという確実な記録及びその儀式次第を記し

��

たものは管見の限りなく、「東塔に行われる厳しい法華三十講」

を、儀式次第に及ぶまでそのまま行ったという確証はない。

  

� 

しかし、道長が三十講を開始するにあたって延暦寺東塔三十

講から影響を受けた可能性は大いにあり、その存在は看過でき

ない。

(���

)三十講に招かれた僧の人数は、『御堂関白記』長和二年(一

〇一三)五月四日条に「請僧廿一口、證者五人、講十六人、須

有十五人」、『左経記』治安元年(一〇二一)五月六日条に「證

誠二口、〈山座主卅石、法性寺座主廿五石、〉講師十五口、〈実撰僧都、

懐寿、明尊、□大律師等、各卅石、遍救、貞円、垣舜、椅源、頼円、念

寿、真範、永昭、忠命、頼縁等、各十五石、〉」、同万寿三年(一〇二六)

九月八日条に「證誠三人、講師十五人」とあることから、証義

数名と講師十五人を基本としたことが知られる。また、『左経記』

長和五年(一〇一六)五月一日条には請僧の名が所属する寺院

とともに書き記されている。この年参加した僧のうち、院源・

慶命・林懐・心誉・日助・明尊・垣舜・蓮照・順命・良胤の十

人は延暦寺、僜上・智算・遍救・延妙・尊延・融碩・経救の七

人は興福寺、済慶は東大寺の僧であった。講一座につき、これ

ら請僧のうちの二人が選ばれて論議を行ったのであろう。

(���

)前掲(4)に同じ。

(���

)前掲(��)に同じ。

(�0�

)『続本朝往生伝』の本文は日本思想史大系による。

(���

)『小右記』長和元年六月二十三日条、寛仁二年五月一日条。

  

� 

『御堂関白記』には論義の僧の組み合わせが見えないので、

参考までに『権記』『小右記』『左経記』から確認される組み合

わせを挙げると以下の通りである。

  

長保四年(一〇〇二)三月十八日  

講師院源、問者林懐

            

四月一日   

講師定基、問者遍救

  

長保五年(一〇〇三)五月一日   

講師朝為、問者日助、

                   

証義院源・林懐

  

長和元年(一〇一二)六月六日   

講師懐寿、問者実誓

              

九日   

講師融碩、問者日如(助)

              

二十三日 

講師融碩、問者法修、

                   

証義院源・慶命

  

長和三年(一〇一四)五月一日   

講師懐秀、問者実誓

  

寛仁二年(一〇一八)五月一日   

講師懐寿、問者明尊、

                   

証義院源・慶命・心誉

              

七日   

講師遍救、問者教円

              

十三日  

講師定基、問者実誓、

                   

証義「三人」

                   

(院源・慶命・心誉か)

              

二十一日 

講師順命、問者教円

              

二十五日 

講師明尊、問者実誓

  

寛仁三年(一〇一九)五月一日   

講師懐寿、問者明尊

              

十三日  

講師懐寿、問者定基

  

万寿三年(一〇二六)九月二十三日 

講師教円、問者永照

(��)ここでは当時の史料の表記に従って「立義」で統一する。

(���

)中村元『佛教語大辞典』縮刷版(一九七六年五月、東京書籍)

による。

(���)『御堂関白記』の「例講」の語の解釈によって、この立義が

論義の代わりとして行われたものか、三十講とは別の仏事とし

て論義の後に行われたものか、という違いが生じる。俄には断

��

定し難いが、終了時刻は「臨秉燭」で、およそいつも通りの時

間に終了していると見られることから、論義の後に行われたも

のではないと考えられる。ここでは「例講」を「いつもの講説

の後」の意と解釈し、立義は論義の代わりに行われたと見た。

(���

)道長主催の三十講において、諸道論義は一度しか行われなかっ

たようである。

(���

)『左経記』長元八年五月二日条。

(���

)たとえば『栄花物語』巻第二十六〈楚王のゆめ〉を見ると、

小一条院妃だった道長女寛子の四十九日法会の僧前を、小一条

院は同母弟である「式部卿宮、中務宮など」(②五三一頁)に

用意してもらおうと判断しており、四十九日当日にはさらに寛

子の異母兄である「関白殿、内大臣殿」(②五四〇頁)も僧前

を用意したと見える。

(���

)『菅家文草』巻十一「為二大枝豊岑・真岑等ガ一先妣周忌法会願

文」は「正六位上大江朝臣豊岑等」が「父母先霊」追善の為の

「甚深無量之義」を説く法会を行うにあたって、「於レ是或耕或

耨、且紡且績。一家之中、資用僅備レリ。既而半破二蘆簾一、不レ

改二舒巻之處一。已穿二紙閣一、楢ホシ同ジ二開

之時ニ一。」という有様

だったとを述べている。誇張はあろうが、当時の実態の一端を

伝えるものとして注目される。なお、『菅家文草』本文は日本

古典文学大系によった。

(���

)十二世紀には法勝寺三十講などの法華三十講が行われたが、

これは寺で行われる法会で、道長や頼通の三十講のように貴族

の私邸で行う法会とは性質を異にしていた可能性が高く、別に

考える必要があるので同一のものとして扱わない。

(�0�

)『栄花物語』は、藤原公任撰『和漢朗詠集』ならびに藤原公

任の私家集『公任集』に収められる漢詩や和歌を引用して、三

十講の雰囲気が文学的あはれを備えたものだったことを伝えよ

うとしている。このことから、道長の三十講に『源氏物語』執

筆の仏教的教養基盤を求める研究もなされている。

  

� 

道長の三十講の存在を釈教歌の発展史上重要とする研究もあ

るが、史料において三十講期間中に歌会を催したと形跡はない。

道長と釈教歌(法華経二十八品和歌)との関係を考えるにあたっ

ては、初めて法華経を題として催された歌会に作られた序であ

るという『本朝文粋』巻十一、藤原有国「讃法華経廿八品和歌序」

などの資料があるが、この歌会も三十講とは関係がないようで

ある。また期間中に催された作文会も「以雨為水上緑為題、韻

流」(『権記』長保五年(一〇〇三)五月一日条)、「題山是似屏風、

以晴為韻」(『御堂関白記』寛弘八年(一〇一一)五月七日条)、「題

池水澄如潭」(同十七日条)など、仏教とは関係のない題であっ

て、いずれについても三十講との直接の結びつきは感じられな

い。

��

はじめに

  

(一)

 

武士論研究の多くは、成立を論じるものや存在形態を論

じるものなどを問わず、武士団による在地支配の展開を前

提として、その内実や展開過程の追究に主眼が置かれてき

た(1)。

そのような研究の諸潮流にあって、小鹿島橘氏は分析

の対象として等閑視されてきたように思われる。それは、

小鹿島橘氏一族が源頼朝から出羽国小鹿島に所領を与えら

れながら、そこを中心とした在地支配を展開したとは言え

ず、さらに、伊予国宇和郡の所領の支配権を貴族である西

園寺家に奪われた(

2)というように、在地支配の展開という視

点からするとネガティブな印象を与える経緯をいくつも

辿ったことから、従来の武士論研究においては消極的な扱

いとならざるを得なかったためであると思われる(

3)。

 

しかし近年、武士論研究は武士の在地支配や武士が貴族

と対立するような側面よりも、貴族社会の一員として武芸

や交通・流通といった社会的機能の担い手としての側面に

注目することで大きく進展した(

4)。

また、内乱の動向を規定

した一族内や近隣諸地域における対立構造の分析なども進

められた(

5)。そしてこれらの視角は、小鹿島橘氏を再評価す

る上でも有効なものであると思われる。

 

そこで、本稿では小鹿島橘氏に関する基本的な史料を取

り上げ、それらを近年の武士論研究の動向に照らして読み

直し、その作業を通じて小鹿島橘氏を鎌倉幕府成立史のな

かに位置付け直してみたいと思う。

  

(二)

 

鎌倉幕府成立期の小鹿島橘氏を正面から取り上げたほと

んど唯一の研究は、塩谷順耳氏の「武士団の東北移住─橘

氏(小鹿島氏)を中心に」である(

6)。

まずはこの研究を手掛

かりとして問題の所在を探りたいと思う。

 

この研究のなかで塩谷氏は、最初に鎌倉時代初期の武士

の移住について触れている。いずれも鎌倉幕府の影響下に

あったとするそれらを、①土着するものと、②在地性を全

く持たないものに分類した。このうち、②には「移住」の

小鹿島橘氏の治承・寿永内乱 ─鎌倉幕府成立史に寄せて─

岩 

田 

慎 

��

言葉はあてはまらないとしているが、小鹿島氏もこの②に

分類されるという。

 

また、小鹿島橘氏が自らの先祖と称する橘遠保について

は、藤原純友追討で活躍し、遠江掾や伊予国警固使などの

経歴を持つことから、その勢力の性格は前伊予掾藤原純友

とも変わらないという。また、この純友追討の際に伊予国

宇和郡内に功田を与えられ、それが代々相伝されて宇和荘

へと受け継がれるのであろうとした。

 

遠保から公業に到るまでの橘氏は「在京型の国衙官僚・

荘官」に終始したといい、そうであるならばその特徴は畿

内周辺の武士団に共通であったという。また、勢力の形成

過程が主として国衙を中心としたものであり、それを維持

していくための力が律令制的な権威であったとしている。

それゆえ、のちに小鹿島公業が「子孫代々」相伝したとい

う伊予国宇和郡の所領も、一族で居住したのではなくそこ

に代官を派遣して経営していたであろうという。

 

このように、国衙官僚と荘官とを兼任し、嫡流は在地経

営の経験がなく、伊予国に成長した河野氏のような在地土

豪との関係性も希薄であり、治承・寿永内乱期に公業が四

国武士に下知するにも頼朝の下文が必要であった点などか

ら、橘氏のもとには所領を中心とした強固な武士団が組織

されていなかったと結論付けた。

 

治承・寿永内乱期、橘氏は平知盛家人であったことが知

られるが、六波羅政権(平家政権)が地方武士を積極的に

組織・統制したわけではないとするところから、知盛との

主従関係も内乱勃発の前後ではないかと推測している。橘

氏は在京経験が長く平家の凋落をよく見通していたとする

が、それはともかく、橘氏は「在京的性格」を系譜としてもち、

伊予国宇和郡に本領を有しつつ早くから鎌倉幕府に参加し

ていた。このような点に注目し、「鎌倉政権は関東武士団の

みならず質の点では畿内武士団をも包摂した多元的性格を

もつ」と指摘している。

 

奥州合戦の後に橘氏が得た所領は、桃川、吉田、楊田、豊巻、

百三段、滝河、磯分、大島、沢内、湊、湯河という地域であり、

これらは、「生産的色彩よりも交通上、戦略上の要素をもつ

地域」であったという。また、このような交通・戦略の要

衝の重視は、奥州合戦後の御家人の配置の路線と概ね合致

したものであるという。しかし、橘氏は出羽国に所領を得

てもそこには下向せず代官を派遣していたという。前代と

同様、橘氏(小鹿島氏)は在地経験もその志向そのものも

薄く、在地勢力拡充の必要もないのだという(

7)。

 

鎌倉幕府内において橘氏は、「馴京之輩」として頼朝以降

の源氏将軍家に重用されるが、幕府の中心が北条氏に移っ

てゆくに従い幕府との関係は総体的に低下したと推測され

��

るといい、また、東北の所領は北条氏との関係が深い安東

氏らに取って代わられたであろうとしている。

 

以上が小鹿島橘氏に関する塩谷氏の研究の概要である。

次にそのなかでいくつか注目すべき論点を整理してみたい。

  

(三)

 

まず、「移住」という言葉が当てはまるか否かの指標とし

た武士団の在地性であるが、それを指標に用いること自体、

塩谷氏が研究を発表した当時の学界における非在地性の武

士に対する消極的な評価が伺われる。在地性の強弱は武士

団の評価にどのような影響を及ぼすのであろうか。この点

に関して、橘氏が在京型の国衙官僚・荘官として律令制的

な権威に依拠しつつ、国衙を中心として勢力を形成してき

たとする指摘は示唆的であろう(

8)。

 

国衙との関係という問題については、治承・寿永内乱の

一時期、屋島を拠点とした平家の讃岐国支配が讃岐国衙支

配の在り方にも大きな影響を及ぼしたとの指摘もあるが(

9)、

四国の諸国衙と関係が深かったとされる橘氏にもその影響

が強く及んでいたはずである。

 

また、このような橘氏をも構成員として含み込んだ鎌倉

幕府の性格について、関東武士団のみならず質の点では畿

内武士団をも包摂した多元的性格をもつとした点にも注目

したい。

 

橘氏の所領の特質が「交通上、戦略上の要素」を持つも

のであるとした点については、小鹿島橘氏と西園寺家との

間で支配権が争われた伊予国宇和郡を、畿内から九州方面

に向かう海上交通の要地であると評価した網野善彦氏の指

摘が示唆的である)

(((

。この点も、橘氏をはじめとする当時の

武士の存在形態を考える上では重要な問題であると思われ

る。

 

以上、塩谷氏らの業績に学びつつ問題の所在を探ってき

た。これらの点に留意しながら、小鹿島橘氏に関する史料を、

治承・寿永内乱以前、内乱期、鎌倉幕府成立後の三期に分

けて検討していきたい。その検討の先に、武士論研究にお

ける小鹿島橘氏)

(((

の再評価、さらには内乱を経た鎌倉幕府の

成立史を再考する手掛かりが得られればと思う。

第一章 

内乱以前の橘氏

  

(一)

 

治承・寿永内乱以前の橘氏について、多くのことはわか

らない。「はじめに」でも紹介した塩谷氏は平将門や貞盛、

藤原秀郷らとも共通した出身階層で、律令制的な権威に依

��

拠しつつ在京型の国衙官僚・荘官として国衙を中心として

存在していたとするが、その根拠の一つが『日本紀略』天

慶七年(九四四)二月六日条であろう)

(((

。この記事では「美

濃介」である橘遠保(小鹿島橘氏が自らの祖と主張する人物)

が「宅」に帰る途中で斬殺されたとある。これは遠保が京

に持っていた「宅」と見てよいだろうから、橘氏はこの「宅」

を拠点として、各地の国衙を中心に活動する受領やその郎

等などを務めていたと思われる。

 

この時代の受領やその郎等の存在形態を教えてくれる史

料に、『新猿楽記』の「四郎君」の項目がある)

(((

。この「四郎君」は、

国司の配下にあってそれを補佐する人物、すなわち受領郎

等として紹介されている。受領郎等の「四郎君」は、「乗船」・

「騎馬」に達者で「六十餘国」を隈無く巡り、「弓箭」や「算

筆」の技能を充分に備え、「作法」・「儀式」にも通じていた

という。このような能力を駆使して「庁目代」以下の国衙

の諸所に勤務し、受領の国内経営を支えたという。国司の

配下としての活動を通じてその「宅」(この「宅」も京にあ

ると想定されていたのであろう)は大いに賑わい、「諸国土

産」が集まることで「貯甚豊」であったという。

 『新猿楽記』に描かれる「四郎君」はこの時代の受領郎等の、

いわば理想像であろうから、ここで描かれている姿がその

まま橘遠保にも当てはまるとは言えないかもしれない。し

かし理想化された姿であるゆえに、この時代の受領郎等の

様々な存在形態を端的に示してくれていると見ることも可

能である。そして、このような「四郎君」に象徴される受

領郎等の存在形態は、中世社会における武士の存在形態と

の間にいくつもの共通点が見出しうるのである)

(((

 

一方、わずかながら古記録にも、のちに小鹿島氏を名乗

る橘氏と同族とおぼしき人々の名が見える)

(((

 

『山槐記』久寿二年(一一五五)九月二十三日条には帯

刀で「橘公清、〈馬允公盛子、〉」の名があり、その同一人物

と見られる「右馬允公清」の名が保元三年(一一五八)八

月二十三日条)

(((

に見える(人名の後の〈 

〉内は割書。以下

同)。この両名をめぐっては、「水主神社大般若経函底書)

(((

に、応保三年(一一六三)の藤原季能)

(((

の讃岐守就任に際して、

御神拝役を勤めた同国目代として橘公盛(「橘馬大夫公盛」)

の名が見え、同役を仁安二年(一一六七)には公盛の子・

公清(「公盛息男」、「目代右衛府橘公清」)が勤仕したとあ

る)(((

。「水主神社大般若経函底書」の当該箇所は以下の通りで

ある。

  

(前略)

  

一 

国司御神拝事 

粗記之

   

一 

崇徳院御宇 

国司藤原経隆正五位下行左兵衛督

     

御目代国宗下総介

��

     

御厩司賀茂兵衛尉為成、天(

一一三一)

承元年八月〈云々、〉

次目代河内前司盛兼、長(

一一三三)

承二年春〈云々、〉

   

一 �

二条院御宇 

国司藤原季能、兵衛佐七条三位殿、

   

内蔵頭俊盛御息、応(

一一六三)

保三年正月廿四日任

   

御神拝御目代橘馬大夫公盛勤之

    

長(一一六三)

寛元年十月廿七日〈甲申〉

   

次御神拝目代右衛府橘公清勤之

    

公盛息男也、仁(

一一六七)

安二年十月廿五日〈己未〉

      

自此以後ハ相続不註之

   

一 

当御代

     

国司

  

(後略)

 

この橘公盛・公清父子と、治承・寿永内乱期に源頼朝に

属して活躍する橘公長・公忠・公業ら小鹿島橘氏との関係

の有無は定かではない。もし同族であるなど何らかの縁故

関係があるとすれば、小鹿島橘氏は内乱期以前から四国、

とりわけ讃岐国内に目代として一定の基盤を有していたと

見てよいと思われるが)

(((

、この点については、元暦年間に源

義経率いる鎌倉軍が四国を攻めた際に、橘公業が鎌倉軍と

讃岐国の在地勢力との仲介役を果たし得た事実(後述)に

よって、公盛・公清父子と公長・公忠・公業らとの具体的

な関係が裏付けられると見てよいと思われる。すなわち、

橘氏(小鹿島橘氏)は治承・寿永内乱期の遥か以前より讃

岐国の国衙に目代(「四郎君」のごとき受領郎等)として基

盤を構築しており、それを内乱期まである程度は維持して

いたと見られるのである。

 

その他にも、互いに同族か何らかの縁故関係にあると見

られる橘氏の人名が古記録から検出できる。『兵範記)

(((

』『玉

葉)(((

』『山槐記)

(((

』『吉記)

(((

』にそれぞれ馬允の「公盛」・「公定」・「公

頼」・「公景〈功、〉」・「公基〈伊勢遷宮功〉」・「公里〈臨時内

給無申文〉」・「公俊〈功〉」が、滝口には「公広〈八条院、〉」、

内舎人に「公房〈八条院治承三年二分代、〉」といった名が

見える。

 

