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─ 23 ─ ‘娘’が‘父’を受け入れる‘理由’と‘形’ ―ユダヤ系アメリカ人作家Anzia Yezierskaによる小説Bread Giversから― 橋 爪 麻 衣 1.始めに ここで取り扱ってゆくAnzia Yezierska(アンジア・イージアスカ)という作家はロシア生まれの ユダヤ系アメリカ人作家である。彼女が最も活躍したのは1920年代であるが,紆余曲折はあったにし ろ,逝去した1970年代まで小説や評論等,執筆活動は続けていた。代表作は1925年に発表された作品 Bread Giversである。小説Bread Giversの主人公であるSara(セアラ)は作者と同じくロシアからアメ リカに移民して来た貧しいユダヤ人の少女で,ラビである父親を持つ。この父親は我侭で傲慢,自分 が気に食わないという理由からセアラの姉達の縁談を次々に破談にしてゆく。店を開くが商才はなく, そんな父親に嫌気がさしたセアラは一人家を出る決心をする。そうして苦学の末,学校の教師となる。 父親の我侭さに業を煮やした結果家を出たはずの少女は,最後にはなぜか父親が体現するユダヤ教を ‘父’と共に受け入れるに到る。ここで一つの疑問が生じる。それは一体なぜセアラは父親を受け入 れたのであろうかという点である。ここではセアラのユダヤ文化とアメリカ文化との関係,彼女の主 体意識の行方等が問題となってくる。女性の自立という点においても,1925年という年代にしては新 しいテーマとして焦点を当ててみたい。 2.作者と作品の概説 2-1 Anzia Yezierskaの略歴 アンジア・イージアスカ(1885〜1970)はRussian Poland(ロシア領ポーランド)のPlotsk(プリ ンスク)に生まれた。彼女は, 1890年にアメリカへ家族と共に移民して来た。彼女の父親は‘Talmudic scholar’(rabbi)(タルムードとは,ユダヤ教の教えを集大成した本,Talmudic scholarとは,タル ムードを教える学者を指す)であり,9人兄弟姉妹,家はとても貧しかった。彼女は,ニューヨーク のLower East Side(ロウアーイーストサイド)(ニューヨーク市マンハッタンの南東部にある労働者 の住む貧しい地域)にあるユダヤ人街で育った。17歳の時,父親の意思にそむき,家を出,‘sweat shop’(低賃金・悪条件の工場)や洗濯屋で働きながら大学へと進んだ。 1915年にはロウアーイーストサイドに住むユダヤ人達をモデルにした短編を発表し始めた。彼女 の最初の本,Hungry Hearts(1920)はハリウッドで映画化された。この成功がイージアスカに富 と名声を運んだ。1922年にはSalome of the Tenements,1923年にはChildren of Loneliness,1925年 Bread Givers,1927年にArrogant Beggar,そして1932年にAll I Could Never Beを出版したが,1940

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    ‘娘’が‘父’を受け入れる‘理由’と‘形’―ユダヤ系アメリカ人作家Anzia Yezierskaによる小説Bread Giversから―

    橋 爪 麻 衣

    1.始めに

     ここで取り扱ってゆくAnzia Yezierska(アンジア・イージアスカ)という作家はロシア生まれの

    ユダヤ系アメリカ人作家である。彼女が最も活躍したのは1920年代であるが,紆余曲折はあったにし

    ろ,逝去した1970年代まで小説や評論等,執筆活動は続けていた。代表作は1925年に発表された作品

    Bread Giversである。小説Bread Giversの主人公であるSara(セアラ)は作者と同じくロシアからアメ

    リカに移民して来た貧しいユダヤ人の少女で,ラビである父親を持つ。この父親は我侭で傲慢,自分

    が気に食わないという理由からセアラの姉達の縁談を次々に破談にしてゆく。店を開くが商才はなく,

    そんな父親に嫌気がさしたセアラは一人家を出る決心をする。そうして苦学の末,学校の教師となる。

    父親の我侭さに業を煮やした結果家を出たはずの少女は,最後にはなぜか父親が体現するユダヤ教を

    ‘父’と共に受け入れるに到る。ここで一つの疑問が生じる。それは一体なぜセアラは父親を受け入

    れたのであろうかという点である。ここではセアラのユダヤ文化とアメリカ文化との関係,彼女の主

    体意識の行方等が問題となってくる。女性の自立という点においても,1925年という年代にしては新

    しいテーマとして焦点を当ててみたい。

    2.作者と作品の概説

     2-1 Anzia Yezierskaの略歴

     アンジア・イージアスカ(1885〜1970)はRussian Poland(ロシア領ポーランド)のPlotsk(プリ

    ンスク)に生まれた。彼女は,1890年にアメリカへ家族と共に移民して来た。彼女の父親は‘Talmudic

    scholar’(rabbi)(タルムードとは,ユダヤ教の教えを集大成した本,Talmudic scholarとは,タル

    ムードを教える学者を指す)であり,9人兄弟姉妹,家はとても貧しかった。彼女は,ニューヨーク

    のLower East Side(ロウアーイーストサイド)(ニューヨーク市マンハッタンの南東部にある労働者

    の住む貧しい地域)にあるユダヤ人街で育った。17歳の時,父親の意思にそむき,家を出,‘sweat

    shop’(低賃金・悪条件の工場)や洗濯屋で働きながら大学へと進んだ。

     1915年にはロウアーイーストサイドに住むユダヤ人達をモデルにした短編を発表し始めた。彼女

    の最初の本,Hungry Hearts(1920)はハリウッドで映画化された。この成功がイージアスカに富

    と名声を運んだ。1922年にはSalome of the Tenementsを,1923年にはChildren of Loneliness,1925年

    にBread Givers,1927年にArrogant Beggar,そして1932年にAll I Could Never Beを出版したが,1940

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    年代以降は衰退,1950年に自身の最後の作品となるRed Ribbon on a White Horse(a semi-fictional

    autobiography)(自伝的小説)を出版。1970年に亡くなっている。(Bread Givers,序章より)

     2-2 Bread Giversが書かれた前後の時代背景と移民について

      ユダヤ人がロシア帝国内からアメリカへと移住するに到った背景

    小説Bread Giversは彼女の自伝でこそないが,作者自身の経験が多く反映されている。小説の前半

    部分において,Bread Giversの主人公であるセアラの母親が,アメリカに移民してくるまでの経緯を

    娘達に話す様子が描かれている。この母親は娘達に,ポグロムの影響で自分たちがロシア帝国内を去

    らざるをえなかったと言う。ここでは,大まかに,ポグロムとは何かを説明していきたいと思う。ポ

    グロムとはロシア語で「破壊」を意味するが,「特にユダヤ人に対する集団的な,破壊,暴行,虐殺」

    を意味する言葉として定義されている。ポグロムが起こった背景には,キリスト殺しのユダヤ人とい

    う偏見に,貧困に喘ぐ低所得者らがユダヤ人に対して抱いていた負のイメージが重なった結果起こっ

    たと考えられている。ユダヤ人=搾取者という考えが人々の間で深く浸透していたようだ。

      ナチスによるソヴィエトのユダヤ人絶滅

     ナチスによるソヴィエトのユダヤ人絶滅は,セアラがアメリカへと移民してきた理由とは,直接は

    関係がないが,ソヴィエトのユダヤ人に起こった事としてここで少しだけ触れておきたいと思う。ま

    ず,特徴として,彼らは,強制収容所へは送られずに,居住地の中,あるいはその近くで殺害された

    ことが挙げられる。彼らはアインザッツグルッペと呼ばれる移動殺人部隊の手によって殺害された。

    この部隊の将校のほとんどは知識人で構成されていた。そして驚くべきことに彼らは一般人だがおよ

    そ500万人ものユダヤ人を殺害していた。このことから,普通の人間がおぞましい殺戮に荷担する「殺

    人者」にもなり得ること,しかし,自らの命を守るためにはそうせざるを得なかったということが同

    時に言える。

    3.旧世界と新世界の狭間で生き迷う主人公らの心の動きと主体意識の行方

     Bread Givers

     小説Bread Giversの大まかな内容に関しては,「始めに」で触れたのでここでは省かせて頂きたい。

    ここでは,アメリカ社会で成功したセアラはなぜ忌み嫌っていた傲慢なラビである父親を最後には引

    き取るに到ったか?ということに関する自分なりの答えを簡単にまとめておきたいと思う。セアラの

    心の中には,家父長制・女性蔑視に対する反感以外の‘何か’が去来したのであろう。例えば,ユダ

    ヤ系移民だけの特徴ではない普遍的な理由,親を大切にしたい,という気持に加え,父親の物質主義

    ではない所,トーラーを一生懸命勉強している所や,ユダヤの文化を大切にしようとする思いが娘で

    あるセアラの心に去来したのではないだろうか。その結果として,父親を受け入れることをしぶしぶ

    ながら承諾したのだろう。ここで強調しておきたいのだが,セアラはアメリカ社会で勝ち得た夢(‘教

    師’であること)を父親を受け入れる上であきらめた訳ではない。セアラが目指したものは,ユダヤ

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    の文化を大切にすることと,アメリカ社会で勝ち得た自分の「場」というものの,両立なのだろう。

