放 送 時 間 : 日 本 時 間 午 前 7時 半 ~8時...

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Page 1: 放 送 時 間 : 日 本 時 間 午 前 7時 半 ~8時 …reachbeyond.chowder.jp/Messages/Archives/2ProgramNote7...7月 2 0 日 リ ス ナ ー か ら の 「 お 便 り 交

きき手 尾崎一夫毎週土曜日放送

朗読 尾崎久子毎週日曜日放送

7月05日 南米ふれあいの旅 押山武五郎(1)7月12日 南米ふれあいの旅 押山武五郎(2)7月1 9日 南米ふれあいの旅 栢野桂山 7月26日 南米ふれあいの旅  繁田由美子

7月06日 ラジオ図書館:三浦綾子著<矢島楫子伝(6)>7月13日 ラジオ図書館:三浦綾子著<矢島楫子伝(7)> 7月20日 リスナーからの「お便り交換の時間」7月27日 ラジオ図書館:三浦綾子著<矢島楫子伝(8)>

放送時間:日本時間 午前7時半~8時 15525kHz (再放送) 午後8時00分~8時30分 15400kHz(米国アリゾナ州制作/オーストラリア送信)

 私の祖父母は幕末の頃、浜松藩の奉行でした。物置に「切支丹禁令」の高札があったのを覚えています。その「ヤソ嫌い」が,当時東海道を徒歩で宣教していたフランス人宣教師から受洗したのですから正に奇跡です。 8人兄弟末っ子だった私が満二十歳になった春、ブラジル渡航の決意を告げたとき、母親が私にこう言いました。「お前ね。信仰さえ捨てなかったら、世界のどこへ行ってもいいよ。」

  1941年ハワイの真珠湾攻撃で日本が太平洋戦争に突入したため、日本人が集結していたアサイ(朝日)植民地はブラジル官憲の目が厳しくなり、情報も一切遮断されてしまい、戦争終結もスエーデン大使館からの通達で知りました。とろこが勝ち組は負け組(認識派)を国賊として「一人一殺」という過激な行動に走ったため、私は山の中にひそんで町へはほとんど出ませんでした。その後、エスペランサ

(信愛)植民地に移り養鶏にたずさわりました。独学で覚えた仕立て屋の仕事でも大分もうけさせてもらい、ラジオはその頃に手に入れました。山奥では電池が簡単に手に入らないので蓄電式の大型ラジオを買いました。「アンデスの声」をみつけてからは毎晩毎晩、家内といっしょに番組にきき入ったものです。1968年、不慮の交通事故で 妻、長男夫婦と孫ふたり、三男(10歳)、末っ子(8歳)の7人を一挙に失いました。やっと気も落ち着きはじめたある日、ふと「アンデスの声」にダイヤルをあわせたところ、懐かしさがこみ上げてきて、すぐに筆をとったのが昨日のことしさがこみ上げてきて、すぐに筆をとったのが昨日のことのようです。惨事から立ち直ることができたのは信仰のおかげと感謝しています。現在は6人の子供に孫、曾孫あわせて22人という大家族になりました。信仰を捨てないで生きたことで神様が祝福をくださったのでしょう。日本を出る時に母から言われた言葉を、今度は私が子供たちに言いきかせる立場になりました。神のみ手を肌で感じる晩年を迎えているこのごろです。ているこのごろです。

ゴヤバ缶詰工場の前で栢野桂山産業組合長(中央)