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スイス便り1 ローザンヌの国際学会 2013.9.9 スイスのローザンヌで、9月3日 から開催されたヨーロッパ発達心 理学会が終わったところです。 ! 6+! ローザンヌは、レマン湖のほとり にあるしい街で、アルプス最高峰 のモンブランの白い雄大な姿を仰 ぐことができます。対岸は、フラン ス、水で有名なエビアンの街があり ます。 今回は、学会から招待されて基調 講 演 を 頼 ま れ た の で 、 ꜳ ꜳꜳ Ìꜳ ꜳꝏ ꝏff Ýꝏ (生涯発達心理学の ビジュアルもの語りと文化表象)と 題する講演をしました。質的心理学 会を9月1日に終えて、その翌朝に 日本を出発するというあわただしさ で、基調講演のほかに自分たちの口 頭発表もあったので、大変でしたが無事に終わりました。参加されたみなさま、 お疲れさまでした。 今回は、連日夜遅くまで、ゲストディナー、そしてオーストリアの友人ダグ マーの誕生パーティ、カンファレンスディナーなどが続いて多忙でした。どれ も楽しくて、時間が経つのが早く、い つものように「スイス便り」を書く余 裕もなかったのですが、いくつか忘れ ないうちに記しておきます。 ヨーロッパの学会で、日本から会員 でもない研究者が招待されるのは初 めてで異例なことだそうです。主催者 の »ꜳ 先生とは、 ローザンヌの街とレマン湖 招待講演(ローザンヌ大学) »ꜳ 先生を囲んで昼食

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スイス便り1 ローザンヌの国際学会 2013.9.9

スイスのローザンヌで、9月3日

から開催されたヨーロッパ発達心

理学会が終わったところです。

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ローザンヌは、レマン湖のほとり

にある美�しい街で、アルプス最高峰

のモンブランの白い雄大な姿を仰

ぐことができます。対岸は、フラン

ス、水で有名なエビアンの街があり

ます。

今回は、学会から招待されて基調

講 演 を 頼 ま れ た の で 、 VViissuuaall

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ビジュアルもの語りと文化表象)と

題する講演をしました。質的心理学

会を9月1日に終えて、その翌朝に

日本を出発するというあわただしさ

で、基調講演のほかに自分たちの口

頭発表もあったので、大変でしたが無事に終わりました。参加されたみなさま、

お疲れさまでした。

今回は、連日夜遅くまで、ゲストディナー、そしてオーストリアの友人ダグ

マーの誕生パーティ、カンファレンスディナーなどが続いて多忙でした。どれ

も楽しくて、時間が経つのが早く、い

つものように「スイス便り」を書く余

裕もなかったのですが、いくつか忘れ

ないうちに記しておきます。

ヨーロッパの学会で、日本から会員

でもない研究者が招待されるのは初

めてで異例なことだそうです。主催者

の BBllaaiissee PPiieerrrreehhuummbbeerrtt 先生とは、

ローザンヌの街とレマン湖

招待講演(ローザンヌ大学)

BBllaaiissee 先生を囲んで昼食

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メールのやりとりだけで面識もありませんでしたが、”TThhee GGeenneerraattiivvee

SSoocciieettyy:: CCaarriinngg ffoorr ffuuttuurree ggeenneerraattiioonn”(22000044,, AAPPAA)を読んで大変感動した

ので、招待したということでした。

この本は§、日本とマクアダムズなどアメリカの研究者が協力してggeenneerraattiivviittyy

(生成継承性)について書いた本です。私は、”TThhee ggeenneerraattiivvee lliiffee ccyyccllee mmooddeell::

IInntteeggrraattiioonn ooff JJaappaanneessee ffoorrkk iimmaaggeess aanndd ggeenneerraattiivviittyy”(生成的ライフサイ

