―イギリス近代学校の“discipline”の受容― 山本...

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53 駒澤大学教育学研究論集 第 30 号 2014 年 3 月 ―イギリス近代学校の“discipline”の受容― 山本 敏子 はじめに 1.民俗語彙「しつけ」の意味とその広がり (1) 「しつけ」という用語の語源・語誌 (2) 民俗語彙としての「しつけ」の特色 2.「家庭教育」成立以前の「しつけ」の具体相 (1) 「家庭教育」成立事情と維新後世代の「しつけ」論 (2) 自叙伝・回想類にみる明治人の「しつけ」体験 (以上は「上」、以下の「下」は次号掲載予定) 3.欧米の学校管理法の移入と新たな「しつけ」の登場 4.森文政期の諸施策と民俗語彙「しつけ」の衰退 おわりに

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駒澤大学教育学研究論集 第 30 号 2014 年 3 月駒澤大学教育学研究論集 第 30 号 2014 年 3 月

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明治期の学校管理法と「しつけ」の変遷(上)

―イギリス近代学校の“discipline”の受容―

山本 敏子

目 次

はじめに

1.民俗語彙「しつけ」の意味とその広がり

(1) 「しつけ」という用語の語源・語誌

(2) 民俗語彙としての「しつけ」の特色

2.「家庭教育」成立以前の「しつけ」の具体相

(1) 「家庭教育」成立事情と維新後世代の「しつけ」論

(2) 自叙伝・回想類にみる明治人の「しつけ」体験

(以上は「上」、以下の「下」は次号掲載予定)

3.欧米の学校管理法の移入と新たな「しつけ」の登場

4.森文政期の諸施策と民俗語彙「しつけ」の衰退

おわりに

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はじめに

大人が子どもに対して行う虐待や体罰を正当化する理由として、しばしば、

「しつけ」のためということが挙げられる(1)。しかも、時に暴力を伴う厳し

い「しつけ」は日本古来の伝統であるかのように思われがちであり(2)、そう

した通念が学校教育現場での教師による暴力を「指導」の名のもとに是認な

いし黙認する土壌を醸成してきたともいえよう。

「しつけ」という言葉は、education の訳語として近代以降に広まった「教

育」とは対照的に、日本語としての長い歴史をもつ民俗語彙である。柳田国

男をはじめとする民俗学者により、習俗として伝えられた「しつけ」の様態

が多方面から明らかにされてきた(3)。こうした民俗学の研究蓄積に照らして

みたとき、先の「しつけ」の通念は歴史的な事実に基づいていると言えるだ

ろうか。そもそも、学校教育が普及する以前に広く知られていた「しつけ」

とはいかなるものであり、教育の近代化の過程でその意味が大きく変わるこ

とはなかったのか。「しつけ」の語義に転化が生じたとするならば、それは、

いつ、どのような経緯からだったのか、等々―。本稿で取り組みたいと思う

のは、「しつけ」の概念史に属する問題領域であり、「しつけ」という用語の

意義の変化を 1872(明治 5)年の学制発布に始まる日本型近代学校の成立史

との関わりで跡づけることによって、現代の様々な教育問題の解明に必要な

前提知を明らかにすることにある。

ところで、「しつけ」の歴史的変遷について、これまで研究がなされてこな

かったわけではない。社会化研究が中心的テーマの一つとなっている教育社

会学では(4)、「しつけ思想の変遷」(5)や「家庭のしつけの昔と今」(6)等につい

て論じられてきたし、学校中心主義に基づく叙述が主流だった教育史の領域

においても、主に家庭教育史研究の中で「しつけ」の変容が取り上げられて

きた(7)。時系列を問いにくい民俗学分野においてさえ、例えば、野口武徳・

白水繁彦両氏による『日本人のしつけ―その伝統と変容』(8)を挙げることが

できるだろう。

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しかし、少なくとも近世には頻繁に用いられ、今日においてもなお日常語

として使われて続けている「しつけ」という言葉に関して言うと、その語義

の変遷という用語史的考察を踏まえた上で「しつけ思想」の歴史や「家庭の

しつけの衰退」論の是非等が論じられてきたかというと、必ずしもそうとは

言えない。一方、津田左右吉を先駆に歴史家の佐藤進一、網野善彦らは、「同

じ語が時代の推移とともに、意義を異にするようになるという、これもまた

当然の、しかもきわめて重要な問題」に言及して、「史料の正確な解釈、史実

の誤りない確定」のためには「「古典の用語文字の意義をこまかに考へ、その

意義のまゝに、それを解釈すべきで」、決して「後生の思想でそれを見てはな

らぬ」」と述べ、「古典の用語文字の意義」の厳密な研究に長年取り組んでき

た(9)。「そうした問題を考えることによって、従来の歴史の見方を修正せざる

を得なくなったり、現代に対する理解が変わって、世の中がこれまでと違っ

て見えてくることさえあるのではないか」と、網野善彦は語る(10)。

「しつけ」という用語が、西洋近代教育思想の普及以後も生き残ったこと

を考えると、さらにやっかいな問題を抱え込む。明治期に nature の訳語と

して定着した在来の「自然」という言葉同様に、翻訳語に使われた可能性と

そこから起こる誤解の問題も検討しなければならないからであり(11)、尚更の

こと、「しつけ」に関する用語史的考察は欠かせない。

本稿は、このような観点から近代日本における「しつけ」の変容の解明を

試みるものだが、その際に手掛かりとなったのは、以下の先行研究における

学校教育への言及である。

第一に、『民間教育史研究事典』の「しつけ」という項目である(12)。この

項目の解説者である太田堯は、「しつけという用語は、今日でも頻繁に用いら

れているにもかかわらず、長く習俗として伝えられたその通念について、そ

の本質に迫る検討は進められてきていない」としながらも、柳田国男の「教

育の原始性」という文章に依拠して、次のような「学校教育制度」の普及に

よる影響を示唆する重要な指摘をしている。

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今日ふつうしつけといえば、身だしなみ、日常の生活態度、とくに狭義