憶測を重ねることになるが、これら「公」を通字とする

橘氏が同族関係にあるとするならば、同氏はおもに内舎人・

滝口を経て馬允に任官するのを例とし、なかには東宮帯刀

を経るものもある家格であったことが伺える)

(((

。また成功の

ほか、八条院御給で任官する者もいた。

 

治承・寿永内乱以前の橘氏は、京宅を拠点としながら受

領郎等として活動し、特に讃岐国衙に一定の基盤を有する

一族であったようである)

(((

  

(二)

 

次に、治承・寿永内乱初期に橘氏が仕えた平知盛につい

�0

ていくつか検討しておきたい。

 

平知盛は清盛の四男(母は時子)でその最愛の子であっ

たともされる。保元四年(平治元年、一一五九)の任蔵人・

叙爵を皮切りに、武蔵守、春宮権大夫(東宮・言仁親王)、

高倉院の御厩別当、などを経て養和二年(寿永元年、一一

八二)の従二位権中納言が極官となった)

(((

。経歴としては「武

門貴族)

(((

」として院直属の武力を管理した後白河親政期の藤

原信頼と近似しているといえる。信頼と同様に武蔵国の守

や知行国主を二十年にわたり務め、のちに院御厩別当に就

いたことは、彼のもとに坂東をはじめとした諸国の武士を

組織しようとする父・清盛の意図を読み取ることも可能で

あると思われる)

(((

 

しかし、たとえば藤姓足利氏は知盛の兄である重盛の家

人となっており、新田氏は同じく兄・宗盛の家人となって

いるなど、同じ平家政権内部においても家人編成に分裂傾

向が見られるため、知盛のもとに坂東武士を一元組織する

には至らなかったと見られる)

(((

。そのほかにも、坂東八ヶ国

侍奉行として伊藤忠清が派遣されたり、大庭景親が平家の

坂東における「御後見」とされるなど、様々な命令系統が

錯綜、ないしは並行して存在したようである。このことは、

夙に指摘される平家内部に見られるいくつもの命令系統、

すなわち小松殿系統の家人(伊勢伊賀に拠点を持つ家人)、

池殿(八条院との繋がりを持つ)系統の家人、清盛・宗盛

直属の家人(畿内・西国に拠点をもつ家人)など、がその

まま坂東にも反映されていたことを示しているといえるだ

ろう。そしてこのようないくつもの命令系統の存在は、そ

のまま平家政権の弱点として尾を引くこととなる)

(((

 

このような平家軍制下において、橘氏は知盛家人に編成

されることとなる。『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)十二月

十九日条によれば、平重衡の東国遠征に「知盛卿家人」で

ある橘公長が選ばれて付されたとあるが)

(((

、この公長がそれ

以前のいつ頃、どのような経緯で「知盛卿家人」となった

のかは不明である。

 

『吾妻鏡』嘉禎二年(一二三六)二月二十二日条には伊

与国宇和郡の知行について小鹿島公業の主張として「公業

先祖代々知行、就中遠江丞遠保承勅定、討取当国賊徒純友

以来、居住当郡、令相伝子孫年久、」とあるのだが、この主

張は嘉禎四年(一二三八)の橘公蓮譲状案)

(((

に見える記述(「件

所領者、自 

故右大将家、賜 

宇和郡地頭職以降、于今無

違乱令領地処」)との兼ね合いで疑わしいから)

(((

、おそらくは

先祖・遠保以来の京宅を維持しながら在京活動と受領郎等

としての活動とを並行していたところに治承・寿永内乱が

勃発し、その対処のための家人編成を急ぐ平家(平知盛)

に伺候することとなったのであろう。

��

 

平家は、各地で激化する内乱に対処するため、畿内を中

心とする地域にかなり強引な総動員体制を敷いたが、その

反発は大きかった)

(((

。公長が「倩見平家之為体、佳運已欲傾」

という判断を下したところにも、権門の枠組みを超えた兵

士や兵粮の徴発などといった平家による強引な総動員体制

に対する反発の一端が表れているのかもしれない。次章で

は、この内乱期における橘氏の動向を見てゆこう。

第二章 

内乱期の橘氏

 

先述したように、橘氏は治承・寿永内乱の最初期には平

知盛の家人であったのだが、治承四年(一一八〇)には挙

兵直後の源頼朝のもとに仕えることとなる。このときに、

橘公長は加々美長清との「一所傍輩之好」を頼って東国へ

向かうのである)

(((

。塩谷氏は鎌倉幕府の性格を、「関東武士団

のみならず質の点では畿内武士団をも包摂した多元的性格

をもつ」としたが、橘氏はこの点を体現する一族の一つで

あったといえるだろう。

 

鎌倉幕府の主な構成員は、武士であれ文士であれ、頼朝

と個人的な縁故関係や京都とのつながりを持っており、そ

の関係性の強弱が、幕府内部での影響力の強弱にも反映さ

れていたようである。そうであるならば、在京経験豊富な

橘氏は幕府内部でも活躍できる素地をあらかじめ具備して

いたと評価できるし、実際に「馴京都之輩」として幕府内

の様々な儀式などにも参画するようになっていくのである

(後述)。

 

幕府による平家追討戦では、特に四国攻略おいて重要な

役割を担うことになる。『吾妻鏡』元暦元年(一一八四)九

月十九日条には、讃岐国御家人の交名を記した注進状と、

その彼らに対して「橘公業下知」に従うべきことを命じた

頼朝の下文とが収録されている)

(((

  

十九日乙巳、平氏一族、去二月被破摂津国一谷要害之

後、至于西海、掠虜彼国々、而為被攻撃之、被発遣軍

兵訖、以橘次公業、為一方先陣之間、着讃岐国、誘住

人等、欲相具、各令帰伏構運志於源家之輩、注出交名、

公業依執進之、有其沙汰、於今者、彼国住人可随公業

下知之由、今日所被仰下也、

     

在御判

    

下 

讃岐国御家人等

    

� 

可早随橘公業下知、向西海道合戦事 

    

右国中輩、平家押領之時、無左右御方参交名折紙、

令経御覧畢、尤奉公也、早随彼公業下知、可令致

勲功忠之状如件、

��

       

元暦元年九月十九日 

     

讃岐国御家人

   

�  

注進 

平家当国屋島落付御坐捨参源氏御方奉参

京都候御家人交名事

      

藤大夫資光 

同子息新大夫資重

      

同子息新大夫能資 

藤次郎大夫重次

      

同舎弟六郎長資 

藤新大夫光高

      

野三郎大夫高包 

橘大夫盛資

      

三野首領盛資 

仲行事貞房

      

三野九郎有忠 

三野首領太郎

      

同次郎 

大麻藤太家人

    

右度々合戦、源氏御方参、京都候之由、為入鎌倉

殿御見参、注進如件、

     

元暦元年五月日

 

この史料について塩谷氏は、公業が四国武士に下知する

のに頼朝の下文を必要とした点を挙げて、この当時の橘氏

には四国において所領を中心とした強固な武士団が組織さ

れていなかったため、当国武士団に対する影響力も弱かっ

たと論じている。しかし、この点は別の評価が可能である。

 

近年の武士論研究は、武士団相互の地域間・同族間の抗

争を利用しつつ、味方する勢力を支援し支配下に収めるこ

とで自らの勢力圏を拡大してゆくという、この時期特有の

戦争の在り方を提示して、内乱における坂東武士対西国武

士の構図を相対化した)

(((

。たとえば、鎌倉軍として上洛した

源義経らは、京都に駐留する木曾義仲軍とは対立する伊勢・

伊賀平氏(おもに平家(小松殿)家人で構成される)を味

方に付けることで京都を制圧した。さらに義経は、平家の

拠る福原に対して摂津源氏をはじめとする京武者(木曾義

仲の上洛に協力し、平家を都落ちさせた勢力)を味方に付

けて攻撃を掛け、これを攻め落としたというのである。義

経に味方したのはいずれも義経の攻撃目標(義仲、平家)

に対して敵対する勢力であり、そのような勢力を味方に付

ける戦略が重視されたことが、この当時の戦争の特徴であっ

た。

 

このような視点から先ほどの『吾妻鏡』元暦元年九月十

九日条を検討してみると、橘公業はむしろ義経による四国

計略の上で中心的役割を果たしていたと推測されるのであ

る。この日の条文によれば、公業はまず「先陣」として讃

岐国に入り、そこで「住人等」を鎌倉軍に引き入れるよう

工作し、味方となる人々の「交名」を頼朝に取り次いだよ

うである。「其沙汰」とされたのは幕府御家人としての認定

を意味するものと見え、それを経た後の「彼国住人」らは

「公業下知」に随うよう頼朝から命ぜられた。讃岐国におい

��

て住人(武士)を編成する公業のこのような役割は、畿内

近国において義経が果たしていた役割と全く同じであると

評価してよいだろう)

(((

。第一章でも触れたように、平家の拠

点・屋島(すなわち鎌倉軍の攻撃目標)のある讃岐国にお

いてこのような役割を果たし得たことが、内乱以前からの

橘氏と当国とのつながりの深さを強く示していると思われ

る)(((

。鎌倉軍にとっても、攻撃対象の地域の事情をよく知る

人物の存在は大いに重宝するところであった。ここに、内

乱期の幕府において橘氏が活躍する大きな理由がある。

 

一方、このような鎌倉軍における公業に対して、平家軍

において同様の役割を果たしていたと思われるのが阿波民

部大夫こと田口成良である)

(((

。田口成良はもともと阿波国の

在庁官人であったが、平家による福原の整備に協力するな

かで勢力を伸長し、讃岐国にもその支配力を及ぼすように

なっていた。一ノ谷の敗戦後に平家が屋島に拠点を移すの

も、田口成良の計らいによるところが大きく、平家と結ん

だ田口成良の動向は、讃岐国の国衙支配にも大きな影響を

及ぼしたと見られる)

(((

。そうであれば、公業の仲介で鎌倉軍

に味方した武士は、平家による讃岐国衙支配体制の変更に

伴い、平家方から圧伏された勢力であったと思われる)

(((

 

以上、内乱期の橘氏の動向を検討した。まとめると、橘

氏は鎌倉幕府が坂東武士だけによる政権ではないことを体

現する存在であり、「馴京都」という属性や四国における影

響力を駆使して、鎌倉軍による畿内から四国にかけての御

家人編成や進軍を迅速ならしめたと評価できる。

第三章 

鎌倉幕府支配下の橘氏

 

鎌倉幕府における小鹿島橘氏は、「馴京都之輩」や「為弓

馬達者」としての役割が特筆される。

 「馴京都之輩」としては『吾妻鏡』の元暦元年(一一八四)

六月一日条(頼盛の接待)や元暦二年(一一八五)七月二

日条(宗盛の護送)に見える公長や、建久六年(一一九五)

三月四日条(延暦寺衆徒への使者)の公業の活動などにそ

の例を見ることができる。

 

また、「為弓馬達者」としては治承四年(一一八〇)十二

月二十日条(弓始の射手)の公忠・公業)

(((

、建久二年(一一九一)

七月二十八日条(御移徙の際に御調度懸)の公長、建久五

年(一一九四)十月九日条(住吉社での流鏑馬に備えて武

芸故実を整備する)の公業の活動などを挙げることができ

る。

 

このように小鹿島橘氏は、京都のことをよく知り、また

武芸などの故実に通じた御家人として、成立当初の鎌倉幕

��

府における様々な儀式や行事で重要な役割を果たしていた

のである。

 

これらの特徴を集約したような小鹿島公業の働きぶりを

伝えるのが、『吾妻鏡』建久六年(一一九五)三月四日条で

ある。

  

三月大、四日己丑、天晴、将(

源頼朝)

軍家出江州鏡駅、前羈路

鞍馬給、爰台嶺衆徒等降于勢多橋辺奉見之、頗可謂橋

前途歟、将軍家安御駕橋東、可有礼否思食煩、頃之、

召小鹿島橘次公業、遣衆徒中、被仰子細〈矣、〉公業跪

衆徒前、申云、鎌倉将軍為東大寺供養結縁上洛之処、

各群集依何事哉、尤恐思給侍、但武将之法、於如此所、

無下馬之礼、仍乍乗可罷通、敢莫被咎之者、不聞食返

答之以前、令打過給、至衆徒前、取直弓聊気色、于時

各平伏云々、公業自幼少経廻京洛、於事依存故実、今

応此使節之処、誠言語巧而鸚鵡之觜驚耳、進退正而龍

虎之勢遮眼、衆徒感嘆、万人称美云々、秉燭之程、入

御六波羅御亭、見物車殆不得旋云々、

 

この記事は、東大寺大仏殿の落慶供養に参列するため上

洛する頼朝の行列を、近江国の「勢多橋辺」において延暦

寺の衆徒が威嚇したというものである。

 

公業は頼朝の使者として衆徒のもとへ趣き、「衆徒が群集

するのは何事かあろうとは思うが、武将の法ではこのよう

なところで下馬の礼はとらないから(頼朝は)乗馬のまま

通り過ぎるが、咎めぬよう」という旨を伝えた。頼朝は衆

徒の返答を聞く前にその眼前を通過したが、通過する際に

弓を取り直し、「気色」を顕すだけで衆徒を平伏させたとい

う。

 

公業は延暦寺衆徒に対する頼朝の使者役を果たしたわけ

であるが、彼にこのような役割が務まるのも、幼少の頃か

ら在京経験が豊富で、故実に通じていたからであったとい

う。そして実際に、言語巧みにして(「鸚鵡之觜驚耳」)、立

ち居振る舞い正しく(「龍虎之勢遮眼」)、それを見た衆徒は

感嘆し、人々は賞賛を惜しまなかったという。

 

公業の働きは、幕府御家人としての理想的な姿を示すの

みならず、国家的軍事・警察機能の担い手として院の軍事

指揮権のもとに動員されて大衆の強訴に対峙し、彼らを傷

付けることなく防禦することが期待された、院政期の武士

としてもまさに「万人称美」の対象であったといえる)

(((

。そ

の能力・適性は、頼朝も重く用いるところであったに違い

ない。小鹿島橘氏は、幕府内において、所領の大小や動員

可能な軍事力の多寡だけでは計れない確たる地位を占めて

いたといえるだろう)

(((

 

ところで、『吾妻鏡』には橘公長の息である橘太公忠と橘

次公業のうち、公業の活動がより顕著に表れる。一方の公

��

忠についてはほとんどその事績を追うことができず、わず

かに建久四年(一一九三)八月十八日条に源範頼の家人と

して討たれた「橘太左衛門尉」なる人物が見え、これが公

忠ではないかと思われる程度である(この日の条文以後に

公忠の名は見えない)。だとすれば、頼朝・範頼兄弟の対立

に伴い、公忠・公業兄弟もその政治的立場を異にすること

となったのであろうか。いずれにしても、この頃には公業

が家督として頼朝に仕えたと見られる。

 

実朝将軍期の『吾妻鏡』建保四年(一二一六)十二月二

十三日条に、実朝の前で頼朝からの「慇懃御遺書」を披露

し涙を拭いながら「述懐」するという場面が見える)

(((

。実朝

も頻りに「御憐愍」であったと同記事にあるが、これなど

は公業と頼朝個人との強いつながりを伺わせる記述である。

 

頼朝個人とのつながりという点については、一つだけ確

認しておきたいことがある。元暦元年(一一八四)六月一

日条)

(((

に列挙された「馴京都之輩」のことである。このうち、

小山朝政、三浦義澄、結城朝光、八田知家、足立遠元、後

藤基清は、本人かその一族が頼家将軍期の正治元年の十三

人合議や、泰時執権期の評定衆に名を連ね、幕府運営の中

枢を担うこととなる)

(((

。すなわち、幕府運営の中心を担って

いたのはこのような「馴京都之輩」(そのなかでも、鎌倉殿

と個人的な関係が強い人々)であったといえる。

 

それでは、いま挙げた以外の人物はどうなったのか。畠

山重忠は元久二年(一二〇五)に二俣川合戦で戦死するこ

とになるのだが、それを除いた下河辺行平と橘公長は子孫

に至るまで幕府内の要職には就かないのである。

 

先ほども触れたように、幕府内部での地位は所領や軍事

動員力の多寡よりも、頼朝個人(鎌倉殿)との縁故関係の

強さに依る部分が大きく、頼朝将軍期以後も源氏将軍家(の

ちには北条氏)との関係を維持しながら幕府内での地位も

維持した人々がいた一方で、ある時期に源氏将軍家(ある

いは北条氏)との関係が相対的に弱体化し、それ以後は幕

府内における地位を漸次後退させた人々もいたようである。

小鹿島氏も、幕府内の地位を漸次後退させたケースに含ま

れると思われる。もしそうであれば、憶測の域を出ないも

のの、公業が実朝の前で頼朝のことを「述懐」に及んだのは、

小鹿島氏が幕府内における地位を低下させつつある時期に

ちょうど重なるのではないだろうか。

おわりに

 

さいごに、本稿の論点をもう一度振り返っておきたい。

 

内乱以前の小鹿島橘氏は、京宅を拠点としながら受領郎

��

等として活動する一族であったようである。とりわけ讃岐

国に対しては、一定期間目代を歴任するなどした結果、国

衙とそこに集う在庁官人たちに対して少なからぬ影響力を

持っていたようである。このとき培った讃岐国衙との関係

が、治承・寿永内乱期に大きな意味を持つこととなる。

 

治承・寿永内乱期には、当初は知盛家人として平家に仕

えていたが、加々美長清との「一所傍輩之好」を頼って挙

兵直後の頼朝の下へ参向する。在京活動や受領郎等として

の経験が豊富な一族である橘氏は、鎌倉幕府が坂東武士だ

けによる政権ではないことを体現する存在の一つであると

いえよう。また、「馴京都」という一族の特徴や四国におけ

る影響力などを駆使して、鎌倉軍による御家人編成や平家

追討において大きな役割を果たしたと評価できる。

 

また、幕府成立後の小鹿島橘氏は、「馴京都」「弓馬達者」

といった能力・適性から幕府運営の中心を担い得たが、頼

朝死後は幕府内における地位を後退させたと見られる。

 

以上、僅かな史料を辿りながら治承・寿永内乱期前後の

小鹿島橘氏について検討した。このような小鹿島橘氏は、

武士が個々の土地の支配と不可分な存在であるといったよ

うな見方を相対化する、吏僚的武士)

