樹木の栄養繁殖による氷河期の乗り切り――特に伏 …...樹木の栄養繁殖による氷河期の乗り切り――特に伏条繁殖について Trees have gotten
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氷河湖の上部から郎那通村を見る。 氷河湖に戻る頃には再び晴れてきて視界が利く。短時間の降雪に欺かれたようだ。ガイ
ドのテンジンが途中から帰ったのでツェレン少年とは全く会話ができない。18:20 村に戻
る。
10 月 24 日 昨日で登路の偵察を終わり今日は朗那通の住民からヒアリングの後、出発することとし
た。 ヒアリングに応じてくれたのはソンボンという名の部落の代表人格でンゲの従兄弟
だ。 朗那通は 3 家族、総数 19 人からなる。学校は巴青、雅安にあるが寄宿舎もないため
村の子供は実際には学校に行っていない。降雪が終るのは 4 月末、根雪になるのは 10 月末
ごろから。5,6 月と 9、10 月が天候は安定している。7,8 月は天気の周期により週に 0または 2 または 5 日間程度雨が降る。 7-8 月は村人全員でバンナカのカールに放牧へ行
く。 これまでに 3 度外国人チームが訪問してきた。2006 年、北京上海隊。 2006 年の英中
日、総勢 13 人の合同隊。今年 8 月のジープ 2 台による中国人隊。 今年の隊は来年 9 月に
布加崗日に登高すると言って帰ったそうだ。 東北大隊が次回来る時には人による荷役とヤクの提供に問題はなく協力する。費用はそ
の時に相談して決めよう。 輸送可能重量は平均 20-25Kg/人、50Kg/ヤクである。 村に電話はないが公路沿いの熱都郷には電話で連絡が取れるので事前にラサの登山協会
からでも連絡をすることは可能なようだ。 屋内にテレビと夜間の照明灯が一台ある。電
源は太陽電池である。
早朝、ヤクの乳搾りをする母娘 (朗那通で)
10:00 朗那通発。 昨日の案内をしてくれたツェレンに案内料として 200 元を、また持参
したノートと鉛筆、また若干の日本製の菓子をお土産においた。ンゲの家族とソンボンに
見送られて小雪の降る中、村を後にする。厳しい自然環境に囲まれて生活する住民にとり
周囲の山、湖などは信仰の対象として「聖なる」対象であるが、登山活動には協力的で少
なくとも敵意、抵抗といった様子はない。 11:00 熱都着、11:40 峠。 峠を越えて道は北上し急斜面を斜滑降状に下って行く。 昨
日の雪が路面に凍結し4駆用のタイヤとはいえチェーンもなく 2,3 度ヒヤッとする場面が
ある。付近のチベット族が長いスコップを持ち所々で凍結部分にスリップ防止用に土をか
けている。それだけ危険だということだ。 12:20 雅安着。雪が本降りとなる。スコップ
事件に遭遇した。アンガン峠の登りでノーマルタイヤを付けたサンタナ(上海現地生産の
フォルクスワーゲン)がスリップして前進できずに渋滞している。後続のトラックからス
コップを借りて何度か強引に前進しようとするがだめだ。危険だから引き返すように直接
アドバイスしても聞く耳を持たない。そのうち後続の車からも路肩に寄って道を空けるよ
うクレームが出たので渋々山側に退避した。トラックの運転手が貸していたスコップを引
取ろうとしてしばらく交渉していたが結局売買成立して買い取ったようだ。さてどうなる
事やらと思ったが、「君子危うきに、、、」で通り過ぎた。おそらくかなりの可能性で谷に転
落したのではないかと想像する。 約 15 分後、我々が追い越した親切なスコップの貸し手
のトラックが今度はスリップして前進困難となった。手持ちのスコップは売った後だしど
うするのだろう。 雪が降った川蔵北路はスコップで小金が稼げる。さすがチベット、辺
境の地でも中国らしく商魂はたくましい。 14:45 巴青着、遅い昼食をとる。15:40 巴青発。 16:40 索県着。往路と同じ中国電信の
招待所に泊まる。
雅安への下り、危険地帯。
スコップ事件と無謀な車 10 月 25 日 8:20 索県発。サルウィン河の支流に沿ってしばらく下る。さすがに大河の風格を漂わせ
る。右岸の断崖沿いを走ったあと右からの支流に入り、徐々に高度を上げる。途中ゴルジ
ュ帯も通過するが昨日ほどの危険は感じない。11:00 本日の 初の峠。この峠からは再びチ
ベット高原だ。 12:00 夏曲。 14:00 江古拉山口(標高 4900 米)今日の 2 番目の峠だ。
今回の旅行の 高点である。 15:00 今日 後の 3 番目の峠だ。これを越えるとあとは那
曲までの下り。 15:30 那曲着。往路に泊まった成都賓館が満室とのことで那曲飯店が今日
