田村 卓夫著 - NAN-NAN ·...

改訂 1 版:2006 年 5 月 26 日発行 田村 卓夫著 ( 元 「大分の石橋を研究する会」代表 ) その千載橋 ( せんざいばし ) 物語 はじめに 悔いを千載に残す 碑文は語る だぼ石の手法 だぼ石は語るか 名石工/後藤郷兵衛とその一族 万年橋について 「大分の石橋物語」「オオイタデジタルブック」について

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Page 1: 田村 卓夫著 - NAN-NAN · 前者は二代目後藤郷兵衛の造、後者は三代目に当たる後藤 斧茂(おのも)の造である。 ということは用いる石橋の部分は違っても、だぼ石の採

改訂 1 版:2006 年 5 月 26 日発行

田 村 卓 夫 著 ( 元 「大分の石橋を研究する会」代表 )

その1 千載橋 ( せんざいばし ) 物語

はじめに悔いを千載に残す

碑文は語るだぼ石の手法

だぼ石は語るか名石工/後藤郷兵衛とその一族

万年橋について「大分の石橋物語」「オオイタデジタルブック」について

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田村卓夫著「大分の石橋物語」

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 私たち「大分の石橋を研究する会」も、昭和 53 年 1 月結成以来、十年を超す年数を経過した。その間、会員の調査研究活動、外部への啓発活動など、地道ながら積み上げ、それなりの成果は挙げてきたのではないかと思う。昨年 10 年を経過した折に、一応「石橋十年」として総括してみたのである。 しかし、大分県において石橋保全が社会的に問題化されるようになったのは、昭和 46 年、大野町菅田(すげた)にあった石造アーチ橋「千載橋」(せんざいばし)が撤去されたのがきっかけであった。 いわば大分県における石橋保全運動の原点はこの時に

あったといってよい。そこで、改めて「石橋十五年」として、その後の会員の調査を基に、県内各地の石橋保全の状況や優れた石橋の景観などを紹介してみたいと思う。 もう一つこの稿の目的は、かつて筆者は大分合同新聞文化欄に「大分の石橋」(昭和 55 年 1 月 12 日~同 7 月 15 日まで 24 回)「石橋を歩く」(昭和 56 年 4 月 2 日~同 9 月 17日まで 18 回)を二度にわたって連載執筆した。あのころは無我夢中、行き当たりばったり県各地を歩き回り書きつづけた。8、9 年たった今、読み直してみると、筆の足りない点や誤った数値、記述がかなりある。そこで、その後の調査や情報で分かったことで訂正をし、また補足したいと思うわけである……「大分の石橋」「石橋を歩く」のスクラップは県立大分図番館の郷土資料の中に保存されています。

2004 年に解散した「大分の石橋を研究する会」という会がある。1978 年に結成、大分の石橋の調査研究、啓発活動にあたった。その初代会長の田村卓夫氏が、「石橋 15 年」のタイトルで大分合同新聞に 1989 年 8 月 29 日から 90 年4 月 10 日にかけて連載したものを、今回、デジタルブックとして復刻した。まずは、田村氏が記した 89 年当時の連載開始の弁から。            2006 年 4 月

0-0 はじめに    田村 卓夫

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1-1 悔いを千載に残す 昭和 46 年 2 月 24 日付大分合同新聞夕刊に「惜しまれる逸品くるま橋 大野町菅田の石橋『千載橋』保存運動の

矢先こわす」という見出しで、概略次のような記事が掲載されている。 大野町菅田の旧国道にあった珍しい石橋「千載橋」が、橋脚が傷んできたため取りこわされた。140 年間も多く

在りし日の千載橋( 写真:すべて岡崎文雄)

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の人たちや人力車、荷馬車そしてつい最近まで大型のバスやトラックを渡し、地元の人たちからは「くるま橋」と呼んで親しまれてきた。(中略) これを調査した竹田市文化財調査委員の山口辿氏は「この橋は菅田の人たちが血のにじむ苦労のすえの偉業である。取りこわすにしても、どんな工法だったのかも研究せずにこわしてしまって惜しい。祖先の偉業に感謝、橋の多年の苦労に一振りの花でも供えてくれただろうか」と嘆いている。 18 年前の大分合同新聞のこの記事を今読み返して、筆者は感無量を覚えるのである。というのは、本年 3 月、緒方町越生(こしお)にある大渡橋(おおわたりばし、大正 12 年橋長約 70 メートル)を撤収する際には、地区民あげての「お別れ行事」が催され、橋や橋を建造した先人に対する感謝と供養を行ったことを思うと、隔世の感を覚えるからである。またこの時の行政や施工業者の対応も、アーチ石橋の技術の記禄保存のため石橋専門家に解体の過程を視察させたり、写真撮影を行ったりした。これは大事なことである。 なぜ大事かといえば、県内の多数の石造アーチ橋の中には、保全のために補修せねばならないものもかなりあり、また道路や河川との関係で将来移築せねばならないことも

