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07 96 30 今はなきスバルの煙突(秋山静子氏の 画集「ふるさとを描く大宮」より) 超高層のマンションは枚挙に暇がない が、地域のランドマークになりうるのか 中山道の半里塚でもあった与野駅前の 大ケヤキは、倒れる危険があると2010 年5月に伐採された

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市民が選んださいたま百景

ランドマークの見える風景

07

96

ランドマークとは、地理的空間

における目印となる景物をいう。

高層建築物、大きな工作物、そし

て巨木などがランドマークになりう

る。岩手山や大文字山のような山

もそうだが、さいたま市にはない。

ランドマークは、どこかに行こう

とする時に自分のいる位置や方角

を確認する手段となるばかりでな

く、地域のアイデンティティ、地域

への愛着を形づくる。ただ、目立

つだけでいいものでもない。

建物でいえば、昔はお寺の堂宇

が、ヨーロッパの教会ほどではない

にしろ、ランドマークだったのでは

ないか。埼玉県庁も高台にあって、

出来た頃は立派なランドマークだ

ったろう。今は、超高層オフィス

ビルやマンションが目立つが、ただ

高いだけの建物がランドマークでは

淋しい。

とはいえ、現さいたま市の代表

的ランドマークは、さいたま新都心

の高層ビル群。市域の広い範囲か

ら見えるし、集合形としての独自

性も高い。

また、芸術劇場の塔はさいたま

市の文化を象徴するランドマーク、

埼玉スタジアムはサッカーのまち・

さいたまのシンボルだ。

現代都市のインフラストラクチ

ャーの担う工作物、ガスタンク、電

波塔、浄水場のタンク等は、市民

のランドマークとして、ただ高いだ

けの私的な建築物よりも相応しい

のではないだろうか。今はなき富

士重工業、スバルの煙突は、高層

建築がない頃には非常に目立つラ

ンドマークだったが、同時に、戦時

中ここ北部副都心(北区宮原町)

が中島飛行機の工場であったこと

の歴史的証人でもあった。

○○の大ケヤキ、○○の大カヤ

などと呼ばれる巨木が各地にある。

現在、市内で天然記念物に指定さ

れている巨木は約30本。ケヤキが

最も多く、次いでカヤ、イチョウな

ど。これらはすべて地域のランド

マークであっただろう。しかし巨木

と言っても高さはせいぜい三十メー

トル。今は建築物に埋もれてしま

い、足元まで近づかなければ見え

ない場合もある。また、老化のた

め伐採されたものも少なくない。

与野の大カヤ、山崎の大ケヤキ

はまだランドマークとなっている。

これらの文字通り生きたランドマ

ークを大事にしていきたい。

ランドマークはまちのシンボル

ランドマークとなっている

建築物

今はなきスバルの煙突(秋山静子氏の画集「ふるさとを描く大宮」より)