に、礼儀作法などの対人態度ないしそれを身につけさせることをさして

いる。近代教育制度、とくに学校教育制度が普及する以前には、しつけ

は共同体の生活慣行にみあって子どもたちを、矯め育てる、一人前の人

間として育てること全体をさすほどに重要な子どもへの働きかけを意味

していた。(中略)より全面的な人間教育への志向を含んでいる。

非常に暗示的にではあるが、「近代教育制度、とくに学校教育制度」の「普

及」によって、その前後で「しつけ」の意味が狭いものになったことに触れ、

「現代の学校教育」は、「しつけにかわって出てきたものではないのであって、

かつてのしつけと呼ばれる部分は、環境のせいだとか、感化だとか漠然とし

た今様の表現がされているのにとどまっており、むしろ現代教育のとりこぼ

している部分だということになる」と述べている。

第二に、学校教育と「しつけ」との関わりにさらに踏み込んで、清水義弘

が著書『子どものしつけと学校生活』の中で「しつけの「学校化」」に言及し、

「封建社会の慣習としてのしつけは、近代国家の手によって解体され、社会

規範や生活技術・態度などの形成は学校教育に吸収され再編成された」との

見解を示していることである(13)。

本稿では、これらの先行研究に示唆を得て、日本に近代学校が確立・普及

する以前の民俗社会における「しつけ」の語義や様態を明らかにするととも

に、教師のしつけの領域とされる学校訓育の登場、その前史である明治期の

学校管理法に着眼して、日本型近代学校成立という文脈の中で「しつけ」と

いう用語の意義の変化を見ていきたい。

1.民俗語彙「しつけ」の意味とその広がり

(1) 「しつけ」という用語の語源・語誌

太田堯が先の辞典で述べているように、「しつけ」は「長く持続した習俗に

対応した通念をあらわすことば」故に、その歴史的な用語の変遷を辿ること

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は難しく、語源も定かではない。

『日本語源大辞典』では、①シツケ(就師)の義か(『和語私臆鈔』)、②シ

ツクル(仕付)こと(『大言海』)、という二つの[語源説]が紹介されている。

さらに、[参考]として、『日本国語大辞典 第二版』に掲載されている「礼儀

作法を身につけさせること。また、身についた礼儀作法」という意味での「し

つけ」(躾)の語誌を踏襲し、次のように解説している(14)。

①習慣性の意の仏語「習気(じっけ)」が一般化する過程で、語形が「し

つけ」に変化し、動詞「しつける」の連用形名詞と混同され、漢語と意

識されなくなった。②作りつけることの意の「仕付け」と区別する意図

からか、「しつける」対象を礼儀作法に限る武家礼式の用語として「躾」

「 」などの字訓で表記されるようになり、「仕付け」を別語とする意

識が広まったと思われる。さらに、「躾」は中世末期から近世初期にか

けて武家礼式が急速に普及するとともに一般化し、さらに「躾が良い」

「親の躾」などの用法も生まれて定着し、現代に至っている。

他の辞典類を見ても、これ以上に確かな見解は得られない。ただ、『時代別

国語大辞典 上代編』(15)の索引に「しつけ」が見あたらず、『同 室町時代編

三』(16)を引くと「しつけ[仕付・躾]」の見出し語があることから推察する

と、「しつけ」という言葉の起源は上代まで遡るほどには古くないと思われる。

語源探索にあたって、それぞれの単語を起源あるいは発生から考えていくと

いうやり方を採った杉本つとむは、「しつけ【仕付け・躾】」を近代日本語に

分類し、その発生時代を 13 世紀~17 世紀初としている(17)。網野善彦ら中世

史家によって新しい社会が出現する画期になったとされる南北朝動乱期

(1336~1392)の前後というのは、日本語史においても「古代から近代へ推

移する過渡期」にあたるという。室町時代は「古代語の継承と近代語の生成

発展という二面が交錯して複雑な様相を呈しつつ、次第に近代語の輪郭を現

わすに至る」時代であったが(18)、まさに「しつけ」という用語は、そうした

変動する時代相の下に生まれた日本語だったと考えられる。

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〈表 1〉室町時代語の「しつけ[仕付・躾]」

『日本国語大辞典』(小学館) 『時代別国語大辞典 室町時代編三』(三省堂)

しつけ【仕付・躾】 しつ・く[為付く] しつけ[仕付・躾]

①作りつけること。設けてお

くこと。 ①一つのまとまりあるもの

に仕上げるために、しかる

べき手段を講じてある物

を取付ける。

②ならわしとすること。習

慣。 ②いつもその事をして、習慣

的なこととしてしまう。 ①その状況のもとで、そう

することが習慣となっ

ていること。また、その

決ったやり方。

③(躾)礼儀作法を身につけ

させること。また、身につ

いた礼儀作法。

③技芸、礼式作法などを、そ

の人の身につくまで繰返

し教え込む。また、その結

果、その人の身につくとこ

ろとなる。

②教え込むことによって

礼式作法を身につけさ

せること。また、その結

果、その人が身に付けた

ところ。

④処罰すること。制裁を加え

ること。 ④人にわざわざ手ひどいこ

とをする。 ③こらしめのために制裁

を加えること。

⑤奉公させること。また、嫁

に行かせること。 ⑤ある人にその生活の基盤

となるものを与えて、自立

させるようにしむける。

⑥着物などの縫い目が整うよ

うに、また、仕立てがくるわ

ないように、仮に糸で縁をあ

らく縫っておくこと。また、

その糸。

⑦稲の苗を正しく植付ける

ことから、田植の義とな

り、転じて田畑へ作物を栽

培すること一般をいう。

ところで、仏教が広く武士や庶民の層にまで普及していくのは鎌倉新仏教

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によるところが大きく、このような観点を加味するならば、おそらくは南北

朝の動乱前後を画期として、習慣性を意味する仏教用語「習気(じっけ)」(19)

が一般に広まる過程で「しつけ」に変化し、動詞「しつける」の連用形が名

詞化した「しつけ」と混同されるようになったとする『日本国語大辞典 第二

版』の見解は、「しつけ」という用語の発生、変遷について探究を進める際の

大きな手掛かりとなるだろう。室町時代に使われていた「しつけ」の意味を

確認するために、『時代別国語大辞典 室町時代編三』の「しつ・く[為付く]」

「しつけ[仕付・躾]」を、古代から現代に至る日本語の総体を凝縮した日本

最大の国語辞典である『日本国語大辞典』の「しつけ【仕付・躾】」(20)と対

照させると、〈表 1〉のとおりである。室町時代語の「しつけ」は、少なくと

も文献資料に拠る限り、室町時代の動詞「しつく」の②習慣、③礼式作法、

④制裁の意味に限定して使われていたことがわかる。

(2) 民俗語彙としての「しつけ」の特色

前代に萌した室町時代の近代日本語は、「庶民階層の主として話し言葉の領

域で徐々にその基盤が構成」されていったものであるという(21)。ただし、こ

れまでに見てきた辞典類の記述は各時代の文献資料をもとに編修された表層

の日本語史と言うべきもので、必ずしも文化の基層にあって受け継がれてき

た話し言葉のすべてを覆っているわけではない。

ここでは、民衆の生活文化・伝承文化の領域を研究対象とする民俗学が明

らかにしてきた民俗語彙としての「しつけ」の特色を、今日の学校教育との

対比で押さえておきたい。

まずは、太田堯が「その本質に迫る指摘を含んでいる」と高く評価した民

俗学者柳田国男(1875-1962)の論考「教育の原始性」から、「しつけ」とい

う言葉の意味に言及した箇所を紹介しよう(22)。柳田は、「どんなシツケを我々

の祖先が受けたかといふことを、文書に書いて残した人は殆ど無いと言つて

よい」が、その「日本の原始的なシツケの問題」に初めて注意させたのは日

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本民俗学であり、従って、これをわかり易く解説しなければならない責任も