    セアラが恋人ヒューゴと共に作っていこうとする「家」は,父親を通して体現され続けるだろうユダ

    ヤの古い価値観とアメリカ社会の新しい在り方が共存し,混在した「場」となっていくはずである。

    4.Bread Giversを巡る6つの短編(4-1〜4-6)

     小説Bread Givers以外にも,イージアスカの短編6つ,“America and I”, “Children of Loneliness”,

    “The Fat of the Land”, “A Chair in Heaven”, “Bread and Wine in the Wilderness”, “The Open

    Cage”を論文の中で取り扱った。題材は違えど,どの短編にも終始一貫して「旧世界と新世界の狭

    間で生き迷う主人公の心の動きと主体意識の行方」というテーマが付随してくる。短編“America

    and I”では,移民女性のアメリカ社会への不満と希望が,“The Fat of the Land”では,古いユダ

    ヤの世界を懐かしむあまり,アメリカ社会になかなか馴染むことが出来ない主人公の女性と,第二世

    代であるその女性の子ども達(この子ども達はアメリカ社会のなかでの完全な適応を目指している)

    との間に生じる軋轢を,“A Chair in Heaven”では,自分の子ども達に遺産を残したくはないと思っ

    ている女性の孤独と,イージアスカ自身の,夢を到達していく上で犠牲にしてきた家族への思いを,

    “Bread and Wine in the Wilderness”では,一時は捨てたユダヤ教を再度信仰しようと思い到るま

    での主人公の心の葛藤を描いている。“The Open Cage”では,Cage(鳥かご)は,旧世界と新世

    界の狭間で苦しむ主人公がとらわれた「場」としての意味を持っている。

    5.正統派と世俗派―2種類のユダヤ性とは

     正統派ユダヤ教とは,Bread Giversに登場する父親が体現しているような宗教のことを指す。例えば,

    女性は男性に仕えてはじめて天国に行くことが出来る,等の考え方を守るのが正統派ユダヤ教である。

    一方,Rebecca Newberger Goldstein(1950〜)によるRabbinical Eyesに登場する父親のように,例

    えば,セアラの家とは違い,自分の子どもが女であっても教育を与えることの大切さを知っているよ

    うな家庭に代表されるのが世俗派ユダヤ教として考えられる。近年,ユダヤ教とはいっても全ての人

    たちが男尊女卑であり,正統派に属するという訳ではなくなってきていることがこのことからも言え

    るだろう。

    6.終わりに

     最後に,イージアスカの作品の意義とは,1920年代に家父長制,女性蔑視に抗う女性をモデルとし

    て描いたことと,女性であり,移民であるという二重苦に負けることなく自己を見つめアメリカ社会

    においてアイデンティティーを確立しようとしたことだろう。そして,それはまた,今も移民として

    苦労する者たちの光となっているはずである。

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    学校教育の中の隠れたカリキュラム―英語教科書分析を中心に―

    齋 藤 有 希 恵

    はじめに

     筆者は,大学院に在籍した2年間に,千葉県下(匝瑳市,横芝光町)の高等学校で英語科の非常勤

    講師として勤務した。学校で教員や生徒と共に過ごすなかで,教員が明確に意図せず生徒に向けて発

    信しているメッセージが存在することに気付いた。教員は,教科内容を教えることとは別に,無意識

    に生徒へメッセージを発信することがあるようだ。教員によってその程度は異なるが,例えばジェン

    ダーに関して偏った価値観を含む言葉が,発せられるとき,それは生徒のジェンダー意識に何らかの

    影響を与える可能性があるのではないかという疑問を抱いた。

     学校教育においては,男女平等が前提となっているにも関わらず,生徒会役員の男女比では,未だ

    に男性が多く,管理職に就く教員数においても同様である。そうした環境もまた生徒に何らかの影響

    を与えているのではないだろうか。筆者は,学校の中で感じたこのような問題意識から,「学校教育

    における隠れたメッセージ」に着目した。とはいえ,隠れたメッセージを客観的に拾い上げて論じる

    ことには,困難がある。そこで本論文では,教科書に着目し,教科書のなかの隠れたカリキュラムを

    分析することとした。学校教育では,教科書の占める比重が大きく,生徒全員が日々同じように教科

    書に触れているため,教科書に何らかの偏向が認められれば,それは問題であると考えるからである。

    第一章 問題意識および研究の目的

     学校教育において男女間の平等は,制度上は実現したかのように見える。しかし,実質的に実現し

    たと言えるのかについては疑問が残る。先行研究では,社会的・文化的に作られた性差(ジェンダー)

    を作り出し,ジェンダーを再生産するシステムとしての教育という側面があることが指摘されている

    (小川1988,舘2000ほか)ことから,学校教育を見直すことは重要な課題であるといえるだろう。

     学校教育の場では,各教科で,基本的に教科書を使用し授業を展開していることから,教科書に注

    目し,男女の可視度といった量的な分析や,職業や形容詞などの質的な分析を行い,性差が教科書に

    おいてどのように描写されているのかを分析する。

    研究の目的,対象,方法

     本論文の目的は,学校教育の中で,隠れたカリキュラムがどのように存在し,特に教科書における

    男女や,家族の扱われ方に,性による偏りがみられるかどうかを探ることが目的である。また,英語

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    科についての先行研究として重要な論文が1996年に発表されていることから,過去の教科書と現在使