超高層のマンションは枚挙に暇がないが、地域のランドマークになりうるのか

都市を支える巨大工作物

巨木は昔からのランドマーク

中山道の半里塚でもあった与野駅前の大ケヤキは、倒れる危険があると2010年5月に伐採された

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97 第Ⅱ章 さいたま百景 

幹線道路

さいたま市の区域

百景の位置応募風景の位置

鉄道河川

66

67

68

6970

71 72

73

大宮駅

浦和駅

岩槻駅

東北自動車道

高速埼玉大宮線

見沼田圃に浮かぶ新都心‥‥‥‥98

綾瀬川の川面に抱かれる埼玉スタジアム‥‥‥‥100

与野本町駅から望む芸術劇場と富士山‥‥‥‥102

電波塔、平野原送信所‥‥‥‥103

台地際のランドマーク、

東京瓦斯浦和整圧所‥‥‥‥104

さいたま市民の生命を守る大久保浄水場‥‥‥‥105

与野の大カヤとダルマ市‥‥‥‥106

第二産業道路の巨大な道しるべ、

山崎の大ケヤキ‥‥‥‥‥‥‥‥107

さいたま百景

66

さいたま百景

67

さいたま百景

68

さいたま百景

69

さいたま百景

70

さいたま百景

71

さいたま百景

72

さいたま百景

73

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ランドマークの見える風景

07

98

●代表性 ●時代性 ●意外性 ●背景性

さいたま百景

66

見沼区上山口新田

見沼田圃に浮かぶ新都心

見沼田圃の広がりと芝川、そこ

を走り抜ける高速道路とその先の

新都心。農地から街そのものを遠

望するという視点も面白く、地域

の骨格をなす要素が織りなす、ダ

イナミックでさいたま市らしい風

1km2.5km

5km7.5km

10km

さいたま市の区域

さいたま新都心を望む位置

さいたま新都心

景である。

巨大な街のシンボリックな容貌

を絵のように実感できるこの幸運、

街の中心から遠くないところに広

大な緑地が残されていることの恵

みを大切にしたい。

新都心を望む位置の図:さいたま百景応募写真中、新都心が写っている地点の分布。河川沿いや田畑が広がる農地からの眺望が多く集まっている。

(写真右上から時計回りに)①大宮駅から②第2公園調節池から③桜区の工業地帯から④島根の農地から

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ランドマークの見える風景

07

99 第Ⅱ章 さいたま百景 

見沼代用水西縁

第二産業道路

山中橋

さいたま見沼 出入口

芝 川

高速埼玉新都心線

さいたま幸手線

北浦和駅東口からバス、「山中橋」下車、徒歩5分

首都高速埼玉新都心線北側、円蔵院周辺の宅地化された斜面林

見沼田圃と新都心の構図

水田の広がる向こうに新都心の

ビル群が浮かぶ。今は新都心の足

元を高速道路が横切るが、それで

も見る人にはビル群が目前に迫っ

てくるように感じられる。田植え

が済んだころ、苗の列は見る方向

によって濃淡を変え、新都心が水

面に映る。秋の夕暮れには金色の

稲穂に富士山も浮かぶ。

現在、見沼田圃で一番多いのは

畑地。水田は年々減っているが、

市民らが昔ながらの風景を守ろう

と懸命に保全活動を行っている。

宅地化された斜面林

首都高速埼玉新都心線の北側の

水田のあたりでは、芝川低地の谷

戸筋に丁度、新都心のビル群をの

ぞむ。見沼田圃の昔の風景の特徴

は、谷戸が十手の形に入り組んで、

その縁が斜面林に覆われた広大な

田んぼのビスタがつながっていた

ことであろう。

このあたりの斜面林は東縁沿い

に残る斜面林とは対照的にすっか

り宅地化されて、戸建て住宅が田

んぼから隆起したように敷き詰め

られている。これもまた見沼田圃

