東京大学 | 物性研究所 - 広井善二1 広井善二...

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1 広井善二 1.遷移金属酸化物における物質開発 1.1 遷移金属酸化物の特徴 遷移金属を含む化合物において主に物性を支配するのはd電子である。一般にd電 子はs,p電子と比べて軌道の拡がりが小さいため原子上に局在する傾向が強く, 電子が狭い領域に閉じ込められた結果として電子間のクーロン相互作用(電子相 関)Uが大きくなる.また、s、p電子が隣り合う原子間の大きな軌道の重なりを反映 して大きなバンド幅Wをもつ伝導バンドを形成するのに対して、d電子はWの小さ な狭いバンドを形成する。前者では、図1に模式的に示すように、一つの電子がほ とんど自由に結晶内を動き回ることができる。他の電子からのクーロン相互作用は 電子の有効質量の増大として取り込むことができ、いわゆる平均場的な一体バンド 近似が妥当とみなされる。直感的には一つの電子が動く時、他の電子がどこにいる かに影響されることなく、ある平均的なポテンシャルの中を独自に運動するとみな してよい。これに対して、Uが大きく、または、Wが小さくなると(つまり、U/Wが 大きくなると)、電子はお互いのクーロン相互作用を強く感じながら、狭いバンドの 中をかろうじて動き回るようになる。そこではもはや一体バンド近似は成り立たず、 多体効果が重要となり、すべての電子が互いに押し合い圧し合いしながら運動する ことになる。このような状況にある金属を強相関電子系と呼ぶ。 図1 強相関電子系の特徴を示す模式図。強相関電子系は、電子間クーロン相互作用 Uとバンド幅Wをパラメータとして、U/Wの小さなs・p電子系とU/Wが大きくなっ て電子が原子上に局在したモット絶縁体の中間に位置する。

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    広井善二 1.遷移金属酸化物における物質開発 1.1 遷移金属酸化物の特徴 遷移金属を含む化合物において主に物性を支配するのはd電子である。一般にd電子はs,p電子と比べて軌道の拡がりが小さいため原子上に局在する傾向が強く,電子が狭い領域に閉じ込められた結果として電子間のクーロン相互作用(電子相関)Uが大きくなる.また、s、p電子が隣り合う原子間の大きな軌道の重なりを反映して大きなバンド幅Wをもつ伝導バンドを形成するのに対して、d電子はWの小さな狭いバンドを形成する。前者では、図1に模式的に示すように、一つの電子がほとんど自由に結晶内を動き回ることができる。他の電子からのクーロン相互作用は電子の有効質量の増大として取り込むことができ、いわゆる平均場的な一体バンド近似が妥当とみなされる。直感的には一つの電子が動く時、他の電子がどこにいるかに影響されることなく、ある平均的なポテンシャルの中を独自に運動するとみなしてよい。これに対して、Uが大きく、または、Wが小さくなると(つまり、U/Wが大きくなると)、電子はお互いのクーロン相互作用を強く感じながら、狭いバンドの中をかろうじて動き回るようになる。そこではもはや一体バンド近似は成り立たず、多体効果が重要となり、すべての電子が互いに押し合い圧し合いしながら運動することになる。このような状況にある金属を強相関電子系と呼ぶ。

    図1 強相関電子系の特徴を示す模式図。強相関電子系は、電子間クーロン相互作用Uとバンド幅Wをパラメータとして、U/Wの小さなs・p電子系とU/Wが大きくなって電子が原子上に局在したモット絶縁体の中間に位置する。