    用されている教科書を比較し,男女に対する表現やステレオタイプ化された表現が減っているのかを

    検証する。

     研究の対象は,千葉県内の中学校,高等学校で使用されている外国語教科書(英語科教科書)とす

    る。これらは,文部科学省検定済みの教科書であり,東京書籍から出版されている教科書6冊,三省

    堂から出版されている教科書4冊計10冊を対象とした。

     本論文では,崎田(1996)「英語教科書の内容分析による日本人の性差別意識の測定」をはじめと

    する先行研究を参考に,7項目の分析項目を設置し,登場人物の男女比や,男女の職業や行動につい

    て分析を行う。

    第二章 先行研究

     学校教育における隠れたカリキュラムについての研究からは,1970年から1980年代にかけて学校教

    育を通じて固定的なジェンダーが再生産されているという指摘があり,そこから実践や研究が進めら

    れてきた。日本においては,特に1990年以降,研究が進んでいる。「隠れたカリキュラム」とは,「無

    自覚・無意識のうちに子どもに知識や価値を伝達している」教員や教科書,学校教育のあらゆる場面

    から伝わるメッセージである(松村ほか2009:5)。

     「隠れたカリキュラム」は,舘(2000)によれば2つに分けることができる。「明示的」なものと,

    「黙示的」なものである。「明示的」なものは,名簿や座席,制服など学校慣行として存在しているも

    ののほかに,教科書の写真,挿し絵などの教材から伝わるメッセージなども含まれる。そのほかに,

    教職員の男女数や校務分担も明示的な隠れたカリキュラに分類される。一方,「黙示的」なものとは,

    授業内での挙手や指名,発言,態度,学級活動,運動会,部活から進路指導,卒業式などのさまざま

    な場面において伝達されるメッセージなどである。本論文では,「明示的」なものに分類されている

    教科書について分析を行うこととし,教科書にどのようなメッセージが含まれているのかを検証する

    こととした。

     隠れたカリキュラムについての研究は,これまで各教科毎に行われてきた。

     家庭科においては,現在に至るまでさまざまな変化が見られている。1956年,家庭科は女子のみ必

    修の科目とされていたが,1993年には中学が,1994年には高等学校の家庭科が男女共修となった。男

    女共修になる以前の教科書では,女性は家事,育児,男性は外で働くといった性別役割分業を伝える

    内容であったが,現在の教科書では,男女共修を考慮し,男女のイラストや挿し絵にも配慮がある。

    また,ジェンダーによる偏りについて考えさせる課題や,「男女共同参画社会基本法」(1999年)の説

    明がなされているなど,単に性別役割分業を伝える内容ではなくなっている。高校生用の教科書では,

    社会的な諸課題についての話題も盛り込まれており,内容に変化がある。例えば,労働における男女

    の賃金格差の問題や,夫婦別姓についてなどの諸課題を取り扱っている。家庭科では,男女共修になっ

    てからまだ日が浅く,教科書についても検定をめぐる問題などの困難があったが,現在は男女平等を

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    考える内容に変化してきている。

     音楽科に関しては,教科書を分析した先行研究がある(舘2000)。曲中の歌詞に,「ぼく,ぼくら」

    と男子が主体となっている曲が多く,「わたし」が主体になっている曲は4曲のみであることなどが

    指摘されている。

     国語科では,伊東(1991)が5社の教科書を分析し,95話の物語の主人公を分析している。その結果,

    女性の主人公はわずか11話のみであり,それに対し男性が主人公になっている物語は73話と,明らか

    な男女比が認められている。

     英語科については,崎田(1996)が中学生用,高校生用の教科書を分析し,あらゆる場面でのステ

    レオタイプ化された教材や男女の偏りを指摘している。物語文中の主人公の男女比は,中学生用では,

    女性20人,男性16人,高校生用になると女性15人,男性46人である。登場人物の男女比は,中学生用

    では女性41人,男性53人,高校生用になると138人,男性287人と高校生用になるにつれて差が大きく

    なっていることを指摘している。

    第三章 教科書分析

     本章では,崎田(1996)で分析された教科書の出版年に近い教科書と,現在使用されている教科書

    を比較し,性差別やステレオタイプ化された表現があるかどうかを分析した。崎田の分析の対象は

    1989年から1992年に出版された教科書であるため,新しい教科書の分析が必要であると考えられるか

    らである。

     本論文では,崎田をはじめとする先行研究を参考にして,7項目の分析項目を設け,過去の教科書

    と現在の教科書を対象に,何らかの変化があらわれているのかを分析する。

    分析項目

     1.表紙

     2.物語文中の男女比

     3.形容詞の分析

     4.職業,肩書きの分析

     5.行動,話題の分析

     6.その他の性差

     7.著作者の分析

    1.表紙

     中学生用は1996年に検定,高校生用は1988年に検定されたものを本論文では「過去の教科書」と表

    現する。また,中学生用は2005年に検定,高校生用は2006年,2007年に検定されたものを「現在の教

    科書」と表現することとする。

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     表紙においては,高校生用も中学生用も教科書に男女比の差はなかった。高校用の過去の教科書

    『FIRST』では地球儀が表紙になっており『VISTA』では女性2人,男性1人と,その合計は女性2人,

    男性1人が登場していた。現在の教科書と比較することは困難であるが,現在の教科書EXCEEDでは

    男女比の差は見受けられなかった。しかし,色に注目すると,女性の服には暖色系の色が採用されて

    おり,男性は黄色やグレーであった。女性には暖色系が多いのに対し,男性は青などの寒色系ではな

    く黄色やグレーなど多種類の色が採用されるのは,男性の方が,色の選択肢が多いと受け止められる

    かもしれない。また,絵の中の動きに注目すると,男性が行動的,あるいは能動的に描かれている。

     中学生用の教科書では,過去の教科書は女性3人,男性5人だったが,現在の教科書では女性3

    人,男性3人である。登場人物の数は少ないものの,男女比の差がなくなっていると見ることが可

    能であろう。また,過去のNEW HORIOZNでは女性は赤や黄色の服を着ており,男性は青や緑だっ

    たが,現在のNEW HORIZONは女性には黄色,緑,白,男性にはオレンジ色や茶色,赤などが採

    用されていることから色に対するステレオタイプは減ったことがわかる。しかし,現在の『NEW

    HORIOZONI』の表紙で女性の自転車や靴は赤,男性には青が採用されている。これは中学生用では

    1冊のみに見受けられたので,ステレオタイプ化されているとは断定できない結果となった。

    2.登場人物の男女比

     高校生用の教科書は,比較すると現在の教科書は例文・練習問題のみ男女差がないことから全体的

    に見れば女性が増加した傾向にあるように見える。しかし,女性の主人公は明らかに少なく,過去と

    変化がないのは問題であると考える。EXCEEDは,女性の主人公が1年次に1回,2年次に1回登

    場するだけであり,題材や男性への表現と比較すると異なる。1年次の女性の主人公としてはレイチェ

    ル・カーソンが,2年次は金子みすずが登場する。

     レイチェル・カーソンが,科学者として環境問題に対する重要な告発をしたにもかかわらず“crazy

    woman”と呼ばれた背景には,60年代のアメリカにおける女性科学者に対する偏見や低い評価があ

    るからではないのかと考えることができる。教科書に時代背景を取り入れるか,または教員が知識を

    持ち,生徒に教えることができるのかが重要になると考える。

     中学生用では現在の教科書では,主人公は女性5人,男性5人と男女比に差はなく,主人公以外の

    登場人物も女性131人,男性127人(合計:女性136人,男性132人)であり差はない。過去の教科書と

    比較すると,主人公の男女比が均等になり,男女を各5人と同数にしていることから改善が見られた。

    3.職業・肩書きの分析

     EXCEEDでは,主人公の肩書きは女性2種類,男性6種類という結果になった。その数字は主人

    公の男女比と比例するため女性の職業の種類が少ない。主人公以外の登場人物には女性10種類,男性

    14種類と男性に与えられている職業がわずかだが多い。男性の職業としてはdoctor,swimmer,牧

    師,scientist,head,天文学者などが登場している。歴史上の出来事について書かれてある場合,男

    性が中心の社会であったことが背景にあると考える。過去の高校生用の教科書では,主人公の女性に

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    は3種類,男性には9種類の職業が与えられている。これは,主人公の男女比に比して,女性の職