ならではの風景のひとつである。

さいたま市の代表的な

ランドマーク

地域のシンボルは時代とともに

移り変わる。さいたまの市街地で

は歴史的な街道や寺社、近代化さ

れた工場などの産業施設、鉄道施

設とその周辺の商業施設など、ど

ちらかと言えば精神的な意味、あ

るいは日常的な利用を通じて人々

の心に残っているものが多かった。

これらはその意味を失ってはい

ないものの、視覚的には市街化に

伴う均質な高層化に埋没して精彩

を欠いているように見える。

そのような中で新都心のビル群

は出現し、それは市内の至る所か

ら見える。これは合併して意味が

変わってしまった「我が街」を理解

する上で、一番わかりやすい拠り

所かもしれない。

今インターネットで市民が紹介

する四季折々の風景写真にこのマ

ークがよく写っている。一人一人

が大切にしている日常風景の背後

にそのマークを写し込むことで、

市民はお互いに我が街を共有でき

るようになったようだ。

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ランドマークの見える風景

07

100

●代表性 ●時代性 ●意外性 ●背景性

さいたま百景

67

岩槻区笹久保新田

綾瀬川の川面に抱かれる

埼玉スタジアム

東北自動車道・国道122号

埼玉スタジアム2002

笹久保新田

日光御成道

新方須賀さい

たま線

綾 瀬 川

綾瀬川は緑区高畑と岩槻区笹久

保新田との境界線で大きく蛇行し

て流れる。その馬蹄形に輝く川面

に抱かれるようにして、両翼を広

げた巨大な埼玉スタジアムが出現

する。

スタジアムの裏側の笹久保新田

は静かな農村地帯だが、サッカー

の開催となれば、地鳴りのような

サポーターの歓声が辺りに響きわ

たる。

埼玉高速鉄道浦和美園駅下車、徒歩15分東武野田線岩槻駅からバス、「笹久保新田」下車、徒歩5分

クワイ畑の向こうに建設中の埼玉スタジアム(続・緑区の今昔より)

埼玉高速鉄道の跨線橋より埼玉スタジアムを望む

都市公園「埼玉スタジアム二〇

〇二公園」の誕生

綾瀬川流域の幾度かの氾濫に耐

えて、先人は干拓と新田開発をし

てきた。その高畑、中野田地域の

低地に近代的工法で土地改良を施

し、三十 の規模で都市公園「埼

玉スタジアム二〇〇二公園」が誕

生した。

着工は一九九八年五月、二〇〇

一年十月のサッカースタジアム完

成まで三十九ヵ月。建設費は三百

五十六億円(用地等を含む公園整

備総額七百六十六億円)が投じら

れた。埼玉スタジアム東南側には、

綾瀬川の調整池を構築、さらに周

辺の土地区画整理事業、街区外整

地工事などが進みかつて盛んだっ

た田んぼのクワイ栽培は消滅した。

十年二十年先には、台地斜面林

や低地田畑の自然は忘れ去られ、

現代的で乾いた人工建造物の景観

になるのであろうか。都市公園の

緑化促進と街路広告も静かで落ち

着いた住宅街区、市民の笑顔ある

街並み景観の創造を望みたい。

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ランドマークの見える風景

07

101 第Ⅱ章 さいたま百景 

土地区画整理事業の区域

浦和美園駅

埼玉高速鉄道

土地区画整理事業の区域

埼玉スタジアム

東北自動車道

東川口駅

武州大門

武州野田

笹久保

浮谷

武蔵野線

武州鉄道

埼玉スタジアム

東北自動車道

浦和美園駅

東川口駅

武州大門

武州野田

笹久保

浮谷

武蔵野線

埼玉高速鉄道

武州鉄道

埼玉スタジアム周辺の都市開発:旧浦和・岩槻境の綾瀬川低地で、埼玉高速鉄道と埼玉スタジアムの整備を中心とした大規模開発が行われている。かつての武州鉄道ルートの上を東北自動車道が通っている。(地図で見るさいたま市の変遷」・昭和4年地形図の上に作成)

