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退 号 別冊 大阪大学大学院文学研究科哲学講座

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浅野遼二名誉教授

里見軍之名誉教授

退官記念号

第 号 別冊

大阪大学大学院文学研究科哲学講座

年 月

メタフュシカ

第三十五号

別冊

四年

大阪大学大学院文学研究科哲学講座

スミスミ

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目 次

退官記念号出版にあたって‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ ( i )

里見軍之名誉教授 略歴 ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ ( v )

浅野遼二名誉教授 略歴 ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ (xiii )

《論文》

「勉強もせんと、遊んでばかり、

気がついたらお母ちゃんになってしもて」

― わが哲学的半生 ― ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 志水紀代子 ( 1 )

ディルタイの世界観学について ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ ‧大野篤一郎 ( 5 )

初期ヘーゲルと「秘儀結社」 ―「盟約」から「同盟」へ ― ‧‧‧‧‧‧‧‧ 田村 一郎 ( 13 )

芸術の力とメタファー ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 山口 和子 ( 23 )

我々の親切は、誰にするのか ― 日本的な親切の人間関係論 ― ‧‧‧‧‧ 近藤 良樹 ( 33 )

ウィトゲンシュタインの規準概念と行動主義

― クック著『ウィトゲンシュタイン、経験論、そして言語』

をめぐって ―‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 中谷 隆雄 ( 41 )

『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 本田 敏雄 ( 49 )

三種類の「なぜ」の根は一つか? ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧入江 幸男 ( 59 )

主権概念の解体と平和論 ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 田中 誠 ( 69 )

アーレントのカフカ論 ― 最小限の権利を求める闘い ― ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 黒瀬 勉 ( 79 )

理性の自律と決定論 ― H・ヴァルターの見解を中心に ― ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 武田 一博 ( 87 )

哲学の制度化と折衷主義 ― 七月王政期クーザンの国家戦略 ― ‧‧‧‧‧‧ 伊東 道生 ( 97 )

美的判断は本当に普遍性をもつのか? ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 甲田 純生 (105)

対象と自己意識 ―「三段の綜合」における自己意識 ― ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 壹岐 幸正 (113)

欲望・善・利己主義

― J.S.ミルによる「功利性原理」証明の一つの帰結 ― ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 大石 敏広 (121)

悲劇の歴史性 ― 歴史の三形態と『悲劇の誕生』― ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 茶園 陽一 (129)

超越論的現象学と世代発生的現象学 ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 前田 直哉 (137)

《書評》

朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』 ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ 舟場 保之 (145)

欧文レジュメ ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ (153)

執筆者一覧・編集後記 ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ (169)

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Contents > Theses < A philosophical essay ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Kiyoko SHIMIZU ( 1 ) Zur Weltanschauungslehre Wilhelm Diltheys ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Tokuichiro ONO ( 5 ) Der junge Hegel und die “Geheimbünde”― Vom “Tübinger Bund” zum “Homburg-Frankfurter Bund” ―‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Ichiro TAMURA ( 13 ) Die Metaphorik der Kunst und Ihre Wirkung ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧Kazuko YAMAGUCHI ( 23 ) Zu wem sind wir freundlich? ― Das zwischenmenschliche Verhältnis in der japanischen Freundlichkeit ―‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧Yoshiki KONDO ( 33 ) Wittgenstein’s Concept of Criterion and Behaviorism ― On J.W.Cook’s “Wittgenstein, Empiricism, and Language” ―‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ ‧‧ Takao NAKATANI ( 41 ) Fichte Ronko damals und heute ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Toshio HONDA ( 49 ) Do Three Kinds of Why-Questions Have One Root? ‧‧‧‧‧‧‧ ‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Yukio IRIE ( 59 ) Die Zerlegung des Souveränitätsbegriffs und die Friedenslehre ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Makoto TANAKA ( 69 ) Arendts Aufsätze über Franz Kafka ― Kampf um die minimalen Menschenrechte ― ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧Tsutomu KUROSE ( 79 ) Autonomy of Reason and Determinism ― Concerning H. Walter's Thinking ― ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Kazuhiro TAKEDA ( 87 ) Institutionalization of Philosophy and Eclecticism ― State Strategy by Victor Cousin under the July Monarchy ― ‧‧‧‧ Michio ITO ( 97 ) Hat das ästhetische Urteil wirklich eine Art von Allgemeingültigkeit? ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Sumio KODA ( 105 ) Gegenstand und Selbstbewusstsein Selbstbewusstsein in der “dreifachen Synthesis” ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧Yukimasa IKI ( 113 ) Desire, Good and Egoism ― One Consequence of J. S. Mill’s Proof of the ‘Principle of Utility’ ― ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧Toshihiro OISHI ( 121 ) Die Geschichtlichkeit der Tragödie bei Nietzsche ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Youichi CHAZONO ( 129 ) Die transzendentale Phänomenologie und die generative Phänomenologie ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Naoya MAEDA ( 137 ) >Book Review < Koichi ASAKURA: Zur Bedeutung und Möglichkeit der Diskursethik ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ Yasuyuki FUNABA ( 145 ) > Summaries < ‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧‧ ( 153 )

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里見軍之先生、浅野遼二先生の退官記念号出版にあたって

里見軍之先生と浅野遼二先生が、2004年3月31日をもって、永い間勤めてこられ

た大阪大学を退官されました。このたび両先生のこれまでのご指導に感謝して、『メタフュ

シカ』第35号の別冊として退官記念号を出版することとなりました。 両先生は、大阪大学の文学部と大学院で学ばれ、共に旧「哲学哲学史第二講座」の初代

教授の伊達四郎先生と、第二代の教授である高橋昭二先生の下で薫陶を受けられました。

その後、それぞれ愛知学院大学と立命館大学で教鞭をとられることとなりましたが、浅野

先生は、大阪大学医療短期大学部講師として阪大に戻られ、里見先生は、哲学哲学史第二

講座の助教授として阪大に戻られました。以来、浅野先生は31年、里見先生は 28 年の

永きにわたって、大阪大学で研究と教育に力を尽くしてこられました。その間、大学紛争

があり、また教養部解体、大学院重点化などいくつかの大きな大学改革もあり、旧「哲学

哲学史第一講座」と旧「哲学哲学史第二講座」の区別は解消して、学部は「哲学・思想文

化学専修」となり、大学院は「哲学哲学史」と「現代思想文化学」という二つの専門分野

となりました。この様な大学改革に伴って何度か配置換えがありましたが、里見先生は、

「哲学哲学史」の教授として、浅野先生は「現代思想文化学」の教授として定年退官なさ

れ、ともに大阪大学名誉教授となられました。 両先生のこれまでのご研究については、後の「功績覚書」でご紹介するとおりですが、

その幅広い優れたご研究にもとづいて、これまで多くの学生を教えて社会に送り出し、ま

た多くの研究者を育てられました。私たちが受けてきたその測り知れない学恩に対して、

ここに深く感謝申し上げます。永い間、有難うございました。 入江幸男

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里見軍之名誉教授 略歴

昭和 15 年 12 月 11 日 岡山県に生れる

昭和 40 年 3 月 大阪大学文学部哲学科卒業

昭和 42 年 3 月 大阪大学大学院文学研究科哲学哲学史専攻修士課程修了

昭和 42 年 4 月 大阪大学文学部助手

昭和 46 年 3 月 同上 辞職

昭和 46 年 4 月 立命館大学経済学部助教授

昭和 50 年 9 月 同上 辞職

昭和 50 年 10 月 大阪大学文学部助教授

昭和 63 年 6 月 大阪大学文学部教授

平成 元 年 5 月 文学視学委員(高等教育局)(平成 9 年 3 月まで)

平成 元 年 6 月 文学博士(大阪大学)

平成 10 年 4 月 大阪大学評議員に併任(任期 2 年)

平成 11 年 4 月 大阪大学教授大学院文学研究科に配置換

平成 16 年 3 月 定年退職

平成 16 年 4 月 大阪大学名誉教授

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里見軍之名誉教授 研究業績等一覧

著書 1 『社会の哲学』(共著) 昭和 50 年 9 月 学文社 2 『歴史の哲学』(共著) 昭和 55 年 4 月 北樹出版 3 『哲学の諸問題』(共著) 昭和 59 年4月 晃洋書房 4 『現象学と方法の問題』(単著) 昭和 63 年 3 月 大阪大学文学部紀要、第 27 巻 5 『ドイツ観念論とディアレクティク』(編著) 平成 2 年 11 月 法律文化社 6 『現代思想のトポロジー』(編著) 平成 3 年 3 月 法律文化社 7 『哲学基本事典』(編著) 平成 4 年 4 月 富士書店 8 『知と行為』(共著) 平成 5 年 12 月 ミネルヴァ書房 9 『現代哲学の潮流』(編著) 平成 8 年 7 月 ミネルヴァ書房 10 『自然のなかの人間』(編著) 平成 13 年 2 月 大阪大学文学研究科広域文化形態論講座 11 『コミュニケーションの存在論』(編著) 平成 13 年 3 月 科学研究費補助金研究成果報告

書 論文 1 フッサールの「志向性」理論(単著) 昭和 43 年 12 月 『待兼山論叢』第 2 号 2 フッサールにおける認識論的なものと形而上学的なもの(単著) 昭和 47 年 10 月『現象学

研究』第 1 号 3 「意識の現象学」についての一考察(単著) 昭和 48 年 12 月 『立命館文学』第 341/342/343

合巻号 4 フッサールの時間論(1)(単著) 昭和 54 年 3 月 『哲学論叢』第 4 号 5 フッサールの時間論(2)(単著) 昭和 54 年 11 月 『哲学論叢』第 5 号 6 フッサールの時間論(3)(単著) 昭和 55 年 10 月 『哲学論叢』第7号 7 「現象学的還元」考(単著) 昭和 58 年 11 月 『哲学論叢』第 13 号 8 高橋哲学について(単著) 昭和 60 年 11 月 『哲学論叢』第 16 号 9 純粋論理学と超越論的論理学(単著) 昭和 62 年 12 月 『哲学論叢』第 18 号 10 カント図式論の射程(単著) 平成元年 12 月 『哲学論叢』第 20 号 11 ハイデッガーのカント解釈(単著) 平成元年 12 月 『待兼山論叢』第 23 号 12 理想主義者フッサール(単著) 平成 3 年 11 月 『現象学年報』第 7 号 13 第三批判の体系性(単著) 平成 4 年 1 月 『立命館文学』第 522 号 14 生と学と-フッサールのディルタイ批判(単著) 『アルケー-関西哲学会年報』第 1 号 15 主観的目的論の帰趨-カントとフッサール(単著) 平成 8 年 1 月 『現象学年報』第 11 号 16 超越論的哲学の可能性-カント哲学の位置づけ(単著) 平成 10 年 3 月 『メタフュシカ』 第 2 号

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17 感情論素描(単著) 平成 10 年 3 月 『感情の解釈学的研究』(科学研究費補助金研究成果 報告書) 18 純粋経験について(単著) 平成 11 年 12 月 『待兼山論叢』第 33 号 19 生活世界と科学技術(単著) 平成 16 年 2 月 『科学と社会』(科学研究費補助金研究成果

報告書)

その他 1 フッサールの受動的総合の理論(要旨) 昭和 45 年 9 月 『関西哲学会紀要』第 10 号 2 心身関係論(要旨) 昭和 47 年 2 月 『立命館経済学』第 20 号 3 哲学的人間学(クーン)(共訳) 昭和 54 年 6 月 白水社 4 伝統を近寄せること(ローディ)(翻訳) 昭和 62 年 12 月 『哲学論叢』第 18 号 5 ウィーン学団(クラフト)(共監訳) 平成 2 年 9 月 富士書店 6 「記述」「形相」「理念」 平成 2 年 9 月 『岩波哲学・思想事典』 学会発表 1 フッサールの受動的綜合の理論 昭和 44 年 10 月 関西哲学会第 22 回大会

一般研究発表 天理大学 2 カントと超越論的現象学 昭和 62 年 11 月 日本カント協会第 12 回大会

シンポジュウム提題 東京大学 3 学と生と-フッサールのディルタイ批判- 平成 4 年 11 月 関西哲学会第 45 回大会

委嘱による発表 高知大学 4 主観的目的論の帰趨-カントとフッサール- 平成 6 年 11 月 日本現象学会第 16 回

大会 シンポジュウム提題 神戸大学 5 超越論的哲学の可能性-カント哲学の位置づけ- 平成 8 年 11 月 日本カント協会

第 21 回大会 シンポジュウム提題 愛知学院大学 講演 1 Japanese View of Nature 平成 15 年 10 月 State Univ. of New York at Buffalo 2 哲学の現在(シンポジュウム「人文学の現在」提題) 平成 15 年 11 月 大阪大学大学

院文学研究科

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里見軍之名誉教授 功績覚書

里見軍之名誉教授は、昭和 40 年 3 月大阪大学文学部哲学科を卒業し、同年 4 月同大学大学院

文学研究科修士課程に入学、哲学を専攻し、昭和 42 年 3 月同課程を修了した。同年大阪大学文

学部助手に採用され、昭和 46 年同助手を退職した。その後同年 4 月立命館大学経済学部助教授

に採用され、昭和 50 年 9 月に退職した。つづいて同年 10 月大阪大学文学部助教授に採用され、

同時に大学院文学研究科担当を命ぜられ、昭和 63 年 6 月に同教授に昇任、同 9 月には文学博士

(大阪大学)の学位を授与された。平成 11 年 4 月大学院重点化に伴い、同大学大学院文学研究

科に配置換となり、平成 16 年 3 月 31 日付けで定年退官した。 同教授は、現象学とりわけフッサールの現象学を、哲学史のコンテクストにおいてその歴史

的な位置づけと現代的な意義とを明らかにすることを研究課題としてきた。第一に、ドイツ観

念論の伝統では、現象を絶対者との関係において位置づけるのに対して、現代の現象学は、神

なき時代において如何にして内なるアプリオリなものを提示しうるのか、という問題設定の転

換を図ったものとして捉えた。そして現象学を、神学的な体系からより科学的な体系への変換

を図る試みとして明らかにした。第二に、19世紀末から20世紀初めにかけての、集合論の

形成や相対性理論の登場する所謂科学の危機の時代、あるいは他方では、自然科学の隆盛に伴

う精神科学の危機の時代において、哲学がこの事態に如何に対応したかという視点から、新カ

ント派、生の哲学、実証主義、経験批判論、数学基礎論などに応答し、また対決するところか

ら現象学が形成されたと捉えて、その形成史を明らかにした。第三として、現代哲学の可謬主

義的、相対主義的潮流のなかにあって、あくまで基礎づけ主義という基盤を守りつつも、現象

学は解釈学の考え方をとりいれて旧式の意識中心主義的、独我論的な超越論的哲学から脱皮す

べきことを説いた。第四には、現代現象学形成史という問題意識から、フッサールとハイデガ

ーとの師弟関係を研究し、フッサールが論理学の基礎づけにおいて取り上げた考え方と道具立

てをハイデガーが方法論として整備、明示化し、このハイデガー的現象学から刺激を受けて後

期フッサールが自己の見方を自覚し使用したという解釈を提案して、脈絡の掴みにくい両者の

相互関係を読み解いた。第五には、「時間」というテーマについて、時間または歴史と永遠とい

うような形而上学的な問題設定によるのではなく、時間をあくまで相互主観的、規約的な媒介

変数として捉えることによって、従来の時間論の無用な混乱を避けることができるという見方

を提示した。こうした幅広く透徹した研究は斯界に大きな反響をよぶとともに、現象学研究の

水準を高めたものとして注目されるところとなった。 以上のように同教授は近現代哲学史および現象学研究に積極的に取り組み、学界に大きく寄

与したのであるが、その精緻なテキスト解釈と、どこまでも哲学の学問性に深く迫ろうとする

真摯な研究姿勢はその該博な知識とあいまって後進の者達に強く影響を与え、教育および研究

指導においても顕著な成果を挙げ、多くの優秀な研究者を育ててきた。また、積極的な論文指

導および審査、研究室の機関紙『哲学論叢』『カンティアーナ』の編集・発行、科学研究費補助

金による共同研究の組織、広域文化形態論講座主宰の共同研究の推進等を通じて、研究室の運

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営全体にもその指導力を発揮し、それにより哲学哲学史専門分野はその伝統を継承、発展させ、

日本における現象学研究の拠点として高く評価されるようになったことは衆目の一致するとこ

ろである。 一方、学内においては、管理運営に関しても同教授は、一貫して誠実に職務を果たしてきた。

大学全体の組織活動においては、評議員、広報委員会、制度委員会、自己評価委員会、同和委

員会等の委員を務め、学部・研究科内においても、計画委員会委員長、庶務委員会、教務委員

会、国際交流委員会、大学院委員会等の委員として真摯に活動してきた。 他方、学外においては、関西哲学会、関西倫理学会、日本現象学会、日本フィヒテ協会等の

委員として学界における指導的役割を果たしてきた。また、文部省文学視学委員会委員、大学

基準協会基準委員会委員、国立高等専門学校教員選考および教員資格認定に関わる論文審査協

力者等として社会的に貢献してきた。 (文、入江幸男)