(((

とでもいえる存在であっ

た。中世社会における武士にとって、土地などの所領支配

が重要であったことを否定するものではないが、特に内乱

期において小鹿島橘氏がその一族を存続し得たのは、一定

地域に軍事テリトリーを構築するような方向性とは別のあ

りかた、すなわち人や物を介したネットワークを有効に活

用することができたからではないだろうか。この点は、今

後の武士論においても重要な問題となるであろう。

注(1�

)研究史整理は近年に至るまで様々に行われているが、元木泰

雄「武士論研究の現状と課題」(『日本史研究』四二一、一九九

七年)を参照。

(2�

)『吾妻鏡』嘉禎二年(一二三六)二月二十二日条。なお、こ

の点は注(��)を参照されたい。

(3�

)ただし、注(��)の服部論文など、伊予国宇和郡の替地とし

て与えられた肥後国長島荘における動向についての研究は豊富

である。本稿ではその前段階、小鹿島橘氏が肥後国長島荘に所

領を得る前の動向に主たる関心を注いでいる。

(4�

)これらの研究は実に多岐にわたるが、ひとまず以下の研究を

挙げる。戸田芳実『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、

一九九一年。高橋昌明『武士の成立 

武士像の創出』東京大学

出版会、一九九九年。中澤克昭『中世の武力と城郭�

』吉川弘文館、

一九九九年。近藤好和『中世的武具の成立と武士�

』吉川弘文館、

二〇〇〇年。

(5�

)野口実『坂東武士団の成立と発展』(弘生書林、一九八二年)、

『中世東国武士団の研究』(高科書店、一九九四年)。川合康『鎌

倉幕府成立史の研究』(校倉書房、二〇〇四年�

)。

��

(6�)塩谷順耳「武士団の東北移住─橘氏(小鹿島氏)を中心に」『歴

史』一九、一九五八年。以下、本稿において引用・参照する塩

谷氏の見解はすべてこれによる。

(7�

)これに対して塩谷氏は、同じく出羽国の都賀郡に所領を得て

から佐竹氏の秋田転封まで所領を維持した出羽小野寺氏などと

は対照的であると指摘している。

(8�

)塩谷氏によれば、このような特徴は畿内武士団にも共通のも

のであるという。

(9�

)『香川県史 

通史編中世』香川県、一九八九年。このうち野

中寛文氏執筆箇所を参照されたい。

(�0�

)網野善彦「西園寺家とその所領」『網野善彦著作集第三巻』

岩波書店、二〇〇八年(初出は一九九二年)。網野氏はこの研

究で、河海の交通に注目しながら西園寺家の所領群を分析した。

(���

)以下、本稿では原則として、橘公業が小鹿島に所領を得る以

前を橘氏、それ以後を小鹿島氏と表記する。

(���

)『日本紀略』天慶七年(九四四)二月六日条。

  

� 

二月六日己酉、夕、美濃介橘朝臣遠保還宅間、於途中被斬殺。

  

� 

ちなみに、治承・寿永内乱期に駿河国目代を務めた橘遠茂も

この遠保の系譜を引くのだという。

(���

)『新猿楽記』「四郎君」(出典は、山岸徳平/竹内理三/家永

三郎/大曾根章介校注『日本思想大系八 

古代政治社会思想』

岩波書店、一九七九年)。

    

四郎君受領郎等刺史執鞭之図也。於五畿七道、無所不届、

於六十餘国無所不見。乗船則測風波之時、騎馬廼達山野之

道。於弓箭不拙、於算筆無暗。入境者着府之作法、神拝着

任之儀式、治国良吏之支度、交替分付之沙汰、不与状之文、

勘公文之条、雖有等者、更莫過之者。是以凡庁目代、若済

所、案主、健児所、検非違所、田所、出納所、調所、細工

所、修理等、若御厩、小舍人所、膳所、政所、或目代或別当、

況検田使、收納、交易、佃、臨時雑役等之使、不望自所懸

預。但民不弊済公事、君無損自有利上手也。仍得万民追従、

宅常贍、集諸国土産、貯甚豊也。 

~中略~ 

故除目之朝、

不云親疎、先被尋求者也。

(���

)岩田慎平「武士発生史上の院宮王臣家・諸司─富豪層との関

連について─」『古代文化』五十九─一�

(通巻五六八号)、二〇

〇七年。

(���

)人名の検出は、服部英雄「開発・その進展と領主支配─肥前

国長嶋庄の橘薩摩一族─」(『地方史研究』二八─二(通巻一五

二)、一九七八年)に多く依拠した。

(���

)『山槐記』、『兵範記』(いずれも『史料大成』)の同日条。

(���

)香川県東かがわ市、水主神社蔵。『香川県史 

第八巻 

資料

編古代・中世史料』(香川県、一九八六年)所収。この史料の

存在は、野中寛文「讃岐武士団の成立─『綾氏系図』をめぐっ

て─」(『四国中世史研究』一、一九九〇年)によって知り得た。

(���

)『香川県史 

第八巻 

資料編古代・中世史料』では「秀能」

と翻刻されているが、これは「季能」であるらしい。藤原季能

という人物がこの時期に讃岐守であったことは『公卿補任』(寿

永二年、藤季能の項)などでも確認できる(本文に掲げた史料

中の人名も季能に改めた)。同様に、藤原経隆という人物が「底

書」に記された時期の讃岐守であったことも『中右記』大治五

年(一一三〇)十月二十七日条などで確かめられる。以上のこ

とから、この「水主神社大般若経函底書」の記載は全体的に信

��

頼してよいと思われる。

(���

)以上の記述をまとめると、公盛・公清の経歴は以下の通りと

なる。

  

� 

久寿二年(一一五五)九月二十三日 

公盛:馬允、公清:帯

刀(守仁の東宮帯刀)

  

� 

保元三年(一一五八)八月二十三日 

公盛:不明、公清:右

馬允

 

� 

� 

応保三年(一一六三)      

公盛:馬大夫・讃岐国

目代、公清:不明

  

� 

仁安二年(一一六七)      

公盛:不明、 

公清:

右衛府・讃岐国目代

(�0)注(��)野中論文参照。

(��)仁安二年(一一六七)十二月十三日条。

(���

)安元元年(一一七五)十二月八日条、治承二年(一一七八)

正月二十八日条。

(���

)治承三年(一一七九)二月八日条、治承四年(一一八〇)三

月四日条。

(���

)承安四年(一一七四)二月十八日条、養和元年(一一八一)

十一月二十八日条。

(���

)小鹿島公業の父・公長も頼朝に伺候する以前から右馬允の官

職を得ていたようである(『吾妻鏡』治承四年十二月十九日条)。

おおよそであるが、内舎人・滝口を経て馬允に任官すれば兵衛

尉や衛門尉に至ることもあるが、東宮帯刀からは衛門尉や検非

違使の尉(判官)を経て叙爵や受領の官職に至ることもあるよ

うに、後者の方がやや格が高い。

(���

)院政期における受領郎等としては、白河院政期の伊勢平氏(平

正盛)なども挙げられる(高橋昌明『増補改訂清盛以前�

伊勢

平氏の興隆』文理閣、二〇〇四年、初出は一九八四年)。彼ら

は主に大国受領系院近臣の郎等として任国に趣き、国衙の検非

違所に伺候するなどしてその国内支配を支える存在であった。

  

� 

なお、伊勢平氏は家格を急上昇させてついには公卿に至るが、

その点は小鹿島橘氏と大きく異なる。

(���

)平知盛のおもな官歴は以下の通りである(『公卿補任』)。

  

� 

保元四年(平治元年)(�

一一五九)(八歳)正月七日蔵人・同

二十一日叙爵。

  

� 

平治二年(永暦元年)�(一一六〇)(九歳)二月二十八日武蔵

守(以前は藤原信頼知行国)。

  

� 

永万二年(仁安元年)�(一一六六)(十五歳)十月十日春宮大

進(東宮・憲仁親王)。

  

� 

仁安二年(一一六七)�(十六歳)十二月三十日辞武蔵守(後任・

平知重)。

  

� 

仁安三年(一一六八)�(十七歳)正月六日:従四位上(平盛

子御給)・二月十九日新帝(高倉天皇)

昇殿・三月二十三日左近衛権中将。

  

� 

治承三年(一一七九)�(二十八歳)正月十九日春宮権大夫(東宮・

言仁親王、重盛死去に伴う辞任を経て

治承四年の安徳践祚まで)。右兵衛督。

  

� 

治承四年(一一八〇)�(二十九歳)二月二十一日春宮権大夫

を辞任(安徳天皇践祚)・二月二十五

日新院(高倉上皇)別当。御厩別当(正

三位、左兵衛督)。

  

� 

治承五年(養和元年)�(一一八一)(三十歳)二月辞左兵衛督・

��

三月二十六日任参議、左兵衛督に復任・

九月二十三日辞参議。

  

� 

養和二年(寿永元年)�(一一八二)(三十一歳)三月八日辞左

兵衛督・十月三日権中納言・十一月二

十三日従二位(建礼門院御給)。

  

� 

寿永二年(一一八三)�(三十二歳)八月六日解官。

(���

)元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(日本放送出版協会、

二〇〇四年)、「藤原成親と平氏」(『立命館文学』六〇五、二〇

〇八年)。

(���

)野口実「平氏政権下における坂東武士団」『坂東武士団の成

立と発展』。

(�0�

)野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、二〇〇七年。

(���

)なお、平家政権内におけるこのような分裂傾向は、清盛の兄

弟・子息達のなかで公卿に昇進した者がそれぞれ独立した公卿

家として家政機関を整備し、所領を管理し、家人を編成するよ

うになって、惣領家から相対的に独立するようになるからであ

ると見られる(野口実氏のご教示による)。

(���

)『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)十二月十九日条。

     

十九日丁酉、右馬允橘公長参着鎌倉、相具子息橘太公忠、

橘次公成、是左兵衛督知盛卿家人也、去二日、蔵人頭重

衡朝臣為襲東国進発之間、為前右大将宗盛之計、被相副

之、為弓馬達者之上、臨戦場廻智謀、勝人之故、而公長

倩見平家之為体、佳運已欲傾、又先年於粟田口辺、与長

井斎藤別当、片切小八郎大夫〈于時各六(

源為義)

条廷尉御家人、〉

等、喧嘩之時、六条廷尉禅室定被及 

奏聞歟之由、成怖

畏之処、匪啻止其憤被宥之、還被誡斉藤片切等之間、不

忘彼恩化、志偏在源家、依之、厭却大将軍之夕郎、尋縁者、

先下向遠江国、次参着鎌倉、以一所傍輩之好、属加々美

次郎長清、啓子細之処、可為御家人之旨、可有御許容云々、

(��)『鎌倉遺文』補一二四六。

  

同前

  

前薩摩守沙弥公蓮所領与一橘公員譲渡地頭職事

    

在肥前国長島庄内上村并惣検非違所

  

右、件所領者、自 

故右大将家、賜 

宇和郡地頭職以降、于

  

今無違乱令領地処、当 

公御時、宇和郡代長島庄所宛給也、

  

依之、与壱公員所譲渡也、仍子々孫々全以不可有異論者、為

  

向後証文譲状如件、

    

嘉禎四年十月廿□□

(���

)伊予国宇和郡を要求した西園寺公経とその知行者である小鹿

島公業との間には鎌倉幕府が仲介しているが、このときの幕府

の将軍が九条頼経(西園寺公経の孫)であったこともあり、最

終的には幕府が公経の要求を呑み、公業には替地(肥後国長島

荘)を与えることで決着したようである。

  

� 

このとき小鹿島公業は、先祖である遠江丞橘遠保が藤原純友

追討の功績によって伊予国宇和郡に住み着いて以来、先祖代々

その地を知行してきたと主張しているが、嘉禎四年(一二三八)

の橘公蓮譲状案(注(��)参照)によれば、宇和郡地頭職は源

頼朝から公業に与えられたとある。この二点を整合的に理解

することは難しいが、『吾妻鏡』同日条の「無咎而不可被召放」

という公業の言い分に限っていえば、これは、頼朝から与えら

れた所領は容易に改替されないとする鎌倉幕府の不易法に則っ

た権利を主張したのだと見ることも可能ではないだろうか。だ

�0

とすると、これは公業と頼朝個人との結びつきの強さ(後述)

を示す史料であるといえよう。

  

『吾妻鏡』嘉禎二年(一二三六)二月二十二日条

    

廿二日己酉、伊与国宇和郡事、止薩摩守公業法師領掌、所

被付于常(

西

磐井入道大政大臣家之領也、是年来彼褝閤雖被望

申之、公業先祖代々知行、就中遠江丞遠保承勅定、討取当

国賊徒純友以来、居住当郡、令相伝子孫年久、無咎而不可

被召放之由、頻以愁歎、御沙汰太難顕是非、無左右、不被

仰切之処、去比禅閤御書状重参着、此所望不事行、似失老

後眉目、於今者、態令下向、可被申所存之趣、被載之、御

下向之条、還依可為事煩、早可有御管領之旨、今日被仰遣

于彼家司号陸奥入道理繆之許云々、

  

� 

なお、公業が伊予国宇和郡を与えられたのは平家滅亡後と見

られるが、同じく平家滅亡後の伊予守には源義経が任ぜられた

(『吾妻鏡』元暦二年(一一八五)八月二十九日)。後に義経が

頼朝から離反する際にはその理由の一つとして、伊予国内に頼

朝が設置した地頭のため「不能国務」(『玉葉』文治元年(一一

八五)十月十七日条)に陥ったことを述べているが、公業も義

経の国務を妨害した地頭の一人かもしれない。

(���

)元木泰雄『平清盛の闘い 

幻の中世国家』角川書店、二〇〇

一年。

(���

)注(��)。なお、「一所傍輩之好」については、野口実『源氏

と坂東武士』(吉川弘文館、二〇〇七年)を参照。

(���

)この条文に収載された頼朝下文や讃岐国の武士の交名を記し

た注進状については、田中稔「讃岐国の地頭御家人について」

(『鎌倉幕府御家人制度の研究』吉川弘文館、一九九一年、初出

一九六七年)、注(��)野中論文などにおいて詳細に検討され

ている。

(���

)川合康「内乱期の軍制と都の武士社会」(『日本史研究』五〇一、

二〇〇四年)、『鎌倉幕府成立史の研究』(校倉書房、二〇〇四年)。

元木泰雄『源義経』(吉川弘文館、二〇〇七年)。

(���

)たとえば、『吾妻鏡』寿永三年(一一八四)二月二十五日条

などに見られる。

    

廿五日甲申、朝務事、武衛注御所存、条々被遣泰経朝臣之

許云々、其詞云、

     

言上 

条々

     

(中略)

     

一 

平家追討事

       

右、畿内近国、号源氏平氏携弓箭之輩并住人等、任

義(源)経

之下知、可引率之由、可被仰下候、海路雖不輒、

殊可忩追討之由、所仰義経也、於勲功賞者、其後頼

朝可計申上候、

  

� 

この史料によれば、頼朝は畿内近国において「携弓箭之輩」

を義経の下知によって平家追討戦に動員することを命じてい

る。義経はその指示に基づいて京武者など畿内近国の武士を動

員し、平家を西海に追い詰めるのである。

(�0�

)『平家物語』には鎌倉軍における公業の役割が一切触れられ

ていない。のみならず、その名も見えない。この点不審ではあ

るが、後考に委ねたい。

   

『平家物語』巻九 

六ケ度合戦(適宜漢字に改めた)。

    

さるほどに平家一ノ谷へ渡りたまひてのちは、四国のもの

ども一向したがひたてまつらず、なかにも阿波讃岐の在庁

��

ら、みな平家をそむいて、源氏にこころをかよはしけるが、

さすがきのふけふまで、平家にしたがひたてまつたるみの、

けふはじめて源氏へまゐりたりとも、よももちひたまはじ。

(���

)山下知之「阿波国における武士団の成立と展開─平安末期を

中心に─」『立命館文学』五二一、一九九一年。

(���

)『香川県史 

通史編中世』香川県、一九八九年。なお、内乱

期における国衙支配の動揺が在地の紛争を惹起したことは夙に

指摘されるところである(野口実『坂東武士団の成立と発展』

など)。

(���

)田中稔氏は注(��)論文において、『吾妻鏡』元暦元年九月

十九日条所収の讃岐国御家人交名を分析し、彼らの本拠が讃岐

国西部、すなわち国府周辺を取り巻くように分布していたこと

を指摘している。そこから、彼らが讃岐の「国衙機構の中枢を

握る者達」であったとみて差し支えないとした。逆に讃岐国東

部の在庁や武士が見出し得ないのは、そこが屋島に拠点を置く

平家との結びつきが強かったからであろうかと推測している。

また、「戦争の遂行に必要な兵士兵粮米徴集も在庁官人の協力

を必要としていた」から、「本拠屋島の膝元である讃岐国衙在

庁等に叛かれたことは平氏にとってなかなかの痛手であったろ

う」という。

  

� 

国衙在庁と鎌倉軍との仲介役を果たし、内乱の趨勢にまで大

きな影響を与えることとなった公業(橘氏)の讃岐国における

地位は、これらの点からも裏付けることができる。

(���

)この日の条文の「橘次公成」は橘公業と同一の人物であると

みてよいと思われる(どちらも「キミナリ」或いは「キンナリ」)。

(���

)類例としては他に、『吾妻鏡』同年三月十二日条の結城朝光

などを挙げることもできる。

(���

)所領の大小や動員可能な軍事力の多寡だけでは幕府内の地位

を計れないような御家人としては、頼朝挙兵当初の北条氏や安

達氏、比企氏などを挙げることができよう。いずれも頼朝との

個人的な縁故関係に基づいて幕府内での地位を築いた一族であ

るが、このように、必ずしも広大な所領や強大な軍事力を持つ

とは言えない御家人の在り方を踏まえた議論が、今後の幕府論

の課題の一つであると思われる。

(���

)『吾妻鏡』建保四年(一二一六)十二月二十三日条。

    

廿三日辛未、橘左衛門尉公業有御対面、披故(

源頼朝)

右幕下慇懃御

遺書、有愁申之旨、頗拭涙及述懐、頻有御憐愍之気云々、

(��)『吾妻鏡』元暦元年(一一八四)六月一日条。

    

六月小、一日戊午、武衛招請池(平頼盛)

前亜相給、是近日可有帰洛

之間、為餞別也、右(一条能保)

典厩并前少将時(平時家)家等在御前、先三献、

其後数巡、又相互被談世上雑事等、小山小四郎朝政、三浦

介義澄、結城七郎朝光、下河辺庄司行平、畠山次郎重忠、

橘右馬允公長、足立右馬允遠元、八田四郎知家、後藤新兵

衛尉基清等、応召候御前簀子、是皆馴京都之輩也、(後略)

(���

)十三人合議のメンバーと評定衆のメンバーには一定の連続性

が認められ、とくに十三人合議のメンバーは頼朝個人との関係

が強かった人物ばかりである。この十三人合議が具体的にどの

ような機能を果たしたのかを知ることはできないが、頼家の専

横を危惧したかつての頼朝側近者たちがそれを掣肘する意図か

ら結成したことは間違いないようである(上横手雅敬・元木泰

雄・勝山清次『日本の中世 

八 

院政と平氏、鎌倉政権』中央

公論新社、二〇〇二年)。

��

(�0�

)このような武士としては、先述の北条氏、安達氏、比企氏の

ほかに、幕府成立後に武士化した大江氏(毛利氏、長井氏)や

二階堂氏のような御家人も考慮に入れる必要があると思われ

る。

〔付記〕

  