スタジアム建設の基本理念

建設の基本理念は、①二十一世

紀を担う青少年に夢と希望を与え

る、②サッカー王国・埼玉をサッ

カーのメッカにする、③防災支援

設備とする、の三つ。

収容人員六三、七〇〇人はサッ

カー専用スタジアムとしてはアジ

ア最大級である。二〇〇二年日韓

共催ワールドカップでは、日本代

表のグループ予選や準決勝が行わ

れ、それを記念して「埼玉スアジ

アム二〇〇二」と命名されている。

防災活動拠点としては、スタン

ド下二、二〇〇平方 の備蓄倉庫

に食料品や生活用品を備え、災害

時の援助物資として活用できる。

さらに地下雨水貯留漕があり災

害時には雨水を浄化して飲料水と

して利用する設備となっている。

しかし、もともと最悪の地盤条件

だけに、災害時の状況は予測しが

たい。

国際アメニティタウン

埼玉高速鉄道の浦和美園駅、埼

玉スタジアムの周辺では、「国際

アメニティタウン」と銘打って、

おそらくさいたま市で最後の大規

模都市基盤整備事業が行われてい

る。岩槻南部も含め、八地区の土

地区画整理事業の総面積は約五

百・、完成は二〇一九年と予定さ

れている。さいたま市が人口減少

東側の田んぼからの風景。稲藁を焼く煙漂うのどかな風景の向こうに、UFOのような埼玉スタジアム。

玄蕃新田調整池の水面に壮大なスタジアムの姿が写り込む。試合の喧騒から解放された時、2002公園は静寂な憩いの場に変わる。

昭和初期にこの地域を走っていた武州鉄道(埼玉県立博物館編「さいたまの鉄道」より)

社会に向う中で、埼玉スタジアム

のお膝元だというだけで住民を引

きつけることが出来るのか、疑問

がない訳ではない。

武州鉄道

この地域には、昭和初期まで民

営の鉄道、武州鉄道が走っていた。

埼玉高速鉄道は、赤羽から浦和美

園まで来て止まっているが、武州

鉄道は蓮田から武州大門まで来

て、その先東京方面に繋げること

が出来ずに廃業した。果たして、

埼玉高速鉄道は、武州鉄道の跡を

追って、蓮田まで延伸することが

出来るだろうか。

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ランドマークの見える風景

07

102

●代表性 ●時代性 ●背景性

さいたま百景

68

中央区本町東

与野本町駅から望む

芸術劇場と富士山

新大宮バイパス

与野公園

川与野本町駅

与野本町通り

彩の国芸術劇場

埼京線

埼京線与野本町駅のプラットフォ

ームから西を望むと、富士山を背

景に彩の国さいたま芸術劇場のタ

ワーが立ち上がり、さいたま独自の

芸術発信の地がここにあることを

アピールしている。

手前の電線がいかにも邪魔だが、

これも日本の風景の現実だ。

埼京線与野本町駅下車、プラットフォームで

高架の埼京線は絶好の視点場

新幹線の東側に併設された埼京

線の車内やプラットフォームは、

さいたま市の市街地を俯瞰すると

ともに、遠くの山並みを遠望する

絶好の視点場を提供してくれる。

通勤・通学でお疲れの市民は、思

いがけない富士山の姿を見てホッ

とすることもあるのではないか。

芸術劇場は文化的ランドマーク

建築家・香山壽夫の設計により

一九九四年に完成、日本建築学会

賞も受賞した建築だ。(ちなみに、

さいたま市内で建築学会賞を受賞

した建築物はこれだけ)

