0 『船乗りビリー -...

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『船乗りビリ バッド』にお ービリーの二撃をめぐ 0 ハーマン・メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』にお ける最も劇的な場面は、ヴィア艦長を前にして行なわれ る、前橿楼員ビリーと先任衛兵伍長クラガートとの対決 の場面である。なかんずく、クラガートによって反乱を 企む危険な人物として訴えられたビリーが、人類という 種に最も本質的とされる言語能力の遂行麻痺状態に陥 り、こぶしの一撃でもって不当な告発者を葬り在る事実 は、この作品の解釈上最も重要な意義を持っていると考 えられる。なぜなら、物語の筋は、ビリーにょるクラガ iトの撲殺を受けた、艦上での臨時召集軍法会 て、ヴィア艦長による事実上のビリー処刑へと急展 ていくのであり、またヴィアがビリーを断罪したことの 是非こそが、この作品の批評史上最も大きな論争点とな っているからである。 無論、クラガートによる悪意に満ち狂気じみた説訴が なければ、ビリーの悲劇は起こり得なかったであろう が、ビリー自身に限って考えるならぽ、彼自身の破滅を 招いたものは自ら手を下した上官殺害に求める他はな い。なぜ、ビリーは、ヴィア艦長が「天使の一撃」 (1 (1) 01)とも形容した挙に出なけれぽならなかったのであ ろうか。なるほど、ピリーは自らの運命を左右するよう 67

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『船乗りビリー●

バッド』におけるコトバの問題

ービリーの二撃をめぐってー

0

 ハーマン・メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』にお

ける最も劇的な場面は、ヴィア艦長を前にして行なわれ

る、前橿楼員ビリーと先任衛兵伍長クラガートとの対決

の場面である。なかんずく、クラガートによって反乱を

企む危険な人物として訴えられたビリーが、人類という

種に最も本質的とされる言語能力の遂行麻痺状態に陥

り、こぶしの一撃でもって不当な告発者を葬り在る事実

は、この作品の解釈上最も重要な意義を持っていると考

えられる。なぜなら、物語の筋は、ビリーにょるクラガ

iトの撲殺を受けた、艦上での臨時召集軍法会議を経

て、ヴィア艦長による事実上のビリー処刑へと急展開し

ていくのであり、またヴィアがビリーを断罪したことの

是非こそが、この作品の批評史上最も大きな論争点とな

っているからである。

 無論、クラガートによる悪意に満ち狂気じみた説訴が

なければ、ビリーの悲劇は起こり得なかったであろう

が、ビリー自身に限って考えるならぽ、彼自身の破滅を

招いたものは自ら手を下した上官殺害に求める他はな

い。なぜ、ビリーは、ヴィア艦長が「天使の一撃」 (1

 (1)

01)とも形容した挙に出なけれぽならなかったのであ

ろうか。なるほど、ピリーは自らの運命を左右するよう

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な、重大かつ緊迫した場面においては、 一種の言語障害

に陥り、問題の場面においても、あまりに気が動転して

発作的に手を出してしまったのだ、というのは一応は納

得のいく説明ではある。しかし、これは言わぽ生理学的

因果論的説明であり、文学批評としては、とても解釈に

なっているとは言い難い。作品の最大の転換点であるビ

リーの一撃には、それにふさわしい解釈がなされなけれ

ばならない。小論は、最終的にはこの一点を目標として

作品の解釈を試みるものである。より具体的には、主要

登場人物における言動(言説と行動)を、「コトバ」の

観点から解釈することによって、ビリ:の一撃が意味す

ることの本質に迫りたいと思う。

1

 ビリー・パッドという人間存在は、この作品における

主要な登場人物を考察する上でも言わぽ座標軸、あるい

は正確には座標平面上の原点を成す存在である。しか

も、この事は色々な面において言うことができるのであ

り、以下に細く考察していくことにする。

 まず、その出自であるが、ビリー自身の言葉を聞いて

みることにしよう。この件について質問した上級船員と

の間に次のようなやりとりがなされる。

上官は続いて尋ねた、「おまえは、自分の生れについ

て何か知っておるのか。」

 「いいえ、知らないのであります、上官殿。 しか

し、なんでも、私は、プリストルのとある善きお方の

ドアの取っ手に、ある朝、きれいな絹の紐をつけた籠

に入れられて、ぶらさげられているのが発見されたそ

うです。」

 「発見されたんだって、そうだったのか」と上官は

言いい、頭をそらしてこの新兵を頭のてっぺんから爪

先まで改めて見つめた。(51~2)(傍点は、原文イ

タリック)

そして語り手は次のようにつけ加える。「その通り、ビ

リー・バッドは捨て子であった、おそらくは私生児であ

り、しかも明らかに卑しい生れではなかった。」(52)

捨てられた時に入れられていた籠に絹の紐がつけられて

いたということから推して、語り手も言うように、ビリ

ーは高貴の生れであったであろうとも考えられる。しか

し、彼自身は自分をこの世にもうけてくれた両親の名前

を知らないし、したがって人間の社会における血統や門

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閥とは全く無関係な人間なのである。言い換えるなら

ぽ、血統や門閥が歴史的存在としての人間の所産である

とするならぽ、ビリーはその身一つで現在に存在する老

であり、この意味では全く匿名的、あるいは無名的存在

である。このようなビリ:の存在はまた、全くの根無し

草性を体現しているとも言えるのだが、この事は、国王

   おんため

陛下の御為という大義名分のもとにうむを言わさず商船

から軍艦へ強制徴慕されたビリーに対して、上のやりと

りにすぐ続いて、上官が、「いやあ、非常にいい拾い物

をしたものだな」(52)と、この捨て子である新兵に

対して与えるコメントにも象徴的に表現されている。ビ

リー自身にとっては、自ら生きてゆくことが自分自身の

歴史を作っていくことになるのであるが、言い換える

ならぽ、ピリーの存在は無記名であり、上述の強制徴慕

兵として「発見された」(.、ho巨『、)ということが典型

的に示しているように、無記名、無規定であるがゆえ

に、現実世界における社会体制によって「~として発見

され」、いや応なくそのようにして規定される側に属する

人間であった。すなわち、ビリーは彼の存在の無記名

性、無規定性という意味において、原点的存在である。

 第二に、ピリーの知的レヴェルを言語能力と関連させ

て考えてみることにしよう。彼自身善意そのものの存在

であり、他者に対しても同じように最初から善意を信じ

てかかり、いわんやこの世に自分に対して悪意を抱く人

間がいるとは想像だにしない裏表のない人間である。こ

のようなビリーについて、語り手は次のような情報を与

えてくれる。

その他の点について言えぽ、彼には能力の鋭さはほと

んど、あるいは全然なく、蛇のようなずる賢さもなけ

れば、かと言って鳩のようでもなかった。彼は健全な

人間の、因襲にとらわれていない素直さにふさわしい

程度と種類の知性しか持っていなかった。すなわち、

彼はあの疑わしい知恵の木の実を食べたことのない種

類の人間であった。彼は文盲であった。彼は読み書き

ができなかった。しかし、無学なナイチソゲールのよ

うに自分で歌を作って歌うことはできた。

 彼には自意識などというものは、ほとんど、あるい

は少しもなく、あったにしてもセント・バーナード犬

が持っている程度のものだった。     (52)