    業が少ない。過去の教科書では,女性の主人公はsinger,花を売るflower girlや,夫の世話をする専

    業主婦であり,男性は作家や教師,パイロットなど専門的な職業が与えられていた。主人公以外の女

    性には5種類,男性には8種類の職業であり,女性は花屋や,服を売る店員や歌手,teach English,

    musicianに対して男性は記者や会社経営者,発音学者で登場する。過去と比較すると主人公の女性が

    歴史上の人物が採用されているということと,主人公以外の女性にbus driver などが採用されてい

    るため過去の教科書と比べて変化はみられた。しかし,全体的に女性の職業が少なく,生徒が進学す

    る場合に理系,文系などの選択をする時期であったり,就職するのかを考えたり,将来に対して深く

    考える時期に教科書において男女の職業に偏りがあることは,生徒の視野を限定してしまう危険性が

    あるのではないかと考える。

     中学生用では,過去の教科書で女性だけがnurseだったのが,現在の教科書では男性がnurse,医

    者も女性となり,職業も多岐にわたっているので,ジェンダーに配慮されているのではないかと考え

    ることができるが,とはいえ,高校生用も中学生用も,全体的に女性に与えられている職業の種類が

    男性より少ないことは,選択肢が狭い印象を与え,ステレオタイプ化されたイメージを生徒に与える

    可能性も否定できないであろう。そうしたことを配慮して今後,教科書に登場する男女の職業のバラ

    ンスを考える必要がある。

    4.形容詞の分析

     高校生用,中学生用の教科書,どちらにおいても過去と比較すると全体的に形容詞の数が減少して

    いることがうかがえた。また,過去の教科書では,女性には魅力的な否かを表す形容詞が使用されて

    いたのに対し,現在ではそのような形容詞はない。魅力的か否かを表す形容詞が減ったことは評価で

    きるが,今後,形容詞の扱われ方についてより質的な研究が求められる。

    5.行動・話題の分析

     行動・話題の分析では,動詞を吟味することにより,どのような行動が描かれているのかを検討し

    た。その結果,あらゆる行動・話題において変化や偏りが見受けられた。しかし,使用された回数が

    1回の項目を分析,考察することは困難であるため,本論文では偏りが見受けられた項目のみについ

    て考察を行うこととする。

     現在の高校生用の教科書では,偏りが見受けられた項目は「travel, go〜/旅行,(海外に)行く」や,

    「speak/話す/話せる」,「sports/スポーツ」であった。旅行については女性が11回であり男性は2

    回である。旅行するということは女性の領域であるのかと疑問が残る。また,スポーツに関しては,

    女性3回,男性5回であり,種類に注目すると女性には3種類,男性には5種類のスポーツが与えら

    れていた。スポーツの領域は男性という印象を与える。また,男性のみに使用されていた行動では,

    「come home/帰宅する」が3回であり,女性にはない。過去と比較するとスポーツに関しては男性

    のみに使用され,「go out/出かける」は4回,「work/働く」は5回,車に関しては合計4回となり,

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    過去の教科書の方が,よりステレオタイプ化された文が多いという点で特徴がある。しかし,現在の

