1962 年キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法と アメリカ...

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95 1962 年キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法と アメリカ製薬産業の競争条件の変化 はじめに キーフォーヴァー・ハリス改正法の概要と特徴 第二次大戦後のアメリカ製薬産業と独占をめ々る問題 サリドマイド事件と規制強化への要請 おわりに 1i oρqdA せ「 D はじめに 1 本稿の研究課題は、 1962 年のキーフォーヴァー・ ハリス医薬品改正法 1 〕(theKefauver- HarrisDrug Amendmentof1962;以下ではキーフォ ーヴァ ー・ ハリス改正法と記す)が、 アメリカ製薬産業の新たな競争条件をどのように規定したかという点について、法制定過程の 分析から再検討す ることである。 キーフォーウ eァー・ハリス改正法の起草者であるエステス・キーフォーウゃァー(EstesKefauver) 日本のアメリカ経済政策史研究においても 、 上院議員は、反独占の政治家として有名である。 小原(1958;1971 )、佐藤 (1964 )、萩原(1996 )などが反独占とのかかわりでキーフォーヴァー しかしながら、これら の研究では、キ ーフォ ーヴァー自身が中心となり 4 に言及している 。 聞をかけて成立した、最大の成果という べきキーフォーヴァー ・ハ リス改正法については分析 がなされていない。 一方、キーフォ ーヴァ ー・ ハリス改正法と製薬産業の関係をめぐっては、法制定後から 1970 これらの研究は立場によ って大 年代にかけてアメリカを中心に数多く研究が蓄積されてきた。 (Kefauver,1965; この立場からの研究は、法制定過 きく二つのグループに分けることができ る。一方は反独占の立場である SjostromandNilsson,1972;SilvermanandLee,1974 程に関心をもち、 本改正法の背景をなした製薬企業の問題行動を取り上げてきた。それ以前の 不十分な規制のもとで製薬企業の利潤追求行動は、高い医薬品価格、不必要あるいは有害な新 薬の氾濫、過剰な宣伝・広告競争などをもたらし、医療現場にさまざまな問題を引き起こして このような認識のもと、それらの研究は本改正法を製薬産業における独占とのたたかい f こ。 キーワード :キーフ ォーヴァー・ハリス医薬品改正法、製薬産業、アメリ力、 反独占、サリ ドマイド事件

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1962年キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法と

アメリカ製薬産業の競争条件の変化

司祐山 口

はじめに

キーフ ォーヴァー ・ハリス改正法の概要と特徴

第二次大戦後のアメ リカ製薬産業と独占をめ々る問題

サリドマイド事件と規制強化への要請

おわりに

1i

o

ρ

q

d

Aせ

D

はじめに1

本稿の研究課題は、1962年のキーフォーヴァー・ ハリス医薬品改正法 1〕(theKefauver-

Harris Drug Amendment of 1962;以下ではキーフォ ーヴァ ー・ ハリス改正法と記す)が、

アメリカ製薬産業の新たな競争条件をどのように規定したかという点について、法制定過程の

分析から再検討することである。

キーフォーウeァー ・ハリス改正法の起草者であるエステス ・キーフォーウゃァー(EstesKefauver)

日本のアメリカ経済政策史研究においても、上院議員は、反独占の政治家として有名である。

小原(1958;1971)、佐藤 (1964)、萩原(1996)などが反独占とのかかわりでキーフォーヴァー

しかしながら、これらの研究では、キーフォ ーヴァー自身が中心となり 4年に言及している。

聞をかけて成立した、最大の成果というべきキーフォーヴァー ・ハリス改正法については分析

がなされていない。

一方、キーフォ ーヴァー・ ハリス改正法と製薬産業の関係をめぐっては、法制定後から 1970

これらの研究は立場によ って大年代にかけてアメリカを中心に数多く研究が蓄積されてきた。

(Kefauver, 1965;

この立場からの研究は、法制定過

きく二つのグループに分けることができ る。一方は反独占の立場である

Sjostrom and Nilsson, 1972; Silverman and Lee, 1974)。

程に関心をもち、 本改正法の背景をなした製薬企業の問題行動を取り上げてきた。それ以前の

不十分な規制のもとで製薬企業の利潤追求行動は、高い医薬品価格、不必要あるいは有害な新

薬の氾濫、過剰な宣伝・広告競争などをもたらし、医療現場にさまざまな問題を引き起こして

このような認識のもと、それらの研究は本改正法を製薬産業における独占とのたたかいし、fこ。

キーワード :キーフ ォーヴァー・ハリス医薬品改正法、製薬産業、アメリ力、 反独占、サリ ドマイド事件

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の成果として評価している。

もう一方は親製薬産業というべき立場である(Peltzman,1973; Schwartzman, 1976; Schnee,

1978; Grabowski and Vernon, 1983)。この立場は、本改正法によって強化された規制の影響

に関心をもち、 196070年代のアメリカ製薬産業の停滞状況が分析されてきた。本改正法によっ

て、他国と比べてアメリカにおいては新薬が厳格に審査されるようになった。そのことが新薬

数の減少や新薬承認の遅れをもたらし、アメリカにおける製薬企業のイノベーション活動が停

滞したというのが彼らの見方である。この立場からの本改正法への評価は次の見解に示されて

いる。「1962年医薬品改正法は効果のない医薬品にかんする消費者の浪費を減らすことを求め

ていた。この目的は達成されたように思われるが、その過程におけるコストは明らかに利益を

上回ってきたと思われる」(Peltzman,1973, p. 1089)。

これら二つの立場は論理的には矛盾しない。つまり、キーフォーヴァ ー・ ハリス改正法によっ

てアメリカ製薬産業の横暴を規制するにいたったが、その結果として産業競争力が弱まり、医

薬品イノベーシ ョンが停滞したという理解が可能である。つまり両者とも、本改正法を反独占 ・

反産業という性格において認識しているのである。しかし本論で明らかにするように、製薬産

業における独占行動の最も重要な根拠である特許制度にかかわるところでは、実際には産業側

の利害が守られたのである。

そして今日われわれが目にしている現実は、アメリカ製薬産業の圧倒的な競争力の高さであ

る2)。 1980年代以来のこの現実を説明するためにも、いま一度キーフォーヴァー・ハリス改正

法の評価に立ち戻る必要がある。なぜならば、それは新薬研究開発のルールとい う、製薬企業

にとっての競争条件を形作る画期的なものであったからである。そして本改正法を契機に形成

された新薬研究開発のルールは、その後世界各国 ・地域に広ま っている。つまり本改正法は、

反独占 ・反産業という側面よ りもむしろ、世界中に普及するに値する普遍的な意義という側面

から評価されるべきである。

筆者はその意義を、有効性と安全性という医薬品にとって不可欠な要件を科学的に検証する

方法を確立した点に見出している。すなわちキーフォ ーヴァー・ ハリス改正法の登場を境にし

て、製薬企業の競争は、ブランド力をめぐる競争から製品そのものの革新性をめぐるものへと

中心が移行したのである。こうした規制の変化こそが、 80年代以降の新薬ブームにアメリカ

がいち早く対応していく根拠となったと考えられる。つまり、今日の世界の製薬産業における

アメリカの地位を考える上で、 50年前の本改正法を再検討する意義があるのである。

本稿ではまず第2節においてキーフォ ーヴァー・ ハリス改正法の特徴をまとめ、その後の節

において、なぜキーフォーヴァー・ハリス改正法が登場するに至ったかという背景を分析する。

第3節では「反独占」という性格の根拠として、 1950年代の製薬産業の独占の問題とキーフォー

ヴァ ー主導による 「独占とのたたかい」の実態を明らかにする。キーフォーヴァーは「独占と

のたたかい」においては事実上敗れたのである。第4節では、キーフォーヴァー主導の規制強

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化策が、結果的にキーフォーヴァー・ハリス改正法として結実する根拠として、サリドマイド