� 

本稿は、京都女子大学宗教・文化研究所平成二一年度共同研

究「地方武士の在京と文化の伝播(法然・親鸞登場の歴史的背

景に関する研究Ⅰ)」による成果の一部、及び京都女子大学宗

教・文化研究所ゼミナール『吾妻鏡』講読会の成果である。共

同研究を主宰され毎回熱心にご指導いただいている野口実先生

と、積極的に参加して下さっている講読会参加者全員へ感謝の

意を捧げたい。

  

� 

また、関西学院大学大学院日本史学研究演習の出席諸氏、特

に西山克先生と生駒孝臣氏からは貴重なご意見を頂戴した。こ

こに記して謝意を表したい。

  

� 

執筆の機会を与えて下さった京都女子大学宗教・文化研究所

の野口実先生、編集の労をとって下さった山本みなみ氏に、衷

心より御礼申し上げます。

��

はじめに

 

一般に鎌倉幕府は武人政権といわれ、武士を基盤にして

成立したとされる。しかし、鎌倉幕府の成立を考える上で「武

士」の対なる者とされる「文士」の存在を忘れてはいけな

い。彼らは鎌倉幕府が国家的な軍事・警察機関として成立し、

発展していく過程に不可欠な存在であり、武士とともに幕

府を支えた。彼らは政務機関の中枢を担い、実際の政務に

奔走したのである。

 

ここで少し文士を研究対象とした動機を記しておきたい。

私が今まで学んできた鎌倉幕府というのは、武士による武

士のための政権とされていた。幕府創立によってそれまで

とは異なった社会・制度が創造され、鎌倉時代とは鎌倉幕

府の時代であり、京都の朝廷については承久の乱の際に少

し触れられる程度で、幕府とはほぼ無関係であるように思

われた。しかし、実際に『吾妻鏡』を講読し、様々な文献

に触れるにつれ、本当に鎌倉幕府の中枢を担っていたのは

文士、それも京都から下ってきた人たちであることを知っ

た。また、合戦に明け暮れ教養などないと思っていた武士

に対しても、全国各地にネットワークを張り、京都と在地

を往来するなかで文化を吸収し、教養を身につけていた実

態を知り、そのイメージは全く異なるものとなった。そこ

で「文士」を中心に鎌倉幕府を捉え直そうと思った訳である。

 

鎌倉幕府における文士の研究としては目崎徳衛氏の研究

が挙げられる(

1)。目崎氏は頼朝流人期及び挙兵期と政権成立

期及び守成期の二つに分けて幕府草創期における吏僚につ

いて言及された。寿永二年(一一八三)秋の頼朝の復位と

東国支配権の公認が大きな契機となって、それまでの在地

の者に流人・降人などを交えた間に合わせの体制から、京

都下り官人を主体とする本格的体制に拡充されたこと、そ

して吏僚の中核をなした大江広元・三善康信・二階堂行政

の官歴がそれぞれ外記・弁官・民部と実に合理的な組み合

わせであることから、政務機構における頼朝の周到な計画

があったことを指摘されている。

 

以上の指摘を踏まえれば頼朝が朝廷を模した家政機関を

鎌倉に築こうとした意図がうかがえる。そして、その目的

を果たすためには京下りの吏僚、つまり文士が必要だった

鎌倉幕府成立期における文士 ─二階堂氏を中心に─山

本みなみ

��

と思われる。

 

冒頭で文士を武士の対なる者として表記したが、両者を

対なる存在とみなすのは必ずしも適切ではない。文士は「文

筆に秀でた官人」といわれるが、鎌倉幕府における彼らは

政治家であり、裁判官であり、公証人であり、右筆でもある。

その活動範囲は幅広く、多様な顔を持つ。単純に武芸に秀

でている者が武士、文筆に秀でている者が文士と考えるに

は限界があるように思う。

 

そこで本稿では二階堂氏を中心に取り上げ、鎌倉幕府に

おける文士の姿に迫ってみたい。二階堂氏は代々政所執事

を世襲しており、北条氏に次いで評定衆・引付衆・諸奉行人、

将軍家御所内の番衆に列する者が多い(

2)。滅亡することなく

鎌倉時代を生き抜き、その才をかわれ建武政権及び室町幕

府においても登用されている(

3)。二階堂氏を中心に鎌倉幕府

の成立、成長過程をみていくことで、最終的に文士とは何

者なのか、鎌倉幕府においてどのような位置づけをなされ

るべきなのか考察を試みたい。なお、本稿で挙げる「文士」

とは鎌倉幕府において吏僚的側面を持つ者を対象とするこ

とを明記しておく(

4)。

第一章 

頼朝の周辺

 

第一節 

在地の文士

 

二階堂氏についてみていく前に、頼朝流人期及び挙兵期

の頼朝周辺の武士と文士がどのような人脈・縁故から頼朝

の側近となったのか、その経緯をみていきたい。

 

まず頼朝周辺の文士についてみていこう。頼朝流人期及

び挙兵期はいわば間に合わせの人員構成であった。しかし、

間に合わせと言いつつも、もともと朝廷と何らかの関わり

のある者たちであり、過去に朝廷において実務能力を培っ

ていたと思われ、文化的能力にも秀でている。頼朝流人期

から従っていた中原久経は元来「故左典厩(義朝)御時、

殊有功、又携文筆」と記され、頼朝の兄朝長の生母波多野

義通妹の子で、頼朝とは遠縁にあたる。その縁もあって挙

兵前後終始頼朝の近辺に近侍したと思われる。文治元年(一

一八五)には頼朝の命で近藤国平とともに平氏追討に伴う

武士の狼藉を停止するため、畿内周辺十一ケ国、さらに鎮

西にも派遣された(

5)。

 

頼朝挙兵期から従った文士は中原久経・中原親能・藤原

邦通・藤原俊兼・甲斐小四郎(大中臣)秋家の五人である。

中原親能は少年期は波多野氏一族の大友経家のもとで養育

され、頼朝とは「年来知音」であった。成人後上洛して斎

院次官に任じ、権中納言源雅頼の家人となり、その妻は雅

��

頼の子息兼忠の乳母になっている。大江広元が鎌倉に下向

したのは親能との兄弟関係によるものである(

6)。

藤原邦通は

「洛陽放遊客」で、藤九郎盛長の推挙で伊豆配流中の頼朝の

右筆となった。山木兼隆の館における酒宴では郢曲を歌い、

館内および周辺地図を作成して帰参したという。大和判官

代の名乗りからするとどこかの院に仕えていたと推測され

る。「有職」に通暁し、文筆に長じ、絵画・卜筮その他百般

の才能があった(

7)。

藤原俊兼は筑後権守を名乗る。のちに三

善康信の下で問注にあたり、政所公事奉行人にもなるが、

特に右筆として活躍する(

8)。甲斐小四郎(大中臣)秋家はも

とは甲斐源氏の一条次郎忠頼に仕えていた降人で、忠頼が

誅殺された後、頼朝に実務能力をかわれて伺候したもので

ある(

9)。

 

この中で中原親能は例外的に京下りであるが、その他は

現地採用の元官人や降人であり、この後下向してくる行政

をはじめとした京下りの吏僚とは対照的である)

(((

。また、中

原親能との兄弟関係によって大江広元が下向してきたよう

に、彼らの持つ人脈から文士の補充を狙っていたと思われ

る。頼朝に当初から生粋の京下りの官人を登用したいとい

う思いがあったとしても、体制の整っていない鎌倉にいき

なり官人を招くことは容易ではなく、現地採用の文士さえ

不足する状態であった。京都の官人からしても身の保証の

ない鎌倉へ下向することは慎重を期するところがあったの

だろう。

 

第二節 

東国武士

 

続いて頼朝周辺の武士についてもみていこう。頼朝周辺

の東国武士には全く文官的能力がなかったわけではない。

東国武士のなかの文官的要素を持った者の存在、また東国

武士の教養については、すでに野口実氏によって指摘され

ているところである)

(((

。彼らは京都と密接な関係を持ってい

た。

 

まず、頼朝の義父にあたる北条時政は伊豆国の在庁官人

であった。時政の祖父と目される時家は京武者層の出身で

あった可能性が高く、時政が邸宅を設けた韮山は交通の要

地であり、頼朝挙兵以前から京都の情報を入手していたと

思われる)

(((

。また彼は義経の後を継いで朝廷との交渉にあた

り、守護地頭勅許をめぐる折衝において活躍し、幕府成立

後には早くも自家の公文所を設けている)

(((

 

上総広常は上総権介として上総・下総に多くの所領を持

つ存在であり、三浦氏も十二世紀はじめの頃から相模国の

国務に携わっていた。彼らはともに平治の乱の際には義朝

の配下として京都で合戦に参加していた)

(((

。三浦義澄は壇ノ

浦の合戦の際、周防国で壇ノ浦に至る海域を調査し、周辺

��

行政

       

行光

行盛

行泰

行頼

行実

行佐

行重

 

行綱

頼綱

盛綱

政雄

行忠

行宗

行貞

貞衡

盛忠

        

行村

基行

行氏

行景

       

  

行義

行有

行藤   

時藤

義賢

  

貞藤

行頼

  

行久

行清

行顕

行世

  

行方

行章

行員

義朝

頼朝

季範

希義

女(一条能保室)

行政

行光

行遠

行村

女(伊賀朝光室)

<系図1 行政と頼朝の関係>

<系図2 行政以後の二階堂氏の流れ>

��

勢力の編成につとめ、勝利に貢献した)

(((

。阿波国久千田庄は

三浦一族の芦名為保の父為清(義明の弟)の「相伝の領」

であったが、これは頼朝挙兵以前に芦名氏が在京活動の成

果として西国に所領をえた可能性を示すものである)

(((

 

また天野遠景は頼朝挙兵以前から内舎人の官を帯してお

り、のちに鎮西奉行になっている。彼の行動には暴力的な

側面が強くみられるが、実務能力も兼ね備えていたのであ

る。他にも梶原景時・畠山重忠・千葉常胤・土肥実平・下

河辺行平・八田知家・後藤基清・結城朝光・小山朝政・足

立遠元は京都と何らかの関係を持ち、行政能力を備え、芸

能に秀でた面もあり、その多くは頼朝との縁故・人脈によ

り集まった者たちであった。

 

以上のように、頼朝の周囲の有力御家人とみなされる東

国武士は決して行政能力や文化的教養に欠けていたわけで

はなく、地方レベルの行政能力は備えていた。むしろ、頼

朝はこういった能力を持った御家人を積極的に編成し、要

職を委ねたり側近に登用するなどしていたのである。東国

武士の人的ネットワークは在地においてばかりでなく、在

京中にも構築され、東国武士は頻繁に京都と在地を往復す

るなかで情報を集め、文化を吸収した)

(((

。彼らの背後には貴

族社会との関わりなしには在地支配者たりえない社会状況

があり、そのために積極的な在京活動をおこなっていたの

である。そうした側面からみれば、彼らもまた吏僚的な側

面をもつ武士、文人的な資質をもつ武士といえるのである。

 

頼朝との縁故・人脈により在地の文士や東国武士が集ま

り、鎌倉幕府成立の基盤が構築された。両者はその程度の

差こそあれ、まったく異なった性質の存在ではなかったと

いえよう。

第二章 

京下りの文士

第一節 

行政下向以前

 

本章では京下りの文士の中でもとりわけ二階堂氏を対象

として、文士とは何者なのかを考えたい。

 

まずは二階堂氏の家柄からみていこう。

 

二階堂氏は藤原南家乙麿流で、東海地方を中心に発展し

た工藤氏の分流であり、伊豆の狩野氏等とは同族である。

初代行政が鎌倉の永福寺(別名、二階堂)近くに住んだこ

とから二階堂氏を称した)

(((

。行政の父は藤原行遠、母は熱田

大宮司季範の妹である。『尊卑分脈』によると二階堂氏の祖

である維遠より維兼・維行・行遠・行政と従五位下に叙さ

れており、そのうち維遠・維行は駿河守に任ぜられている。

地方豪族が駿河守に任ぜられたとは考え難いが、おそらく

駿河国に何らかの関係を持っていたのであろう)

(((

。また、行

政の父である行遠は保延のころ(一一三〇年代後半)遠江

��

国の国司を殺害したため、尾張国に配流されたという。も

しこれが事実ならば、ここで熱田大宮司家と関係を持ち、

行政が生まれたと思われる。熱田大宮司家は尾張氏で、尾

張国造の裔であるが、尾張員職のとき、娘を尾張目代藤原

季兼の妻とし、その間に生まれた外孫季範(行政にとって

は伯父、頼朝とっては母方祖父にあたる)に大宮司職を譲っ

たと伝える。季範の祖父実範は文章博士・大学頭で、この

一族は学者の名門であった)

(((

。周知の通り熱田大宮司範季の

娘は源義朝の妻であり、頼朝・希義・女子(一条能保室)

を産んでいる。

 

行政は頼朝と同じく熱田大宮司家を母方に持ち、民部省

官人としての経歴を持っていたことで鎌倉へ下向したのだ

ろう。下向後は鎌倉幕府内において文士として活躍するが、

工藤氏出身である点、駿河に勢力を持つ点、熱田大宮司家

との関係から、二階堂氏はもともと在地領主の家であり、

ある程度武士化しつつあったと考えられる。これは文人貴

族の名門の家である明経道中原氏(文章道大江氏)や明法

家三善氏といった他の文士の家系とは異なる点であり、特

筆しておきたい。

 

行政が民部省の職についていたことは『玉葉』治承四年

正月二十七日の条に「主計少允正六位上藤原朝臣行政本寮奏」

とみられることによりわかる。また、『除目大成抄』第七に

よると、行政は主計寮の推薦によって主計少允に任ぜられ

ており、財政に関するかなりの実務能力を備えていたと思

われる)

(((

。在地領主の家の出身で流人の子にすぎなかった行

政が、都に出仕して文官系の役職に就いた理由にも熱田大

宮司家が関係していたのかもしれない。

第二節 

行政

 

次に鎌倉幕府における行政の活動を追っていくことで、

文士はどのような業務に携わっていたのかをみていこう。

行政の『吾妻鏡』における初見は元暦元年(一一八四)八

月二十四日の公文所設置の記事である。行政が鎌倉に下向

した正確な日付はわからない)

(((

 

先述のとおり、行政の業務が『吾妻鏡』にみえるのは、

左記の元暦元年八月二十四日の公文所設置に関する以下の

記事においてである。

  

廿四日庚辰。被新造公文所。今日立柱上棟。大夫属入道。

主計允等奉行也。

 

公文所は古くから貴族の家政機関の一つとして設置され、

文書の作成、発給管理などを行った。「新造」されたとある

が、この時初めて設置されたわけではなく、新造以前から

行政が公文所に関わっていたことがうかがえる。同年十月

六日の吉書始には寄人として参上し)

(((

、大江広元を別当とし

��

て、頼朝側近の一員となっている。この後、建久二年(一

一九一)には政所令、同年四年(一一九三)には政所別当

となり、広元在京中の政所政務を一手に引き受けることと

なる。若く才能あふれる広元を経験豊富なベテランの行政

が支えたのだろう。両者は協力関係にあった。

 

この公文所新造を皮切りに行政はさまざまな業務に奔走

するが、その内容では仏事と裁判に関する奉行が多く、右

筆としての活躍もみえる。仏事では、南御堂(勝長寿院)

の内陣の板敷等を削った匠等への禄の配分)

(((

、本尊仏の安置)

(((

供養終了後の布施の準備)

(((

に携わっている。他にも多くの例

がみられ)

(((

、特に伽藍・塔婆の建立、供僧への布施や雑事を

担当している。また、遠国から参上した御家人に対し御倉

の米・大豆それぞれ百石を給付し)

(((

、武蔵・相模両国の年貢

などを京都へ進上した)

(((

。朝廷への貢馬と藤原秀衡からの貢

金などを京都へ送る際には解文を記した)

(((

。これは鎌倉下向

以前に主計少允として得た知識・経験を発揮した結果であ

る。幕府の財政一般を掌る役割を果たしたといえよう。僧

侶や匠・仏師との人脈も広がったと思われる。

 

裁判では、文治二年(一一八六)には熊野社別当からの

相馬常清と和田義盛による上総国畔蒜庄の年貢未済の訴え

を頼朝が耳にし、行政の奉行により、両人に使者の命に従っ

て沙汰するよう命じた)

(((

。建久三年(一一九二)には、平盛

時とともに京都大番役についての守護人佐々木経高への命

や)(((

、女房大進局の伊勢国三ケ山拝領についての奉行をした)

(((

相模守護大内惟義の命に従うよう指示する政所下文を美濃

国の御家人等へ下した際には政所別当広元の下で、行政は

令として署名している)

(((

。広元とともには伊勢大神宮御領で

ある武蔵国大河戸御厨の所済の奉行もした)

(((

。建久六年(一

一九五)には新熊野社領安房国群房庄領家からの年貢未済

の訴えに対する奉行をした)

(((

。その他の業務では、義経の妾

である静とその母親が京都から鎌倉へ参着した際、安達新

三郎清経の宅に招き入れるよう手配している)

(((

。京より下向

してきた人々への対応も文士の業務のひとつであった。

 

また、行政自身の宅には頼朝がよく訪れている。建久三

年(一一九二)八月二十四日には頼朝が二階堂の地に始め

て掘られた池の様子を観に来た帰りに行政の宅に立ち寄り、

三浦義澄以下の宿老が一種一瓶を持参して宴会が開かれた)

(((

また、翌月十一日には二階堂の前の池の石を立てたのを観

るため頼朝は前日から行政の宅に逗留した)

(((

。建仁三年(一

二〇三)三月十五日にも永福寺一切経会の際、舞を観た後

に行政の山荘に立ち寄っており)

(((

、行政と頼朝の親密な関係

がうかがえる。

 

行政は業務のために鎌倉を離れることもあった。文治三

年(一一八七)五月二十日には使者として常陸国に下向し

�0

ている)

(((

。これは鹿島社の物忌から同社領の名主貞家が寄進

された土地を押領していると訴えがあり、それを広元が奉

行し、行政が現地へ直接派遣され、幕府の命を実行するた

めであった。行政は広元の配下で実務を行っていたのであ

る。また奥州合戦の際には頼朝に同伴し)

(((

、軍奉行としての

役割を担っているが、これについては後で詳しく記述する。

建久元年の頼朝上洛の際には貢金以下の進物を担当し)

(((

、や

はり財政に関わっている。

 

建久四年(一一九三)には広元とともに安房守以下の輩

への新恩給与を奉行し)

(((

、楽人多好方に対する神楽賞として

の飛騨国荒木郷地頭職付与を奉行し)

(((

、人々の恩沢を広元・

武藤頼平とともに奉行した)

(((

。この建久四年頃を境として、

御家人への恩賞付与の実務は、政所に基盤を置く広元が中

心として進められるようになっている。行政は同年政所別

当となっているから広元と協力して業務に励んだことだろ

う。しかし、御家人の恩賞を奉行するというのは御家人か

ら重んじられる一方で、その不満を一身に受けることをも

意味し)

