まとめて ~ メモ入 - Tomioka · 丹波 たんばの 守 かみ の碑 ひ...
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平成 25 年 11 月 23 日
~ 丹 生 地 区 ~
富岡市教育委員会 文化財保護課
*** 日 程 表 ***
丹生公民館 トイレ 9:00 出発↓
旧丹生蚕糸倉庫 9:15 ~ 9:30↓
岡部温故館 トイレ 9:30 ~ 10:00↓
丹生城址 10:20 ~ 10:35↓
丹生公民館 昼食・トイレ 10:50 ~ 11:40↓
横尾丹波守碑 12:00 ~ 12:15↓
八幡宮(松尾神社) 12:20 ~ 12:35↓
古柳観音 12:45 ~ 13:05↓
原公会堂 休憩・トイレ 13:20 ~ 13:40↓
下丹生赤子Ⅰ・Ⅱ、下丹生前畑遺跡
甘楽用水↓
永 隣 寺 14:10 ~ 14:35↓
丹生神社 トイレ 14:50 ~ 15:15↓
丹生公民館 15:30 到着予定
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旧丹生きゅうにゅう
蚕糸さ ん し
倉庫そ う こ
製糸業は明治から昭和にかけての日本の中心産業であり、
生糸は最大の輸出品でした。旧官営富岡製糸場は近代的な器
械製糸工場でしたが、一方で、個々の農家の座繰器での生糸
生産も全体の生産量のなかで大きな比重を占めていました。
これらの農家が共同組合化して各地に製糸組合が誕生しま
した。
甘楽地方では、座繰製糸の小規模組織を集めて、明治
13(1880)年に「北甘楽精糸会社(後の甘楽社)」が設立されま
した。
この倉庫は、甘楽社に加盟した丹生地区の製糸組合の倉庫
で、大正の末頃に建てられたものです。乾燥した繭を一時的
に貯蔵していました。湿度の管理や耐火性が重要なためレン
ガ造りで建築されました。
かつての養蚕・製糸業の隆盛を伝える、貴重な近代化遺産
の一つです。
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岡部お か べ
温故館おんこかん
江戸時代中頃から地方の豪商として栄えた岡部家の所蔵
品を、三棟の蔵の展示室で公開しています。岡部家は小幡藩
の御用商人で甘楽郡特産の麻や砥石の問屋を営み、明治時代
に入ってからは県内有数の地主でもありました。館内には、
商売の取引に用いた文書や多数の古民具などが展示されて
います。
丹生に ゅ う
城じょう
丹生城は、古刹こ さ つ
金乗寺こんじょうじ
の南に位置し、標高約 270m の丘の
上にある本丸を中心として「ヒトデ」形に派出した尾根を利
用して築かれています。東西約 350 メートルに及ぶ城域内
では、現在でも、外曲そとくる
輪わ
、内曲輪、堀、土橋などの一部を確
認することができます。
丹生城の築城時期や城主については史料不足から不明瞭
な部分も多いのですが、新田氏の一族である岩松氏を城主と
する説があり、築城時期については、戦国時代初期に関東地
方で山城が出現するようになることから、15 世紀後半から
16 世紀前半をその時期として考えることもできます。
なお、岩松氏が治めた丹生城はその後小幡氏によって支配
され、天正 18(1590)年、廃城になりました。
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(図:山崎 一 1978『群馬県古城塁址の研究 下巻』p.362 より引用)
引用・参考文献
群馬県教育委員会事務局 文化財保護課 編 1988『群馬県の中世城館跡』群馬県
教育委員会
山崎 一 1971『群馬県古城塁址の研究 上巻』群馬県文化事業振興会
山崎 一 1978『群馬県古城塁址の研究 下巻』群馬県文化事業振興会
横尾よ こ お
丹波たんばの
守かみ
の碑ひ
平安時代の皇族である葛原かずわら
親王しんのう
を祖とする平信光のぶみつ
は、信濃
国小県郡(ちいさがたぐん)横尾村の領主となり、横尾姓を
称したと言われています。
横尾信光は、天文年間 (1548 年) に、村上義よし
清きよ
と組んで
武田信玄と上田で戦って戦死しました。信光の子吉泉は幼い
