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アジア経済論4-2 戦後日本の経済発展のプロセス 1945 1991

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アジア経済論4-2

戦後日本の経済発展のプロセス

1945~ 1991

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1.日本の戦後復興

・ 1945年 8月、敗戦後の経済改革

日本政府は( GHQ ① ②)の統治下で (農地改革)、 (財閥解体)、

➂(労働改革)を実施した。

①1947年から 50年に実施された「農地改革」。一定の面積を越える➡農地を政府が買い上げ、小作人に売り渡した。 戦前の農村を支配し

ていた大地主たちは土地を失った。

②「財閥が戦争を起こした」という占領軍の認識のもと、有力企業や経営陣は追放の対象になった。三井、三菱、住友、安田などの大財閥を解体し、同族支配を排除しようとした。寡占的企業は公平な競争を妨げるとし、「過度経済力集中排除法」で日本製鉄、三菱重工業、王子製紙などが企業分割の対象となった。

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マッカーサーによる日本の改革

➂1945年、マッカーサーによって、労働組合の結成を含む「 5大改革指令」がだされ、多くの労働組合が結成された。

➡こうした戦後改革は、日本社会の「民主化」大きな役割を果たした。

・日本の戦後直後の経済状況

  戦後、日本は海外経済封鎖で、石炭などの原燃料が輸入できず、大幅に不足していたこともあり、 1946年の鉱工業生産は、戦前( 1934~36年)の水準を大きく下回っていた(戦前の約 4割)。

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  石炭と鉄鋼の集中生産政策

・日本政府は、こうした原燃料の供給不足を解消すべく、 1947年、(傾斜生産方式)と呼ばれる

石炭と鉄鋼の集中生産政策を打ち出す。

➡政府は、限られた資源を、石炭と鉄鋼の 2部門に優先的に配分し、鉄鋼の増産分を製鉄業に投入するという 2部門の生産拡大を図ろうとした。傾斜生産方式で期間産業は立ち直り、石炭、鉄鋼は増産され、炭鉱ブーム到来。

➡日本のGNPは、 1946年に 4740億円、 47年には 1③兆 000億円、 48年には 2兆6600億円に拡大した。

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傾斜生産方式の光と影

・傾斜生産方式は成果を収め、両部門の生産は拡大したが、石炭生産の財源となった(復興金融公庫)の債権を日銀は引き受けたことや、鉄鋼生産の財源となった(価格差補給金による補助金)が他の補助金とともに、財政赤字を拡大させたことから、マネーサプライが急増し、(インフレの高進)を招くことになった。多額の復金債が日銀によって引き受けられ発行されたため、通貨供給量が過剰になり、インフレが発生した。

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地主層と富裕層の没落

➡庶民への影響は少なく、多額の資産をもつ地主や富裕層が大きな被害を受けた。

このため、日本の地主層と富裕層は没落した。

➡「一億総中流」社会の基本は作られた(野口悠紀雄『戦後経済史』講談社文庫、 60-61頁)

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2.経済統制から自由主義へ

・米国の対日政策の変化

  日本を共産主義の防波堤に利用したい米国政府は、日本復興計画の見直しを行い、経済統制を排し、自由主義と自助努力で経済復興を推進すべきという方針を示すようになった。

➡トルーマン大統領は、ドッジを、 GHQの経済顧問として日本に派遣。

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ドッチライン改革

・ 1949年 2月、ドッチは、市場メカニズムを原理とするドッチラインと呼ばれる財政・金融改革を実施した。

①価格差補給金などの補助金の廃止

②品目ごとに個別の為替レートを定める複数為替レート制を廃止と 1ドルを 360円とする為替レートの一本化

➂復興金融公庫の新規貸し出しを禁止

➃価格統制の廃止

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ドッチラインの光と影

ドッチラインの効果

・(インフレ)終息に大きく貢献。

・企業が(補助金)に依存しない体質に変化

ドッチラインの副作用

・企業倒産や失業が増加、社会不安高まる

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3.朝鮮特需と高度成長の幕開け

・ 1950年 6月、朝鮮戦争が勃発し、戦争特需が日本に生まれることになった。

  韓国を支援するため、米軍が参加し、日本がその補給基地になったことで、米国による軍需関連物資の買い付けは、日本の外貨収入を増加させた。また日本政府が原材料の輸入統制を緩和したことで、各産業の生産増につながった。この結果、日本の景気は大きく拡大した。

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1950年代の高度成長を導いた通産省と 日銀への権限の集中

①通産省による為替管理( 1949年) ➡外国から何かを買うには、通産省の許可が必要になった。政府は私的に外貨を調達する手段を塞いだ。以後、通産省は強大な力をもつことになった。