我々の民俗学にあると述べる。それ故に、「今日は既に衰へ、又は頗る省みら

れずにあることを知りつゝも、やはり現代人めいめいの体験を反省し、又総

合して見る」という民俗学の方法によって「古いシツケの方式」を明らかに

するのだとして、次のように言う。

シツケといふ言葉は、一方に田畠の作物の栽付けなどに使はれ又はしつ

け奉公などといふ名も有つて、本来は人を一人前にするのを意味したこ

と明かなるにも拘らず、他の一方に私たちは、親に叱られ又往々にして

罰せられることをシツケだと思つて居た。さうして子供などが是を真似

て「いぢめてやる」といふ意味に、シツケルといふやうな方言さへ出来

て居る。どうして斯うなつて来たかといふことは、大切なる観点ではな

いかと思ふ。即ち今ある学校の教育とは反対に、あたりまへのことは少

しも教へずに、あたりまへで無いことを言ひ又は行つたときに、誡め又

はさとすのが、シツケの法則だつたのである。小さな頃から我々は自分

の眼耳又は力を以て、この当然なるものを学ばなければならなかつたの

である。さうして是には今日の徳目のやうな語は具はらず、たゞ心持を

以て会得して居るものが多かつた。

柳田国男が東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省に勤務し、主に東北地

方の農村の実態を調査・研究するようになるのは、1900(明治 33)年以降

のことである。その約 10 年後に日本民俗学の黎明を告げる『後狩詞記』や

『石神問答』、『遠野物語』が自費出版されているから、まさに日本社会が近

代学校システムを確立し、現代に続く学校化社会へと歩み出した時代に民俗

学研究を創始したことになる。民俗学が「しつけ」の問題に取り組んだ戦時

下には、すでに学校教育の影響を受けて「シツケといふ言葉の元の意味」が

急速に失われつつあった。柳田は、「もうこのシツケといふ一語は全国にわた

つて不明になり、また不明になりかゝつてゐるやうである。殊にこの言葉の

本場即ち発生地のやうにかねがね私などが思つてゐた上方の会員中に、はつ

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きりとした語感を持つてゐる人の一人もなかつたことは、少からず我々を驚

かせ、同時にこの調査の急を要することを痛感せしめた」と述べている(23)。

従って、民俗学者による「しつけ」研究にも、近代学校の普及に伴って浸透

した西洋近代の教育認識が深く影を落しているかもしれないという点に留意

する必要があるだろう(24)。

その上で民俗語彙「しつけ」の意義を探究すると、今日の「しつけ」が「一

般には、子供に、日常生活における行動様式乃至は生活慣習の型を、身につ

けさせることをいい、おもに家庭内での初期の教育をさす」もので、「いわゆ

る“行儀作法”を体得させるという、限定した意味に用いられている」のに

対して(25)、次のような特色を指摘することができる。

第一に、先の柳田国男の指摘にあるように、「本来は人を一人前にするのを

意味」(「“一人前に仕上げる”意味」(26))していたことである。そもそも、

室町時代語の動詞「しつく」には、「一つのまとまりあるものに仕上げるため

に、しかるべき手段を講じてある物を取付ける」という意味や、「ある人にそ

の生活の基盤となるものを与えて、自立させるようにしむける」という意味

があり(〈表 1〉参照)、事物や人間の仕上がった姿(「一人前」)を想定して

の周囲からの働きかけが含意されていた。この意味を受けて「しつけ」は成

立したと考えられる。その際の「一人前」とは、ある人が当該社会で一生を

全うするのに十分な「生活の基盤」となり得る労働や暮らしの知識、技術、

道徳等を体得することにあった。

「しつけ」とは、このように周囲からの意図的な働きかけを意味するもの

であり、その点は、例えば、原ひろ子が狩猟・漁撈・採集を生業とするヘヤ

ー・インディアン社会の文化体系に見出した「教える」「教えられる」と

いう概念や意識的行動の不在(27)とは一線を画している。

しかし第二に、すべてをカリキュラム化して教師が計画的に教え込む学校

教育とも異なって、本人の主体的な学びに任せることを基本とするものだっ

た。先の柳田国男の言葉によるならば、「あたりまへのことは少しも教へずに、

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あたりまへで無いことを言い又は行つたときに、誡め又はさとすのが、シツ

ケの法則」であるところに、「しつけ」の眼目があった。それ故、「小さな頃

から我々は自分の眼耳又は力を以て、この当然なるものを学ばなければなら

なかつた」と、柳田国男は述べている。ヘヤー・インディアン社会の子ども

たちと同様に、周囲を自分でよく観察し、やってみて修正することにより、

覚えなければならなかったのである(28)。

従って第三に、からだで覚えるという「文字によらざる教育」の形態をと

るものであった(29)。文字の発生と深い関わりをもつ学校の教育とは対照的に、

「日常の生活行動を無意識のうちに体得」することや「聞いて覚える」こと、

「仕事を“見おぼえる”」「“見習う”ことが第一」とされ、当人をその場に臨

ませて経験(修業、修練)を積み重ねることにより至る「自得」が何よりも

重んじられた(30)。「習うより慣れよ」、「見よう見真似」、「仕事(芸)を盗む」

等といった諺や慣用句は、この点をよく表している。

第四に、口承文芸を主とする民俗社会の豊かな民衆文化と信仰に支えられ

ていたことである。潮地悦三郎は、「現代家庭生活に、大なり小なり命脈を保

っているシツケ教育の規範と方法の具体相」(「シツケの法則」)として、「禁

止」「小言」「もったいない」「みっともない」「恥」「笑い」「バチ」「罰」「お

かげ」「恩」「義理」「分際」「あいさつ」を挙げているが(31)、それ以外に学校

教育の普及によって急速に失われたものとして、各地に伝承されてきた諺や

言いならわし、昔話等の教育的役割を忘れてはならない(32)。柳田国男の紹介

する「幼児のウソ」との上手なつきあい方(33)というのも、民衆の笑いの文学

に連なるユーモア溢れる「しつけ」のエピソードとして位置づけられよう。

第五に、最も主要な「しつけ」の場が、他家や家の連合体を含めて広い意

味での「家」の生活であり、生みの親以外にも多様な人々が「しつけ」に関

わっていたことである。子守りや祖父母(老人)、近隣の人々はもちろんであ

るが、特に一人前の漁師になるのに辛苦の多い修練・訓練が必要とされた漁

村では、肉親の間では思い切ったことができないとして「それぞれに子供を

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交換し合って、修練を積ませたり、あるいは若者組の相互練磨によって、厳

しい訓練を実行させてきた」という(34)。職人の徒弟奉公や商人の丁稚奉公、

芸能人の門弟修業、子女の女中奉公も同様で、生家を離れて、親方や師匠等

の家に入り、そこで「“他人”によるシツケ」にもまれることが肝要とされた

のだった。「他人の飯を食う」「他人にもまれる」「可愛いい子には旅をさせろ」

等の諺には、一人前になる上での「人中へ出て塩を踏むシツケ」(35)の大切さ

の意味が込められている。

第六に、おそらくは、鎌倉末・南北朝期を起点として 15 世紀末期以降に

先祖代々継承される永続的な経営体としての「家」の形成が進み、それに伴

って百姓たちが、この「家」を基礎単位に自律的・自治的性格の強い地域共

同体としての「村」をみずから作り出し(36)、それと並行して、自分たちの「村

落の自戒自粛方法として、善良なる家庭人・優良なる村人を得んとして」生

まれたのが(37)、民俗社会の「しつけ」であったと考えられることである。柳

田国男によれば、長野県の南部地方に残っていた「シツケ奉公」「シツケ約束」

という語は、「行く行く一軒の家をもたせる予定の下に、比較的年の行かぬ子

女を預つて長く働かせること」を意味し、かつては「村を構成する分家百姓

の中にも、古いのは幾らもこれがまじつてゐて、血を分けた家との境目もは

つきりせぬ場合が多く、以前は村開発の重要な手段であつた」という(38)。「し

つけ」とは、このように南北朝動乱前後以降の日本各地の生活共同体の中で、

長い歴史時間をかけて蓄積されてきた経験知の体系とも言うべきものであり、

身分による違いはもちろん、土地毎の用法にも差異が見られるものであった。

従って第七に、今日では「おもに家庭内での初期の養育過程に即してそれ

を用いる」のが一般的だが(39)、かつての民俗社会においては成人後の社会生

活においても継続的に行われるものであった。潮地悦三郎は、「シツケ教育は、

若者になった時に卒業する、というものではなかった。(中略)共同体社会に

身を持していくためには、いつまでも、すべての人並みの生活という努力を

怠ることは許されなかった。シツケ教育は、その効果が、成人後のそれぞれ

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の生活を律することによって、共同体生活を維持していった、不可欠な社会