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    Wが有限であるにもかかわらずUが大きい極限において電子が動けなくなった状態はモット絶縁体と呼ばれる.特に1原子あたり電子が1個存在するとき(バンドが半分埋まったハーフフィルド状態),電子はクーロン反発のため隣の原子に飛び移れなくなり,電荷の自由度(電気伝導)を失って絶縁体となる(図1).一方,局在した電子はスピンの自由度をもち,隣り合う原子間で反強磁性的にスピンが配列するため,モット絶縁体は反強磁性秩序を有することになる.また,温度,圧力,電子の数をパラメータとして金属からモット絶縁体へ転移することがあり,これはモット転移と呼ばれる.通常の金属とモット絶縁体の中間に位置する強相関電子系では、電荷とスピンの自由度がともにある程度生き残ることが可能となり、二つの自由度が複雑に絡み合った特異な物性を示すことになる。さらにd電子には、d軌道特有の縮退に基づく軌道自由度が存在する。生き残ったこれらの自由度は低温で必ず何らかの秩序状態をもたらし、付随するエントロピーを消費する。結果として、異なる自由度に由来する秩序状態が競合することになる。二つの状態の競合が微妙な均衡にある時、僅かな外場(温度、磁場、圧力など)の変化により状態が移り変わり、巨大な物性変化をもたらす場合がある。マンガンを含むペロブスカイト酸化物に見られる巨大応答はこのよい例である。一方、秩序状態に至る近傍にはその自由度に関連する揺らぎが存在する。この揺らぎが別の近接する秩序状態を安定化する場合もある。多くの金属の基底状態である超伝導は、このように何らかの自由度に関連する揺らぎの助けを借りて作られた電子の対によるものである。例えば、銅酸化物における高温超伝導はスピン自由度に由来する反強磁性揺らぎによって安定化された電荷自由度の秩序とみなすことが可能である。強相関電子は状況によって様々な姿に変貌する変幻自在な電子(protean electrons)である。

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    図2 遷移金属化合物において実現される様々な格子。正方格子は銅酸化物や鉄砒素化合物における超伝導の舞台であり、三角格子やカゴメ格子は幾何学的磁気フラストレーションの舞台となる。 電子が一度,原子上に局在すると、原子の配列である格子が重要となる。図2に様々な格子を示す。局在スピンとなった電子間の磁気相互作用は格子の対称性に大きく依存する。立方体を基本とする三次元格子では多くの最近接スピンからの磁気相互作用の結果,単純な磁気秩序が安定となるが,2次元や1次元の格子では最近接スピンの数が減り,磁気秩序は起こりにくくなる.一方、四角形を基本とする格子ではスピンが単純に上・下に並んだスピン配列が安定となるが、三角形を基本とする格子では、最近接スピン間の反強磁性相互作用の辻褄が合わなくなり(幾何学的磁気フラストレーション)、単純な磁気秩序が不安定となる。そこではスピンが絶対零度まで凍結せず、量子力学的な液体状態(スピン液体)に留まると期待されている。このような状況は、スピンと競合または共生する自由度にとって好都合となり、何らかの新しい秩序が安定化される可能性が高い。 これに対して通常の弱相関金属では電子の波動関数が空間的に拡がっており、格子の形状は重要ではない。しかしながら、強相関電子系では波動関数の拡がりが小さく、スピンの自由度もある程度生き残っているため、格子が重要な役割を果たす場

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    合がある。銅酸化物高温超伝導体や鉄砒素超伝導体では銅や鉄の正方格子において超伝導が起こっており、正方格子の対称性がその超伝導機構に重要な役割を担っていると考えられる。遷移金属酸化物の最大の特徴は,その3次元結晶構造中に様々な対称性の高い格子を近似的に実現し,格子点上に存在する強相関d電子が様々なエキゾティック物性を示すことにある.本章では遷移金属酸化物の一般的な特徴を概観するとともに,いくつかの例を取り上げて,遷移金属酸化物における物質探索の面白さと重要性を伝えたい. 1.2 d電子 遷移金属元素は図3の周期表において,s電子を有するⅠ,Ⅱ族元素とp電子を有するⅢ-Ⅷ属元素の中間に位置する.結晶中において、遷移金属原子はd電子よりも高いエネルギーを持つs電子を化学結合形成のために放出してイオンになる.2つのs電子を失った2価のイオンでは,図3のように,5個のd軌道が1~10個の電子で順番に埋められていくことになる.d軌道は孤立原子では等しいエネルギーをもち五重に縮退しているが,結晶中では周りに配位したイオンのポテンシャル(結晶場)を感じて様々に分裂する.よって,同じ数のd電子を有するイオンにおいても異なる状態が現れる.さらに,化学結合の性質に応じて余分の電子をもらってより高い価数となったり,さらに電子を失って低い価数をとることも可能となる.このようにして産み出されるd電子の多様性が遷移金属化合物の大きな特徴となる.一方,d電子が完全に局在せず,それ自身,または,他の拡がった電子と混ざり合ってバンドを形成し伝導に寄与する場合には,上記のようなd電子の数に基づく議論は意味を失う.しかしながら,強相関電子は伝導と局在の間の中間的な状況にあり,しばしば局在描像を出発点としてその物性を考えることが良い近似となって理解を助ける.