すなわち、ビリーの言語能力は、言わぽ、 エデソの園

で、サタソである蛇にそそのかされて禁断のりんごを味

わって、善悪に目が開かれたあのアダムとイブ以前の状

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態にあると言えるであろう。彼は文盲であったし、その

言語能力は、教養ある文明人が持つ、推理、推論の能力

を持たず、また、自意識をほとんど持っていなかったと

言われているように、善悪についても未分化の状態にあ

ったと考えられる。

 ビリー自身の持つ知的・精神的特性は、言語哲学者井

筒俊彦の主張する「意味分節理論」から見る時、その言

語能力的側面の持つ意味を、いっそう浮き彫りにするこ

とができるので、次に井筒の所説を我々の論述に関連あ

る範囲において引用することにする。

結局、この理論(意味分節理論)の要旨は、我々人間

の言語には、哲学的に最も重要な機能として、現実を

意味的に分節していく働きがあるということーある

いは、より正確には、いわゆる「現実」、我々が普通、

第一次的経験所与として受けとめている「現実」は、

本当は我々の意識が、言語的意味分節という第二次的

操作を通じて創り出したものにすぎないーというこ

とである。

 「分節」(胃什8巳①ぼo旨)とは、文字通り、例えば

竹の節が一本の竹を幾つもの部分に分けていく、区分

していくということ。もともと素朴実在論的性格をも

つ常識的な考え方によると、先ずものがある、様々な

事物事象が始めから区分けされて存在している、それ

をコトパが後から追いかけていく、ということになる

のだが、分節理論はそれとは逆に、始めにはなんの区

分けもない、ただあるものは渾沌としてどこにも本当

の境界のない原体験のカオスだけ、と考える。のっぺ

りと、どこにも節目のないその原初的素材を、コトバ

の意味の網目構造によって深く染め分けられた人間の

意識が、ごく自然に区切り、節をつけていく。そし

て、それらの区切りの一つ一つが「名」によって固定

され、存在の有意味的凝結点となり、あたかも始めか

ら自立自存していたものであるかのごとく、人間意識

の向う側に客観性を帯びて現象する。たんにものぼか

りではなく、いろいろなものの複雑な多層的相互連関

の仕方まで、すべてその背後にひそむ意味と意味連関

構造によって根本的に規定される。それがすなわち存

在の地平を決定するものであり、存在そのものであ

                 (2)

る。と、大体、このように考えるのである。

                 (傍点、原著者)

 このような井筒の意味分節理論に照らしてビリーとい

う人間を考える時、もちろん、彼自身まったく意識を持

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たない人間ではないのだから、井筒の言う意味でのカオ

スそのものの存在とは言えないであろう。しかし、我々

がビリーという人間存在の無記名性を指摘し、人間社会

の体制側から「~として発見される」存在であるとした

ように、また彼の言語能力から見ても、彼の内的世界は

大きなカオスをはらんでいると言えるであろう。井筒の

言うように、言語が世界の有意味な分節機能を持つとす

るならぽ、ビリーの言語能力は、自己の存在にとって与

件としての世界を分節し尽しておらず、相当な部分をカ

オスのまま残していると言えるであろう。さて、このよ

うな言語の分節作用以前のカオスを大いに自己の世界の

内にはらみながらビリーという人間はどのように行動し

生きているであろうか。

 この点は、ビリーが原初的存在であることの第三番目

の理由となるのであるが、比喩的に言えぽ、ビリーはこ

のカオスの声を聞く人間であった。この事を語り手は、

ピリーの言語能力と関連させて、先の引用の中で、ビリ

ーには文明人の高度の言語能力は備わっていなかった

が、ナイチソゲールのように自作の歌を歌うことができ

たと表現している。また、別の箇所においては、彼の声

は彼自身の存在内部の調和をきわめて巧みに表現するよ

うに音楽的であったと語り手は述べている。(53)語

り手のこの評言は、一見ビリーの存在のカオス性と矛盾

するようであるが、そうではなく、言語による意味分節

の上では分節されない大きなカオスの領域を内にたたえ

つつも、ビリーという存在は全体として自己完結的な調

和のとれたものであったということなのである。意味分

節理論から見ればビリーの言語運用能力は未だ十分発達

していなかったかわりに、彼が小鳥が歌うように歌った

ということは、文盲であり言語を対自的にとらえる以前

から既に詩人の素質を持っていたぼかりでなく、カオス

の声を聞きそれを自作の音楽によって表現したのだと解

釈できる。すなわち、ビリーは、自己の世界のうち、コ

トバによって分節された領域よりも、カオスの領域に耳

を傾けていたのである。

 この事は、また、語り手が次のように説明するよう

に、ビリーは理性を駆使する人間ではなく、自己の本源

の感情に従って行動する生き物であり、経験という面に

おいては、言わぽ「子ども」の段階にあったったという

ことである。

ビリーは、幸運にも、健康、若さ、自由な心から来る

陽気さを備えていたが、決して調刺のわかる性質を持

ってはいなかった。彼はそんなことを働かせようとい

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う意図はなかったし、邪悪な抜け目のなさもまた欠け

ていた。二様にとれる曖昧な物の言い方や、あてこす

りなどは、彼の性質とは無縁のものだった。 (49)