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浅野遼二名誉教授 略歴

昭和 15 年 6 月 16 日 ソウル(京城)に生れる

昭和 39 年 3 月 大阪大学文学部哲学科卒業

昭和 41 年 3 月 大阪大学大学院文学研究科哲学哲学史専攻修士課程修了

昭和 44 年 3 月 大阪大学大学院文学研究科哲学哲学史専攻博士課程単位取得退学

昭和 45 年 4 月 愛知学院大学教養部専任講師

昭和 46 年 12 月 愛知学院大学退職

昭和 47 年 1 月 大阪大学医療技術短期大学部講師

昭和 50 年 6 月 大阪大学医療技術短期大学部助教授

昭和 62 年 8 月 大阪大学医療技術短期大学部教授

平成 5 年 10 月 大阪大学教養部教授に配置換、大阪大学医療技術短期大学部教授併任

平成 6 年 4 月 大阪大学教授文学部に配置換

平成 8 年 3 月 博士(文学)の学位授与(大阪大学)

平成 11 年 4 月 大阪大学教授大学院文学研究科に配置換

平成 16 年 3 月 定年退職

平成 16 年 4 月 大阪大学名誉教授

他に主な出向した大学院および大学;大阪大学大学院医学系研究科、大阪府立看護大学大学院

看護学研究科、愛知教育大学、大阪経済大学、関西学院大学

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浅野遼二名誉教授 研究業績等一覧

著書

1 『現代倫理学』-その系譜と課題-(共著) 昭和 54 年 10 月 杉山書店

2 『歴史の哲学』(共著) 昭和 55 年 5 月 北樹出版

3 『哲学の諸問題』(共著) 昭和 56 年 4 月 晃洋書房

4 『現代思想のトポロジー』(共著) 平成 3 年 3 月 法律文化社

5 『ベルン時代のヘーゲル』(単著) 平成 7 年 2 月 法律文化社(学位論文・平成 6 年度

文部省科学研究費補助金交付)

6 『現代哲学の潮流』(共著) 平成 8 年 7 月 ミネルヴァ書房

7 『生と死の文化史』(共著) 平成 13 年 6 月 和泉書院

論文

1 キルケゴールの実存弁証法(単著)昭和 42 年 7 月 愛知学院大学論叢『一般教育研究』第

15 号(43-68 頁)

2 キルケゴールの不安と絶望の概念について(単著)昭和 43 年 2 月 愛知学院大学論叢『一

般教育研究』第 16 号(175-202 頁)

3 キルケゴールの「単独者」思想(単著)昭和 44 年 12 月 大阪大学文学会『待兼山論叢』

第 3 号(175-202 頁)

4 キルケゴールの「イロニー」思想(単著)昭和 47 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 5 輯(1-49 頁)

5 キルケゴールの「フモール」思想(単著)昭和 48 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 6 輯(1-46 頁)

6 キルケゴールの逆説弁証法(単著)昭和 49 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究 紀要』人文科学篇 第 7 輯(1-40 頁)

7 ヘーゲル「論理学」の弁証法(単著)昭和 51 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 9 輯(1-31 頁)

8 ニーチェのヘーゲル哲学批判(単著)昭和 53 年 6 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 10 輯(47-77 頁)

9 キルケゴールとニーチェの歴史哲学(単著)昭和 54 年 3 月 大阪大学文学部哲学哲学史

第 2 講座『哲学論叢』第 4 号(71-92 頁)

10 ニーチェの「未来の哲学者」像(単著)昭和 54 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 11 輯(29-56 頁)

11 愛と和解(単著)昭和 55 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部『研究紀要』人文科学篇

第 12 輯(59-91 頁)

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12 愛と別離(単著)昭和 56 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部『研究紀要』人文科学篇

第 13 輯(55-78 頁)

13 愛と倫理(1)(単著)昭和 60 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部『研究紀要』

人文科学篇 第 17 輯(1-23 頁)

14 若きヘーゲルの「イエス」像(1)(単著)昭和 61 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 18 輯(1-26 頁)

15 「選択」理論(単著)昭和 62 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部『研究紀要』

人文科 学篇 第 19 輯(1-29 頁)

16 若きヘーゲルの「愛と生」の思想(1)(単著)昭和 63 年 12 月 大阪大学医療技術短期

大学部『研究紀要』人文科学篇 第 20 輯(1-34 頁)

17 若きヘーゲルの「イエス」像(2)(単著)平成 2 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 22 輯(1-30 頁)

18 若きヘーゲルの「イエス」像(3)(単著)平成 3 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 23 輯(1-32 頁)

19 若きヘーゲルとキリスト教(1)(単著)平成 4 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 24 輯(1-58 頁)

20 末期癌の告知と人工中絶について-医療倫理学教育の最重要課題-(単著)

平成 5 年 10 月 日本医学哲学・倫理学会『医学哲学倫理』第 11 号(36-47 頁)

21 若きヘーゲルとキリスト教(2)(単著)平成 5 年 12 月 大阪大学医療技術短期大学部

『研究紀要』人文科学篇 第 25 輯(1-55 頁)

22 脳死の考察-シドニー宣言から脳死臨調までの新しい死の系譜-(単著)

平成 7 年 12 月 大阪大学文学部哲学哲学史研究室『カンティアーナ』第 26 号(1-26 頁)

23 世紀末の死生観(単著)平成 8 年 8 月

大阪大学開放講座『情報・ストレス・変化』(139-147 頁)

24 パターナリズムの黄昏(単著)平成 8 年 12 月 大阪大学文学部哲学講座『メタフュシカ』

第 27 号(123-140 頁)

25 生命の哲学(1)(単著)平成 9 年 3 月 大阪大学『文学部紀要』第 37 巻(1-27 頁)

26 距離のパトス-あらゆる価値の価値転換-(単著)

平成 10 年 3 月 平成 9 年度科学研究費 補助金・基盤研究(B)

研究報告書『感情の解釈学的研究』(49-63 頁)

27 キルケゴールの「想起」論(1)(単著)平成 10 年 12 月

大阪大学文学会『待兼山論叢』第 32 号(1-12 頁)

28 インフォームド・コンセントをいかに考えるか(単著)平成 13 年 3 月

平成 12 年度科学研究費補助金・基盤研究(B)

研究報告書『コミュニケーションの存在論』(149-156 頁)

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訳書 1 ピヒト、『いま、ここで』-アウシュヴィッツとヒロシマ以後の哲学的考察- (共訳)

第 1 部「法と倫理の人間学的基礎」を担当。1.カントによる国際 法の先験的基礎づけ

2.哲学と国際法 3.人権論の精神史的背景について 4.倫理学の 哲学的概念について 昭和 61 年 2 月 法政大学出版局 (本人担当分、21-225 頁)

2 ピヒト、『続いま、ここで』-アウシュヴィッツとヒロシマ以後の哲学的考察-(共訳) 第 5 部「教育-人間形成-科学」を担当。1.マスメディアと社 会の未来 2.創造性と人

間形成 3.都市計画における音楽 4.教育の危機から教育政策 の危機へ 5.成人教育

6.国家と社会は大学に何を期待しているか 7.教育とはなにか 8.悪について 平成 4 年 3 月 法政大学出版局 (本人担当分、 375 -537 頁)

事典項目 1 『哲学基本事典』-哲学入門-(共著)解説 1、人名 4、事項 13 平成 4 年 4 月 富士書店 学会発表 1 キルケゴールの「時の充実」について 昭和 42 年 7 月 カント・アーベント(大阪大学) 2 キルケゴールの瞬間弁証法 昭和 42 年 7 月 東海独文学会(南山大学) 3 キルケゴールにおける弁証法の問題 昭和 45 年 10 月 日本哲学会(愛媛大学) 4 ヘーゲルの「論理学」 昭和 50 年 10 月 関西哲学会(愛媛大学) 5 ニヒリズムの淵に立つバイオエシックス 平成 3 年 11 月 関西倫理学会(大阪府立大学) 6 末期癌の告知と人工妊娠中絶について-医療倫理学教育における最重要課題-

平成 4 年 11 月 日本医学哲学・倫理学会(大阪医科大学) 7 脳死の考察 平成 7 年 7 月 大阪カント・アーベント(大阪大学) 講演 1 看護婦である前に 平成 2 年 12 月 看護職員研修会(大阪大学附属病院) 2 世紀末の死生観 平成 8 年 11 月 第 28 回大阪大学開放講座(吹田市文化会館) 3 パターナリズム再考-安楽死事件における医師・患者の関係の再検討- 平成 8 年 12 月

大阪大学文学部共同研究「自然と人間」 第 1 回研究会(大阪大学全学共通教育機構) 4 尊厳死と安楽死 平成 9 年 5 月 平成 9 年度懐徳堂春季講座(大阪府立情報文化センター) 5 生と死について考える-尊厳死と安楽死- 平成 9 年 7 月 池田市生涯教育推進会研部会

講演会(サンシティ・池田駅前南会館共同施設) 6 心豊かに生きる 平成 9 年 10 月 高齢者のための中央教養教室(豊中市立中央公民館) 7 脳死・尊厳死・安楽死・自殺 平成 9 年 11 月 大阪大学文学部第 30 回教官研究会(阪大

文学部) 8 実存主義研究に関する大学院教育・研究協力 平成 10 年 2 月 広島大学文学部(東広島市) 9 風土を読む 平成 10 年 9 月 島根県立松江東高校東雲祭基調講演(松江東高校) 10 「MR の倫理」としての生命倫理学(1)平成 14 年 7 月 阪大微生物研究会「MR 教育

研修」(吹田市、阪大微生物研究会) 11 「MR の倫理」としての生命倫理学(2)平成 14 年 11 月 阪大微生物研究会「MR 教育

研修」(吹田市、阪大微生物研究会)

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浅野遼二名誉教授 功績覚書

浅野遼二教授は、昭和 39 年 3 月大阪大学文学部哲学科を卒業、同年 4 月同大学大学院文学研

究科修士課程に入学、哲学哲学史を専攻し、昭和 41 年 3 月同課程を修了、同年 4 月より同研究

科博士課程に進学、昭和 44 年 3 月同課程を単位取得退学。愛知学院大学教養部助手を経て、昭

和 45 年 4 月同専任講師に昇任し、昭和 46 年 12 月同大学を退職した。昭和 47 年 1 月大阪大学

医療技術短期大学部講師に採用され、昭和 50 年 6 月同助教授を経て、昭和 62 年 8 月同教授に

昇任した後、平成 5 年 10 月大阪大学教養部教授に配置換となった。平成 6 年 4 月同大学文学部

教授に配置換となり、同時に大学院文学研究科の担当を命ぜられ、平成 5 年 10 月から平成 8

年 3 月まで医療短期大学部教授を併任し、平成 8 年 3 月には博士(文学)(大阪大学)の学位を

授与された。その後、平成 10 年 4 月同大学大学院医学系研究科の担当を命ぜられ、平成 11 年

4 月からは大学院重点化に伴い、同大学大学院文学研究科教授に配置換となり、平成 16 年 3 月

31 日定年退官した。

同教授の業績は、第一にヘーゲルの弁証法と宗教思想、続くキェルケゴールの実存哲学及び

ニーチェの生に関する哲学の研究と教育、そして第二に生命倫理学の研究と教育の二領域にわ

たる。第一の領域においては、ヨーロッパ哲学の最も重要な体系の一つであるドイツ観念論を

完成したヘーゲルの弁証法的思想を解明し、ヘーゲル哲学の批判を通して現代思想の方向を示

したキェルケゴールの実存弁証法やニーチェの反弁証法的思想を対置するとともに、それらの

思想の形成過程を一貫して「生」の立場から解釈する点に特色を持つ研究が重ねられ、その成

果は本学の教育や学外の「実存主義研究に関する大学院教育・研究協力」などを通して還元さ

れた。第二の領域においては、脳死、臓器移植、インフォームド・コンセント、生命の質、尊

厳死や安楽死などの問題を扱った多数の論考があり、これらの先駆的研究により同教授はこの

方面では早くから認められてきた。加えて、末期癌と人工妊娠中絶に関する看護学生への綿密

なアンケート調査を基に試みられた現代人の生命倫理観についての実証的研究は、医療倫理学

教育の最重要課題を問うものとして、医療関係者からも注目された。またこの領域における研

究の成果は、長年にわたる生命倫理学と看護倫理学の教育において還元され、高い評価を得て

いる。さらに近年では、生命倫理学が問いかけている「生」の具体的事実を基礎にして弁証法

的生命哲学の構築を企図するという、先の二領域を総合する独創的な新しい試みがなされ、諸

方面において同教授の深い識見が求められている。

さらに、同教授の教養教育における顕著な功績として、生命思想に関する講義とともに、特

に長年にわたり基礎セミナーとして開講された「旅と風土」が挙げられる。これは、風土学に

関連する文献の読解を通じて、人間の集団生活における風土のもつ役割を明らかにしていくと

ともに、受講生と教官の共同作業により旅行計画を立案・実施し、実際の旅行体験を通して風

土の文化的意味を検証していくという特色ある試みであり、大変好評であった。

他方、同教授は、学内では医療技術短期大学部の一般教育主任として医学部保健学科開設に

協力し、大阪大学医学部附属病院においては看護職員研修の講師を務めた。また学生生活委員

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会をはじめ、いちょう祭委員会を務め、本学の管理運営に貢献した。さらに学外では日本医学

哲学・倫理学会評議員を務めるほか、(財)阪大微生物病研究会倫理委員として MR 教育研修

の講師を務め、また市民に向けては懐徳堂、あるいは豊中市や池田市などの自治体等で講演を

行い、社会貢献も顕著である。

(文、望月太郎)

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「勉強もせんと、遊んでばかり、気がついたらお母ちゃんになってしもて」

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【ご退官に寄せて】

学生時代から両先生と最も永く親交を持ってこられた志水紀代子先生に、

今回の退官を記念して、編集委員から餞の言葉をお願いいたしました。

「勉強もせんと、遊んでばかり、

気がついたらお母ちゃんになってしもて」

― わが哲学的半生 ―

志水紀代子

大学に入学してから43年が経過した。ついに大学を出られないままで、今に至っている。

花の35年組―60年安保の3人組の中で、私学にいる私は、良くも悪くもまだ現役で、多忙

極まりない毎日である。同じ大学には、60年安保世代の同窓の同僚もいるが、やはり専攻に

おいて、伊達四郎・高橋昭二という二人の類稀な個性的で優れた師匠に師事してきたことで、

退官された浅野遼二・里見軍之のお二人との繋がりがひとしお意味深く、感慨深いのは否めな

い。 お二人がそれぞれに師匠の薫陶を受けて、そのライフワークにおいてもいい仕事を残され、

後輩の指導に当たってこられたことは、すでに周知のことであろう。それに比すれば、私はい

わば講座の「鬼子」であった。お二人には到底及ばず、自己流、勝手流で、伊達先生に言われ

た言葉が実に象徴的で、今でも耳元で聞こえるようである。「勉強もせんと、遊んでばかりいて。

気がついたらお母ちゃんになってしもて」。そんな言葉を手懸りにしつつ、この講座において、

お二人とかかわりあって過ごしてきたわが哲学的半生をここで少しばかり振り返ってみたい。

先に述べたとおり、私たちが入学したのは1960年、いわゆる60年安保の年である。戦

後15年、文学部の入学定員は60名で、男子学生は詰襟が普通だった。阪大の襟章が誇らし

く、学生はまだまだエリートだった。生活は貧しかったが、しかし政治的には熱い時代で、安

保反対のクラス決議をしては、全学でバスに分乗して、御堂筋デモに出かけていた。そんな時

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「勉強もせんと、遊んでばかり、気がついたらお母ちゃんになってしもて」

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代、池の直ぐ下に下宿していた浅野さんの部屋は、その主の風貌や面倒見のよさで、クラスの

