01 総説 森田 - J-STAGE

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549 日本生態学会誌 66 549 - 56020162016 3 23 日受付、2016 8 3 日受理 *e-mail: [email protected] or [email protected] 現所属:京都大学大学院 医学研究科 エコチル調査京都ユニットセンター Present Address: Kyoto Regional Center for the Japan Environment and Children’s Study, Graduate School of Medicine, Kyoto University, Japan ヒトの行動に関する進化生物学的研究と社会の関係: 社会生物学論争を踏まえて 森田 理仁 * 総合研究大学院大学 先導科学研究科 生命共生体進化学専攻 日本学術振興会 特別研究員(DCThe relationship between evolutionary studies of human behavior and society: with reference to the sociobiology debate Masahito Morita* Department of Evolutionary Studies of Biosystems, School of Advanced Sciences, SOKENDAI (The Graduate University for Advanced Studies), Japan Research Fellow (DC) of the Japan Society for the Promotion of Science 要旨:本論文は生態学の分野の中でも、ヒトの行動の進化に関する研究の事例に注目して、科学と社会の関係を考察し たものである。科学コミュニケーションの課題が顕著に表れるヒトを対象とした事例をおもに取り上げるが、背景に存 在する科学の性質や問題意識は、程度に違いはあるものの他の生物における研究とも広く共通している。ヒトの行動に ついて生物学的な説明を与えることに対しては、これまでに多くの批判がなされてきた。その最も顕著な例が、社会生 物学論争である。EO・ウィルソンは 1975 年に『社会生物学』を出版し、ヒトの行動を生物学の理論をもとに説明す ることを試みた。これに対して、RC・ルウォンティンや SJ・グールドらは、ウィルソンの試みは社会にとっての さまざまな危険をはらむと痛烈に批判し、その批判は大規模な論争に発展した。ここでルウォンティンらは、社会生物 学を生物学的決定論や適応主義などの点から批判し、研究がもつ「社会的・倫理的リスク」を危惧した。彼らの批判に おいて指摘された重要な問題は、社会生物学は現代社会の価値観や先入観が反映されたものであり、それがさらに社会 の現状の正当化や変更不可能であるといった考え方をもたらすという「二重の過程」と、研究者の意図に関わらず成果 が誤解されてしまうという「意図せずに起こる誤解」の二つである。J・オルコックは 2001 年に『社会生物学の勝利』 を出版し、社会生物学に対する批判を退けたかのように見えるが、実際にはオルコックと批判者たちの主張にはかみ合 っていない部分も存在する。本論文では、社会生物学論争の要点をまとめ、その現代的意義を明らかにする。そして論 争に関連して、進化生物学の研究成果が社会的・政治的に誤解・誤用された近年の事例、および、著者自身の少子化に ついての研究例を踏まえた上で、現代におけるヒトの行動に関する進化生物学的研究をどのように進めていけばよいか、 そして、研究成果をどのように発信していけばよいかについて考察する。具体的には、(1)仮説を検証するために十分 な証拠を集めること、(2)主張の誤用ができる限り起こらないように注意して発表すること、(3)誤用が起きた場合に はそれを公に指摘すること、という三点(Alcock 2001, pp. 194-195, 邦訳 pp. 298-300)の重要性を改めて指摘するととも に、学会が担う社会的役割にも言及する。 キーワード:科学と社会、科学の二重の過程、少子化、生物学的決定論、人間行動進化学 総 説

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日本生態学会誌 66:549 - 560(2016)

2016年 3月 23日受付、2016年 8月 3日受理*e-mail: [email protected] or [email protected]現所属:京都大学大学院 医学研究科 エコチル調査京都ユニットセンターPresent Address: Kyoto Regional Center for the Japan Environment and Children’s Study, Graduate School of Medicine, Kyoto University, Japan

ヒトの行動に関する進化生物学的研究と社会の関係: 社会生物学論争を踏まえて

森田 理仁*

総合研究大学院大学 先導科学研究科 生命共生体進化学専攻日本学術振興会 特別研究員(DC)

The relationship between evolutionary studies of human behavior and society:

with reference to the sociobiology debate

Masahito Morita*

Department of Evolutionary Studies of Biosystems, School of Advanced Sciences, SOKENDAI (The Graduate University for Advanced Studies), Japan

Research Fellow (DC) of the Japan Society for the Promotion of Science

要旨:本論文は生態学の分野の中でも、ヒトの行動の進化に関する研究の事例に注目して、科学と社会の関係を考察したものである。科学コミュニケーションの課題が顕著に表れるヒトを対象とした事例をおもに取り上げるが、背景に存在する科学の性質や問題意識は、程度に違いはあるものの他の生物における研究とも広く共通している。ヒトの行動について生物学的な説明を与えることに対しては、これまでに多くの批判がなされてきた。その最も顕著な例が、社会生物学論争である。E・O・ウィルソンは 1975年に『社会生物学』を出版し、ヒトの行動を生物学の理論をもとに説明することを試みた。これに対して、R・C・ルウォンティンや S・J・グールドらは、ウィルソンの試みは社会にとってのさまざまな危険をはらむと痛烈に批判し、その批判は大規模な論争に発展した。ここでルウォンティンらは、社会生物学を生物学的決定論や適応主義などの点から批判し、研究がもつ「社会的・倫理的リスク」を危惧した。彼らの批判において指摘された重要な問題は、社会生物学は現代社会の価値観や先入観が反映されたものであり、それがさらに社会の現状の正当化や変更不可能であるといった考え方をもたらすという「二重の過程」と、研究者の意図に関わらず成果が誤解されてしまうという「意図せずに起こる誤解」の二つである。J・オルコックは 2001年に『社会生物学の勝利』を出版し、社会生物学に対する批判を退けたかのように見えるが、実際にはオルコックと批判者たちの主張にはかみ合っていない部分も存在する。本論文では、社会生物学論争の要点をまとめ、その現代的意義を明らかにする。そして論争に関連して、進化生物学の研究成果が社会的・政治的に誤解・誤用された近年の事例、および、著者自身の少子化についての研究例を踏まえた上で、現代におけるヒトの行動に関する進化生物学的研究をどのように進めていけばよいか、そして、研究成果をどのように発信していけばよいかについて考察する。具体的には、(1)仮説を検証するために十分な証拠を集めること、(2)主張の誤用ができる限り起こらないように注意して発表すること、(3)誤用が起きた場合にはそれを公に指摘すること、という三点(Alcock 2001, pp. 194-195, 邦訳 pp. 298-300)の重要性を改めて指摘するとともに、学会が担う社会的役割にも言及する。キーワード:科学と社会、科学の二重の過程、少子化、生物学的決定論、人間行動進化学