以来、演出家・蜷川幸雄氏がこ

こを拠点にして話題作を発表して

きた。超高層建築物のように市内

各地から見える訳ではないが、特

徴的なタワーのデザインととも

に、埼玉県の文化の発信地として、

意味のあるランドマークというべ

きではないか。

芸術劇場通りの整備

与野には自動車関連工場がたく

さんあった。今は、それらの跡に

大規模マンションの立地が盛んだ。

芸術劇場の敷地はフルヤ製菓の工

場だった。団塊世代の人間にはな

つかしい名前だ。

旧与野市では、与野本町駅から

芸術劇場に行くたつみ通りを「芸

術劇場通り」として、景観整備を

進めていた。

芸術劇場敷地

本町通り 鴻 

沼 

芸術劇場敷地

本町通り 鴻 

沼 

芸術劇場立地前の地図:芸術劇場の敷地は古谷製菓の工場跡地の一部。旧与野市には、自動車産業を中心とした、多数の工場が立地していた。

芸術劇場広場から新都心ビル群を望む

2章07_110416_102_レイアウト 1 11/04/16 12:09 ページ 102

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ランドマークの見える風景

07

103 第Ⅱ章 さいたま百景 

桜区道場電波塔、平野原送信所

新大宮バイパス 中浦和駅

鴻 沼 川

武蔵野線

道場

新開通り

埼京線

志木街道・東村山さいたま線

荒川に近い桜区道場の水田地帯

に立地するこの電波塔は、騒がし

いトラス構造とは異なるロケット

のようなスリムな形態で、高さ百

七十三メートルの割に目立たない。

支柱から下のシャープなデザイン

も近くでないとわからない。

ロケット型のデザインの電波塔

は、日本でもこの送信所の塔だけ

だ。周辺の道の正面に突然出現し

て、人をはっとさせるランドマー

クである。

浦和駅西口からバス、「道場」下車、徒歩8分

エフエム放送の電波塔

この電波塔は一九七一年二月に

完成した「日本放送協会・浦和F

M局百七十メートル鉄塔」、同年

NHKのエフエム放送が開始され

た。その後、テレビ埼玉のアナロ

グ放送およびエフエムナックファ

イブ(NACK5)の放送が開始

された。

現在はNHKエフエムさいたま

(八五・一MHz)、テレビ埼玉(ア

ナログ・デジタル)、エフエムナ

ックファイブは予備送信所として

使用されている。送信は自動操作

されていて、NHKは百五十 、

テレビ埼玉は百七十 のところに

アンテナがあり、埼玉県および東

京都、千葉県、茨城県の一部をカ

バーしている。

あれこれ

送信塔直下にあるNHK局舎

は、鴨川の氾濫対策として局舎周

りが塀で囲まれている。南東五百 

のところには、新開ラジオ放送

所(NHKラジオ第一・第二放送

用予備送信所)の塔がある。

「平野原」という名称は以前のこ

の辺りの地名である。

電波塔が見える場所

秋ヶ瀬橋から羽根倉橋にかけて

の荒川堤防からは、今にも打ち上

げられるロケットのような特徴あ

る姿の全容を見ることが出来る。

市街地からは、場所によってビル

など高所から塔の一部を垣間見る

ことができるが、スリムなデザイ

ンのせいでつい見逃してしまう。

新たに建設された桜区の拠点施

設、プラザウエストは荒川土手沿

いにあり、建物の内外から電波塔

がよく見える。この施設のお陰で、

電波塔の存在も区民に知られてき

たのではないか。

●代表性 ●意外性 

さいたま百景

69

(左)プラザウエストからの展望。プラザウエスト及びその周辺からは、田園風景の中にその端正な姿を眼前に見ることが出来る。(中)JR浦和駅東口コムナーレ9Fからの展望。西方のビルの向こうにその姿を確認できる。天候によっては見ることが難しいかも知れない。(右)鴨川堤桜通り公園、散策路の木立の間から見える鮮やかなツートンカラーの電波塔。近代的構造物が自然の中に違和感なく溶け込んでいる。