(((

、政治的立場を不安定なものとする契機となりかね

ないものであった。恩賞は御家人にとって最も重要な事柄

である。自らも御家人であり、恩賞を受ける立場である彼

らが将軍と御家人の間に立って恩賞を奉行することは、文

士の幕府内での重要性を示すとともに、それが同時に不安

定要素にもなりうることがうかがえる。

 

頼朝が亡くなり、頼家が将軍になると、その独裁を防ぐ

ため頼朝側近を中心とした主要な御家人により十三人の合

議制が敷かれたが、その中に行政も名を連ねた。その後、

行政の業務はみえなくなる)

(((

 

行政は公文所寄人、政所令、政所別当として幕政に参加し、

仏事に際しての業務が目立った。大江広元・中原親能の配

下で実務に従事し、財政を掌るため、御家人と年貢に関わ

る業務を把握していた。また奥州合戦に同行し、軍奉行と

して活躍した。『吾妻鏡』では十三人の合議制メンバーに選

出されたのを最後に活躍がみられないが、建仁三年(一二

〇三)五月十七日には播磨国大部庄・魚住伯住人宛の政所

下文案に広元とともに政所別当として名を連ねている。業

務に携わってはいたが、一線の仕事は、子息の行光に譲っ

たと思われる)

(((

第三節 

行光

 

『吾妻鏡』に行政の活躍がみえなくなると、子息である

行光・行村の名が散見する。二階堂氏は行光の信濃流、行

村の隠岐流の二流に分かれ、以後それぞれの系統の中で家

が分立し、繁栄した。行光は政所執事となり、行村は侍所

所司・評定衆となって幕政に参加することとなる)

(((

��

 

まず、行光について詳しくみてゆこう。行光は長寛二年(一

一六四)に生まれ、『吾妻鏡』における初見は建久五年(一

一九四)三月九日で、以下のように所見する。

  

九日庚午。掃部允藤原行光加政所寄人云々。

このとき三十一歳。いつ掃部允に任ぜられたのかは不明で

あるが、ここから行光は政所業務に参加し、父行政の背を

みて業務に励んだことだろう。その業務内容をみるに仏事・

裁判に関する奉行が多く)

(((

、建仁三年(一二〇三)に政所令、

元久二年(一二〇五)に民部少丞)

(((

、建保六年(一二一八)

に政所執事となっていることから行政の後継者といってよ

い。注目すべきは使者・取り次ぎの業務である。行光は政

子の意向を伝えるため使者として頼家のもとに何度か遣わ

されており)

(((

、小澤左近将監信重が京都から参着した際には

政子への取り次ぎをした)

(((

。建暦三年(一二一三)九月八日

には西国の関東御領の年貢納下の奉行として在京していた

豊前前司惟宗尚友以下を実朝に取り次いだ)

(((

。政子・実朝の

側に仕え、政子と頼家、実朝と御家人を繋ぐパイプ役とし

て活躍していたのである。また、政所令としては建暦元年(一

二一一)に駿河・武蔵・越後等の国々の大田文を作成する

よう清原清定とともに命ぜられ)

(((

、建保五年(一二一七)には、

宋人陳和卿が造った唐船を御家人から雑人数百人を出させ

由比浦に浮かべたが、この一連の行事を奉行した)

(((

 

行光は政所令の立場から守護地頭の管理、御家人の催促

を行っているが自らも地頭職を得ている。建暦二年(一二

一二)には行村・宇佐美祐茂・伊賀光季とともに常陸那珂

郡西の地頭職も兼ねて沙汰人となった)

(((

。また建保元年(一

二一三)には和田合戦の恩賞として陸奥国三迫を賜った)

(((

自らも御家人でありながら御家人を管理する立場も兼ねて

いたのである。

 

行光には蹴鞠や和歌の素養もあった。建仁元年(一二〇

一)に行われた百日の御蹴鞠では見証をつとめている)

(((

。また、

行光の和歌に感動した実朝から和歌を贈答されたが)

(((

、行光

が実朝に対して使った「心の君」、実朝が行光に対して使っ

た「賢き跡」という表現から両者の親密さ、信頼関係をう

かがうことができる。年若き二十二歳の実朝にとって五十

歳の行光は頼れる年配の側近であったのかもしれない。

 

パイプ役といい、和歌の贈答といい、行光と実朝は非常

に親しい関係であったと思われる。そして政子にとっては

いつも側に仕え、信頼のおける存在であったと思われる。

 

行光の生涯で最も重要な業務は政子の命により後鳥羽上

皇の皇子を将軍に請う使いとして上洛したことだろう。建

保七年(一二一九)二月十三日で、以下のように所見する。

  

�信濃前司行光上洛。是六条宮。冷泉宮両所之間。為関

東将軍可令下向御之由。禅定二位家令申給之使節也。

��

宿老御家人又捧連署奏状。望此事云々。

 

行光は先年の政子の熊野詣にも供奉しており、続けての

上洛であった。やはり政子の側近としての役割、信頼関係

がうかがえる。行光の上洛については『愚管抄』に記述が

みられる)

(((

  

カカリケルホドニ、尼二位使を参ラスル。行光トテ年

ゴロ政所ノ事サタセサセテイミジキ者トツカイケリ。

成功マイラセテ信濃ノ守ニナリタル者也。二品ノ熊野

詣デモ、奉行シテノボリタリケル物をマイラセテ、「院

ノ宮コノ中ニサモ候ヌベカランヲ、御下向候テ、ソレ

ヲ将軍ニナシマイラセテ持マイラセラレ候ヘ。将軍ガ

アトノ武士、イマハアリツキテ数百候ガ、主人ヲウシ

ナイ候テ、一定ヤウ

くノ心モ出キ候ヌベシ。サテコ

ソノドマリ候ハメ」ト申タリケリ。コノ事ハ、熊野詣

ノレウニノボリタリケルニ、實朝ガアリシ時、子モマ

ウケヌニ、サヤアルベキナド、卿ニ位モノガタリシタ

リト聞ヘシ名残ニヤ、カヽル事ヲ申タリケル。

 

行光は政所執事として優れた人物であった。成功により

信濃守になっているから、財力もあっただろう)

(((

。宮将軍を

ぜひとも鎌倉に将軍として迎え入れたいとする政子の意思

を正確に伝え、使いとしての任務を果たしている。しかし、

結果的には宮将軍は実現せず、行光自身も京都から鎌倉下

向直後、病を患い、建保六年(一二一八)からつとめてい

た政所執事を伊賀光宗に譲った後、五十六歳で亡くなった。

伊賀光宗は行光の甥にあたる人物である)

(((

。その後、政所執

事の職は伊賀氏の乱により、行光の子息行盛に譲られるこ

ととなる。

第四節 

行村

 

次に行村について詳しくみていこう。『関東評定伝』によ

ると久寿二年(一一五五)に生まれた行村は、その後正五

位下に叙され、大隅守に任ぜられた。『吾妻鏡』での初見は

以下の正治二年(一二〇〇)九月二十五日条である。

  

廿五日戊寅。安達源三親長。山城三郎行村等。日来所

望官途事。仍所被挙申靭負尉也。

 

彼は長年官途に就くことを望み、衛門尉に推挙された。

それから約一カ月後、京都から除書を持参した使者が到着

し、少尉に任ぜられた)

(((

。その後、図書充)

(((

、左衛門尉に任ぜ

られ)

(((

、検非違使の宣旨を蒙り、嘉禄元年(一二二五)七十

一歳で評定衆となっている)

(((

。和田合戦の際には行政と同じ

く軍奉行として活躍した。この時行村は検非違使で検断奉

行であり、軍奉行としては適任であった。補佐には金窪行親・

安東忠家が付いたが、彼らは北条義時の被官として行動す

る者たちであった。具体的には和田一族の目の前で行親・

��

忠家の手から胤長を請け取り、三浦義村と波多野忠綱の政

所前での先登の功についての審議、安念法師の叛逆の取り

調べ、死者や生虜の交名の作成を行った)

(((

。合戦及び論功行

賞の場での右筆による交名注文・合戦記の記録は武士の恩

賞に関わるもので、代々の将軍も武士の一元支配、主従関

係の確立を図る上で重要視していたと思われる。

 

業務内容では仏事の奉行は少なく)

(((

、実朝の供奉が多い。

実朝の永福寺渡御)

(((

、鶴岡宮参詣をはじめ)

(((

、広元宅より新御

所への御移徒の儀、御行始、大倉大慈寺供養の際には廷尉

として供奉した)

(((

。実朝の正室である坊門姫の寿福寺渡御に

も参上している)

(((

。建保五年(一二一七)には実朝夫妻が桜

花を観るため永福寺へ御出した後、行村宅に寄り、和歌の

会が開かれ)

(((

、方違のために永福寺内の僧坊へ入った際にも、

行村が獣形一合と桃九枝を用意し終夜続歌の会が開かれた)

(((

行村は検非違使に任ぜられていることから将軍警固の役割

を担っており、和歌を詠む教養も併せ持っていた。また、

建保六年(一二一八)には実朝の直衣始のため鶴岡宮へ参

詣する際に三浦義村と長江明義が相論になったが、行村が

御前にて報告したことで解決した)

(((

。行村は御家人同士の争

いを鎮め、行列を管理する立場にもあったのである。政治

面においても元久二年(一二〇五)には上総国の追捕狼藉

を奉行し)

(((

、翌年には頼朝将軍期に拝領した土地は大罪を犯

さなければ没収しない事についても奉行した)

(((

。建保二年(一

二一四)に大倉新御堂供養の事について評議した際には、

北条義時・大江広元・三善康信・行光とともに参加してお

り)(((

、政所の役職に就いていたわけではないが、政治の中心

メンバーの一人であったことがわかる。建保五年(一二一七)

には後鳥羽上皇の病を見舞うため使節として上洛している)

(((

 

建保六年(一二一八)七月二十二日には侍所司五人のう

ちの一人となり、北条泰時を別当とし、三浦義村とともに

御家人のことを奉行する立場を得た。『吾妻鏡』には以下の

ようにみえる。

  

廿二日辛卯。被定侍所司五人。所謂式部大夫泰時朝臣

為別当。相具山城大夫判官行村。三浦左衛門義村等。

可奉行御家人事。次江判官能範者。可申沙汰御出已下

御所中雑事。次伊賀次郎兵衛尉光宗者。可催促御家人

供奉所役以下事云々。武州奉仰。各被触廻云々。

 

侍所所司は梶原景時も就いた職務である。別当のもとで

実務を担う侍所次官は武芸に優れているだけでなく、実務

能力も必要であった。景時のような吏僚的な武士と行村の

ような文士は本質的には近い存在であったのではないだろ

うか。

 

建保六年(一二一八)十二月二十六日には実朝拝賀供奉

の随兵を奉行しているが、これを伝える『吾妻鏡』の同日

��

条は文士とは何者なのかを考える上でも重要である。この

記事は『吾妻鏡』に「文士」という言葉そのものの初見で

あり、この記事により幕府内において武士と並んで文士の

存在が確認できる。記事は以下のとおりである。

  

廿六日甲子。晴。為大夫判官行村奉行。御拝賀供奉随

兵以下事有其沙汰。兼治定人数之中。小山左衛門尉朝政。

結城左衛門尉朝光等。依有服暇。被召山城左衛門尉基行。

荻野二郎景員等。為彼兄弟之替也。右大将家御時被定

仰云。随兵者。兼備三徳者。必可候其役。所謂。譜代勇士。

弓馬達者。容儀神妙者也。亦雖譜代。於疎其芸者。無

警衛之恃。能可有用意云々。而景員者。去正治二年正

月。父梶原平次左衛門尉景高於駿河国高橋辺自殺之後。

頗雖為失時之士。相兼件等徳之故。被召出之。非面目乎。

次基行者。雖非武士。父行村已居廷尉職之上。容顔美

麗兮達弓箭。亦依為当時近習。内々企所望云。乍列将

軍家御家人。偏被定号於文士之間。並于武者之日。於

時有可逢恥辱之事等。此御拝賀者。関東無双晴儀。殆

可謂千載一遇歟。今度被加随兵者。子孫永相続武名之条。

本懐至極也云々。仍恩許。不及異儀云々。

 

基行は父行村が検非違使であり、容顔美麗・弓馬の達者

であるため、武士ではないが随兵になることを許された。

行村はこの時随兵を奉行し、侍所所司の一人でもあり、ま

さに文武兼備の士であった。

 

この記事によれば、基行は今まで大半が武士である御家

人の中で、文士であることが恥辱であったのだろう。行光

の家系が政所執事・寄人として活躍する中で、自身の家系

は武士として認められたいという思いがあったようである)

(((

 

また、先述した通り二階堂氏は他の文士である中原氏・

大江氏・三善氏のように伝統的文官官僚の家柄ではない。

行政は確かに朝廷で働く文官であったが、行村はこの時六

十四歳で文士と称されながらも、検非違使を経験し、侍所

所司にも任ぜられていた。他の文士と比べて武人的要素が

強いのは確かである。

 

実朝の死に際して出家した行村は、実朝の第三年追善ま

で活躍がみられないが、その後は宿老として幕府を支えた。

承久の乱の際には鎌倉に留まり)

(((

、貞応三年(一二二四)に

は甥にあたる伊賀光宗の身柄を預かった)

(((

。親戚であるため

最初は憚られたが、政子により「於行西(行村の法名)。諸

事依無疑貽」との命を受け、下知が下された。長年幕府を

支えた宿老行村に対する政子の信頼がうかがえよう。政子

亡きあとは北条時房・泰時を支えた。頼朝将軍期から幕府

に仕えていた行村は貴重な存在であり、その発言には重み

があったに違いない。暦仁元年(一二三八)二月十六日、

伊勢益田荘において八十四歳で亡くなった)

(((

。仏事と裁判に

��

関わり、軍奉行をつとめた点は行政・行光と共通する部分

もみられたが、検非違使となり、侍所所司に任ぜられ、将

軍の供奉を担当した点は行村特有である。行村は武人的要

素の強い文士であった。

 

第五節 

幕府における二階堂氏の特徴

 

二階堂行政とその子息行村・行光の鎌倉幕府における活

動をみてきたところで、文士とは何者なのか改めて考えて

みよう。その主な業務は幕府の御家人を率いる将軍の専権

を補助する業務)

(((

で、将軍と有力御家人の狭間に存在し、両

者の橋渡しを行っていた。基本的に御家人同士の争いも文

士は圏外にいて、あくまでも客観的立場から奉行していた。

これは御家人を管理・監視する立場であった。将軍の権威

に近い存在といえよう。この点については大江広元が、梶

原景時弾劾状を頼家に取り次がないのを受けて、和田義盛

に「貴客者為関東之爪牙耳目。已歴多年也」と評価された

記事が『吾妻鏡』にみえる。爪牙耳目とは手足となって働

く者の意である。上杉和彦氏は、この義盛の言葉を「御家

人たちの広元観を端的に示していて興味深い」と述べてお

られる)

(((

。御家人にとって、文士はまさに将軍の近くにあっ

て手足となって働く者であったのだろう。

 

元木泰雄氏は、在地領主と武芸という職能の二面性を持

つことこそ中世武士の特色であるとされているが)

(((

、文士の

場合はどうだろうか。職能という点からみれば、武士は武

芸に秀でた家、文士は文筆に秀でた家である。しかし、あ

くまでも職能を生活の基盤としていたという意味であって、

例えば、武士は字が読めない、文士は馬に乗れないという

ことではない。「文士」というと実務行政を専門とし、文字

ばかりを書いているようなイメージを抱いてしまうが、行

村のように武人的な文士、あるいはむしろ吏僚的な武士と

みなしてもよいような者もいる。一方、「武士」というと合

戦に明け暮れ教養もなく字も読めないなどというイメージ

を抱いてしまうが、そのレベルに差はあるものの、幕府で

も中枢を担うような有力御家人は、地方レベルの行政能力

は備えている。梶原景時のように和歌を詠み、行政能力に

優れた武士もいる。武芸という職能は貴族社会の中でこそ

際立つ存在なのかもしれない。

 

また在地性という点からみれば、この点は京都で朝廷に

仕えていた文士には当てはまらない。しかし、間に合わせ

に登用された邦通・俊兼といった現地採用の元官人や秋家

のような降人は在地性も兼備していた)

(((

。また、京下りの吏

僚の中でも二階堂氏はもともと駿河国に勢力を持つ地方豪

族であった。武士の特色を備えた家だったのである。

 

こうしてみると、武士と文士を区別することは難しい。

��

それは両者が互いの特性を含んでおり、その程度によって

呼ばれ方が異なるためである。やはり鎌倉幕府における武

士と文士にはかなりの共通性がみられる。最終的には貴族

と武士の同質性につながるものである。行村のような存在

を考慮すると、一概に武士・文士と二つに分けてしまうの

は本質を見誤る危険性を含んでおり、二者択一の議論には

限界があるだろう。基行が文士と称される自身を恥辱に思

い、随兵に加わりたいと内々に願っていたことからしても、

武士と文士の境界は曖昧である。

第三章 

幕府における文士

 

第一節 

合戦における役割

 

本章では幕府における文士について、彼らが幕府に必要

とされた理由を見出し、その存在意義について考えたい。

 

第二章で行政が奥州合戦の際の軍奉行であったことに触

れたが、ここでは文士の合戦における役割について考えて

みたい。軍奉行については五味文彦氏が既に注目されてい

るところである)

(((

 

以下、個別の合戦をみていこう。石橋山合戦では中四郎

維重・中八維平・新藤次俊長・小中太光家が交名の末にま

とめて記されていることから、彼らが直接戦闘に従ったわ

けではなく、部隊本部的役割をもって扈従したものとみら

れるという)

(((

 

佐竹合戦では合戦終了後、頼朝の御前で論功行賞が行わ

れたが、この場で軍奉行が記録をとり、それが合戦記となっ

た。この時には誰がどのような軍忠を尽くしたのか、軍士

の軍功を確認し、死亡・生虜の注文が作成された。合戦の

経過を振り返ることで、互いの功を確認し、合戦の功につ

いて共通の認識を得ることができるのである)

(((

 

治承・寿永の乱では梶原景時が軍奉行であった。木曽義

仲滅亡の戦勝報告が鎌倉にもたらされる中、敵の死者・捕

虜の名簿を送って来たのは景時だけで、頼朝を感心させて

いる)

(((

。景時は播磨・美作の惣追捕使となっており、播磨で

は国衙の在庁官人を支配下に置き、美作では目代に任命さ

れ、兵士の動員、戦後処理につとめている。京都において

は約八カ月間義経の補佐をつとめ、京都で名を知られた。

その結果、畿内付近にも多くの所領を持つこととなった)

(((

ちなみに、木曽義仲の右筆は大夫房覚明という僧侶で法住

寺合戦の合戦記を記しており、源義経の場合は中原信康と

いう下級貴族が右筆として合戦記を記した)

