平成16年5月9日(日) 「光岡八幡宮~叡知~」 - KAMUHOGI · 2015-12-01 ·...

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平成16年5月9日(日) 「光岡八幡宮~叡知~」 筑紫の国、宗像(むなかた)、ここは古代の神々が息づ く聖地です。国道3号線を少し入ったところに、あくま で静かにたたずむ神域があります。 元宗像といわれる光岡八幡宮、この神域に足を踏み入れ た者は、この空間が放つ清浄なる波動に共振し、神の息 吹を感じないではいられません。 私がこの神域に導かれたのは二度目、そして再び私は、 ここに神を見ました。 とりわけ、この神域の象徴のようなクスノ木(右の写 真)は、神を信じさせるには十分すぎる姿で私たちを迎 え入れてくれます。 この神の木は、まるで久遠(くおん)の昔から天と地を つなぎ、現象世界で何が起ころうとも、常在普遍なる光 で全てを包み込んできたかのようです。 決して主張はせず、しかし限りなく崇高で全てを受け入 れ、静かにあらゆるものを包み込むその姿は、真理と叡 知そのものです。 私はこの神の木に抱かれながら、自分もこのように在り たいと祈りました。 …内に携える無限の叡知が開かれんことを… 光岡八幡宮の御神木(上)と参道(下) (マウスポインタをのせてみて下さい。) copyright 2004 Yakabe office. All rights reserved.

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平成16年5月9日(日)

「光岡八幡宮~叡知~」

筑紫の国、宗像(むなかた)、ここは古代の神々が息づく聖地です。国道3号線を少し入ったところに、あくまで静かにたたずむ神域があります。元宗像といわれる光岡八幡宮、この神域に足を踏み入れた者は、この空間が放つ清浄なる波動に共振し、神の息吹を感じないではいられません。私がこの神域に導かれたのは二度目、そして再び私は、ここに神を見ました。とりわけ、この神域の象徴のようなクスノ木(右の写真)は、神を信じさせるには十分すぎる姿で私たちを迎え入れてくれます。この神の木は、まるで久遠(くおん)の昔から天と地をつなぎ、現象世界で何が起ころうとも、常在普遍なる光で全てを包み込んできたかのようです。決して主張はせず、しかし限りなく崇高で全てを受け入れ、静かにあらゆるものを包み込むその姿は、真理と叡知そのものです。私はこの神の木に抱かれながら、自分もこのように在りたいと祈りました。…内に携える無限の叡知が開かれんことを…

光岡八幡宮の御神木(上)と参道(下)(マウスポインタをのせてみて下さい。)

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平成16年6月6日(日)

「脅威」

山蔭神道行道、84座目のお行の終わりに、周りの草木を眺めて、ああ、全ては繋がっているんだなと静かに感じました。(古神道行道日誌6月1日をご覧下さい)心平らかに安らかにお行を終え、聖地から人ごみの中に入っていくと、全ては繋がっている、という感覚は、どこかに消し飛んでいることに気づきます。草木を通してなら一体感を感じられるのに、何故、人に対してはこの感覚を得るのが難しいのか…きっとそれは、人に対して脅威を感じているからに違いありません。そう、草木は、差し当たっては私に脅威を与えません。私に脅威を与えないと思っているものはOKで、脅威を与えると思っているものは、not OK なのです。この脅威の正体は、”恐れ”です。自分を否定しているのではないか、自分を攻撃してくるのではないか、自分の思う通りにはならない、等々のダイレクトな恐れや、また、気持ち悪い、見下す、馬鹿にする、等の自分の中の”not OK 感”(恐れ)の投影だったりします。(いずれも自分の中の”恐れ”の投影なのですが)自分に脅威を与えないと思っているものには一体感を感じられる…お行で感じた一体感は、全く身勝手な、傲慢そのものの思い込みだったのです。人に脅威を感じるということは、私もまた知らないうちに、誰かに脅威を与えているわけです。たとえそれが、その人自身の何かの投影だったとしても。私はお行の帰りに愕然としながら、先月観た映画、「CASSHERN(新造人間キャシャーン)」の中に出てくる言葉を思いだしました。~生きるということは、それだけで何かを傷つけている。だから、存在を許さなければならない~

 

 

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平成16年7月5日(月)