みんなの溜まり場のようになっていた。この時代に培ったクラスの一体感、そしてここに集ま

った仲間たちが、後年浅野さんが病に倒れ、リハビリをしつつ現役として頑張っていかれる大

きな支えになっていたのではなかろうか。それは自らの病に対峙しつつ真摯に哲学していかれ

た伊達先生ご自身を髣髴とさせるものでもあった。

やがて、「全学連」の政治の季節は終焉を迎えるが、私は、とある昼休み、クラスの友人に誘

われてバレー部のコートに連れて行かれた。軽々とボールを弾き返して楽しむ部員のなかで、

運動神経だけは自信のあった私が、いくら弾き返そうとしてもボールは飛ばなかった。このと

き、目からうろこが落ちた。御堂筋デモの時もまるで無関係であるかのように練習をしていた

人たちを偏見の目でみていた自分を恥じた。それがバレーボールとの出会いであった。伊達先

生には「遊んでばかりいて」といわれてしまったバレーボールだったが、一番簡単そうに見え

たパスが、もっとも難しかった。

やがて私は大学院生になったとき、バレー部の一年先輩と、ボールの取り持つ縁で結婚した。

「わたしたちは一緒になることで、もっと自由になります」と仲間の前で宣言したのだったが、

実際に子どもが生まれて、修士論文を書かなければならなかったとき、子育てと論文作成を両立

できない極限状況に追い込まれて、さすがの私も、仕事か子供かの選択を迫られた先達の苦労

をようやく思い知った。 「やっぱり私には哲学は向いてないかもしれない」と夫に弱音を吐いたとき、彼はこう言っ

た。「残念ながら君に哲学が向いてるとボクには言えない。なぜならボクの専門と違うからや。

けど、人間、やることがある限りは、やるしかしゃあないやないか」と。 このことばはまさにカントの実践哲学そのものだったのである。わたしはこの強烈な大阪弁

のインパクトで目が覚めた。そうだった。私のありのままのこの情況で、「私の哲学」をするこ

とが必要だったのだと。焦って空転していた頭が正常に再び回転を始め、伊達先生の退官に修士

論文が辛うじて間に合った。病弱だった先生は、その一年後に逝ってしまわれた。その間、不

肖の弟子は博士課程に進んで、地域にも学校にも当時まだ子どもを預かってくれる保育所がな

かったので、仲間といっしょに阪大の豊中地区に共同保育所を作っていたのである。

刀根山の裾野にあったその共同保育所は、24年後に閉所され、作ったときのメンバーとそ

の子どもたちが中心になって、最後の記録を冊子に残した。 院生のころ、法文経の建物が無期限ストで封鎖されていて、私は子どもを保育所に迎えにい

って、そのまま子どもを伴って団交に参加したことがあった。教授席に座っておられた高橋先

生が、つと立ち上がり、にこにこしながら息子のところに来て、ご自分の喘息のために持って

おられたであろう飴玉を渡して下さった。今は取り壊されてしまった文学部前の木造校舎の一

室でのことである。いささか険悪な緊張した空気のなかで、先生の歩かれた床がギシギシ鳴っ

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「勉強もせんと、遊んでばかり、気がついたらお母ちゃんになってしもて」

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ていたのを思い出す。亡くなられてはや20年が経ち、そのときの息子は一児の父となって、

いまは夫婦ともども言語聴覚士の仕事をしている。

前後するが、高橋先生が癌で逝かれたのは1984年2月19日のこと、1月に57歳の誕

生日を迎えられて間なしであった。里見さんについて、このときの忘れられない一コマがある。

この訃報を私はミュンヘンで受け取った。二人の息子を伴っての子連れ留学中であったが、夫

の送ってくれた高橋先生の遺著『若きヘーゲルにおける媒介の思想(上)』は衝撃的だった。そ

れは、永久に(下巻)は出ないことを覚悟した(上巻)だったからである。膨大なノートの山

を書斎に残したままで、二度と戻ることがなかったその人から、私は人間が生きること・学問す

ることは「未完の完」なのだと教えられた。 83年の4月、先生は豊中市民病院に入院中で、ご挨拶に行ったとき、「結核の再発だから心

配ないよ」とおっしゃった。それがお目にかかった最後だった。その後肺ガンを手術されたこ

とを知った。それが成功したと思ったのもつかの間、脳に転移して、ご自身も今度は死を覚悟

され、遺書のようなお手紙を下さった。その知らせが日本から入ったとき、ご自宅にお電話し

て話したのが最後になった。その日は8月6日で、朝からヒロシマ、ヒロシマとラジオのニュ

ースが伝えていた。奇跡的にその手術が成功したとき、ご本人に生への希望が仄見えたという。

やがて12月に血尿が出だして、腎臓への転移がわかり、残酷にもその希望を打ち砕く。そん

な壮絶な人生のドラマを目にしつつ、当時助教授だった里見さんは、次年度の授業計画を立て

なければならなかった。その中に、高橋昭二の名はもはや入れることはできない。その作業を

しなければならないジレンマが綴られた里見さんのそのときの手紙も壮絶であった。

社会の「常識という柵」は、いまも目に見えないところで時代精神を形成しているが、それ

に抗いつつ、いつしかここまできたように思う。

今、私は高橋先生が亡くなられた年齢を越えて、伊達先生の晩年の 64 歳になった。私がこ

の二人の師匠に言われた、「哲学を学ぶのに女を忘れなければ、あるいは、哲学は女には向か

ない」ということばに、これまでのどのような哲学者も、「時代の子」であったということを

感慨を込めて思わずにはいられない。そして「弁証法的に」二人の師匠に鍛えられた自分もま

た「時代の子」であったと、来し方を振り返りつつ、つくづく思うのである。

第二講座の「鬼子」は、目下2005年7月に出版を予定している韓国の「戦争と女性人権

センター」との共同プロジェクト「日韓女性による共通歴史教材」の編纂に追われる日々であ

る。 危機的な暗礁に幾度も乗り上げつつ、それでも後へ引くことができないのは、多くの出会い

の中で鍛えられ、培われてきたことと決して無縁ではない。とりわけさんざん迷惑をかけた里

見さん浅野さんのお二人には、ただ感謝の一語に尽きる。苦言を呈しつつも、叱咤激励し、見

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「勉強もせんと、遊んでばかり、気がついたらお母ちゃんになってしもて」

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捨てることなく暖かい手を差し伸べて、今日まで見守っていただいた。お二人から支えられ、

与えられて来たものは、後から来るひとたちにバトンタッチしていかねばならない。 それが私に課せられた責任であろうと思っている。

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ディルタイの世界観学について

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ディルタイの世界観学について

大野篤一郎

ディルタイが世界観学について 初に主題的に論じたものは、『ディルタイ全集』第 8 巻の冒

頭に置かれた「歴史的意識と世界観」という遺稿である。これが執筆された年代は、1896 年頃

と推定される。その根拠は、そこに出てくる「ウーゼナー:束の間の神」(VIII,45)1という句が、

1896 年 3 月 10 日付けのヨルク伯宛ての書簡で、ディルタイがギリシャの宗教についてのヘル

マン・ウーゼナーの見解を引用し、「束の間の神が特殊な神々の段階以前にある段階の名残であ

るという仮定は、証明不可能です」2と述べている箇所と一致していることにある。

この遺稿では、ディルタイは人生観や世界観が普遍妥当性を要求することと、それが歴史的

観点から見れば、相対的な価値しか持たないこととの間にあるアンチノミーの問題から出発し

ている。ディルタイによれば、このアンチノミーは、哲学がその体系の多様性と生の動的性格

との間にある連関を意識することによって解決できる。「世界観の主要形態を比較法によって生

の動的性格の多様性から導き出すことによって、問題を単純化することが可能になる」(VIII,8)

と彼は言う。言い換えると、世界観の諸類型が生の動的性格の持つさまざまな側面の相対的表

現であると捉えるならば、そこにあるのは多様性だけであって、矛盾は存在しないというので

ある。しかし、われわれにとって問題なのは、いろいろな世界観の類型があるとしても、それ

らの間に客観的妥当性を持つものとそうでないものとの区別はないのかということである。し

かし、そもそもディルタイが世界観と呼ぶものは、後で明らかになるように、世界についての

客観的な認識だけを意味しているのではない。そこには外界の表象に起因するさまざまな感情

やそれに基づく価値評価が含まれており、更に、どう行動すべきかという規範や行為の目的が

含まれている。そうすると、世界観を単に認識のレベルでのみ論じることにどれだけ意味があ

1

『ディルタイ全集』(Wilhelm Dilthey, Gesammelte Schriften. 23 Bde, Stuttgart u. Göttingen, 1956-2003)から引用す

る際は、巻数をローマ数字、ページ数をアラビア数字で表記する。 2 Sigrid Schulenburg (Hrsg.), Briefwechsel zwischen W.Dilthey und dem Grafen Paul Yorck von Wartenburg.

Hildesheim-New York, 1973, S. 209.

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ディルタイの世界観学について

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るかということになり、世界観の間には違いはあるが、矛盾はないというディルタイの主張は、

ある程度認めざるを得ないように思われる。そこで、先ず、ディルタイが世界観をどのように

捉えていたか、特にその基礎にある心的生の構造連関に基づいて世界観がどのように成立する

と考えていたかを考察することにしよう。

1 世界観の成立の基礎にある心的生の構造と社会の構造

1907 年に論文集『体系的哲学』3の冒頭に収載された論文「哲学の本質」の本来の主題は、「哲

学とは何か」という問いに答えることであったが、ディルタイは、ここで当時構想されていた

世界観学の中にその一つの答えを見出していたように思われる。「精神的世界におけるその位置

から理解された哲学の本質」という第 2 部の表題がそのことを簡潔に言い表している。言い換

えるとディルタイは、社会の中で哲学がどのような機能を果たしているかを明らかにすること

によって「哲学とは何か」という問いに対する答えを見出そうとしている。その際、先ず必要

なことは社会がどのような構造をもっているかを考察することであり、そのためには、心的生

の構造連関にまで遡る必要があるとディルタイは考えている。では、社会の構造の基礎にある

心的生の構造とはどのようなものであろうか。

ディルタイによれば、「あらゆる人間的所産は、心的生とその外界との関係から生じる。さて

科学はどこでも規則性を探求するから、精神的所産の研究も心的生の中にある規則性から出発

しなければならない」(V,372)。この規則性には二つの種類があり、その一つは、心的生の中の

変化を手がかりに確証される斉一性(Gleichförmigkeit)である。もう一つの規則性は、心的生の諸

過程を結びつけている関係であり、それが心的生の連関と呼ばれるものである。それはまた心

的生の構造とか、構造連関と呼ばれる。それは「発達した心的生の中にあるさまざまな性質を

もった心的事実が内的に体験可能な関係によって互いに結びつけられた配置」である。この構

造連関の前提となっているのは、心的生は外界との相互作用に成り立っているという基本的な

事実である。言い換えると心的生は先ず外界によって制約されていると同時に外界に対して合

目的的な仕方で反応するという事実である。心的生は、外界にある対象から感覚や知覚を通じ

てさまざまな刺激を受け取る。こうして外界から受け取られた感覚、あるいは知覚は、一方で

表象を形成し、他方で感情を生み出す。この外的原因と心的生との関係に刺激されて、われわ

れはこれらの印象に関心あるいは注意を寄せる。対象把握の作用の下で、感情の基礎の上に、

外界に対する価値評価が生まれる。そしてこの価値評価に導かれて、われわれは、合目的的な

意志行為によって外界の性質や状態を変えるか、あるいは自分の生の過程をわれわれの欲求に

適応させる。これがディルタイが「心的生の構造連関」とよぶものの内容である。

では、社会はどのような構造をもっているだろうか。「孤立した存在としての個人は、単なる

抽象に過ぎない」とディルタイは言う。「血縁、地域的共同生活、分業における協働、支配と服

3 Paul Hinneberg (Hrsg.), Systematische Philosophie. (Die Kultur der Gegenwart.Teil I,Abteilung VI) Leipzig u.Berlin, 1907.

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ディルタイの世界観学について

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従における権力関係が個人を社会の成員にする」(V,375)。このように社会は、構造化された個

人から構成されているから、「社会においても、同じ構造的規則性が作用している。個人の中に

ある機能の分化と相互の関係は、社会においては、分業としてより固定的で有効な諸形態を取

る。精神的労働は、連帯と進歩の意識に導かれて、常に空間的に広がる。こうして社会的労働

の連続性やそこで用いられた精神的エネルギーの増大や労働成果の増大する分化が成立する」

(Ibid.)。

この叙述から明らかになるのは、ディルタイの世界観の捉え方は、個体心理学的であると批

判され、それは確かに的を射た面もあるけれども、文化形象としての宗教、芸術、哲学の成立

根拠として彼が社会的構造を決して無視していたのではないということである。この事実は、

もっと注目されてもよいと私は考える。もし、ディルタイの世界観学が世界観の成立根拠とし

て社会的集団や階級を考えていたならば、それは後に知識社会学がテーマの一つとする「イデ

オロギー論」にもっと近づくことができただろうと考えられるからである。このことは、社会

学者のカール・マンハイムも既に指摘していた点である。1922 年に書かれた論文「文化社会学

的認識の独自性について」(Über die Eigenart kultursoziologischer Erkenntnis)の中で、彼は「ディ

ルタイの理論的著作と具体的に精神史的な労作を特徴づけている問題設定は、語の も広い意

味において、社会学的な課題設定とみなすことができる。・・・共同体意識から、世界観から、

個々の(文化)形象を理解しようとする彼の自分自身に設定したプログラムは、決して歴史的

なものではなく、狭い意味での思想史的なものでもない。個々の事実を別の個々の事実に基づ

いて説明するのではなくて、それらの事実の背後にある総体性、――それは特に世界観と呼ぶ

ことができるが――、に基づいて説明する場合には、もはや出来事の歴史が書かれるのではな

くて、社会学的発生論的意味解釈が書かれるのである」4と述べて、ディルタイの世界観による

歴史の解釈を社会学的なものであるとみなしている。しかし、他方で、マンハイムが「ディル

タイが個々の文化形象を結局世界観から説明しようとしているとすれば、われわれはこれを既

に語の も広い意味である社会生成的文化説明と名づけたい。しかし、それはまだ狭い意味で

は社会学的ではない。なぜならば、それは作品が根をおろしている世界観的総体性へと立ち戻

ることにとどまっており、・・・この総体性をもう一度社会学的概念のレベルに関係づけようと

はしていないからである」5と言うとき、彼はディルタイの世界観学がまだ十分に社会学にはな

り得なかった理由がどこにあるかを鋭く指摘している。

2 三種類の世界観の成立

さて、ディルタイは、以上述べたように、心的生の構造連関と社会の構造連関に基づいて、

宗教、文学、哲学の機能を説明しようとしている。この社会の中にある目的連関を彼は「文化

の諸体系」と名づける。人間の文化は、現実認識の体系から意志的行為の集合であり分化であ

4 Karl Mannheim, Strukturen des Denkens. Frankfurt a.M., 1980, S. 105. 5 Ibid., S. 107.

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ディルタイの世界観学について

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る文化の体系にまで及んでいるとディルタイは主張する。個人の意志的行為は、世代の変遷に

も関わらず維持される諸連関へと結びつけられる。ここで「諸連関」といわれているのは、経

済生活や法制度や自然支配を意味している。

このような意志の緊張の彼方に生命価値の享受や事物の価値を享受するという態度が成立す

る。それはより具体的に言えば、生の喜び、社交性、祝祭、遊戯、冗談などである。これこそ、

その中で芸術が展開される環境である。芸術の独自性は、自由な遊戯の領域の中にとどまるこ

とであるが、その領域においては同時に生の意味が明らかになるのだとディルタイは考えてい

る。

こうして、宗教・芸術・哲学などの文化形象が作り出される。そして、それらの文化形象も

また心的生の構造と類似の構造をもっているとディルタイは考える。例えば、宗教的世界観の

基礎にあるのは宗教的経験である。それは何よりも先ず目に見えないものとの交渉に成り立つ。

そして宗教的行為の目的と規範もまたこの目に見えないものとの交渉によって規定されている。

ディルタイはこの宗教的経験が歴史的にどのような形式を取ったかを詳しく考察している。宗

教的世界観の成立に関する彼の叙述は、当時のエドワード・タイラーやジェームズ・フレイザ

ーの文化人類学的研究の成果を彼がかなり良く知っていたことを窺わせる。

次に彼は、詩人の人生観に言及する。詩人は言語という手段を用いて、自分の詩的体験を語

ろうとする。しかし、文学が扱うのは、現実に対する意志や関心から取り出された「ある現実

の非現実的仮象」(V,393)である。読者は、作品の中で作者が語りはしなかったが、読者の心に

呼び起こそうとしたあるものを理解しようとする。要するに作者は彼の人生経験にもとづいて

創作するのである。その際、作者が生の一つの現象の中にあるモチーフを生の連関全体との関

係にまで引き上げるとき、彼の作品は成熟していると判断される。ディルタイは文学的世界観

については、その多様性を強調することによって、類型化を断念しているが、このことは、デ

ィルタイの世界観学の不徹底性を示すということもできるだろう。

彼によれば、このような宗教的世界観と文学的世界観と哲学的世界観との間には共通点と相

違点がある。これらの世界観は、何らかの意味で世界についての解釈を与えようとしている点

では、共通性を持っている。哲学的世界観が他の種類の世界観と異なる点は、それが普遍妥当

性を追及する点にある。他方、文学的世界観と違う点は、生に対して改革的に作用する点にあ

る。それは経験と経験科学に基礎を置いていて、体験を対象化する際に概念的思考に基づいて

いる。論理的に判断する思考のエネルギーが体験の深みに入り込むことによって、感情や意志

的行為の世界全体が価値の概念や意志の拘束を表現する規則へと対象化される。価値の領域に

おいては、思考は客観的価値、否、絶対的価値を仮定するようになる。こうして思考が 高善

や 高の規則に到達したとき初めて思考は落ち着く。生を形作る諸契機は、概念を普遍化した

り命題を一般化したりすることによっていくつかの体系へと分かれる。これらの体系が到達す

る 高の概念、すなわち、普遍的存在、究極の根拠、絶対的価値、 高善は、ある目的論的世

界連関の概念にまとめられる。その概念において哲学は、宗教性や芸術的思考と出会う。こう

して、内的な形成法則にしたがって、世界把握の目的論的図式の概要が成立する。

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ディルタイの世界観学について

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世界観がこのように概念によって把握され、根拠付けられ、普遍妥当性へと高められる場合、