の宿泊所だ。 成都賓館よりはるかに高級な様子。軍関係の宿泊所なのだろうか、解放軍
の軍服を着た若い兵士が多い。一週間ぶりのシャワーと思って菅村さんが喜んで飛び込ん
だシャワーは途中から急に熱湯となり危うく大やけどするところであった(熱湯事件)。原因
は水道管の破裂でトイレの水が出ないのも同じ原因であった。 今回の旅行で 初の本格的なチベット料理が今夜のメニューだ。チベット族の標準的な
食事は朝、ツァンパとバター茶、昼に一日のメインの食事として数品の野菜、肉料理、イ
ンド風カレー、白米、スープなど。モモという中国の饅頭に似た蒸しパン状のものは結構
うまい。夜は日本のうどんに似たヌードルで軽く済ませるそうだ。米飯よりツァンパが力
の源泉と信じている。
清渓小屋に欲しい錫製のヤカン(那曲のチベット料理店で)
本格チベット料理、完成真近、、、。(那曲のチベット料理店で) 10 月 26 日
7:30 起床。 五日ぶりの快晴。日の出は 7:45 頃。今頃になって高度障害の症状が出
る。菅村さんも頭痛がするという。 偵察を終えた安堵感か昨夜久し振りに飲んだアルコ
ールか、当初 3 日間飲んだ薬とポカリスウェットの効果が切れたのか、あるいは昨夜の風
呂のせいか、単なる疲れか原因は定かでない。
9:20 那曲発。今日からは 6 日ぶりの舗装したアスファルト上の快適なドライブだ。 当
雄(ダムシュン)手前で何度も念青唐古拉山の全景を撮る。22 年前の登頂であるが思えば
ラサからのアプローチが容易な素晴らしい山であった。 昼は当雄で蘭州家常面というラ
ーメン専門店(?)に入る。この地には珍しい現在風のジーンズで決めた若い娘と父親が
経営している店だ。オーダーするとあわてて向かいの商店にキュウリなど野菜を買いにい
った。 15:40 ラサ、ヒマラヤ賓館着。一週間ぶりに帰ってくるとラサが何でも豊富な大都会に
見える。 夕食は登山協会、Dou 氏の招待で市内のキノコ鍋料理だ。仲々豪華なレストラ
ン、今回のチベット滞在中の 高級のものだ。久しぶりにうまいビールと安心して食べれ
る鍋をつつく。Dou 氏は三菱の旧式のジープで迎えに来た。 旅行会社のような社名の入
った車であり案の定、登山協会管理中心主任とは別に自分で会社経営しているようだ。中
国ではよくある話。1982 年からラサに勤務。6 月から 9 月は超多忙、11 月―2 月は妻子の
いる成都に帰るという。登山界では顔は広く、自身エベレストは6500米までいったという。
途中から飲んだ白酒が効く。帰りは Dou 氏の飲酒運転で送ってもらう。公安は大丈夫かと
いうと彼らが検問していない道だから大丈夫と言って少し回り道をする。 10 月 27 日 ラサ訪問記念に定番のポタラ宮を見学する。かつての栄華は今は昔、単なる観光地と化
しチベット仏教の中心としての活気はどこにもない。リアルで巨大な博物館だ。 11:30 Dou 氏がホテルに来訪。今回の偵察行について概略の状況を説明した。 高峰へ
も可能性の高い登路を確認したこと、現地住民の協力が得られそうなこと、中国隊の偵
察、来年再訪する可能性のことなどを説明した。 また東北大学山の会の本体派遣は 5 月
を想定しているが後日正式に申し入れすることした。 これでチベットでの全日程を終え空港へ向かう。テンジンと張運転手とは昼食を空港前
の陝西肉挟饅頭店で名物の饅頭を食べて別れる。 10 日間のチップの意味でそれぞれにお
礼に 1000 元を渡す。 14:00 空港。 成都へのフライトは濃い霧で午前の便までは大幅に乱れていたが我々の便
はほぼ予定通りだった。 18:00 成都着。鄭君の出迎えで再び岷山ホテルへ。今回は 20F の角のいい部屋を確保し
てくれた。コック一つでお湯も水もたっぷり出る高級ホテル。夕食は張少宏も参加し今回
の偵察の打ち上げを行う。中国料理には飽きたでしょうと韓国料理に誘ってくれる。ビー
ルとブルゴギは絶品の味。 10 月 28 日 午後の便までの間、武侯詞に行く。鄭君の三国志の知識は大したものだ。 日本帰国前
に即席で中国の歴史に浸り登山と探検の頭と心を日常に切り替えた。
13:00 成都発。 16:40 北京発。 20:25 成田着。
菅村さんは今夜も成田泊り。朗那通から仙台まで 5 泊 6 日の長期の旅となった。 参考:費用 成田-成都、往復航空券(格安) 88,310 円/人 現地費用(成都―ラサ往復航空券、現地ホテル、車、ガイド料、許可料、滞在中の食事、
全て):5520 米ドル/2 人―――>約 28 万円/人 上記以外は個人的土産、旅行傷害保険、ポタラ宮入場券、運転手とガイドへのチップ程度。
以上