「桜井大神宮~陰陽和合~」

古代の海人族の国、伊都国(福岡県糸島)、ここに裏伊勢ともいわれる桜井大神宮という聖域があります。6月22日、この日は記録的な大型台風6号が九州を通過した翌日で、大浄化の嵐により塵芥が一掃された、清々しいばかりの快晴となりました。神明造り茅葺き屋根の素朴な御神殿の前で龍笛を奉納させていただき、与止妃大明神(桜井神社)を参拝した後二見ヶ浦へ。ここは、伊勢の二見ヶ浦の朝日に対し、夕日の二見ヶ浦として有名で、伊勢と同じくイザナギ、イザナミノミコトを御神体とする男岩、女岩が裏宮として海に鎮まります。(まるで伊勢が”陽”、ここ桜井が”陰”であるかのようです。)思えば昨年の12月22日の冬至、私の誕生日に伊勢神宮を参拝させていただいた時から丁度半年後、夏至に近いこの日に、まるで伊勢と対を成すかのようなこの聖地に導かれたということは、私にとっては「陰陽和合せよ」とのメッセージなのかも知れません。日本は古来より、修理固成、生成化育、産霊(ムスビ)の心をもって、異なるものをも見直し、聞き直し、言い直しをして全てを和してきた”大和心”の国です。対極にあるもの、相反するものにも抗わず、異と異の融和により新たなものを産み出すという”産霊の世界”こそが天地の理であり、そこに永遠の弥栄があるのに違いありません。和合は許しでもあり、この”大和心”は、混乱している今の情勢に対して救いの手がかりともなるはずです。しかし、まずは己自身との和解、和合が先であり、何故なら、己の中の対立図式を拡大して見せてくれているのが、今の戦争であったりするからです。天晴れるこの日の、この聖地での陰陽和合のメッセージ、様々なことを私に問いかけ、投げかけてくれました。…天地陰陽を成し、和合万物を生み成せり…

桜井大神宮の本殿と二見ヶ浦(マウスポインタをのせて見て下さい。)

 

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平成16年8月23日(月)

「産土神社~みあれ~」

筑前の国は草香江、ここは私が生まれた土地、そしてここから少し離れた所に、我が産土神社、鳥飼八幡宮が鎮座しています。この草香江の地で、私が肉体を持って現れた時に、大いなるご加護をいただいた産土神社、私は仕事で福岡をおとずれると、必ずこの聖地に挨拶に行きます。我が産土神社を毎月参拝させていただく度に、一人だけで生きているのではないということを、感謝とともに思い出します。私を産んで育ててくれた父母、そして祖父母、さらにはその後ろに永遠と続く祖先(ミオヤ)達や遠津祖霊(トオツミオヤノミタマ)達、そして産土大神の御蔭で、今の私が存在しているのです。まさに御蔭様で生きているわけですが、普段はこのことを忘れ、まるで自分一人で生きているかのように傲慢になり、感謝などはどこかに消し飛んでしまっていて、こうして産土神社のやさしく包み込んでくれるようなエネルギーに触れる度に、謙虚さと感謝の心を取り戻すわけです。産土神社は私をリセットしてくれる場所、無条件に私を受け入れてくれる母の愛のような神域、ありがたいことです。大いなる愛によって生かされている我、そして永遠と成りましていく”みあれ”の中の我もまた永遠…産土大神への祈りは、永遠と続く命への祝福です。

我が産土神社、鳥飼八幡宮の本殿と境内(マウスポインタをのせて見て下さい。)

 

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平成16年10月8日(金)

「羽黒山~畏れ~」

羽黒山山頂へ続く奧の細道。誰もいない、ただ一人歩く。修験の山の幽玄なる気に、私の心は畏れおののく。誰もいない、ただ一人歩く。何と私は無力な存在だろう。何と私は小っぽけな存在だろう。そのことがとても怖い。深山の巨木が、空気が、自分の足音が、容赦なく己の心を映し出す。私の心は畏れおののく。山は法体、この法体に、私は入る資格もないのに踏み込んでしまったのか、己の身の程を思い知らされる。法体は、容赦なく私の心を映し出す。法体は、私の怖れ(闇)を暴き出す。法体は、私の品格を問う……私は無力で姑息で小っぽけな存在。羽黒山は、全てを容赦なく映し出す。羽黒山山頂へ続く奧の細道。誰もいない、ただ一人歩く。私の心は畏れおののく……

羽黒山登拝路、奥の細道(マウスポインタをのせて見て下さい。)

 

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平成16年12月22日(水)