総 説

森田理仁

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はじめに

 本論文は、生態学の中でも行動の進化を機能の面から研究する分野である行動生態学、特に、ヒトを対象とした行動生態学(日本語の教科書として、長谷川・長谷川

2000, 2007;五百部・小田 2013など)の事例をもとに、科学と社会の関係について考察したものである。ヒトの研究の話題は、公衆に一般受けしやすく社会的にも注目されやすいため、科学と社会の関係や科学コミュニケーションにおける課題が顕著に表れる。同時に、研究の土台をつくる科学の性質、そして、用いられる生態学や進化生物学の理論は他の生物を対象とする場合と広く共通しているため、本論文で取り上げる問題意識は、程度に違いはあるもののヒトの研究に限ったことではない。他の種の研究であっても、成果が擬人化されて解釈された場合などには、ヒトの場合と質的には同様の危険性が懸念される。今後、ヒトの行動の進化に関する分野で新たに研究を行う方々にとっては、大規模な論争の要点とそれを踏まえた今後の研究の在り方の一提案をまとめた入門的な総説として、また、すでにこの分野の動向をよくご存じの方々にとっては、今一度の再認識の一助として、そして、異なる分野や対象種の研究者の方々にとっては、科学と社会の関係について考えるきっかけとして、本論文が生態学に携わる研究者にとって役に立つと期待している。 ヒトの行動に生物学的な説明を与えることを試みる研究に対しては、社会にとってさまざまな危険を含む可能性が指摘され続けてきた。その最も顕著なものの一つが、1970年代に勃発した社会生物学論争である。ハーヴァード大学教授のエドワード・O・ウィルソンは、1975年に

出版した著書『社会生物学』(Wilson 1975)の中で、ヒト以外の動物の研究から得られた理論をもとに、ヒトの行動についても生物学的な説明を与えることを試みた。このようなウィルソンの試みは、同じくハーヴァード大学教授のリチャード・C・ルウォンティンや、スティーヴン・J・グールドらによって痛烈に批判された。彼らは、ウィルソンの説明は生物学的決定論に基づくものであると認識し、かつての優生政策の再来や差別の肯定につながるものではないかと危惧したのである。ルウォンティンやグールドの批判によると、社会生物学は社会にとって極めて重大なリスク(危険性)を含んでいる。 一方で近年では、2001年にジョン・オルコックが書いた『社会生物学の勝利:批判者たちはどこで誤ったか』(Alcock 2001, 原題 : The triumph of sociobiology)という本が出版されるなど、一般的には、「社会生物学論争はすでに終結した」「社会生物学論争はもはや過去の出来事に過ぎない」といった認識が広まっている。しかし、後に考察するように、実際にはオルコックと批判者たちの主張は重要な点でかみ合っておらず、論争は完全に終結したとは言い難い。そこで、本論文ではまず、社会生物学論争を再考する意義があることを議論したい。特に、批判者たちが指摘した、科学は現代社会の価値観や先入観が反映されたものであり、それがさらに社会の現状の正当化や変更不可能といった考え方をもたらすという「二重の過程」の問題、また、研究者の意図に関わらず成果が誤解されてしまう「意図せずに起こる誤解」の問題は重大である。これら二つの問題は、社会生物学論争で危惧された「社会的・倫理的リスク」の背景に存在するものである。 そして、次節で考察する「ババァ発言」や「女性の社

Abstract: This paper discusses the relationship between science and society using examples from evolutionary studies of human

behavior. Problems with science communication are seen clearly in human studies, but these are widely common to a certain degree

for a variety of ecological studies. Biological approaches to human behavior have been criticized on numerous occasions. One of the

most conspicuous examples is the sociobiology debate. E. O. Wilson published “Sociobiology” in 1975 and discussed human social

behavior using evolutionary theories. R. C. Lewontin and S. J. Gould severely criticized Wilson’s work because they were deeply

concerned about its potential risk for society. They emphasized the problems of “the dual process of science”; that is, sociobiology

may reflect the values and prejudices of modern societies, and further lead to the justification of the present society and the belief

that no one can change the current conditions. They also addressed how research findings are often used for purposes that are very

different from the researchers’ intentions. With reference to the criticisms and recent examples, including my own study on fertility

decline, I consider how we should conduct evolutionary and ecological studies. I also discuss the social role of academic societies.

Keywords: biological determinism, dual process of science, evolutionary studies of human behavior, fertility decline, science

and society

人間行動進化学と社会:社会生物学論争より

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会進出と少子化論」といったメディアを騒がせた事例に見られるように、近年でも進化生物学の研究成果が誤解され、差別の正当化に繋がり得る形で社会的・政治的に誤用されることは多くある(加藤 2006も参照)。そのため、社会生物学に対する批判は今日の研究でも考慮されるべきであり、現代においてもヒトの行動に関する進化生物学的研究、ひいては、広く生態学や科学一般の研究を行う上でも社会生物学論争を無視してはならない。本論文では、社会生物学論争という出来事とそれに関連する近年の事例を踏まえて、現代における研究の在り方を著者自身の研究例を含めながら考察するとともに、科学コミュニケーションの課題について議論する。

現代において社会生物学論争を再考する意義

 最初に、現代においても社会生物学論争を再考する意義があることを議論する。そのために、「ババァ発言」と「女性の社会進出と少子化論」という、進化生物学に関連する研究成果が、社会的・政治的に誤解・誤用された2000年以降の二つの事例を考察する。生態学的知見から見れば、前者は、親以外の個体が子育てに参加するシステムである「協同繁殖」に強く関連しており、後者は、雌雄間で繁殖に関する利害が異なることにより生じる対立である「性的対立」の発展形として考察することが可能である。つまり、以下の例は多くの生態学者にとって決して無縁のものではない。

進化生物学の研究成果が社会的・政治的に誤解・誤用された近年の事例「ババァ発言」 2001年に当時東京都知事の石原慎太郎が、週刊誌の中で当時東京大学教授の松井孝典(惑星科学)の話を引用する形で、生殖を終えた閉経後の女性の存在意義を社会的に否定するような発言を行った。具体的には、「“文明がもたらした最も悪しき有害なものはババァ”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”って。男は 80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって……。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。」というものである(独占激白「石原慎太郎都知事吠える!」、週刊女性、2001年 11月 6日号)。さらに続けて、同年の東京都都議会においても、「彼[松井]が例を挙げ

たのは、ほとんどの動物は繁殖、種の保存ということのために生きて、それで死んでいくが、人間の場合にはそういう目的を達せない人でも、つまり、人間という尊厳の中で長生きをするということで、彼[松井]はかなり熾烈な言葉でいいまして、私はそのときに、なるほどなといいながら、しかし、それは政治家にはいえないから、あなたみたいな専門家じゃなきゃとてもいえませんなといって、そのときに慨嘆したんだ。」と発言し(平成 13

年東京都議会会議録第 16号、https://www.gikai.metro.