的機能でもあった」と述べている(40)。

以上のように民俗語彙としての「しつけ」は、文献資料に見られる室町時

代語「しつけ[仕付・躾]」よりもはるかに広い意義を有する言葉だった。民

俗社会の「しつけ」を根底で支えていたのは、生活共同体を成り立たせてい

る地域毎に調和のとれた人間-人間の関係、人間-自然(事物、神)の関係

をいかに維持するかという、人間が生きていく上での根源的問題であった。

民俗社会の「しつけ」について、向山雅重は「自分の身を自分で処し、物の

いのちを尊重し、そのいのちを生かす。それと同じこころをもって、他人を

尊重し、共に快く、家庭生活、社会生活をすごすように、生活の規範を身に

つける。それがしつけである」と総括した(41)。それは、いわゆる礼儀作法に

止まらず、「着こなし」(42)「用便の足し方」等の身のまわりのしつけから始

まって、「つかい川」を汚さないための「にごり水」「ぞうしの水」の再利用

といった物についてのしつけに至るまで、人間生活の全般に及ぶ。柳田国男

は、こうした「しつけ」について「大切にわれわれの先代が考へまた守つて

ゐた生活方法の一つ」であったと総括し、それ故に「名前はともかくも実質

まで、消えて滅びてしまはうとは私たちには思はれぬ」と語っている(43)。

2.「家庭教育」成立以前の「しつけ」の具体相

(1) 「家庭教育」成立事情と維新後世代の「しつけ」論

戦後社会において「家庭教育」が取り沙汰されるようになった高度経済成

長期の頃、例えば民俗学者の竹内利美は、「最近はいわゆる道徳教育の弛緩に

対応して、シツケの問題が新しくとりあげられている。しかしそこには、庶

民教育の伝統に即した考え方は、ほとんどないようにみられる」と述べた(44)。

同じ「しつけ」という言葉を使っていても、その考え方が戦後社会とかつて

の民俗社会とでは大きく異なっていることに言及したものである。

どうして、このような事態を招いたのかというのが、本稿の別の側面から

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66 明治期の学校管理法と「しつけ」の変遷(上)

見た課題でもある。それは一つには、日本が近代国民国家の道を歩み始め、

1872(明治 5)年の学制発布以後、欧米から近代学校の方式を移入して公教

育制度を確立・整備する過程において、江戸時代に叢生した多様な「学舎

(School)」(45)(明治期になって寺子屋、私塾、藩校、郷校等と呼ばれるよ

うになったもの)を解体したばかりか、各地域の生活共同体に根付いた民衆

の教育システムまでも破壊し尽くしてきたからに他ならない。それに代わっ

て創出されたのが、近代社会システムに適合的な「学校教育」であり、学校

教育を「補完」するものとしての「家庭教育」、さらには「社会教育」(46)で

あった。これに伴い、民俗社会における「しつけ」は変容や解体を余儀なく

され、ある部分は学校教育に再編されて今日に至っている。近代学校の成立

に伴う「しつけの「学校化」」に関しては次章に譲り、ここでは伝来の「しつ

け」に代わる新たな「家庭教育」の登場について触れておきたい(47)。

今日では当たり前のように考えられている「家庭教育」という言葉は、江

戸時代には存在しない。柳田国男が「群の教育」と特徴づけたように、民俗

社会では子どもを一人前にする営みは地域共同体(中間団体としての家の連

合体)が責任をもって担い、生みの親のみに帰せられるものではなかったか

らである。「家庭教育」とは、明治期に生まれた用語で、おそらくは福沢諭吉

が 1976(明治 9)年頃に英語の home education に相当する訳語として漢籍

に見られた「家庭」と「教育」とを合成して作ったものと考えられる。明治

20 年代初めの頃までは、「家庭教訓」(中村正直『西洋品行論』)、「家庭鞠育」

(坪内逍遙『当世書生気質』)、「家庭撫育」(巌本善治『女学雑誌』)、「家族の

教育」(同前)等といった様々な言葉が用いられており、その意味する内容に

も統一されたものがなかった。

この「家庭教育」という言葉が全国に普及する上で大きな役割を果たした

のは、児童就学の督励に関する法的規制が厳密化・統一化される 1880(明治

13)年の第二次教育令下に各府県が出した諸規則であろう。この時期に、文

部省の法制上の用語として、家庭において学校の教科どおりに教授すること

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駒澤大学教育学研究論集 第 30 号 2014 年 3 月

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という意味で「家庭教育」という言葉が盛んに用いられている。すなわち、

「教授ノ学校」の「代替」としての「家庭教育」である。さらに、1887(明

治 20)年前後の頃、初代文部大臣森有礼の文政期に学校教育関係者が「家庭

教育ノ不振」が学校教育の進歩を妨害している現状を問題視するようになる

と、小学校教師たちは「家庭教育」の「価値アルコト」及び「之ヲ実際ニ施

行スルコト」を保護者に説いて、「学校教育ノ結果ヲシテ完全ニ且迅速ナラシ

メ」るべく、学校教育を「補完」(「準備」「補助」)するための「家庭教育」

を創出するという大事業に乗り出すことになる(48)。彼らは、「教育の意義に

適中せる家庭教育」までは望まないという。せめて、「現代の家庭を一掃して

可成教育的に変化せしむるの方法を講する」ことが「急務」だとして(49)、「通

俗教育談話会」や「幻灯会」、「父兄懇話会」等を通じて日常的な教育実践を

重ねていった。その努力の末に、ある種定型化した意味内容―すなわち、家

庭の教育は主に徳育にあり、従って父母はその身を慎んで子どもの模範とな

り、また、学校とよく連絡を取り合って、教師の指導の下に学校で勉強した

学科を復習させたり、教師の教えたことを守らせたり等、子どもが学校で習

ったすべての事柄を訓練するように心がけることが大切である(50)―をもっ

た「家庭教育」なるものが成立するのは、漸く 1900(明治 33)年頃のこと

である。前章で検討した従来の「しつけ」とは異質な、近代学校方式と同一

の教育原理に基づくものだった。

まさに日本型近代学校システムの確立した時期にあたるが、それでも全国

に浸透するには程遠い状態にあり、同年 1 月に発刊された『日本廼家庭』創

刊号では次のように述べている(51)。

児童こ ど も

が学齢がくれい

に達すれば、小学校に送りて小学教育を受けしめねばならな

いと云ふことは、如何に下層か そ う

社会しゃくわい

の親おや

達たち

も、又は片田舎か た い な か

の人なりとも、

(中略)承知して居るばかりでなく、必ず其子供が学齢がくれい

になれば、実際じっさい

学校へ送りて、其教育を受けしむるに相違ありません、(中略)にもかゝ

はらず、家庭か て い

教 育きやういく

が必要であるといふことは、下層か そ う

社会しゃくわい

の人々は勿論もちろん

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68 明治期の学校管理法と「しつけ」の変遷(上)