「神人和楽」

陰極まって陽に転じる冬至の翌日、伊勢の国は一陽来福の日に相応しく、光輝いています。この日は、私が肉体をもって地球に生まれた日、丁度一年前のこの日も、同じようにこの地は私を光で迎え入れてくれました。豊受大神宮(外宮)での神樂殿で、霊妙なる音と舞に神霊が舞い降りる中、私は自らの魂が浄まっていくのを感じながら、神恩感謝と全ての弥栄を祈りました。そして倭姫宮へ。皇大御神の御杖代となって奉仕された倭姫命に、龍笛を奉納させていただくと、辺りの空気がさらに澄み渡り、私の内から清らかなるものが湧き出ていくのが分かります。先ほどの外宮の神樂殿での音と舞、そして倭姫宮での龍笛の奉納、ああ、これが”神人和楽”なのだと思いました。捧げることと頂くことが同時に起こるのです。捧げるからこそ頂くことが出来、そしてまた頂いて捧げる、人は神を言祝ぎ、神もまた人を言祝ぐ…神も人も和し、絶えざる循環の流れの中で、永遠の弥栄を喜ぶのです。そして私もまた永遠の祝福の循環の中で、生まれ変わり続けるのに違いありません。内宮の参拝も無事終え、帰路の途中はずっと芳ばしい香りが私の周りから漂っていました。大御代の弥栄を祝り奉ります。

倭姫宮の参道と、外宮(上)、五十鈴川(下)(マウスポインタをのせて見て下さい。)

 

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平成16年1月8日(木)

「猫は修行の相手」

この世の全ては自分を映し出す鏡だといいます。また、神が姿を変えて自分の目の前に現れてくれているのだともいいます。そして身近な周りの環境に、自分が今世に取り組むべきテーマが隠されているともいいます。だとすれば我が家の猫は、自分を映し出す鏡であり、また神が猫に姿を変えて取り組むべきテーマを私に教えてくれているわけです。では何故にこの猫どもは、毎日掃除したばかりの床に吐くのでしょう。何故に大切な物を隙をみて壊すのでしょう。何故に暴れ回って安眠を妨げるのでしょう。私はイライラします。私は怒ります。私は穏やかではいられません。この猫どもはこれでもかと私を素にもどします(仮面をはぎ取ります)。思う通りにならない猫どもに、私の自我意識(エゴ)は待ってましたとばかりに増大してきます。「なぜだ ! 」と叫びたい私に猫どもは言っています。「ほらほら、まだまだだな」「また作戦にはまったな」「コントロールを手放なせ」「あるがままを受け入れよ」「寛大さを学びなさい」「許すことを体験しなさい」等々…。「そんなことは分かっている!」と反発したい私に、この猫どもは今日も、「ほら、修行の時間だよ」と教えてくれながら、私の心に揺さぶりをかけてくるのです。

我が家の猫どもと、猫の親玉であり猫使いの私の家内(もっとも思う通りにならない手強い相手です)(マウスポインタをのせてみて下さい)

 

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平成16年2月1日(日)

「シャドウ(影)」

先日、家内がある大切なイベントで、花束贈呈の役をありがたくも賜りました。ところが家内はその事をすっかり忘れ、式の担当者から電話がかかってくるまで家にいたのです。もう式が始まっており、花束贈呈の時間が迫っているのに、会場にまだ家内が居ないため、担当の方が焦りながら確認の電話をかけてきたのでした。家内は一応は慌てながら身支度を整え会場に向かいましたが、とうてい間に合うはずがありません。家内が出かけた後、私はものすごく腹が立ちました。気分が悪くなるほど怒りがこみ上げてきたのです。式が終わり、何食わぬ顔で戻って来た家内に、私はさらに激怒しました。大切な役を忘れ、他の人に迷惑をかけたのに、どうしてそんなに平然としていられるのか、責任を感じていないのか、恥ずかしくないのか、私は憤怒の思いで問い質しました。「だって仕方ないやろ、忘れたんやから。それに代わりの人がちゃんとやったみたいやからええやんか。」「ほら、お土産ももらったで」(私の家内は関西人です。)「…腹を切れ!腹を!」とあくまで家内の失態を咎める私を、「ふん」と鼻であしらいながら手下の猫どもを手なずけにかかります。(私の家内は猫使いです。)何故私はこんなに不快になるほど激怒したのでしょう。家内は私の中の、信用失墜することへの怖れ、恥をかくことへの怖れ、駄目な奴,使えない奴だとレッテルを貼られることへの怖れ等を見事に現してくれていました。(だからこそ私は自分をつくろい、上手く見せようと誤魔化したりします。)これらの”怖れ”という心の闇に直面することに私は耐えられず、怒りという形で防衛をしていたのです。身近な人は、自分の中の見たくない゛怖れ゛を現してくれる、”シャドウ(影)”の役割を演じてくれるのです。