「日本経済は通産省が管理する日本株式会社」( C.ジョンソン『通産省と日本の奇跡』( TBSブリタニカ)

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②日銀による窓口規制

➡日銀は民間銀行に対し、絶大な支配力をもっていた(当時、日銀総裁は法王と呼ばれた)ので、個別案件まで口出しして、企業への融資を統制することができた。

➡日本産業の重化学工業化は、こうした割り当て方式による人為的な資源配分の仕組みで実現できた。

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1950年代後半の景気循環のメカニズム:高度成長の時代

・ 1950年代後半の景気循環

➡ ➡設備投資の伸び 景気拡大 (国際収支の悪➡ ➡化) 金融引き締め 景気反転

・ 1954年~ 57年(神武景気:神武天皇以来の好景気)

・ 1955年、自由党、日本民主党の二つの保守政党が合併。

「 55年体制」が完成した。

・ 1958年~ 1961年(岩戸景気)

➡3種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)→が家庭に普及 電力事情が好転

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この時期は、輸出競争力が弱かったので、景気拡大が続くと、生産に必要な原材料輸入が増加し、国際収支が悪化し、(外貨準備不足)が懸念された。

➡日本に自由化を求める声が欧米諸国で高まる。

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所得倍増計画

・ 1960年、池田内閣、 10年間で所得を倍にする

「所得倍増計画」を発表

            ↓

日本の国際競争力が向上し、好況時にも貿易黒字を保つことが可能になった。 60年代前半には、国際収支の天井を克服した。

➡1965年 10月~ 70年 7月「(いざなぎ)景気

日本の GDP1955年と 60年の名目 GDPを比べると、 1.9倍になっており、 60年から 65年までの 5年間で見ても、 2.6倍に増えた。ちなみに、 60年から 70年までは 2.2倍。 1955年から 70年にかけての名目 GDPの年平均成長率は 15.6%を記録。

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急テンポの工業化

工業化のスピードは目覚ましく民間設備投資の増加率は平均で年 17.7%に及び、 20%を超えた年も 3回ありました。製造業の出荷率は、 50年から 60年の 10年間に 6.5倍に、さらに 70年までの 10年間に 4.4倍に増加しました。

日本の製造業の成長を端的に示しているのが、この期間中にそれぞれ 5.3倍と 5.7倍に増加した鉄鋼の生産量。鉄工所の建設ブームが起き、各地に大規模な製鉄所と石油化学コンビナートが次々に建設された。

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都市化の進展:東京五輪と新幹線開業

工業化に伴い人口の急激な都市化が進展しました。社会インフラも整備され郊外の住宅地には団地が建設され、道路も整備されました。国道の総延長、 50年の 2000キロ弱から、 65年には 16500キロと 8倍に伸びています。鉄道輸送も改善された。

64年 10月に東京オリンピック開催が決定されたことで東京では、道路や地下鉄の整備が進められた。

1964年には東海道新幹線が開業した。

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高度成長の影:炭鉱閉鎖と労働争議

戦後の復興期、傾斜生産方式が行われていた時期には石炭産業が基幹産業だった。

しかし、高度成長が始めると、産業用エネルギーは、石炭から石油へとシフトした。また鉄鋼など石炭が必須の産業でも海外から輸入される高品質の石炭が利用されるようになり、国内の石炭への需要は激減した。

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この結果、日本各地の炭鉱が閉鎖され、多くの労働争議が生み出さた。 59年から60年の三池闘争はその代表的なもの。三池鉱山の経営悪化による人員削減がきっかけで長期のストライキに突入し、財界が経営者を、総評が組合を支援し、最終的に経営者の勝利に終わった。

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60年代の高度成長の風景

●設備投資の拡大。

設備投資は需要と供給の両面から成長のエンジンの役割を果たした。

●技術革新

●個人消費や輸出における市場の拡大

●農村から都市への人口移動にともない、世帯数が増加し、これが耐久消費財の需要増を生み出した。

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農業社会から工業社会への転換

→日本の高度成長とは農業社会が工業化していく過程だった。産業別就業者の推移をみると、 50年には 49%を占めていた農林業従事者の比率は、 65年には 22%と半分以下に低下し、 60年代末には 12%に減少した。それに代わって増えたのが、製造業とサービス業で、製造業従事者の比率は、 50年に 18%だったものが、 60年代末には 25%以下になった。