事件をめぐる諸問題を明らかにする。第5節では結論をまとめ、今後の研究の課題を提示する。

2 キーフォ ーヴァ ー・ ハリス改正法の概要と特徴

本稿の対象であるキーフォーヴァ ー・ ハリス改正法は、 1938年連邦食品医薬品化粧品法

(Federal Food, Drug, and Cosmetic Act)の改正法であり 、1962年 10月、サリドマイド事

件への対応の一環として制定された。

以下ではキーフォーヴァー ・ハ リス改正法の内容をまず検討する。表 1に示した本改正法の

概要をみると、医薬品の品質の保証が全体を通じた柱である といえる。なかでも新薬の品質に

関わる PARTA を含む、 TITLEI「医薬品」の箇所が法文全体の約 7割を占め、内容的にも

中J心をなしている。

そこで、以下の項では TITLEIの分析からこ の法律の特徴を描く (1938年法とキーフォー

ヴァー ・ハ リス改正法の比較対照を表2において簡単に示してお く)。

表 1 キーフォーヴァー・ハリス改正法の目次

TITLE I医薬品PART A 安全性、有効性、および信頼性を保証するための改正

Sec. 101 製造における十分な管理についての要件Sec. 102 新薬の有効性と安全性Sec. 103 新薬の実験に関する記録とレポートSec. 104 新薬の認可手続きSec. 105 抗生物質の検定Sec. 106 抗生物質の実験に関する記録とレポートSec. 107 PART Aの施行期日と適用

PART B 医薬品名の標準化Sec. 111 正式名の調査と指定Sec. 112 医薬品ラベル上で使われる名称、Sec. 113 化粧品の除外Sec. 114 医師への情報

PART C 広告に関する改正Sec. 131 処方薬の広告

TITLE II工場検査と州法に対する効力Sec. 201 工場検査Sec. 202 州法に対する効力Sec. 203 施行期日

TITLE III医薬品事業所と特許情報の登録Sec. 301 認定と申告Sec. 302 医薬品の生産者の登録Sec. 303 暫定条項

Sec. 304 登録の不履行Sec. 305 未登録の事業所の医薬品(不正表示)Sec. 306 輸入医薬品のサンプルSec. 307 定義Sec. 308 医薬品の特許に関する情報

出所)“DrugAmendments of 1962.”Pubic Law No. 87-781. 76 Stat. 780.

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表2 1938年法とキーフ ォーヴァー・ハリス改正法の比較

1938年法 キーフォーヴァー ・ハリス改正法

-新薬の承認要件は「安全性J -新薬の承認要件は「有効性」と「安全性」山・……暢....ー由一一一一一一}『一一一ーー・・・・・・伺一一一一ー一一一・----・-一一一,『ーー,一一一一ー一一一一一一一一一・.ー白白・・・-.. -値盟国四回一ーーー一一ー目白山...山山山.................山田町』軸M........柑山田・............. 崎---・-岬町田町川田山田H山”..........円山町円山a一日一日目....

-安全性検証のためのプロセスは申請者に一任 -有効性と安全性の検証プロセスに科学的根拠が必要

-新薬の試験の記録をすべて提出する必要はない -新薬の試験の記録をすべてまとめたレポー トの提出

-臨床試験のプロセスは任意 義務

・申請から 60日以内にFDAからの延期通知がな ・臨床試験のプロセスを法制化

ければ自動的に認可 -申請から 180日以内にFDAが承認の可否を決定......一一ー一一...・-------・----・-一一一山山田山山山山山一司・・四回目一回目.可・・一一回....“................M帆目....”“““h“”““山................叩・・----・・・・・・…刷........柑......””一一一一一一一一一一目白戸ー・-----------------・-一一一一一一-------------------・-・・・-新薬の名称の設定は無規制 -あらゆる医薬品は一般名がつけられる

-ラベル上に虚偽がないことのみ必要 -ラベル上にはブランド名と一般名併記の義務

出所)筆者作成。

2.1 新薬の「有効性J

キーフォーヴァー・ハリス改正法によるもっとも特徴的な改正点の第一は、新薬の承認、要件

として「安全性」に加えて「有効性」という基準が新たに設け られたことである。

一般に医薬は人体に取り込まれると複雑なプロセスを経て吸収され、代謝されていくため、

新薬の人体への影響は多かれ少なかれ未知である。新薬の安全性についての規制は、 1937年

にエリキシー jレ・スルファニルアミド事件 3)をきっかけに、 1938年法において設けられた。

安全性規制とは、医薬品を新たに売り 出すとき、州際取引を行うためには連邦機関である食品

医薬品局(Foodand Drug Administration:以下、 FDA)の認可を得な くてはならないとい

うものであった。社会的に新薬が数多く 出現するような状況になると、まず安全性の規制が必

要不可欠になった。

キーフォ ーヴァー ・ハリス改正法によって新たに登場した「有効性」という基準は、危険な

医薬品だけでな く効果が不確かな医薬品が市場に流通しないためのものである。

その意図は第一に「安全性」規制というものである。医薬品は時として命にかかわる病気に

対する治療法となる。しかしそうした場合、効果のない医薬品による治療は生命や健康にとっ

て大きなリスクとなる。また、医薬と不可分である副作用の存在を考えると、効果のない医薬

品は有害物でしかない。このよ うに、 有効性の規制も実のと ころ「安全性」規制であるという

側面がある。

第二に、 「経済性」規制という意図もある。有効性をあらかじめ規制することで、効果のな

い医薬品に対する支出を節約することができるからである。

「経済性」からみてさらに重要なのは以下のことである。 「安全性J規制がいわば害を避ける

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(危険な医薬品を流通させない)という消極的な役割をもつのに対し、「有効性」規制は益を追