tokyo.jp/record/proceedings/2001-4/d5241214.html、2015年8月 13日確認)、これらに対する批判は裁判にまで発展した。なおここで、「ババァ発言」の論拠とされた松井氏の話は、閉経後の女性の存在意義を社会的に否定するという趣旨ではなかったと考えられている(水島 2008)。 このような石原氏の発言は、女性差別の正当化という誤った結論をもたらしかねない。また、女性における閉経の存在については、自身の繁殖を停止し、家族において自分の子どもが行う子育て、つまり、孫の世話を補助するといった点で、進化的に適応的であるという仮説(おばあさん仮説)1も提唱され、おおむね支持されている(Hawkes and Coxworth 2013;Sear and Coall 2011など)が、石原氏の発言では正しく反映されていない(水島 2008)(また、進化生物学においては、動物は種の保存のために行動するという考え方も誤りである)。一連の発言の問題点をまとめると、進化生物学の研究成果が誤解され、そして、差別発言の科学的論拠として誤用された点である。

「女性の社会進出と少子化論」 女性の社会進出と少子化の関係について、2014年、政治評論家の長谷川三千子が産経新聞に執筆したコラムが大きな波紋を呼んだ(正論 長谷川三千子氏 年頭にあたり「あたり前」を以て人口減を制す、産経デジタル、2014

年 1月 6日、http://www.iza.ne.jp/kiji/column/news/140106/

clm14010603200001-n1.html、2015年 5月 8日確認)。その内容は、出生率低下の原因は女性の社会進出にあると主張し、男女雇用機会均等法を批判するものであった。具体的には、性的役割分担は、「哺乳動物の一員である人間にとって、きわめて自然なものなのです。妊娠、出産、育児は圧倒的に女性の方に負担がかかりますから、生活の糧をかせぐ仕事は男性が主役となるのが合理的です。ことに人間の女性は出産可能期間が限られていますから、1 ヒト以外の動物における研究例としては、Uematsu et al. 2010が、社会性アブラムシの雌が繁殖を終えた後も生存し、巣の防衛に寄与することで血縁個体を援助していることを示した。近年の総説としては、Croft et al. 2015がある。

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その時期の女性を家庭外の仕事にかり出してしまうと、出生率は激減するのが当然です。(中略)政府も行政も今こそ、その[男女雇用機会均等法の]誤りを反省して方向を転ずべきでしょう」というものである。 上記のコラムも多くのメディアで取り上げられ、公衆に広まり話題となった。例えば、朝日新聞ではコラムの中から、「性別役割分担は哺乳動物の一員である人間にとって、きわめて自然」という部分が抜き出されて引用され、「日本の少子化問題の解決策として、女性が家で子を産み育て男性が妻と子を養うのが合理的と[長谷川は]主張」、(長谷川の写真の吹き出しとして)「女性の一番大切な仕事は子どもを生み育てること」という記事で報道された(「女は家で育児が合理的」NHK経営委員コラムに波紋、朝日新聞デジタル、2014年 1月 28日、http://digital.asahi.

com/articles/ASG1H67CFG1HUCVL020.html?_requesturl=art

icles%2FASG1H67CFG1HUCVL020.htmlamp;iref=comkiji_

txt_end_s_kjid_ASG1H67CFG1HUCVL020、2015年 5月 8

日確認)。先の「ババァ発言」と同様に、このような主張は、性的役割分担や性差別には生物学的な正当性があるという誤った解釈をもたらす可能性が十分にある。なおこの問題については、本論文の終盤で自身の研究例を含めながら振り返る。

社会生物学論争再考 これらの二つの事例のように、進化生物学に関連する研究成果が、社会的・政治的に誤解・誤用され得ることは現代においても変わっていない。そしてこれらは、かつて社会生物学論争において指摘された差別の肯定をもたらす危険性と同じ性質のものである。一方で、1970年代・1980年代と比較すれば、社会的・政治的批判は減少しているのも事実である(Durrant and Ward 2011, pp. 364-365

など)。しかしながら、社会生物学論争で指摘された危険性は依然として残っている。また、二つの事例はいずれもヒトについてのものであったが、関連する生態学の理論は、他の生物においても研究がなされている。そのため、それらの研究成果が擬人化されて解釈された場合には、ヒトの事例と質的に同様の危険性を含む。上記の例で危惧した性差別ほどではなくとも、性に関わる問題には性選択の研究で注意が必要である。例えば、2000年に出版された『乱交の生物学:精子競争と性的葛藤の進化史』(Birkhead 2000, 原題 : Promiscuity: an evolutionary history of

sperm competition)は、動物の交尾行動や配偶システム、繁殖をめぐる雌雄の駆け引きを進化生物学の視点から考察した良書であるが、その内容が誤解・誤用された場合

には、浮気や不倫の肯定といった社会的に好ましくない結論が導かれかねない。以上のことから、社会生物学論争を再考し、そこから得られる教訓を改めて整理することは、今日においても広く意義のある取り組みであると言える。 なお、「ババァ発言」と「女性の社会進出と少子化論」の事例では、研究がはらむ「社会的・倫理的リスク」が顕著に表れている。他方、これらの事例において、科学(ここでは発言の内容と書く方が適当)が社会からどのような影響を受けたのか、そして、石原氏と長谷川氏、および、彼らの主張の拠り所となった研究を行った者が、それぞれどのような意図をもっていたのかについては、十分に明らかではない。また、石原氏と長谷川氏は(少なくとも生物学の)研究者ではないことにも留意する必要がある。そのため、社会生物学論争において指摘される、「二重の過程」と「意図せずに起こる誤解」の問題が、二つの事例においても同等に存在しているかどうかは不明瞭である。よって、社会生物学論争を再考する現代的意義を示すという点では、先の事例には不完全な部分があることを、以後の混乱を避けるためにここで断っておく。しかしながら、今後このような事態を防ぐという点では、「二重の過程」と「意図せずに起こる誤解」が重要な視点となることには変わりない。続く二つの節では、社会生物学論争の経緯と内容とその解釈、そして、「二重の過程」と「意図せずに起こる誤解」の問題をまとめる。

社会生物学とは何か

 社会生物学論争のきっかけとなったのは、一冊の本である。昆虫生態学者のウィルソンは、1975年に『社会生物学』(Wilson 1975)を出版し、微生物からヒトにわたるまであらゆる動物で見られる社会行動を簡潔な理論により総合的に説明することを目指した。ウィルソンが『社会生物学』の中で動物の社会行動を広く説明するために用いたのは、進化の理論、特に、次世代に自分の遺伝子のコピーをより多く残す方向に形質は進化するという適応度(次世代の繁殖に参加する子孫の数)最大化の理論であった。ウィルソンは社会生物学を、「すべての社会行動の生物学的基礎についての体系的研究」(Wilson 1975, p.

4, 邦訳 p. 5)と定義し、さまざまな動物における研究から得られる諸理論をヒトに対しても適用した。1970年代半ば以降、動物の行動の機能の研究においては、それまで支持されていた群淘汰の考え方に代わって、ウィルソンが社会生物学としてまとめた適応度の最大化という視

人間行動進化学と社会:社会生物学論争より

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点が主流となる(解説として、長谷川・長谷川 2007, pp.