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    図3 周期表.遷移金属元素が2個のs電子を失って2価イオンとなったときのd電子数を欄外に記す. 周期表の第4,5,6周期に位置する遷移金属はそれぞれ3d,4d,5d電子系である.3d電子は軌道の拡がりが小さいため大きなUをもち,4d,5d電子となると軌道が拡がってUは小さくなるため電子が動きやすくなって金属になりやすい.また,原子番号が大きくなるとスピンと軌道の相互作用が強くなって,スピンと軌道の自由度を別々に考えることが困難となる.よって、3d電子系におけるように,最初に軌道状態を決めてそこに電子を詰めていくというやり方は妥当ではない.特に5d電子系では大きなスピン軌道相互作用のために,スピンと軌道を結合した量子数Jに基づく多重項状態がよい記述を与える.例えば,Irを含む酸化物Sr2IrO4において,このようなJ多重項状態が実現されていることが実験的に観測され,さらにこれが比較的弱い電子相関により分裂したモット絶縁体が実現されていると考えられている.よって,同じd電子系でも3dと5d電子系では異なる物理がある期待される。 1.3 遷移金属酸化物における格子 結晶中の遷移金属イオンはその大きさと配位する隂イオンの大きさの比に応じて様々な配位多面体を形成する.3次元構造はこの多面体が連なったネットワークとこれを安定化する他の構成元素の組み合わせにより決定される.もっとも典型的なのは遷移金属元素が6個の酸素イオンに配位された八面体を構成単位とするペロブスカイト構造であろう.例えば,図4aのように,LaMnO3ではMnO6八面体が頂点を共有して繋がり,その空隙にLaイオンが存在する.Mnイオンに着目すると単純な立方格子となるが,実際には八面体が僅かに傾斜して対称性が下がっている.一方,NaxCoO2では,CoO6八面体が辺を共有して層を形成し,Coイオンは三角格子をなす(図4b).また,銅酸化物高温超伝導体の最も基本的な構造を有するLa2CuO4では、Cuと酸素イオンが層をなしCuの正方格子を実現している。同様にLaFeAsOではFeAs4四面体が層をなし,Fe原子は正方格子を作る.

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    図4 遷移金属化合物における様々な結晶構造.(a)巨大磁気抵抗効果を示すペル部スカイと酸化物(La,Sr)MnO3,(b)熱電材料として知られるNaxCoO2,(c)銅酸化物超伝導体(La,Sr)2CuO4、(d)鉄砒素超伝導体LaFeAs(O,F). さらにここでは銅酸化物にみられる特徴的は低次元格子を紹介しよう.銅イオンは2価を取りやすく3d9の電子配置をもつため,3d殻に1つのホール,または,電子を有することになる.Cu2+イオンは通常八面体配位を好み,d9の電子数に起因する強いヤーン・テラー効果のために,しばしば上下の陰イオンが遠く離れてx2-y2軌道が最高のエネルギーを持つことになり,そこに不対電子が入る.結果として,図5aに示すようにCuO4四角形をモチーフと見なすことができ,これが電子/スピンを担う.CuO4四角形を頂点または辺を共有させて1次元に並べるとスピン1/2の反強磁性鎖ができる.実際にSr2CuO3などの化合物において,このような頂点共有鎖が実現される.この鎖を2本並べて繋ぐとSrCu2O3にみられるような梯子格子ができる.さらに鎖を無限に並べると銅酸化物高温超伝導の舞台となる銅の正方格子に行き着く.一方、CuO4(OH)2八面体を図5eのように銅イオンが正三角形を作るようにつなぎ合わせると,カゴメ格子を作ることが出来る.このような格子はハーバートスミサイトやベシニエイトなどの銅鉱物に存在し,フラストレーション磁性の舞台として研究されている.このように銅化合物は低次元量子スピン系の宝庫であり,これらを外場やバンドフィリング調整により強相関金属にすることが出来れば,様々な面白い物性が期待できる.