(((

。義経は、義仲

の滅亡、平氏追討、それにかわる鎌倉武士の進出という畿

内の支配体制の激変に際し、多発した混乱を抑える唯一の

武力の担い手となっていた)

(((

。その業務の多くは、武力のみ

では片づけられない行政能力を必要とするものであったか

��

ら、それに秀でた景時や右筆信康の補助が必要であったと

思われる。実際に彼らは合戦記や牒状を作成し、畿内近国

を中心とする兵士役、兵糧米の賦課・免除の事務、権門・

寺社からの東国武士の濫妨の訴えに対応し、頼朝から西国

に与えられた所領を安堵する、といった業務をこなした)

(((

 

五味氏は合戦中と戦後処理に注目されているが、更に合

戦前の準備過程にも注目したい。二階堂行政が軍奉行であっ

た奥州合戦についてはとりわけ詳しくみていこう。奥州合

戦の意義については川合康氏が詳しく言及されている)

(((

。合

戦における文士の役割を考える上では、交名作成が奥州合

戦の重要な要素をなすものであったとする点、奥州合戦は

頼義故実に基づいて合戦を行うために、頼朝が「おそらく

一年間の殺生禁断を行っていた文治四年段階から鎌倉殿側

近グループによって綿密に計画されていたと思われる」と

いう点は注目すべきものである。前者の交名作成の重要性

については、奥州合戦の場合は参加者の武功の把握よりも、

むしろ不参者の把握に重点が置かれていた。これは史上空

前の大軍勢を頼朝自身が率いるという異例の態勢がとられ

た奥州合戦においては特に重要視されるべきもので、「すで

に内乱の終息を前提とし、内乱期の主従制を清算・再編して、

これを鎌倉殿のもとに明確化するという意義)

(((

」そのもので

ある。また、後者の頼義故実に基づく計画性についてはそ

れを審議した側近グループのメンバーが気になるところで

ある。千葉常胤・比企能員や侍所別当和田義盛、侍所所司

梶原景時といった武士の他に、実際に合戦に同行した中原

親能・二階堂行政といった文士も審議に参加していたので

はないだろうか。行政の文治四年の活動は正月八日の心経

会において導師若宮供僧義慶房への布施を奉行した記事し

かみえないため、この間内々に奥州合戦の準備を行ってい

たのかもしれない。日程や場所まで「前九年合戦」にでき

るだけ合わせている点を考えてみると、何かしらの記録を

参考にしたものと思われるし、計画の議事録をとる必要も

あったのではないだろうか。ここに軍奉行が必要とされる

理由の一つを見て取ることができる。

 

ここからは文士の活動を中心に奥州合戦の経過をみてい

きたい。

 

文治五年(一一八九)六月二十七日、奥州追討宣旨が未

だに下されない中、鎌倉には既に一千にも及ぶ全国の武士

が続々と集まっていた。全国の武士の招集に関しては義盛・

景時に交名の作成が命ぜられているが、執筆は文士が行っ

ている)

((((

。武士の招集は文士も携わる業務であり)

((((

、ここでは

今までにない大人数の交名作成を補佐したのだろう。奥州

合戦には、現在残されている断片的な史料から判明するも

のだけでも、薩摩・豊前・伊予・安芸・美作・伊勢など西

��

国諸国からの武士の参加がみられるという)

((((

。この後も頼朝

は追討宣旨を要求し続けたが、七月十六日には強行出兵を

決定し、同月十九日には大軍を率いて鎌倉を出発した)

((((

。同

二十六日には宇都宮で常陸国の佐竹氏の軍勢が合流し、二

十八日には新渡戸駅に到着した。ここでいよいよ平泉が近

いということで、軍勢の総数を知るために、御家人たちに

命令して、各々連れてきた兵士の人数を書き出させ、皆そ

れぞれに書き出した名簿の手勢注文を提出した。この日の

条は以下のとおりである。

  

廿八日丙戌。着新渡戸驛給。已奥州近々之間。爲知食

軍勢。仰御家人等面々。被注手勢。仍各進其着到。城

四郎々從二百餘人也。二品令驚給。景時申云。相從長

茂之輩。本自數百人也。而爲囚人之時。悉以分散。今

聞候御共之由。令群集歟。就中此邊者本國近鄰也云々。

于時御氣色快然云々。

 

この結果、頼朝は誰がどれだけの兵を従えて参上したの

かを知り、軍勢を把握した。主従関係の再編成という奥州

合戦の意義を考えれば、思いもよらない数の軍勢を率いて

きたなら、頼朝が喜ぶのも当然である。それだけに、不参

者に対しては合戦後にきわめて厳しい処分が行われること

となった。二十日には泰衡を追って玉造郡加波々城を囲ん

だが、すでに泰衡は逃亡したあとで、葛岡郡平泉へ向かう

ことにした。戌の刻には、命令書を先陣に発給し、三浦義連・

和田義盛・小山朝政・畠山重忠・和田宗実や武蔵国の小武

士団の者たちは各々この命令書の写しを取った。大軍勢へ

の指示には命令書が必要となり、名はみえないが文士によ

り執筆されたと思われる。二十二日には平泉に到着したが、

泰衡はすでに逃亡したあとだった。この翌日には京都へ飛

脚を発し、一条能保に状況報告を行った。京都との情報の

遣り取りはこの後もみられ、文士の右筆としての業務であっ

たと思われる。二十六日には頼朝の滞在する旅館に投げ入

れられた泰衡からの手紙を中原親能が御前で読み上げ、審

議を重ねた。親能は頼朝の側近にあって作戦本部的役割を

担い、書状の執筆・管理を行っていたのだろう。九月二日

に泰衡を追って岩手郡厨川に向かった頼朝軍は、四日には

志波郡陣岡で比企能員・宇佐美実政を大将軍とする北陸道

軍と合流した。六日には泰衡の首が頼朝のもとに届けられ

た。翌七日には泰衡の郎從由利八郎を、どちらが生捕りに

したのかについて宇佐美実政と天野則景が相論となった。

頼朝は行政に命じて、双方の馬の毛並みと鎧の威し紐の色

を書き出させておき、その上で由利八郎に聞くように梶原

景時に命じた。ここで御家人間の相論の審議に関わる軍奉

行としての行政をみることができる。

 

その翌日にも行政の活動がみられる。『吾妻鏡』の記すと

��

ころは以下のとおりである。

  

�八日乙丑。安達新三郎為飛脚上洛。是依被付合戦次第

於帥中納言也。主計允行政書御消息。其状云。

  

� 

為攻奥州泰衡。去七月十九日。打立鎌倉。同廿九日。

越白河関打入。八月八日。於厚加志楯前。合戦靡敵訖。

同十日。越厚加志山。於山口。秀衡法師嫡男西城戸太

郎国衡。為大将軍。向逢合戦。即討取国衡訖。而泰衡

自多賀国府以北。玉造郡内高波波ト申所。構城郭相待。

廿日押寄候之処。不相待落件城訖。自此所平泉中間。

五六ヶ日道候。即追継。泰衡郎従等於途中相禦。然而

打取為宗之輩等。寄平泉之処。泰衡廿一日落畢。頼朝

廿二日申剋着平泉。泰衡一日前立逃行。猶追継。今月

三日。打取候訖。雖須進其首候。遼遠之上。非指貴人。

且相伝家人也。仍不能進候。又於出羽国。八月十三日

合戦。猶以討敵候訖。以此旨可令洩言上給。頼朝恐恐

謹言。

    

九月八日 

頼朝

    

進上 

帥中納言殿

 

吉田経房を通して奥州合戦の経過を後白河法皇に伝える

ため、安達新三郎清恒が飛脚として京都へ送られた。その

書状の執筆は行政によるものである。その内容は奥州合戦

の経過のダイジェスト版といってもよい。行政は頼朝の側

に仕え、現状を把握し、詳細な記録をとる役目を担ってい

たと思われる。この詳細な記録は合戦記の作成といっても

よいだろう。九日には宇佐美実政の郎従の乱暴に対する高

水寺からの訴えに対し、迅速な対応を行い、また、岩井郡

内の仏閣と、僧の数を把握し、それに基づいて仏聖灯油田

を割り当てるため比企朝宗を岩井郡へ派遣した。そしてこ

の日ようやく朝廷から泰衡追討宣旨も届いた。このあたり

から奥州合戦の戦後処理が始まったとみられる。翌十日に

は僧からの要求に対して荘園の東西南北の境を認める許可

証を発行し、逃げ隠れている農民たちは、元の所へ戻って

住むように命じた。この時、頼朝は平泉藤原氏三代の建立

した寺や塔の事を聞いたが、僧からの要求に対する迅速な

対応の裏には中原親能の活躍があった。翌十一日には陣岡

を発し、厨川に向かった。厨川では残党の捜索、陸奥・出

羽両国の台帳・田文の検討を行い、その場で豊前介実俊と

その弟橘藤五実昌を家人にした。豊前介実俊は後に政所公

事奉行人・案主となる人物である。十七日には清衡以下三

代の建立した諸寺の本領を安堵し、十八日には吉田経房に

対し、囚人処置の伺いを立て、この日作成した投降者の交

名と併せて合戦の最終報告を行い、後白河への執り成しを

依頼した。京都への報告は軍事・警察機関としての責務で

あるから、それに深く関わる文士の役割は大きいだろう。

�0

十九日には厨川を発して平泉に戻り、二十日には吉書始と

論功行賞が行われた。手柄の度合いを調べ、褒美を与える

下文を与えた。先日、定め置いたものと、この場で定めら

れたものがあり、平盛時が下文を執筆した。二十二日には

葛西清重を奥州総奉行に任じ、奥州にそのまま駐屯させ、

鎌倉から指示を出して戦後処理にあたらせた。頼朝は二十

三日には平泉に秀衡が建立した無量光院に参詣し、二十七

日には安陪頼時の衣川の遺跡等を見て、二十八日にようや

く鎌倉に向けて出発した。帰途においても戦後処理は継続

して行われていた。十月一日には多賀城の陸奥国府におい

て、郡や郷、荘園の管理の事を箇条書きにして地頭達に命

令を出し、五日には御家人からの恩賞要求に答えた。『吾妻

鏡』は以下のように記す。

  

五日辛夘。有手越平太家綱云者。征伐之間。候御共。

募其功。可被行賞之由言上。且賜駿河國麻利子一色。

招居浪人。可建立驛家云々。仍任申請之旨。被仰下。

爲散位親能奉行。早可宛行之趣。下知内屋沙汰人等云々。

 

頼朝は中原親能に奉行を命じ、内屋沙汰人に下知を下し

ている)

((((

。二十四日にようやく鎌倉に到着した頼朝は、すぐ

に広元を呼び、吉田経房と一条能保には鎌倉到着を知らせ

る書状を、また出羽留守所には農地の検注を指示する書状

を出させた。戦後処理はまだ続いていたのである。京都か

らの返事は十一月三日に届き、その内容を吟味した上で、

八日には広元を使者として京都へ遣わした。奥州平泉征服

後に処理すべき事を箇条書きにして報告し、褒美について

は辞退し、御家人の褒美については口頭で伝えるよう指示

した。また、この日奥州は国中が静かで落ち着いた様子で

あるとの報告を受けた。

 

ここまで奥州合戦の過程を軍奉行としての文士に注目し

てみてきた。彼らは頼朝の側近にあって交名・合戦記の作

成、京都への書状・御家人への指示書の執筆、御家人への

恩賞に関する下知状執筆といった右筆としての役割、寺社

からの東国武士濫妨の訴えを受け、御家人間の相論・恩賞

を審議する奉行人・沙汰人としての役割がみられる。これ

は文士の平時の業務と共通するものである。彼らは平時も

戦時も変わらぬ働きを求められていたのである。奥州合戦

においては特に史上空前の大動員を行い、三手に分かれて

行われた征伐の過程で文書や口頭による情報の伝達の重要

性は大きかったであろうし、京都への報告においてもそれ

は同じだろう。その中で文筆に携わる文士の役割は大きく、

その内容は朝廷との交渉や主従関係の再編といった奥州合

戦の意義に直接関わる重要なものばかりであったから尚更

であろう。合戦というと武士ばかりが活躍する場だと思い

がちだが、その裏に文士の支えがあってこそ意味を持つも

��

のなのである。文士はまさに合戦には必要不可欠な存在と

いえよう。ここに幕府における文士のもう一つの存在意義

を見出すことができる。

 

第二節 

武士との関係

 

次に武士と文士が頼朝の支配下でどのような関係にあっ

たのか考察したい。福田豊彦氏は「吏僚と御家人武士とは、

幕府政治の上で何かと対立する勢力となる。(中略)京都の

貴族出身の知識人吏僚と、東国の山野で育った武勇を宗と

する御家人武士とは、性格的に対立する要素をもっている。

この両勢力の対立は、頼朝死後の幕府政治展開の一つの要

因といえる程のものである」といい)

((((

、奥富敬之氏は「東国

武士には法律をつくったり、文書を作成したりする能力は、

まったく欠けていた。だから下級の貴族たちが京都から下

向してきたのである。(中略)こうして成立したばかりの鎌

倉幕府には、東国武士と京下貴族とが、混在することになっ

た。片や武、片や文である。水と油という両者が、すぐに

溶け合うことはない。いきおい両者は、対立することになっ

た。(中略)しかし、頼朝が生きている間はその頼朝の存在

が大きな重石となって、御家人間の諸対立が表面化するこ

とはなかった」という)

((((

。両氏とも武士と文士を対立関係に

捉え、その対立が表面化しなかったのには頼朝の存在が大

きいとする。確かに武士と文士の対立は表面化しておらず、

武士や文士と個々に関係を結んでいた頼朝の存在が両者の

対立を未然に防いでいたとみることもできるのかもしれな

い。しかし、第一章において指摘したように、武士と文士

は決して対立する存在ではなく、それぞれが持つ行政能力

や教養の実態を踏まえれば、彼らは性格の共通する存在で

あった。ここでは更に具体的な例を挙げて武士と文士の関

係を考えてみよう。

 

次の記事は元暦元年(一一八四)十一月二十一日条の、

頼朝が千葉常胤と土肥実平といった東国武士を引き合いに

出し、京下りの文士である筑後権守俊兼を諌めた場面であ

る。

  

廿一日丙午。今朝。武衛有御要。召筑後権守俊兼。俊

兼参進御前。而本自為事花美者也。只今殊刷行粧。着

小袖十余領。其袖妻重色之。武衛覧之。召俊兼之刀。

即進之。自取彼刀。令切俊兼之小袖・妻給後。被仰曰。

汝富才翰也。盍存倹約哉。如常胤。実平者。不分清濁

之武士也。謂所領者。又不可双俊兼。而各衣服已下用

麁品。不好美麗。故其家有富有之聞。令扶持数輩郎従。

欲励勲功。汝不知産財之所費。太過分也云々。俊兼無

所于述申。垂面敬屈。武衛向後被仰可停止花美否之由。

俊兼申可停止之旨。広元。邦通折節候傍皆銷魂云々。

��

 

福田豊彦氏はこの記事を「公文所・問注所という拠り所

を得た吏僚たちが、早くも頭を抬げ始め、頼朝が早速これ

を抑えた)

((((

」と解釈されるが、頼朝のこの行為を文武の衝突

を懸念したことによるものと捉えてよいのだろうか。確か

に京都から下ってきたばかりの俊兼は幕府と東国に馴染ん

でいなかったのかもしれず、挙兵からずっと頼朝に従い、

ともに幕府を築いたところへ、後からやってきて幕府の中

枢を担うようになった文士に対し、武士の不満もあったか

もしれない。だとしても幕府運営における文士の必要性、

各々の役割というものも充分にわかっていたのではないだ

ろうか。文士との関係構築は武士の人脈拡大にもつながる)

((((

頼朝が文士側の俊兼を諌めたのは話せば通じるとわかって

いたからであろう。また、「如常胤。実平者。不分清濁之武

士也」というのは、この場面では頼朝から相対的にみると

文士である俊兼と比べ、武士である常胤や実平は実務能力

や教養が劣るという意味であって、武士には全く実務能力

や教養が欠けていたと捉えるべきではない)

((((

。武士と文士を

全く異なった要素を持つものと捉え、対立関係にみるのは

拡大解釈といえる。この記事の解釈はあくまで華美な服装

の目立った文士を諭すために武士の代表格である常胤と実

平の名を引き合いに出したにすぎない、と捉えたい。

 

やはり武士と文士は対立関係にあるとは言い難く、幕府

内で武士と比べ文士の評価が低かったわけではないだろう。

 

第三節 

北条氏との関係

 

次に北条氏にとっての文士の存在意義を考察したい。

 

頼朝亡きあとの文士側の事情を考えてみよう。頼朝との

個人的縁により鎌倉に下り、側近として活躍してきた文士

はこの先どのような形で存在していくのであろうか。頼朝

との距離が近かっただけに、その死は彼らの存在形態にも

大きく影響した。御家人との関係もやや円滑さを欠くこと

になる。彼らの選択肢としては二つ考えられる。ひとつは

京都へ戻ることである。もうひとつは幕府を引き続き支え

ていくことである。しかし、彼らは京都に戻れば下級役人

にすぎず、むしろ幕府においてこそ実力を発揮しうる者た

ちであり、最終的に彼らは後者の選択をしたといえよう。

しかし、次期将軍頼家は独裁的で、彼らと個人的関係を結

ぶことは少なく、有力御家人や将軍の外戚である北条氏ら

とともに、頼家の独裁を押さえる立場を採らざるを得なかっ

た。

 

一方、北条氏の事情を考えてみよう。頼朝の死後、時政

は急速に自家の権力強化に乗り出した。頼朝がそうであっ

たように武士と文士の両勢力を上手く扱わなければ政権の

掌握は不可能である。そこで、時政は大江広元に接近し、

��

提携を結んだ。

 

正治二年(一二〇〇)、頼家が将軍となって初めての垸飯

は元日に北条時政、二日は千葉常胤、三日は三浦義澄、四

日は大江広元、五日は八田知家、六日は大内惟義、七日は

小山朝政、八日は結城朝光、十三日は土肥実平、十五日は佐々

木定綱がつとめた。頼朝生前は垸飯を全くつとめなかった

時政が突然元日に垸飯役をつとめている。福田豊彦氏はこ

れを「北条氏が御家人筆頭の地位を占めた」ものとし)

((((

、杉

橋隆夫氏は「北条氏の政治的地位の上昇」と評価する)

((((

。一

方、上横手雅敬氏は、「時政が明瞭に御家人ナンバーワンに

ランクされたことを意味し、頼朝の舅として別格の扱いを

受けていた過去に比べて、その地位が低下した」と評価し、

「家臣であることが確認された北条氏が次に家臣ナンバー

ワンの地位を強化するのは当然である」とする)