う(安全性が高いだけでなく、効果がある医薬品のみを流通させる)という積極的な役割をも

っ。したがって、有効性規制が導入されたことで、病気や症状についての基礎医学研究の知識

が蓄積されていくのに伴って、さまざまな治療法の聞で有効性の統計的な比較も行われるよう

になっていったのである心。

2.2 新薬の有効性と安全性の検証プロセス

次に、有効性と安全性の検証プロセスを法制化したことも本改正法の特徴点である。その具

体的内容は以下の通りである。

第ーに、新薬の申請を却下する根拠として、従来の安全性の証明における不備に加えて、有

効性についての「実質的証拠(substantialevidence)」の欠如という規定が導入された。「実

質的証拠」とは、「当該医薬品の有効性を評価するための科学的訓練と経験によって資質を満

たした専門家による、臨床試験を含む、十分な、よく管理された研究から成る証拠」と規定さ

れており、検証プロセスに科学的な根拠が求められることとなった。

第二に、新薬の試験に関する記録とレポートが申請者に義務づけられ、また当局によるそれ

らの情報へのアクセシビリティが確保された。後に見るように 1938年法の下では新薬の安全

性を疑う証拠は FDAが提示しなければならなかったが、申請者は情報を保持しておく義務が

なかった。そのため、 FDAが問題点を実証することは困難であった。

第三に、医薬品の臨床試験についての規制が法制化された。臨床試験とは、特定の適応症に

対する医薬品の有効性と安全性について研究するために、人聞を対象として行われる試験であ

る。臨床試験ぽその目的からして、医薬品が有効性や安全性の十分な証明を経ずに使用される

ため、新薬に対する規制は免除される必要がある。しかし 1938年法においてはその免除規定

は規制の抜け穴となっていた(Hilts,2003, p. 164)。そこで、臨床試験そのものが次の四点に

おいて規制された。すなわち、①臨床試験を開始する前に、その医薬品が予定された臨床試験

を正当化するに足るものであることを示す臨床前試験のレポートを当局に提出すること、②臨

床試験を実施する研究者個人が臨床試験の責任を負うこととし、その署名入りの同意書を得る

こと、③臨床試験の記録を作成、保持し、また当局がその医薬品の有効性と安全性を評価でき

るように臨床試験の結果のデータでレポー トを作成すること、 ④臨床試験を受ける人にその医

薬品についての情報を与え、その同意を得ること、である。

第四に、新薬の承認の手続きが新たに規定された。 1938年法の下では新薬は申請から60日

以内に当局からの延期通知が申請者に出されなければ、自動的に認可される仕組みになってい

た。本改正法では認可において、申請から180日以内での当局による「承認」という プロセス

が導入された。しかもその日程で承認が得られない場合でも、申請者は承認を求める限り、 当

局の審査のさらなる延長を飲まざるを得ないことになった 5)。

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100 経営研究第64巻第2号

図 1 キーフォーヴァー・ハリス改正法前後の新薬開発のプロセス

キーフオーヴァ ・ハリス改正法以前

人聞を対象とする

前に、動物を用い

て毒性や効果を

検討

人聞を対象とする

前に、動物を用い

て毒性や効果を

検討

臨床試験の計画

をFDAが審査

人聞を対象とした

新薬の試験

ただし、試験の方

法は製薬企業の

任意

人間に対する安

全性の検討

被験者は健康な

ボランティア(20-80名程度)

安全かつ有効な

投与量と投薬方

法の検討

被験者は患者(100-500名程度)

二重盲検法など

により既存薬やプ

ラセボ(偽薬)に対

する新薬の有効

性を統計的に検

被験者は患者(1000-5000名程

度)

危険性が認めら

れなければ認可

販売後の認可取

消は無し

FDAが審査し、承

認へ

後に危険性が判

明すれば承認取

消もある

注)被験者の数はおおよその目安であって厳密なものではなく、時期や試験される医薬品によっても異なる。

出所)筆者作成。

以上のような法改正は、後の関連規制をともないつつ、図 1にみられるように、新薬の開発

のプロセスを大きく変化させた。統計学的手法をベースとした「科学」の手法が導入されたこ

とと、規制当局の監督権限が強化されたことが特徴である。

2.3 医薬品名の標準化

最後に挙げるのは医薬品名への規制についてである。これは前2項で見てきたものと違い、

新薬の研究開発を直接に対象とする規制ではなし、。もっとも、新薬研究開発に対しでもやはり

影響を及ぼすものである。

1938年法では、薬局方などに記載されていない新薬のラベル上の名称は、個別の供給者に

ゆだねられており、たとえ同じ物質であっても一般名は用いられなかった。そのため、特許が

切れた物質であっても、ブランドの知名度が市場での競争力に大きく作用した6)。他社製品は

先発ブランド薬の商標権を侵害しないためには名称を変えなければならず、重要な医薬であっ

ても市場性はあまり大きくなかった。

本改正法においては FDAに正式名(officialname)を指定する権限を与えた上で、処方薬

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1962年キーフォーヴァー・ ハリス医薬品改正法とアメ リカ製薬産業の競争条件の変化(山口) 101