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ため、城を守ることができず、落人となって大桁おおげた
山の南陰に
土着し、原に移ったと言われています。
その後、国峰城主小幡氏に仕え、丹波守を名乗りました。
吉泉は、勤勉で、村人の信望が厚く、広く原野を開いて丹
生村の基礎を築いたと言われています。
碑の傍らには 2 つの古碑があり、1 つの碑には 3 月 17 日
とありますが、吉泉の死は永禄 3 (1561)年 3 月 17 日である
ことから、この碑が吉泉の墓碑であると思われます
八幡宮はちまんぐう
(松尾ま つ お
神社)
原の八幡宮は、ここより東方にあった「松尾神社」が移さ
れたもので、五行信仰により、松尾大明神は「金の神」とし
て祭られたという記述もあります(北甘楽郡史)。祭礼は 10
月 15 日で、昔は獅子舞も振られたとのことです。また、境
内や神社前の道路際には多くの石造物が建てられています。
古柳こやなぎ
観音かんのん
高さ約 1.8m の大きな木像正観音像で、間口五間、奥行四
間の大きなお堂に安置されています。西上州三十四観音巡り
の第七番札所となっており、特に目の病に効験があるといわ
れています。伝承では、かつて聖徳太子御作の観音様が同所
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に祀られていましたが火事でお堂ごと焼けてしまい、悲しん
だ村人がお堂を再建しているところに弘法大師(空海上人)
が通りかかり、観音像を刻んで安置したと言われています。
下丹生しもにゅう
赤子しゃくじ
Ⅰ・Ⅱ遺跡
丹生地区のほ場整備事業に伴い、平成 11 年から平成 19
年度にかけて丹生地区遺跡群の発掘調査が行われました。
下丹生赤子Ⅰ遺跡は 13 年度に約 6,000 ㎡の発掘調査が行
われました。下丹生赤子Ⅰ遺跡では、弥生時代後期(今から
1800 年ほど前)から奈良・平安時代(今から 1300~1100
年ほど前)まで断続的に集落が形成されていました。中でも
平安時代の住居跡からは、人名と思われる 13 文字の墨書ぼくしょ
が
なされた土器が発見されました。
下丹生赤子Ⅱ遺跡は平成 12・13 年度に約 18,000 ㎡の発
掘調査が行われました。下丹生赤子Ⅱ遺跡では、縄文時代前
期(今から 6000 年ほど前)から奈良・平安時代まで断続的
に集落が形成されていました。この遺跡からは、縄文時代後
期(今から 4000 年ほど前)の墓(配はい
石せき
墓ぼ
)が 14 基発見さ
れました。この配石墓群はそれぞれのグループでほぼ規則的
に並んでおり、県内でも貴重な発見となりました。
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下丹生前しもにゅうまえ
畑はた
遺跡
下丹生前畑遺跡は、平成 17 年度に約 11,600 ㎡の発掘調査
が行われました。縄文時代前期から奈良・平安時代までの住
居跡が 167 軒発見されました。
中でも、古墳時代後期(今から 1500~1300 年ほど前)の
住居跡が 104 軒発見され、この時期に大きな集落が形成さ
れました。その後、集落は規模を縮小させながらも、平安時
代前期(今から 1100 年ほど前)頃まで継続していたことが
分かりました。
甘楽か ん ら
用水ようすい
現在の甘楽多野用水土地改良区の前身である甘楽用水耕
地整理組合は、昭和 10 年に発足しました。甘楽幹線水路は、
下仁田頭首工から丹生湖までの 8.74km の間を開渠かいきょ
、隧ずい
道どう
、
管路でつないでいます。この幹線水路は、昭和 10 年 12 月
に起工式を挙げ、戦時中の苦難の時期を乗り越え昭和 27 年
12 月に竣工の運びとなりました。
予想外の難工事となった神成山かんなりやま
隧道工事(区間 777m)は、
昭和 18 年に開始され昭和 23 年 2 月 16 日に貫通しました。
(見学地の南側)
丹生湖より放流された水は、丹生川を経たのち、山下堰か
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ら甘楽用水路として一ノ宮・七日市・富岡・曽木・田篠・福
島・新屋を通り吉井に至っており、総延長は 9028.8mです。