45-54など)。その後、社会生物学は、行動生態学という名称でさらに発展することになる。両者の内容に大きな違いはないが、社会生物学論争に伴う好ましくない風評を避けるために、イギリスでは行動生態学という名称が好まれ普及し、現代に至っている(Segerstråle 2000, p.

320, 邦訳 p. 557)。 ウィルソンは『社会生物学』の最終章で動物の一種としてヒトを扱い、ヒトの性差や性役割、婚姻、攻撃性や社会階級などについて生物学的な説明を与えることを試みている。そして、ヒトのあらゆる社会行動が彼の社会生物学という新しい理論によって説明できるという意味で、「人文科学や社会科学も単に生物学の特殊な研究領域にすぎなくなる」(Wilson 1975, p. 547, 邦訳 p. 1071)と述べた。例えば、性差や性役割については、「男性は住居を離れて狩猟にたずさわり、女性は子の世話をし、植物食の採集の大部分を受けもった。そしてこの両性間の緊密な社会的きずなによって、子の養育が促進された」(Wilson

1975, p. 568, 邦訳 p. 1128)というように狩猟採集の時代の特徴を述べ、男女の行動のパターンや性的分業には進化的な基盤があり、社会生活や子育てを営む上で重要な役割を担っていたと考察した。 ウィルソンが考察の対象としたものには、性別や社会階級による差別、攻撃性といった社会的に問題視されているヒトの行動の肯定につながりかねないものも含まれており、大規模な論争へと発展し多くの批判を受けることになった。次節では、社会生物学に対する批判を見ていくことにする。社会生物学論争は、生物学、科学哲学、科学史などの多くの側面から考察することが可能であるが(以降のまとめ、および、注 2も参照)、その批判の中心(特に、論争の初期において)は、社会生物学の原理をヒトに適用することの是非をめぐる論争であった(佐倉 1990, p. 1)。Barash(1982)は、「社会生物学の 95%以上はヒト以外の動物についてのものであったが、論争の99%以上はヒトに関するものであった」(p. 160)とも評している。

社会生物学論争とは何か

 ウィルソンの社会生物学という試みに対して、集団遺伝学者のルウォンティンや、古生物学者のグールドらが中心となって批判を行った(Segerstråle 2000, pp. 13-14, 邦訳 pp. 20-21)。彼らは、社会生物学の理論は政治的現状を肯定し、さまざまな差別や大量殺戮といった社会的に重大な問題の正当化に用いられる危険性があるものだとして痛烈に批判したのである。ここでは、主要な批判者であるルウォンティンとグールドについて、それぞれの主張を詳しく見ていく。

ルウォンティンによる批判:科学の二重の過程 ルウォンティンは著書『遺伝子という神話』(Lewontin

1992)の中で、科学と社会の関係について、科学は社会に影響を与え、そして、社会も科学に影響を与えるという「科学の二重の過程」を指摘した。二重の過程はそれぞれ、「科学者が行うことと主張することへの社会からの影響と支配」、および、「科学者が行うことと主張することを、社会制度の維持のために利用すること」(Lewontin

1992, pp. 3-4, 邦訳 pp. 14-15)を表している。つまり、科学の成果は社会を正当化するかたわら、社会は科学研究の方向づけを行うということである。そして、この二重の過程から、科学はイデオロギー(歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系)であると主張した。 さらに、ルウォンティンは、社会生物学は人間の本性(human nature)についてのイデオロギーであると批判を展開した。ここでは、社会生物学は社会に多大な影響を与え、そして、社会も社会生物学の研究に影響を与えるということになる。彼によれば、社会生物学の理論は、(1)普遍的な人間の本性というものが存在する、(2)人間の本性は遺伝子に組み込まれていて変更不可能である、(3)自然選択によって生存や繁殖に有利な形質が広まり社会を特徴づける、という三段階で組み立てられているという(Lewontin 1992, pp. 89-90, 邦訳 pp. 99-100)。そして、このような論理は人間の本性に関する生物学的理解の範囲を超えて、ヒトの社会の現状を正当化し、変更不可能であるという考え方をもたらす危険性があると主張した。 ルウォンティンは社会生物学について、現在の社会の在り方を正当化する有力な理論になった(Lewontin 1992,

p. 89, 邦訳 p. 98)と述べている。そして、科学の成果が社会に影響を与えるという過程については比較的詳細に考察を行った。例えば、ウィルソンが『社会生物学』の中でも取り上げた同性愛に関する指摘 3がある。ウィル

2 社会生物学論争そのものを考察する上では、社会生物学を取り巻く風潮の変化(Segerstråle 2000, pp. 30-34, 307-309, 316-320, 邦訳 pp. 49-56, 535-538, 551-557。中尾 2015も参照)、社会生物学の受容のされ方(佐倉 1990, Sakura 1998)、社会生物学以前の人間行動学に対する批判(Laland and Brown 2011, pp. 19-48)、動物行動学者のリチャード・ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』が受けた批判(Segerstråle 2000, pp. 69-72, 邦訳pp. 117-122)、といった他の多くの点にも注目する必要があるが、本論文の主題とは直接的には離れるため省略する。

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ソンの関心は、同性愛者は子孫を残すことができないので進化的には非常に不利であると予想されるにも関わらず、なぜそのような特徴がヒトの社会で見られるのかという点にあった。そして、同性愛者が家族の他の構成員のヘルパーとなって子育てを補助することで、自分と同じ遺伝子を共有している血縁者の適応度を高める場合には遺伝的に保持され得るといった説明を与えている(Wilson 1975, p. 555, 邦訳 pp. 1091-1092)。これに対してルウォンティンは、ヒトの性的指向(原訳文では嗜好)の進化についての主張は「徹頭徹尾、でっちあげの物語」(Lewontin 1992, p. 103, 邦訳 p. 121)と、いくつかの根拠を挙げて批判した(Lewontin 1992, pp. 101-103, 邦訳 pp.

119-121)。そして、このようなウィルソンの言う「ありそうな」物語がメディアによって広く公衆に知れわたり、科学の権威のもとで正当化されることを危惧した。ルウォンティンは、このような同性愛の例と同様の過程によって、社会生物学はありとあらゆるヒトの行動についても「科学的」な説明を与え正当化し、それらは変更不可能であるという考え方をもたらしかねないと考えたのである。 一方で、社会が科学の研究に影響を与えるという過程に関してもルウォンティンは、ウィルソンの『社会生物学』の中の例を用いて批判した。ウィルソンが普遍的な人間の本性であるかのように取り上げた、一部の者が巨大な富を得るといった協同作業における社会的地位の違いに応じた不平等な報酬の配分の在り方(Wilson 1975, p. 554,

