ヨーナスと「誕生性」 -...

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1 GACCOH「ハンナ・アーレント×ハンス・ヨーナス」 2016/01/31 大阪大学大学院 日本学術振興会特別研究員 戸谷洋志 ヨーナスと「誕生性」 はじめに 本日はお集まりいただきありがとうございます。私の側からは、ドイツ出身のユダヤ人 哲学者ハンス・ヨーナス(1903-1993)とアーレントとの関係、および「誕生性」という 概念が彼の思想に与えた影響についてお話したいと思います。 ヨーナスについて簡単に紹介します。彼はマルティン・ハイデガーの弟子の一人であ り、アーレント、ヘルベルト・マルクーゼ、カール・レーヴィットといった哲学者と並ん で「ハイデガーの子供たち」の一人として知られています。他方で、黎明期にあった応用 倫理学の論客としても活躍し、主著『責任という原理』(1979年)は生命倫理・環境倫理 の領野において今日でも破格の影響力をもっています。ヨーナスの哲学の独創性は、科学 技術文明の倫理という現代的で実際的なテーマを、ハイデガーから批判的に継承した大陸 哲学的なアプローチによって追究していった点にあるといえるでしょう。 アーレントとヨーナスは、よく似た出自をもちながらも、基本的には互いに違う道を進 んでいきました。しかし、そうであるにも関わらず、ヨーナスはアーレントの「誕生性」 という概念を高く評価し、自らの思想のなかに受容していきました。この小論では、まず アーレントとヨーナスの関係を確認し、その後に主として『責任という原理』に注目しな がら、ヨーナスの哲学における「誕生性」を検討していきましょう。