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60年代日本の高度成長を支えた産業

・高度成長を支えたのは、石油化学、(鉄鋼)、(自動車)、機械などの重化学工業であった。

  60年代後半には、国際競争力の向上を背景に輸出市場が拡大したことから、規模の経済が働き、これがさらに他の産業の生産コストの低下に結びつくという好循環が働いた。

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課題

課題 1.60年代日本の高度成長は内需主導型だったか、それとも輸出主導型だったのか、文献を調べ、考察しなさい。

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「フルセット」主義の弊害

  ●「日本を除く東アジアは、何故、長い   間、

  成長しえなかったのか」 その最大の要因は、アジアで最初に高度成長を達成した日本経済の「(脱亜)」的体質にあったと思われる。

戦後の日本の経済成長は「(フルセット型)産業構造」に彩られたものであり、元来インダストリアリズムの波を周辺アジアに波及させるような性格をもつものではなかった。

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➡鉄鋼、造船、自動車、電機機器、繊維製品など、ほとんどすべての産業分野を国内に抱え込みながら発展してきた日本経済は、先進国から先端技術と一部の製品を受け入れる以外、長い間外国から、特にアジア諸国からほとんど製品を輸入しようとはしなかった。そのため日本はアジア諸国にモノを売ることには積極的であっても、技術移転には消極的で、アジアからモノを買おうという姿勢には欠けていた。

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日本のフルセット経済の歪み

  これは、戦後の西欧経済においてイギリス、ドイツ、フランスなどかつてのEC各国が造船、鉄鋼、繊維というそれぞれの比較優位分野を有しながら相互依存をはかり、経済発展していった光景とは対照的である。アジア経済圏では、 20世紀後半期まで日本だけが独り、インダストリアリズムの繁栄を独占してきた。

  経済史家の川勝平太は、資本節約型・労働集約型の生産革命によって国内自給体制を確立し、アジアから輸入していた物産をほぼすべて国内で自給できる体制を造り上げた経済システムが近世日本の「鎖国」であり、これは「アジア経済圏からの離脱」という点でまさに「脱亜」の完成形態であったと論じている(川勝平太「東アジア経済圏の成立と展開」『長期社会変動』東大出版会)。

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もし川勝が論じるように、徳川日本の「鎖国」政策を「脱亜」と呼ぶことができるなら、戦後高度成長期の日本経済こそ、国内自給体制を造り上げ、アジア経済圏からの輸入を免れていたという点で、かつての「脱亜」を再現したと言ってもよいだろう。まさに「脱亜」色に彩られた戦後日本経済の「フルセット型」経済成長が、アジア周辺部の成長を抑制してきたのである。

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課題

問 .戦後から1960年代までの日本のフルセット型経済発展を、あなたはどう評価しますか。相互依存関係を形成したヨーロッパ型、アジアで日本が独占的な経済繁栄を謳歌してきたアジア型(「鎖国型」)の二つの地域の経済関係について比較してみよう。

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4.高度成長から安定成長へ

・ 1950年代から 60年代へと続いた日本の高度成長は、 1970年代に入り、ニクソンショック、円の切り上げ、石油危機、などの外的要因の影響を受け、終焉を迎えることになった。

・とりわけ 70年代の 2度にわたる石油危機は、日本経済に大きな打撃を与えたが、同時に日本経済の産業構造の転換を促す契機にもなった。

第二次世界大戦後の国際金融体制はドルを基軸通貨とし、その他の通貨がドルに対して固定レートを維持するという固定為替相場制でした。金とドルの交換レートは金 1オンス= 35ドルと定められていた。この体制は「ブレトンウッズ」体制と呼ばれてた。日本は 1952年に IMFに加盟し為替レートは 1ドル= 360円とされてきた。

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米国の財政赤字と国際収支の赤字

しかし、時代が経つにつれアメリカの財政悪化が顕著になりアメリカの国際収支が赤字に転落し、 1950年から 70年にかけて大量のドルが海外に流出しました。この結果、ドルの発行額は金の準備額を大きく超え、ドルと金との交換を保証できなくなってしまった。

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変動相場制移行の背景

その後アメリカの国際収支の赤字が継続したためドルと円との間で為替レートの維持も困難になってきた。固定為替相場制では買われている通貨を中央銀行が売り、売られている通貨を買い支えて為替レートを維持する。しかし、それにも限度があった。ドルとマルクの固定相場制レートも見直されたが、日本とドイツが黒字国、アメリカが赤字国という状態は続いた。

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市場と統制の混合経済の優位性

このように、戦勝国アメリカの経済的地位が低下し、敗戦国ドイツや日本の地位が上昇していった。大企業による垂直統合型の大規模な生産方法を生かす上では、完全に市場に任せるアメリカ型の経済体制より日本やドイツのような市場と統制の(混合経済)の方が適していた。この結果、日本とドイツが貿易収支黒字国となり、基軸通貨を持つアメリカが赤字になるという皮肉な結果が生まれた。