それは形而上学と呼ばれる。その際、再び、個性だけでなく、事情、民族、時代が、哲学者の

所でも世界観の不定の数のニュアンスを生み出すとディルタイは言う。その理由は、われわれ

の心的生の構造が世界によって触発される可能性は限りがないからである。同様に、また学問

的精神の状況によって思考の手段が変わるからである。ここでは、ディルタイは哲学的世界観

の類型が必ずしも三つに限定されるものではないことを認めていると思われる。いずれにせよ、

そういうわけで、古代ギリシャ哲学において、目的論的形而上学と自然的体系と世界認識を原

因と結果の関係による現実の把握に制限する世界観との間に対立が生まれた。これに対して、

事物の根拠が世界連関を決定していると考える「客観的観念論」と自由意志の体験を維持し、

それを世界根拠に投影する「自由の観念論」が分離した。この「自由の観念論」という言葉は、

ディルタイ独自の用語であるが、これはある箇所では「主観性の観念論」(IV,547)と名づけられ

ており、「主観的観念論」と同じであると一般的には解されている。しかし、後で述べるように、

プラトンやカントが含まれるような観念論を「主観的」と称することができるかどうかは、大

いに疑問である。だからこそ、ディルタイは、これらの哲学者の世界観を大抵の場合「自由の

観念論」と呼んだのではないかと思われる。これらに「実証主義」あるいは「唯物論」を加え

て、哲学的世界観の三類型をディルタイが 初に明確に示したのは、私の推測では、1898 年に

雑誌『哲学史論叢』(Archiv für Geschichte der Philosohpie)の第 9 巻に掲載された論文「19 世紀前

半における諸体系の三つの基本形態」(Die drei Grundformen der Systemen in der ersen Hälfte des 19.

Jahrhunderts)6である。そこでは経験科学の発達を前提として成立したコントやミルやスペンサ

ーに代表される「実証主義」に対して、シェリング、ヘーゲル、シュライアーマッハーの哲学

的世界観を「客観的観念論」の世界観に属すると考え、第三の類型として「自由の観念論」を

挙げている。この類型に属する哲学的思考は、意識から出発する点では、「客観的観念論」と共

通しているが、意識の中に自発性、統一性、道徳的責任性、および自由の意識を心的生の根本

特徴とする点で、後者と区別されると述べている。この類型に属する思想家として、ディルタ

イは、ソクラテス、プラトンと並んで、キケロのようなヘレニズム・ローマ時代の思想家や原

始キリスト教やカントを挙げ、19 世紀の哲学者としては、メーヌ・ド・ビランやルヌヴィエを

挙げている。

この三類型は、1899 年夏学期に彼が行った講義「哲学体系概説」(System der Philosophie im

Grundriß)7においても引き継がれている。ただ注目に値するのは、この講義では、「客観的観念

論」と「自由の観念論」の順序が論文「三基本形態」の場合と逆になっている点である。もっ

とも、「哲学の本質」になると、再び、「客観的観念論」が先に論じられ、「自由の観念論」が後

に論じられ、1911 年の「世界観の類型」では、「実証主義」の代わりに「自然主義」という用

語が用いられており、また「自由の観念論」が「客観的観念論」よりも前に論じられている。

6 Wilhelm Dilthey, Gesammelte Schriften. Bd. IV, S. 528-554. 7 牧野・西村編『ディルタイ全集』第 3 巻、291-396 ページ。

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ディルタイの世界観学について

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このことから、ディルタイにとっては、類型化が問題であって、発展的な見地は後退している

と考えることができるだろう。しかし、ディルタイが一番シンパシーを持っていたのは恐らく

「客観的観念論」であっただろうと思われる。

重要なことは、彼にとっては心的生の中で世界認識に関心がある場合には、そこで成立する

世界観は、「実証主義的」あるいは「自然主義的」であり、意志的行為を重視する場合には、「自

由の観念論」といわれる哲学的世界観が成立し、感情に基づいて「事物の価値、生命価値、世

界の意味と精神」(V,403)を重視する場合には「客観的観念論」の世界観が成り立つと考えてい

る点である。ディルタイが意識の働きをこの表象作用、意志作用、感情作用に区別し、理論構

成の際にそれをいつも引き合いに出したために、あらゆる哲学がこの三種類の類型に分類され

ることになったように見える。ディルタイの世界観学から大きな影響を受けたヤスパースは『世

界観の心理学』8において、主観が対象に目を向ける「対象的態度」と主観が自己に目を向ける

「自己反省的態度」、主観が世界の総体性に捕らえられている場合の「熱狂的態度」に分け、こ

れらの態度を更に細かく分ける分類法を試みている。このことは、彼がディルタイの三類型に

は満足できなかったことを証明している。

3 世界観学における相対主義の問題

後にディルタイの「世界観学」をどう評価するかという問題を考えてみたい。彼が文化体

系を構成する哲学や宗教や文学を「世界観」という同一の地平の中で論じようとした試みをわ

れわれは高く評価しなければならないだろう。しかし、彼がその際、世界観成立の根拠を記述

的心理学に見出そうとしたために、世界観が著しく心理学的な仕方で捉えられることになり、

その結果、知識社会学に連なるような社会学的な見方に十分に到達できなかった点は先に第一

節で述べたとおりである。実際、彼は哲学史を講義する際には、世界観の類型にほとんど依存

していないように見える。ただ、1905 年に公刊されたディルタイの名著『ヘーゲルの青年史』

(Die Jugendgeschichte Hegels)では、 後のほうに「新しい世界観と体系の始まり」と題する章が

あり、そこで彼はヘーゲルの「キリスト教の精神とその運命」とノールが名づけた断片につい

て叙述しているが、そこに世界観学との関連がかなり見て取れるように思われる。しかし、そ

れは世界観の研究から得られた知見がヘーゲル解釈に役立っているという側面だけでなく、逆

に彼が「客観的観念論」と呼ぶ類型がこのヘーゲル研究に基づいている側面を示していると考

えられることを指摘するに留めよう。

歴史的な相対主義を免れるために彼が世界観学を構想し、それによって哲学の客観的妥当性

を根拠付けようとしたのだという反論には耳を傾ける必要がある。しかし、果たして世界観学

は、世界観の普遍妥当性を根拠づけることができたのであろうか。むしろ、歴史主義に潜む相

対主義が世界観の中で顕在化していると言えるのではないかという根本的な疑問が残る。拙論

の冒頭に引用したディルタイの遺稿「歴史的意識と世界観」において、彼は「世界観は普遍妥

8 Karl Jaspers, Psychologie der Weltanschauungen. Berlin, 1919.

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ディルタイの世界観学について

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当性を要求するが、歴史的に見るとそれらは相対的な価値しか持たないのではないか」という

疑いを提出していた。問題は果たして彼の世界観学はこのアンチノミーを解決したかというこ

とである。

1903 年 11 月、彼の古希を祝ってベルリン大学で開かれたと思われる祝賀会で彼が行った演

説の草稿が「夢」と題する断片の形で、『ディルタイ全集』第 8 巻に収められている。そこで彼

は次のように述べている。「どの世界観も歴史的に制約されており、従って制限されており、相

対的であります。ここから、思考の恐るべき混沌が生じるように見えます。しかし、まさに、

この絶対的な疑いをもたらした歴史的意識は、疑いにその限界を規定することができるのです。

まず、ある内的な法則にしたがって、世界観は分かれました。ここで私の思いは、夢見る者に

三つのグループの哲学者たちの姿で表現された世界観の大きな基本形態に立ち戻りました。世

界観のこれらの類型は、合い並んで、何世紀もの間、自己主張してきました。・・・・・・ 世界観は、

宇宙の本性に、有限的な把握する精神と世界観との関係に基づいているのです。こうして、そ

れぞれの世界観は、われわれの思考の範囲内で宇宙の一つの面を表現しているのです。この点

では、どの世界観も真です。しかし、どれも一面的です。これらの側面を一緒に見ることはわ

れわれにはできません。真理の純粋な光は、さまざまに屈折した光線の形でしか、われわれに

は見られないのです」(VIII,224)。

ディルタイのこの考え方は紛れもなく相対主義であるといえる。しかし、われわれは、1911

年に、フッサールが雑誌『ロゴス』に論文「厳密学としての哲学」(Philosophie als strenge

Wissenschaft.1911)9を発表し、そこでディルタイの世界観学の中の歴史主義を批判したとき、デ

ィルタイがフッサールに宛てて書いた手紙の中で、「私は世界観哲学者でも、歴史主義者でも、

懐疑主義者でもありません」10と主張しているのをわれわれはどう理解したらよいだろうか。

それはディルタイの主観的な自己主張に過ぎず、彼の本質はやはり、歴史主義者であり、相対

主義者だと言うべきだろうか。ディルタイがもともと歴史研究から出発して、哲学研究に移行

した経歴が哲学者としての彼の考え方に後々まで大きな影響を及ぼしており、彼は常に歴史と

哲学の間を揺れ動いていたのだと主張する人がいる。更に記述的分析的心理学によって精神科

学や世界観を基礎づけようとした彼の考え方には、ジョン・スチュアート・ミルの実証主義の

影響が看取できると主張する人もいる11。歴史的相対主義を克服しようとして、「哲学の本質」

では、ディルタイは心理主義に傾いていると言えるかも知れない。

近、ディルタイについてモノグラフィーを書いたマチアス・ユングは、『ディルタイ入門』

の中でこの問題を論じ、いろいろな世界観が入れ替わり立ち代り登場しているのを歴史的に観

察すると、いろいろな世界観の中でどの世界観が真理で、他の世界観が間違っているとは言え

ない。ディルタイの言う通り、「いずれの世界観も世界と人生のある側面について述べているの

であって、すべての主観にとって拘束力をもつような世界観は不可能だと言うのが彼の真意で

9 Edmund Husserl, Philosophie als strenge Wissenschaft. Frankfurt am Main, 1965. 10 Frithjof Rodi u.Hans-Ulrich Lessing, Materialien zur Philosophie Wilhelm Diltheys.Frankfurt a.M., 1984, S. 112. 11 Ernst Troeltsch, Gesammelte Schriften. Bd. III, Aalen, 1961, S. 517f.

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ディルタイの世界観学について

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ある」とユングは述べている12。

ディルタイ自身の主張とは違って、彼が世界観学において著しく相対主義に傾いていたとい

うことは認めざるを得ないように私には思われる。

(おおのとくいちろう 神戸女学院大学名誉教授)

[キーワード]

世界観学 実証主義 自由の観念論 客観的観念論 相対主義

12 Matthias Jung, Dilthey zur Einführung.Hamburg, 1996, S.181

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」 ―「盟約」から「同盟」へ― 田村一郎 はじめに

ドイツ観念論と「秘儀結社」のかかわりを扱った拙著『十八世紀ドイツ思想と「秘儀結社」

上 』(多賀出版、1994年)が出てから、ちょうど10年になる。17世紀後半から18世

紀前半のドイツを、「ゲーテ時代」と呼ぶ人もある1。さまざまな領域での思想、ことに哲学と

文学などが緊密な連携を保っていたからである。この時代はまた、「秘儀結社の時代」とも呼ば

れている2。当時のドイツ社会を席巻していたフリーメースンリーなどの「秘儀結社」は、これ

らの諸思想にどのような影響を与えていたのだろう。このような関心から前回は、カントとフ

ィヒテを中心に検討を加えてみた。

もちろんそれ以後も、ゲーテのヴィルヘルム・マイスター二部作にみられる「塔の結社」や、

ペスタロッツイへの影響なども取り上げてきた。しかしやはり気にかかるのは、ドイツ観念論

につながるシェリングとヘーゲルである。若い彼らは、国境を接する隣国での動きをどう受け

止めたのだろう。またジャック・ドントの言うように、それらを契機とする彼らの思想形成に、

当時の「秘儀結社」は大きなつながりを持っていたのだろうか。こうした「秘儀結社」への関

心と、ヘーゲルが仲間と結んだというチュービンゲン時代の「盟約」、あるいはフランクフルト

時代の「同盟」はどうかかわってくるのだろう。これらの問いを手がかりに、初期ヘーゲルの

思想的推移を追ってみた。

一 「初期ヘーゲル」とは

ヘーゲルの「初期」とは、1807年に『精神現象学』が刊行されるまでの時期を指すのが

ふつうである。さらに詳しく言うと、1788年10月に「シュティフト」に入ってから93

1 Vgl. H.A. Korff: Geist der Goethezeit, Leipzig, 1914 - 54. 2 Vgl. Goethewerke. Jubiläums-Ausgabe in 40 Bde., Stuttgart, 1940, Bd.8, S.XXVI.

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」

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年9月にそこを巣立つまでの「チュービンゲン時代」、その年の10月に家庭教師として赴き9

6年末までを過ごした「ベルン時代」、ヘルダーリンの誘いで97年1月から1801年1月ま

でを送った「フランクフルト時代」、そしてシェリングとともに本格的「哲学」研究の道に進む、

1801年初めから1806年10月までの「イエナ時代」へと至る。今回は、主として「チ

ュービンゲン時代」から「フランクフルト時代」までを扱った。

二 フランクフルト時代までの「神学論」的・「政治論」的研究

「フランクフルト時代」までのヘーゲルの思想的関心は、もっぱら当時のキリスト教会のあ

り方やイエス解釈と取り組んだ「神学論」と、フランス革命に触発されたヴュルテンベルクの

政情や「ドイツ」のあり方を論じた「政治論」に向けられる。簡単にでも、それぞれの特徴を

みておこう。

1.「神学論」的研究

ノールの編纂した「若き神学論」3 によると、中心をなすのは次の5編である。

①「民族宗教とキリスト教」(1792年9月―94年)、②「イエスの生涯」(1795年

5月―9月)、③「キリスト教の既成性」(1795年秋―96年夏、ただし同書139-15

1ページは1800年9月)、④「キリスト教の精神とその運命」(1798年夏と秋―99年

または1800年)、⑤「1800年の体系断片」(1800年9月14日以前)。

この時期の「ドイツ観念論の最古の体系構想」(1796年末―97年の初め頃)をもヘー

ゲルによるものとする説もあるが、このことについては後に触れたい。

これらを通じてまず注目されるのは、「キリスト教」理解の変化と、それと軌を一にするカン

ト、ことにその倫理学・道徳論の評価の変化である。

ベルン時代のヘーゲルは基本的にはカント主義者で、すべてのものごとを白紙から再検討す

るという「批判精神」を基軸に、その理性宗教の立場からキリスト教の「既成性」を徹底して

批判する。

そうしたヘーゲルの視点が揺らぎ始めるのは、カントの「道徳律」の絶対視とユダヤ教の「律

法」のそれとの親近性に気づいてからである。カントにとって「道徳律」は、「定言命法」の名

が示すとおり、一切の内容に左右されない絶対の形式である。その点では、イエスが命がけで

克服しようとしたユダヤ教の「律法」と変わるところがない。いわばヘーゲルは、カントの道

徳論のうちに「既成性」を見るようになるのである。

そうした転換からヘーゲルは世界を動かす原理に注目し、それを「生」と「愛」に求め、「愛

による運命との和解」にキリスト教の再生の道を探る。ヘーゲルにとってフランクフルト時代

とはそうした時期であり、「カントと離婚してキリスト教と婚姻」することになるのである4。

3 Hrg. von H. Nohl: Hegels Theologische Jugendschriften, Tübingen, 1907. 4 ヘルマン・ノール編『ヘーゲル初期神学論集』(以文社、1974年)、274ページ(中埜肇氏解説)。