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    図5 銅酸化物に見られる様々な格子.(a)スピン1/2をもつCuO4四角形,(b)頂点共有で連なったスピン1/2反強磁性鎖,(c)2本足梯子格子,(d)銅酸化物高温超伝導の舞台となるCuO2二次元正方格子,(e)CuO4(OH)2八面体が連なってできるカゴメ格子. 1.4 様々な物性 強相関電子系物質の示す性質の中で最も劇的なものは超伝導であろう.遷移金属酸化物においても,一連の銅酸化物を代表例として数多くの超伝導体が見つかっている.超伝導状態に相転移する温度Tcの最高はHgBa2Ca2Cu3O8における135Kである(図6).この物質に十万気圧以上の圧力をかけて冷やすことにより165Kで超伝導になるとの報告がなされたが実験データに問題があり,現在,高圧下で確認されている最高のTcは156Kである.一方,その他の遷移金属酸化物超伝導体としては,LiTi2O4 (11.7K) ,SrTiO3-δ(0.3-0.5K),TiO(~2.3K),BaTi2Sb2O(1.2K),β-Na0.33V2O5(高圧下,9K),NaxCoO2・yH2O (4.5K),(Sr,Ca)14Cu24O41(高圧下,8K),Sr2RuO4(1.5K),RbxWO3 (7.7K),Cd2Re2O7 (1.0K),β-KOs2O6 (9.6K)などが挙げられる.β-KOs2O6 については後で触れる。興味深いことに3d電子系では多くの超伝導体が見つかっているが、5dでは三つ、4dでは一つしか例が知られていない。また,遷移金属酸化物以外にも鉄系超伝導体を筆頭に,(Ba,K)BiO3(30K),(Pb,Tl)Te(1.3K) , 12CaO ・ 7Al2O3(0.2K) , YNi2B2C(15.6K) , LixZrNCl(15.2K), Ag6O8AgNO3(1K)など興味深い超伝導体が存在し,活発な研究が行われている.一

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    方、SrTiO3などにおいて,電界効果を利用してキャリア数を制御し超伝導状態を実現することも可能となっている.

    図6 超伝導転移温度向上の歴史。 超伝導と並んで物性物理学の柱となるのが磁性である.3d電子系の中央に位置するCr,Mn,Fe,Coではしばしば複数の不対電子が生き残って強い磁性を示す.例えば,図4aのペロブスカイト構造を有するLaMnO3はMn3+イオンが4つのd電子をもつ反強磁性モット絶縁体だが,La3+の一部をSr2+イオンで置換すると電子が奪われて電気伝導性を示すようになる.この時,すべての3d電子が結晶内を動き廻るのではなく,ほぼ3個の電子はMnイオン上に局在しスピン量子数3/2の大きなスピンとして振る舞う.伝導電子と局在電子はフント結合により強く相互作用するため,磁場により局在電子スピンの向きを調整することで伝導を制御することが可能となる.さらに,d電子の軌道自由度が磁性・伝導性に影響を与える.結果として,電荷・スピン・軌道の自由度が複雑に絡み合った複数の相が現れ,その相境界近傍において巨大な外場応答が観測される. 図4bに示したNaxCoO2は極めてよい金属伝導性を持つが、同時に大きなゼーベック効果を示すため、熱電変換材料の候補物質として注目されている。さらに驚くべきことに、層間に水分子を挿入することにより超伝導が発現する。また、類似のLixCoO2はリチウムイオン電池の正極材料として有名な物質である。これらの特異