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金とドルの交換停止とブレトンウッズ体制の終焉

71年 8月 15日、アメリカ大統領ニクソン「金とドルの交換停止」声明

➡金とドルの交換停止は、第二次世界大戦後の国際金融の基本的な枠組みであったブレトンウッズ体制の終焉を告げるものだった。

アメリカの軍事力の下で固定為替レートを維持して自由貿易を推進するという体制は終わった。

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円高になっても成長を続けた日本経済

ニクソンショックの後国際通貨体制は、固定相場制から変動相場制に移行することになった。ブレトンウッズ体制崩壊後、円の為替レートは円高方向に動くようになった。 1ドル 308円になった後、 1976年に正式に変動相場制に移行すると急激に円高が進行し、 1ドル 220円から 250円程度のレートになり、どんどん円は強くなっていった。

しかし、日本経済は円高になっても成長を続けた。むしろ 80年代に入って貿易黒字が増加し株価も上昇するなど、日本経済は円高によって強くなっていった。

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石油危機の勃発

●1973年 10月、第四次中東戦争

➡アラブ産油国が原油を戦争の手段に用いイスラエルの支援国に対する石油の禁輸と石油価格の引上げを宣言。

→サウジ、クエートなど中東 6か国が、原油価格をそれまでの 1バレル 3ドルから 5ドルへと一気に 70%引き上げることを宣言。

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➡原油価格の急激な上昇で世界中が大混乱に。企業は照明を落としエレベーターの電源も切られました。テレビも深夜放送を自粛。日本でも楽観主義は影を潜め、終末論的な見方が世の中を支配した。

・ 1973年のベストセラー:小松左京の『日本沈没』、五島勉『ノストラダムスの大予言』

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5.プラザ合意による「円高不況」からバブル景気に

・ 80年代前半には、日本はエレクトロニクスの分野で技術革新による国際競争力をつけ、電気機器や自動車を中心に対米輸出を増加させ、貿易黒字を生み出すことになった。

➡日米貿易摩擦問題が深刻化し、 85年 9月の G5による「(プラザ合意)」を受け、急激な円高局面に入ることになった。

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  円高不況からバブル経済へ

→この円高から、日本経済は一時「円高不況」に陥ったが、超低金利政策による内需拡大策により、 86年には景気は底をうち、内需を中心とする長期の景気拡大が始まり、日本は「(バブル)」期に入ることになった。

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バブル経済と財テクの横行

●金融自由化と財テクブーム

1980年代は金融自由化が進んだ。金利が市場動向を反映し決まるようになり、金融機関が販売する商品についても自由度が高まった。規制が解除されていく過程で 80年代に入って財テクが流行した。

●上場企業の株式市場での資金調達

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膨らんだ株式市場からの資金調達

80年代には株価が持続的に上昇したため、上場企業が株を発行して資金調達をするのが容易になった。大企業は銀行借入を減らし株式市場での資金調達への傾斜を深めていった。株式市場からの調達額は、 80年代前半には 3兆円程度でしたが、 87年には 11兆円、 89年には 27兆円に膨んだ。

➡   上場企業は銀行借入より低い金利で資金を調達できるようになった。そのため、企業は運転資金や設備投資に充てるためだけではなく資金運用をする目的で資金を調達するようになっていった。

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t地価と株価の上昇

→   例えば、転換社債を発行して手に入れた資金を大口定期預金に預け入れます。金利が自由化されて     い たため、大企業に対しては高い金利預金が提

示されるようになっていった。大企業は大口定期預金をするだけで利ザヤが稼げるようになった。こうした財テク商法で、金融市場の歪みが引き起こされていった。

・その後、常識では考えられないような高値で土地売買が行われるようになってきました。地価上昇の背景には、日本経済の成長によって東京がアジアの金融拠点になるという神話があった。東京にはオフィスを持ちたい企業が世界中から集まってくるようになってくる。だから、地価が上がるはず。こうした見通しの下に地上げが始まりまった。

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日系平均株価の急騰

こうした怪しげな地上げ業者が大量に発生するようになった。 1987年 1月の公示された地価をみると東京都の地価は前年比平均 23.8%上昇。さらに 88年 1月には 65.3%上昇した。こうして土地バブルは過熱していった。

⇒地価上昇に伴って株価も急ピッチで上がっていきました。日経平均株価は 83年の平均で 8800円だったのですが、 87年 10月には 26000円、 89年末には 38900円まで上昇していきました。日本企業の時価総額はアメリカ企業の時価総額の 1.5倍にまで上昇し、世界全体の 45%を占めるようになりました。

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バブル景気の終焉

・バブル景気は 1991年 2月にピークを付けた後、急速に悪化し、深刻な景気後退期が日本に訪れることになった。

課題.バブルが破綻した後、日本が長期の景気低迷期に入った原因はどこにあると思いますか。いくつかの文献を調べ、考察しなさい。