    教科書でも未だにステレオタイプ化された行動があり,改善はさほど見られなかった。

     他方,中学生用の教科書では多くの変化が見られた。現在の中学生用の教科書では,スポーツに関

    しては女性の方が多い結果となり,その回数は女性21回,男性14回である。しかし,種類はそれぞれ

    8種類で差はなかった。過去のNEW HORIZONではスポーツは男性の方が多く,女性20回,男性25

    回という結果であったため,この変化は評価できる。ただ,女性に多かったのは過去も現在もtennis

    であり,男性に多かったのはsoccerである。その背景に著作者のステレオタイプがうかがえる。

     また,大きく変化した項目は「cook/料理をする」である。過去の教科書では,料理は女性の領

    域であるように描かれており,男性はenjoy cookingという表現で登場したのみである。しかし,現

    在の教科書では,料理をするのは女性1回,男性8回と料理をする男性が目立った。ここからは性役

    割分業についてのステレオタイプを明確に変えていこうとする意図がくみ取れる。今後も,「cook/

    料理をする」をめぐる扱いに注目をしていきたい。

    6.その他の性差

     その他の分析では,以上の項目には該当しない性差によって偏った表現について述べる。また,崎

    田(1996)は,家族関係についても分析し,「職業・肩書きの分析」で考察しているが,本論文は「職

    業・肩書きの分析」では職業や与えられている肩書きを分析するため,家族関係に規定される人物は

    「その他の性差」で扱うこととした。

     現在の高校生用の教科書では,家族関係に規定される人物は,女性は15回,男性は9回である。し

    かし,過去の高校生用の教科書ではmotherは1回も登場しておらず,father(父)が10回であった。

    現在の中学生用の教科書で家族関係で規定されている人物は,女性18回,男性12回であり,過去の教

    科書では女性27回,男性25回である。高校生用においても中学生用においても,過去と比較すると家

    族関係で規定される女性が多くなっている。共働きが多く,男性の育児休暇が認められた社会である

    にも関わらず,家族内の位置づけによって称される女性が多いことは疑問が残る。しかし,10冊のみ

    の分析結果であり,今後どのように変化していくのかについては,今後の課題として残された。

    7.著作者の男女比

     著作者の性比についての分析は,崎田(1996)では行われていない。そこで本論文では著作者の男

    女比を分析した。

     過去の教科書の著作者の男女比は,64人中,女性は5名で女性8%,男性は58名で91%と女性は1

    割にも満たなかった。現在の教科書の著作者全体を分析すると,68人中,女性は9名で13%,男性は

    57人で84%となり,過去との変化はほぼない。現在使用されている教科書において,今なお男性の著

    作者が多いということは,男性中心の視点に偏る可能性があるということでもあり,問題と疑問が残

    る。しかし,中学生用の教科書では「cook/料理をする」は男性が多く,医者は女性であり看護師

    は男性であるといった今まで女性で限定されていた職業においては変化が見られたので今後,著作者

  • ─ 32 ─

    の男女比を含めた教科書分析を行うことも課題であると考える。

     結果,過去の教科書と比較すると,中学生用の教科書はジェンダーバランスに配慮されているが,

    高等学校生用の教科書は登場人物をはじめとし,未だにステレオタイプ化された教材や男女の偏りが

    あることが明らかになった。

    第四章 教室内の活動から

     本章では,教室内の活動からみえてきた生徒の意識について述べる。33名の高校1年生を対象に,

    『EXCEEDI』の挿絵を使用し,アンケートを実施した。

     教科書のこの時間の学習課題はgoとcomeの違いを導入し,定着を図ることである。教科書内の挿

    絵には男女がおり,女性が「Tom, breakfast is ready」 と話しかけ,男性が「All right, I’m coming」

    と返答する場面である。授業ではgoとcomeの概要を導入した後,アンケートを実施した。挿絵から

    場所はキッチンであり朝食を取る前の会話であることがわかる。しかし,アンケート用紙には男女が

    特定できないAさんとBさんを描き,教科書内の会話を日本語に訳させ,それぞれ誰が言っているの

    か,そう思った理由,朝食は誰が用意したのか,三人分用意されている朝食のうちもう1つは誰の分

    なのかについて,生徒の自由な意見を聞いた。

     その結果,朝食を作った自分は母(28名),「All right, I’m coming.」と言っているのは子ども(17

    名),もう1つの朝食は父(22名)という結果になった。生徒の中には,母子家庭,父子家庭や祖父

    母に育てられている生徒も存在し,家族関係は多様である。しかし,教科書の挿絵と同様の回答にな

    り,生徒たちに挿絵を見せなくてもこのような結果になったのは,家族についてのステレオタイプや,

    性役割についての考え方が,すでに固定的なものとしてあるのではないかと考えることができる。

    第五章 考察と残された課題

     ここでは,これまでの章を踏まえて,英語教科書分析についての全体的な考察を行う。

     中学生用の教科書では,性別で限定されている職業が減少している傾向がみられ,変化し,ジェン

    ダーに配慮された教材が使用されていることも確認できた。しかし,高校生用の教科書では主人公の

    男女比だけでなく,今回使用した全ての分析項目で偏りがあることが認められた。ステレオタイプ化

    された表現が使用されており,高校生用の教科書には隠れたカリキュラムが潜在していることが明ら

    かになった。

     考察の結果,いくつかの問題を認識することになった。主人公の女性が明らかに少ないことは問題

    であると考える。教科書において,主人公の両性は,完全にではないにしても,ほぼ平等に教科書で

    扱われる必要がある。そのためには,教科書で取り上げる題材を慎重に選ぶことと,背景をいかに生

    徒に伝えるかについても考慮した教材選びが必要になってくる。

     本論文では,男女や家族がどのように描写されているのかを探るべく分析,考察を行ってきた。男

  • ─ 33 ─

    女,家族の描かれ方に重点を置いたため,その他の民族,人種についてのステレオタイプについては,

    今回は重点を置けなかった。また,性の多様性や差別問題,マイノリティへの配慮という観点につい

    ても言及できなかった。男女や家族についての分析だけではなく,人種やマイノリティに関する分析

    も,今後の課題である。

     教科書は著作者によって作られ,文部科学省に検定され,学校によって選択される。英語科だけで

    なく,全教科の教科書を各教科担当が吟味することも必要であるだろうし,どのように検定,選択さ

    れるのかについての分析,考察は本論文では扱えなかったので,今後の課題として残された。

     男女や家族のあり方を限定し,ステレオタイプ化して扱う教材は,生徒の特定のジェンダー観を与

    えるのみならず,生徒の心を傷つける可能性もないとは言えないだろう。多様性を認める社会を前提

    とせず,固定的なジェンダー観を再生産することは,学校教育への不信感を招く恐れもあるだろう。

    それが「隠れたカリキュラム」の問題である。今後,「隠れたカリキュラム」がなくなることを願い,

    両性が対等に扱われる教科書と指導法の確立を検討していきたい。

    分析対象教科書

    『EXCEEDI』『EXCEEDII』三省堂2006,2007年検定

    『VISTA』『FIRST』三省堂 1988年検定

    『NEW HORIZONI』『NEW HORIZONII』『NEW HORIZONIII』東京書籍2005年検定

    『NEW HORIZONI』『NEW HORIZONII』『NEW HORIZONIII』東京書籍1996年検定

    参考文献

    伊藤直樹 2006 『教師をめざす人のための青年心理学』学陽書房

    伊東良徳・大脇雅子・紙子達子・吉岡睦子 1991 『教科書の中の男女差別』明石書店

    池内靖子・二宮周平・姫岡とし子 2004 『改訂版 21世紀のジェンダー論』晃洋書房

    井上輝子・江原由美子 1999 『女性のデータブック 性・からだから政治参加まで』有斐閣

    上野加代子・落合恵美子 2006 『21世紀 アジア家族』明石書店

    江原由美子・金井淑子 1997 『フェミニズム』新曜社

    大橋薫・増田光吉 1966 『家族社会学』川島書店

    尾形和男 2007 『家族システムにおける父親の役割に関する研究』風間書房

    小川真知子・森陽子 1998 『実践ジェンダー・フリー教育 フェミニズムを学校に』明石書店

    落合恵美子 1994 『21世紀家族へ(第3版)』有斐閣

    大日向雅美 1988 『母性の研究』川島書店

    大日向雅美 2000 『母性愛神話の罠』日本評論社

    亀田温子・舘かおる 2000 『学校をジェンダー・フリーに』明石書店

    崎田智子 1996 「英語科教科書の内容分析による日本人の性差別意識の測定」『実験社会心理学研究』第36巻

    第1号

  • ─ 34 ─

    佐藤郁哉 2008 『質的データ分析法 原理・方法・実践』新曜社

    財団法人教科書研究センター 1991 『日本の教科書』教科書センター

    佐々木恵理 1994 「はびこる女性差別と「コクサイ人」のゆくえ―中学英語教科書の実態と今後の課題」『女

    性学Vol. 2』(日本女性学会学会誌)新水社

    丹野義彦・高田利武・渡辺孝憲 1987 『自己形成の心理学』川島書店

    鶴田敦子 2004 『家庭科が狙われている―検定不合格の裏に』朝日新聞社

    内閣府男女共同参画局 2001 『わかりやすい男女共同参画社会基本法』有斐閣

    直井道子・村松泰子 2009 『学校教育の中のジェンダー』日本評論社

    日本女性学会学会誌 1998 『女性学1998 Vol. 6 特集 教育の場からジェンダーを問う』新水社

    日本女性学会ジェンダー研究会編 2006 『男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング』明石書店

    原ひろ子編 1991 『母性から次世代育成力へ』新曜社

    広田照幸 2008 『若者文化をどうみるか?』アドバンテージサーバー

    福岡安則 2000 『聞き取りの技法<社会学する>ことへの招待』創工社

    本田由紀 2005 『多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・デモクラシー化のなかで』NTT出版株式会社

    増子勝義編 2010 『21世紀の家族探し』学文社

    牟田和恵 2009 『家族を超える社会学―新たな性の基盤を求めて』新曜社

    村田久美子ほか 2008 『コミュニケーション能力育成再考 ヘンリー・ウィドウソンと日本の応用言語学・言

    語教育』ひつじ書房

    文部科学省 2008 『中学校学習指導要領』文部科学省

    文部科学省 1988 『高等学校学習指導要領』文部科学省

    文部科学省 1999 『高等学校学習指導要領』文部科学省

    文部科学省 2009 『高等学校学習指導要領』文部科学省

    安田三郎・原純輔 1982 『社会調査ハンドブック(第3版)』有斐閣

    山内進 2003 『言語学入門─応用言語学を言語教育に生かす─』大修館書店

    天野正子・伊藤るり・伊藤公雄・井上輝子・上野千鶴子・斎藤美奈子他編 2009 『新編 日本のフェミニズム

    5 母性』岩波書店

    湯浅俊彦・武田春子 1997 『多文化社会と表現の自由 すすむガイドライン作り』明石書店

    湯沢雍彦 2003 『データで読む家族問題』日本放送出版協会

    ロビン・レイコフ著 かつえ・あきば・れいのるず 川瀬裕子訳 1985 『言語と性 英語における女の地位』有

    信堂(Robin Lakoff, LANGUAGE & WOMEN’S PLACE, Harper & Row, 1975)