ある。そうした場合の石造アーチ橋の施工技術を、石橋のハードウエアとして蓄積しておかねばならないからである。いわゆる石橋の「こわしっ放し」では困るのである。大渡橋の解体撤去については、技術的に学ぶ点が多かったはずである。 それにしても千載橋は石橋研究のためには貴重な数々の資料を提供した。そのことは次回で述べるが、大野町だけでなく大分県としても他にかけがえのない貴重な石橋だった、悔いを千載に残すことになったのである。

1-2 碑文は語る 千載橋が実在した当時の写真はあまり残されてはいない。そんなに価値のあるものとは思われていなかったのだから無理もない。長嶺一生氏は「九州のかたち眼鏡橋」(太田静六編)の中で、在りし日の千載橋の姿を文と写真で紹介している。大野町中央公民館にはカラー写真を額縁に入れて保存している。いずれも価値のあるものだ。 また橋の右岸の旧道(往時の参勤交代道)沿いの小さな公民館の前に、千載橋完成の記念碑が建っている。凝灰岩の石碑は表面の刻字はかなり風化していて読みづらい個所

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もあるが、完工直後に建立したものだけに、史料的価値は高い。「岡の大城より犬飼の津(舟着き湯)に至る大道の川々に橋造るえだち(夫役)のことば…云々」で始まる格調の高い碑文によって次のことが分かる。  ○天保元年 3 月に工を起こし、翌天保 2(1831)   年に完成した。  ○事業を推進したのは、菅(すげ)田組(菅田、   柴北、田原、柴山)の大庄屋椎原彦九郎。  ○工事は柴北の名石工後藤郷兵衛が棟梁となり各   村の石工が協力した。 ちょうどこの年は、藩主中川久教は江戸へ出府の年にあたっていた(中川史料集)。3 月 25 日朝、岡城を発駕、犬飼へ向かっている。新造の千載橋を渡ったのは昼ごろであったろう。大庄屋椎原彦九郎の子孫椎原勝也氏(鎌倉市居住)のもとに一枚の絵図が所蔵されているが、橋の上で藩主がカゴを降り、平伏する彦九郎以下の者にねぎらいの言葉を掛けている図柄である。橋が完成した直後庄屋の家に立ち寄った一絵師の手になるものである。 橋そのものが消滅して幻となった今、実在する石碑や絵図は大切に保存したいものだ。

千載橋の輪石にはめこまれたダボ石 ( 矢印の個所)

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 千載橋は、その全体の容姿が優美だったことは既に述べたが、石積みの技術面でも優れていて、十トン以上の車が通過してもびくともしなかったという。堅ろうな構造だったのだろう。壁石は形状の異なる割り石を巧みに組み合わ

せ、美しい「乱積み」である。 特にユニークなのは、輪石(アーチ石)の継ぎ目にだぼ

(太 )石を挟んでいることである(前ページ写真)。この技法は大分県内には他になく、全国的にも熊本県で植木町の「豊岡橋」(写真左)、菊陽町の「井口めがね橋」、御船町の「門前川眼鏡橋」に見るだけである。鉄を用いただぼ

鉄も長崎県の「諫早眼鏡橋」の例だけで極めて珍しいのである。 このうち「豊岡橋」は西南戦争の激戦地

「田原坂」の北方 1.5 キロ、玉名と熊本を結ぶ旧道に架かっている。「井口めがね橋」は豊肥線原水駅の南西 2.5 キロの場所に在り、両橋ともクルマの寄り付きもよく割りに見付けやすい。一見に値する石橋である。 千載橋のだぼ石の工学的な効果については専門家の間で意見が分かれていて、輪石の緩みを防止する働きをしているという説と、この程度の小さな石では役に立たない、装飾的な意味しかないのではないかという説である。それも今となっては検証するすべはない。

1-3 だぼ石の手法

熊本・豊岡橋にはめこまれたダボ石

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 輪石にだぼ石を用いたのは県内では千載橋だけだが、路面の勾欄の継ぎ目にだぼ石を用いているのは、大分市西寒多神社の「万年橋」(文久 2 年、1862)と犬飼町真萱(まかや)の「千世橋」(明治 12 年、1879)の二例がある。前者は二代目後藤郷兵衛の造、後者は三代目に当たる後藤斧茂(おのも)の造である。 ということは用いる石橋の部分は違っても、だぼ石の採用は郷兵衛独自の手法ではなかったかと想像されるのである。 先に述べた熊本県植木町の豊岡橋は、享和 2(1802)