クル・モデル:日本のフォークイメージと生成継承性)と題する章を書きまし

た。世界のどこで誰が読んでくださっているかわからないものです。

BBllaaiissee 先生は、「甘え」と「愛着」の研究者で、日本、韓国、中国を含む7か

国比較の壮大なプロジェクトを始めていました。学会のワークショップでは、

「日本の AAmmaaee(甘え)はユニバーサルか?」という問いがたてられて、通常

は ddeeppeennddeennccyy(依存性)と訳される甘えの概念が rreellaatteeddnneessss(関係性)など

5つの概念で説明されていました。そして、aauuttoonnoommyy(自律性)をめざす西

欧のものの見方が、逆にこれでよいのかと問い直されていました。

日本では西欧から輸入�した概念で研究をすすめるのが普通なので、こんなふ

うに日本発の概念が、国際的に関心をもたれて研究がすすめられていることは、

驚きでした。学会には100人を超すという多くの日本人研究者も参加してい

ました。しかし、甘えが議論されている会場に参加した日本人は、私1人だっ

たことも不思議な感じでした。日本の心理学者は、海外の研究を取り入�れるこ

とには熱心ですが、日本文化が海外でどのように理解されているのかについて、

あまり関心がないのでしょうか。

「日本文化のフィールドに根ざし、

世界にひらく心理学」をめざしてきた

私にとっては、このような形で海外の

研究者たちと出会えたことは、とても

貴重で、有り難いことでした。

国際学会のディナーでは、オランダ、

ユトレヒト大学のWWiilllleemm KKooooppss 先

生にお会いしました。私は初対面でし

た。KKooooppss 先生は、「私は日本の心理

学者でもっとも尊敬しているのは、小

嶋秀夫先生です。ご存じですか」と問われました。「私は、小嶋先生の弟子です」

と答えると§、驚いておられました。KKooooppss 先生は、かつて小嶋先生をオランダの

高等研究所に招待され、私はそのころオランダに滞在しておられた小嶋先生の

お住まいを訪ねたことがあります。世界は、広いようで狭いものです。いろい

ろな先生方のおかげで、今日の私があるのだと感謝の念を深くしました。

懇親会でKKooooppss 先生と

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スイス便り2 ピアジェのふるさとヌーシャテル 2013.9.9

今回は、ローザンヌから1時間ほどのと

ころにある、ピアジェのふるさと、ヌーシ

ャテルを訪ねることができたのも、大きな

収穫でした。学会が始まる日に、戸田先生

や黒田さんたちと街の半分を見ました。学

会が終った日に、今度はまた1人で訪ねま

した。高台にある中世の城や教会など、街

のあと半分をゆっくり見てから、ヌーシャ

テル湖のほとりのベンチで休みました。湖

を眺めながら、のんびりぜいたくなお昼寝

をしました。

ヌーシャテルは、青く澄んだヌーシ

ャテル湖からアルプス連峰を望む、き

わだって風光明媚なところです。私は、

ピアジェとヴィゴツキーの生誕 110000

年を記念した学会が 11999966 年にジユ

ネーヴで開催されたときに、一度訪れ

たことがあります。この二人の発達心

理学の巨人は、同じ 11889966 年に生まれ

たライバルでした。このときだけは特

別に、ピアジェ学会とヴィゴツキー学

会が同じ場所で連携して開催した記

念すべき学会でした。

ヌーシャテルは、フランスとスイスの国境を分ける広大なジュラ山脈の麓の

高台にあります。ヌーシャテル州に最初に住み着いたのは、ネアンデルタール

人、考古学的にも貴重な場所です。1177世紀には、オルレアン公が領主になり荘

園がつくられました。今でもスイスのなかでももっとも純粋なフランス語が話

されるといわれる高級住宅街です。1188世紀からは、時計やオルゴールなどの精

密機械や刺繍産業やワインなど、当時のトップ産業の地として経済的に栄えま

した。近くのラ・ショウド・フォンは、近代建築の父として世界的に有名なル・

コルビュジェのふるさと、今も高級時計の生産地です。中世からの城があり、

教会大学は 1122~1133 世紀のスイス建築の中では最高といわれるものの一つです。

ヌーシャテル湖

ヌーシャテルの街

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ヌーシャテルは、日本ではあまり知られておらず、ここを訪れる前は、名も