    渡辺和子・金谷千慧子・女性学教育ネットワーク編著 2000 『女性学教育の挑戦 理論と実践』明石書店

  • ─ 35 ─

    看護職と「母性神話」

    鈴 木 祐 子

    はじめに〜問題意識〜

     看護職による母子保健活動は,1968(昭和43)年に,地域での母子保健推進員制度が導入されるこ

    とによって政策的に強化され,現在に至っている。看護職である看護師・助産師・保健師は,母子保

    健活動を行う中で,出産後の母親役割や生活スタイルを指導・支援するという形で,妊婦および母親

    と深く関わっている。妊娠・出産・育児という未知の領域に初めて踏み込んだ女性にとって,看護職

    は,多くの場合,頼りになる指南役として捉えられていることであろう。

     筆者は,長年助産師として医療に従事するとともに,看護師を養成する教育にも携わってきた。自

    身のこれまでの職業経験のなかで,とりわけ看護職が性別役割分業を強化し,母親に過重な育児負担

    を担わせる役割を演じて来たのではないか,という疑問を抱くようになった。母親の育児への負担感

    と強く関わっていると言われている「母性神話」とは,どういうものなのか,また看護職は「母性神

    話」をどのように受け止めて母子保健医療に携わってきたのか,という問いが本論文の出発点にある。

    そもそも,看護職の発信する妊婦や母親へのメッセージには,何らかの隠された意図が存在するのだ

    ろうか。看護職の在り方は,無意識のうちに「母性神話」を推進するようなメッセージを発している

    のではないか。そうした点を明らかにすることが,本研究の目的である。

    論文の構成

     第一章では,「母性神話」とは何かについて先行研究をもとに明らかにした。「母性神話」に関わる

    言説を,大日向雅美らを中心とする社会学や心理学の先行研究から明らかにしようと試みた。「母性

    神話は,どのような背景からつくられたのか?」という問いに対する歴史的な研究を踏まえつつ,「母

    性神話」にかかわる言説が,それを受け止める母親たちにどのような影響を与えているのか,という

    視点から本論文の研究テーマを位置づけた。

     第二章では,看護職が「母性神話」をどのように捉えてきたのかという問い,つまり看護職と「母

    性神話」との関係性について考えるために,まず医療現場における看護職の職業上の位置づけを概観

    した。そこからは,看護職の教育が「徒弟制度」として行われてきたこと,すなわち「教育」という

    側面よりも,むしろ職業人養成の比重の方が大きかったということが読み取れた。専門職であるより,

    医師の補助的役割という位置づけが強く,医師との上下関係が明確に規定されている。看護師教育は

    医師によって行われることが主流であり,看護職による看護職教育は,戦後(1946年)になってよう

  • ─ 36 ─

    やく始められたのである。また,看護職の歴史は男女によって異なった変遷を辿っており,戦後の教

    育内容においても,女性は「母性看護」,男性は「精神科看護」と,科目による区分が設けられていた。

    また,助産師の資格は男性には取得できないなど,性差が職業に明らかな差異をもたらしていた。看

    護職に就く人の殆どが女性であったのは,佐藤典子(2007)が示すように,男性社会の中で女性に対

    して評価される職業上の行為が, “看護”であったことと関係しているであろう。職業上の立場から

    して,看護職に就く者には「母性神話」に独自の判断や解釈を差し挟む余地はなく,職業上の制約が

    あるということが明確になった。

     第三章では,看護師養成課程で使用されている教科書(テキスト)を分析することで,時代によっ

    て「母性」に関する内容がどのように異なって記述されてきたのか,その変遷を概観した。そこでは,

    教育課程の違いによる教科書(テキスト)の内容の違いや,根拠とされる科学的なデータの解釈につ

    いての偏向性が読み取れた。「母子相互作用」や「母子愛着理論」など,三歳児神話の根拠とされた

    内容の強調は,とりわけ准看護師教育課程において顕著であった。また,カリキュラム改訂が行われ

    た際の教育内容の変更を読み取ることで,政策的に看護職に要請されたもの(母親役割の指導)が明

    らかとなった。

     第四章は,看護学生へのインタビュー調査の結果をまとめている。社会人経験のある学生への調査

    からは,看護職のもつ特殊性が明らかになった。看護師の語りの中からは,彼女らが疑問を抱く余地

    なく,ジェンダー規範や「母性神話」を受容していることが浮き彫りとなった。彼女らは,職業上の

    日々の活動を通じて,二重三重の刷り込みを受け,ジェンダー規範を内面化している状況が示された。

    とはいえ,看護職を取り巻く状況の中に,規範を押し付ける構造は確かに存在するものの,一方で多

    様なバックグラウンドを持つ看護師を受け入れているが故に,中には,個人として大きな潜在力を有

    している人も少なくない。看護職が,組織を変容させるダイナミックな力を発揮できる可能性もある

    のではないかということが,調査から感じ取られた。

     次に,「医療や子育ての専門家」(と言われる人びと)は,「母性神話」をめぐるこうした状況について,

    どのような認識を持っているのかを知るために,聞き取り調査を行った。産婦人科医および育児雑誌

    の編集長への調査からは,特定の母性観を,医療従事者である医師が再生産していること,また社会

    の中核に位置している中高年男性のもつ母性観が若い世代にも浸透していることなどが指摘され,母

    性の問題が医療の領域だけでなく,極めて幅広い社会的な問題と絡んでいることが明らかになった。

     第五章では,看護職が,なぜ母性神話のような科学的に裏付けのない言説を伝達し推進的役割を果

    たしてきたのかという点に焦点を絞り,バーンスティンの理論を用いて考察した。バーンスティンは,

    社会のマクロな構造関係が諸個人のミクロな相互作用関係においてどのようにあらわれるかに焦点を

    あてたとされる(バーンスティン,2000)。バーンスティンを用いて考察することにより,看護職が,

    母性神話言説の伝達者として,神話を再文脈化している過程が浮き彫りとなった。そこからは,母性

    に関する言説は,権力関係の中で様々に編成され再生産されていることが示されると同時に看護職に

    とっての医師,女性にとっての男性といった関係性の中での言説の伝達が一方向的であるという側面

    もみえてくる。権力によって境界づけられた言説空間,限定された価値観の中で正当化された言説・

  • ─ 37 ─

    母性に関するものからの自由は得られにくかったと考えられる。また,それは看護職から母親に向か

    う一方向性とも共通しているであろう。そうしてみれば,看護職が母親たちに伝達する処方的知識は,

    予想する以上に直接的で強い影響力を持ち続けるのではないかと考えられた。

    得られた知見と今後の課題

     1.先行研究の検討から明らかになったことは,神話とは,ある言説が必ずしも科学的根拠によっ

    て位置づけられていなくとも,一見もっともらしい言説として流布されている側面があり,一度刷り

    込まれた言説についての意識の変容は困難であること,また何らかの推進的役割を担ってしまう権威

    的存在,すなわち専門家の存在を通じて,ますます意識の変容を容易ならざるものにしているという

    ことである。神話が政策的意図をもとに推進,推奨された結果,自動装置が作動するように広がり,

    遠い昔から存在していたかのような錯覚が生まれる。母親は,「主たる育児の担い手」という役割を

    素直に受け入れ,初めての母親業に専心する中で母親役割を強力に内面化し易いということがわかっ

    た。看護職が伝達した「母性神話」は,「本能によってあらかじめ獲得されているもの」に変化する。「母

    性神話」は,権力関係の中で様々に編成され再生産されてきており,内容に多少の変更があったとし

    ても言説としては存在し続ける。

     2.看護職による母性神話の再文脈化の過程は,看護教育の在り方やテキストの内容に見出すこと

    ができる。看護職は,歴史的にみて複雑な養成システムを有しており,これまで教育の一本化はなさ

    れてこなかった。そして独立した専門職というより医師の補助職として養成されており,医師による

    教育のもとで,徒弟制度のような知識や技術の伝承がなされたという歴史的背景がある。現在,その

    教育課程が大学から専門学校・各種学校と多様な過程になっていることは,教育言説の再文脈化とい

    う点では,地位の序列システム・知識の階層性のなかでより一層強化されているということでもある。

    それ故,言説の統一した見解は形成されにくく,多様な形で意図的な言説が再生産され続けやすい土

    壌を作っている。

     3.看護教育において,テキストは,看護師・保健師・助産師の国家資格取得に繋がる知識体系の

    一環である。内容に特定の偏向や政策的意図が含まれていたとしても批判的読解は,学習者にとって

    前提とされていない。「医学的根拠」をもとに作られたという絶対的信頼が寄せられるのがテキスト

    である。「女性の役割としての母親」「子どもに対する無償の愛情としての母性愛」というメッセージ

    は,看護者にとっては「暗記すべき知識」とされていることが問題である。

     4.伝達者としての看護職の職位構造について考えることは,「個人の選択裁量がどこまであるか」

    を測ることに他ならない。その社会集団の枠組の強さと比例しているともいえる。閉鎖的で地位志向

    型の社会集団では,言葉の意味は集団固有的となり,構文は単純化し,言葉の配列は選択が少なく,

    柔軟性を欠く。コード(話し手の心の中にある何かの能力のものさしに類似した言葉の事象の選別と

    組織を規制する一定の規則として存在するものをさす)は,ますます限定される。そうした点から,

    閉鎖的な環境下にあり,上下関係や役割期待が明確な看護者の特性に鑑み,広く啓かれた知識伝授の

  • ─ 38 ─

    あり方を考えていく必要性があると考えられる。ジェンダー研究がもつ「権威を超えた次元に配慮す

    ること」は,看護職のコミュニケーション手段の広がりの可能性をもたらすであろう。

     以上の考察により,看護職に携わる人びとが,職業教育の課程でテキストや教師を通じて「母性神

    話」を学ぶだけでなく,多面的に母親役割の意識を刷り込まれていることが明らかになった。しかし,

    この問題を教育や社会の母性観,政策のみに帰すことはできないであろう。ジェンダー秩序に関する

    知識と批判的意識を養うことさえできれば,職業の位置づけや職場の権力関係や,科学的根拠に乏し

    い言説にも立ち向かうことができるはずだからである。私自身,看護教育に携わる者としての自覚を

    新たに,ジェンダー役割に関して自由な母子・父子保健医療の実現に向けて積極的役割を演じていき

    たいと考える。本論文では,バーンスティンの理論や感情労働の概念等について,考察を深めること

    ができなかったので,今後は理論的な側面からもアプローチしていくこととしたい。

    参考引用文献

    毛利子来『現代日本小児保健史』ドメス出版,1972年

    布施晶子『結婚と家族─新しい関係に向けて─』(岩波市民大学シリーズ「人間の歴史を考える5」)岩波書店,

    1993年

    大日向雅美『母性の研究』川島書店,1988年

    大日向雅美『子育てと出会うとき』NHKブックス,1999年

    大日向雅美『母性愛神話の罠』日本評論社,2000年

    大日向雅美「母性の政治学:母性概念をめぐる現状とその問題点」『新編日本のフェミニズム5 母性』岩波

    書店,2009年

    大日向雅美「日本社会の母性観とその形成過程」杉本貴代栄編『ジェンダー・エシックスと社会福祉』ミネルヴァ

    書房,2000年

    J・ボウルビィー,作田勉監訳『母子関係入門』星和書店,2002年(原著1958年「母子関係の理論」)

    榊原洋一「三歳児神話・その歴史的背景と脳科学的意味」『ベビーサイエンス』(日本赤ちゃん学会学会誌)

    vol. 9,2009年

    エリザベート・バダンテール,鈴木晶訳『母性という神話』ちくま学芸文庫,1998年(原著1980年)

    ダイアン・E・アイヤー,大日向雅美訳『母性愛神話のまぼろし』大修館書店,2000年(原著1991年)

    マーシャル・H・クラウス,ジョン・H・ケネル,竹内徹・柏木哲夫訳『親と子のきずな』医学書院,1985年(原

    著1976年)