年竣工の肥後では最も古いアーチ石橋である。石工は理左衛門。享和二年は郷兵衛は 39 歳の働き盛り。理左衛門のもとで豊岡橋の工事に参加したことが十分考えられる。いつか郷兵衛の子孫後藤せいさん(故人)が、郷兵衛は肥後の「殿さま」にかわいがられたと聞いていると言っていた。 肥後の「殿さま」が何者かは分からぬが、肥後と直接かかわりがあったことが想像される。それから4年後の文化2(1805)年には、郷兵衛は帰郷して上々石割の肩書で中野堤(溜池)の工事を行っている(清川村誌)。豊後の石橋技術の系譜についてはまだまだ不明のことが多いが、千載橋が小さなきっかけを与えてくれたのではないか、とひそかに思ってみるのである。

1-4 だぼ石は語るか

下から見上げた熊本・豊岡橋 熊本・豊岡橋の側面のアップ

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 冒頭に千載橋を取り上げたが、これは決して、古傷にさわるとか、当時の関係の方を非難するとかいうものでは全くない。当時としてはどこの市町村でも起こり得ることが、たまたま大野町で起こったに過ぎないのだ。止むを得ぬ事情があっただろうことは、十分お察ししているのである。 むしろ、千載橋が捨て石となって大分県のアーチ石橋が見直され、また架橋にかかわった人々、特に往時の石工たちの名が世に出るきっかけになったことに、意義を覚えるのである。 さて、千載橋が柴北(犬飼町)の名石工、後藤郷兵衛の名を高めたことは前回述べたとおりだが、後藤一族の手になるアーチ石橋は、このほかに大分市西寒多神社参道にある万年橋(文久 2 年、1862)と犬飼町真萱にある千世橋(明治 12 年、1869)が分かっている。万年橋は二代郷兵衛と斧茂(おのも・石碑では茂兵衛となっている)の仕事、千世橋は斧茂の仕事である。

 ここで後藤家の略譜を書いてみよう。1-5 名石工・後藤郷兵衛とその一族             (三代郷兵衛)初代郷兵衛  二代郷兵衛   与市   ○   邦夫1763 ~ 1840   1811 ~ 1874   1763 ~ 1840

長女 カメ 1798 ~ 1857                斧茂    ○    憲一 覚右衛門 1801 ~ 1873

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 「犬飼町誌」によると、初代郷兵衛は農業のかたわら石工として働き、積み石工としても彫り石工としても優れた技を持っていて、岡城の修理をはじめ主な道路」橋梁工事等に参画し、なかでも橋梁は彼の得意とするところであっ

た。また神社の基礎工事・鳥居・仏像等もずいぶん彫刻しているという。 長男が遅く生まれたので、弟子の中で一番腕の立つ覚右衛門(角右衛門とも)を長女の婿として家業と屋敷を譲

り、自分は長男(二代目郷兵衛)とともに柴北下河原に別居した。 水車を築造することを許され、晩年は石工よりも製粉業で繁盛したようである。千載橋建造の時は郷兵衛すでに 68歳で、設計や総差配は行ったであろうが、石切り、石積みなどの現場監督の仕事は 30 歳の働き盛り覚右衛門が陣頭に立ったと思われる。 二代目郷兵衛は石工の技も身につけてはいたが、主として農事に励み、また水車業で地域に責献したということである。

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 「万年橋」は大分市で由緒ある西寒多 ( ささむた)神社の入り口にある参道橋。容姿としては消失した千載橋より重厚で、個々の石もより大きいものを用い、乱積みながら整然としている。輪石が二重積みに見える。霊山を水源とする清流をまたぎ、小さな魚が泳いでいる。すぐ横の藤棚は毎年 5 月の「藤まつり」に各テレビが取り上げるが、石橋のコメントはしない。私はかねてから考えているのだが、藤まつりと、石橋まつりを合わせたイベントとしてできないものだろうか。総代会の方や石材業組合にも話しかけたことがあるのだが…。一度、村井禰宜さんにお願いしたら藤まつりの祝詞の中で「いしのたくみのなせるわざ云々」と奏上していただき、たいへん感激したことがあった。 もう一つ、万年橋の景観としていつも気になるのは、下流にある赤い鉄の仮設橋のこと。藤まつりの日の酔客のために架けたものらしいが、それはそれで必要なこととして、鉄もかなり腐食しているようなので、今度架け替える時には石造の沈み橋にしたらどうだろう。そして橋の上流下流をはだしで歩けるようにできないか。ここ「西寒多の森」の自然林につながる「石橋のある自然公園」として整