マウスポインタをのせると猫使いの家内が現れます。

 

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平成16年2月12日(木)

「ギフト」

写真の天使の人形は、福岡の「ルシエル」というエンジェルショップで買ったものです。店にはたくさんの天使達がいましたが、私はこの天使から目をそらすことが出来ませんでした。何度かその場から離れることを試みましたが、どうしてもこの天使の前に導かれてしまいます。この天使は私に会った時から何度も語りかけてくるのです。「ほら、受け取って」 「どうぞ」 「受け取ってもいいよ」何を私にくれようとしているのかは分かりません。私の欲しいもの、パワーでしょうか、愛でしょうか、お金でしょうか、叡知でしょうか、とにかく無条件に「受け取ることの許可」を私に与えてくるのです。そう、私は私自身に、無条件に何かを受け取ることの許可を与えてはいませんでした。受け取ることの罪悪感、自分にはそんな価値はないという自己否定感が、無条件に何かを受け取るということをずっと拒んできたのです。無条件に受け取ることが出来なければ、無条件に与えることは出来ません。与え、手放すことの恐怖が、さらに欠乏感を生み出し、不安と恐れの現実を創り出していくのです。そんな私の心を、この天使は開かせようとしてくれていました。「そうか、受け取ってもいいんだ。」「無条件に受け取ってもいいんだ。」…私は思わずこの天使の人形を買いました。この宇宙は全てギフトでできていることもこの天使は教えてくれています。(何より、こうして生きていることそのものが、素晴らしいギフトなのかも知れません。)ただ胸を開いて、子供のように両手を拡げて受け取ればいいだけなのです。無条件のギフトは、こうしていつも差し出されているのですから。

 

 

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平成16年3月4日(木)

「野狐~偽りの神~」

※野狐(やこ):真に深奥に達していないのに、自分で悟ったつもりでいる者→野狐禅セラピストの様な仕事をしていると、先生と呼ばれたり、受講生の方から感謝されたり、尊敬や憧れの目で見られたり、極端な場合は「神様の様な人」と崇められることまであります。こんな時、「自分は特別な存在なんだ」「自分は選ばれた魂に違いない」と、自我意識(エゴ)が知らないうちに増長し、よほど気をつけていないと、御礼や感謝や称賛の言葉に囚われ、迷妄の世界に一気に陥ってしまいます。特に、強烈な対立概念や分離意識に未だに支配されている私は、「他の人より優位に立ちたい」「周りを思う通り支配したい」というエゴ的欲求(怖れ)につい己れを明渡し、どこかの教祖のように偽りの神を演じかねないわけです。こんな時、大いなる勘違いから私を目覚めさせ、正気に戻してくれるのが私の家内です。家内は私の囚われや怖れを暴き出し、「お前は神の様に崇高な人間ではない。ただのわがままな馬鹿おやじだ。」と、私の善人ぶった仮面を剥ぎ取ってくれるのです。家内は三匹の猫どもを巧みに使役しながら、私が思う通りにならない世界を絶妙に創り出します。私はコントロール出来ない事にイライラし、寛大さや調和の心は何処かに消し飛びます。家内は、怒りに姿を変えた自己不全感を私の心の闇から引きずり出し、今の私の意識レベルをありのまま私に見せてくれるのです。このことはもしかしたら、私自身がエゴが暴走して狐狸の類に憑依されないように(エゴの迷妄の世界に陥ってしまわないように)自ら環境設定したものであり、そしてそれにサポートをしてくれているのが、最も思う通りにならない家内であり、その手下の猫どもなのかもしれません。ありがたいことです。

マウスポインタをのせてみて下さい。鏡となって私の意識レベルを映し出してくれる、猫の親玉(家内)とその手下の猫どもが現れます。(詳しくはバックNo.の「シャドウ(影)」「猫は修行の相手」等をご覧下さい)

 

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平成16年3月28日(日)