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    な性質はCoの価数が3価(d6)と4価(d5)の間の広い範囲に渡って安定に存在することによる。 4d・5d酸化物になると、d軌道の拡がりに応じて金属伝導性を示すものが多くなる。また、遷移金属のイオン半径の増大の結果、ペロブスカイト構造よりもパイロクロア構造が安定となる。例えば、4dのY2Mo2O7はスピングラス転移を示す絶縁体であり、Tl2Ru2O7,Hg2Ru2O7,Tl2Rh2O7は劇的な金属ー絶縁体転移を示す。5dパイロクロア酸化物についてはあとで触れる。5d電子系で例外的に絶縁体であるSr2IrO4は大きなスピン軌道相互作用をもつJ=1/2のモット絶縁体と考えられている。 1.5 量子スピン系 小さなスピン量子数を有するスピンを様々な低次元格子上に並べた系を量子スピン系と呼ぶ。そこでは強い量子揺らぎのために通常の反強磁性秩序が不安定化し、エキゾティックな基底状態が現れる。図5に示した銅酸化物に見られる低次元格子は典型例である。スピン1/2反強磁性鎖は長距離磁気秩序を持たないが,絶対零度においてほとんど秩序化した状態にあるため,あるスピンを揺するとそれが波となって伝わる.よって,無限小のエネルギーでスピンの励起が可能であり,スピン励起スペクトルにエネルギーギャップはない。 一方、スピン1/2梯子格子においては,図5cのように,各スピンが近くのスピンと反強磁性的に結合して一重項を作り,その組み合わせが時間的に変化すると考えられている.このような状態をResonating Valence Bond(RVB)状態と呼ぶ.RVB状態にあるスピンを励起するためには一重項状態を壊す必要があるため,その結合の強さに対応する有限のエネルギーが必要となる.よってスピン励起にエネルギーギャップが存在することになる.さらに3本の足をもつ梯子格子の基底状態は1本の場合と同様にギャップを持たない.故に梯子系は鎖が奇数の時にギャップが閉じ,偶数になるとギャップが開くという偶奇効果を示す.ちなみにギャップの大きさは偶数梯子の鎖の足の数が増えるほど小さくなっていく. 1.6 フラストレーションとカゴメ格子 三角形を基本とする格子ではさらに幾何学的フラストレーションのために長距離秩序が不安定化し特異な基底状態が現れる。最近接反強磁性相互作用に対して基本的に要求されるのは一つの三角形やその三次元版である正四面体においてスピン

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    の和がゼロになることであり、それらのユニットをどう並べてもエネルギーが変わらない。よって、スピンの配列に無限の可能性があり、巨視的な縮退が生じることになる。フラストレーションの物理は自然がこの巨視的縮退を如何に解消し、エントロピーを解放するかを知ることにある。 最も強いフラストレーションと量子揺らぎが期待される系はスピン1/2カゴメ格子反強磁性体である。その基底状態に長距離秩序がないことは明らかであるが、その代わりにどのような状態が選ばれるのかは分かっていない。図7に模式的に示すように、古典的な大きなスピンに対してはスピンが120°の角度をなすように並んだ配列が安定と考えられている。全てのスピンを互いに逆向きに揃えることが困難であるために生じた妥協の結果である。これに対して量子スピンの場合には、前述のRVB状態を基本とした液体的な状態が実現されると期待される。ただし、梯子格子のように短距離の一重項状態ではなく長距離のそれを基本とするため小さなエネルギーギャップが予想される。一般に一重項ペアのサイズまたは磁気相関長ξの逆数がギャップの大きさΔとなる。理論計算によるとΔは最近接反強磁性体相互作用の大きさJの1/20程度かそれ以下であり極めて小さい。さらにギャップが閉じているとの報告もある。何れにせよ、量子スピンカゴメ格子反強磁性体の基底状態は120°構造をもつ長距離秩序とギャップ的な液体状態の中間に位置すると考えられる。重要なことは、このような量子臨界点に近い状態では磁気秩序温度もスピンギャップの大きさも極めて小さくなるため、僅かな外乱により真の基底状態が隠されてしまう可能性が高いことである。言い換えると、フラストレーションのために巨視的な数の状態が最低エネルギー状態に近接するため、外乱により容易に別の状態が選ばれることになる。特に現実の物質は多かれ少なかれ何らかの構造欠陥や理想的なモデルとの不一致を内包しており、その影響を注意深く吟味することが重要となる。