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ランドマークの見える風景

07

104

●代表性 ●時代性 ●背景性

さいたま百景

70

桜区中島台地際のランドマーク、

東京瓦斯浦和整圧所

本杢古墳

国道463号

南与野駅

新大宮バイパス・高速埼玉大宮線

埼京線

山久保 本杢(ほんもく)古墳は大宮台

地の西縁から低地を見下ろす位置

にある。その脇の急な坂道から見

ると、住宅の隙間からガスタンク

と首都高が見える。

一九九八年に高速埼玉大宮線が

できる以前は、秋冬の夕方、木々

の枝間から富士山が見通せ、ガス

タンクと遠近のランドマークの取

り合わせが見られたことだろう。

北浦和駅西口からバス、「山久保」下車、徒歩8分

我が街のランドマーク

浦和整圧所のガスタンク(正式

にはガスホルダー)は都市化によ

るガスの需要増を見込み、一九六

八年に建設された。時間帯で変動

するガスの使用量に対応して備蓄

しておくための施設である。

内径は三十三・七 で二万立方

の備蓄量。中程度の規模という

が、建設当時周辺には何もなく、

整圧所に一基だけというタンクの

存在感はとても大きかった。周辺

は宅地化が進んだが、バイパスを

通る市民にとっては今も変わらぬ

我が街のランドマークだ。

かつては勝れた眺望の地

本杢古墳は現在一部しか残って

いないが、古墳時代後期の方墳と

されている。付近にはかつて多く

の古墳があり、近くには日向古墳

や富士見小坂という場所も残って

いる。

新編武蔵風土記稿には、日向と

いう所に富士見塚という塚があ

り、崖の上から富士山から秩父武

甲山までが目前に見え、秋冬の晴

れた日には眼下に広がる水田に富

士山がそっくり映って水庭にある

ようだったとある。

浦和整圧所浦和整圧所

1970年、ガスタンクが建設された頃の空中写真。ガスタンク右の樹林が本杢古墳。(航空写真 航S45・県立文書館蔵より)

新編武蔵風土記稿の真鳥山古城跡。同じく与野領西堀の項に「此所も眺望富士見塚に同じ」とある。台地西端の典型的な風景だったと思われる。(新編武蔵風土記稿・雄山閣より)

バイパスから見えるガスタンク

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ランドマークの見える風景

07

105 第Ⅱ章 さいたま百景 

桜区宿さいたま市民の生命を守る

大久保浄水場

川越線

三条町

新大宮バイパス

さいたまふじ

み野所沢線

治水橋

荒川から水をいただき、さいた

ま市民等に飲料水を供給している

重要な施設。どこまでも続く荒川

沿い低地にあって、居並ぶ貯水タ

ンクはひと際目立つランドマーク

だ。造

水された飲料水は貯水タンク

に常時貯留され、非常時対応を担

っている。

大宮駅西口からバス、「三条町」下車、徒歩10分

埼玉県営水道・大久保浄水場

県南部地域においては、地下水

の汲み上げによる地盤沈下がおこ

り、これを防止するため、河川の

表流水を水源とする県営水道・大

久保浄水場が建設された。浄水場

敷地面積は三十八・四

、造水は

砂ろ過方式である。

一九六八年から、県南中央部及

び西部地域の市町に水道水を、県

南部地域の工場等への工業用水の

供給が開始された。

実は主として利根川の水

大久保浄水場は荒川から取水し

ているが、その元は六〇%が利根

川からの水。利根大堰から取水さ

れた水が、武蔵水路、および見沼

代用水から荒川連絡水道専用水路

を通じて、荒川に補給されている。

防災上の不安

しかし、防災上の不安がないわ

けではない。浄水場のある堤内地

●代表性 ●意外性 ●背景性

さいたま百景

71

大久保浄水場大久保浄水場

の標高は中央管理棟付近で海抜

五・六 しかない。付近の左岸堤

防高さが海抜十二〜十三 で、計

画高水位よりも低い部分もあり、

今、堤防の拡幅と嵩上げ事業が行

われている。

大久保浄水場の供給能力、供給先

上水

工業用水

水源

利根川水系6.72m3/秒

荒川水系5.10m3/秒

利根川水系1.10m3/秒

供給能力供給先130万m3/日約350万人さいたま市(岩槻区を除く)、川口市、戸田市、蕨市、鳩ヶ谷市、川越市、所沢市、狭山市、入間市、志木市、朝霞市、和光市、新座市、富士見市、ふじみ野市、飯能市、三芳町

9.3万m3/日

湛水想定図:1958年の台風22号(狩野川台風)及び1982年の台風18号の実績降雨でシミュレーションしたものに、2006年時点の治水施設能力を勘案して作成したもの。大久保浄水場の周りは湛水ゾーン(青色)になっている。(埼玉県県土整備部作成)

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ランドマークの見える風景

07

106

●代表性 ●時代性 ●状況性 ●意外性

さいたま百景

72

中央区鈴谷

与野の大カヤとダルマ市

国道463号

南与野駅

新大宮バイパス

埼京線

鈴谷大かや前

与野本町駅

鈴谷

室町時代の頃から関東随一の巨

木としてその名が広く知られ、昔

からまちを象徴するランドマーク

だった。近年は周辺に住宅やマン

ションが密集し、やや見えにくく

なっているが、傘のようにこんも

り茂っていて、つややかな緑は壮

大。秋にはカヤの実をたくさん拾

える。

毎年二月十日には、傍らの金比

羅堂でダルマ市が行われて賑わう。

北浦和駅西口からバス、「鈴谷大かや前」下車、すぐ

樹齢はおよそ千年

長元年間(一〇二八〜一〇三七)