1-6 万年橋について

備できないか、と思ってみるのである。 万年橋は、石碑には石工棟梁名が郷兵衛(二代目)と茂兵衛(斧茂)と連名で刻まれているが、実際の仕事は幼少、から石工の技を父覚右衛門に仕込まれた斧茂の手によるものであろう。この斧茂が棟梁となって架けたのが犬飼町の

「千世橋」。管理が行き届かないので貧弱に見えるが、小さいながら鋭い技の見えるアーチ石橋である。

(今回の項は大分合同新聞の 1989 年 8 月 29 日、9 月 5 日、

9 月 12 日発行の夕刊に掲載された記事を再編集した)

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田村卓夫著「大分の石橋物語」

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 オオイタデジタルブックは、大分合同新聞社

と学校法人別府大学が、大分の文化振興の一助

となることを願って立ち上げたインターネット

活用プロジェクト「NAN-NAN(なんなん)」の

一環です。NAN-NAN では、大分の文化と歴史を

伝承していくうえで重要な、さまざまな文書や

資料をデジタル化して公開します。そして、読

大分合同新聞社 別 府 大 学

者からの指摘・追加情報を受けながら逐次、改

訂して充実発展を図っていきたいと願っていま

す。情報があれば、ぜひ NAN-NAN 事務局へお

寄せください。

 NAN-NAN では、この「大分の石橋物語」以外

にもデジタルブック等をホームページで公開し

ています。インターネットに接続のうえ下のボ

タンをクリックすると、ホームページが立ち上

がります。まずは、クリック!!!

■筆者/田村 卓夫氏

1918( 大正 7) 年生まれ、42 年京城帝国大学法文学部史学科卒業、46 年大分県立別府高等女学校教諭。県文化室長/県文化課課長、県立竹田高校校長、大分上野丘高校校長、大分図書館長等を歴任。81 年「大分の石橋を研究する会」初代代表。著書に「郷土の先覚者シリーズ第5集/郷土の先覚者 10 朝倉文夫」(75 年 2 月、編集兼発行:大分県教育委員会)、川柳句集「今あらためて 凡柳句」「晩年」。90 年に石橋などの文化財保護活動に対して大分県知事表彰を受賞。

2006 年 5 月 26 日 改訂 1 版発行著者 田村 卓夫写真 岡崎 文雄制作 別府大学情報教育センター発行 NAN-NAN 事務局    〒 870-8605 大分市府内町 3-9-15     大分合同新聞社 総合企画室内

(問い合わせ・情報提供はこちらからも→クリック)

© 田村卓夫、岡崎文雄 2006

「大分の石橋物語」

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田村卓夫著「大分の石橋物語」

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【改訂メモ】

<元原稿>壁石は形状の異なる野面石を巧みに組み合わせ、美しい「乱積み」である。特にユニークなのは、輪石(アーチ石)の継ぎ目にだぼ(太柄)石を挟んでいることである(写真右)。この技法は大分県内には他になく、全国的にも熊本県植木町の「豊岡橋」(写真左)に見るだけである。鉄を用いただぼ鉄も長崎県の「諌早眼鏡橋」と熊本県御船町の「門前川目鑑橋」の二例だけで極めて珍しいのである。

<修正原稿>壁石は形状の異なる割り石を巧みに組み合わせ、美しい「乱積み」である。特にユニークなのは、輪石(アーチ石)の継ぎ目にだぼ(太 )石を挟んでいることである(前頁写真)。この技法は大分県内には他になく、全国的にも熊本県で植木町の「豊岡橋」(写真左)、菊陽町の「井口めがね橋」、御船町の「門前川眼鏡橋」に見るだけである。鉄を用いただぼ鉄も長崎県の「諫早眼鏡橋」の例だけで極めて珍しいのである。このうち「豊岡橋」は西南戦争の激戦地

「田原坂」の北方 1.5 キロ、玉名と熊本を結ぶ旧道に架かっている。「井口めがね橋」は豊肥線原水駅の南西二・五キロの場所に在り、両橋ともクルマの寄り付きもよく割りに見付けやすい。一見に値する石橋である。

改訂1版(2006.5.26):6 ページ「1-3 だぼ石の手法」の項で、著者=田村氏が原連載中に明らかにした修正事項に、岡崎文雄氏からの情報を併せ、修正した。