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」

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しかしこのような推移と並んで重要なのは、ヘーゲルの神学なり教会批判が「啓蒙」つまり

「民衆の教育」への関心を支えとし、それなりの合理性と政治性に貫かれていることである。

最初の草稿「民族宗教とキリスト教」では宗教は公的で社会的な現象とみなされ、「民族精神」

とのかかわりから考察される。いわば「宗教」と「政治」は芸術や歴史とも結び付けられ、人

間の諸活動を支える一体のものとして扱われるのである。「イエスの生涯」という草稿を、カン

ト的理性宗教の立場でどこまでイエス解釈が可能かを試す「思考実験」、とする解釈が生まれる

のもそのためである5。

2.「政治論」的研究

このように、ヘーゲルでは初期から宗教と政治は一体のものとして考えられてきたが、「政

治論」の中心をなすのは次の5編である。

①『カル親書注解』(ベルン時代に書かれたが、「序文」を付けて1798年に刊行)、②「ヴ

ュルテンベルクの最近の内情」(1798年)、③「ドイツ憲法論」(1798-1802年)、

④「1815年および1816年におけるヴュルテンベルク王国地方民会の討論」(1817

年)、⑤「イギリス選挙法改正論」(1831年)。

このほかに、「カント『道徳形而上学』解説」「スチュアート『政治経済原理研究』への解説」

なども書かれたようだが、現存しない。もちろん「初期」に属するのは③までだが、緊密に関

連するので全体について概観しておこう。

まず「カル親書」であるが、カルはフランス領からベルン政府に併合されたヴァード地方の

弁護士だが、ベルン政府と争ってパリに亡命する。革命の影響はこの地方にも及び、批判が強

まるとベルン政府は弾圧にかかった。それに抗してカルが、1793年にパリで出したパンフ

レットがこの親書である。そこでの骨抜きにされた議会のあり方が故国の実情と対応していた

ため、ヘーゲルはこれに強く惹かれ詳しい注をつけて翻訳する。

この「訳注」がフランクフルトに移ってから刊行されたのは、ナポレオンによってヘルヴェ

ツイア共和国が作られ、ヴァード地方も解放されたことが直接のきっかけだろうが、当時ヴュ

ルテンベルクの民会が危機に瀕していたことが大きく影響している。このことはヘーゲルが、

きびすを接して「ヴュルテンベルクの最近の内情」を出そうとしたことからもうかがえる。

ヘーゲルをそこまで惹きつけたのは、ヴュルテンベルクのそれなりの先進性である。シュトゥ

ットガルトを中心とするシュヴァーベン地方の50の諸都市は、1514年の「チュービンゲ

ン契約」以来大公の専制を許さない強力な民会を組織してきた。大公の多額の借金を肩代わり

した代償として、課税や開戦、さらには土地・人民の処分などにも民会の同意を必要とするとい

う権限を獲得していたのである。世継ぎのなかったオイゲン公に迫って、2人の弟を継承者と

する「相続協定」を結ばせたのもこうした伝統があってのことで、そこには「旧契約」の尊重

5 城塚登『ヘーゲル』(講談社(学術文庫)、1997年)115ページ以下。なお初期ヘーゲルにおけるキリス

ト教とカントのかかわりについては、細谷貞雄『若きヘーゲル』(未来社、1971年)の五・第一章参照。

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」

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ばかりでなく、労働や徴兵の強制の廃止までがうたわれている。16世紀以降ヴュルテンベル

クでは、フランス革命を先取りするような政治体制が布かれてきたのである。ヘーゲルが生ま

れたのはまさにこの「協定」が結ばれた年であり、ヘーゲルが最晩年までその地の憲法のあり

方にこだわったのも、こうした政治風土があってのことだったのである6。

これに対して「ドイツ憲法論」は、「神聖ローマ帝国」の盟主オーストリアがナポレオンに屈

した「カンポ・フェルミオ条約」(1797)を契機とするだけに、帝国の再建策を、皇帝の統

帥権と徴税権の強化という君主制強化の方向から模索している。

こうしたヴュルテンベルクを中心とする政治への関心が晩年にまで生き続けていることは、

残りの2つの論稿から明らかである。プロイセンの「官報」に載り、最後の部分は発禁となっ

た論文でも、ヘーゲルは執拗にイギリスの選挙法の改正案とからめて、ヴュルテンブルクの実

情を論じ続けている。

三 初期ヘーゲルと「秘儀結社」

初期ヘーゲルと「秘儀結社」の関連を考える際に、忘れてならないのはへルダーリンやシェ

リングとの交わりと、その核となった彼らの精神的結束である。これまでの研究や訳書などで

は、ともに原語はBundであるが、チュービンゲン時代のそれを「盟約」、フランクフルト時代

のそれを「同盟」としているものが多い。妥当な用語と思われるので、これにしたがって使い

分けることにしたい。

1.チュービンゲンでの「盟約」の成立とめざされていたもの

1)シンクレーアの手紙

チュービンゲン時代の「盟約」を見る上で手がかりになるのは、1812年2月5日付けの

シンクレーアのヘーゲル宛の手紙である。シンクレーアとは1792年10月からチュービン

ゲン大学の法学部に在籍した人で、短期間だがヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングと親交を

結んでいる。フランクフルト近郊のホンブルクの出で、生涯この小国の高官を務めたが、18

06年にチュービンゲンに戻るまでの病んだヘルダーリンの面倒をみるなど、フランクフルト

時代のヘーゲルらの交友のつなぎ役となっている。

シンクレーアは1812年2月5日、ヘーゲルに『精神現象学』を読み返した感動を次のよ

うに伝えている。

「その文体や表現の中にはっきりと、君と、燃える剣を意のままにする君の情熱を認めた

し、われわれの精神の同盟時代(die Zeit des Bunds unserer Geister)を思い起こしました。運命

がわれわれから、他の仲間の人々を切り離してしまいはしましたが。」7

6 城塚前掲書、80ページ以下、および金子武蔵訳『ヘーゲル政治論文集 上』(岩波書店(文庫)、1979 年)、250ページ以下(金子氏解説)参照。 7 Hrg. von J. Hoffmeister: Briefe von und an Hegel, Bd.I, Hamburg, 1952, S. 394f.

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」

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ここでの切り離された「仲間」とは、発病したヘルダーリンと、戦死した軍人哲学者のツヴ

ィリングを指すと思われる。となるとここでの「われわれの精神の同盟」とは、フランクフル

ト時代の「同盟」を指すように思えるが、そう解釈するだけでよいのだろうか。

2)「盟約」の仲間とそれがめざしていたもの

① チュービンゲンでの「盟約」仲間

ヘーゲルとヘルダーリンが「シュティフト」に入学したのは1788年10月であり、この

二人はもっとも親しい友人として93年9月までの5年間を過ごす。15才のシェリングがそ

こに加わったのは1790年10月のことで、95年9月まで在学しているが、ヘーゲルらと

ともに過ごしたのは93年までの3年間である。その後の交わりとその内実からしても、この

3人が「盟約」仲間だったことはまちがいあるまい。ほかにメンバーとしてはっきりしている

のは、手紙を引用したシンクレーアである。この人はシェリングと同じ1775年生まれだが、

92年10月から法学部に入学している。94年9月にはイエナ大学に移っているから、4人

がチュービンゲンでともに過ごしたのは1年間であり、シェリングとシンクレーアだけが2年

間一緒にいたことになる。

② 「盟約」がめざしていたもの

「彼(ヘルダーリン-田村)が君に手紙を書かないからといって、友情が冷めたなどと考

えないで下さい。というのも彼の友情はけっして衰えてはいないし、彼の世界市民という

理念への関心はいっそう強まっているように思えるからです。神の国よ、来たれ!われわ

れは、何もせずに手をこまねいていてはなりません。・・・・・・ 理性と自由はいまだにわれ

われの合言葉だし、われわれの一致点は見えざる教会だからです。」8

1795年1月末に、ヘーゲルがベルンからチュービンゲンのシェリングに送った手紙であ

る。ここには「盟約」の内実をうかがえる、いくつかのヒントが込められている。

前後するがまず「神の国」であるが、この言葉は新約聖書の「マルコ伝」第10章9節や「ル

カ伝」第11章9節、11節などに見られる。「天の御国」とも言いかえられ、繰り返しその顕

現が近づいていると説かれているとおり、死後の世界のことではなく、この地上に生まれよう

としている神の支配を指している。ということはヘーゲルらがめざしていたのも、この地上で

の理想の実現だったと見てよかろう。

次に「世界市民」であるが、これはまさに宗教上の「寛容」をふまえ、民族・信仰・階級・家柄

など一切の差別を排するフリ-メースンリー(以下メースンリーとも省略)のモットーにつな

がるものである。カントが歴史を「世界公民的見地」から捉えることの大事さを強調したよう

に、「小国分立」のドイツ圏では最も広く支持された理念の一つだった。

8 Ebd., S. 18.

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」

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他方「理性と自由」は、1793年11月にノートルダム寺院で「理性の祭典」が開かれた

ことに象徴されるとおり、「自由・平等・友愛」と並ぶフランス革命の中心的なスローガンである。

最後に「見えざる教会」であるが、レッシングはメースンリーの「理想化」をめざした『エ

ルンストとファルク ― フリ-メースンのための対話』(1778-80)の中で、メースンリ

ーをこう呼んでいる。ヘーゲルが学友から、「レッシングの達人」と名づけられていたことも思

い起こされてよかろう。

③「盟約」の基本性格

これらのキーワードから、若きヘーゲルらが情熱を傾けた「盟約」の基本性格が浮き上がっ

てくる。諸家の解釈をまとめると次のようになろう。

a.「政治クラブ」

「盟約」を、「政治クラブ」的なものととらえる人は多い。ローゼンクランツは、「シュティ

フトでも、政治クラブが結成された。フランスの新聞が購読され、そのニュースが競って読ま

れた」と記している9。ディルタイによると、そこにヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングも加

わっていたという10。学生がこぞって読んだのは新聞ばかりでなく、『ミネルヴァ』のような雑

誌も含まれていた。94年の末にヘーゲルは、ベルンからシェリングに次のように書き送って

いる。

「数日前たまたまここで、アルヒェンホルツの『ミネルヴァ』で君も知っている『書簡』

の著者と話をしました。表向きは、イギリス人のOというサインでしたよね。ところがこ

の人はシュレージエンの人で、エルスナーという名でした。」11

「書簡」とは、「フランスにおける最近の出来事についてのパリ書簡」とか「歴史的書簡」と

して、アルヒェンホルツがドイツ語で出していた『ミネルヴァ』に掲載されたものである。

1792年8月の14号から翌年3月の21号まで10回にわたって連載され、革命後のフラ

ンスの生々しい状況を伝えたルポルタージュとして評判になったらしい。

『ミネルヴァ』は穏健なジロンド派の立場に立つといわれているが、ロベスピエールやバブ

ーフの翻訳なども載せている。このような雑誌をヘーゲルらが愛読していたということは、そ

の「政治クラブ」の性格をうかがわせる。ルカーチはきっぱりと、こう言い切っている。

「彼ら(ヘーゲル、ヘルダーリン、シェリング―田村)はまた、伝統に従って、チュービ

ンゲン・シュティフトのある秘密クラブの中心になっていたが、それはフランス革命につ

いての禁書を読む会だった。」12

9 K. Rosenkranz: Georg Wilhelm Friedrich Hegel’s Leben, Berlin, 1844, S.28f. 10 W. Dilthey: Gesammelte Schriften, Stuttgart, 1959, Bd.IV, S.13. 11 Briefe von und an Hegel, Bd.I, S. 11f. 12 Georg Lucács Werke(Luchterhand), Neuwied und Berlin, 1967, Bd.8, S. 44.

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」

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b.「秘儀結社」

「秘儀結社」、ことに「メースンリー」とのかかわりを強調するのはドントである。ドント

は『秘められたヘーゲル』(1968)から『ヘーゲル伝』(1998)まで、一貫して「盟約」

とメースンリーを結び付けようと努める。

とりわけ強調されるのが、ヘーゲルが1796年にヘルダーリンに贈ったと言われる詩「エ

レウシス」である。この詩をドントは、「フリーメースンリー的関心という背景から見なければ、

完全には理解できない詩」とみなす13。これを裏付けるためドントは、シラ-の「歓喜に寄す」

を援用する。そこに繰り返し出てくるBruderを、「兄弟」でなくメースンリー的な「同志」と理

解しようとするのである。したがって「この世で一人でもわがものと呼べるような人」を持て

なかった者は、「泣きながらこっそり、このBundを立ち去るがいい」のBundも、「メースンリー」

と解釈されることになる14。

詳細は省かざるを得ないが、結論から言うとドントのメースンリー解釈は、かなりドイツで

の実情と食い違うところが多いように思う。

当時のドイツでは「メースンリー」は、「合理的」傾向のものと「神秘的」傾向のものとがせ

めぎあっていた。前者を代表するのが、『ベルリン月報』を主宰したビースターである。生涯

「秘儀結社」に近づかなかったカントが、この雑誌に15編もの時評論文を寄せたのは、ビー

スターの啓蒙と自律を尊重する「世界公民」的な姿勢に共感したからだろう。このことはカン

トがこれらの論文のいくつかで、「神秘的メースン」を代表するヤコービやシュロッサーの感情

的宗教哲学を、手厳しく批判していることにはっきり現れている15。しかし一般的にはドイツ

では、「神秘的」傾向が強かった。したがってメースンリーの「人間性の尊重・信仰と良心の自

由の保証・あらゆる差別の排除・コスモポリタニズム」という基本精神に惹かれながらも、そ

の現状に飽き足りなかったレッシング、フィヒテ、ヘルダー、ゲーテなどは、その「理想化」

を図り、その「革新」をめざした「イルミナート結社」に近づいたりもする。

ことに注目したいのは、専制的なカール・オイゲンの支配するヴュルテンベルクでは、「イル

ミナート結社」の政治的動きへの危惧もあって、80年代から「秘儀結社」の活動は全面的に

禁止されており、その方針は王が変わっても持続されている。したがって学生のクラブへの「秘

儀結社」の影響は、フランス革命などを通しての間接のものだったとみてよかろう16。

c.「理想主義的な友愛結社」

速水敬一氏などは、「盟約」をフランス革命の精神への共鳴に発し、その精神を活かしてド

イツでの変革、ことに「哲学革命」をめざした「友愛的な結社」とみなしている17。これまで

述べてきたことからも明らかなとおり、きわめて妥当な解釈といえよう。

13 J. D’Hondt: Hegel secret. Recherches sur les sources cachées de la pensée de Hegel, Paris, 1968, p.242. 14 Ibid., p.238sq. 15 拙著『十八世紀ドイツ思想と「秘儀結社」上 』(多賀出版、1994年)、154ページ以下および 163ページ以下参照。 16 Vgl. A. Rossberg: Freimaurerei und Politik im Zeitalter der Französischen Revolution, Struckum, 1983, Kap.I. 17 速水敬一『ヘーゲルの修業遍歴時代』(筑摩書房、1974年)、92ページ。

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」

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なおこうした見方をとれば、いわゆる「ドイツ観念論最古の体系構想」も理解しやすくなる。

そこにさまざまな思想が混在しているように見えるのは、それが「盟約」の再結集を図ったも

ので、少なくとも3人の手が入っているからではなかろうか。ヘーゲルのベルン末期に書かれ

たとも推測されるこの草稿は、おそらくヘルダーリンの構想をもとにシェリングがイエナで執

筆してヘーゲルに送り、補正してヘーゲルが送り返したものなのだろう。

2.フランクフルトでの「同盟」の成立とめざされていたもの

1)「同盟」の成立

もちろん先駆をなすのは、ハネローレ・ヘーゲルの『ヘルダーリンとヘーゲルをつなぐイザ

ーク・シンクレーアー ドイツ哲学の成立史』(1971)18 だろうが、フランクフルト時代

の「同盟」の意義を明確にしたのは、ヤメとペゲラーが編纂した『ドイツ精神史におけるホン

ブルク・フォン・デア・ヘーエー ヘーゲルとヘルダーリンをめぐる友人仲間の研究』(19

81)である19。

それによると家庭教師の職を用意し、1796年にヘルダーリン、翌97年初めにヘーゲル

をフランクフルトに招いたのはかつての盟友シンクレーアだったという。95年秋から近郊の

ホンブルク方伯の参事官を務めていたシンクレーアは、積極的にチュービンゲンでの「盟約」

仲間の再結集を図り、これにシンクレーアのイエナ大学の学友で、ホンブルクの公子の将校だ

ったツヴィリングが加わる。この人はその深い思索から、「同盟における第3の知性」とも呼ば

れている20。シンクレーアが「大反逆裁判」にかけられ不在だった1年間、病気のヘルダーリ

ンの面倒を見たりもしているが、1809年に戦死している。こうしたメンバーに、フランツ・

ヨーゼフ・モリトーやベッティーネ・フォン・アルニムらがかかわることで結ばれたのが「同

盟」というのが、「ホンブルク研究会」の人々の一致した見方である。

2)「同盟」がめざしていたもの

ことにヘンリッヒらが強調するのは、「同盟」を主導したのは「合一哲学」をめざしたヘルダ

ーリンだったという点である。「ヘン・カイ・パン」という神秘的汎神論を軸に、ヘルダーリン

は「美的プラトン主義」による萌芽的な弁証法思想を構想していたと見るのである。しかし詩

的で文学的なその思索は、ヘーゲルばかりでなくシェリングにも影響を与えながらも、より強

固な論理を求める両者によって越えられていく。それがヘーゲルをイエナへと駆り立て、シェ

リングとの「哲学的」協業をうながし、「絶対的観念論」の体系化へと導くことになるのである。

18 H. Hegel: Isaak Sinclair zwischen Fichte, Hölderlin und Hegel, Frankfurt am Main, 1971. 19 Hrg. von C. Jamme und O. Pöggeler: Homburg von der Höhe in der deutschen Geistesgeschichte. Studien zum

Freundeskreis um Hegel und Hölderlin, Stuttgart, 1981. 20 Ebd., S.247.