「日の宮 幣立神宮~和合~」

白みかけるにはまだ少し早い福岡の空は、星の生まれる音が聞こえてきそうなくらい静かです。3月15日、夜明け前の福岡から、大分の日田を超えて南阿蘇へ入るのが、幣立神宮へのこの日の道行です。導かれる聖地は日の宮とも呼ばれているためか、日田方面から姿を現してくれたこの日の太陽はとても巨大で、そこから遍く放たれる慈しみの光は、それをいただくものの全てを白金の輝きに変えていきます。私の中の不純物すらも、錬金術のように白金に変えてくれそうです。私の内も外も和合していくような錯覚を感じながらの日田の山越えは、川から立ち上る霧と天の雲が融合し、まるで神話の世界に紛れ込んだようです。異空間をぬけて南阿蘇へ入ると、そこは既に光の柱が立っていて、天と地が繋がっていました。いよいよ日の宮へ。太古の神々の波動に抱かれ、正式参拝を終えた後の宮司さんのお話はくしくも”和合”です。どこかの大国のように善悪を決め他を排除していく統一とは違い、日本は和合していく国です。対立構造に基づく統一はさらなる対立構造を産み出します。和合とは”産霊(ムスビ)”、和合して結ばれて、そこから新たなものが産まれてまた和合して結ばれて…これが”大和心”です 。良いとか悪いとかの判断を超えて、体験を通して自分を知っていくプロセスが和合なのだとも思いました。”大和心”がこれからの世界平和に必要なのだと感じながら、本殿の奥の龍神が鎮まる神域で龍笛を吹かせていただくと、下手な音にもかかわらず、ありがたいことに龍神は風を起こして応えてくれます。私は神の風を受けながら、自分の中の対立概念を”和合”していくことを、祈りとともにあらためて誓いました。そう、”大和心”をもって。

日の宮 幣立神宮(上)と、同じ日に参拝した高千穂の天岩戸神社(下)

 

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平成16年4月7日(水)

「高千穂~心の岩戸開き~」

神々が天降りし高千穂の山々は、異空間故なのか、パノラマでも観ているように現実感が希薄です。天空に在るはずの高天原は、ここ日向の地に写し(移し)鏡のように存在し、天岩戸(対岸から拝することができます)、天安河原、天香具山などの神々の世界へ、肉体を持ったまま訪れることができます。私はこの現象世界に顕れた高天原伝説の地を巡りながら、何故かリアル感を感じないのを不思議に思っていましたが、おそらくそれは、”自分の中にこそ高天原を見つけよ”とのメッセージだったのかも知れません。そしてこの伝説の地は、あえて私に現実感を持たせないことによって、永遠なものなど何一つない現象世界に意識が囚われ続けている限りは、”心の岩戸が開かれることもまた永遠にない”ということも、伝えてくれているかのようです。私は、アマテラスオオミカミが天岩戸の中でひたすら自分と向き合い、真の直霊[ナオヒ]開き(岩戸開き)によって復活を遂げられたことに思いを馳せながら、私たち一人一人の深奥にある無限の叡知(普遍意識)が開かれ、真の高天原がこの世に顕現されんことを祈りました。私たちに内在する神(普遍意識)は、大いなる愛をもってそのことを待っているに違いありません。

高千穂、岩戸川(マウスポインタをのせてみて下さい。)

 

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平成16年4月27日(火)

「永遠の中今」

天地の運行が陽遁(ようとん)の真っ只中の今、自然界は陽の気に満ち溢れ、生きとし生けるものの全てが、命の悦びを噛み締めているかのようです。種子の核皮を破って地には根を発し、地上には萌え出づる姿を現す草木の様に、私たちもまた、自らの生命エネルギーの解放と躍動を感じないではいられません。解放はまさしく悦びです。それこそ天地の運行に身をゆだね、「今」を生ききる草木は、エネルギー解放の循環の中に存在しています。決して過去を掴むことなく、執着することなく、常に新たなギフトを受けなおし、自らのエネルギーを解放し続け、与え続ける在り方…そこには何の迷いもためらいもありません。生々流転の中の永遠の命を謳歌し、”永遠の中今”に悦びとともに自らを表現しています。そしてそれは、”まったき命”の神の最高表現でもあるのです。愛(神)は常に広がり、解放し、与え続けています。決して留まることはなく、私たちも同じ様に、その中に循環している”まったき命”の神の最高表現なのに違いありません。陽の気が満ち溢れているこの季節、様々な命の悦びが、そのことを私たちに教えてくれているようです。そう、”永遠の中今”に在るときに、そこに本当の祈りと感謝が在るということも。ありがとうございます。

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