邦訳 p. 1089)について、ルウォンティンは、狩猟採集社会で見られる平等型の資源共有の例を無視していると批判している(Lewontin 1992, pp. 92-93, 邦訳 pp. 104-105)。つまり、ウィルソンが想定している普遍的な人間の本性は、現代の資本主義社会でのみ見られるものに過ぎず、ウィルソン自身の社会的偏見、価値観が反映されているという主張である。しかしながら、この批判は、後述するグールドの頭蓋測定の事例に関する分析と比較すると、科学が社会からの影響を受けて歪められるまでに至った過程、および、社会からの影響を受けた状況下での科学者の振る舞いについての議論において具体性に乏しく、一般論に過ぎない印象が残る。また、現在進行中の状況のみから科学の二重の過程を示すという方法では客観性に欠け、そして、証拠も不十分なため論理が不明瞭な部分も存在した。

 社会的偏見や価値観がどのように科学の研究に影響を与えるのかという点については、以下で見るように、過去の出来事の詳細な分析に基づくグールドの主張がより分かりやすい。

グールドによる批判:社会も科学の研究に影響を与える グールドは、著書『人間の測りまちがい:差別の科学史』(Gould 1981)の最終章で社会生物学を批判した。この本の主題は生物学的決定論の批判であり、グールドは社会生物学の背景には生物学的決定論が存在すると主張した。グールドは過去の出来事をもとに、さまざまな生物学的決定論とそこに投影された当時の社会的偏見を検証した。彼は特に、知能に関する生物学的決定論を、過去の頭蓋計測、および、知能テストの二つの事例から批判した。そして、生物学的決定論者の議論の中に見られる科学の弱点、社会的・政治的意図を明らかにし、最後の章でウィルソンらによるヒトの社会生物学も生物学的決定論であり論拠薄弱だと指摘したのである。 本項では、特に、グールドの頭蓋計測の事例に関する分析を取り上げて、社会的偏見や先入観が科学の研究に与える影響を詳しく見ていくことにする。ここでは、医学者のサミュエル・G・モートン(1799-1851年、アメリカ)の研究を例として示す。モートンは、頭蓋骨の計測に基づいた人種のランクづけの研究を行った。モートンの人種別頭蓋容量のデータは、白人のものが最も高く、次いでアメリカ先住民、そして、黒人の脳容量が最も低いことを示していた。さらに、白人の中ではチュートン人とアングロ・サクソン人の脳容量が最も多く、次いでユダヤ人、そして、インド人の脳容量が最も少ないという結果も見られた。これらは白人のもつ先入観と合致しており、モートンの主張は彼自身の社会的偏見や先入観の影響を受けたものであったとグールドは考えた(Gould

1981, pp. 53-54, 邦訳 pp. 57-58)。そして、グールドはモートンのデータを用いて自ら分析をやり直し、特定の標本が加えられたり、除かれたりしていたこと、結果は先入観に従って、黒人は少ない脳容量をもつように、白人は多くの脳容量をもつように歪められていたこと、さらに、頭蓋骨の大きさの違いが生得的な知能の違いを示すと信じ、他に考えられ得る合理的な仮説を検証しようとしなかったこと、といった点からモートンの「ごまかし」を指摘した(Gould 1981, pp. 68-69, 邦訳 pp. 74-75)。しかし、モートンは手順をすべて公開し、生データを公表しているという事実がある。そこでグールドは、「これらすべてのごまかしを通じて、詐欺や意識的な操作は感じとられ

3 ここでは、社会生物学が社会に影響を与える過程の一つの例を示す目的で取り上げた。また、著者は、同性愛の正当化は社会的に問題であると考えているわけでは決してないので注意されたい。

人間行動進化学と社会:社会生物学論争より

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ない。モートンは自分の意図を隠そうとはしなかった。彼はそんな意図を持っていたことに気づかなかったと仮定すべきである」(Gould 1981, p. 69, 邦訳 p. 75)と結論づけている 4。 このようなモートンの例は、ルウォンティンが指摘した科学の二重の過程の考え方のうち、特に、社会も科学に影響を与えるという側面と合致するものである 5。ここで強調すべきは、「社会が科学に与える影響については科学者本人も気づかない」というメッセージをグールドがウィルソンに向けていたと言える点である。加えて、グールドは、その研究成果が生物学的決定論や差別の根拠とされる危険性を指摘している。 さらに、グールドは、社会生物学も生物学的決定論であると主張し(Gould 1977, p. 253, 邦訳 p. 381も参照)、最後の章でヒトの社会生物学は論拠薄弱であるとまとめている。ここでグールドは、ヒトの進化を理解するためには社会生物学の核となっている自然選択の理論も不可欠であり、その自然選択が機能するためには遺伝的基盤が必要であることは認めている。しかし、社会生物学者は「人間行動の遺伝的基礎を間違ったレベルで探している」(Gould 1981, pp. 329, 邦訳 pp. 413)と主張し、食事や睡眠といったヒトの行動の根底にある潜在的な特性の遺伝的基盤(グールドはこれを「生成規則」(generating

rules)と呼んだ)ではなく、攻撃性や社会階級、男性の優位といった特殊な行動の中に人間の本性の遺伝的基盤を探す社会生物学は、生物学的決定論であると考えた(Gould 1981, pp. 329-330, 邦訳 pp. 413-414)。 では、社会生物学に関する二重の過程について、グールドはどのように論じているのだろうか。まず、グールドは、社会生物学がどのような影響を社会に与えたのかについては、女性の社会進出には生物学的差異による潜在的な限界があるという考え方をもたらしたと例を挙げて指摘している(Gould 1982, p. 54, 邦訳 pp. 192-193)。しかし、その一方で、社会生物学において科学者がもつ社会的偏見や先入観がどのように研究に影響を与えているのかについては、具体的な議論はなされていない(Alcock

2001, pp. 90-91, 邦訳 pp. 137-139も参照)。頭蓋計測による人種のランクづけの例では、白人が黒人よりも優れてい

るに違いないという偏見や先入観が科学の研究に影響を与えたことが、その過程も含めて詳細に考察されていた。それでは、社会生物学のどの内容に対して、どのような偏見や先入観が、どのような過程で、どれほど影響を与え得るのだろうか。これらの点を単純な一般論にとどまることなく、頭蓋計測の例と同程度まで詳細に明らかにしなければ、社会が社会生物学の研究に対して影響を与えたとは言い切れず、社会生物学自体の批判としては十分なものではないだろう。しかしながら、現代における研究の在り方を考えるという本論文の主旨に立てば、研究がはらむ危険性を指摘したルウォンティンとグールドの主張から学ぶことは多い。

現代における社会生物学論争の解釈 ここまでは、社会生物学論争が勃発した当時の様子を見てきた。それでは、『社会生物学』の出版から数十年が経過した以降は、論争はどのように解釈されているのだろうか。動物行動学者のオルコックは、2001年に著書『社会生物学の勝利』(Alcock 2001)を出版し、社会生物学の批判者たちの指摘はどれ一つとして正しいものはないと主張した(Alcock 2001, p. 217, 邦訳 p. 335)。まず、社会生物学の研究の質が高まり、適応についての仮説がより厳密に検証されるようになり、その結果、社会生物学に関する誤解に基づく批判はほとんどなくなったと結論づけた(Alcock 2001, p. 220, 邦訳 p. 340)。さらに、社会生物学者は個人的な道徳的・政治的意図と科学の違いを心得ていると主張する(Alcock 2001, pp. 217-218, 邦訳 pp.