のラベル上には確立された名称(establishedname) nの記載が義務づけられた。つまり、医

薬品名がブランド名から独立して一般化されたのである。このようにして初めてブランド名の

確立した医薬品とジェネリック薬 8)が対等に競争する条件ができたのである。

これは特許切れによ って制度的に製品陳腐化を促すことで、ブランド名による事実上の独占

を掘り崩すものであり、それゆえにブランド薬を扱う企業にとっては新薬研究開発を強化せざ

るを得なし、状況をもたらした。

2.4 キーフォーヴァー・ハリス改正法の特徴のまとめ

以上の分析から、キーフォーヴァー ・ハリス改正法の特徴は次のように整理できる。

第一に、本改正法は、国による医薬品の品質保証を強化するためのものであ った。安全性だ

けでなく有効性というプロフィールも新たに客観的評価の対象となったこと、さらに安全性と

有効性を客観的に評価するための仕組みが初めて法制化されたことで、新薬研究開発のプロセ

スに科学の視点が導入されたといえる。

第二に、本改正法は医薬品にかんする需要者の経済的ロス(逆に言えば同じだけの企業の経

済的利益)を解消するためのものであった。有効性の評価が費用対効果の判断基準となった。

そして医薬としての名称を標準化し、その表示を義務づけることによって、ジェネリック薬と

先発品の競争を促進し、特許が切れた医薬の価格を引き下げた。

つまり、企業の成長性が科学的裏づけのある有用な新薬の研究開発に依存せざるをえなくなっ

たのである。

3 第二次大戦後のアメ リカ製薬産業と独占をめぐる問題

キーフォーヴァー ・ハ リス改正法は、エステス・キーフォーヴァー上院議員が反トラスト小

委員会での調査を通じてまとめた医薬品規制法案(キーフォーヴァ一法案)を下敷きとしてい

る。ところがこのキーフォーヴァ一法案は一度廃案になっており、その時点を境に時期を分け

ることができる。前段の時期においては独占をめぐる問題が中心であった。

3.1 戦後製薬産業における寡占体制の形成

ここでは新薬の研究開発にかかわる科学 ・技術の発展段階に触れつつ、製薬産業における独

占の形成過程をみてし、 く。

1930 40年代はサルファ薬や抗生物質といったま ったく新しい医薬が登場した時代であると

ともに、新薬の探索技術 ・手法 9)が多数現われ、製薬企業の多くが研究開発を行うようになっ

た時代であ った(Achilladelis,1999, pp. 55 57)。第二次大戦の聞は戦時体制への協力 10)の

必要性から製薬産業の競争は一時的に制限されていたが、戦後になって本格的に新薬の研究開

発をめぐる競争が活発化した。

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102 経営研究第64巻第2号

第二次大戦後の医療および製薬産業にとって重要な新薬には、ペニシ リンやストレプトマイ

シン、テトラサイクリンを代表とする抗生物質、サルファ薬にけん引されて発見された医薬 11)、

そして抗ヒスタミン薬やステロイドホルモン薬などがある。これら新薬のうちとりわけ抗生物

質については、 製薬産業の研究活動によって多くの新薬が発見されていった(Scriabine,1999,

pp. 162-172)。しかし一般的には医学上の主要な発見にかん しては産業外の研究機関の役割が

大きかった。製薬産業における研究は、こうした公知の新発見を基礎に小さな改良を加えてい

くといった性格のものであった 12l (Comanor, 1966, pp. 13 15)。そのため、 製薬企業による

研究開発の競争の結果、治療効果においても分子構造においても類似した新薬が複数生み出さ

れた。

こうした環境のもとで、第二次大戦後の製薬産業の競争はどのような展開をみせたのだろう

か。まず、戦後直後はペニシリンやストレプ トマイシンをめぐる競争が活発化した。これらの

医薬は衛生環境が悪く最近による伝染病が多い当時の時代状況において重要性が高かった。一

方両者とも特許による私的独占がなく 、どの企業でも自由に製造することが可能であった。そ

のため、図 2にみられるように、ペニシ リンは 1946年から 50年の聞に価格が9割近くも下落

しfこ。

また既述の研究開発競争とかかわって、競合新薬間でも価格競争が引き起こされた。ペニシ

リンやストレプトマイシンに比べて適用できる細菌の範囲が広い広域抗生物質は 1940年代末

に複数の企業が開発したが、1948年 12月から 1950年 5月の1年半で 15ドルから 6ドルまで

図2 ペニシリンの生産量(10億国際単位=billioninternational units: b.i.u.)と価格の推移

5000

4500

4000

3500

3000

2500

2000

1500

1000

500

---ー•• lb.i.u.あたり価格(米ドル)

....... 一 生産量(b.i.u.)

600000

500000

400000

薗300000

200000

100000

・---・--・--・…・…・…・--・ l 0 -~Q, -~とや やや令令や今やや今ややペー 去、 4・ 4・ ペ- ~·· ~·· ~ · ~ ~·· ~·· ~ · ~·· 斗一、、、、、、、、、、、、、ヘv

出所) U.S. Congress, Senate Subcommittee on Antitrust and Monopoly (1961), p 13847.

原典) U.S. Tariff Commission: Annual reports on U.S. productionαnd sales of syn-thetic orgαnic chemicals.

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1962年キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法とアメリカ製薬産業の競争条件の変化 (山口) 103

表3 広域抗生物質 250mg16錠の薬局の仕入価格の推移 (単位:米ドル)

時五々子レダリー パーク・デファイザーブリストル

イヴィス

1948年 12月 15

1949年 2月 10

3月 10 10

1950年 2月 8 8

4月 8 8 8.4

5月 6 6 8.4

11月 6 6 6

1951年 10月 5.1 5.1 5.1

1954年 5月 5.1 5.1 5.1 5.1

1961年 8月 4.23 5.1 5.1 5.1

注) 各社の医薬品は以下の通り。レダリ ー クロルテ 卜ラサイクリン、ノマーク ・テ。イヴィス: クロラムフェニコーJレ、ファイザー ・オキシテトラサイ クリン、ブリストル:テトラサイクリ ン。

出所) Costello (1968), p. 39. 原典) U.S. Congress, Senate Subcommittee on Antitrust and

Monopoly (1961), p. 13663.

価格が下落 している(表 3)。一般的に製薬企業は新薬の研究開発に成功すると製品特許をは

じめとする特許を取得し、先行者の利益を享受するこ とができる。しかし上記のような環境に

おいては研究開発の成果は類似薬として結実することが多く 、そうした場合すぐに類似薬との

価格競争が起こってしまうため、収益を安定させることが困難であった。図3に戦後から 1950

年代における代表的な企業であるメルク社(Merck& Co.)とファイザ一社(Chas.Pfizer &

Co.)の売上高営業利益率を示しているが、両企業とも戦後から 50年代初頭にかけては急速

な成長や落ち込みがあり、52年頃までは不安定であった。これは価格競争の厳しさを物語っ

ている。

こうした事態を受けて製薬企業は価格競争を抑えるための対処をしなければな らなかった。

Temin (1979)が明らかにしているように、その対処として製薬企業がとった戦略は第ーに垂

直統合化であった。そもそもこれ以前の時期は、有効成分としての医薬原薬の製造工程と製剤

化された医薬品の製造工程は別の企業が担うことが一般的であった。メ ルク社やファイザ一社

などは大手ではあったが、製剤化を行う製薬企業に原薬を販売するのみで、医師と直接に取引

するチャネルをも っていなかった。そのために上流の大手企業が下流の諸企業の価格競争に巻

き込まれざるを得なかった。ファイザ一社は 1950年から自社ブラ ンド販売を始め、メルク社

も1953年のシ ャープ ・アンド ・ドーム社(Sharp& Dohme)買収により自社ブラン ド販売

を始めた。垂直統合化によ ってメルク社やファイザ一社は、最終製品市場への自社の販売網を

獲得すること となった。

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104 経営研究 第64巻第2号

図 3 代表的な研究開発型製薬企業 2社の売上高営業利益率(1945-57年)

60.0%

一和田ファイザ一社50.0%

40.0%

30.0%

20.0%

10.0%

0.0%

1945194619471948194919501951195219531954195519561957

出所)Moody's Industrial Manuαlより筆者作成。

第二に、こうして統合化された大手製薬企業は、自社で販売する医薬品のブランドを確立す

るために宣伝 ・広告戦略を重視するようにな った。こうしたブランドの影響によって、中小の

製薬企業と大手の間ではもはや競争が成立しない事態も生まれた。

3.2 キーフォーヴァー委員会における反独占の動き

高止まりする医薬品の価格は 1957年頃から問題として認識されはじめ、連邦取引委員会

(Federal Trade Commission:以下、FTC)がまず抗生物質に関して調査を開始した。そして

59年 12月に連邦議会上院の反 トラス ト小委員会(キーフォ ーヴァー委員会)において公聴会

が開始された。

まず寡占の有無にかかわって医薬品の価格と費用、利潤の問題が調査された。医薬品の価格

設定の内訳は企業秘密であったが、公聴会において暴露されることとなった。公聴会で最初に

取り上げられたシェリング社(ScheringCorporation)の副腎皮質ステ ロイド薬(フ。レドニゾ

ロン)の例でみると、当時のー錠あたりの小売価格は 29.8セント、薬局への卸売価格は 17.9

セントに対し、製造原価は 1.5セントであった。これは必ずしも極端な例ではなく、医薬品価

格が原価と関係なく決められるという業界の慣行を示している。価格設定の根拠は、コストと

は無関係な、「患者が払えるような価格」 13)であったり、製造方法が全く異なる医薬品との競

争 14)であったりしたのである(Kefauver,1965,邦訳41-45頁)。

そうした中で、同一医薬品の間での価格差の問題に注目が集まった。一つは大手と中小の製

薬企業間の同一医薬の価格差の問題であるO もう一つは、同一医薬品についてのアメリカと国

外との価格差である。 こうして、 大手製薬企業における高利潤 15)の実態が示され、批判が集

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1962年キーフォーヴァー・ ハリス医薬品改正法とアメリカ製薬産業の競争条件の変化(山口) 105