つまり、ビリーが理性と高度の言語運用能力に基づく、

「調刺」、「二枚舌」、「あてこすり」とは無縁の人間であ

ったということは、意味分節理論上カオスに近い人間で

あったことの別の証拠にもなっている。

 最後に、ビリーという人間を考える時、更に銘記して

おくべきことは、神に愛されひいきされて恩寵を受けた

アベルの系譜につながる人間であることである。この事

は後に論ずるクラガートをカインに連なる人間であると

とらえる時、いっそう明らかとなる。語り手はビリi自

身に直接言及しているのではないのだが、彼の母親は、

愛と優雅の女神たちに特別に愛された人であったであろ

うと推測している。(51)旧約学者の関根正雄は、古

代人にとっては、神の「祝福」と「呪い」ということが

現代人の想像もつかない程圧倒的な力を持ち、しぼしば

「あなたは、祝福されている」、「あなたは、呪われてい

                  (3)

る」という言い方がされたと述べているが、ビリーは、

容貌、姿、形など外見的な美、また心の本質的な善性に

おいて、「吃音」という言語運用能力上の欠陥を除け

ば、上のヘブライ人たちの言葉で言えぽ、造物主に祝福

され自然の惜しみない恵みを受けた人間であったと考え

られる。(また、ビリー自身は、処刑されて死ななけれ

ばならない人生の最終段階になっても、自己の運命を呪

われたものとは考えなかったであろう。)旧約「創世記」

において人類最初の兄弟殺しを物語るカインとアベルの

話には、「呪われる者」と「祝福される者」の原型が現

われているが、ビリーは多くの点において造物主や自然

に愛された人間であったのである。この意味において、

語り手がクラガートに対して「自然の堕落」(75)と

いう言葉を適用しようとするのに対して、我々はビリー

に対して「生来の美と善」の形容を与えることができる

であろう。

 ビリー・パッドについてのこれまでの我々の考察を総

合するならば、ビリーは内に大きなカオスをはらみつ

             (4)

つも、フラソクリンの言うように、船乗り仲間から愛さ

れた、いわゆる「ハンサム・セイラー」の典型であり、

また、肉体と精神の美と善ということを考えるとき、ア

メリカ文学においてしばしぼ登場する「ノーブル・サヴ

ェッジ」の系譜に連なる一人の「原人」としてとらえる

ことを可能にするのである。つまり、ビリーという人間

存在を、その歴史的存在としての始源性、言語的存在と

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しては、無分節的カオスを大いにはらんだ存在、また自

己の世界のカオスに耳を傾けることができ、生来の美と

善に恵まれた原人として抽象しつつ解釈した。このよう

な原点的、枢軸的存在であるビリー・バッドに照らして

見る時、他の登場人物たち、とりわけヴィア艦長と先任

衛兵伍長クラガートは、どのように位置づけられるであ

ろう.か。最もいちじるしい対照をなすのはヴィアであ

る。次に、このベリポテント号艦長を考察してみよう。

とに、ビリーのような無力な人間を「~として発見す

る」支配者側であり、ヴィア自身既にビリーよりも前に

国王陛下を頂点とする権力機構に服従を強いられている

軍人である。

 また言語的面においてもヴィアとビリーの対照はきわ

だっている。ヴィアは、一口に言って、軍艦の艦長に似

合わない「ブッキッシュ」な人間である。彼の独特な読

書経験の内容を見てみることにしよう。

2

 ビリーが捨て子で、その容貌から高貴の生れであるこ

とが想像されたことを除くと、全く根無し草であったこ

ととは正反対に、ヴィアはイギリス貴族の名門の出であ

り、この意味においては、イギリスの文明と歴史を一身

の上に担わされた存在である。ビリーが血統や門閥から

は全く自由であったのに対して、ヴィアは文明と歴史の

網の中に最初から取り込まれており、その限りで自由度

の小さい人間である。ビリーは「~として発見される」

側の人間であり、彼自身強制微慕される、歴史的社会的

力の支配をまぬがれない存在であるのに対して、ヴィア

が属しているのは、国王陛下の御為という大義名分のも

彼は知的なあらゆるものに非常にひきつけられた。彼

は書物を愛し、新しく蔵書をそろえずに出航すること

はなかった。彼の蔵書は、小規模であったが、最良の

ものから成り立っていた。……彼は内容よりも技法に

関心を払うような文学的趣味は持っていなかった。彼

の好みは、世の中で権威ある活動的な地位を占め、真

剣な精神の持ち主であるすぐれた人々が当然好むよう

なものに向けられていた。つまり、時代に関係なく、

実在の人物や出来事を描く書物でありーたとえぽ、

歴史、伝記、流行や因襲にとらわれない、誠実で常識

の精神を持ってはいるが、現実について哲学するモソ

テーニュのような非因襲的な作家であった。(62)

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たとえ戦時の洋上においても、いくぼくかの余暇に恵ま

れれぽ、自然と手持ちの書物をひもといてしまう程、ヴ

ィアは書物好きであるが、彼の読書の好みと傾向は、主

として歴史、伝記、そして因襲や固定観念にとらわれる

ことなく自らの頭脳で思考する、モンテーニュなどの書

いたものであったという。なる程ヴィアは意識的に自ら

自由に選んだ読書の好みというものを持っていたのであ

るが、次の語り手の記述にもあるように、それはおのず

と固定化し彼の精神活動において一つのパターン化され

た機能を形成することになったのである。

……同時代の感動的な人物や出来事に関する事を説明

するにも、彼は、同時代からと同じくらい、古い歴史

的な人物や出来事のことを引き合いに出した。(63)