336-337)。このように、オルコックの主張は、彼の『社会生物学の勝利』という本の題が表している通り、社会生物学はかつての批判を乗り越えて健全なものとなったというものである。 しかし、このオルコック主張は、グールドによって1970年代から 1980年代にかけて出された批判とはかみ合っていない。グールドは、ヒトの行動に関する思弁的な話は社会政策に対して何かを暗示したり、禁止したりする効果を広範にもっており、話し手自身の意図や個人的な政治上の見解とはほとんど関係なしに生じてしまうと主張し、「意図と利用はきわめてかけ離れたしろものである」(Gould 1982, p. 54, 邦訳 p. 191)と批判した。また、先にも述べたように、科学者は本人が気づかないうちに社会からの影響を受けているとも主張している。オルコックはこれらのグールドの批判に触れつつ、科学的に「である」ことから社会的に「であるべき」ことを導くことはできない、そして、尤もらしくない結論は検証によっ

4 近年の議論については、進化生物学者のロバート・トリヴァーズのエッセイ(Vignetters of famous evolutionary biologists, large and small. The Unz Review: An Alternative Media Selection, http://www.unz.com/article/vignettes-of-famous-evolutionary-biologists-large-and-small/, 2015年 8月 14日確認)も参照。

5 科学が社会に影響を与えるという側面については、知能テストに関する批判(Gould 1981, pp. 146-233, 邦訳 pp. 175-293)によく表れている。

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て排除され、社会的偏見や価値観によって研究が歪められることはない、などと主張している(Alcock 2001, pp.

85-91, 189, 193-194, 邦訳 pp. 128-139, 289-290, 296-298)。しかしながら、研究者側の配慮に関わらず社会生物学の成果が誤用されうる可能性は依然として残っており、現に頭蓋測定と人種のランクづけのように科学が社会からの影響を受けて歪められた事例も存在するため、批判を退けるまでには至っていない。したがって実際は、科学者は「科学と政治の違いを心得ている」と考えるオルコックと、「意図と利用はかけ離れている」「科学は社会から影響を受ける」と考えるグールドの間で、主張は重要な点でかみ合ってはいないと考えるのが妥当である。 社会生物学論争を長年研究してきた科学社会学者のウリカ・セーゲルストローレが、社会生物学論争は「科学の性質、科学と社会の関係、そして特定の時代に受け入れられる知識の性質についての論争だった」(Segerstråle

2000, p. 2, 邦訳 p. 3)と指摘しているように、社会生物学論争は単なる生物学的決定論の問題だけではない。ウィルソンは『社会生物学』において、理論の発展を待ちつつも、とりあえずは不完全であっても既存のものを使用したとセーゲルストローレは考えた(Segerstråle 2000, p.

37, 邦訳 p. 60)。つまり、ウィルソンにとって良い理論の基準は検証可能性であったのに対して、ルウォンティンにとっての理論は検証可能であることに加えて、それが「真の説明」(真理に限りなく近いと客観的に十分判断できる説明)でなければならなかった(Segerstråle 2000, p.

40, 邦訳 p. 66)。このような考え方の違いにより、『社会生物学』に関する生物学的決定論の解釈や、その潜在的な危険性に対する意識に大きなばらつきが生じたのであろう(注 2も改めて参照)。 これまでに見てきたように、社会生物学論争においては、「社会的・倫理的リスク」「二重の過程」「意図せずに起こる誤解」の三つが重要な視点となる。これらの関係性を整理すると、「社会的・倫理的リスク」の背景に、「二重の過程」と「意図せずに起こる誤解」の二つの問題が存在するとまとめることができる。さらに、「二重の過程」と「意図せずに起こる誤解」は、完全に連鎖していないが、互いに独立ではない。科学の研究成果が社会に影響を与えるが故に、受け取られ方によっては誤解となって問題が生じることもあり、そして、研究者が社会の価値観や偏見の影響を気づかないうちに受けることで、その誤解は研究者の想定が及ばない意図しないものになりやすくなると考えられる。また、ヒトの社会生物学がはらむ危険性に端を発した論争の背景に存在するこれらの問題(お

よび、問題に起因する危険性自体も)は、ヒトの研究に限ったものではなく、生物学、ひいては科学一般においても共通して重要である。

ヒトの行動に関する進化生物学的研究の在り方

ヒトの行動に関する進化生物学的研究の在り方の一提言 それでは最後に、これまでに見てきた社会生物学論争という出来事を踏まえて、現代におけるヒトの行動に関する進化生物学的研究をどのように進めていけばよいか、そして、研究成果をどのように発信していけばよいかについて、著者自身の研究例も含めながら考察する。 まず、ヒトの行動に生物学的な説明を与えるというウィルソンの試みは評価されるべきである。不完全な理論を発表することは確かに多くの問題を含んでいるかもしれない。しかし、後に検証が重ねられブラッシュアップされていくのであれば、それこそが科学の進歩であると考えられる。逆に言えば、完全で誤りのない科学というものは決して存在しない(平川 2010, pp. 93-103も参照)。 これに対して、社会生物学の批判者たちの意図も理解することができる。社会生物学には科学的な問題に加えて、優生主義や人種差別に関する社会的・政治的に重大な危険性を含んでいることも事実である。実際に研究が誤って利用された場合、「そのような意図はなかった」では済まされない問題だろう。研究を進めることで科学が発展するというベネフィットと、それに伴う社会的なリスクとどのように向かい合うのかが大切である。ここで、リスクを完全になくすことは不可能だが、研究の進め方や成果の発信の仕方によって低減させることは可能である。また、これまでに見てきたような批判者の主張の理解に努めることで、問題の解決に向けた建設的な議論を導くこともできる。 著者の研究テーマは、ヒトの少子化に関する進化生物学的研究である。出生率の低下により生じる少子化は、一見すると適応度最大化の理論に反するように思われるため、ヒトの行動の進化を考える上で興味深い現象である(Borgerhoff Mulder 1998;Morita et al. 2016;Sear et al.