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初期ヘーゲルと「秘儀結社」

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四 「盟約」「同盟」と「秘儀結社」

ヘーゲルが生涯にわたってめざしたのは、人間の可能性の全的・総合的な実現だった。カン

トへの共鳴から出発したヘーゲルが、「啓蒙」の柱である理性至上主義に飽きたらず、心情や感

性をも含む幅広い人間理解を求めたのも、あくまでギリシャ的共同体と民族と歴史の場でのそ

の展開にこだわったのも、全的・総合的な視点にこそ人間の可能性実現の場があると信じたか

らだろう。その点ではヘーゲル哲学はあくまで「歴史哲学」であり、世界史という舞台におい

て人間が民族精神・世界精神を介してみずからを実現してゆくドラマだったのである。

こうした構想をまさに「心根(Gesinnung)」から育くみ支えたもの、それがチュービンゲンの

「盟約」であり、フランクフルトの「同盟」だったのではなかろうか。

(たむらいちろう 鳴門教育大学名誉教授)

[キーワード]

初期ヘーゲル 秘儀結社 チュービンゲンの「盟約」 フランクフルトの「同盟」

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芸術の力とメタファー

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芸術の力とメタファー

山口和子

ウィトゲンシュタインが『哲学探究』で提示した Sehen als の概念は1、彼の意図とは無

関係に、芸術のメタファー的構造を認めようとする研究者達に多くの影響を与えている。

ウォルハイムは「表現にふさわしい見方」として Seeing in を提案しているが2、ダントー

の Seeing as 解釈の持つ作品変容のダイナミズムにははるかに及ばない。ダントーに認めら

れる、メタファー概念とシンボル概念との間の揺れ、作品による例証の不適切さ、新しい

装いの中から時折顔を覗かせる着古された芸術概念等にもかかわらず、彼の芸術のレトリ

ック的な力への考察は、今もなおある説得力を持っている。本論では、ダントーのメタフ

ァー概念を中心にして芸術経験の構造を考えてみたい。以下に今回のメタファー論の前提

を示す。

1)本論はメタファーを人間の意識および世界経験の構成原理とするレイコフ、ジョン

ソンの立場に従う。彼らによれば、「メタファーが純粋に言語的な問題であるという考えは、

現実とはもっぱら物理的な世界であるかのように、現実の人間的なアスペクトを無視して

いる」3。彼らの基本的な考えを纏めるなら、我々がそれに従って考えたり、行為したりす

る日常的なコンセプトの体系はメタファー的に構成され、規定されており、メタファーは

我々の日常に浸透し、我々の社会的、認識的な世界にとり、いわば「中心的な感覚器官」

の役割を果たしており、人間の意識世界が基本的にメタファー的であるゆえに、言語にお

けるメタファーが可能となる。巧みな言語的メタファーの人をゆるがす力は、我々の意識

の根源的なメタファー性によって基礎づけられているのではなかろうか。意識のメタファ

ー的な構成は、彼らによれば、方向付けのメタファー、存在論的メタファー、擬人化、換

1 Wittgenstein, L., Philosophische Untersuchungen, Schriften I, S. 503ff. 2 Wollheim, R., Objekte der Kunst, Frankfurt am Main, 1982, S. 192ff. 3 Lakoff, G. / Johnson, M., Metaphors we live by, Chicago, 1980, S. 146. 以下、MW と略記し、ページ数を本

文中に記す。

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芸術の力とメタファー

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喩等からなるが、特に、起き、寝、歩く人間の身体的な感覚経験(上下、内外、前後等)

が sittlich な意味へと転移する(幸福は上で不幸は下、善は上で悪は下)説明は、人類の意

識の展開にメタファーがいかに重要な働きを持っていたかを考えさせる。

2)従来の視覚的芸術におけるメタファー論は、ダントーの場合もそうであるが、言語

的メタファーの視覚的表現のみを考えている。逆に、Seeing as はたんに視覚的メタファー

のみならず、言語的な意識をも含めた、メタファー的意識そのものの構造を示していると

考えられないか。こうした考えにヒントを与えたのはヘスターの論文である4。

3)メタファーの基礎に類似性(Ähnlichkeit)の認識を置き、アリストテレス以来の類似性

の認識と同一的、論理的認識の基本的な相違に基づきつつ、我々の芸術経験の意味を再考

する。(なお、本論は西村清和「視覚的隠喩は可能か」(『美学』212 号、2003 年、1-114 頁)

から多くの教示を受けている。)

1 ダントーにおけるメタファー概念

『ブリロ・ボックスを越えて』(以下、『ブリロ・ボックス』と略す)における「危険な

芸術」の章の末尾近くでダントーは次のように言う。「芸術の力はレトリックの効果による

力であり、レトリックは態度や信念の変容を意図しているゆえに、芸術の力はけっして無

垢ではあり得ず常にリアルである、なぜなら心がリアルなのだから」5。この「危険な芸術」

の章は、近代において確立され、現代も多かれ少なかれ受け継いでいる芸術の自由および

芸術の純粋性あるいは自律性の欺瞞を揶揄した章であるが、この言葉に、なぜ、ダントー

がシンボルではなくメタファー概念に拘ったのかその理由を推測することができよう。し

かし、ダントーのシンボル概念とメタファー概念との関係は明確ではない。おなじ『ブリ

ロ・ボックス』の中でも「メタファーと認識」の章ではシンボルをエンブレムと同じ意味

に捉え、リンゴとニューヨークとの関係のように、両者をつなぐ意味がもはや不明になっ

たメタファーをシンボルだと言い、他方で「象徴的表現と自己」では、習慣や性質の自然

な現れである Manifestation と、意図を介在させたシンボル表現の表裏一体の関係を主張し

(たとえば、乱雑な部屋は一方では彼女の性格の現れでもあり得るし、他方では、彼女の

女性の社会的な位置に対する反発の象徴的表現でもあり得る)、ティツィアンの涎を流し、

しわだらけの泣き叫ぶ乳幼児(幼児の Manifestation)として描かれたキリストを、神的な

存在の受肉の苦しみの象徴的表現と言う。また、「象徴的表現と自己」のなかで象徴概念と

の関係から説明されたボルタンスキーの作品は、『出会いと反省』のボルタンスキー論6で

は、メタファーとして説明されている。まず、ダントーにおけるこの両者の関係を明らか

4 Hester, M.B., Metaphor and Aspect Seeing, Journal of Aesthetics and art Criticism 25 (1966), S. 205ff.

この論文では文学におけるメタファーに seeing as が適用されている。 5 Danto, A., Beyond the Brillo Box, New York, 1992, S. 194f. 以下、BB と略記し、本文中に頁数を記す。 6 Ders., Encounter and Reflection, New York, 1986, S. 258ff.

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芸術の力とメタファー

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にしたい。

i)シンボルとメタファー

『ブリロ・ボックスス』ではシンボル概念はヘーゲルにおける芸術の規定を用いて、「感

性的あるいは質料的に具体化された理念」、「受肉された理念」と規定され、その原因をた

だ外的に示すにすぎない記号(ため息と悲しみ、傷と傷跡、雲と雨)や Manifestation から

区別される(BB, 62ff.)。「シンボルはその意味を含み、シンボルの内容に対する関係は内的

であり、シンボルは内容に現前を与え・・・内容を現在化する」と説明される。このシン

ボル概念は太古の祭祀や聖人達のイコンや遺物、皇帝の肖像における「内在的

representation」の概念を受け継いでおり、ダントーによれば、「像における直接的な現前の

あのかなり古い表象は今日まで保持され」、「像の力」を形成している。もちろん、魔術的

な再現への信仰が消え去り、そのあと求められた「類似性」もまた現前させる力ではなく

なった現在、写真や写真を手段とする作品は別として、シンボルのメッセージを現前させ

る力は、ダントーによれば、ある文化的共同体のなかで自明のコードに基づく。彼は豆の

焼き方までをも含めて「象徴的表現は、文化のあらゆるアイテムがいかに意味によって浸

透されているかを具体的に示している」と述べる。特定の文化的共同体のなかで、ボルタ

ンスキーのビスケット缶や子供服を積み重ねた作品は、『失われた時を求めて』のなかで、

紅茶に浸されたマドレーヌの味と香りが、主人公に様々な思い出を呼び起こしたように、

見るものの想起を呼び起こし、なにかを語りかける。ダントーはボルタンスキーの言葉を

次のように引用している。「ビスケット缶はフランスでは多くの子供時代の思い出が結びつ

いた対象である」。「課題は、見るものが同時に感傷的に充電された対象として認識する形

式的な作品を作ることである。誰もが彼自身の物語を作品の中に持ち込むのだ」。この章で

は、シンボルの representation の力、鑑賞者に対する喚起力は作り手の側から捉えられてい

る。一見この representation の概念は伝統的なそれの焼き直しに見えるが、周知のように、

ダントーにおいては象徴的表現は生活のなかでの象徴的表現(例えば豆をこがして不快を

表現する、あるいは部屋を乱雑にして女性が社会的に強いられている役割に対して反抗す

るといった)とアフリカのマスクや神像そして芸術における象徴的表現は連続的なものと

みなされているだけでなく、作家の自己という概念も18、9世紀の天才的な自己ではな

く、「内面化された共同体」と呼ばれている点である。当然のことながら、作品が現前させ

る、より正確に言うなら、見るもののうちに触発する意味は日常の水平的な次元に連れ戻

されている。

もう一つのボルタンスキー論、マン・レイの写真 Moving Sculpture の説明から始まり、

デュシャンのレディーメード以降の芸術の歴史の中でボルタンスキーを位置づけたエッセ

イでは、ボルタンスキーの作品は、匿名的、日常的な存在「それ自身のメタファー」、

self-metaphorical とも呼ばれるが、ジョイスの『フィネガンズウェイク』の洗濯女にとり、

ベッドシーツのシミが生のさまざまな出来事のメタファーであるように、死んでいったユ

ダヤ人達のメモリアルとしての写真や衣服であることをこえて、歴史には決して名を残す

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芸術の力とメタファー

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ことのない普通の人々の生と死、喜びと悲しみ、そしてそれらの意味のメタファーと解釈

される。ここでは視点は解釈者の側、見るものの方に置かれ、ボルタンスキーの次の言葉

が 後に引用されている。「私にとって魅力的な瞬間は、見るものがアートコネクションを

記録しない瞬間である」。

ところで、視覚的メタファー論のオルドリッチの参照するバーフィールドによれば7、メ

タファーは直喩とシンボルの中間にあり、直喩は構成要素 A と B の比較を示し、シンボル

では構成要素(この場合は言語の例が考えられているが)A と B がまったく一つになって

いるが、メタファーの場合は同一性の形式に変えられている。ダントーにおけるメタファ

ー概念とシンボル概念との相違もバーフィールドの考えを適用することが出来よう。内容

と形式との区別はかなり古めかしい感がするが、あるコンセプトの具体化と一応作品を規

定するなら、観賞者の側からみるなら、同一性はかなりの程度揺らぐであろう。また、カ

ントのシンボル概念に関しても、反省の形式の類似に基づいている点から、メタファーと

の関係が指摘されており8、メタファーとシンボルの間には構造的な交差を考えることが出

来る。この両概念においてダントーが強調するのは作品の見るものを巻き込む力である。

次にもうすこし詳しく、ダントーのメタファー概念に進む。

ii) ダントーにおけるメタファー

ダントーが視覚的メタファーの可能性のみならず、芸術作品の構造としてメタファーを

考えるとき、そのメタファー概念の中心に置かれるのは、一般にいわれる異質なものの結

合でも、文法的、意味論的な逸脱でもなく、これまでにも見てきたように、受け手の対象

に対する態度や感情を変えるレトリック的な機能である。ダントーはこの「心を動かす」

メタファーの働きを小規模の悲劇経験におけるカタルシスにも準えている(BB, 78)。芸術表

現をメタファーとみなす彼の理論的な前提は、芸術と言語が現実の外にあり、かつ現実を

表象するという、現実に対して言語と同様な距離を持ち、「同種の存在論」に属し、「その

主要課題の一つは、世界を表象するというよりもむしろ、まさに世界をある仕方で表象し、

世界をある特定の態度と特別な視野で見るように誘う点にある」ということである9。ダン

トーはそのレトリック的な力を、ウォーホル賞賛者としては不似合いに熱っぽく次のよう

にも語っている。「個としての我々に興味を抱かせ、我々のうちに愛や憎しみ、魅惑や嫌悪

を呼び起こすものは、性格や人格の特性である。・・・我々にとり芸術において重要である

ものは、我々に互いに重要であるものと同じ種類である。それはあたかも芸術作品が作家

の外化であるかのようであり、作品を評価することが、世界を作家の感受性を通してみる

ことと同じ意味であるかのようである」(TC, 160)。

いうまでもなく、ダントーにおいて、芸術作品とただのものとの区別は、目が捉えるこ

7 Aldrich, V.C., Visuelle Metapher, in : Theorie der Metapher, hg. von H. Haverkamp, Darmstadt, 1996, S. 142ff. 8 Blumenberg, H., Paradigmen zu einer Metaphorologie, Frankfurt am Main, 1999, S. 11.