このようなヴィアの習慣は、後にも触れることになる彼

の保守主義を、彼の言語運用の側面においても裏付けて

いる。ビリーが意味分節理論上未分化な部分を多く残し

ていたのとは正反対に、教養ある文明人としてその積年

の読書経験によってヴィアの世界がコトバによって分節

化され尽しており、ヴィア自身が好むと好まざるにかか

わらず、彼の思考は既製のコトバの意味と慣用に従う他

なく、この意味でも、ヴィアにとってのコトバはあたか

も牢獄の壁のように彼を閉じ込めて、彼の自由を制限し

ているのである。『白鯨』のエイハブにとって、モビイ

・ディックの白い壁は、目に見えぬ正体の知れぬ悪意に

満ちた超人間的な存在が、人間を因人のように閉じ込め

て身動きできない状態に陥れてしまわんと迫って来るも

のと考えられていたのだが、コトバというものもまた、

人間にとって牢獄となり得るのである。

 ヴィアの書物の好みのうち、モソテーニュはしぽらく

おくとして、歴史と伝記というものもまた、それらが現

に今ここに生成流動しつつある我々人間の生の実相では

なく、後になって人間のコトバによってとらえ直された

ものであるとするならば、ヴィアの場合、それらの書物

の一つ一つが結局は彼の属する体制側の解釈によって作

り出された、いわゆる「正史」というものに合致してい

たと考えてまちがいないと思われる。これは、我が国の

戦前のいわゆる皇国史観のようなものであるが、ヴィア

は国王陛下の軍艦の艦長として輝かしい大英帝国の歴史

を動かす、いわば歯軍の一つとして身を挺していたので

あろう。事実、語り手も言うように、歴史ものや伝記も

のは、人間社会において活動的な分野において相当な権

限を与えられた、ある程度以上の知能のある者が自然に

74

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好んだものであった。.つまり、歴史や伝記の読書は戦時

の軍艦の艦長という激務を完遂する上で、与件としての

彼の価値観(国王の御為)を強め、精神の安定をはかる

         (5)

上でも役立ったであろう。

 さて、次にヴィアの愛読書の一つであったモンテーニ

ュについて考察することにしよう。語り手は、モンテー

ニュを「流行と因襲にとらわれない」(62)文筆家の

一人と説明しているが、日本のモンテーニュ学者荒木昭

太郎は、モンテーニュの代表作『エセー』について次の

ように解説している。

『エセー』全三巻、長短さまざまな一〇七章の論考

は、彼が思考のいとなみを、規範を越え常套を排し

て、実験的といっていいほど果敢に遂行し、それを言

語表現として獲得するために、工夫、試行をくりかえ

          (6)

した末に残した結果である。

したがって、これこそモソテーニュが自由な精神の持ち

主であり、懐疑主義者であると呼ぼれる所以であるが、

果たして我々の目下の関心の的であるヴィアは、モンテ

ーニュが体現していたと考えられる自由な批判精神を、

自らの読書経験を通して身につけたであろうか。この間

に対しては、我々は否定的にならざるを得ない。あるい

は、既に述べたように、たとえ身につけ得たとしても、

彼自身が閉じ込められている「国王陛下の御為」という

体制側イデオロギーを構築している「言語の牢獄」の中

で駆使し得る、便利な道具としての機能をしか持ってい

なかったであろうと推測される。モソテーニュ自身保守

                  (7)

主義の側面を強く持っていたとされるのだが、ヴィアが

強く影響されたのはモンテーニュのこの面であったとも

考えられるのである。たとえば、『エセー』第一巻、第

二十三章「習慣について。また、既存の法律を容易に改

めてはならないこと」において、モンテーニュは次のよ

      (8)

うに言うのである。

そこで賢者たる者は、自分の魂を俗衆から引き離して

内部に引っ込め、事物を自由に判断できる力を保つよ

うにすべきだが、外面は、一般に認められている形式

に全面的に従うべきだと思うのである。……というの

は、各人が住んでいる国の規則や法律に従うのは、規

則の中の規則、法律の中の法律だからである。

そうして、この直後に「その国の法に従うのはよいこと

だ」というギリシアの格言を引いておいて、また、政治

75

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改革についても次のような見解を述べるのである。

私は改革がどんな仮面をつけていようとこれを忌み嫌

う。°それにはそれだけの理由がある。というのは、そ

                   (9)

れのきわめて有害な結果を見ているからである。

もちろん、モンテーニュのこのような主張も、乱世にあ

っても揺るがなかったモラリストの立場とバラソスのと

れた精神に裏打ちされてのことであろうが、しかし、解

釈によっては、意外に反動的な意見を述べていることは

否定できないであろう。

 そして、語り手の次のような解説に接する時、ヴィア

がモンテーニュから学んだであろうものは、自分で考え

る技術に劣らず、モンテーニュの上のような保守反動的

な面ではなかったかと思われるのである。

彼の確立された信念は、社会的、政治的、その他の新

しい思想の洪水に対する防波堤のような役割を果たし

た。事実、この洪水は、当時の多くの人々の精神を押

し流してしまっていた。しかも、それは、彼に劣らぬ

すぐれた精神の持ち主たちであった。彼が生れながら

に属している貴族階級の人々が革新勢力に対して怒り

を感じたのは、彼らの理論が自分たちの階級に対して

敵対的であったからである。しかし、ヴィア艦長は革

新者たちが永続する制度を作りあげることはできない

し、また彼らが世界の平和と真の人類の福祉に相入れ

ない勢力であるという理由で、私心のない態度で彼ら

に反対していた。          (62~3)

つまり、ヴィアのヴィアたるゆえんは、「革新勢力」

(、、

`印o爵8屋、.)に対する、その独特の態度に如実に

現われている。すなわち、同じ貴族階級の他の人々は、

自分たちの階級の特権を侵害すると考えたがゆえに、そ

の勢力を毛嫌いし恐れたのに対して、ヴィア自身はおの

れの頭脳で考え、全く無私の立場から、「革命」という

ものが、世界の平和と人類の福祉に反する確信したから

        (10)

こそ反対したのである。そして、これこそ、 つまり、

「自らの思考による確信的な保守主義」こそ、ヴィアが

モンテーニュから吸収したものなのである。したがっ

て、ヴィアこそ真の愛国主義者であり、国王陛下にとっ

て真の忠臣であったのである。しかし、ヴィアは、その

ラディカルな愛国主義のゆえに、「境界をいつ越えてし

まったのかも全然気づかないで、まっしぐらに飛んで行

く渡り鳥」(63)のように、内にカォスを秘めていた

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ビリーが自己の運命を左右する決定的瞬間に「吃音」に

陥ったのとは対照的に、国王陛下の忠良なる指揮官とし

て、最も適格な判断を求められる場面において、国王陛

下の御為かつ人類の福祉をあまりに追求するがゆえに、

「逸脱」してしまうのである。したがって、「逸脱」と

は言っても、自ずと方向は決まっており、限界があるの

である。あるいは、彼は自分のコトバを自由に駆使して

自前の判断を下したと錯覚していたであろうが、彼の

「言語の牢獄」を一歩も出るものではなかった。

 最後に、ビリーが「ノーブル・サヴェッジ」であるの

に対して、ヴィアは「偽善的な(あるいは、そうならざ

るを得ない)文明人」である。なぜなら、彼はビリーと

いう人間存在が究極的に善なる存在であることを認めな

がらも、国王陛下の御為という大義名分である偽善の方

につく文明の権力機構に組み込まれた軍人だからであ

る。 

このような際だった対照をなす二人の人間が無力な被

告人と国王の代理老としての裁判官として相対する時、

どのような結末になるかということは、ビリーの一撃が

撤回できない限り目に見えているが、その事の意味にっ

いて考える前に、先任衛兵伍長クラガートについて簡単

に見ておくことにしよう。

3

 クラガートは、「自然による堕落」(、、Z卑霞巴U⑦冒甲

≦蔓、、)(75)の人間であり、その本性においてはビ

リーの正反対にある存在である。被造物に対する恩寵を

一身に体現しているようなビリーを見て、造物主にょっ

てその捧げ物が顧みられなかったカインのように、激し

いねたみを感じていたに違いない。しかし、彼のビリ:

に対する「ねたみ」(((        》》 ①昌く矯)は、当然「自然の堕落」

に由来していると思われるが、カインやアベルの場合の

ように直接実力行使に出て、直ちに殺人へと発展する

程、単純な性質のものではなかった。高度の文明社会を

背景として、クラガートのビリーに対する感情は根が深

いものであった。

クラガートのねたみはもっと深いところに根を持って

いた。彼が、 ビリー・バッドの美貌、 楽しそうな健

康、また率直に若さを楽しんでいるのをねたみの目で

見たのは、それらが、悪を考えたこともなく、あのエ

デソの園の蛇に反発されてかみつかれたこともないと

いう純朴な性質に由来していると、彼自身磁力で引き

77

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つけられるように強く感じていたからである。ピリー

の内側に宿り窓からのぞくように、その大空のような

澄み切った目から外をのぞいている精神こそは、つま

り、ビリーの日に焼けた頬にえくぼを作り、彼の関接

をしなやかに曲げ、彼の金髪の中で踊り、彼をしてき

わだった「ハンサム・セイラー」たらしめているもの

は、彼の中にあるあの言葉では言い表し得ないものに

よっているということをクラガートは知っていたので

ある。                (78)・

ここには、クラガートのビリーに対する「ねたみ」の秘

密が明かされている。クラガートがビリーに強い磁力で

引きつけられたのは、ビリーという存在の中で、美しい

容貌、健全な肉体、発らつとした若い生命力など、ビリ

!をしてハンサム・セイラーたらしめているものが渾然

一体となっており、その純朴さのゆえに、悪意や狡知と

はビリーが全く関係がないと思われたからである。要す

るに、ビリ!という人間存在の中に全き「美」と「善」

が分かち難く体現されていること、この事実に対してク

ラガートは「ねたみ」を感じたのであった。したがっ

て、我々が既に紹介した言葉を用いて言えぽ、クラガー

トは、ピリーが「祝福された」人間であるのに対して、

自らを「呪われた」人間であると感じていたはずであ

る。そして、クラガートは彼自身の心の中で、「祝福さ

れた人間」と「呪われた人間」の厳然たる事実を死ぬま

で決して清算できなかった。つまり、クラガートは、こ

の根本事実を出発点として、それを清算し得ぬ自らの情

念に対して理性を臣下として従属させたのである。事

実、語り手は、クラガートのような「自然の堕落」の人

間にとって、文明社会こそ好都合なものはないと述べて

いる。つまり、この種の人間にとって、文明社会は、そ

の習慣、礼節、儀礼などの社会的コード、また何よりも

現状維持の機能を果す制度してのコトパなどをもって、

隠れ蓑として働くのである。

 『白鯨』のエイハブ船長は、把捉し得ない悪意でもっ

て迫って来て自己の存在を押しつぶそうとすると感じら

れたモビイ・ディックを打倒するために、自らの理性は

言うまでもなく、この世の動員し得る一切の物事を動員

して、 「わしの手段は全く正気のものであるが、わしの

意図は狂気そのものである」と自覚していた。このゆえ

に、エイハブは周囲の人間からも「狂気の人」であると

された。クラガ:トもまた「狂気の人」であったが、彼

の狂気は、美と善の体現者ビリーに出会った瞬間に活動

し始め、やはりエイハブのように、文明社会の一つの特

78

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異な縮図である軍艦という小社会における、先任衛兵伍

長という地位を最大限に利用して、ビリーの破滅という

最終目標のために手段を選ぽなかった。そうして、この

事は自己の破滅をも招くことになってしまった。

 クラガートの出自については、語り手は明確な情報を

提供しておらず、捨て子としてのビリー、名門貴族とし

てのヴィアというよう、我々に対して際立った規定を許

すものではない。しかし、ベリポテソト号上でのビリー

の地位が前橿楼員、ヴィアのそれが艦長であることに彼

らの社会的存在規定が示されているように、クラガート

の地位である先任衛兵伍長という任務は彼の社会的存在

規定の表現である。先任衛兵伍長という役職は、大型の

軍艦においては、

利用すれぽ、ピリーのようなあらゆる面で無防備な人間

を陥れることはたやすいことであったであろう。実際、

クラガートは、配下の者を巧みに使い、ビリーを罠に陥

れようと企んでいた。

 クラガートが先任衛兵伍長として、一般の乗組員から

如何に嫌われていたか、ということを示す証拠に彼につ

いて次のようなうわさが艦上に流布していた。

砲甲板や船首楼での嘲笑的なゴシップの中には、この

先任衛兵伍長は「詐欺師」であったのだが、何か人に

言えないような詐欺をはたらいたため、王座裁判所に

召喚されたが、示談をしてかわりに、海軍に志願をし

て入隊したのだ、というものがあった。  (65)

79

一種の警察署長のようなものであり、乗組員で混み合

う下部砲甲板の秩序を保つ任務を負う、  (64)

というものである。この事からも推測されるように、ビ

リーが艦上のほとんど誰もから好かれる人間であったの

とは対照的に、その役職ゆえに、自分より下の階級の者

からは忌み嫌われる人間であった。彼は平均以上の頭脳

を持っていたとされるが、軍艦上の警察としての地位を

このうわさが事実であるとするならぽ、クラガートは詐

欺師であり、王座裁判所に起訴されていたのだが、海軍

の軍務につくことを交換条件に、裁判による訴追をのが

れた人間ということになる。この事の真偽はともかくと

して、語り手が、彼のしゃべる言葉の音声からして、ク

ラガートは生粋のイギリス人ではなく、幼い頃帰化して

イギリス人となったであろうと推測していることとあわ

せて、上のうわさは、彼のような人間がこの世の中での

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し上がって行くためには、詐欺師的狡智によって、アド

          (11)