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GACCOH「ハンナ・アーレント×ハンス・ヨーナス」

2016/01/31

大阪大学大学院

日本学術振興会特別研究員

戸谷洋志

ヨーナスと「誕生性」

はじめに

本日はお集まりいただきありがとうございます。私の側からは、ドイツ出身のユダヤ人

哲学者ハンス・ヨーナス(1903-1993)とアーレントとの関係、および「誕生性」という

概念が彼の思想に与えた影響についてお話したいと思います。

ヨーナスについて簡単に紹介します。彼はマルティン・ハイデガーの弟子の一人であ

り、アーレント、ヘルベルト・マルクーゼ、カール・レーヴィットといった哲学者と並ん

で「ハイデガーの子供たち」の一人として知られています。他方で、黎明期にあった応用

倫理学の論客としても活躍し、主著『責任という原理』(1979 年)は生命倫理・環境倫理

の領野において今日でも破格の影響力をもっています。ヨーナスの哲学の独創性は、科学

技術文明の倫理という現代的で実際的なテーマを、ハイデガーから批判的に継承した大陸

哲学的なアプローチによって追究していった点にあるといえるでしょう。

アーレントとヨーナスは、よく似た出自をもちながらも、基本的には互いに違う道を進

んでいきました。しかし、そうであるにも関わらず、ヨーナスはアーレントの「誕生性」

という概念を高く評価し、自らの思想のなかに受容していきました。この小論では、まず

アーレントとヨーナスの関係を確認し、その後に主として『責任という原理』に注目しな

がら、ヨーナスの哲学における「誕生性」を検討していきましょう。

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アーレントとヨーナス

最初にアーレントとヨーナスの関係を簡単に描いてみたいと思います。まず、二人の関

係を考えるときに留保しなければならないことがあります。それは、二人の関係を証言す

る資料がヨーナスによって書かれたもの以外にほとんど残されていない、ということで

す。従って、二人の関係は常にヨーナスの側から語られることになり、その証言の中立

性・客観性が必ずしも保証されているとはいえません。ただし、ヨーナスがアーレントに

ついて語り始めるのは彼女が死去して以降のことであり、存命中に互いの関係についてほ

とんど何も語っていないという点では、二人は共通しています。

ヨーナスはアーレントが死去した 1975 年、彼女の葬儀で弔辞を務めています。ヨーナ

スはそこで自分とアーレントとの関係を次のように振り返っています。

私と彼女は 50 年以上の親友だった。彼女が私の前に初めて現れたのは 1924 年のこと

だ。そのとき彼女は 18 歳で、哲学科の第 1 学期だった。私たちの周りには、マルテ

ィン・ハイデガーの磁力に引き寄せられ、ドイツ中からマールブルグ大学に集まって

来た若者がいた。1

二人が最初に知り合ったのは、ルドルフ・ブルトマンが開講していた演習でした。当時

の受講者のなかでは二人は唯一のユダヤ人であり、それがきっかけとなって二人は仲良く

なりました。二人の友情を決定的なものにしたのは、アーレントがハイデガーとの不倫関

係を告白したことです。ヨーナスは、ある日風邪を引いたアーレントを見舞いに行った

際、不意に彼女からその告白を受けました。当時の心境を彼は次のように綴っています。

私は彼女が好きだった。そしてハイデガーがいなかったら、愛の関係が展開したかも

しれないことに疑いはなかった。ただし、私が後になってからそうした展開を挫かれ

たが熱望されていた可能性とみなしたわけではない。むしろ、そういったことを考え

ること自体がまったくなかったのである。もちろん私たちは、お互いに挨拶したり別

れたりするときには、友情において抱き合ったりキスしたりする。しかし、私はこう

した課せられた限界を超えたいという誘惑すらもまったく感じることがなかった。私

たちの友情が壊れるのを防ぐために、彼女は、そうでなければ語らなかったであろう

ことを私に語らざるをえなかった。私は、それによって彼女の完全に信頼できる相手

1 Christian Wiese. The Life and Thought of Hans Jonas. Jewish Dimensions., Brandesi

University Press, 2007, 179.

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となった。そこから生涯にわたる友情が成立したのである。2

ヨーナスに拠れば、特に学生時代のアーレントは不安定なところがあり、彼が信頼ので

きる相談役として彼女を守らなければならなりませんでした(繰り返しになりますが、こ

の証言が必ずしも中立的であるとは限りません)。第二次世界大戦によって、ヨーナスは

パレスチナへ、アーレントはフランスへと亡命し、二人の関係は一時的に引き裂かれま

す。しかし、後に二人はニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチ校で再会し、旧交

を温めることになりました。この頃の二人の関係は 2013 年に公開された映画『ハンナ・

アーレント』でも描かれています。アーレントの『エルサレムのアイヒマン』(1963 年)

をめぐって二人は一時的に意見を違わせますが、ほどなくして和解しています。

個人的な交際から離れて、哲学の内容に注目していきましょう。アーレントとヨーナスは

ハイデガーから大きな影響を受けているという点では共通していますが、原則的にはまっ

たく違った哲学を展開しています。アーレントにとっての主題は政治でしたが、ヨーナスに

とってのそれは倫理でした。しかし、そうした関心の隔たりにも関わらず、ヨーナスはアー

レントの「誕生性」という概念を非常に高く評価しています。彼女の死後に発表された論文

のなかで、ヨーナスは次のように述べています。

「誕生性」という概念によって、ハンナ・アーレントは新しい言葉を作りだしただけで

なく、人間をめぐる哲学的な学説に新しいカテゴリーを導入した。 3

アーレントが、可死性ではなく「誕生性」こそ、形而上学的思考と区別される政治的思

考の中心的な範疇であろう、と断言するとき、彼女は極めて意識的に革新的なことを言

っているのである。4

ヨーナスがアーレントの哲学的な功績としてもっとも重視しているのは紛れもなく「誕

生性」という概念の発明でした。そして、彼はこの概念を自らの思想のなかに受容していき

ます。次に、ヨーナスの『責任という原理』でこの概念がどのように用いられ、どのような

機能を果たしているかを確認していきましょう。

2 Hans Jonas. Erinnerungen, Insel, 2003, S. 116.

3 Hans Jonas. “Acting, Knowing, Thinking: Gleanings from Hannah Arendt's Philosophical

Work”, Social Research, Vol. 44, No. 1, Hannah Arendt (SPRING 1977), pp. 25-43, p.30.

4 ibid., p.30.