中することとなった。

大手製薬企業の独占的行動を可能にする手段としては、特許と宣伝 ・広告が問題にされた。

前者については抗生物質テトラサイクリンにかかわる秘密協定が有名である。テトラサイクリ

ンは広域抗生物質と呼ばれ、臨床現場で使いやすいために抗生物質市場で大きな市場シェアを

獲得した。先に挙げた表3によれば、最初に医薬品として開発したのはレダリ一社(Lederle

Laboratories) (1948年)であ ったが、1950年にファイザ一社も独自に発見・開発したもの

を販売し始めた。当初は価格競争が起きているが、 51年 10月を境に薬局の仕入価格は一定に

なっている。これはブリストル社(Bristol-MyersCo. )が 1954年に参入して以降も変わらな

い。これら三社には特許権をめぐり係争が起こったが、最終的にテトラサイクリンの特許はファ

イザーに与えられたものの、三社それぞれに製造販売権を認め、これにブリストル社から供給

を受けるスクイブ社(SquibbCorporation)と アップジョン社(UpjohnCompany)を加え

た五社以外には販売を認めないという形で和解に至った。それ以後 1961年までは、用量(一

回に投与される成分量)や剤型(注射剤、錠剤、カプセルなど使用される形態)の変更の場合

や、さらには退役軍人病院などの大口顧客に対する値引きなどの場合においても三社の価格は

常に共通に保たれた(Costello,1968, pp. 38 39)。特許そのものは本来独占の合法的な手段で

はあるが、このような行動は価格カルテルとみなされ、五社は FTCから訴追された。

宣伝 ・広告については、 2.3でみたように、処方薬の市場を獲得するにはブランド名の知名

度が重要であったという事情を踏まえておく必要がある。キーフォーヴァ ー委員会で報告され

た22社のうち 8社は製造費を上回る支出をしていた(Kefauver,1965,邦訳 62頁)。医師へ

の大量のダイレクトメール、パンフレット、サンプルの郵送や電話、直接訪問による宣伝が過

剰なまでに行われた(Hilts,2003, p. 136)。その他にも学会誌への広告掲載、さらには学会中

の医師の接待なども宣伝 ・広告の一環として行われた。これらの宣伝 ・広告の多くは、有効性

や安全性などの誇張といった点で、その情報の正確性が不安視されていた(Kefauver,1965,

邦訳6467頁)。

二年間にわたる公聴会を経て、これらの問題点を踏まえた改革策がキーフォーヴァ一法案と

して示された。その要点は大きく分けて、①一般名の表示義務づけ、②有害な副作用について

の表示義務づけ、③FDAの新薬の認可条件として有効性を追加、④新薬の特許による独占期

聞を発売後3年聞に制限、という四点に集約される。すべての点が製薬業界の経済的利害を反

映しているが、立ち入って考えると事情は異なる。①~③については複数の選択肢がある場合

により適切な医薬品を使用するためのものであった。つまり医薬品の情報の質 ωを管理する

ことにより、間接的に無駄な医薬品の消費を抑えるという仕組みであった。しかしながら、④

は強制ライセンス条項と呼ばれ、直接的に製薬企業から独占利潤を獲得する機会を奪うもので

あった。つまり、特許権者の意志にかかわらず、 3年後には第三者にライセンスを与えなけれ

ばならないとされたのである。

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106 経営研究第64巻第2号

3.3 キーフォーヴァ一法案の挫折と産業界の反撃

キーフォ ーヴァ一法案は医薬品価格を下げ、安全性を高めるものとして大きな期待を集めた

が、その一方で反対勢力も少なからず存在した。反対勢力は産業界を筆頭に、 FDAや医師会

にも及んでいた。

製薬産業の業界団体である米国製薬工業協会(PharmaceuticalManufacturers Association:

以下、 PMA)の内部では二つの立場にわかれた。 一つはキーフォーヴァ一法案への全面的な

反対である。もう一つは部分的な反対である。 PMAの当時の会長であったイー ライ ・リリ一

社(EliLilly & Co. )のユー ジーン・ピースリー (EugeneBeesley)をはじめとして、有力

企業には後者の立場をとる者も多かった。 上述の一連の公聴会を通じて地に落ちた製薬産業へ

のイメージを回復する必要を感じていたのである。その一方で、そうした企業は、すでに新薬

研究開発における有効性や安全性の検証を慎重に行っていた。そこで PMAでは、強制ライセ

ンス条項など、一致して反対すべき点を確認していったのである(Harris,1964, pp. 142-145)。

FDAがキーフォーヴァ 一法案に反対する事情は次のようなものであった。 FDAは医薬品や

食品の安全性と表示されている情報の信頼性を保証するための規制機関であ った。キーフォー

ヴァ一法案で意図されていたような経済的な規制は範鴫外であり、それに対応することは負担

の増加を意味した。また、規制を厳しくすることで不要な医薬品を排除できるとしても、そう

した動きは製薬業界に敵対するものだと心配する声も FDA内部に存在した。 FDAの幹部は

製薬業界と癒着している実態が存在したのである(Hilts,2003, pp. 136-139)。

医師についてみると、個別の医師というよりも全米医師会としての反対であった。もっとも

彼らが反対したのはキーフォーヴァ一法案の反独占的性格に関してのことではなかった。従来

は医薬の安全性や有効性を判断するのは個別の臨床医師であったが、 FDAとしての医薬品の

有効性 ・安全性の評価を作ることは、国家による医師の職権への過剰な介入とみなされたので

ある。ところが既述のように、当時の医薬品情報には不正確なものも多かったが、製薬企業に

よる大量の宣伝 ・広告には、医師でさえ翻弄されているというのが実態であった。こうした状

況においては、医師の職権への国家の介入を防ぐということは、事実上企業活動の自由を擁護

する意味しかもたなかった(Hilts,2003, pp. 140 141)。

このように、キーフォーヴァ一法案は産業界を中心とする多くの利害関係者の前に困難なた

たかいを強いられていたが、とどめを刺したのはジョン ・F・ケネディ(JohnF. Kennedy)

大統領による不支持であった。ケネディとキーフォ ーヴァーの聞の個人的確執も影響したとさ

れているが、結果として法案は反対多数で否決され、葬られることとなった(Hilts,2003, p.