    天童睦子編『育児戦略の社会学』世界思想社,2004年

    香山リカ『親子という病』講談社現代新書,2008年

    田間泰子『母性愛という制度』勁草書房,2001年

    北林司「男性看護師が認識する男性であることの特異性」『看護学雑誌』vol.66,医学書院,2002年,p.1022

    〜p.1027

  • ─ 39 ─

    中野啓明・伊藤博美・立山義康『ケアリングの現在』晃洋書房,2006年

    A・ R・ホックシールド,石川准他訳『管理される心』世界思想社,2000年(原著1983年)

    パム・スミス,武井麻子・前田泰樹監訳『感情労働としての看護』ゆみる出版,2000年(原著1992年)

    武井麻子『感情と看護』医学書院,2001年

    武井麻子『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか』大和書房,2007年

    三井さよ『看護とケア』角川学芸出版,2010年

    佐藤典子『看護職の社会学』専修大学出版局,2007年

    バジル・バーンスティン,久冨善之他訳『<教育>の社会学理論』法政大学出版局,2000年(原著1996年)

    岸良範・佐藤俊一・平野かよ子『ケアへの出発 援助の中で自分がみえる』医学書院,1994年

    船津衛・宝月誠編『シンボリック相互作用論の世界』恒星社厚生閣,1994年

    アーヴィング・ゴッフマン,浅野敏夫訳『儀礼としての相互行為<新訳版>』法政大学出版局,2002年(原

    著1967年)

    麻生誠・柴野昌山『変革期の人間形成』アカデミア出版,1978年

    平成10年度版「厚生白書」 http:www.mhlw.go.jp/mobile-top/index.html

    子どもの虐待防止センター「首都圏一般人口における児童虐待の疫学調査報告」2000年

    日本小児保健協会「平成12年度幼児健康度調査」2002年

    「平成15年度版 厚生労働白書―活力ある高齢者像と世代間の新たな関係の構築」

    日本看護協会『看護にかかわる主要な用語の解説』2007年

    日本看護協会『時間外労働・夜勤・交代制勤務等緊急実態調査』2008年

    厚生労働省通知「過重労働における健康障害防止のための総合対策について」2006年3月17日

    日本看護協会『潜在ならびに定年退職看護職員の就業に関する意向調査報告書』2006年

    日本看護協会「看護職確保定着推進事業」2007年度〜 2009年度

    日本看護歴史学会編『日本の看護120年』日本看護協会出版会,2008年

    前原澄子(著者代表)『看護学入門第12巻 母子看護』メヂカルフレンド社,2009年

    武谷雄二編著『新看護学14 母子看護』(第9版)医学書院,2002年

    森恵美・高橋真理・工藤美子・堤治ほか編『系統看護学講座専門24 母性看護学1 母性看護学概論』(第10版)

    医学書院,2004年

    井上幸子・平山朝子・金子道子ほか編『看護学大系第11巻 母子の看護』(第2版)日本看護協会出版会,

    1996年

    村本淳子・森朋子・東野妙子・加納尚美ほか編『母性看護学概論』(第Ⅰ版)医歯薬出版,1996年

    やまだようこ編『人生と病いの語り』(質的心理学講座2巻)東京大学出版会,2008年

    桜井厚『インタビューの社会学』せりか書房,2002年

    原ひろ子・小林登『子育ては母親だけの責任か』メディサイエンス社,1991年

    (付記:章構成順に表記)