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    図7 スピン1/2反強磁性体の基底状態。古典スピン系では120°構造をもつ長距離秩序が安定と考えられる。量子スピン系ではRVB的は一重項を基本とする液体状態が期待されるが、予想されるスピンギャップは極めて小さく、真の基底状態は両者の中間に位置する。fはネール温度TNをワイス温度で割ったフラストレーション因子であり、ξは一重項スピン対の大きさ,Δはξに反比例するスピンギャップの大きさである。 スピン1/2反強磁性体のモデル物質として様々な銅鉱物が研究されている。Cu2+イオンは強いヤーンテラー効果によりx2-y2型か3z2-r2型のいずれかの軌道にスピンを持つ。カゴメ格子では、このうち一方の軌道のみを使って格子の対称性を破ることなく配置することが可能である。図8に示すように、ハーバースミサイトではx2-y2

    型d軌道が、ベシニエイトでは3z2-r2型d軌道が配列する。銅スピン間には酸素イオンを介する超交換相互作用が働き、これはすべて等価で反強磁性的である。その大きさは、それぞれ、170K、50Kと見積もられている。ハーバースミサイトは50mKの低温まで磁気秩序の兆候が見られず、スピン液体的な状態が実現していると考えられているが、結晶構造に少なからぬ欠陥を含むためその詳細は分かっていない。一方、ベシニエイトは9Kにおいて明確な磁気秩序を示す。この原因はハイゼンベルグ型の磁気相互作用以外に余分に存在するジャロシンスキー-守谷相互作用が大きいためと理解されている。

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    図8 銅鉱物ハーバースミサイト、ボルボサイト、ベシニエイトにおける銅イオン上のd軌道配列。ハーバースミサイト,ベシニエイトではすべての銅イオンがそれぞれx2-y2型,3z2-r2型d軌道にスピンを持ち,カゴメ格子の対称性を維持した磁気相互作用を生じるが,ボルボサイトでは対称性を破るx2-y2軌道配列のため歪んだカゴメ格子となる. 一方,ボルボサイトはハーバースミサイトと同様にx2-y2型d軌道からなるが,図8に示すように対称性を破る軌道配列のために歪んだカゴメ格子となる.ちなみに,室温付近より高温において,中央の銅イオンのd軌道が向きを変えたり,3z2-r2型軌道に変化する構造相転移が観測される.ボルボサイトは歪んだカゴメ格子反強磁性体であるが,他の物質と比べて極めて純良な試料を作製することが可能であり,以下に述べるような特異な磁性が観測されている.

    図8 水熱合成に用いた反応容器と得られたボルボサイト単結晶.

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    ボルボサイトは天然に結晶として産出するが,様々な不純物を含むため物性測定には不向きである.よって,人工的に高純度の原料を用いて結晶成長を制御することが必要となる.図8は水熱条件下で育成した結晶の写真である.これは高純度のCuOとV2O5粉末を3:1のモル比で混合し,1%硝酸を溶媒としてテフロン容器に入れ,ステンレス製の圧力容器に挿入して170℃で一ヶ月間反応させて得られたものである.結晶はきれいな緑色で矢じりの形状を有し,中心を境とする双晶である. 高品質の粉末や結晶試料を用いて様々な物性測定が行われている.その結果,ボルボサイトは1Kあたりで何らかの磁気秩序を示すが,50mKの低温まで遅い揺らぎが生き残った特異な状態にあることが分かった.さらに高磁場下において,図9に示すように,磁化が3回に渡ってステップ状に増加する相転移が見つかった.現在,V核のNMR実験によりその詳細が調べられている.