142)。

一方、キーフォー ヴァ ーが示してきた医薬品の信頼性や価格にかんする問題点は、ケネディ

自身も同時期の議会での演説において取り上げている(Kennedy,1962)。そしてケネディは

キーフォ ーヴァ一法案とは異なる独自の改革案を進行させつつあった。反キーフォ ーヴァ ーの

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1962年キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法とアメリカ製薬産業の競争条件の変化(山口) 107

急先鋒であったイース トランド上院議員が取りまとめ役となった。新しい法案はロイド ・カト

ラー(LloydCutler)をはじめとして製薬業界に近い法律家らによって作成され、ジェームズ ・

イーストランド (JamesEastland)上院議員の委員会で審議された。委員会も製薬業界のロ

ビイスト 3名が参加し、キーフォ ーヴァー委員会における成果を骨抜きにしていった(Hilts,

2003, pp. 142 143)。

4 サリドマイド事件と規制強化への要請

反独占を旗印に 2年以上もの間続けられた、キーフォーヴァ ー上院議員による製薬産業にとっ

て敵対的な改革の取り組みは、 1962年初めまでには頓挫してしま った。代わって産業界の利

害を考慮した改革案が反キーフォ ーヴァーの動きの中から登場した。この流れはサリドマイド

薬害事件によって再び逆転することとなる。

4.1 サリドマイド事件

サリドマイドは、西ドイツのグ リュネンタ ール社(Grunenthal)が創製 ・開発した医薬品

であり、強力な鎮静薬である。それは催眠作用をはじめ、妊婦の吐き気など、つわりの症状を抑

制する効果もも っていた。当時使用されていたノイノレビツール酸系の鎮静薬は服用量を誤れば死

に至るという危険性が知られていたが、サリドマイドはそのような副作用をもたない安全な医

薬品であるという認識に基づき、 1957年 10月に西ドイツで発売された 17)。 サリドマイドは急

速に世界に普及した。西ドイ ツにヲ|き続いてすぐにイギリスやスウェ ーデン、日本でも発売さ

れ、販売が中止されたころには 46か国に広がっていた(Zimmer,2010)。

一方、サリドマイドが世界中に急速に普及してい くなかで、めまいやけいれんなど神経系の

障害という副作用が数多く報告されるようにな った。そして 1961年 11月にドイツ人医師ヴィ

ドゥキント・レンツ(WidukindLenz)によって、胎児の催奇形性という深刻な副作用が報

告された。この報告が決定打となってサリドマイドは市場から姿を消すこととなった 18)。 こ

の間だけでも、アザラシ肢症などの先天性異常をもった子どもは、ヨーロッパを中心に世界で

1万人以上も誕生したと言われている(Zimmer,2010)。

本稿の分析対象であるアメリカでは、 FDAの承認が下りなかったため発売はされなかった。

しかしそれでもサリドマイド事件は他国に劣らず、アメリカ社会にも大きな衝撃をもたらした。

というのは、臨床試験の名目で 250万錠が供給され、サリドマイドを服用した患者は 2万人に

及んだからである(Hilts,2003, p. 151)。そして少なくとも 17人の子どもがサリドマイドと

の関連性が疑われる先天性異常をもって生まれたという(Mintz,1967,邦訳318頁)。

発売後に深刻な副作用が明らかになることによって姿を消してし、く 医薬品は他にも多数存在

するが、とりわけサリドマイドが薬害事件と言われるのは、のちの各国の裁判でも明らかにな

るように、開発企業の重大な過失と国の規制の不備が厳し く問われたためである。こうした点

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108 経営研究第64巻第2号

で、サリドマイドの販売が結果的に阻止されたアメリカでも、他国と同様に問題を抱えていた

のである。

4.2 サリドマイド事件に関する製薬企業の問題性

サリドマイドの被害が世界的に拡大したのは、何よりもまず開発企業に問題があ った。販売

最優先で安全性を軽視したのである。

まずは開発元であるグリュネンタール社の問題から見ていこう。第ーに安全性確認のずさん

さについてである。医薬品の開発に当たっては、安全性確認のため臨床試験に先立って動物実

験が行われるのが一般的であるが、サリドマイドの動物実験においてグリュネンタ ール社はマ

ウスに対する鎮静作用を確認したとしていた。ところがこの結果はその後行われた実験におい

ては確認されなかった t9l(Sjりは凶m and Nilsson, 1972,邦訳 204-205頁)。また、サリドマイ

ドの「無毒性」の根拠は、動物実験において一回の大量投与で中毒が現われなかったというも

ので、人間と実験動物の区別や、慢性毒性と急性毒性の区別を無視したものであった(Siぬtrりm

and Nilsson, 1972,邦訳 42-43, 203-204頁)。臨床試験の段階においても、サリドマイドの

安全性の検証は科学的と呼べるものではなかった。サリドマイドの臨床試験では、四肢のし

びれやめまし\感覚異常といった神経系への影響を示唆する副作用がすでに複数報告されてい

た。にもかかわらずグリュネンタール社はこうした不都合なケースを無視していたのであ った

(Sjost凶mand Nilsson, 1972,邦訳207頁)。

第二に、販売後の副作用報告を怠っていたことである。副作用の報告はサリドマイドが発売

され、広く使用されるようになって以降急速に増大した。グリュネンタ ール社の地元で、ある西

ドイツでは医師の管理を離れた大衆薬であったために副作用の認知は遅れたが、 1959年ころ

からはグ リュ ネンタール社や他国における開発企業に対して各地における副作用が報告される

ようになった。しかしこれら企業は、こうした報告をその後2年あまりも黙殺するのみであっ

た。積み重なった副作用の事例がマスコミを通じて社会的に顕在化してはじめて販売中止に至っ

たのである20)。

一方アメリカでは、リチャ ードソン ・メレル社(RichardsonMerrell)がグリュネ ンタ ー

ル社からライセンスを受けて開発に取り組んでいた 21)。リチャードソン ・メレル社も独自に

動物実験をするところから開発を始めた。しかしその動物実験では、グリュネ ンタ ール社の報

告と異なり実験動物が死亡した例も多数あった。それにもかかわらず、その後臨床試験へと進

んだのである(Hilts,2003, p. 150)。臨床試験もずさんなものであった。サリドマイドの審査

を担当した FDAの監督官フランシス ・ケルシー(FrancesKelsey)が リチャードソン ・メレ

ル社に送った書簡には次のような指摘が含まれていた。 「臨床研究の結果が十分に詳しく伝え

られておりません。報告は個々の患者について年齢、性別、処置を受けた症状、 投与量、投与

回数、臨床 ・実験室検査の結果、観察された有害な作用および治療効果の詳細を記載したもの

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1962年キ フォーヴァー ・ハリス医薬品改正法とアメ リカ製薬産業の競争条件の変化(山口) 109