に植えられたと伝えられ、樹齢お

よそ千年の古木である。一九一三

年(大正二)「大日本老樹銘木誌」

で関東一の古木として紹介され、

一九三二年(昭和七)には国の天

然記念物に指定されている。

江戸後期の俳人鈴木荘丹の句

に、「蓬莱や心に花のよし埜かや」

とあるように、大カヤは古くから

神木として知られていた。

樹高二十一・五 、根回り周長約

十三・五

、目通り周長約七・三

カヤの実

この大カヤは雌雄合体株で、秋

には楕円形の実をつける。戦時中

は、この実も貴重な食料として保

存されたと言う。

ダルマ市

大カヤの北隣に建っているのが

金毘羅堂で、隣接の妙行寺の守

護神となっている。毎年二月十日

にこのお堂の前に「ダルマ市」が

立つ。もと旧暦の一月十日に開か

れていたもので、この日は、一年

の商売繁盛を祈って神事が行われ

る。以前は神楽の奉納も行われて

いたとか。

早朝から店が出るため「朝市」

として付近の人々に知られ、ダル

マのほかにも、いくつかの商品が

出て賑わう。

毎年2月10日、金毘羅堂の前でダルマ市が立ち、賑わう

今では周りに住宅やアパート、マンションが立ち並び、家々の隙間から大カヤの頂部が見えるのみ

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かつては個人の宅地内に

このケヤキの大木は、個人宅の

表門を入ったところにあった。高

さ三十 、幹周り七・四 の巨木

で、一九五九年に旧浦和市の天然

記念物に指定されている。今も見

事な枝振り、樹勢で、車の排気ガ

スにさらされていてもほとんど無

傷なところが素晴らしい。

ランドマークの見える風景

07

107 第Ⅱ章 さいたま百景 

緑区山崎第二産業道路の巨大な道しるべ、

山崎の大ケヤキ

さいたま見沼 出入口

高速埼玉新都心線

見沼代用水西縁

第二産業道路山崎

芝 川

さいたま幸手線

市内東部台地を南北に縦断する

第二産業道路、その中央分離帯に

一本の巨大なケヤキの木が立って

いる。元々は民間の宅地の中にあ

ったらしいが、道路整備に際して

伐られずに真ん中に残されたもの

だ。こ

の北はすぐ見沼田圃。通行す

る車に見沼田圃を渡る合図を送っ

ているかのようである。

北浦和駅東口、さいたま新都心駅からバス、「山崎」下車、徒歩4分

第二産業道路は

東部台地の南北幹線

通称・第二産業道路、県道さい

たま川口線は、道路網が脆弱なさ

いたま市内では珍しい四車線道路

だ。まだ完全に出来あがってはい

ないが、市域の東側ではもっとも

重要な幹線道路である。

この辺りの道路建設事業は昭和

五〇年代で、このケヤキの大木を

中央分離帯に残し、上り車線が少

し迂回するようにして道路建設が

行われた。どういう経緯があった

のか分からないが、稀有なことだ。

もっといい名前を

それにしても「第二産業道路」

という名前は無機的かつ前時代的

だ。市民からも公募して、もっと

イメージのいい名前を付けたらど

うだろうか。

第二産業道路

山崎の大ケヤキ

見沼田圃第二産業道路

山崎の大ケヤキ

見沼田圃

第2産業道路が出来る以前の、山崎の大ケヤキの位置(昭和20年代後半さいたま市全図による)

●代表性 ●時代性 ●意外性

さいたま百景

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昭和32年頃、個人宅にあったときの山崎の大ケヤキ(「緑区の今昔」より)