    図9 ボルボサイトの粉末試料を用いて測定された高磁場磁化.磁化は,4T,25T,46Tの磁場において磁気転移のために階段状に増加する. 1.7 5dパイロクロア酸化物

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    ここではいくつかの5dパイロクロア酸化物を取り上げ、その合成、構造、物性について記す。通常のパイロクロア酸化物はA2B2O7の化学式をもち、図10のような立方相の構造をとる。遷移金属Bは酸素の八面体中央に位置し、BO6八面体が頂点で繋がって三次元ネットワークを形成する。BーOーB結合は約130°であり、180°に近いペロブスカイト構造とは大きく異なる。一方、BO6八面体が囲む空隙の中心にもう一つの酸素イオンO'があり、二つのO'の中点にAイオンがある。AまたはB原子のみに着目するとそれぞれ正四面体が頂点共有で繋がったパイロクロア格子となる。一方、AB2O6の組成をもつ類似のパイロクロア酸化物があり、これを前者α型と区別してβ型と呼ぶ。図10ようにβ型ではα型のO'の位置をA原子が占める。よって、もともとA4Oが占めていた空間をA原子が単独で占めることになり、広い空間(カゴ)の中をAイオンが巨大な振幅を持って非調和振動をすることになる。これをラットリング振動と呼ぶ。

    図10 α型パイロクロア酸化物A2B2O6O’(左)とβ型パイロクロア酸化物AB2O6(中)の結晶構造とB原子のみを取り出したパイロクロア格子(右).パイロクロア格子上の矢印は四入四出磁気構造におけるスピンの向きを示す. 5d元素のReやOsを含むパイロクロア酸化物の結晶は図11のような化学輸送法の一種を用いて合成される.例えば,Cd2Os2O7の多結晶試料を石英管に真空封入し,電気炉中の高温側に配置すると,徐々に低温側に運ばれ結晶となって析出する.このような方法により1mm程度の大きさを持つ単結晶試料が得られる.

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    図11 (a)化学輸送法によるCd2Os2O7結晶の育成.(b)βパイロクロア酸化物超伝導体AOs2O6の結晶. 図12は2つのα型パイロクロア酸化物Cd2Re2O7とCd2Os2O7の電気抵抗を比較したものである.Re,Osはともに5価であり,それぞれ,2,3個の5d電子を持つ.両者は半金属であり,よく似た電子構造を有するが,この電子数の差によるバンドフィリングの違いが全く異なる現象を引き起こす.Cd2Re2O7では電気抵抗が200K付近で減少し,0.97Kで超伝導転移を示す.電気抵抗の減少は立方晶から正方晶への僅かな構造相転移によるものである.一方,Cd2Os2O7では227Kにおいて電気抵抗が増大に転じ絶縁体となる.絶縁化と同時に図10に示すような四入四出型の磁気秩序が起こるが結晶構造の変化はない.つまり,空間対称性の低下を伴わず,パイロクロア格子上で4つのスピンが中心を向く四面体と逆に外を向く四面体が交互に並ぶことになる.この希なスピン配列が金属-絶縁体転移を引き起こしていると考えられる.

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    図12 2つのα型パイロクロア酸化物Cd2Re2O7とCd2Os2O7の電気抵抗. βパイロクロア酸化物であるAOs2O6(A=Cs, Rb, K)は,それぞれ3.3K,6.3K,9.6Kにおいて超伝導転移を示す(図13).興味深いことにTcの増加とともに超伝導性が通常の弱結合から強結合へと変化する.特に一番高いTcを有するK Os2O6は大きな電子質量増強を示す強結合超伝導体である.その原因は比較的大きなカゴの中をラットリング振動するKイオンと伝導電子の結合による強い電子-格子相互作用であると考えられている.例えば,図14に模式的に示すように,主にカゴを構成する原子上に存在する伝導電子がカゴ内をゆっくりとラットリングするイオンを引き付け,これが2つめの電子を引き寄せることにより,2つの伝導電子間に有効的な引力が働いてクーパー対が形成され,超伝導が起こるものと考えられる.

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    図13 βパイロクロア酸化物であるA Os2O6(A=Cs, Rb, K)の電気抵抗と電子比熱.

    図14 ラットリング誘起超伝導機構の模式図 図 14x400=5600 字数 10,000

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