でなければなりません」(Sj出tromand Nilsson, 1972,邦訳 208頁)。詳細を省略すれば、臨

床試験の結果についての恐意的な解釈も可能になるという問題がある。

前述のようにアメリカでは販売には至っていなかったが、リチャードソン ・メレル社のサリ

ドマイドの開発からの撤退過程も注目に値する。同社は、西ドイツでのレンツ報告を受けて、

臨床試験に参加する一部の医師に対してサリ ドマイドについての警告文を発送した。しかしそ

の時点で臨床試験そのものは中止せず、それからさらに 15週間後の 1962年 3月半ばになって

ようやく試験を中止し、サリドマイドの回収に動き出した(Mintz,1967,邦訳 310-311頁)。

各地での副作用報告を無視し続け、あくまでも開発にこだわったのである。

4.3 FDAの新薬研究開発規制の欠陥

アメリカの FDAは、当時すでに 1938年法に基づいて新薬の安全性について監督する立場

にあった。先進国中でアメリカのみがサリドマイドの販売を食い止めることができたのは、

FDAによる規制が機能したためである。ところが、サリドマイド事件はアメリカにおける新

薬の規制の有効性以上に、 欠陥を露見させた。

その欠陥は第ーに、販売を阻止しでも使用を防げなかったことである。既にみたように、ア

メリカでも実際にはサリドマイドは臨床試験という名目で広く使用されていた。臨床試験での

新薬の使用は規制の抜け穴であ った。また新薬研究開発のプロセスが標準化されていないため

に、それぞれの製薬企業が独自の方法をとっていた。したがって危険性のある臨床試験が行わ

れでも、それを阻止する規制が存在しなかったのである。 しかも臨床試験においてインフォー

ムド ・コンセントも必要とされていなかったため、患者が知らず知らずのうちに危険な医薬品

の実験台となることがあることがサリ ドマイド事件によって示されたのである。

第二に、 FDAは危険な新薬を不用意に認可する可能性があるということである。サリドマ

イドの販売を閉止できたのは、必ずしも FDAの規制の仕組みによるものではなかった。むし

ろケルシー監督官個人の資質の問題が大きく起因したものと考えられた。実際にケルシーはリ

チャ ードソン ・メレル社から繰り返し圧力をかけられていたが、 FDAという組織が彼女を守

ることはなかった(Mintz,1967,邦訳 308 309頁)。閉じリチャードソン ・メレル社が開発

したトリパラノールにかんする以下の実例は、 FDAという組織の問題性をより如実に示して

いる。

トリバラノ ールは抗コレステロール薬として開発された。 1950年代には高コレステロ ール

は動脈硬化の原因と考えられるようになっていた。食事制限なしに動脈硬化のリスクを減らす

手段として、抗コレステロール薬には高い市場性が期待されていた。新薬承認申請は 1959年

7月に FDAに提出されたが、 FDAの薬理学者の一人が安全性についてのデータに疑問をもち

承認に強く反対した。問題は潜在的な毒性がほとんど明らかにされていなかったことに加え、

高コレステロ ールと動脈硬化の因果関係がそもそも不確実なことにあった。こうした点を検証

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llO 経営研究 第64巻第2号

するには数年間にわたる臨床試験での検証が本来必要であった。ところが、 FDAがこれらの

問題に対するデータをリチャードソン・メレル社に要求したわずか3週間後に、トリバラノー

ルは認可を受けた。 FDAの担当官は後に会社からの圧力の存在を証言した(Mintz,1967,

邦訳 285-289頁)。 2.2でみたように、 38年法の下では新薬は申請から 60日で自動的に認可

される仕組みであった。そこでは認可を延期するという主体的行為にこそ責任が問われた。

すなわち当該新薬の安全性を疑う根拠がなければ、 FDAによる製薬企業の経済的利益の侵害

とみなされる危険があった。したがって FDAは製薬企業に対して不利な力関係にあったので

ある22)。

卜リパラノールは 1962年4月に自主的に販売が中止され、市場から回収されている。その

きっかけは、リチャードソン ・メレル社によるトリパラノールの動物実験にかんする虚偽報告

が発覚したことであった。裏を返せば、第一に申請段階ではその虚偽報告は発覚しなかったと

いうことである。新薬承認申請において、製薬企業は開発過程の全てのデータを提出する義

務がなかったのである。第二に、FDAはトリ パラノ ールの販売中止を命じなかったというこ

とである。実際には一度認可された医薬品の認可を取り消す権限が FDAにはなかったのであ

る。

こうした事実すべてが FDAの監督権限の不十分さを示しており、サリドマイドのような危

険な医薬を排除する制度が整っていない実態が明らかになったのである。

4.4 キーフォーヴァー・ハリス改正法の成立

サリドマイドがアメリカで不認可となった背景は、 1962年 7月 15日に WαshingtonPost

紙に取り上げられ、ケルシーの働きが称賛されるとともに、リチャードソン ・メレル社および

FDAによる新薬研究開発過程における安全性確認のずさんさが社会に知れ渡ることとな った。

こうして FDA改革があらためて喫緊の課題となったが、その際に土台となったのがもとのキー

フォーヴァ 一法案であった。反独占、反産業の規制として攻撃されてきたキーフォーヴァ一法

案であったが、 FDAの監督権限強化という側面においては、当時の規制強化の要請に合致し

ていたのである。ただし、そこでは安全性と直接関係のない特許の強制ライセンスにかんする

条項は、最終的に復活することはなかった。

5 おわりに

キーフォーヴァー ・ハリス改正法は、その成立の経緯からも、反独占、反産業とい う性格を

有していたことは間違いない。しかし一度頓挫した際に、特許の強制ライセンスという反独占

の象徴はすでに骨抜きにされており、最終的な改正法においても復活しなかった。したがって

反独占 ・反産業という要請は徹底されなかった。キーフォーヴァ一法案が最終的に改正法の土

台となったのは、思Jjの論理から説明されるべきである。すなわち、新薬研究開発の信頼性(科

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1962年キーフォーヴァー ・ハリス医薬品改正法とアメ リカ製薬産業の競争条件の変化(山口) 111