ラーのいう「戦争マシソ」という殺人専門家集団として

の軍の機構の手下として働く以外にはなかったのであろ

うということを、示している。

 クラガートのような人間にしても、ビリーの体現する

美や善を愛せないはずはなかったと考えられる。クラガ

ートがビリーに対して愛憎のからみ合った容易に去り難

い感情を抱いていたということを、語り手は、彼のビリ

ーに対する、微妙な眼差しと表情の中に読み取ろうとす

る。

……その(クラガートの)眼差しは、沈んで瞑想する

ような、そして憂欝な表情をたたえて、陽気な海のヒ

ューペリオンを追っていたものだった。彼の目には不

思議にも、熱い涙がみなぎっていた。そのような時ク

ラガートは、悲しみの人のように見えた。そうであっ

たのだ、時として、その憂欝な眼差しの中には、おだ

やかなあこがれの感じが含まれていたのである。それ

は、あたかも、運命と禁制がなけれぽ、クラガートで

さえもビリーを愛せたのだと思われる程であった。

                  (87~8)

しかしながら、年老いたダンスヵ1が「手先」 (..。象.ω

冨≦..)と解釈してみせた配下の者を使いビリーを試そ

うとしたのであるが、クラガートは結局ビリーの存在の

放つ「言葉では表現できないもの」(.、冒⑦跨①げ崔蔓.”)

(78)、つまり最初に我々の規定したビリーのはらむ

カオスを読み切れず、ビリーを脅威と感じ最終的な行動

に出たと考えられる。

 このようにして、いよいよこの「内輪の物語」は大団

円を迎える。我々は最後に、ビリーのクラガート撲殺後

直ちに召集された臨時召集軍法会議を集中的に考察し、

「ビリーの一撃」の持つ真の意味に迫ることにする。

4

 臨時召集軍法会議における、ビリーの処刑の決定がな

されるまでの一連のプロセスの考察において、まず我々

が銘記しておかなけれぽならないことは、この「ドラム

ヘッド・コート」における発言がほとんどもっぱらヴィ

ア一人に限られていることである。バーネットが『白鯨』

におけるエイハブのコトバを、平等な関係に基づかな

い、一方的な、聴き手を沈黙させずにはおかない性質の

          (12)

ものと指摘しているように、他の三人の出席者たちは、

80

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わずかの反応を示すばかりで、結局は、艦上においてで

きる限りすみやかにビリーを死刑に処すというヴィアの

下す裁断にうむを言わさず説得され同意させられたも同

然となる。したがって、この臨時召集軍法会議における

ヴィアは、「コトバの独占者」であると言えるであろう。

 アリストテレスは、『弁論術』において、「弁論術と

は、どんな問題でもそのそれぞれについて可能な説得の

方法を見つけ出す能力である」とし、聴き手を説得する

テクニックには次の三種類があると規定する。ω論者の

人柄や権威による方法、②聴き手の心の中にある種の状

             ロゴス

態をひき起す方法、⑧純粋に言論による方法、の三つが

難・これらのうち・ヴ・アが用いた方法は、ωと②の

方法にあてはまると言えるであろう。まず、もしヴィア

が純粋にコトパによる論理の展開にのみ頼っていたなら

ぽ、彼の部下たちが考えていたように、この種の困難で

微妙な問題は、何も一軍艦の艦長として判決を即断する

必要は少しもなく、連合艦隊に合流するまで判断を差し

控え、艦隊の司令官に最終的な判断をゆだねれぽ良かっ

たからである。もちろん、戦時において反乱の起こり得

る可能性のある緊急の事態においては、ヴィアのような

一艦長にも独自の裁量によって、反乱分子を即刻処分す

る権限は、法律によって与えられていたであろう。しか

し、今回の場合、ビリーの側に反乱への意志は全く存在

しなかったことは、誰の目にも明らかであったし、ヴィ

ア自身がその事は百も承知であった。それでは、ヴィア

はなぜ、あのように性急にビリーを処刑しなけれぽなら

なかったのか。その事を考察する前に、ヴィアの弁論の

テクニックを上記のωと②に照らして分析しておくこと

にしよう。

 コトバの独占者ヴィアが、臨時召集軍法会議において

コトパを独占してしまい自らの目的を遂げるために、ベ

リポテント号上における最高指揮官としての権威と尊敬

すべき名門貴族出身者としての人柄を巧みに組み合わせ

て最大限に利用したことは疑いない。ヴィアの弁論は、

その結論へ圧倒的な力でもって到達しようとする扇動性

において、『白鯨』の有名な「後甲板」の章におけるエ

イハブ船長のモビイ・ディックへの宣戦布告へと至る、

あの激越な演説と軌を一にするものである。あの時もエ

イハブは、その渤隅烈なパワーを持つ「アジ演説」によっ

て、スターバックのか細い抗弁など押しつぶしてしま

い、ピークォド号の乗組員を一丸として狂乱のモピィ.

ディック追跡へと乗り出させることに成功したのであっ

た。教養ある文明人ヴィアの読書経験、あるいはモソテ

ーニュなどの懐疑主義者から吸収した思考のテクニック

81

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も、全てこの臨時召集軍法会議における弁論のために総

動員されたはずである。ヴィアの三人の部下たちも結果

的には説得ざれざるを得なかった。

淡白で実際的な臣民たちは、心の中ではヴィア艦長が

彼らに主張した二、三の点について賛成できなかった

が、彼らには、熱心で階級でも知性でも彼らの上にあ

る人物に対して反論する能力もなけれぽ、その気もな

かった。            (113)