ない小さな田舎町のように思っていました。2200代の大学院時代にバイブルのよ

うに読んだピアジェの原書がヌーシャテル出版社から出されていたことを、な

つかしく思い出します。そのときは、単なる知らない地名にすぎませんでした。

長い時を隔てて再び訪れることができたことは、有り難いことです。

ピアジェは、もとともは生物学者

として進化論に出会い、モノアラガ

イの研究で博士号を得ました。その

後、ビネーの知能検査をへて、知能

の発生を研究しはじめ、発生認識論

の体系づくりをめざしました。ヌー

シャテルが、フランスの文化の影響

下にありながら、第二次世界大戦の

ときに永世中立国であるスイスに位

置していたことは、ピアジェの研究

を考えるときに、とても重要でしょ

う。また、ダーウィンが『種の起源』

を出版したのは 11885599 年、ピアジェはジュネーヴ大学で新しい進化論をいち早

く学べる場所にいました。彼の人生や学問には、彼をとりまく当時の文化・歴

史・社会的文脈も大きくかかわります。

ピアジェは、子どものころから湖でモノアラガイを採集して、近くの博物館

に通っていました。今でも博物館には岩石、化石、貝などが多く展示されてい

ます。彼は、それらを見ながら、ロマンに胸をときめかせたことでしょう。ダ

ーウィンも幼いときから、博物好きの少年だったと言われます。ピアジェの生

家も博物館も、湖のすぐ近くにあります。とても小さい行動域ですが、湖と博

物館とを往復しながら、濃密な時間を過ごしたのではないでしょうか。現地に

行くとピアジェが育った環境と彼が眺めていた風景が実感されます。

ピアジェの理論だけではなく、彼がどのように育って「ピアジェ」になった

のか、ライフヒストーリーという観点から、彼の生涯を見直すと興味深いでし

ょう。戸田先生が学会会場で「ピアジェとヌーシャテル」という本を見つけ、

プレゼントしてくださいました。「ナラティヴと質的研究会」でも、関心のある

人たちと一緒に読みながら議論したらおもしろいのではないかと思います。

博物館の展示

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ヌーシャテルには、ピアジェの生

家の壁にプレートはあったものの、

資料などはどこにも展示されていま

せんでした。それでも、かろうじて

学会会場には、ジュネーヴ大学にあ

るアーカイブから、彼の直筆の「知

能の誕生」の観察ノートや子どもた

ち(ローラン、ジャクリーン)の写

真が展示されていました。私の研究

の原点には、ピアジェの観察日誌記

録があります。手書きのノートの現物を見て、感無量でした。

BBllaaiissee 先生に伺ったところでは、スイスではピアジェの後継者がほとんどお

らず、ジュネーヴにあった発生認識論研究所がなくなってからは、壊滅状態に

なっているようです。同年生まれで若くして亡くなったヴィゴツキーには後継

者が多くて発展しつづけているのと大きな違いです。BBllaaiissee 先生によれば、ピ

アジェの共同研究者がイネルデなど同世代であったこと、アメリカをはじめ世

界中に広まり、数学者など異分野の学者も多かったことで、「後継者が多すぎて

拡散する」状態になったために、かえって正当に継ぐものが育たなかったので

はないかという話でした。学問の生成と継承という問題も、ライフ・ヒストリ

ーという観点から、今後追求すると興味深い問題になるでしょう。

ピアジェの生家

中世の教会

城から街を見る

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スイス便り3 ルソーについて 2013 年 9 月 15日