学性)の保証という要請が何よりもキーフォーヴァー ・ハリス改正法の性格を規定したのであ

る。そのために新薬の有効性と安全性の検証プロセスを標準化し、 FDAの監督権限を強化し

た。

キーフ ォーヴァー ・ハリス改正法は、製薬企業のブランド力のみに依存した経済的利潤を大

きく奪うものでもあったため、製薬産業における競争は、ブランド力をめぐるものから、新薬

研究開発をめぐるものへと移行せざるをえなくな ったのである。

このことが今日の製薬産業におけるアメリカの競争力にとってもつ意味にも簡単に触れてお

きたい。ア メリカは 1970年代以降、創薬にかんする科学 ・技術の革新(遺伝子工学の登場や

コンピュータの創薬への応用など)をリードし続け、そのことが製薬産業の競争力の根拠とな っ

ている。これらの科学 ・技術は、生理学 ・病理学にもとづ く、人体と病気の生物学的メカニズ

ム理解に寄与するためのもの、あるいはそのメカニズムを応用するためのものであった。キー

フォーヴァー ・ハ リス改正法によって新薬の有効性と安全性が厳し く管理される ようにな った

ことが、こうした創薬科学 ・技術の発展を促したという見方もできる。

しかしながら本稿の分析では、最後に触れたアメ リカ製薬産業の競争力の根拠はまだ実証的

に明らかになっていなし、。キーフォ ーヴァー ・ハリス改正法の規制に製薬企業はいかに対応し、

製薬産業の研究開発競争におけるアメリカの優位に結び、ついていったのか。こうした点につい

ては残された課題として、稿を改めて検討してし、く。

1 )本改正法はアメリカ議会上院においてエステス ・キーフ ォーヴァー上院議員が中心となって起草し、

可決された。 同時に下院においてはオレ ン・ハリス下院議員が取りまとめて可決されたため、二人の名

前を冠している。

2)アメリカ製薬産業の競争力といっても、必ずしも企業の国籍の問題ではなし、。現在大手の製薬企業は

いす、れも多国籍企業であり、販売網だけでなく 研究開発拠点もグローパル戦略の一環として決定される

からである。むしろここでいう競争力は、医薬品世界市場の 3害I]を占めるアメリカの市場規模(および

その背景としての自由薬価制度)、さらに企業の国籍を問わず、パイオ医薬をはじめとする革新的な新

薬の多くがアメリカから生まれているという現実によって、アメリカが世界中の製薬企業の研究開発活

動を引きつけている現状を指している。

3)マッセンギル社が同年に発売した医薬品で、抗菌薬スルファニルアミドを小児用に液体にするために、

ジエチ レングリコールの溶媒に溶かしたものである。ジエチレ ングリコールには強い毒性があった。こ

の医薬品によって 100人以上が死亡し、そのほとんどが子どもであった。

4)有効性(および安全性)において大きな差がないな らば、費用が安い治療法が優先される ということ

である。

5)なお直接に新薬の承認過程の問題ではないが、 1938年法においては発売後の新薬の認可取消について

は規定が存在しなかったが、本改正法においてその規定が登場した。

6)この背景には処方薬の特殊性がある。処方薬は一般的な商品と異なり、市場での酪品の選択者 (医者)

と実際の消費者(患者)が一致しない。そして医者の行動原理は患者の治療であるため、価格は需要に

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112 経営研究第64巻第2号

影響を及ぼしにくく(価格弾力性が低い)、有効成分が同一であっても知名度の低い他者の医薬品(ジェ

ネリック薬)を探索しようとする動機つ‘けは弱かった。

7)上記の正式名、あるいは薬局方などの公式文書において知られた名称、あるいは一般に知れ渡った名

称のことをさす。

8)特許が失効した医薬について、特許ーを保有していた企業以外の企業が一般名のもとで供給する医薬品

のことをさす。

9)基礎にあるのは分析化学や有機合成化学の発展である。こうして生理作用をもっ物質(ホルモンなど)

の構造分析や、そうした分子構造の知識をもとにした新たな物質の合成が可能になった。また別の例で

は、土壌中から抗生物質が発見されたことで(ストレプトマイシンなど)、さらなる新しい抗生物質の

発見のために世界中から土を集めて土壊細菌のスクリーニングをするような手法も生まれた。

10)戦時体制におけるもっとも有名な成果の一つは、科学研究開発局(Officeof Scientific Research and

Development)の医学研究委員会(Committ巴eon Medical Research)の下で進められた、抗生物質ペ

ニシリンの研究開発である。レダリ一社、メルク社、ファイザ一社、スクイブ社などの製薬企業は製造

プロセスの開発のために動員され、 1943年にペニシリンの工業生産が実現した。

11)サルファ薬はもともと抗菌薬であったが、サルファ薬の副作用を手掛かりに、降圧薬や抗精神病薬を

はじめとする多数の医薬が生まれた。

12)もちろんこういったからといって製薬産業における研究活動の重要性を否定することはできない。技

術的には小さな改良であっても、医学上の有用性を高めることはしばしばみられることである。

13)たとえば一日当たりタバコー箱分、といったものをさす。

14)動物由来の高価格なインスリンと化学合成ができる糖尿病薬ではコス トは全く異なるが、アyプジョ

ン社は後者をインス リンと同価格に設定した。

15) 1957年以後数年の医薬品産業の ROEは平均で 20% (アメリカの全製造業平均は 10%)だったほか、

Fortune誌がまとめた ROE上位 50社には、製薬企業が 13社含まれていた。(Kefauver,1965,邦訳

50-53頁)。

16)「一般名の表示義務づけ」という点については、特許が切れている医薬品の場合に価格の安いジェネ

リック薬の使用を促すための改革であり、その意味では特定の医薬品ではなく、特定の医薬(化合物〕

についての情報の質である。

17)ドイツでは当初、処方築なしで自由に買える大衆薬として販売されていた。

18)しかし近年新たに多発性骨髄腫という希少疾患への適応を認められ、医療現場に再登場した(薬事日

報,2008年 10月6日)。

19)ここにさらに付け加えるならば、グリュ ネンタ ール社の動物実験の原データ は1959年に破棄されて

おり、サリドマイド事件の検証の際には存在しなかった。販売している医薬品の安全性に関するデータ

を破棄するほど、安全に対する意識が弱かったのである。

20)ヨーロッバ以外では企業の対応はさらに遅れることとなった。例えば日本の大日本製薬は睡眠障害と

は全く 別の適応症に関して、問題発覚の翌年になってもサリドマイドを異なるブランド名で販売し続け

ていた(松下,1996,23-25頁)。

21)なお、アメ リカにおいてサリドマイドは当初スミスクライン ・フレンチ社、次いでレタリ一社がライ

センス導入を試みたが、新薬研究開発の豊富な経験を有する両社はともにサリ ドマイドの有効性および

安全性に疑問をもち、導入を見送っていた(Hilts,2003, p. 147)。

22)サリドマイドの件にかんしてもやはり、ケルシーはリチヤ ードソン ・メレル社から執働な圧力を受け

ていた(Mintz,1967,邦訳 308-309頁)。

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1962年キーフォーヴァー ・ハリス医薬品改正法とアメ リカ製薬産業の競争条件の変化 (山口) 115

The Kefauver-Harris Drug Amendment of 1962 and Changes in the Conditions of Competition in the American Pharmaceutical Industry

Y uji Yamaguchi

Summary

The purpose of this paper is to reexamine the features of the Kefauver-Harris

Drug Amendment of 1962, an amendment to the Federal Food, Drug, and Cos-

metic Act. Conventional views considered that the amendment was an anti-indus-

try regulation that imposed higher costs and risks on innovative pharmaceutical

firms and caused the erosion of technological superiority of the American phar-

maceutical industry in R&D activities during the 1970s. However, from the 1980s

until now, the U.S. pharmaceutical industry has evidently led the technological

innovation of new drugs. Therefore, the conventional views need to be changed.

This paper shows that since the compulsory-licensing provision had been elimi-

nated, the amendment was weakened on anti monopolistic aspects through the

legislative process. After the thalidomide tragedy in the early 1960s, the focus

of the regulation shifted from the economic issues to the scientific problems

regarding the R&D of new drugs.