時にそれ以上の人々でも、充分承知して居られないでもないかと思はれ

ます、云はゞ家庭教育といふことが、まだ日本人の頭に充分じゅうぶん

染み込まな

い様に思はれます

ところで、柳田国男は「どんなシツケを我々の祖先が受けたかといふこと

を、文書に書いて残した人は殆ど無いと言つてよい」と述べていたが、柳田

ら民俗学者たちが明らかにした民俗語彙「しつけ」の意味と同義での「しつ

け」という言葉の使われ方は、幕末から 1880(明治 13)年頃に生まれた維

新後世代(52)を中心とする明治人の自叙伝・回想類に散見される。維新後世代

とは、学制発布後の小学校教育を最初に体験した世代の人々を指すが、彼等

は、「家庭教育」なるものが成立した 1900(明治 33)年頃には成人期を迎え

ているので、「家庭教育」という発想や考え方が未だ一般社会に知られず、前

代の「しつけ」が大きな変化を蒙ることなく機能していた時代に人間形成の

基礎を築いている。日本民俗学の創始者柳田国男もその一人である。柳田以

外の同世代による「しつけ」論として、ジャーナリストであり、文明批評家

でもあった長谷川如是閑(1875-1969)の場合を紹介したい。

学制発布 3 年後の 1875(明治 8)年に、東京深川の材木商の家―「江戸

城の築かれる時に、徳川家の郷里の三河の国から招かれた五軒の棟梁の家の

一つ」で、維新前は「代々幕府の城大工として封禄をうけて」いた―に生ま

れた長谷川如是閑は、論考「無言の教訓―日本の「家」」の中で「私は「教訓」

という言葉を好まないが、少年の頃を思い出しても、私の育った家庭で、私

の両親たちから「教訓」らしい言葉を聞いたことがなかった」と回想して幼

少期に受けた「しつけ」を振り返り、その意味を次のように語っている(53)。

そのころ「 躾しつけ

」といったのは、いまいう家庭教育の意味だが、それも「教

訓」ではなく、家における正しい生活の実態―家の生活の典型ともい

うべき―を子供たちの身につけることだが、それは殆んど言葉による

教訓を伴わない、生活の「形」そのものによる「しつけ」で、文字通り

「身体の美」―「躾」という文字も康煕字典にもない和製の漢字―で、

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家の日常生活の「行動」を、子供たちが自分の眼で見て、それをおのづ

と身につけるのが、その「躾」である。 長谷川如是閑によれば、「昔は家族連れで芝居を見る風習」があって「「教

訓」は芸術や娯楽によって社会的に行われていた」ので、「昔の町家には言葉

による「教訓」は殆んどなく、子供たちは家の日常生活の典型を、自分の眼

で見てそれを身につけるように、自立的に、自力で育てられて行くのだった」

という。先に見た民俗語彙「しつけ」の意味と同じく、「しつけ」の対象とな

る側の主体的な学びを重視していることに注目したい。大人が子どもに「生

活の「形」」を教え込むのではない。子ども自身が、何が「あたりまへ」なの

かを判断し、その見習うべき「家の日常生活の「行動」」を自分で実際にやっ

てみて修正し、試行錯誤しながら体で覚えていくのである。

それでは、子どもが「あたりまへで無いことを言ひ又は行つたとき」には

どうするのか。しつけられる側が「あたりまへ」の基準を踏み外したことに

気づかせるべく発動されるものこそ、しつける側の意図的な働きかけだった

が、こうした場合には「教訓らしい言葉もいわれず、それが必要な場合にも、

「教訓」の代りに、笑い話のようなことをいう」。

例えば子供が正座の形を崩して、膝がしらを見せたりすると、膝頭を子

供たちは「膝小僧」といっていたので、母親は「オヤオヤ小僧さんが御

迎えに来ましたね」という。すると子供は急いで座り直す。

「殊に母親は、子供が茶の間などで何か好ましくないことを言ったり、し

たりした時にも、ただ「オヤオヤ」と、一種のアクセントでいうだけで、め

ったに「いけません」とも云わなかった」と、長谷川如是閑は回想している。

今日では、叱ることや罰することばかりが突出しているが、かつての庶民生

活においては、民俗学が明らかにしてきた笑いや諺、言いならわし、俗信、

時には謎遊び、昔話、民謡等の豊かな口承文芸が「しつけ」の方法として巧

みに用いられていた。それがよくわかる良き事例である。

長谷川如是閑は、この論考以外にも、「教養と「しつけ」―その中世的およ

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70 明治期の学校管理法と「しつけ」の変遷(上)

び近代的特徴」、「生活と教育」等において「しつけ」論を展開し(54)、学校教

育が日本社会全域を覆うようになる以前に大きな役割を果たしていた「日常

生活の典型そのものによる教育」「生活を通しての教育」の特徴を明らかにし

ている。それは、「抽象的の「人間」のしつけ」ではなく「必ず一定の職能の

生活のしつけ」であって、「一定の職能人としての性能と生活態度とをつくり

あげるもの」、「技術と道徳との厳格に結びついた、生活の心と行動との訓育」

だったと述べている(55)。これらの「しつけ」論の内に民俗学の明らかにした

「しつけ」との見事な一致を確認することができるだろう。だが、長谷川如

是閑は、現代の「しつけの失われた社会」にあって、幼少時代の回想に留ま

ることなく、来るべき近代市民社会の新たな「しつけ」のあり方をも展望す

る。この点については、本稿の「おわりに」(本『論集』次号掲載予定)で改

めて触れることにしたい。

(2) 自叙伝・回想類にみる明治人の「しつけ」体験

「家庭教育」なるものが成立する以前の日本社会において、どのような「し

つけ」が日常生活の中で行われていたのか。次章で「しつけ」の変容を見て

いくにあたり、もう少し維新後世代に相前後する明治人の自叙伝・回想類を

手がかりに、1900(明治 33)年頃以前の武家層、町家層、百姓層それぞれ

の「しつけ」の具体相を明らかにしておきたい。

『武士の娘』の著者杉本鉞子(1873-1950)は、1873(明治 6)年、学制

発布の翌年に新潟・長岡藩の家老を務めた稲垣茂光の六女として長岡市に生

まれている。幼い頃、古くから伝わる季節季節の遊戯にもまして、読書家の

祖母が冬の夜長に炬燵を囲んで語ってくれる英雄豪傑や小説、お芝居の話に

聞き入ったり、賑やかな炉辺で父の下男頭の爺やたちの夜なべ仕事を眺めた

りするのが好きで、乳母いしの昔噺を子守歌に眠るのが常だった暮らしの中

で、武家の娘としての厳しいしつけと教養を身につけたという。後に渡米し

て貿易商杉本松雄氏と結婚し、夫の没後ニューヨークに住んで雑誌『アジア』

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駒澤大学教育学研究論集 第 30 号 2014 年 3 月

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に「武士の娘」を連載するが、1925(大正 14)年に単行本化された『武士