つまり、この事によっても、ヴィアの弁論が、艦長とし

ての自らの地位と尊敬され得る人柄に大きく依存してい

たことは明らかである。それでは、なおかつヴィアは聴

き手である部下たちの心に如何なる心的状態を作り出す

ことに成功したのか。結論的に言えぽ、ヴィアは彼らの

心の中に恐怖心を呼び起こしたのである。ヴィアは狡猜

な修辞的な疑問を何度もくり返して、反乱への恐れをか

きたてることによって部下の心をかすめ取ろうとする。

「いや、前摘楼員の行為は、どんな言葉で発表された

としても、凶悪な反乱という行為でなされた明白な殺

人であると、部下たちには思えるのだ。それに対する

しかるべき処罰も彼らは知っておる。だがその罰が遂

行されなかったらどうか。「なぜであろうか」と彼らは

考え込むであろう。君たちは水夫というものがどんな

人間か承知しているだろう。彼らにしても、最近起っ

たあのノアの反乱のような状態に逆戻りするかもしれ

ないのだ。そうなのだ、彼らはそれが英国中にひき起

こしたもっともな驚きーあのパニック状態のことを

よく知っているのだ。彼らは君たちの寛大な判決をい

くじのないものとみなすだろう。彼らは我々が、彼ら

をこわがっており、この危急の事態に特に要求される

厳格な法の適用をすることによって、新たな混乱をひ

き起こすことを恐れていると思うであろう。このよう

に彼らに思われることは恥であるし、また規律の点に

おいても致命的なことなのだ。したがって、私が義務

と法律に促されて、何を目ざそうと努めているのか、

君たちもわかってくれるだろう。」  (112~3)

まるで、子どもに諄諄と言い聞かせる父親のように、ヴ

ィアは聞き手に一言も言わせないで、相手の反応に先廻

りして、言わぽ一人二役をこなして、自らのめざす判決

が確実に実行されない場合、一体如何なる事態が発生し

得るのかということを想像させ、聞き手の心に恐怖心を

82

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譲成していく。そして、このプロセスに「規律」、「義

務」、「法律」を抜け目ないヴィアはからめることを決し

て忘れない。ヴィアの世界が既制のコトバとイデオロギ

ーに完全に支配されていたように、彼の部下たちも、言

うまでもなく、殺人専門家集団としての軍隊の「ヒエラル

キ:」の中にがっちりと組み込まれているのである。彼

らが、同じヒラルキーの中で、そのヒエラルキーに特有

な既製のコトバによってヴィアに対抗したとしても、勝

負は目に見えているであろう。この特異なヒエラルキー

の構成員であるヴィアも含めた、彼らの安全を支えてい

るものが、上にあげた「規律」、「義務」、「法律」に他な

らないし、ヴィアの言う「きちんとととのえられた諸形

式」(.眠5P①国oρβ同Φユ  hOH目Poo噂冒)(128)の実質的内容なの

である。ヴィアの弁論の主張は、ビリーの上官撲殺とい

う行為を大目にみることは、これら三項目のいずれをも

大きく侵害するものであり、したがって、それはとりも

なおさずヒエラルキ!の崩壊と無政府状態の招来(反乱

のような特殊事態)を意味し、彼ら士官階級の安全を脅

やかすものであると、陪審である部下たちに悟らせ、彼

らの心の中に強い恐怖をかりたてようとする。シャーの

   (14)

言うように、ヴィアの頭の中には始めからビリーの処刑

という結論があり、彼はその意図を達成するためにしゃ

にむに誘導的な議論を展開し、まんまとそれに成功した

のである。プラトンは、 『ゴルギアス』において悪しき

弁論至上主義老たちを非難して、「彼らは、ちょうど独

裁者たちがするように、誰であろうと、死刑に処したい

と思う人を死刑にするし、またこれと思う人の財産を没

                      (15)

収したり、国家から追放したりする」と述べているが、

コトバの独占者ヴィア自身、まちがいなく、このそしり

          (16)

をまぬがれないであろう。

 ヴィア自身は、ピリーの体現する根源的な善や美をは

っきり理解していたに違いない。しかし、ビリーの一撃

を目撃した時、ヴィアはビリーのはらむカオスの力をク

ラガート以上に衝激的に感じたと思われる。すなわち、

ビリーの一撃は、人間のコトバによる世界の意味分節の

点から見るならぽ、ヴィアの属する権力階級の利益に合

致するように、しっかりと世界を分節し尽したコトバの

網を一撃のもとに断ち切ってしまうかと彼には思われた

  (17)

のである。それこそ革命的な一撃であり、体制を無政府

状態へと陥らせかねないものである。以上の事情は、ヴ

ィアのうろたえぶりに象微的に表現されている。言うま

でもなくヴィアはビリーの内にあるカオスをクラガート

以上に脅威に感じたはずである。

 これまで見てきたように、言語というものは社会的な

83

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ものであり、また臨時召集軍法会議において、ビリーを

抹殺せんとするヴィアの偽善的な弁論に見られるよう

に、ある社会体制のもとに世界を分節し尽してしまう

と、惰性的な力となって働き、体制維持的な一つの制度

して作用し根本的変革をさえも圧殺してしまうものであ

る。すなわち、ソシュールが、言語記号の不易性と恣意

            (18)

性を同時に説いているように、人間による世界の意味分

節の仕方あるいは言語記号の網による世界の捕え方は絶

対的なものではなく、相対的で恣意的なものであるはず

なのに、あたかも絶対的なものであるかの如く人間の存

在を束縛するのである。ヴィアの場合、ビリーの行為

が、フラソクリソの言うように、大英帝国の国益と相入

                 (19)