((((

。ここで注

目したいのは、頼家政権下になって、突然に文士の代表格

である広元の名がみえることである。福田氏や杉橋氏の指

摘に従えば、文士の代表格である広元の地位の向上といえ

る。上横手氏の指摘に従えば頼家政権下では文士が武士た

ちと並んで同じ御家人であると認識されたことになる。御

家人との個人的結びつきが強く、千葉氏や三浦氏に多大な

恩のある頼朝としては、頼朝将軍期の垸飯に文士を食い込

ませることはできなかったのだろう。しかし頼家政権下で

は前将軍である頼朝との個人的縁などを考慮する必要はな

くなったようで、それまでの業績から総合的に判断すると、

広元は有力御家人の中でも四番手に位置づけられたのであ

る。文士の代表格である広元の地位が北条・千葉・三浦に

次ぐ四番手に位置し、幕府全体がそれを認識したことには

大きな意味があったと思われる。

 

頼朝亡き後、頼家の独裁化が進むのを危惧して、その親

政は停止され、正治元年(一一九九)四月十二日、十三人

の合議制が敷かれることとなった。『吾妻鏡』はこれを以下

のように記している。

  

十二日癸酉。諸訴論事。羽林直令決断給之条。可令停

止之。於向後大少事。北条殿。同四郎主。并兵庫頭広

元朝臣。大夫属入道善信。掃部頭親能。在京。三浦介義澄。

八田右衛門尉知家。和田左衛門尉義盛。比企右衛門尉

能員。藤九郎入道蓮西。足立左衛門尉遠元。梶原平三

景時。民部大夫行政等加談合。可令計成敗。其外之輩

無左右不可執申訴訟事之旨被定之云々。

 

十三人の合議制は頼朝と個人的関係を持ち、重用された

人々により構成された)

((((

。安田元久氏はこれを武士と文士の

「妥協的な連合」とし)

((((

、杉橋隆夫氏は「幕府体制の動揺に対

する一種の弥縫策」とし)

((((

、福田豊彦氏は「一種の勢力均衡

状態が反映」したとする)

((((

。頼朝が完全に御家人を統率でき

��

ぬまま亡くなったのは事実であり、合議によって政治を進

めようとする時、武士と文士各々に人脈・知識・立場の相

違があったため、両者が相互補完関係を保たなければ正常

な幕政運営は不可能であった。武士と文士の相互の利害調

節が必要とされたのである)

((((

。十三人の合議制は頼家から政

治の実権を奪うことを図ったものであったが、一時的措置

にすぎなかったと思われる。のちに御家人たちが梶原景時

の追放を図った際にも弾劾状には行光の名がみえ)

((((

、武士同

士の争いに文士も巻き込まれていたことが読み取れる。幕

府においては武士と文士の対立よりもまず有力御家人であ

る武士同士の対立の方が顕著であった。安田氏は「北条氏

の立場は、他の豪族的武士=有力御家人らと若干異なって

いたようである。その立場はむしろ大江広元や三善康信な

どに近かったようにも思われ、(中略)既に一般の御家人た

ちの競合を客観的に眺め得る立場に立ち、むしろ御家人相

互の対立の上に、巧みに彼らの力の均衡をはかり、その間

に自己の存在を主張することに努めていた」とする)

((((

 

確かに御家人の中でも北条氏は特殊な立場である。将軍

の外戚であり、京武者を出自とする存在であった可能性が

高く)

((((

、他の東国武士とはもともと存在形態を異にする部分

が多かった。時政は大江広元、義時・政子・実朝は二階堂

行光・行村、泰時は行村といった文士と提携することで御

家人をまとめ、権力の集中を実現した。政子・実朝は文士

を常に側に置き、自らの手足として使い、政治を補佐させた。

時政・義時・泰時は執権という立場から、政所・問注所に

分かれて将軍を支える文士を管理する立場の掌握に成功し、

その地位を確立した。時政は遠江守に任ぜられて将軍家の

政所別当として幕政を主導することとなった。この一連の

過程において、北条氏にとって文士は政治権力を集中させ

る「足がかり)

((((

」であり、北条氏にとって好都合な「利用で

きる存在」だったのではないかと思われる。

 

十三人の合議制後の二階堂氏と北条氏の関係について言

及すると、建仁三年(一二〇三)十月九日の実朝元服翌日

の将軍家政所始では、時政と広元が別当に就き、行光が吉

書を書いた)

((((

。二階堂氏の業務は実務面に限られ、重要な政

治的役割のあるものは少ない。北条執権下では、政所の所

掌は幕府の財政事務のみに限定され、もともと財政を掌っ

ていた二階堂氏が政所執事としてその事務を所管すること

になる。北条氏を実務を以って支えること。ここに二階堂

氏が鎌倉時代を通して生き残った理由があるのではないだ

ろうか。また、行政の娘は義時の側室の母親であった)

((((

。宝

治合戦後の北条氏の海上交通支配を補完する役割を二階堂

氏が担ったという指摘もある)

((((

。血縁関係もみられ、両者は

相互補完関係にあったとみられる。

��

 

第四節 

文士の存在意義

 

ここまで幕府における文士について、彼らが幕府に必要

とされた理由を見出してきたが、最後に文士そのものの幕

府における存在意義について考えたい。

 

まずひとつに、それは大江広元・二階堂行政・三善康信

といった京下りの吏僚が、地方行政よりさらに高度で専門

的な行政能力を備えていたことが挙げられる。それは朝廷

で培った知識・経験であり、例えば後白河院や摂関家の政

治動向、故実・典礼に関する知識などである。彼らを軸と

して在地の文士をまとめることで、鎌倉幕府は将軍の家政

機関としての体裁を整えることができたといえよう。

 

次に、文士の人脈が必要とされたことも挙げられる。頼

朝は公家政権の権威を背にするため、当初から東国の独立

の放棄を念頭に置きつつ、他方では自立した政権の経営に

励んだ)

((((

。頼朝は武家の棟梁であると同時に貴族社会に身を

置いた存在でもあったから、幕府創立後も京都との関係は

ますます必要であることを見越していたはずである。『吾妻

鏡』には頼朝が京を懐かしみ、京都からの客を好むという

記事もみえ)

((((

、京馴じみの者を探している様子がうかがえる。

 

もう一つ考えられるのは、彼らの貴種性が鎌倉幕府その

ものを権威づけ、それが公的な機関として、武士たちを納

得させたということである。文士の存在は御家人自身に自

分たちが国家機関に組み込まれていることを意識させる装

置のひとつであったのではないだろうか。

 

以上三つの点を挙げたが、やはり下級貴族とはいえ、現

職で朝廷に仕えている人物が鎌倉に下向してきたことは、

鎌倉に京都の権門のそれに模した家政機関を築く過程にお

いて、とりわけ重要なものだったといえよう。

むすびに

 

ここまで二階堂氏を中心に鎌倉幕府成立期における文士

の姿を追ってきた。第一章では頼朝周辺の文士と東国武士

を具体的にみていき、両者の共通性を述べた。第二章では

二階堂氏は他の文士とは異なり、駿河に勢力を持つ工藤氏

系の在地領主を出自とする存在で、熱田大宮司家との関係

から頼朝のもとに伺候するに至ったことを述べた。行政は

鎌倉下向後に京都での経験を活かして幕府の財政に深く関

わり、奥州合戦では軍奉行をつとめた。行光は行政の業務

を継承して実朝・政子の側近として活躍し、最終的に政所

執事をつとめた。行村は検非違使となり、侍所所司に任ぜ

られ、将軍の供奉を担当した。行村は吏僚的な武士である

という特殊な存在であり、武士と文士を区別することの限

界を示す存在であることを指摘した。それぞれの活動内容

をみるに、二階堂氏は武士的側面と文士的側面の両方を持

��

つ吏僚的な武士の家系であった。

 

文士は将軍を補佐する業務を行うため、将軍と御家人の

狭間に位置し、御家人を管理・支配する立場にあったので

ある。

 

第三章ではまず合戦における文士の役割について奥州合

戦に重点を置き乍ら述べた。次に幕府における武士と文士

の関係と、北条氏にとっての文士の存在意義についても考

察した。その結果、対立関係ではなく、相互補完関係であ

るとして理解すべきであることを述べた。二階堂氏は実務

能力を以って北条氏を支えており、文士の存在なくして執

権の地位を確立することは出来なかったのである。幕府草

創期に武士と文士の対立が表面化しなかったことについて

は、頼朝の存在が大きいが、頼朝死後は頼家と各々の御家

人との間の情宜的関係は薄く、そのために御家人同士が相

互に関係を結ばなければならない側面があったと思われる。

 

最後に幕府に文士が必要とされた理由は、彼らの持つ実

務能力・人脈・貴種性にあることを指摘した。

 

やはり文士と武士は峻別できないと思う。確実に二つに

区別できるような単純なものではない。それは両者が互い

の特性を含んでおり、その程度によって呼ばれ方が異なる

からである。表記上は区別できても、その本質(実際の活

動内容)を区別するには限界があり、共通性がみられる。

これは貴族と武士の同質性につながるもので、生活の基盤

をどこにおくかの問題である。肩書きは「武士」「文士」で

あっても実質は「文武兼備の士」であった。

 

鎌倉幕府は「京下りの吏僚」(文士)と「京馴じみの武士」

(東国武士・有力御家人)によって構成されており、幕府成

立以前からの連続性を見出しうる。また、行政も広元も康

信も官職を辞さずに鎌倉に下向して幕府運営につとめ、京

都との接触においても活躍している。朝廷に仕えることと

幕府に仕えることとは矛盾しないのである。

 

行光・行村以後も二階堂氏は政所執事を世襲し、評定衆

や引付衆として活躍する。鎌倉時代全体を通して、さらに

鎌倉幕府における文士についての考察を深めたい。

注(1�

)目崎徳衛「鎌倉幕府草創期における吏僚」『貴族社会と古典文

化』吉川弘文館、一九九五年(初出一九七四年)、その他、文

士に関しては五味文彦氏による研究(五味文彦『武士と文士の

中世史』東京大学出版会、一九九二年)、北爪真佐夫氏による

研究(北爪真佐夫『文士と御家人─中世国家と幕府の吏僚─』

青史出版、二〇〇二年)があり、二階堂氏に関しては細川重男

氏による得宗専制期鎌倉幕府中枢の構成員の性格についての考

察における二階堂氏の基礎的研究(細川重男「政所執事二階堂

氏の家系」鎌倉遺文研究会『鎌倉遺文研究Ⅱ 

鎌倉時代の社会

と文化』東京堂出版、一九九九年)、柳原敏昭氏による二階堂

��

氏の所領と海上交通の研究(柳原敏昭「二階堂氏の所領と海上

交通─阿多北方の位置づけを考えるためのノート─」入間田宣

夫編『日本・東アジアの国家・地域・人間─歴史学と文化人類

学の方法から─』入間田宣夫先生還暦記念論集編集委員会、二

〇〇二年)がある。

(2�

)二階堂氏の名は評定衆では行村・行盛・行義・基行・行久・行方・

行泰・行綱・行忠・行有・頼綱・行藤・貞藤の十三人、引付衆

では行方・行泰・行綱・行盛・行忠・行氏・行頼・行有・行実・

行清・行章・行佐・義賢・頼綱・行景・行宗・行藤・盛忠・行貞・

貞藤の二十人がみえる(『日本史総覧』)。

(3�

)室町幕府での政所執事は当初伊勢流・信濃流二階堂氏によっ

て継承されていたが、文安六年(一四四九)四月の忠行就任を

最後に伊勢氏に代わる(『日本史総覧』)。

(4�

)五味文彦氏は『武士と文士の中世史』において、信西や兼好

法師も文士とみなされ、中世史の中で大きく文士を捉えておら

れるが、本稿ではあくまで鎌倉幕府における吏僚的側面を持つ

者に限定したい。中世国家において文士をどのように捉えるか

は今後の課題である。

(5�

)目崎徳衛前掲注(1)著書一九一・一九二頁。

(6�

)野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、二〇〇七年、一七二頁。

(7�

)目崎徳衛前掲注(1)著書一九四頁。

(8�

)目崎徳衛前掲注(1)著書一九五頁。

(9�

)目崎徳衛前掲注(1)著書一九五頁。

(�0�

)目崎徳衛前掲注(1)著書一九三・一九四頁。

(���

)野口実前掲注(6)著書。以下、三浦義澄(一三九頁)・千

葉常胤(一五〇頁)・土肥実平(一五〇頁)・下河辺行平(一四

三頁)・畠山重忠(一四一頁)・梶原景時(一四七─一四九頁)・

足立遠元(一四三─一四六頁)・小山朝政(一五五頁)につい

てはすべて同書を参照されたい。

(���

)野口実「「京武者」の東国進出とその本拠地について─大井・

品川氏と北条氏を中心に─」『研究紀要』第一九号、京都女子

大学 

宗教・文化研究所、二〇〇六年。

(���

)杉橋隆夫『鎌倉執権政治の成立過程─十三人合議制と北条時

政の「執権」職就任─』御家人制研究会編『御家人制の研究』

吉川弘文館、一九八一年、二九八頁。

(���

)野口実「三浦氏と京都─義経の時代を中心に─」三浦一族研

究会編『三浦一族研究』第十号、横須賀市、二〇〇六年六月、

十三頁。

(���

)野口実前掲注(��)著書一六頁。

(��)野口実前掲注(��)著書二八頁。

(��)野口実前掲注(6)著書一五一頁。

(���

)『吾妻鏡』で「二階堂」の名が出てくるのは、嘉禎四年(一

二三八)四月二日条の二階堂出羽守行義、一度限りである。

(���

)『公卿補任』『日本史総覧』において駿河守任命の裏付けをと

ることはできなかった。『続群書類従』「工藤二階堂氏系図」に

おいては維遠より遠江守に任命されたとみえるが、室町時代初

世に作成された系図(『群書解題』)であるため信憑性は低い。

よって、二階堂氏は駿河に勢力を持っていた程度に捉えておく。

ちなみに、維遠の兄弟にあたる維清は「入江(右)馬允維清」

なる人物で、入江氏の祖である。同人の実在性については、榛

原郡相良町大沢の般若寺に所蔵されている『大般若波羅蜜多経』

巻第三七三の奥書に、治暦二年(一〇六六)銘で「願主正五位

��

下藤原朝臣維清」とある事によって確証が得られている。この

維清の子孫からは入江氏のほか、駿河国内に工藤・原・久能(能)・

船越・岡辺(部)などの諸氏が出、伊豆国からは天野氏を輩出

している(本多隆成ほか著『静岡県の歴史』山川出版社、一九

九八年、七十・七一頁)。

(�0�

)上横手雅敬「院政期の源氏」御家人制研究会編『御家人制の

研究』吉川弘文館、一九八一年、一五六頁。ちなみに、配流先

の伊豆で頼朝の側近にあった藤九郎盛長(安達氏の祖)も熱田

大宮司家の関係者であったという(福島金治『安達泰盛と鎌倉

幕府』有隣堂、二〇〇七年)。

(���

)目崎徳衛前掲注(1)著書二〇三頁。『除目大成抄』第七に

「携文簿之業、可堪匂勘之節、見其器量、尤足吹薦之上、行政者、

為修造本寮守公神宝殿、運置其材木等於御金、期拝任。為寮為

要樞、為朝為公平」とある。

(���

)妻子皆悉く引き連れての下向であったかどうかは想像するし

かないが、この年(元暦元年)、行政の息子で、後に政所執事

となる行光は二十一歳、評定衆となる行村は三十歳であった。

残念ながら行政の年齢は未詳だが、仮に行村が行政二十歳の時

の子としても元暦元年(一一八四)の時点で行政は五十歳であ

る。この時、大江広元は三十七歳、三善康信は四十五歳である

から、行政は京下りの吏僚の中でも最年長であった可能性が高

い。ちなみに大江広元は、兄中原親能の縁により寿永二年(一

一八三)四月から寿永三年三月までのあいだに鎌倉に下向した

とみられ、下向以前は外記であった。広元の具体的活動の様子

は、九条兼実の日記『玉葉』に散見している。広元の直接の上

司にあたる清原頼業は兼実の側近の一人として、朝廷行事の先

例などに関する兼実の諮問に答えるブレーンの立場にあった。

よって広元は頼業を補佐しながら兼実の職務に奉仕していた

(上杉和彦『大江広元』吉川弘文館、二〇〇五年)。広元の鎌倉

下向は親能との兄弟関係によるものだが、頼朝にとって広元が

兼実と縁を持っていたことは好都合であっただろう。また、三

善康信は元暦元年(一一八四)四月十四日に下向してきたとみ

られる(『吾妻鏡』元暦元年四月十四日条)。康信は頼朝の乳母

の妹の息子で頼朝が伊豆に配流されて以降、十日に一度ずつ京

都から使者を遣わし、京都の情勢を知らせていた。下向以前は、

弁官であったから(目崎徳衛前掲注(1)著書二〇三頁)、太

政官の事務局で庶務や官宣旨の発布などをおこなっていたと思

われる。

(���

)『吾妻鏡』元暦元年十月六日条。なお、今後特に史料の明記

がないものはすべて『吾妻鏡』である。

(��)文治元年九月廿九日条。

(��)文治元年十月廿一日条。

(��)文治元年十月廿四日条。

(���

)心経会の導師への禄・鶴岡宮寺内に九輪塔婆建立・九輪塔婆

に朱丹を塗る・九輪塔婆の供養・永福寺建立・若宮の仮宝殿造

営始・鶴岡宮遷宮の沙汰・法皇四十九日仏事の布施・政子の御

願による鶴岡供僧への布施・御堂の供養・鶴岡宮寺舞殿造立・

永福寺内に伽藍建立・放生会・東大寺供養の布施・永福寺阿弥

陀堂建立・鶴岡上外宮常灯油結番奉行など。

(��)建久四年十月廿九日条。

(��)建久五年十一月廿六日条。

(�0)文治二年十月三日条。

��

(��)文治二年六月十一日条。

(��)建久三年十月十五日条。

(��)建久三年十二月十日条。

(��)建久三年六月廿日条。

(��)建久三年十二月廿八日条。

(��)建久六年七月廿四日条。

(��)文治二年三月一日条。

(��)建久三年八月廿四日条。

(��)建久三年九月十一日条。

(�0)建仁三年三月十五日条。

(��)文治三年五月廿日条。

(��)文治五年七月十九日条。

(��)建久元年九月十五日条。

(��)建久四年正月廿七日条。

(��)建久四年十一月十二日条。

(��)建久四年十一月卅日条。

(��)上杉和彦前掲注(��)著書。

(���

)元久元年(一二〇四)四月十二日には山城守に任ぜられてい

る(『明月記』元久元年四月十三日条)。なお、十三人の合議制

については上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次『日本の中世 

 