の娘』の中で、「尼としての教育をする」という祖母の熱心な望みにより、幼

少期に家の菩提寺の僧を師匠に迎えて漢籍を学び、「男の子のような躾をうけ

たり、勉強をさせられたりした」思い出を語っている(56)。

「私ぐらいの年頃の子供をさえきびしくしつけたもの」だったというが、

杉本鉞子の経験した「きびしい勉強」「きびしい鍛錬」とは、「勉強している

間、体を楽にしないということ」であり、「わざわざ寒三十日の間は、難しい

ことを、しかも時間も長く勉強させられた」ということの類であったようだ。

「寒九の日」は特に精を出すことになっており、「居心地よくしては天来の力

を心に受けることができないということになっていましたので、火の気の無

い部屋でお習字をいたしました。日本家屋の構造は、熱帯地方にその源を発

していますので、火鉢一つない部屋の温度は戸外のそれと変りはございませ

ん。お手習いは長い時間をかけて、入念にいたさなければならないものでご

ざいますから、その朝すっかり指がこごえてしまいましたが、振返って、後

に控えていたいしが、紫色になった私の手を見つめて、すすり泣きしている

のを見ますまでそれと気付かないのでした」。複雑な運筆を辛抱強く練習する

ことによって「精神力の抑制」を練りきたえ、一点、一画にも心をこめて筆

を運ぶことを通して「心を制御すること」を学ぶ。「武家の教育」(「躾」)と

は、このような経験を積むことによって「生涯の大事をなしとげる力が養わ

れる」ことに向けられていた。

杉本鉞子は、もう一つ、成人後の結婚が決まった時の「妻としての躾」に

も触れている(57)。

こうして結納がすみますと、その日から、私は妻としての躾をうけまし

たから、毎日の生活はまるで飯事ままごと

遊びのようなことでございました。い

ままでも多少はお料理、お裁縫、家事、お作法などのたしなみもしこま

れてはいましたが、この時からは、夫の家に入った妻として、それを実

行に移さなければなりませんでした。お花なども自分で選び、床の間の

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72 明治期の学校管理法と「しつけ」の変遷(上)

掛軸や置物もひとりでととのえ、家の中を習慣しきたり

通りに整えるのでありま

した。/その当時、私は全生活をあげて、主婦としての準備と躾とに日

を過しておりました。(中略)唯夫の紋所が剣酢漿けんかたば

草み

でしたので、この草

を粗末にしてはなりませぬと聞かされたほかには、何の説明もありませ

んでした。

かつての「しつけ」が、いかに本人の「自力」に任され、「日常生活の典型

そのものによる教育」だったのかについて見事に物語られている。

このような武家の「しつけ」に対して、町家の「しつけ」とはどのような

ものだったのだろうか。維新後世代よりは少し若いが、山形県酒田の回漕問

屋の商家に父小倉末吉、母里江の長男として 1885(明治 18)年に生まれ、

祖父母から商人としての厳格なしつけを受けたと回想する数学者小倉金之助

(1885-1962)は、その「相当厳格な躾」のありようを『数学者の回想』に

克明に書き留めている。進学先の中学校が所在する城下町・士族町の鶴岡で

は「幼少のころから、国語や漢文などを自分の家庭や町の私塾などで教わっ

た人たちが、相当に多くいる」のに対して、故郷である酒田の「大多数の家

庭にはそういう風習が全くなかった」と述べた後に、酒田の商人町の「家庭

の 躾しつけ

」に言及して、次のような回想を残している(58)。

さればといって、それなら酒田の商人町は家庭の 躾しつけ

がわるいのかといい

ますと、必ずしもそうではありませんでした。(中略)私の家などには

(中略)、相当厳格な躾があったのです。たとえば私の家では、食事を

やりますのに、祖父母だけが居間で食べます。あとは全部台所で、私も

番頭も女中も、そのほか家の人全部が台所に敷物を敷いて、そこで食事

をするのであります。私は中学校にいってから、漸く祖父母の居間と台

所との間の部屋で、私一人食事をさせられることになったのでした。/

私はまた家督相続人として、幼少のころから儀礼上の教育を施されまし

た。朝は早く起きて、朝と晩には神前に灯明をあげさせられました。祖

父が熱心な仏教信者なので、命日のお参りや盆の墓参りのような行事は、

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駒澤大学教育学研究論集 第 30 号 2014 年 3 月

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なかなかやかましかった。

これに続けて小倉金之助は、「元旦の朝など」に「誰も起きないうちに私一

人午前二時ごろに起きだして」、若水汲みや火起こし、餅焼き等といった祖父

母の居間で屠蘇と そ

を祝うまでの一連の儀礼を家督相続人として取り仕切り、翌

日は夕方まで「懇親な家や商売上の得意先」数十軒に年始の挨拶に廻らせら

れた思い出を淡々と語る。「こういった躾は相当厳格なもので、中学にまいり

ましてからも、休みなどで家に帰ったときは、いつでもそういうふうにさせ

られたのであります」。

長谷川如是閑が「その頃の町家には、かなり小さな家でも、まるで大名屋

敷でもあるように、各々のいるところが厳重に定まっていて、主人の居間に

家内が入ってゆくときは、お客のように他所行きの行儀だった。こども達が

座敷に入ってゆくときにも、他所行きの心持と恰好をしていた。また父にで

も呼ばれた時でなければ、こどもが座敷に入ることなどはなかった」と回想

しているように(59)、例えば、「忠義ち う ぎ

のためには 命いのち

を惜を

しむな」とする武士と、

「些少さ せ う

の利金り き ん

によっての生 活せいくわつ

」をする町人とで「身み

をたてる道みち

の異ちが

ひ」はあ

ったが(60)、いずれにしても、それぞれの職能に応じた「生活の「形」」とい

うものがあって、その習慣となっている「行動」を子どもたちが実際にやっ

てみて身につけるという点で、武家と町家、次に述べる百姓家の「しつけ」

には共通するものがあったと言えるだろう。 幕末の 1859(安政 6)年生まれの社会運動家片山潜(1859-1933)は、岡

山の天領羽出木村で代々庄屋をつとめた村一番の旧家に農業薮木国平、母き

ちの二男として生まれ、村の年中行事の楽しみや四季折々の百姓の娯楽が矢

継ぎ早に訪れる「呑気なる、しかも愉快なる境遇」の内に成長した。野良に

出て自然を友とし、寝食を忘れて遊んだ 1872(明治 5)年学制発布以前の幼

少期を思い出し、『自伝』の中で次のように述べている(61)。

多数の子供は遊ぶのが唯一の教育である。しこうして父母を見習い聞き

覚ゆるのが直接間接の教育であった。少しでも仕事が出来るようになる

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と皆百姓仕事をしたものである。/(中略)昔の百姓は実に呑気なもの