  • ─ 40 ─

    出生前選別とリプロダクティブ・ライツ―1970年代の女性解放運動と障害者運動が示唆するもの

    二 階 堂 祐 子

    問題意識

    現在の日本で,胎児の染色体異常などの先天異常に関する情報を胎児の父母に提供し,人工妊娠

    中絶をするかしないかを判断するために実施される出生前選別1は,産婦人科の一角で,妊婦とその

    パートナーが「自己決定」する行為とされている。この「自己決定」は果たしてリプロダクティブ・

    ライツ(性と生殖に関する権利)2に含まれるのだろうか。欧米諸国には出生前検査を受けることが通

    常の妊婦検診の一部となっている国もある(佐藤 1999:51-64)。たとえば,イギリスではダウン症

    と二分脊椎を対象とした母体血清マーカー検査3によるスクリーニングが全妊婦にすすめられており,

    72%が検査を利用しているという(渡部 2005:2)。一方,日本での同様の検査の実施件数は全妊娠

    数の約2%(古山 2002)となっており,欧米のそれとは開きがある。日本で出生前検査が「普及」

    していないのは,1999年6月に厚生省が出した「母体血清マーカー検査に関する見解」で,「医師は

    妊婦に対し本検査の情報を積極的に知らせる必要はなく,本検査をすすめるべきでもない」(厚生省

    1999)との方針が出されたことの影響が大きい。日本政府をこの方針に導いたのは「障害者団体から

    優生思想に基づく検査への危惧が叫ばれた」(亀井 2008:1360)ことが契機となったようだ。では,

    これまで日本の障害者運動では,出生前選別についてどのような主張を展開してきたのか。そして選

    別を「自己決定」する性として位置づけられる女性は何を言ってきたのだろうか。

    また,リプロダクティブ・ライツの争点のひとつである非選択的人工妊娠中絶および選択的人工妊

    娠中絶を議論する際には,これまで,「女性の自己決定権」の原理が語られることが多かった。もちろん,

    妊娠・出産は女性の身体の上に起こることなので,人工妊娠中絶をするか否かの最終的な決定権は女

    性にあると筆者は考える。しかし,「女性の自己決定権」だけでは,妊娠を成立させることに関与し

    た男性の存在が見えにくい。出生前選別への関与についても同じである。出生前選別は,胎児の父と

    母の両性にとってのリプロダクティブ・ライツの問題として射程せねばなるまい。さらに,出生前検

    査で選別されると同時に選別する対象としても位置づけられる女性障害者や男性障害者にとって出生

    前選別はどのような意味をもつのかを検討することが,いま,必要とされている。

    本研究の目的

    出生前選別を履行する権利はいったい誰に所属しているのか。この争点を検討するために,本論文

    では,日本において妊娠と人工妊娠中絶に関する事項を定めた法律として1996年まで運用されていた

  • ─ 41 ─

    「優生保護法」改正の動きを取り上げる4。改正の動きとは,当法をステージとした経済条項5削除と

    胎児条項6導入等の提起を指す。これに対して,障害者と女性は共に反対運動を起こした。両者の主

    張の共通点は,国家による性と生殖の管理に否を言うことだった。同時に両者は,「『障害者の生命の

    抹殺』を否定する障害者団体と,女性の中絶の権利を主張する女性解放団体」との間の「対立」とし

    ても語られてきた(江原 1985:27)。この「対立」構造を明らかにするために,本研究では1970年代

    の女性と障害者の残した会報や手記資料を読み解く作業をする。同時に,本論文では,1970年代の女

    性障害者の存在に注目する。産む性をもち,選別される対象でもあった女性障害者の声は,出生前選

    別とリプロダクティブ・ライツの主題における双方の当事者でありうる点で重要だ。障害者(障害の

    ある胎児)の抹殺を否定する障害者運動は女性障害者にとってどのような社会運動であり得たのか。

    これらの検討によって,出生前に「選ばれる命」と「選ばれない命」に分けることを目的とした出生

    前選別を問題化することが本研究の目的である。

    研究方法と構成

    考察の方法は,資料分析である。分析の対象として,日本の障害者運動(自立生活運動)を牽引し

    た「青い芝の会」神奈川県連合会(以下,「青い芝の会」。1969年〜現在)をとりあげる。運動の理論

    的支柱を担ったのは横塚晃一や横田弘である。障害者を「本来,あってはならない存在」と規定する

    社会の姿を顕在化し,障害者差別に立ち向かう運動を展開した。そして,女性の主張を追う対象とし

    ては,リブ新宿センター(1972年〜1977年)をとりあげる。日本の「ウーマン・リブ」運動の形成に

    大きな役割を果たし,メンバーには田中美津がいた団体である。障害者運動内部のジェンダー格差に

    ついては,「青い芝の会」会報や,メンバーの手記をもとに分析する。

    本論文の全体の構成は以下である。

    序章では日本および欧米諸国の出生前選別の現状を概観することから,胎児の選別化について問題

    提起した。出生前選別がカップルの「自己決定」を根拠に進められていることによる侵害の

    可能性について論じた。私たちはこれから大多数の人々が疑問と葛藤を封じて自発的に出生前選別を

    行う状況(=<制度化>)(米津 2002)を歩むのか。これまで出生前選別をめぐって障害者や女性が

    訴えてきたことの歴史的検証をする必要があるとした。

    第1章では,日本における出生前選別に関する先行研究の検討を行った。「女性の自己決定権」の

    原理で整理されてきたこれまでの議論を検証しなおし,胎児の父と母にとってのリプロダクティブ・

    ライツの問題として位置づけなおした。そのうえで,筆者は出生前選別はリプロダクティブ・ライツ

    には含まれず,胎児の父と母には「選別をしないための権利」があるという立場にあることを述べた。

    続いて,<孕ませる性><「女性の自己決定」に関与する性>としての男性の関与について検討し,

    男性はリプロダクティブ・ライツを十分に保障されているとはいえず,出生前選別の行為者としての

    関与も認識しにくい現状にあることを述べた。最後に,出生前選別の対象としても存在する男性障害

    者,女性障害者にとっての出生前選別について歴史的検証を行うことの必要性を述べた。

  • ─ 42 ─

    第2章では,1970年代に国家や自治体による出生前選別に関して反対運動を展開した女性解放運動

    と障害者運動のそれぞれの足跡と両者の接点について,彼らが残した会報やパンフレットをもとに資

    料分析を行った。1970年から1974年までの「優生保護法改悪」反対運動での両者の主張は,国家から

    のコントロールに否を言う点では一致していた。しかし「では,どのような社会をつくろうと考える

    のか」を展望するための議論には至らず,「対立」構造が残った。女性たちは「障害者とともに」の

    視点を十分に確立するに至らず,男性障害者は「胎児の父として」の視点を得ることがなかったため,

    互いに目指すべき社会像を共有できなかったとした。

    第3章では,1974年から1996年までの「優生保護法改悪」反対運動の後史について手短に検討した。

    「優生保護法改悪」阻止以降,出生前選別が母子保健政策として展開されていたことを述べた。また

    1980年代に台頭した女性障害者による運動の生成から1996年の母体保護法成立に至るまでの経緯を記

    した。1970年代にはみられなかった女性障害者の活躍が1980年代には目立つようになり,1990年代以

    降の運動にも引き継がれたことを明らかにした。

    第4章では,1970年代の「青い芝の会」を担った男性障害者と女性障害者の運動の背景を彼らの手

    記をもとに資料分析を行った。「青い芝の会」婦人部のメンバーが男性障害者中心の会の運営からの

    自立を求めて動き出すまでの経緯を記し,また,彼らが,自身の結婚と子産みをめぐってどのような

    個人的な経験をもったのかを記した。これにより,1970年代の障害者運動は男性障害者による運動で

    あったことを論証した。男性障害者たちは「本来,あってはならない」とされる「障害者」,つまり,

    「人間未満」から「人間」になるための闘いをした。しかし,そのプロセスを詳しくみると,そこに

    は「男未満」から「男」へ,「女未満」から「女」への構造があった。性をめぐる出生前選別のリプ

    ロダクティブ・ライツを問題化するためには,この人間の「内訳」を認識することがかかせないが,

    男性障害者も女性障害者も,男であることや女であることへの気づきを阻害されており,その当事者

    性を認識していなかったと結論付けた。

    第5章では,第2章から第4章までの資料分析を通して得られた論点の整理と考察を行った。女性

    と障害者の「対立」が言われてきたが,資料を検討すると,国家や自治体による女性を使った障害者

    差別の強化に反対するという点で方向性にはむしろ共通点があったことを確認した。では,何が「対

    立」の構造を創出してきたのか。それは,第一に,1970年代の障害者運動が両性のものではなく,男

    性中心の障害者運動だったため,出生前選別に関するリプロダクティブ・ライツを胎児の父母として

    捉えきれなかったことにあった。また,女性解放運動も,障害者から女性に対する「胎児に障害があっ

    たら産むのか」という糾弾に対して,出生前選別は胎児の父母である両性の問題であることを指摘し

    きれず,沈黙を続けるという限界もあった。第二に,それぞれの運動の方法論の固有性である。「青

    い芝の会」の“問題提起”,そして,リブ新宿センターの“加害と被害の二重性のなかで自らの問題

    として捉え返す”という運動の方法論に注目し,両者の「対立」は互いの権利の衝突という単純な構

    図にあるものではないと整理した。第三に,健全者と障害者がいかに隔絶しているかに着目した。集

    会等で繰り返された障害者から女性への糾弾は,選択的中絶の争点を議論の俎上に乗せる以前の互

    いの隔絶によって起こったのではないかと述べた。第四に,1970年代には議論の争点とはならなかっ

  • ─ 43 ─

    た,選別中絶を禁止することと,その行為自体をどのように考えるかを分けて考えることについて検

    討した。参考としたのは,2001年に障害当事者によって検討が開始された障害者差別禁止法「障害者

    市民案」である。障害のある胎児の人工妊娠中絶の禁止を定めた「出生の項」案が2004年に削除され

    るまでの変遷を追い,「胎児の人格化」は国家による性と生殖の管理に反転する可能性を述べた。第

    五に,選別中絶が国家に禁止されない個々の行為であるとしたら,女性解放運動が「障害」とどのよ

    うに向き合ってきたのかを内省し,またこれからどのように「障害」に向き合うのかを検討する必要

    があることを述べた。そして第六に,女性は産める社会になったら障害児を産むのか,産める社会と

    はどのような社会なのかについて「高福祉」といわれるスウェーデンでの出生前検査の普及を取り挙

    げて論じ,社会サービスの充実と出生前選別による障害者の価値の低下は分けて考えなければならな

    いとした。筆者は,なぜ障害者は「本来,あってはならない存在」とされるのかについて議論するこ

    とこそ,私たちが取り組むべき課題である考える。

    終章では,結論を述べた。本論文において明らかとなったのは,1970年代の障害者運動と女性解放

    運動における「胎児の父」の視座の不在であった。また,出生前選別の争点の当事者として,障害カ

    テゴリーと女性カテゴリーの両方を引き受けている女性障害者の経験を聞き,個人の行為として,

    <制度化>の問題としての出生前選別を,障害者と非障害者,女性と男性で協働して取り組むことの

    必要性も明らかとなった。

    今後の課題

    今後取り組むべき研究課題としては,生命や家族を語る際の社会的文化的背景を踏まえることや,

    出生前選別に関する諸外国の障害者運動と女性解放運動の比較研究等である。

     (1) 出生前選別には受精前の精子と卵子を診断する「着床前診断」も含まれるが本論文では扱わない。

     (2) 性と生殖に関する権利。1994年にカイロ人口・開発会議で定められた。行動計画の第7章に「すべ

    てのカップルとその個人がその子どもの数と,出産の間隔,そして時期を自由にかつ責任をもって

    決定すること,そしてそれを可能にする情報と手段を有することを基本的人権として承認」(外務省

    1996:35)すると明記されている。

     (3) 母体血清マーカー検査とは,母体血液中の成分を調べて,胎児に特定の障害があるかどうかの「確

    率」を出す検査。血液中の成分が3つから測定するものをトリプルマーカーといい,4つをクアト

    ロテストという。クアトロテストでは,アルファ胎児蛋白(AFP),胎盤由来ヒト性腺刺激ホルモン

    (hCG),非抱合型エストリオール(uE3),ダイマー型インヒビン(InhibinA)の成分の分量を測定

    し,確率を求める。検査ができる期間は,クアトロテストの場合は妊娠15週から21週6日まで。35

    歳の妊婦がダウン症の子どもを産む確率を基準にして,それより高いと陽性と説明する医師もいる。

    この結果を羊水検査を受けるかどうかの判断基準とする(柘植 2010:136-7)。

  • ─ 44 ─

    (4) 1982年の改正では経済条項削除のみが提起された。

    (5) 経済条項とは,「身体的または経済的理由で母体の健康が害される場合」に人工妊娠中絶を許可する

    条項。

    (6) 胎児条項とは,胎児に障害があると判明したら人工妊娠中絶を認可する条項。

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