Campe, R., Vor Augen Stellen, in: Dekonstruction and Criticism, London, 1979, S. 211. 9 The Transfiguration of the Commonplace, Cambridge, 1981, S. 167. 以下 TC と略記し頁数を記す。

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芸術の力とメタファー

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との出来る作品の外的な特徴によってではない。ダントーの空想美術館には、デュシャン

の便器やウォーホルのブリロ・ボックスに並んで、赤いペンキを塗っただけのドア、なに

も塗られていない使い古されたベッド、新種の彫刻や文学、また音楽とも評されうる電話

帳、ベッドシーツとタイトルの付けられた、ただのベッドシーツ等々の架空の作品が並ぶ。

これらの表面上ただのものと全く変わらない作品も、ダントーにとり、セザンヌの妻のポ

ートレートやレンブラントの「バテシバとしてのヘンドリケ」と同様に、作家のものの見

方や、愛憎を表現していることになる。その謎を解く鍵はまさに、アートワールドのコン

ベンションであると同時に作品の基本的なメタファー構造でもある、提示された何かをア

ートとしてみるという「命令」あるいは「要求」にある(TC, 208, BB, 83)。

ダントーによれば、ロランによるセザンヌ夫人のポートレートのダイアグラムをそのま

ま引用したリキテンシュタインの「セザンヌ夫人の肖像」は、ロランのダイアグラムにつ

いて知り、ダイアグラムの現代的な含意を受け入れ、その含意によって作品を満たそうと

する観賞者の関与によって、その目の前で変容する(TC, 172)。その変容は、ブリューゲル

の「イカロスの失墜のある風景」において、そのなかの小さな白い斑点がイカロスだと気

づくと同時に、牧歌的な田園風景は悲劇の舞台へと瞬時に変容し、「出来事」として経験さ

れるのと同様である。「このような仕方で、芸術作品は変容的な表象 (transfigulative

representation) として構成される。・・・このことは芸術作品が表象であるなら、芸術作品

に一般に当てはまる」。さらにダントーは付け加える。「作品を理解するとは、そこにある

メタファーを捉えることである」(下線筆者)。しかしメタファー的変容は、言うまでもな

く、観賞者の関与なしには成立し得ない。リバインの再撮影も「繰り返し」の意味を知る

観賞者によって形而上学的変容を遂げ、ブリロ・ボックススは「アートとしてのブリロ・

ボックスス」の要請に従うものに対して、アイロニカルな身振りで芸術の舞台裏を明かし

始める。この意味において「芸術の本質は解釈であり、解釈なしには芸術は単純に消え去

る」10。しかし同時にダントーにとり、作品は決して空虚ではない(TC, 53)。ダントーは作

品の構造をメタファーと認めることにより、観賞者を関与へと誘う力を、作品自身に、そ

してその目に見えざるものに認めることとなる。なぜなら、なにかが作品として見られる

とき、いかなるものもアウラなしに、客観的に見られることはない。まさにウィトゲンシ

ュタインによって、Seeing as が純粋な知覚ではなく、半分思惟で半分知覚であり、意志に

服していると特徴づけられたように、作品のメタファー構造は、作品と作家をとりまく批

評や理論、アートワールドの雰囲気なしに芸術を見ることを不可能にするからである。そ

れゆえに芸術としての便器は、問いかけとして、あるいは挑発として、観賞者を変容のプ

ロセスに巻き込む力をはらむ。この意味において作品は空虚ではあり得ない。芸術メタフ

ァー論はダントーにとり、制度論批判をも含んでいる。

10 TC, 125. ダントーは「解釈なしには芸術作品は何ものでもない」(ebd., S. 135)とも言うが、ダントーに

おける解釈と作品との関係は、カントにおける感情と美的対象との関係に等しい。

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芸術の力とメタファー

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2 メタファーと認識

言語的メタファーと視覚的メタファーに共通する構造を再び言葉にするなら seeing as と

言いうるであろう(言語的メタファーの場合、seeing は文字通りの意味ではないが、メタ

ファーを可能ならしめる、picture thinking の特徴をも示している)。しかしながら、まさに

その seeing as に、両者の相違が認められる。言語においては二つの項は明確に言葉に表さ

れる。しかし絵画や写真、インスタレーション等の視覚的芸術の場合はどうであろうか。

ダントーが視覚的メタファーの例として好んで、すでにタイトルに as 構造が明確に示され

ているポートレートを選んだことからも明らかなように、そしてまたオルドリッチが『モ

ナリザ』とボナールの『黄色い肩掛けの女』のまえで、素材と対象、両者の融合としての

作品の内容の区別をなしえなかったことからも明らかなように、ある内容 A を B として

represent するとき、我々には A とBの区別は与えられていない。作品の主題 A がどのよ

うに再現されているかはまさに解釈のプロセスのなかで推測されるしかない。

Seeing as を作品の構造とみなすとは、なにかある主題がある特定の仕方で表象され、描

かれる対象が特定の視点のもとで変容せしめられているという作品の有り様を示している

と考えるべきであり、言語的なメタファーをそのまま当てはめることはできない。この点

においてオルドリッチはもちろん、ダントーも「メタファー的絵画」と「あるメタファー

の絵画」とを区別しながらも誤っている(TC, 171)。たしかに、「ジュリエットは太陽だ」と

いうメタファーも、チャールズ・フィリポンによるカリカチュア「梨としてのルイス・フ

ィリップ」も、ダントーの言うように、主語の理解は述語(目に見えている梨の形)によ

って規定され、述語のある際だった特徴(ダントーはそれを本質と呼ぶが)のもとで主語

を捉えるよう命令され、様々な他の特徴は特定の特徴へと還元され、強調される。そして

その際の主語のイメージの述語のイメージへの強調的還元を可能にするのは、ダントーに

よれば、ある文化的共同体では自明のものとなっているプロトタイプな意味である。

「我々の世界を作っているのはプロトタイプだ」。この言葉はメタファー論としては、メ

タファーの隠された意味を否定するデイヴィドソンの言葉と同様、非常に刺激的である11。

しかし、こうした解釈が単純な形のカリカチュアや単純なメタファーならともかく、その

まま作品経験に当てはめうるであろうか。ボルタンスキーの写真や子供服、あるいは名前

の記されたプレート、それらが何であるかはたしかに自明である。しかし、それらの日常

的な対象がいかなるものに変容しているか、いかなるものとして見られようとしているか

は、我々の解釈に依る。つまり、ここでは A を作品として、seeing A as B の B は与えられ

ていない。しかし、ボルタンスキーの例は、我々に視覚的な芸術のメタファー理解にある

示唆を与えている。積み上げられた菓子缶や子供服、そして家族のスナップ写真は、見る

11 Davidson, D., Was Metaphern bedeuten (1978), in Die paradoxe Metapher, hg. von A. Haverkamp, Frankfurt am

Main 1998, S. 49ff. またこのプロトタイプの概念は、カントの「共通感覚」のダントー的変容とも考え

られよう。

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芸術の力とメタファー

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ものの子供時代のさまざまな思い出を触発し、薄暗く、冷たい光とタイトルはその所有者

達の死を体験させる。そうした経験は、私たちの子供時代の想起に、そしてさらには人間

そのものにあるアスペクトを与えるであろう(ボルタンスキーにおいては、そのメトニミ

ー的な働きは匿名的な存在のメタファーとしてさらに普遍化されている)。ウィトゲンシュ

タインを繰り返すと、Sehen als はアスペクトの形成であり、解釈を介在させたある種の視

覚的な経験であり、アスペクトの概念は表象 (Vorstellung) に似ている。それはある種の知

と経験と表象への意志、さらに「想像力の技術」の習得を前提とする。ウィトゲンシュタ

インに従うオルドリッチ、へスターともにアスペクトの prehension あるいは insight を美的

知覚の本領とみなす。

彼らに従い、我々の作品経験にとりあるアスペクトを持つことあるいは作ることが重要

な課題であるとして、そのアスペクト作りがどのようになされるか、ボルタンスキーの例

で考えてみたい。まず重要なことは、我々の思い出や連想を触発する契機がある類似性

Ähnlichkeit に基づくこと、菓子缶が、そして子供服やスナップ写真がわたしのそれを想起

させる類似性をもち、暗く、冷たい光は、死のイメージとのある類似性を持っている。こ

こまでは確かにプロトタイプが働いている。レイコフによれば、我々は新しいメタファー

を、すでに自分の理解しているメタファーを介して理解あるいは推測する。「メタファーの

第一の機能は、ある種の経験を他の種の経験から部分的に理解することを可能にすること

である」(MW, 177)。しかし同時に新しいメタファーによって、呼び起こされた経験の特定

のアスペクトに光が当てられると共に、その背後で類似した過去が戯れると同時に他のア

スペクトが隠され、いわば私たちの経験は構成し直される。照らし出されたアスペクトの

もとでは複数のあるいは無数の類似した経験が揺れ動いているとともに、新しい経験は過

去の経験の想起や連想を介して推測され、意味付与される。その意味では今の経験と過去

の経験が、相互に作用しあい、互いを変容させつつ、一つの新しいアスペクトを形成する

とも言いうる。そしてそれは、作品と私との間に新しく作り出される類似性でもあろう。

芸術経験においては作品と私が、メタファーの主語と述語のように交互に作用しあい、場

合によっては反発しあい、結びつき、新しい類似性をまさに出来事として形成するのでは

なかろうか。そこではプロトタイプ、あるいはダントー的な共通感覚は相互作用のきっか

けとして機能し、経験のなかでさまざまなニュアンスによって色づけされている。この新

しい類似性(それは同時に作品によって呼び起こされた新しいイメージでもある)の形成

に、ダントーの言う、我々の心を動かす作品のレトリック的な力が見られるのではなかろ

うか。ここではプロトタイプは静止的ではなく、新しいイメージ形成に対して動的な契機

となっている。ダントーによれば、類似性は我々の世界を conceptualize しているプロトタ

イプと結びついており、メタファーは我々のイメージを強調したり、本質に還元したりす

ることは出来るが、知らないなにかを付け加えることはおそらく出来ない(BB, 86)。しかし、

作品とは、これまで経験してきた様々な事柄を思い出させるだけでなく、その想起に新し

いアスペクトを与えることにより私たちのまだ経験していないようなことをも内部から思

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芸術の力とメタファー

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い出させる働きを持つのではなかろうか。その意味において作品はわれわれに新しい経験

を媒介するのではなかろうか。

3 類似性

レイコフにおいてもメタファーは経験的一致か類似性に基づく。しかし、その類似性は

対象の客観的な特性に関わるのではない。「メタファーに重要な類似性は、我々が経験を介

して知覚する類似性である。」客観的な特性とは異なるこの類似性は、「我々の表象を投影

する交互作用的な類似性」とも呼ばれ、また「conceptual なメタファーの帰結として生じ

る」とも言われる(MW, 247)。さらにこうした類似性はレイコフの言葉によれば、「想像力

の合理性(imaginative rationality)」(MW, 235)に基づき、芸術はまさにこの想像力の合理性に

よっている。しかし、レイコフはこの想像力にも、類似性にもそれ以上の明確な規定を与

えていない。従来のメタファー論でも、メタファーの属する領域に、学的な論理性におい

て消し去られて行く生活世界的な豊かさが認められてきたが、類似性の持つ認識論的な役

割に関して明確な規定はなされていない。ニーチェ、ガダマーのメタファー論も基本的に

その域を超えていない。『類似性の美学』の編者ゲラルト・フンクが若干説得力のある類似

性の特徴を示しているので参照すると12、彼によれば、類似性は同一性と差異、現象と本

質、主観と客観の二元論から自由であり、Gleichheit(等しさ)が特定の性質や観点におけ

る比較であるのに対して、むしろ全体的な比較に基づき、現象そのものの複雑さを対象と

する。老年と枯れ枝のメタファーも、たしかに老年の個々の特徴ではなく、全体のあるア

スペクトが簡潔に枯れ枝で表現されている。ここでは、ダントーの言う本質への還元より

もレイコフの言う、他の類似したアスペクトが背後で戯れ続けていると考えた方が正しい

であろう。そしてその類似性は外的な類似ではなく、いわば想像力の捉える類似と言いう

るであろう。そうした複雑なニュアンスを共振させる類似性の経験における意味を考える

ために、もう一度作品を例にして考えてみたい。湾岸戦争の折りのレベッカホーンのイン

スタレーションで、彼女は3部屋を使い、一つの部屋にはいろいろなリズムでタイプを打

つ40台のタイプライターを天井からつるし、もう一つの部屋には床の上に置かれた動く

板の上に4000個のワイングラスをぎっしりと並べ、真ん中の部屋は空っぽにしておい

た。彼女によれば、観客は真ん中のその空っぽの部屋で痙攣するような奇妙なリズムで動

き始めたということである。その作品には「こおろぎのコーラス(Chor der Heuschrecken)」

というタイトルが付けられている。湾岸戦争による不安やいらだちが音と形象と動きによ

ってメタファー的に表現されている。そこにはまさに想像力の捉えた類似性がある。その

類似に気づくためには、我々はおそらく自分の経験に耳を澄まさねばならない。自分のい

らだちとワイングラスの軋み、割れる音やタイプライターの焦燥感をかきたてるリズムと

の類似性、それに気づくことは単に音の新しい経験に留まらず、もっと感性の深みに耳を

12 Funk, G. (Hg.), Ästhetik des Ähnlichen, Frankfurt am Main, 2000, S. 11ff.

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芸術の力とメタファー

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澄ますことになろう。レイコフによれば「新しいメタファーは新しい理解の方法を示し、

それゆえ新しい現実を作ることができる」。また、「芸術は我々が我々の経験をこの自然的

な次元から構成する新たらしい可能性を与える」(MW, S. 269)。その自然的な次元は、メタ

ファー産出の次元にかんしてよく言われるように、単に共感覚的な synästhetisch な層であ

るだけでなく、いわゆる思惟することそれ自身もまたそこから立ち上ってくるような感性

の層であろう。ダントーはしばしば「日常生活の意味深さ」を語っているが、日常生活の

深さは、たとえば紅茶に浸されたマドレーヌの香りのように、我々が普通は忘れ去ってい

る様な意識の襞の奥底にも潜んでいよう。芸術経験はそうした襞に浸透しつつわれわれの

経験を塗り替える可能性をもっている。そしてまさにそこに芸術のレトリック的な力があ

るのではないであろうか。

(付記、本論は 2004 年美学会全国大会での発表に加筆したものである。)

(やまぐちかずこ 岡山大学文学部教授)

[キーワード]

メタファー 想起 変容 日常生活の深さ 意識の襞

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我々の親切は、誰にするのか

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我々の親切は、誰にするのか ― 日本的な親切の人間関係論 ―

近藤良樹

1 親切は、ひと(人)にする

われわれの「親切」は、困ったり求めをもつ他人に対して、たまたまその場に居合わす者が、

ささやかな手助けをすることである。こう定義される親切は、英語では kindness になり、ドイ

ツ語では Freundlichkeit になる。親切は、日本においては、事物にするものでも、動植物にする

のでもない。人間に、「ひとに親切にする」のである。ときに酔っぱらいは、街路樹にぶつかり

そうになって、これに「親切に」注意をする。だが、かれも、それが街路樹だと気づいたとき

には、「人の邪魔をして」と蹴り上げて、親切の気持を抱いた自分の非を行為で示す。

われわれの親切と異なって、英語では、しらふでも、草木にも「親切に(kindly)」する(この

事情はドイツ語の freundlich でも同様のようである)。親切の気持をいだく範囲が、日本とは異

なる。kind(freundlich)は、「親切」とは違い、草木にも動物にも言い、「優しさ」のように広

い範囲に関わる。ならば、kind とは、「優しい」ことであり「親切な」ことではないのであろ

うが、しかし、われわれの「親切」に相当することばは、kindness であり、kindness の中核は、

やはり、われわれの「親切」と同じであるように思われる。日本に「小さな親切運動」がある

が、それにほぼ均しいものがアメリカでは“kindness movement”と称して展開されている。こ

れは、草花をめでるのでも動物を愛護する運動でもない。この kindness の対象とするものは、

われわれの親切と同じく人間である。

日本では、足に毛糸がからみついて困っている猫を助けるのは、親切とはいわない。「猫に優

しくする」にとどめる。動物とひとを本来われわれは、西洋のひととちがい、あまり区別しな

いのだが、親切に関しては、動物をその対象から外す。おそらくは、猫や犬が、ひとの親切を

理解せず、「いらぬお世話を!」という目つきをして逃げるからであろう。

(親切の理解できる者に親切はする)ひとに親切にするのであるが、さらにわれわれの親切は

限定的であって、人であっても死体には親切にしない。病室で「隣の病人が車椅子にのるのを、

親切に手助けしてあげた」というけれども、後にこれを棺桶に入れることになっても、「その死

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我々の親切は、誰にするのか

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体の足をさげて親切に入れてあげた」とはいわない。そうであるのみか、われわれは、生きて