2016など。Alcock 2001, pp. 182-187, 邦訳 pp. 281-288も参照)。そこで、少子化がなぜ生じるのかについて、進化生物学的な視点から理解することを目指している。このような研究に対して想定され得る批判としては、少子化が進化生物学的に説明された場合に、「適応度を低下させる少子化は社会にとって好ましくない現象であり、みんなが多くの子どもをもつべきなのか」というものや、「少子

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化に生物学的な基盤があるのであれば、それは変更不可能なものなのか。よって、いかなる少子化対策も無意味で必要のないものなのではないか」といったものがある。 このような批判に備えて、Alcock(2001, pp. 194-195,

邦訳 pp. 298-300)においても指摘されている次の三点に注意しなければならない。一点目は、仮説を検証できるような十分な証拠を集めること。二点目は、主張が間違って解釈されたり、利用されることができる限り起こらないように注意して発表すること。三点目は、研究成果が誤用された場合にはそれを指摘することである。ただし、先に述べたように、オルコックと批判者たちの主張はかみ合っていないため、オルコックの指針に従ったからといって研究に伴う社会的なリスクを完全になくすことは不可能だろう。しかしながら、繰り返しになるが、研究の進め方や成果の発信の仕方によって批判やリスクを低減させることは可能である。 一点目については、すべての科学研究に通じることである。しかし、社会政策の立案や法律の制定といった点で、研究成果が社会に与えるインパクトの大きさや実用的な側面を考慮すると、ヒトを対象とした研究の場合はより細心の注意を払う必要がある。平川(2010)でも指摘されているように、「本当に正しい知識」を得ることは不可能ではあるが、不十分な結果から安易に結論を導くことがないように、研究の質を最大限高めるよう努めなければならない。 二点目については、これまでに他の論考(長谷川 2001

など)においても繰り返し指摘されてきたように、「である」と「であるべき」が混同されないように説明に注意する必要がある。たとえ少数の子どもをもつことが進化的に適応的な行動であったとしても、それが望ましいということや、変更不可能であるということでは決してない。むしろ、ヒトの生物学的な側面をきちんと理解することで、子どもをもちたいと望んでいる人々にとっての効果的な支援を提唱することができると期待される。例えば、女性は妊娠・出産・授乳を行う分、繁殖や子育てに関するコストを多く負担していると一般的に考えられている。そして、離婚や死別によって配偶者の変更が可能な配偶システムのもとでは、女性にとっての最適な子どもの数が男性にとってのそれよりも少なくなると予測され、「社会の近代化に伴う女性の社会進出により、少数の子どもを望む女性の意思決定が大きな影響力をもつようになれば出生率は低下する」という仮説を立てることができる(Morita et al. 2016。Borgerhoff Mulder and Rauch

2009も参照)6。もし、研究結果がこの仮説を支持し、女

性が少数の子どもをもちたいと思うことが少子化の要因であるという結論が導かれた場合には、子どもを欲しいと望んでいるがそれを叶えることができない人たちに対して、どのような負担を軽減させれば良いか、どのような支援が求められているのかについての指針を提供することが可能である。しかし、ここでこの研究がはらむ社会的・政治的危険性は、まさに冒頭で取り上げた「女性の社会進出と少子化論」の問題と同一である。少子化の研究は社会的にも注目度が高く、良くも悪くも物議を醸す論争を引き起こす可能性が高いということを、研究者は自覚しておくべきである。 三点目については、研究成果をただ言いっぱなしにするのではなく、それらがどのようにメディアや公衆に受容されるのかについても常に気を配ることが求められる。そして、必要に応じて適切な補足や訂正を加えなければならない。上の例で言えば、「少子化の原因はすべて女性にある」「少子化を食い止めるためには男性の意思決定が優先されるべきである」といった著者の意図に反した解釈が広まらないように、常に目を光らせていなければならない。もちろん、科学者側が発信の仕方に注意を払ったからといって、それで批判や誤解が完全になくなるというわけではないかもしれない。だからといって、研究そのもののベネフィットにだけ注目して、科学の成果が社会に与える影響を無視してしまうのは誠実ではない。研究がはらむ社会的・倫理的なリスクを少しでも減らす努力が必要である。

オルコックの「勝利宣言」を超えて ここではさらに、オルコックの主張をより発展させることを試みる。研究がはらむ社会的・倫理的なリスクを低減させることを考える際には、科学者側がどのような対策を講じるのかという点(オルコックの主張の一点目と二点目に特に関係)だけではなく、実際にメディアや公衆に成果がどのように受容されるのかという点(オルコックの主張の三点目に特に関係)まで配慮する必要がある。さらに、このことを科学と社会の「二重の過程」の視点から考えると、前者は「社会が科学の研究に影響を与える」過程、後者は「科学の成果が社会に影響を与える」過程にそれぞれ対応する課題である。また、いず

6 本論文では、社会的な側面にも注目した研究例を紹介したが、少子化はより「シンプル」な生物学として、環境の変化が個体群動態に与える影響(教科書として嶋田ほか 2005, pp. 19-36)や、r-淘汰と K-淘汰の比較(同じく嶋田ほか 2005, pp. 129-166)といった視点からも研究が可能である(生物現象が複雑ではない、という意味ではない)。

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れに対しても、「意図せずに起こる誤解」の問題も付随する。オルコックの主張の一点目と二点目(特に「である」と「であるべき」の区別)については、研究を行う上での大前提として、社会生物学論争の教訓を活かして今日では基礎的な教育は行われていると言える。例えば、人間行動進化学の教科書(長谷川・長谷川 2000;五百部・小田 2013)では、進化生物学の視点からヒトの行動を行うに当たっての諸注意として、生物学的決定論や「である」と「であるべき」を混同することの危険性が最初の章に書かれている。その上で、研究の質を向上させることや成果の発表の仕方に気を配ることによって、科学者が無意識にもつ社会的偏見や先入観が研究を歪めてしまうことを抑えることにもつながっているのではないだろうか。それにも関わらず、冒頭で取り上げた例のように、研究成果が社会的・政治的に誤解・誤用された事例が実際に多く存在する背景には、メディアや公衆に成果が正しく伝わっていないことが、一つの要因として存在していると考えられる。そうであれば、オルコックの三点目の主張を充実させることで、研究がはらむ社会的・倫理的なリスクをさらに低減させることが可能である。もちろん、研究者が一点目と二点目に対して注意を払っているとしても、最終的には受け手の個人的な感覚に委ねられる部分は依然として多いかもしれない。しかし、そうであればなおさら、誤解が生じた際にはそれを指摘し正すという三点目が重要な役割を担うと考えられる。研究者の責任として、研究成果の受け手の個人的な価値観に対してどのような取り組みをどこまで行うべきかについては、議論の余地があると思われる。このことを断った上で、本論文では、誤解や誤用に対して行う積極的な働きかけとして、どのようなことができるのかを考える。 例えば、これまでは誤解や誤用が生じた場合には一研究者が個人でそれを指摘してきた(伊藤 2006など)。しかし、残念ながら問題の解決には至っていないのが現状である。そこで、次の段階としては、個人としてではなく学会として声明を出し、大々的に問題に対処することが策として考えられる 7。特に、冒頭で取り上げたような