明日は、日本に帰るので、ごく簡単なメモを残します。ローザンヌから、ベ

ルンをへてジュネーヴに移動しました。ジュネーヴ大学構内で、ピアジェの銅

像を見つけました。なんと日本幼年教育会が建てたものでした。歴史的に偉大

な学者が多くいるジュネーヴでは、まだピアジェが銅像になるまでには至らな

いのかもしれません。

ジュネーヴ大学は、キリスト教の宗教改�革で有名なジャン・カルヴァンによ

って神学校として 11555599 年に創設されました。旧市街のサン・ピエール大聖堂

には、今もカルヴァンが座った椅子が残されています。私は古い木の椅子が特

別に好きです。時を経て黒く重みを増した木

の色艶の味わいが何ともいえません。まして、

誰かが座った椅子は、イマジネーションをか

きたて、特別の思い入�れで眺めてしまいます。

ロンドンのフロイド博物館に残されている、

フロイドの椅子も、西日が傾くまでどれだけ

の時間、それを眺めていたことでしょう。カ

ルヴァンの椅子も、そこで彼がどれだけの時

を費やし、何を想って、何を書いたのだろう

かと、想像するだけで楽しくなってきます。

ジュネーヴに滞在中でいちばん大きな収

穫だったのは、ジャン=ジャック、

ピアジェの碑文

ピアジェの銅像

ルソーの生家

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ルソーの生涯について、実感をもっていろい

ろ考えたことでした。彼はジュネーヴの旧市街、

丘の上のサン・ピエール大聖堂の近くで生まれ

ました。今は生家がビデオで紹介する資料室に

なっていますが、何度、近くをさまよってもわ

からず、すぐ近所のレストランの人に聞いても、

どこにあるか知らないと言われるばかりで、う

ろうろしました。大聖堂やレストランに観光客

は多かったのですが、ここはひっそりして誰も

いませんでした。何度もビデオを見て、静かな

時間を楽しみました。

ジュネーヴで生まれて、ふるさとへの思いが

強かったルソーですが、本が発禁になり、ジュ

ネーヴ市民権を剥奪されて帰ることができず、放浪の生涯でした。今ではジュ

ネーヴが誇りにし、「ルソー島」がつくられて銅像もあるのですが、案外、一般

市民の関心は高くないのかもしれません。フランス革命や近代自我の祖ともい

われ、影響力は世界中に広がっており、

ルソーの展示にはゲーテ、バイロン、

トルストイなどと並んで日本の島崎

藤村の名前もありました。

ルソーの展示は§、彼が生まれて数日

で母親を亡くし、その母が残した書物

にあこがれて読んで育った生い立ち

から始まる、とても興味深い説明でし

た。あまりにも複雑で多感で孤独で矛

盾にみちた人生、それについては、簡

単に書けないので、また改�めて彼の本

を読み直して、ゆっくり考えてみる必要があるでしょう。

ルソーの本は、大学時代に教養の先生に勧められて、最初に『エミール』

を読んだ記憶があります。理想の教育論を書きながら、彼が自分の5人の子ど

もを孤児院に入�れてしまったという現実の行為をどう考えたらよいか、当時は

純粋でなければと思っていたので、素直に読めませんでした。『告白』は、あま

りに強力な自我にへきへきして§、先へ読み進められず、途中で投げ出しました。

カルヴァンの椅子

ルソー展示

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ただ、最晩年の『孤独な散歩者の夢想』

は、とても好きな本です。中年以降になっ

て読んだせいもあるでしょうが、自然の風

景のなかでひとり、老いた自分にしみじみ

と語りかける姿が胸を打ちます。彼は、現

実には10何年前にたった 22ヶ月滞在し

ただけの島を、何度も仕合わせな思い出と

してよみがえらせて、想像力によって昔の

記憶を語り直して孤独をなぐさめます。こ

のような語り直しによる対話の方法は、ナ

ラティヴ論から見ても本質的であり、興味

ふかいものです。

「モンテーニュはその『随想録』をもっぱら他人のために書いたのだが、わ

たしはひたすら自分のためにわたしの『夢想』をしるすのだ。わたしがもっと

年をとり、この世を去る時が近づいて、いまそう願っているように、そのとき

も現在と同じ心境にあるならば、これを読むことは書くときに味わった楽しさ

を思い起こさせ、過ぎ去った時代を胸によみがえらせ、いわば私の存在を二重

にしてくれるだろう。人々にはお気の毒だが、わたしはなお魅力ある交遊を楽

しむことができ、老いはてたわたしは、別の年ごろの自分とともに暮らすこと

になるだろう。自分ほど年をとっていない友人とともに暮らすように。」(『孤独

な散歩者の夢想』より)

ルソーがもっとも仕合わせと感じた島は、ヌーシャテル湖のすぐ北にある「ビ

エンヌ湖」にあることが、今回わかりました。もっと早くわかっていたら、ヌ

ーシャテルにつづけて、この湖も訪ねて行ったのに残念です。けれど、地名が

実感をもってわかるようになったのは、現地に来たからでしょう。

レマン湖にのぞみアルプスが見えるローザンヌも、チャップリンが住んだワ

インの産地ヴヴェイも、ルソーが小説『新エロイーズ』に書いてから有名にな

り、それからヨーロッパの上流階級の人々がスイスに旅行する「観光」がはじ

まったのだそうです。観光とは、単に風光明媚な場所であればよいのではなく、

その場所にあこがれ夢とロマンを重ねる「もの語り」が必要なのでしょう。

「わたしがこれまで住んだあらゆる土地の中で((そして、わたしも快適な地に

住んだことはあったが))、ビエンヌ湖中のサン・ピエール島くらい、わたしを真

に幸福にし、そしていつまでもそこを懐かしむ情を残した土地はないだろう。

この島は、ヌーシャテルでは、土地の人から土くれ島と呼ばれていて、スイス

でさえもあまり知られていない」((『孤独な散歩者の夢想』より))

島崎藤村

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単なる土くれ島と思われている無名の島だけど、実は幸福の島だという言