であった。ほとんど知識を要しない。習慣これすべてを支配したもので

ある。これが実に法律であり憲法であった。

「生活の「形」」(「あたりまへのこと」)を「自分の眼で見てそれを身につ

けるように、自立的に、自力で育てられて行く」という民俗社会に共有され

ていた子どもの主体的な学びについての記憶が、鮮明に綴られている。こう

して「父母を見習い覚ゆる」のを常とした片山潜の記憶が、常軌を逸した時

に、あるいはそれを予防する目的で発せられたと思われる「母の膝下で受け

たところの教訓」の記憶と表裏一体となって、かつての「しつけ」を構成し

ていたであろうことは言うまでもない。片山潜は、「母が何かにつけてチョイ

チョイ与えた俚諺または地方的に使用されたきたところの金言は今でも無限

の意味がある。しこうしてこれ等の言が知らず識らずの間において予の言行

を律しているのであって、実に予にとって処世上、不文の憲法となっている

のである」と回想する。民俗学の「しつけ」研究が明らかにしてきた当意即

妙な「諺の教育的役割」を的確に証言するものとなっている。

なお、本稿では検討できないが、もう少し後の明治末年に瀬戸内海に浮か

ぶ山口県周防大島に百姓の長男として生まれ育った歩く民俗学者と評される

宮本常一(1907-1981)が、子ども時代の故郷でのしつけのありようを描い

た『家郷の訓』(62)は、第一級の「しつけ」の生活誌である。

(1) 森田ゆり『しつけと体罰―子どもの内なる力を育てる道すじ』童話館出版、2003

年、21-22頁。

(2) 江森一郎『新装版 体罰の社会史』新曜社、2013年(初版は 1989年)、「はしがき」、

参照。

(3) 大島建彦編『しつけ』岩崎美術社(双書 フォークロアの視点 6)、1988年。その

概略については、巻末の大島建彦による解説および参考文献を参照のこと。

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(4) 柴野昌山「第 2部 人間形成の社会学 解説」柴野昌山・麻生誠・池田秀男編『リ

ーディングス日本の社会学 16教育』東京大学出版会、1986年、57-60頁。また、

同書巻末文献の 302-306頁、参照。

(5) 柴野昌山編『しつけの社会学』世界思想社、1989年、217-277頁。

(6) 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ』講談社(講

談社現代新書)、1999年、9-10頁。

(7) 先駆的なまとまった研究として、小林輝行『近代日本の家庭と教育』杉山書店、

1982年、を挙げることができる。

(8) 野口武徳・白水繁彦『日本人のしつけ―その伝統と変容』帝国地方行政学会、1973

年。

(9) 網野善彦「「外財」について」『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店、1984 年、

556-558頁。「訳語から起る誤解」の問題についても言及している津田左右吉の論

説「日本歴史の研究に於ける科学的態度」(初出は『世界』1946年 3月号、『津田

左右吉全集』第 28 巻、岩波書店、1966年、所収)の言葉を引きながら、このよ

うに述べている。網野は、また、「中世の文書や記録に出てくる用語の研究」の必

要を早くから強調した佐藤進一についても同論文の中で高く評価している。佐藤

進一「歴史認識の方法についての覚え書」『思想』第 404号、1958 年 2月、参照。

(10) 網野善彦『歴史を考えるヒント』新潮社(新潮選書)、2004年、11頁。

(11) 翻訳語が抱える問題については、注(9)の他に、次の文献参照。柳父章『翻訳語

成立事情』岩波書店(岩波新書)、1982年。同『翻訳の思想―「自然」と NATURE』

筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1995年。津田左右吉「訳語から起る誤解」、前掲『津

田左右吉全集』第 21巻、1965年。

(12) 民間教育史料研究会・太田堯・中内敏夫編『民間教育史研究事典』評論社、1975

年、59-60頁。

(13) 清水義弘『子どものしつけと学校生活』東京大学出版会(UP選書)、1983年、8-14

頁。

(14) 前田富祺監修『日本語源大辞典』小学館、2005年。同辞典は『日本国語大辞典』

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76 明治期の学校管理法と「しつけ」の変遷(上)

の語源説を整理し直し、さらに新しい文献から例を加えたものである。日本国語

大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』第

6巻、小学館、2001年、参照。「語誌」欄は、第二版から設けられた。

(15) 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967 年。

(16) 室町時代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 室町時代編三』三省堂、1994

年。

(17) 杉本つとむ『語源海』東京書籍、2005年。杉本は、さまざまな言語現象、事実

を展望しての著者の史観から、有史前(~古墳時代)を別として、日本語を次の

ような三つの時代に分けている。①古代日本語の時代(~13世紀)、②近代日本

語の時代(13世紀~19世紀後半)、③現代日本語の時代(19世紀後半~現代)。

なお、時代区分にあたっての南北朝動乱期の重要性については、次の文献参照。

網野善彦「「社会構成史的次元」と「民族史的次元」について」、前掲『日本中世

の非農業民と天皇』。同「中世の時期区分をめぐって―南北朝の動乱と後醍醐天皇

―」網野善彦・石井進・上横手雅敬・大隅和雄・勝俣 夫『日本中世史像の再検

討』山川出版社、1988年。坂田聡「日本民俗社会の形成と文明史的転換期」『日

本中世の氏・家・村』校倉書房、1997年、等。

(18) 室町時代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 室町時代編一』三省堂、1985

年、「序」。

(19) 前掲『時代別国語大辞典 室町時代編三』には、「しつけ[習気]」という見出し

語になっており、「「じつけ」とも。仏教語。払いのけようとしても身につきまと

って離れない、煩悩」とある。室町時代には、すでに「しつけ」という読み方が

一般化していたことがわかる。なお、同辞典では、「しつけ」の表記として「躾シツケ

「習シツ

気ケ

」「為付シ ツ ケ

」「仕付シ ツ ケ

」の用例が挙げられている。

(20) 前掲『日本国語大辞典 第二版』第 6巻。

(21) 前掲『時代別国語大辞典 室町時代編一』の「序」。

(22) 柳田国男「教育の原始性」『民間伝承』第 11巻第 1号、1946年 8月(『定本柳田

国男集』第 29巻、筑摩書房、1970年、所収)。「しつけ」に関する先行研究につ

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76 明治期の学校管理法と「しつけ」の変遷(上)

駒澤大学教育学研究論集 第 30 号 2014 年 3 月

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いては初出の年と出典を示し、括弧内に再録された文献を示した。また、引用に

際しては、旧字体を新字体にした(以下、同)。

(23) 柳田国男「親のしつけ」『大阪朝日新聞』1939年 10月 3日~5日(前掲『定本柳

田国男集』第 29 巻、所収)。

(24) 例えば、潮地悦三郎「蕨市の教育的伝承」『蕨市立図書館郷土資料集』第 12 集、

1973年(大島建彦編、前掲『しつけ』、所収)は、「蕨市に伝承されてきた常民教

育的な面」に取り組んだ貴重な記録であるが、それを「家庭教育」「社会教育」「体

育」等といった近代教育学のカテゴリーに沿って分類し、叙述するスタイルをと

っている。しかし、民俗社会における「しつけ」の本質に迫ろうとするならば、

近代教育学のカテゴリーとの断絶こそが問題化されなければならない。

(25) 竹内利美「しつけ(躾)」日本民族学協会編『日本社会民俗辞典』第 2巻、誠文

堂新光社、1964年。

(26) 同前。

(27) 原ひろ子「文化のなかの教育」『子どもの文化人類学』晶文社、1979 年、175頁、

182頁、187頁。

(28) 潮地悦三郎、前掲「蕨市の教育的伝承」。この中で潮地は、「教え導く側からはシ

ツケルだが、その対象である子供の側からは、マネル・ミナラウがそれを学びと

る態度・方法であった。学ぶという言葉は、マネブすなわちマネルであって、幼

時からすべて「見よう見まね」ではじまったのである。蕨地方では「そっくり、

おんなしようにマネロよ。おめえだって、そんくれえのこたァ、できねえはざァ

ねえんだ。ちったァ誰某をミナライな」といわれた」と述べている。

(29) 山口麻太郎「日本に於ける民間教育の伝統」『國學院雑誌』第 50 巻第 4号、1944

年(大島建彦編、前掲『しつけ』、所収)。

(30) 竹内利美、前掲「しつけ(躾)」。

(31) 潮地悦三郎、前掲「蕨市の教育的伝承」。

(32) 諺の教育的効用については、次の文献参照。関敬吾「ことわざ(諺)」日本民族

学協会編『日本社会民俗辞典』第 1巻、誠文堂新光社、1952年。大藤ゆき「諺の

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78 明治期の学校管理法と「しつけ」の変遷(上)