メディアを騒がせるような大規模な事例が生じた場合には、研究者側の大々的な対処が有効となるのではないだろうか 8。さらには、こちらも個人に加えて学会としても、公衆への啓蒙活動をさらに充実させることで、研究成果を正確に受容することができる土台作りに日常的に取り組むことも望まれる活動だろう。日本では、ヒトの行動に関する進化生物学的研究を行う研究者が集まる組織として、日本人間行動進化学会が存在している。この学会は、年に一度の大会を開催しているが、少なくともここ数年においては、他の学会と同様に大会の参加者の大多数は研究者に限られている。学会として社会的課題により積極的に取り組み、進化生物学の研究成果が社会的・政治的に誤解・誤用される問題への対策を取ることができれば、これまで一研究者が個人として行ってきた活動をより強力なものにすることができるに違いない。日本人間行動進化学会は、現時点ではまだ比較的小規模な学会である(2016年 5月の時点での会員数は約 230人、比較として本誌を発行する日本生態学会の会員数は 4,000人弱)。そのため、学会として新たな取り組みを起こす際には会員同士で綿密な議論が可能であり、意思の疎通や統制をはかりやすいという利点がある。本論文で提案した活動を早い段階から行うことができれば、無理なく持続的な取り組みとすることも可能であると思われる 9。 加えて言えば、ヒトの行動に関する話題は一般受けしやすく、メディアや公衆の興味をそそる。そして、各人が自身の日常生活を振り返ることと結びつけて考えやすいトピックでもあり、知識や疑問をまったく有していないというわけではない。このような状況においては、研究者側がただ一方的に知識を提供するのではなく、メディアや公衆の興味を引き出し、その中で誤解や誤用が生じた場合にはそれらを正しく補正することで、双方にとって円滑で活発なコミュニケーションを図ることができ

7 例えば、医学系の学会が参加する協議会では、社会的な混乱が生じた案件に対して、(一部の専門家にとっての)「医学的データに基づく尤もらしいと思われる見解」を示している(ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチン(子宮頸がん予防ワクチン)接種推進に向けた関連学術団体の見解、予防接種推進専門協議、2016年 4月 18日、http://www.jpeds.or.jp/uploads/files/20160418_HPV.pdf、2016年 5月 19日確認)。ただし、本件は依然として評価が定まっておらず、実際の医療現場においては、何が原因となって被害が生じているのかについては必ずしも十分に明らかになっておらず、議論が続いていることに注意されたい。

8 学会が主体となることで活動の規模が大きくなり、それに伴い各研究者の時間的負担、および、企画の運営コストが増加し、活動を維持することが困難な状況となってしまうことが懸念される。しかしながら、重大な問題を抱える現状を打破するための新しい取り組みとして、試行錯誤を繰り返しながら持続的な発展を目指す形での一提案としたい。

9 日本人間行動進化学会よりも会員数が多い学会として、日本生態学会を例として挙げたが、日本生態学会においては、各種の専門委員会や全国の地区会が効果的に組織されており、迅速で円滑な運営体制が構築されている(日本生態学会 組織、http://www.esj.ne.jp/esj/J_Orgnzn.html、2016 年 8 月 3 日確認)。一般論として、会員数が多く規模が大きい学会ほど意思の統制に時間を要することが予想されるが、この点についてより詳細な議論を行うためには、各学会の状況を個別に精査する必要がある。また、日本人間行動進化学会の社会的役割についての提言は、著者の個人的な考えに基づいたものであり、学会の意見が反映されたものではない。

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ると期待される(藤垣 2008も参照)。しかしその一方で、話題が一般受けしやすいという特性によって、研究成果の誤解や誤用が生じやすく、そして広まりやすいという危険性も存在する。研究者は、ヒトの行動に関する進化生物学的研究がはらむ「魅惑」と「罠」の二面性に注意しなければならない 10。

より巨視的な視点でヒトの行動に関する進化生物学的研究を見直す ヒトの行動の成り立ちを説明する上で、進化生物学の理論は必要不可欠な基本原理の一つである(長谷川・長谷川 2000, p. 3)。しかしながら、進化生物学の理論がヒトの行動のすべてを解明するというわけではない。ウィルソンは、人文科学や社会科学もいずれは生物学に含まれると主張したが(Wilson 1975, p. 547, 邦訳 p. 1071)、この主張に関して著者は懐疑的である。ヒトという生物を理解するためには、文理の垣根を越えてあらゆる分野からの研究を学融合的に行うことが必要不可欠である。つまり、ヒトの行動を理解するためには進化生物学の研究が最も優れており、唯一の手段であると主張するのではなく、進化生物学はどのような新しい見方を提供することができるのか、また、他の分野で得られた知見は進化生物学の理論ではどのように解釈されるのかを考察することが大切である。 そして、佐倉(1990)が、「人間社会生物学が盲目的な追随を伴ったとき、それはかつての社会ダーウィニズムが復活することとほぼ同義である」(佐倉 1990, p. 11)と指摘するように、論争に目を向け、研究の科学的な価値だけでなく、それらが社会に与える影響も合わせて考えることが、研究者の責任として求められる。また、特にグールドが指摘したように、研究者本人も気づかないうちに科学は社会から影響を受けており、社会的偏見や先入観が科学研究に組み込まれてしまう可能性がある。「社会的・倫理的リスク」を前に、このような、科学から社会、社会から科学という「二重の過程」、および、付随する「意図せずに起こる誤解」の問題を意識して研究を遂行し発信することができれば、ヒトの行動に関する進化生物学的研究がもつリスクを低減させることが可能である。

ヒトの行動の研究に限らず生態学に広く共通する問題として 本論文では、ヒトを対象とした研究の事例をおもに取り上げたが、他の生物種の研究においても、成果が擬人化して解釈され、同様の誤解や誤用が生じる危険性は存在している。また、その危険性の背景に存在する問題は、ヒトに限ったものではない。さらに言えば、行動の進化の研究はもとより、生態系の保全や資源の管理、環境問題への対策といった分野においても、二重の過程と意図せずに起こる誤解の問題、そして、研究がはらむ社会的・倫理的リスクは共通している。そのため、ここで社会生物学論争を題材に議論した科学と社会の関係や科学コミュニケーションの課題、および、それに対しての提言は、ヒトの行動の研究に特有のものではないことを最後に強調して繰り返しておく。

謝 辞

 本論文は、総合研究大学院大学 先導科学研究科 生命共生体進化学専攻「科学と社会」副論文のプログラムで取り組んだ内容を大幅に改訂したものである。指導教員の飯田香穂里には、研究計画の作成から遂行、論文の執筆と改訂に至るすべての過程において、丁寧かつ熱心に、そして、辛抱強く指導していただいた。武田浩平、水島希には、問題設定と考察の軸となる重要な指摘をいただいた。中尾央、長谷川眞理子、水野佳緒里には、草稿を読んでいただき、有益な助言と励ましをいただいた。皆様に深く感謝申し上げる(すべて敬称略)。また、担当編集委員と二名の査読者からは、複数回の査読の中で、論文の質を高めるための建設的な指摘や提案を多数いただいた。合わせて御礼申し上げる。

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10 研究成果を正確に伝えることが、誤解や誤用の解消につながるのではないかという主張については、楽観的であるという印象を持たれることがあるかもしれない。もちろん、本論文で注目した課題は一つの面に過ぎない部分もあるが、この課題をきっかけに、本文に示したような具体的な提言やそれに基づく考察を行うことが可能である。今後の研究の在り方の議論を続ける一里塚として、本論文が役立つことを期待している。

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