い回しには、世間の常識にあくまで対峙しようとするルソー独特の皮肉やもの

の見方が反映されています。しかし、彼は、やっぱり卓越したもの語りの語り

手ですね。このように特別なイメージを重ねて語られる湖、行ってみたくなり

ます。

調べてみると、ビェンヌ湖は、まさ

にスイスならではという場所でした。

ドイツ語とフランス語のボーダーにあ

る湖で、二つの名前が併用されていま

した。地名を呼んでみるだけで、ひと

つではなく、いくつもの顔ともの語り

を重層させているルソーのように、不

思議なイメージが醸し出されてきます。

好きな人とふたりで、葡萄畑が色づく

季節に、雪をいただいたアルプスを眺

めながら、3つの青い湖をじゅんじゅ

んに巡って、白い船でクルーズするイ

メージを想像してみましょう。

==

ヌーシャテル湖の北にある細長い湖。湖の北端にあたる起点の町は法律で2

カ国語表記が定められている町で、独語名のビールBBiieell と仏語名のビエンヌ

BBiieennnnee が併記されます。湖は南端の一部の町をのぞいて大半が独語圏なので、

一般的には独語名でのビール湖と呼ばれています。隣接するヌーシャテル湖、

モラ湖と運河で結ばれており、3つの湖をめぐるクルーズで有名。一帯は、仏

語圏と独語圏のボーダーで、ジュラ山脈の裾野にあたる湖、周�囲に美�しい葡萄

畑が連なるワインの名産地であるなど、共通の特徴をもつことから一般的に“3

つの湖地方”とも総称されています。110000 年以上の歴史を誇る「ビール湖汽船

会社 」が、ビール湖(ビエンヌ湖)に点在する町をビール//ビエンヌからトゥ

ワンTTwwaannnn、リゲルツ LLiiggeerrzz、ラ・ヌーヴヴィル LLaa NNeeuuvveevviillllee など葡萄畑

の中にたたずむ小さな町や、ジャン・ジャック・ルソーも逗留していたザンク

ト・ペーター島( 仏語ではサン・ピエール島)、エアラッハEErrllaacchh を結ぶ定期

便や、伝統の3つの湖をつなぐ周�遊クルーズを運航しています。通年の運航で

すが、周�囲の葡萄畑が色づく秋のクルーズはとくにおすすめ。

==

「この世におけるいっさいは、たえざる流れのうちにある。•・•・•・しかし、魂が

十分に強固な地盤をみいだし、•・•・•・そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び

ルソー島

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起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態•・•・•・ただわたしたち

が現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体をみたすことが

できる、こういう状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことが

できよう。」(『孤独な散歩者の夢想』より)

スイス便り4 ジュネーヴの国際赤十字社の活動 2013.9.15

穏やかな陽光をあびて、遠くにアルプ

スの山々、青く澄んだ水が輝く、平和な

スイスのジュネーヴ、レマン湖のほとり

を散歩していました。観光客や乳母車や

犬をつれた散歩の人々が行き交うところ

に、突然、まるで不似合いな大きな写真

がついた迫力ある看板が 5500枚ほど連続

して立てられており、思わず見入�ってし

まいました。

ジュネーヴに本部がある国際赤十字社

のキャンペーン「危機のヘルスケア:それは生と死の問題だ(HHeeaalltthh ccaarree iinn

DDaannggeerr,, IItt’ss aa mmaatttteerr ooff lliiffee aanndd ddeeaatthh)」と題された 9944枚の野外写真展で

した。 「ヘルスケアに対する暴力は終わらせねばならない(VViioolleennccee aaggaaiinnsstt

hheeaalltthh ccaarree mmuusstt eenndd)」という明確な主張をもった写真展で、33世紀にわたる

さまざまな時代の世界中の人々の悲惨な状況が映し出されていました。第二次

世界大戦のときの日本の写真もありました。

一番はじめに見た写真は、建物が破壊された

焼け野原の中で、生まれたばかりの赤ちゃんの

遺体を粗末な白い布でくるみ、やせた両手で慈

しむように抱きしめている、ほっそりした女性

の写真でした。まるでマリア様が小さいキリス

トの遺体を抱いているピエタ像のように見えま

した。その写真には、印象的な詩文がそえられ

ていました。

わたしの赤ちゃんは死ななかった、なぜなら

産婆さんが爆発で殺されたから。

わたしの赤ちゃんは死ななかった、なぜなら

わたしはこんなに長く陣痛で苦しんだから。

写真展示風景

死んだ赤ちゃんを抱く

女性の写真

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わたしの赤ちゃんは死んだ、なぜならわたしたちのところに来る救急車を武