れないと、直観的に理解したに違いない。そればかりで

なく、ヴィアの手下であったとも言えるクラガートへの

ビリーの一撃は、社会的制度と化した言語への一撃と解

釈することも可能である。ヴィアが「言語の牢獄」の囚

人であったように、軍隊機構のヒエラルキ!の一員であ

るクラガートも制度としてのコトバの惰性的な束縛力か

ら自由ではあり得ない。言い換えるならば、ヴィアもク

ラガートも、彼らの属するヒエラルキーを通して働く制

度としてのコトパの奴隷であり手下であると言えるであ

ろう。つまり、彼らは結果的には共犯関係にあり、自由

にコトパを駆使してビリーを抹殺しおおせたかに見える

が、その実、制度としてのコトバにからみとられ使いこ

なされて破滅したのであった。ピリー自身は、クラガー

トの偽りの告発を聞いた時、この制度としてのコトパが

自分を圧殺しようと迫って来ると本能的に感じたはずで

ある。したがって、ビリーの運命的な瞬間における言語

運用上の麻痺状態である「吃音」は、それが本能的なも

のであるにせよ、制度としての言語の堕性態と束縛力に

対する、象徴的な「否定」の表現であると解釈できるで

あろう。ピリーのクラガ!トへのこぶしの一撃は、制度

としてのコトバの暴力に対して、コトバによらない手段

で「ノー」の意志表示をしたものである。ビリーの一撃

こそは、その世界の内に言語の未分節の領域を残す、カ

オスの一撃なのである。

 最後にビリーの一撃は、また、言語芸術家として生涯

ずっと真理を探究し続けたメルヴィルが、言語の惰性態

というものを常に意識し続け、最後まで、自己の到達し

たところに「ノー」と言い続け、自分自身は決してヴィ

アのようには「言語の牢獄」に閉じ込められて甘んずる

ことはあり得ない、という断固たる意志を表明したもの

でもあり得るのである。

84

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  注

(1) 『船乗りビリー・パッド』のテクストは、=。Hヨ§

  】≦o一く≡9 し口畿電切ミ“斜 恥ミ、ミ(Oぽ$αqo”O露o国σqo

  ¢巳く°勺器器讐HO8)①山ω゜国碧ユωo昌=p望♂民知】≦o二〇昌

  竃゜ωo巴け゜・”臼菊゜による。テクストからの引用、内容へ

  の指示は、このようにページ数をカッコにくくって本文

  中に示す。訳は筆者の訳による。

(2) 井筒俊彦『意味の深みへ』岩波書店一九八五年、℃℃°

  鱒8山゜

(3) 関根正雄『古代イスラエルの思想家』講談社、人類の

  知的遺産1、 一九八二年、弓゜躯9

(4)鍔甲・8甲き察p..甲§国ヨ嘗。8国居冨”

  切畿、ヒ馳ミ貸戚℃⑦貸ミO、.、一昌き、ミ犠蕊さ』q畿、鳴㌔肉偽爲?

  ⇔霧゜。§馬ミ騎(↓08ξp”<δごロ薗ロ匹ωoヨ④節Zo三ρ

  δQo軽)oF>°男oぴo含いoρ噂゜bQO卜⊃。

(5)即8犀↓ぎ基90こ鴇肉鷲ミミミ§ミト§§“

  卜識恥、ミミ、Q、OoO辱恥きさミ馬魯o、蕊8⑦、oミ3黛達織さ㍗

  ミ、貯(Opヨげ二ασqo”〇四ヨげ二ασqod昌一く°℃冨のρ日Oo。刈y

  噂゜卜。。。S

(6) 荒木昭太郎『モソテーニュ』講談社、人類の知的遺産

  29、一九八五年、戸旨゜

〈7) 荒木昭太郎『モンテ!ニュ』中央公論社、世界の名著

  19、一九六七年、箸゜鵯山。。°

〈8) 切目oo犀↓『o目器は前掲書において、『エセi』「経験に

  ついて」より、法律への非難の記述を引用しているが、

  むしろ、法律の遵守をすすめる、この箇所にヴィアは影

  響されたとみるべきだろう。P“。ω゜。°

(9) 『エセー』原二郎訳、筑摩書房、世界古典.文学全集゜

  『モンテーニュー』一九六二年、署゜°。令゜。α。

(10) したがって、ヴィアは、目ヶoヨ窃の言うように(前掲

  書、サト。OH)、真に、人類の福祉と世界の平和とが、大

  英帝国の国益に合致するという信念のもとに、ビリーを

  処刑したのであって、甲雪匹ぎの言うように(前掲書、

  噂゜NOQ。)功名心のためにしたのではない。

(11) 臼o鴇8ω℃ロ。話「〉臼臼噂き、画蕊さ、ミ農馬、⇔N§貸曳・

  遷ミご§(Zo毛嘱o同労鱈Z①薯曜oN犀¢巳く°勺話゜・°・℃HりooH)”

  ℃。H8°

(12) ぴoロ尻⑦囚゜bd胃ま詳、、ω℃①①oゲぎさξ・b馬寒”.ぎ

  き、ミ犠蕊 さhミ、貯、肋さ魯隻・b詩神㍉さ“鳴、蕊O畿職ら貸、

  、ミミ辱、ミミご蕊(Zo≦属o目犀”Oげo『Φp寓o置1■ρ日㊤QQ①)》

  ①9鵠胃o匡ヒdδoヨ”℃°日Oり゜

(13) アリストテレス『弁論術』戸塚七郎訳、岩波文庫、一

  九九二年、唱℃。ωHI°。°

(14) ミ邑冨ヨ国.ωゲ巨き ↓瀞恥さ無ミ黛ミNミ嶋讐軌竜㍉

  さ』ミ、壽 自恥 、oミ隔 NQ。噺下NQ。鴇N(国oロ言o犀鴇騨d三く°

  勺器器o剛囚o昌εo犀ざHO刈卜⊃ソ℃°N窪゜

(15) プラトソ『ゴルギアス』加来彰俊訳、岩波文庫、 一九

  六七年、b唱゜O†9

(16) O『帥ユ窃ζ津島oF .、竃o才≡o薗旨匹子oω℃自δ窃

  ↓H¢け70{り①σqo=ロ。ヨ》サ一コ ↓“鳴O鴨ミ鷺蕊器馬黛馬肉馬ミ恥ミ℃

  〈oピ×戸(日㊤①oo)〉δ゜r℃°H卜Ω9

(17) bdρ。ひ臼o一〇ゲけ8ロ、、.H≦巴鼠=o.°。蜀『ぼ目ずo国×80ロ・

  ユOコOh切識、勘切袋戚“”、ぎ⑦艦ミ職隷恥軌達肉O§貸蕊識禽吻§℃

 <oドHQ◎噛 (H㊤刈Oソ昌9亟”器娼同剛三〇畠ぎ↓瀞恥O識獄oミ

 b画㍉馬、鴨ロ隷、肉鴇黛誌§ミ恥Oo§鷺ミ、o、黛、掩沁隷ミo、詩

  o\物偽職ミ器喚(bd=。一ユヨo話”一〇『コ゜。寓o℃鉱諺ご三く°勺話ω゜。.

  HO◎。Oy7HO卜∂讐は、ヴィアはコトバを持つているがゆえ

  に殺人を犯し、ビリーは、コトバを持っていないがゆえ

85

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  に、殺人を行うと、述べている。

〈18) ソシュール『一般言語学講議』小林英夫訳、

  店、一九四〇年、竈」O卜。よ゜

(19) 閃冨昌匡凶ロ前掲書、℃°卜∂OO°

岩波書

86