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ヨーナスの哲学

ヨーナスは、主著『責任という原理』のなかで、科学技術文明に対応する新しい倫理の構

築を試みました。ヨーナスが中心的な概念として注目するの「責任 Verantwortung」です。

まず、彼の思想の大きな枠組みを概観していきます。大まかに表現すれば、ヨーナスはミク

ロな責任の分析からマクロな責任を演繹する仕方で、人類の存続への責任を基礎づけてい

きます。

そもそも責任とは何でしょうか。一般的にそれは、ある者が起こした行為の結果に対して、

事前に交わされた契約や社会的通念に従って、賠償や説明によって応答する義務であると

考えられています。しかし、ヨーナスはこれとまったく違う責任のあり方を指摘します。そ

れは、傷つきやすい他者を無条件に保護する責任です。ヨーナスに拠れば、「私」の目の前

に傷ついた他者が存在していて、その他者を助けることができるのが「私」だけであり、「私」

が放置すればその他者に生命の危機が訪れると判断されるとき、「私」はその他者に対して

自分が責任を負っていることを自覚します。その原型として挙げられるのは「乳飲み子」に

対する責任です。ヨーナスはこの責任の構造を次のように分析していきます。

責任という概念は二つの構成契機を含まなければなりません。すなわち、責任の“主体”と、

責任の“対象”です。前者は責任を引き受ける者であり、後者は責任を引き受けられる者です。

上述のような無条件の保護の責任において、両者はそれぞれ次のように特色づけられます。

責任の主体は対象よりも強く、対象を脅かすことも保護することもできる力をもっていま

す。これに対して、対象は弱く、主体による保護がなければ生命の危機に瀕している存在で

す。従って、両者は非対称的な力関係に置かれています。ヨーナスに拠れば、責任の対象に

なりえる存在者とは傷つきやすい生命です。私たちはあくまでも他者の傷つきやすさに対

して責任を自覚します。そうである以上、対象が人間に限定される必要はありません。従っ

て、ヨーナスはすべての生物種に対して責任の対象としての資格を認めています。

同時に、この責任はコミュニケーションを通じた約束によって喚起されるものではあり

ません。何故なら、責任の主体と責任の対象とは非対称的な関係にあるからです。目の前に

瀕死の他者がいて、この他者を保護できるのが「私」だけしかいないとき、「私」はこの他

者から依頼されることがなかったとしても、この他者に何かをしなければならないと感じ

ます。むしろ、この種類の責任の根拠となるのは生命の傷つきやすさそのものです。ヨーナ

スは自身の独創的な自然哲学に基づきながら、生命の存在はそれ自体で善きものであると

主張します。ヨーナスの責任概念は、生命の存在によって基礎づけられた存在論的な責任で

あり、この点で法的な意味での責任概念とは大きくことなっています。

ただし、こうした責任が喚起されるためには、私たちが生命を“生命として”認識している

必要があります。例えば、目の前に傷ついた猫がいて、「私」が助けなければこの猫が死ん

でしまうという状況においても、「私」がこの猫を生命として認識しなければ、たとえばた

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だの人形であると捉えれば、「私」には責任が喚起されません。つまり、「私」が責任を自覚