院政と平氏、鎌倉政権』中央公論新社、二〇〇二年。

(���

)『鎌倉遺文』一三五八号。政所令は「右兵衛少尉行光」である。

建保二年(同二一二八号)から建保五年(同二三三二号)の間

は政所別当として名を連ねている。

(�0�

)五味文彦氏は『吾妻鏡の方法─事実と神話にみる中世─』(吉

川弘文館、一九九〇年)において、行光を行村の兄と記されて

いるが、行光は長寛二年(一一六四)生まれ(『吾妻鏡』から

の没年齢により逆算)、行村は久寿二年(一一五五)生まれ(『吾

妻鏡』『関東評定伝』からの没年齢より逆算)であるため、行

光は行村の九つ下の弟にあたる。

(���

)仏事は三幡の埋葬供奉・故将軍(頼朝)法華堂にて法華懺法

の始行・政子の御願により伽藍建立の地(亀谷)を巡検・寿福

寺の営作・鶴岡宮の宝前における八万四千基の泥塔供養の布施・

永福寺薬師堂の寺社奉行・政子の鶴岡参詣の供奉・神宮寺上棟

の匠らへの禄・永福寺の伽藍供養・実朝の法華堂参拝の布施・

実朝の鶴岡宮参詣の供奉・奉幣の使いを南山へ進める日時を報

告・金剛力士像の造立・御持仏堂の御本尊開眼供養・七仏薬師

像の造立・相模川において小河法印忠快の六字河臨法事・薬師

如来供養など。奉行だけでなく政子や実朝の参詣に伴う供奉も

多い。裁判では武蔵国大河戸御厨と伊豆宮神人らの喧嘩の沙汰

や広元・康信・盛時とともに西国守護の事についての沙汰を行

い、また義村・康信・仲業とともに御所の南面において終日諸

人の愁訴を奉行したとある。

(���

)『明月記』元久二年正月卅日条。

(���

)正治元年八月十九日条。正治二年三月十四日条。建仁二年正

月廿九日条。

(��)元久二年十一月三日条。

(��)建暦三年九月八日条。

(��)建暦元年十二月廿七日条。

(��)建保五年四月十七日条。

(��)建暦二年九月十五日条。

(��)建保元年五月七日条。

�0

(�0)建仁元年七月六日条。

(���

)建保元年十二月廿日条。和歌の解釈、故事の内容については

大谷雅子『和歌が語る 

吾妻鏡の世界』(歴史研究会、一九九

六年)に依拠した。

(���

)『愚管抄』日本古典文学大系、岡見正雄ほか編、岩波書店、

一九六七年。

(���

)『吾妻鏡』における「信濃守行光」の初見は建保四年(一二一六)

正月十七日、前官民部大夫での表記の最後は建保三年(一二一

五)十二月十六日である。

(���

)『尊卑分脈』は光宗の父朝光を「或二階堂行政子云々」とするが、

『吾妻鏡』では行光は光宗の外叔とする(建久五年十月九日条)。

(��)正治二年十一月七日条。『明月記』正治二年十月廿七日条。

(��)『関東評定伝』暦仁元年条。

(��)『関東評定伝』暦仁元年条。

(��)嘉禄元年十二月廿一日条。『関東評定伝』嘉禄元年条。

(��)五味文彦前掲注(�0)著書。

(�0�

)実朝生前には永福寺供養・結城朝光とともに本尊持仏堂安置

供養の際の諸僧の布施・行光とともに七仏薬師像造立を奉行し

た。死後貞応二年(一二二三)には伊賀光宗と勝長寿院奥の御

堂と傍らの御亭等の上棟・勝長寿院鎮守社を他所に移す奉行を

した。

(��)建暦元年四月廿九日条。建保二年三月九日条。

(��)建保二年正月廿二日条。

(���

)建暦三年八月廿日条。建暦三年八月廿六日条。建保二年七月

廿七日条。

(��)建保四年七月十五日条。

(��)建保五年三月十日条。

(��)建保五年十二月廿五日条。

(��)建保六年七月八日条。

(��)元久二年十二月廿四日条。

(��)元久三年正月廿七日条。

(�0)建保二年四月十八日条。

(��)建保五年七月廿六日条。

(���

)この時点ではみられないが、十二世紀になると信濃流信濃家

と隠岐流備中家の間に政所執事をめぐる抗争があったという

(細川重男前掲注(1)著書)。

(���

)承久三年五月廿三日条。子息の基行、行光の子息行盛も鎌倉

に留まっている。

(��)貞応三年閏七月廿九日条。

(��)暦仁元年二月十六日条。

(���

)岩田慎平「草創期鎌倉幕府研究の一視点─奉行人を中心に─」

『紫苑』第四号、京都女子大学 

宗教・文化研究所ゼミナール、

二〇〇六年。

(��)上杉和彦前掲注(��)著書一〇四頁。

(��)元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、一九九五年。

(��)目崎徳衛前掲注(1)著書一九三頁。

(�0)五味文彦前掲注(�0)著書。

(��)目崎徳衛前掲注(1)著書一九一頁。

(��)五味文彦前掲注(�0)著書。

(��)元暦元年正月廿七日条。

(���

)永原慶二編『人物・日本の歴史 

鎌倉と京都』読売新聞社、

一九六六年、五四─五六頁。

��

(��)五味文彦前掲注(�0)著書。

(��)元木泰雄『源義経』吉川弘文館、二〇〇七年、八五頁。

(���)五味文彦前掲注(�0)著書。

(���

)川合康『鎌倉幕府成立史の研究』校倉書房、二〇〇四年。川

合氏は頼朝の平泉藤原氏に対する強硬な姿勢が義経潜伏以前か

らみられ、奥州合戦は「頼朝の政治」として実行された戦争で

あったとする。朝廷の許可なしに奥州合戦が強行され、合戦の

過程が徹底して頼義故実に基づいて行われていることから、そ

の背景には頼朝の奥州に対する特別な認識があったという。「前

九年合戦」を全国から動員した武士に追体験させることで、先

祖頼義の武功を認識させ、これは鎌倉殿の正統性を主張する上

で大きな意義を持ったと指摘される。

(���

)川合康前掲注(��)著書二〇二頁。

(�00�

)文治五年六月廿七日条。「前圖書允」を特定することはでき

なかった。ちなみに、承元四年(一二一〇)には行村が図書充

に任ぜられている。よって文士が任ぜられていたと思われる。

(�0��

)行政は建久五年十二月十七日条、行村は建保六年十二月廿六

日条。

(�0��

)川合康前掲注(��)著書注(��)。川合氏は「文治五年景時

軍兵注文」は美作国守護としてではなく、奥州合戦の交名担当

奉行として作成したものと理解すべきではないか、としている。

(�0��

)奥州合戦には親能・行政の他に文士では平盛時が参加してい

る(文治五年七月十九日条)。留守番は三善康信・三善康清・

藤原邦通・佐々木経高・大庭景能・成尋などであった(文治五

年七月十七日条)。

(�0��

)内屋沙汰人とは誰を指すのだろうか。「内屋沙汰人」という

語は『吾妻鏡』において他にない。おそらく親能の下で実務を

担う下級の文士が存在したのではないかと思われる。

(�0��

)福田豊彦『千葉常胤』吉川弘文館、一九八七年、一九三頁。

(�0��

)奥富敬之『鎌倉北条氏の興亡』吉川弘文館、二〇〇三年、三

八・三九頁。

(�0��

)福田豊彦前掲注(�0�)著書一九四頁。

(�0��

)三浦・千葉氏などもその所領が拡大するに伴って京都や西国

から吏僚や被官を採用している(野口実「伊豆北条氏の周辺」『研

究紀要』第二〇号、京都女子大学 

宗教・文化研究所、二〇〇

七年、八六頁・一一〇頁注(1))。

(�0��

)野口実前掲注(6)著書一四九・一五〇頁。

(��0�

)福田豊彦前掲注(�0�)著書二二四頁。

(����

)杉橋隆夫前掲注(��)著書三〇八頁。同著注(�0)において

上横手氏の見解を挙げ、この時期に時政の地位向上を認める杉

橋氏の考えとは全体に馴まない、とする。

(����

)上横手雅敬『鎌倉時代─その光と影』吉川弘文館、一九九四年、

九四─九七頁。

(���)注(��)を参照されたい。

(���)安田元久『北条義時』吉川弘文館、一九八六年、七八頁。

(���)杉橋隆夫前掲注(��)著書。

(����

)福田豊彦前掲注(�0�)著書二二四頁。福田氏は垸飯行事につ

いても一種の勢力均衡状態が反映しているのではなかろうか、

と指摘される。

(���)杉橋隆夫前掲注(��)著書三〇二頁。

(���)正治元年十月廿八日条。

(���)安田元久前掲注(���)著書八七・八八頁。

��

(��0)野口実前掲注(��)著書五九頁。

(���)杉橋隆夫前掲注(��)著書三〇三・三一四頁。

(���)建仁三年十月九日条。

(���)建保五年二月十九日条。

(����

)柳原敏昭前掲注(1)論文一五五頁。二階堂氏は全国各地に

所領を得て、吏僚という立場を利用して国内の海上交通に臨ん

でおり、全国の様々な勢力と関係を持っていたという。海上交

通支配に関して北条氏と二階堂氏は相互補完関係にあったと思

われる。

(����

)上横手雅敬『鎌倉時代政治史研究』吉川弘文館、一九九一年。

(����

)養和二年正月廿三日条。

    

廿三日甲午。伯耆守時家初参武衛。是時忠卿息也。依継母

之結構。被配上総国。司馬令賞翫之。為聟君。而広常去年

以来御気色聊不快之間。為贖其事挙申之。武衛愛京洛客之

間。殊憐愍云々。

   

養和二年五月十二日条。

    

十二日辛巳。伏見冠者藤原広綱初参武衛。是右筆也。馴京

都者。依有御尋。安田三郎被挙申之。日来住遠江国懸河辺

云々。

〔付記〕

  

� 

本研究ノートは、京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール

『吾妻鏡』講読会の成果に基づくものである。毎回熱心にご指

導下さった野口実先生、および岩田慎平氏をはじめとする先輩

方、また共に学んだ同回生の仲間たちに感謝の意を捧げたい。

��

一月

 

『吾妻鏡』�

講読会A(仁治元年~)(十三・二十・二十七日)

 

『小右記』講読会(十五日)

 

『吾妻鏡』講読会B(治承四年~)(十九日)

二月

 

『吾妻鏡』講読会A(三・二十四日)

 

『小右記』講読会(五・十二日)

三月

 

一日 

田中裕紀さん結婚お祝い会(レストランエヴァン

タイユ)

 

十二日 

例会(�

公開研究会)永井晋氏「以仁王挙兵の枠

組みを考える」

 

三十一日 

例会 

藪本勝治氏「諸文献に表れる牛若奥州

下りとその助力者について─『義経記』

巻第二「義経陵が館焼き給ふ事」の解

釈─」

 

『吾妻鏡』講読会A(三・十七・二十四・三十一日)

四月

 

『吾妻鏡』講読会A(十四・二十一・二十八日)

 

『吾妻鏡』講読会B(十・十七・二十四日)

五月

 

『吾妻鏡』講読会A(十二・十九日)

 

『小右記』講読会(十一日)

 

『吾妻鏡』講読会B(八・十五・二十九日)

六月

 

二十七日 

研究所公開講座・懇談会・懇親会

 

『吾妻鏡』講読会A(二・九・十六・二十三・三十日)

 

『小右記』講読会(一・八・十五・二十二日)

 

『吾妻鏡』講読会B(五・十九・二十六日)

七月

 

『吾妻鏡』講読会A(七・十四・二十一・二十八日)

 

『小右記』講読会(六・十三・二十日)

 

『吾妻鏡』講読会B(三・十・十七・二十四日)

二〇〇九年

  

宗教・文化研究所ゼミナール活動記録

��

九月

 

『吾妻鏡』講読会A(二十九日)

 

『小右記』講読会(十四・二十八日)

 

『吾妻鏡』講読会B(十七・二十四日)

十月

 

『吾妻鏡』講読会A(六・十三・二十・二十七日)

 

『小右記』講読会(五・十二・十九・二十六日)

 

『吾妻鏡』講読会B(一・十五・二十二・二十九日)

十一月

  

十九日 

ゼミ史跡見学会(法住寺殿跡周辺)

 

『吾妻鏡』講読会A(十・十七・二十四日)

 

『小右記』講読会(九・十六・二十三日)

 

『吾妻鏡』講読会B(五・十二・二十六日)

十二月

  

十四日 

ゼミ忘年会(里)

 

『吾妻鏡』講読会A(一・八・十五日)

 

『小右記』講読会(七・十四日)

 

『吾妻鏡』講読会B(三・十・十七日)

公開講座懇親会の風景(6月27日)

��

執筆者紹介

   

藪本 

勝治・・・・神戸大学大学院人文学研究科博士課程後期課程

   

大谷久美子・・・・本学大学院文学研究科博士前期課程

   

岩田 

慎平・・・・関西学院大学大学院文学研究科研究員

            

本学宗教・文化研究所共同研究員

   

   

山本みなみ・・・・本学文学部史学科二回生

��

『紫苑』投稿規定

一、(資格)

  

投稿資格者は、ゼミメンバー並びにゼミ主宰者の認

定するものとします。

二、(枚数)

  

注を含め四〇〇字詰原稿用紙に換算して七十枚以内

とします。但し、分量については適宜相談に応じます。

三、(原稿)

 

①�

種類は、論文・研究ノートなど。縦書き・完全原稿

とします。

 

②�

ワープロ原稿の場合は、四〇〇字の倍数、縦書きで打

ち出してください。投稿の際は、原稿を保存したメデ

ィア(フロッピー、CD─R、など)一部を添え、使

用ワープロの機種名・ソフト名を明示して下さい。

 

③�

手書き原稿の場合は、四〇〇字詰または二〇〇字詰

原稿用紙に、本文・注とも一マス一字、縦書き、楷

書で、鉛筆書きは不可とします。

 

④�

注は本文末に一括して、(1)、(2)、…のように付

けて下さい。

 

⑤�

年号を用いる場合は、なるべく西暦併用でお願いし

ます。

 

⑥�

図表・写真(いずれも鮮明なものに限ります)の添

付は刷り上がり時の大きさを勘案して字数に換算し

ます。これらを添付する場合は、おおまかな掲載場

所を指示してください。

 

⑦�

編集作業の迅速化のため、住所・氏名(ふりがな)・

目次を記した別紙一枚を添えて下さい。

四、(採否)

  

編集担当者が掲載の可否を審査いたします。

五、(著作権・公開の確認)

  

本誌掲載の論文・研究ノート等の著作権は著者に帰

属するものとします。ただし、宗教・文化研究所ゼ

ミナールは、本誌に掲載された論文・研究ノート等

を電子化または複製の形態などで公開する権利を有

するものとします。執筆者はこれに同意して、投稿

されるものとします。やむをえない事情により電子

化または複製による公開について許諾できない場合

は、採用が決定した段階で宗教・文化研究所ゼミナ

ールにお申し出ください。

六、(備考)

 

①他誌への二重投稿はご遠慮ください。

 

②�

掲載後一年以内の他への転載は控えていただきま

す。

*�

ご不明な点は宗教・文化研究所ゼミナールまでご連絡

ください。

��

 

二〇〇九年のゼミは、例会や史跡見学の実施が思うに任

せませんでしたが、史料講読会はいよいよ充実の度を増し

ていったように思います。『吾妻鏡』の講読会は院生主体、

学部生主体の会に分かれて毎週二度開催されました。

 

前者は岩田慎平君(関学)・藪本勝治君(神大)・米澤隼

人君(京大)など、学外から参加してくれている院生以上

のメンバーが牽引し、これに建築史専攻の本学院生山口紗

也佳さんも加わって、毎回かなりハイレベルな議論が交わ

されました。学部二回生ながら出席していた山本みなみさ

んは大いに良い刺激を受けたことと思います。

 

後者は史学科の井草温子さん・今井ゆりかさん・浜口千

裕さん・船津丸幸起さん・本徳真衣さん・山本みなみさん

と国文学科の尾田沙祐里さんら全員学部二回生が出席して、

あたかも正課の授業のように真剣に取り組みました。

 

一方、二〇〇八年度から開始された『小右記』講読会は、

中心メンバーだった江波曜子さんが広島大学大学院に進学

された後、継続が危ぶまれていましたが、平安文学を専攻

する院生大谷久美子さん・山本真由子さんが中心になって

継続してくれました。少人数ながら、毎回大部のレジュメ

が用意され、時には研究報告レベルの話をうかがうことも

出来て、このところ平安時代の研究から離れている私自身、

とても勉強になりました。学部生でただ一人参加している

山本みなみさんも、「記録」にだいぶ慣れることが出来たの

ではないでしょうか。

 

この『紫苑』第八号には、まさに史料講読会で活躍して

いるメンバーが、その成果を持ち寄ってくれたという観が

あり、ゼミの機関誌としては理想的なものとなりました。

 

研究所の行事である市民公開講座の実施もゼミメンバー

の助力によるところが大きく、終了後の懇談会や懇親会で

は、例年のように、講師にお招きした先生方や参加して下

さった研究者の方々と交流を深めることが出来ました。

 

昨年の『史学雑誌』(回顧と展望)には、第六号掲載の論

文・研究ノートが三本も紹介されましたが、今号もぜひ多

くの研究者の目に触れることを期待しています。また、こ

れを読んで、一緒に勉強したいと思われた方は、ぜひ当ゼ

ミに参加して下さい。

��最後に、今号の編集を担当してくれた山本みなみさんと

助力を頂いた岩田慎平君に感謝の意を表します。�

(野口)

あとがき

��

 

寒い冬が終わりを告げ、春めく窓辺に温かな日差しが差

し込む今日この頃。今年も『紫苑』第八号をお届けします。

 

本号は数年来の『吾妻鏡』講読会の他、二年前より始まっ

た『小右記』と『吾妻鏡』(養和元年)講読会それぞれの参

加メンバーにより執筆されたものであり、その成果が反映

されています。所属する大学、学部、回生は違えども、共

に学び、その成果をこのような形で発表できますことを、

大変嬉しく思っています。

 

講読会はどれも充実した内容で、良い刺激を受けること

ができました。『吾妻鏡』(養和元年)講読会では日記との

併読も行われ、参加者の訓読、内容理解のレベルは着実に

上がっています。来年度はゼミ旅行や見学会も含め、さら

に活発な活動にしていきたいと思っています。

 

最後になりましたが、お忙しい中、講読会・例会におい

ていつも熱心なご指導をしてくださる野口実先生にこの場

を借りてお礼申し上げます。また、出版においては、初め

ての編集長という大役で、至らぬ点も多々ありましたが、

皆様のお力をお借りして無事出版することが出来ましたこ

とを心より感謝申し上げます。

 

今後とも当ゼミをよろしくお願い申し上げます。また、

感想などお聞かせいただければ幸いです。

(山本みなみ)

紫 

苑  

第八号

   

二〇一〇年三月十五日  

印刷

   

二〇一〇年三月三十一日 

発行

編 

集 

京都女子大学

    

宗教・文化研究所ゼミナール

             

(山本みなみ)

発行所 

京都女子大学 

宗教・文化研究所

    

京都市東山区今熊野北日吉町三五

電 

話 

(〇七五)五三一―

七二二一

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P 

http://donkun.ath.cx/~sion/