また、神成山隧道の直前から蚊か
沼ぬま
川に放流された水は、上小
林・神農原・田島から高瀬に至っています。
老若男女問わず、滅私奉公の精神でスコップとモッコで延
べ数万人を動員しこの事業は完成したそうです。丹生湖堤防
の下には、竣工碑とともに事業の開始時に力を尽くした、笠
原利平氏の碑が立っています。
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永隣寺えいりんじ
永隣寺の宗派は曹洞宗そうとうしゅう
で、正寿山観音院永隣寺といいま
す。戦国時代の永えい
禄ろく
(1558~1570)年間に、国くに
峰みね
城と宮崎城
の城主でありこの地方を支配していた小幡お ば た
信のぶ
氏うじ
の開基か い き
と伝
えられています。
江戸時代に数度火災にあい、全てが焼失しましたが、その
後再興されました。現在の建物は、明治 30 (1897)年に再建
されたものです。
*奪だつ
衣え
婆ば
像*
三途さ ん ず
の川を渡ってくる人々の衣服を奪い取るという老鬼
女を表した珍しい像です。閻魔え ん ま
大王だいおう
などと同じく、中国の
道 教どうきょう
の影響を受けた民間信仰によるものです。
*木喰仏もくじきぶつ
*(富岡市指定重要文化財)
江戸時代の僧侶木喰もくじき
五行ごぎょう
明 満みょうまん
が制作した仏像です。木喰
は、享保きょうほ
3 (1718)年に現在の山梨県に生まれ、 56 歳の時千
体の仏像を彫刻する大願を志し、27 年の歳月をかけ関東~
北海道~九州と巡行満願し、 93 歳で没しました。
県内へは 6 回足を運んでいますが、現存している木喰仏は
渋川市子持町こもちまち
双林寺そうりんじ
と永隣寺だけの二体であり、貴重なもの
といえます。共に享和きょうわ
2 (1802)年頃の制作といわれていま
す。
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木喰仏は、欅けやき
を材とした一木彫です。正面から側面はふ
くらみを持っていますが、裏面は平らに仕上げられています。
昔より薬師様として信仰されてきましたが、頭から顔、手
などの部分が腐食ふしょく
しており、仏の種類は分かりません。
丹 生 神 社にゅう(たんしょう)じんじゃ
祭神は丹生津比売命にゅうつひめのみこと
。『日本三代さんだい
実録じつろく
』( 901 年)、
『上 野 国 神名 帳こうずけのくにじんみょうちょう
』(1298 年)などに名前がみられる由緒
ある神社です。慶応 3(1867)年に火災にあって古い記録な
どは焼失してしまいました。
古来、殖産招福の神として崇められている古社で、春秋の
祭りでは、地元保存会により太々神楽や獅子舞が奉納されま
す。
*万葉歌碑*
境内に建つ高さ 2m の大きな歌碑で、奈良時代に編さんさ
れた『万葉集』に東 歌あずまうた
として掲載されている次の歌が、万
葉仮名で刻まれています。
真金ま か ね
吹く 丹生の赤土ま そ ほ
の 色いろ
に出て
言わなくのみぞ 吾あ
が恋こ
ふらくは
古代の人のおおらかな恋の歌です。歌碑は、昭和 11 年に
北甘楽郡万葉歌碑建設会が建立しました。
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<碑文>
[表]
麻可禰布久 爾布能麻會保乃 伊呂爾低氏
伊波奈久能未會 安我古布良久波
萬集巻十四所載歌 靖國神社宮司正五位賀茂縣主百樹書
[裏] 昭和九年十一月
聖賀奉迎ノタメ建立
昭和十一年十一月十七日
北甘楽郡萬葉歌碑建設會
富岡町
横尾賢喜知刻
*丹生の地名*
「丹生」という地名は、平安時代の中頃に作られた
「和名類聚抄わみょうるいじゅしょう
」という本に、甘楽郡内の郷ごう
の名前として登
場しています。万葉集の東歌の中の「丹生」もこの地と言わ
れており、奈良時代には既にこの地に「丹生」というムラが
あったことが分かります。
全国には他にも「丹生」や「入」という地名が数多くあり
ます。この語源については、「朱しゅ
砂しゃ
」という赤い顔料の原料
が産出した場所を表すといわれています。
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*** メ モ ***