するためには、生命と非生命とを識別し、目の前の存在者を生命として承認する特殊な認識

能力が必要になります。ヨーナスはこの認識能力を「人間の洞察する自由において」5と呼

んでいます。

「洞察する自由」は責任の主体にとって不可欠の能力です。それが“自由”の名を冠するの

は、他者に対する責任が「私」に無条件の保護を要求するのであり、つまり、私的利害を超

えることを要求するからです。そうした他者を保護することは、「私」にとって何のメリッ

トでもないし、むしろ時間的にも経済的にも損害しかもたらさないかも知れません。そうで

あるにも関わらず責任を引き受けるということは、私的利害から自由になって他者の傷つ

きやすさを受け入れる、ということを意味しています。逆に言えば、目の前に傷ついた他者

がいるのにも関わらず、これを生命として承認せず、無生物と見なして見捨てたり殺害した

りすることは、私的利害に囚われたままの不自由な状態である、といえるでしょう。

「洞察する自由」をもつことは責任の主体にとって不可欠の条件です。そして、ヨーナス

に拠れば、この自由をもつ存在者は人間だけに限定されます。そうである以上、責任の主体

になりうる存在者は人間に限定されます。言い換えるなら、自由という「責任の能力」6を

もつという点で、ヨーナスは人間と他の動物を区別しているのです。あえてこう表現するこ

ともできるでしょう。ヨーナスの枠組みに従う限り、責任を引き受けるということは、私た

ちの動物性を超えるということを意味しています。

“責任の主体は人間に限定される”。ここから、ヨーナスは次のように論証を展開していき

ます。前述のように、あらゆる責任には主体と対象とが必要です。傷ついた生命が存在して

いても、その生命と出会う人間がいなければ、この世界に責任は発生しません。そうである

以上、人間が責任の主体として存在することは、あらゆる責任の可能性の条件として機能す

ることになります。しかし、今日の科学技術文明がもたらしうる災厄を顧みれば明らかなよ

うに、この世界に人間が存在し続けるということは決して保証されているとはいえず、むし

ろ絶え間なく危機に脅かされています。そのためヨーナスは、人類の存続への責任こそがも

っとも優先されるべき「存在論的責任」7であると主張します。ヨーナスに拠れば、「第一の

責任は、責任が存在する可能性への責任である」8(PV 186)、ということです。そしてこの

責任は未来の世代への責任という形で果たされるものです。

以上のようにして、ヨーナスは科学技術文明における新しい倫理として、未来の世代への

5 Hans Jonas. Das Prinzip Verantwortung. Versuch einer Ethik für die technologische

Zivilisation, Insel, 1979, S. 157

6 Hans Jonas. Philosophische Untersuchungen und metaphysische Vermutungen, Insel, 1992,

S. 137

7 Hans Jonas. Das Prinzip Verantwortung. Versuch einer Ethik für die technologische

Zivilisation, Insel, 1979, S. 91

8 ibid., S. 186

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責任を基礎づけます。この基礎づけの根幹を支えているのは、傷つきやすい生命に対して

「私」が責任を抱く、という責任の事実性に他なりません。

『責任という原理』における「誕生性」

以上が『責任という原理』を中心的なテーゼです。これを踏まえた上で、次に、同書のな

かでアーレントの誕生性という概念が援用されている場面を確認してみましょう。

科学技術文明に対して抑制的な倫理の必要性を強調するヨーナスにとって、当時の最大

の論敵はマルクス主義であり、特にその中でもエルンスト・ブロッホでした。ヨーナスの解

釈に従えば、ブロッホは無階級社会を実現するためには工業化を推し進める必要があり、科

学技術文明こそが本来の人間のあり方を可能にするものである、と主張していました。科学

技術文明の無限の進歩を正当化するこうした発想の根底にあるのは、現在の人類はまだ本

来あるべき姿ではなく、実現されるべき人間像は未来にあり、現在はその未来へと至る前史

に過ぎない、という人間観です。ヨーナスはこうした人間観を批判し、その論拠としてアー

レントの誕生性という概念を援用しています。

〔人間がまだ本来の人間ではない、という人間観は〕さらにまた、特にハンナ・アーレ

ントによって非常に印象深く強調された、次のような人間の行為の固有性を意味する

ものではありえない。その固有性とは、人間の行為が、その度ごとに、絶え間なく、繰

り返し、新しいものを、まだここになかったものを、期待されていないものを、そして

ひとを驚かせるものを、言い換えるなら原理的に予測不能なものをこの世界にもたら

す、ということである。この固有性はまさに「期待」を挫折させることを意味するので

あって、周知の「目標」にも、秘匿された「目標」にも関わりがなく、私たちがよく知

っているように、「望まれていること」と必然的に関係するものでもありえない。この

固有性は、自由それ自体から帰結する以外に、「誕生性」という根本的な事実から端的

に帰結する。誕生性は可死性の対極にあり、この世界に絶え間なくより新しい個人が、

つまり新たに始まっていく個人が登場するという事実でもある。この事実は、ユートピ

アが誕生を抹消しない限りは、たとえユートピアが達成されたとしても存続するし、予

測できない仕方で開かれていることによって、またこの事実が未完成であり続けること

によって保証されているのでいる。9

ここにはヨーナスが誕生性という概念をどのように理解しているかが端的に現われてい

ます。ヨーナスの理解に従えば、誕生性が意味しているのは、人間が絶えず新しいものとし

9 ibid., S. 378

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てこの世界に誕生するという根本事実です。その新しさが予測不能のものである以上、人間