装兵士がハイジャックしたから。

病院が破壊されて瓦礫となった病室に、

攻撃を受けて亡くなった遺体、寝台の上で

毛布やシートをかけられて横たわったまま

の写真もいくつかありました。衝撃的でし

た。片足に包帯を巻かれた男性の遺体は、

白い布でおおわれており、次のような詩文

がついていました。

わたしは死ななかった、なぜなら自分で

土を踏みしめられたから。

わたしは死ななかった、なぜなら損傷し

たけれど片足は残っていたから。

わたしは死んだ、無差別爆弾が近くの病

院を破壊したから。

国際赤十字社の本部はジュネーヴにあります。その活動が、写真と詩文によ

って、知識としてではなく、生き生きとした感情の揺さぶりとして訴えかけて

きます。「このような現実は、人ごとではありませんよ。」「昔も今も、まさに現

実として、世界のいたるところで起こっているのですよ。」「あなたも§、何か行動

をおこさなくて、いいのでしょうか。」

平和な光をあびて輝くレマン湖畔で、

子どもや犬とのんびりと散歩を楽しんで

いる人々は、ほとんど写真には目をやら

ずに通りすぎていきます。それでも、湖

畔の風景とは不釣り合いに暗い画面は、

どこまでも続くかのような分量で、しか

も見逃せないような大画面の連続で、「こ

れでもか!」という迫力で突きささるよ

うに訴えてきます。ビジュアル・ナラテ

ィヴの力を最大限に生かした凄いキャン

ペーンでした。一部はネットでも紹介さ

れています。

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横たわる遺体の写真

湖を散歩する人々と写真展

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HHeeaalltthh CCaarree iinn DDaannggeerr:: AAnn

iissssuuee ffoorr oouurr ttiimmeess

2299--0077--22001133 EEvveenntt

PPHHOOTTOO EEXXHHIIBBIITTIIOONN --

PPllaacceedd ffoorr aa mmoonntthh aalloonngg tthhee

llaakkee ooff GGeenneevvaa,, 9944 ppoowweerrffuull

pphhoottooggrraapphhss ppoorrttrraayy bbootthh tthhee

iimmppaacctt ooff vviioolleennccee ddiirreecctteedd

aaggaaiinnsstt mmeeddiiccaall ppeerrssoonnnneell,,

ffaacciilliittiieess aanndd vveehhiicclleess aanndd tthhee

ssttrruuggggllee ttoo pprroovviiddee mmeeddiiccaall ccaarree

dduurriinngg wwaarr.. TThheeyy aarree ttaakkeenn mmaaiinnllyy ffrroomm tthhee aarrcchhiivveess ooff IICCRRCC aanndd GGeettttyy

IImmaaggeess aanndd ssppaann tthhrreeee cceennttuurriieess..

赤十字の思想はジュネーヴではじまって150年が経つということで、「15

0yyeeaarrss hhuummaanniittaarriiaann aaccttiioonn(150年人道主義の活動)」も展開されていま

した。日本赤十字社のHHPPを見ると、戦争で傷ついた人を敵味方の区別なく救

う「赤十字思想」の発生について、次のように説明されていました。戦争のな

かで永世中立を選んだスイスの位置、世界平和のなかのジュネーヴの重みにつ

いて、改�めて考えさせられました。

——

イタリア各地で激しい統一戦争が行われていた 11885599 年、スイスの事業家で

あったアンリー・デュナンは、北イタリアの小さな町「ソルフェリーノ」で戦

闘に遭遇しました。九千人もの負傷者が手当てされることもなく横たわってい

る惨劇を目にし、思い余ったデュナンは近隣の人々に呼びかけ、両軍の負傷兵

の救援活動を行います。

ジュネーヴに戻ったデュナンは、「ソルフェリーノの思い出」という本を著し、

戦争で傷ついた人を敵味方の区別なく救う「赤十字思想」を誕生させます。こ

の思想に 44人のスイス人が賛同。11886633 年に赤十字の最初の機関として「赤十字

国際委員会(IICCRRCC)」の前身である 55人委員会が結成されました。その後、11996644

年のヨーロッパ外交会議で最初のジュネーヴ条約(赤十字条約)が採択され、

近代国際人道法が誕生し、いくつかの国で赤十字社が発足しました。(「日本赤

十字社」HPより)

ジュネーヴとレマン湖