教育的役割について」『日本民族学会報』第 6 号、1959 年(大島建彦編、前掲『し

つけ』所収)。同『子どもの民俗学― 一人前に育てる』草木文化、1982年。柳田

国男『なぞとことわざ』筑摩書房、1952年(前掲『定本柳田国男集』第 21巻、

1970 年、所収)。同「笑の教育―俚諺と俗信との関係―」『笑の本願』養徳社、1946

年(前掲『定本柳田国男集』第 7 巻、1968 年、所収)。

(33) 柳田国男「ウソと子供」『不幸なる芸術』筑摩書房、1953年(初出は『文章倶楽

部』第 13 巻第 8号、1928 年 8月、前掲『定本柳田国男集』第 7巻、所収)

(34) 竹内利美、前掲「しつけ(躾)」。ちなみに、若者組(年齢階梯制の一つ)が発達

しているのは、特に日本列島の沿海地方である(平山和彦「年齢と性の秩序」坪

井洋文他『日本民俗文化体系 8 村と村人=共同体の生活と儀礼=』小学館、1984

年、155-156 頁、158-159頁、参照)。

(35) 柳田国男、前掲「親のしつけ」。

(36) 勝俣 夫「十五-一六世紀の日本―戦国の争乱」『岩波講座 日本通史』第 10 巻

(中世 4)、岩波書店、1994年、3-6 頁(『戦国時代論』岩波書店、1996 年、所収)。

(37) 山口麻太郎、前掲「日本に於ける民間教育の伝統」。

(38) 柳田国男、前掲「親のしつけ」。

(39) 竹内利美「しつけの伝統」『教育と医学』第 9 巻第 5 号、1961 年(大島建彦編、

前掲『しつけ』、所収)。

(40) 潮地悦三郎、前掲「蕨市の教育的伝承」。

(41) 向山雅重「しつけ」『講座 日本の民俗』第 3 巻、有精堂、1978 年(大島建彦編、

前掲『しつけ』、所収)。

(42) 倉田一郎「躾の問題―着こなしに就いて―」『民間伝承』第 11 巻第 1号、1946

年(大島建彦編、前掲『しつけ』、所収)。

(43) 柳田国男、前掲「親のしつけ」。

(44) 竹内利美、前掲「しつけ(躾)」。

(45) 近代学校と区別するために、江戸時代に成立した様々なフォーマルな教育施設を

総括して「学舎(School)」と表記するのは、入江弘の「教育システム」論による

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(「教育史における時期区分試論」『日本の教育史学』第 34集、1991 年)。

(46) 「社会教育」概念の成立史については、以下の文献参照。宮原誠一『教育史』東

洋経済新聞社、1963年。宮坂広作「明治期における社会教育概念の形成過程―社

会教育イデオロギーの原形態」『教育学研究』第 33巻第4号、1966 年。国生寿「『七

一雑報』にみられる社会教育の概念とその萌芽形態」同志社大学人文科学研究所

編『「七一雑報」の研究』、1986 年。同「明治中期における社会教育概念の形

成―キリスト教系新聞雑誌の分析を中心として」『文化学年報』第 37 輯、1988

年 3月。久木幸男「「社会教育」遡源」『仏教大学教育学部論集』第 3 号、1991

年 12 月。

(47) 以下、「家庭教育」概念の成立に関しては、山本敏子「明治期における〈家庭教

育〉意識の展開」『日本教育史研究』第 11号、1992年 8月、参照。

(48) 「家庭教育ノ急要」『教育報知』第 40号、1886年 10月 1日。

(49) 「学校と家庭との連絡に対して一大革新を要す。(中)」『教育報知』第 485号、

1895年 8月 17日。

(50) 西村茂樹「家庭の教育(つづき)」『日本乃家庭』第 1巻第 2号、1896年 1月。

(51) 村上辰午郎「家庭教育の三手段」『日本廼家庭』第 1 巻第 1号、1900(明治 33)

年 1月。

(52) 「維新後世代」とは、「明治後期に活躍する、明治維新以後に生まれた思想家た

ち」に注目した思想史家の渡辺和靖によるもので、福沢諭吉に代表される「所謂

啓蒙思想家たちの世代」が、「文政天保の頃に生まれ、本格的な教育体制の下で体

系的な儒教教育を授けられ、しかる後にそれぞれの動機から洋学へと転身」して

いったのに対して、儒教を修得するのと同時に、「明治五年の「学制」に基づいて

設立された小学校において、西洋思想を並行して学んだ」世代のことをいう(『増

補版明治思想史―儒教的伝統と近代認識論』ぺりかん社、1985年、44頁)。1865

(慶応元)年頃から 1880(明治 13)年頃の間に生まれた世代と考えてよい。

(53) 長谷川如是閑「無言の教訓―日本の「家」」『中央評論』1964年 3月 20日(『長

谷川如是閑集』第 1 巻、岩波書店、1989 年、所収)。この中で、如是閑が「教訓」

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80 明治期の学校管理法と「しつけ」の変遷(上)

と言っているのは、諺や警句のようなものではなく、戦前の学校教育によって一

般化した、修身科で語られる徳目に関連する類いのものを指している。

(54) 長谷川如是閑「教養と「しつけ」―その中世的および近代的特徴」『社会と学校』

第 3巻第 12 号、1949 年。同「生活と教育」『日本教育の伝統』玉川学園出版部、

1943年(前掲『長谷川如是閑集』第 7巻、1990年、所収)。同『日本人の生活と

文化』日本文化中央連盟(国民自覚叢書第 8編)、1940年。同「言葉としつけ」『私

の履歴書』第 18 集、日本経済新聞社、1963 年(『長谷川如是閑選集』第 7巻、栗

田出版会、1970年、所収)、等。

(55) 長谷川如是閑、前掲「教養と「しつけ」―その中性的および近代的特徴」。

(56) 杉本鉞子(大岩美代訳)『武士の娘』筑摩書房(ちくま文庫)、1994 年、17-20頁、

29-38頁。引用文中の斜線は、改行を表す(以下、同)。

(57) 同前、114-115頁。

(58) 小倉金之助「数学者の回想」『日本人の自伝 14』平凡社、1982年、18-20頁。

(59) 長谷川如是閑「ある心の自叙伝」『日本人の自伝 4』平凡社、1982 年、230頁。

(60) 長谷川時雨「新家庭訓」『日本女性』1941年 11月、この中の「躾といふこと」

という文章(『長谷川時雨全集』第 4巻、日本文林社、1942年、所収)。1879(明

治 12)年生まれの長谷川時雨(1879-1941)も維新後世代の一人である。

(61) 片山潜「自伝」『日本人の自伝 8』平凡社、1981年、39頁、25頁、15頁。

(62) 宮本常一『家郷の訓』岩波書店(岩波文庫)、1984年。