の誕生を既存の目標や期待へと組み入れることは原理的に不可能です。そうした理解に従

う限り、未来にあるべき人間像を目標として想定し、その目標へ向けて社会を進歩させよう

とする発想は、人間の誕生性を看過した思考であると捉えられざるをえません。ヨーナスは

そうした仕方でブロッホを批判しています。

同時に、ヨーナスの理解において特徴的なのは、誕生性を可死性の背面として、その二つ

をいわば車輪の両輪として捉えていることです。ヨーナスは別の箇所で次のように述べて

います。

死ななければならない、ということは、生まれてくるということと結びついている。死

すべきことは、ハンナ・アーレントの用語を使えば、「誕生性」という絶えざる源泉の

裏側にすぎない。10

こうした理解に基づいて、ヨーナスは不死を実現する技術をも批判しています。もし科学

技術文明において不死を実現するテクノロジーが完成し、これが広く社会に流通すること

になれば、自然の寿命によって人口が減少することはなくなります。それによって地球上の

総人口は現在の比ではない速度で爆発的に増加することが予測されます。これに対して地

球上の資源は有限であるため、ある時点で人類は新しい人類の誕生を廃止しなければなら

なくなります。しかしこれは人類にとって大きな損害である、とヨーナスは主張します。何

故なら、誕生は「世界を初めて新しい眼で見るという類例のない特権」をもたらす唯一のも

のであり、それは「人類にとっての希望であり、退屈な日常茶飯事に沈みこむことから人類

を保護する好機、人類が生命の自発性を守る好機」であって、そして「こうした『たえずま

た始まる』ということは、『たえずまた終わる』ことを代償としてのみ得られる」11(48-49)

からです。

このように、『責任という原理』でヨーナスが誕生性概念を援用するのは、主として敵対

陣営であるところのマルクス主義的ユートピア思想への批判を試みる場面においてです。

ヨーナスは明らかに誕生性概念を自らの立場を補強するものとして用いています。ただし、

自らの責任原理の思想のなかで誕生性概念がどのように位置づけられるのか、他の概念と

どのように連関するのかについて、ヨーナスはほとんど何も語っていません。では、そもそ

も責任原理と誕生性概念は整合するのでしょうか?整合するとすれば誕生性概念はどのよ

うにヨーナスの体系のうちに組み込まれ、またその過程でどのような内容上の変更を被り、

どのように責任原理の全体像に影響を与えるのでしょうか?

10 ibid., S. 49

11 ibid., S. 48-49

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「誕生性」はヨーナスの哲学と整合するか?

まず、誕生性概念が責任原理と整合すると仮定します。その場合に考慮すべきことは、両

者がともにマルクス主義に対して批判的であり、また人間を他の動物から区別される存在

として位置づけているということです。

前述の通り、ヨーナスは科学技術文明を正当化する論理が人間の誕生性を否定するとし

て批判しています。それは、進歩の先に想定されている人間像がただ一つであり、人類全体

がその人間像へ向けて画一化されてしまうからです。そうした画一化が浸透すれば、そこに

は匿名的・官僚主義的なテクノクラシーが蔓延せざるをえません。そうした可能性を描いた

作品として、ヨーナスはオルダス・ハクスリーの『素晴らしき世界』(1932 年)を挙げてい

ます。ヨーナスに拠れば、そこに描かれているテクノクラシーの世界においては、「不幸を

感じる能力、眺める能力、別のものを求める能力が失われている」12。これは言い換えるな

ら、誰も「洞察する自由」をもたない世界です。すなわち、目の前に傷ついた者がいたとし

ても、誰も責任を感じることのない世界です。

もしこうした関連付けが可能であれば、かなりの力技になりますが、誕生性を「洞察する

自由」と結びつけて解釈することができるかも知れません。そうした解釈に従えば次のよう

に述べることができるでしょう。私たちは常にある歴史的・社会的文脈のなかで生まれ、そ

こで固有の価値観に基づいた教育を受けることになります。それによって私たちにとって

の私的利害が形成されていきます。例えば、奴隷制度が当然とされる社会に生まれ、そこで

教育を受ければ、奴隷を使った方が有利に生きられるはずだし、奴隷制度に疑いを挟むのは

損害しかもたらさないはずです。ヨーナスの哲学に従えば、傷ついた奴隷を目の前にして、

「私」がその奴隷を守らなければならないと責任を感じることが人間にはありえます。しか

し、そうした責任の喚起は「私」にとってまったくの損害でしかありません。そうであるに

も関わらず奴隷を守る責任を抱くということは、「私」が私的利害から自由に奴隷をみると

いうことであり、つまり「洞察する自由」を発揮しているということを示しています。しか

し、こうしたものの見方をすることは、奴隷制度を当然とする社会にとってはまったく予想

外のものと言わざるをえません。言い換えるなら、傷つきやすい生命に対して責任を抱く、

ということは既存の社会の目標や期待を挫折させうるのであり、その意味でこの世界に新

しいものの見方をもたらします。そうである以上、「洞察する自由」は予想外の人間の新し

い誕生と結びついていることになります。そう考えることができるなら、「洞察する自由」

は誕生性と密接に連関している、と解釈することが可能です。もし責任原理と誕生性概念が

内的に結びつくことがあるとすれば、こうした解釈以外には考えられません。

12 Hans Jonas, Erkenntnis und Verantwortung. Gespräch mit Ingo Hermann in der Reihe

»Zeugen des Jahrhunderts«, Lamuv, 1991, S.130

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しかし、こうした解釈における誕生性概念は、アーレントが提起したオリジナルな意味と

大きく異なっています。第一に、アーレントが誕生性と関連付けて考えていたのは主として

活動、すなわち言論を中心とした政治的な活動です。第二に、誕生性という概念によって示

唆されているのは、単に生物として産まれるということではなく、活動を通じて自らを語り、

「第二の誕生」を実現することの可能性です。この二つの観点はヨーナスの責任原理からは

まったく欠落していると言わざるを得ません。

こうした立場の違いを極めて明確に示すエピソードがあります。ヨーナスが『責任という

原理』を公刊する以前に、彼はアーレントにその草稿を送り、これに関して対面して議論を

しています。そのときのやり取りを彼は次のように書き残しています。

彼女はいろいろ言いたいことがあった。そうしたことは、政治哲学者としての彼女の立

場からすればしごくもっともなことであった。人間の根本的責任が、生物学的に自然秩

序により基礎づけられうるというようなことは、彼女はおそらく完全に拒否するとこ

ろであった。彼女の見方からすると、それは、自由によって打ち立てられる関係であり、

これは国家的あるいは政治的な共同生活から生まれてくるのであって、家族から生ま

れ出るものではなかった。彼女はアリストテレスを引き合いに出した。アリストテレス

によれば、家族集団という私的な領域とポリス共同体という公的な領域とは明確に区

別された。これに固執する彼女は、公共の福祉への責任のようなものは本質的に人為的

であり非自然であって、西欧的な伝統によると「社会契約」に基づいているという意見

であった。現代の技術が世界規模の危険に至るまでに増大し、われわれ人間は未来に対

して責任があるという結論に至った点は、私たちの意見は一致した。13

ここに示される通り、ヨーナスの責任概念はアーレントにとっては「家族集団という私的

な領域」に属するものとして解釈されたようです。そして、もし、この「私的な領域」が私

的利害に囚われた領域であるとすれば、人間の自由のあり方に関する両者の見解はまった

く相反することになるでしょう。すなわち、ヨーナスにとっては生命の傷つきやすさに対し

て責任を引き受けることは人間の自由の証ですが、アーレントにとってそれは不自由の証

でしかなかったのです。

13 Hans Jonas. Erinnerungen, Insel, 2003, S. 324-325.

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終わりに

「誕生性」をめぐって二人がどんな対話をしたのかは、今となってはもう調べることがで

きません。また、お互いの見解の違いを自覚しながらも、ヨーナスがなぜ『責任という原理』

で誕生性概念を援用したのか、その真意についても、憶測の域を超えることはありません。

しかし、少なくとも本稿は結論として次のことを主張したいと思います。すなわち、ヨーナ

スの責任原理は、第一にマルクス主義に対して批判的であり、第二に人間を私的利害から自

由な存在として位置づけていたために、アーレントの誕生性概念を受容しうる条件が揃っ

ており、少なくとも共感的に同概念を援用している。しかし、もし彼が責任原理と誕生性概

念とを整合しうるものとして解釈していたとすれば、その解釈における誕生性概念はアー

レントの用法から大きく異なったものであり、そこからは政治的含意が欠落している、従っ

てその用法はアーレント理解としては不正確なものである、ということです。