いる者でも乳幼児や植物人間にも、「親切」にはしないのではないか。

「同情」なども、死んだ者にはしない。おそらく、植物人間にもしない。植物人間になった

友人の見舞いにいって、「同情しました」とあとで感想をもらす場合、だれに同情しているのか。

植物人間の友人にではない。その友人には痛恨のなみだをながし哀れみ悲しんだとしても、「同

情」はしない。「同情する」その相手は、友人の家族であろう。父の葬儀に親戚が集まったとい

うので喜んでいる幼児にも同情はしない。だが、親切を犬猫にまでいう英米では、やはり犬猫

にも死体にも幼児にも「同情(compassion, sympathy)」する。

われわれが同情や親切をこれらのものにしないのは、同情の場合、「同」「情」するのである

から、自分の「情」と「同じ」ものをもっていることが前提されるのであろう。死んだものに

は、「情」はなくなっている。植物人間もそうである。親切もそれに類した思いがあるのではな

いか。つまり、親切をするその相手が、自分と同じように、親切を親切として「理解できる」

ことを前提にするということである。草木はもとより犬猫にも「親切」をいわないのは、それ

らがわれわれの親切を「親切」として理解してくれないからであろう。

(われわれの親切は、相関的)親切は、「余計なお世話」「お節介」とみなされることもある。

よけいなお世話と解される親切は、親切ではない。ひとりよがりの親切は、迷惑千万である。

相手から「親切」と理解・受容されてはじめて、親切である。いくら純粋に一途に「愛」して

いたのだとしても相手が嫌がっていた場合は、「セクハラ」であり、「暴行」になるのと同じで

ある。ひとを思う優しい (kind) 気持があっても、独善的な親切では、親切 (kind) にはならな

い。相手から親切として受けとめられる必要がある。親切は、相手次第である。やさしいわれ

われは、その相手をしっかりと見ていて、それに応じて、親切になったり、優しくなったり、

ていねいになったりするのである。

交わる対象に応じて、われわれは、微妙に態度を変える。第一人称が一つ(英語なら I)の

ぶっきらぼうの欧米とちがい、相手に応じて「わたくし」「おれ」「おとうさん」等と変わるこ

とと通じるものがありそうである。「私」や「僕」は、よそ行きの私であり、友だちの前では「お

れ」「わし」となる。わが子のまえでは「お父さん」となる。相手にあわせて、われわれの自己

は決定される。非自立相関的である。どこの人類でも、もともと群居の哺乳類のこと、相関的

に自己も存立しているはずであるが、その相関の度合いが、われわれでは大きい。よく言えば、

気遣いがこまやかなのであり、悪く言えば、独立心・主体性に乏しいのである。

kindness の国々では、自主自立の個人主義が強く、ひとがどうしていようがわれわれほどに

は気にせず、自己は、どこで誰に面していようとも、不変の「私(I)」を貫く。その自主独立の

根本の態度が親切でも出てくるのであろう。相手が親友であろうと、生きていようと死んでい

ようと、犬猫を前にしようと、気にすることはない。一貫した不変の「親切な私(I)」が、自信

をもって親切を貫いていくのである。

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我々の親切は、誰にするのか

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2 親切は、ひと(他人)にする

われわれは、犬猫にではなく「ひとに親切にする」のであるが、さらに限定的で、その「ひ

と」はというと、日本では、「他人(ひと)」になる。自分の家族には親切は言わない。kindness

の国では、犬猫のみならず家族にも親切にする。ドイツの親切(Freundlichkeit)も家の内外を問わ

ない。個人主義が徹底しているので、各個人にとっては、家の内外の別は、大した違いではな

いもののようである。われわれ日本の場合が特殊なのであろうか。家族とその外との仕切りが、

われわれでは大きい。そとでは人一倍親切で同情する人であっても、家族には同情もしないし

親切にもしない。「こどもに、親切にしていた」と聞くと、そのこどもは、他人であると知るこ

とができる。同情でもそうである。「わが子に同情する」ような親は、親ではない。

では、なぜに、親切や同情を家族にいわないのであろうか。手助けや思いやりということで

は、家族も当然その対象となる。違いは、家族は一心同体的な存在なので、特別な深い関わり

方になることである。家族の困っていることでは、単なる小さな親切にはとどまれない。これ

には、親切を超過して献身的となる(受難への同情も同じで、家族では、傍観者的同情にはと

どまれず、距離をなくして受難の当事者になってしまう)。西欧でもそれは似通ったものであろ

う。われわれ日本人は、この、家での特別のあり方をそれとして区別して、そとでの親切(あ

るいは同情)をうちにはいわないのではないか。

親切は、たまたまの出会いに、余裕でする、ほんのささやかな手助けである。親切は、本質

的に、「小さな親切」である。だが、日本の家庭では、自己犠牲的な献身は当り前で、親たちは、

いうなら超親切な毎日である。余裕にするささやかな手助けの親切で形容できるような、なま

やさしいものではない。このような超親切の深い愛にそまった深紅の家族のうちでは、ささや

かな薄紅の、ほんのり温かな親切は、色をうしなう。見えなくなる。

親切は、他者距離を保って、ほんの表面のごくささやかな援助をするにとどめる。他人であ

ることを超えて踏み込んではならない。むしろ、薄紅の好意にとどめるのが、親切である。他

人としての遠慮をしなくてはならない。深紅の濃い愛をささげるのは、非常識で、迷惑ともな

る。ささやかな手助けのみのつもりで、若い女性が、見も知らずの親切な男性に重い荷物を少

し運んでもらったのに、彼から深紅の愛をもって「どう、今夜は一緒に…」とあたかも妻に接

するような超親切な誘いを受けるのでは、親切は、ぶちこわしとなる。

家族では、深紅の超親切が原則であるが、例外的に、他人行儀になっているときには親切や

同情をいうことがある。深紅に染まっていない他人行儀な白紙状態のところでのみ、薄紅は見

えてくる。パソコンにてこずっている父親が、息子に対して「もおちょっと、親切に教えてく

れにゃあ、分かるもんきゃあ!」と苦情をいう。パソコンに関しては、両者は、別世界にいる

のであり、あたかも他人であるかのような場面に出くわしているわけである。ここでの父親の

不満は、別世界の他人同士のような状態なのに、接し方は、むしろ、他人に対するような遠慮

とか敬意を表することがなく、親を小馬鹿にしていることである。他人にするように、よい意

味で距離をとり遠慮をして、他人に教えるときのように、忍耐・寛容・優しさのこころをもっ

て、つまりは「親切」で接してくれと不平を言っているのである。

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我々の親切は、誰にするのか

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(通りすがりの他人にする)親切は、たまたまに出合った他人の間でするのが典型であろう。

親切と似かよった、無償の手助けであるボランティアと費やす時間は変わらなかったとしても、

両者は、区別される。ボランティアは、計画的で、本格的な仕事であり、手助けの必要なところ

には地のはてまでも駆けつけていく。だが、親切は、しなくてもどうということのないもので、

たまたま生じた困惑に対して、その場に居合わせた通りすがりの他人が(従って、通りすがり

の他人に)即興にささやかな手助けをするのである。

親切は、その同じ場にいることを前提とする。ほんのささやかな手助けなので、偶々隣りあ

わせた赤の他人に頼めるのである。遠方からわざわざ呼ぶことはない。沖をゆったりと航行し

ている巨大タンカーを岸辺にと手招きして引き寄せ、「ここらでキャンプをしてもいいと思いま

すか」と親切を請う者には、親切を請えるのがだれになるか、船員たちがその逞しい腕をもっ

て体に覚えさせてくれることであろう。親切は、単に他人にするというのみでは不十分であっ

て、たまたま同じ場所に居合わせている行きずりの他人に限定されることになる。友人にする

親切は、嫌われたくない等の不純な動機をもつ。純粋な親切は、行きずり、通りすがりの他人

にする親切である。

3 親切は、困っているひと、求めのあるひとにする

親切は、ささやかな無償の手助け・援助を、他人にすることである。だが、ならばと、近所

のポストに小銭をなげいれてまわったり、たまたま同席した旅行者に、まといついて観光案内

をするのは親切であろうか。当人は「いいことをして、気持ちがいい…」と親切のつもりであ

っても、相手には、迷惑であり、「余計なお世話」である。その自称の親切は、場合によるとハ

ラスメントであり、「犯罪」となる。親切にするその他人は、困っているのでなくてはならない。

相手が困っていること、求めていることをしっかりと確かめてから親切にするものである。

親切は、必ずしも困るまでになっていなくても、その親切の贈与をありがたいと思える、そ

れを求める気持のあるところにも通じる。意思・欲求、つまり「求め」があるところで、困る

手前において、これに応えていくのである。コーヒーをいれていて、ついでに、喜んでくれそ

うなひとにも作ってあげるのは、親切であろう。困っていたり、求めのあることを察して、こ

れに応えるのが親切である。

(「小さな親切」ですますのが、親切)困っている、求めているといっても、その客観的な困

窮度が大きい場合は、親切の対象とはならない。厳密にいうと、親切にされる者にとっての主

観的な困窮度は大きいものでもかまわないが、親切にする者には、それに応えるに小さな手助

けにとどまるのでなくてはならない。ささやかな困惑にささやかに応えるのが親切の一般であ

る。

親切にするのは、しばしば赤の他人である。そんな見も知らずのひとに、駅前で、「借金で困

ってるんです、お願いです、50万円下さい」と請われたからといっても、親切にする者はい

ない。このお願いは、「冗談」か、「聞きちがい」か、でなければ、「恐喝」と受け取られること

になる。親切のかかわる困窮・求めは、親切にする者にとって、対処するに、ささやかなもの

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我々の親切は、誰にするのか

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で済むのでなくてはならない。

家族には負担の大きいものでも無理をして超親切に応えていく。年寄りに「オレ、オレ」と

孫が電話で泣きつくと50万や100万ならすぐにでも銀行に振り込んでくれる。それが新聞

で犯罪として問題になるのは、その「オレ」が他人であった場合に限られる。われわれは、他

人には冷たい。他人にするものとしては、援助は、ほんのささやかで負担にならないものに限

定する。これがわれわれの親切である。

道をたずねられたら、「あっちですよ」というだけで放置するのが親切で、「ご一緒しましょ

う、どこのお宅に何のために、お出でなんですか」というのでは、くどくなる。ましてや、「一

緒にいきましょう、今日は暇ですから。夜は一緒に食事して…」と超親切になることを、親切

にされるひとは、求めない。他人同士であることにと自制し遠慮しあって、ささやかにのみ触

れ合うのが親切のマナーである。

困っている者、求めのある者に親切はするのだが、困っているかどうかは、主観の問題であり、

外見からは分からないことが多い。相手が「困っている」と表現すれば、これは、確かである。

道を尋ねるとか、パソコンの「ここのところが分からない」というような場合である。これに

こたえるのは、百パーセント、親切と評価され、喜ばれる。だが、ひとは、むやみに困窮をそ

とに表現するものではない。自分の評価にかかわる問題であったとすると、隠してひとり悩む

ことになる。親切は、この場合、困窮そのものの発見からはじまる。

表面的には、困っているひと・求めある人と、そうでないひとの区別がつきにくい。いずれ

も、困っていない、求めていないとの装いをしている。この隠れた困窮や求めの発見は、それ

だけで、そのひとへの親切となるぐらい、当人には、ありがたいものとなる。しかし、ふつう

の人と比較してみて明らかに困窮した生活なのに、当人は、そうは思わず、清貧に誇りをもっ

て生きているということもある。そういうひとに親切の申し出をするのは、おそらく「いらぬ

お節介」となろう。また、本人が欲していたとしても、余計なことになる場合もある。たばこ

を欲しそうにしているのを見て、「一本どうぞ」と親切にしたとしても、そのひとが禁煙の最中

だったとすると、「余計なお世話」である。

親切の過剰は、その相手には、いらぬお節介で迷惑となる。ここでは、親切をやめることこ

そが親切になる。場合によっては、親切の過剰は、親切を頼りにするパラサイト(迷惑者)を

はびこらせることもある。登山に際して予備の食料をもたず、少し困るとヘリコプターを呼ん

でみたり、雨が降りそうでも傘を持参せず、ひとの傘を頼りにする寄生虫的存在者をつくる。

こういう者の困惑や求めには、不親切にしておく方が長い目では親切となる。

4 親切は、(困っていても)いやな者には発動しない

困っていたり、求めのある他人に親切はなされるのだが、親切にされる人は、それでよいと

しても、他方では、親切にする者の意向というものがある。親切にするのもしないのも親切な

人の自由である。親切は義務ではない。善意・好意で自発的にする任意の贈与である。困窮し

ているとしても、嫌いな相手には、親切にはしたくない。親切の気持ちを逆なでするような相

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我々の親切は、誰にするのか

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手の対応がある場合は、親切心は萎縮する。

嫌いな者とは、遠ざけたい者であるから、親切に近づくことには抵抗したくなり、親切は、

発動しにくい。嫌いな者でも、困っているから助けて欲しいといえば、嫌いな程度と、その援

助の内容しだいでは、親切にしようが、わざわざに、その求めているものを推測し気を配って、

親切にするようなことは、しないであろう。だが、好きな相手には、近づきたいし、贈与的に

なるので、よく気をつけ親切を連発したくなる。

憎悪する相手になると、これには懲罰を加え、これを抹殺したいのであって、親切の贈与な

どとんでもないこととなる。「舌切り雀」の欲張りばあさんに対するように、懲らしめとなるよ

うなものを背負わせたくなることはあっても、価値あるものの贈与は拒絶することであろう。

親切は、ささやかな手助け、小さな贈与だとはいえ、相手のプラスになることにはまちがいな

く、いくら相手が困っていても、求めていても、憎悪する相手には親切は発動しない。「敵意」

をもったり、「悪意」をもったりする場合も、同様である。親切は、価値あるものの贈与であり、

反価値の付与を意図する悪意に反する。敵に親切にするのは、利敵行為となる。

(親切は、好意をもてるひとにする)親切にする相手は、困っていたり求めをもつ他人である

が、さらには、親切にするひとの方が、敵意や悪意をもっていないひとということになる。積

極的には、好意をいだけるひとに、親切心は向けられる。相手のプラスとなることを望んだり、

近づきたいと思っているような場合、つまり好意の気持をさそわれるならば、親切もさそわれ

ることであろう。ただし、親切が請われるのは、駅頭で道を突然たずねられるときのように、

たまたまのことであり、見知らぬ他人からであることが結構ある。「交番は、どっちですか」と

聞かれ、とっさに「ここを出てすぐ左です」と反応する。その相手について、好きとか嫌いと

かの判断をする前に、親切は終わる。だが、そういう場合でも、強く不快感を与えるような装

いの相手には、親切心は発動しない。それをこころえているから、たとえ茶髪等で不快感を与

える若者でも、「おい、そこのはげのおっさんよお!」と私に呼びかけるのではなく、頭をぺこ

ぺこさげながら、にこやかに好意的に受け取られるようにと努力しつつ、「ちょっと、すみませ

ーん、交番を教えてください」と尋ねるのである。

親切は、積極的には、すきな相手に向けられる。すきで、ちかづきたいということであれば、

ささやかな贈与・手助けの親切は、それを満たす機会として誘発される。「好意」は、関わる他

者に親しみをいだき、これを好きだと感じることである。是認的で、その悪をも肯定的にうけ

とめようとし、あたたかく優しく思いやりある態度を持って、これに近づきたい、近づけたい

と思い、そのひとのためになることをしてあげたいと、贈与的になった心構えであろう。

好意の相手は、他人である。好きで親しみをもち贈与的であっても、我が家のものには、「好

意的」にふるまうとは言わない。好意を超えているからである。われわれの好意は、家族のそ

との、他人に向けていだかれる、他者距離を維持した、ささやかな薄紅の愛である。

(「善意」や「慈しみの心」から発動する親切もある)「善意」は、反悪意として、相手のため

になる善いことを願っている。相手を肯定的によい方に理解し、その人のためになる善いこと

をと利他的贈与的な気持をもつものであろう。善意の親切がさそわれる相手は、好意の相手と

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我々の親切は、誰にするのか

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ちがって、社会的な弱者など、むしろ、価値あるものを喪失して受難状態にあるひとの方に傾

く。これも、他人に対して発動する利他の意思である。家族には、良かれと思ってするのは当

り前で、家族は相互にもう一人の自分であり、傍観者には留まれない。善意も好意も、傍観者

の位置にとどまりつつ他人に対して抱くものになる。

好意は、善意より主観的で、相手のことを好きで、好ましく思い、親しみをいだいて、近づ

きたいという、引かれる契機が顕著である。好意の親切は、好きな者に向けられる。善意は、

そういう引かれるとか好きだということは問題にしない。善意は、善いことを願う冷静な意志

が中心になる。善意の親切は、慈悲心からする親切もそうだろうが、真に手助けが求められる

受難者・弱者にと目をかけ、ひいきする。

5 近づきたい他人を選んでする親切もある

(下心をもっての親切)親切は、見知らぬ他人に近づける絶好の機会なので、その手段として

利用される。手段としての、いわば「下心のある親切」は、「善意」や「慈悲」からの親切と違

って、社会的弱者をむしろ除外し差別する。「下心ある親切」は、親切が目的ではなく、下心が

主で、親切は単なる手段・えさである。

親切は、無関係の他人に怪しまれずに近づき、わずかな負担で、おおきな獲物をものにでき

る機会となる。故意に、下心をもって関わりをねらっていたのに、自分がたまたま居合わせて

手助けをすることになった、相手の方から関係が求められてきたととぼけることができる。

もともと親切は、たまたまの出会いに、見知らぬ他人がしてくれるのだから、無関係のもの

が親切にしてくることには、疑問をいだくことは少ない。軽い他者間接触であり、貸し借りの

意識もさしてもつ必要もなくて、受け入れやすい。しかも、親切心をもって、つまり善意で好

意的にひいきしてくれているのである。ひとの好意・善意は、断りにくい。それを見越して、

下心あるものは、親切をたくみに利用していく。

親切の悪用としては、「親切ごかし」もある。親切ごかしは、親切に相手の手助けをし、贈与

的利他的に見せかけながら、その実、自分の利益を追求していることをいう。「猿かに合戦」の

猿が、かにのために青い柿を取ってやったようにである。

下心のある親切の「下心」は、親切の場面には見えず隠されていて、犯罪的意図までをふく

むが、親切ごかしの場合は、自分の利益の優先をその親切自身において見せる。親切の度合い

からいうと、下心をもってのそれは、「赤ずきんちゃん」へのおおかみの親切のように、過剰な

ぐらいに贈与的である。親切ごかしは冷淡で、青い柿をなげつけた猿のように、親切の贈与の

少なさによって、おのれを露呈する。

(手段としての親切の相手)親切は、困っていたり求めをもつ他人にする。下心ある親切や親

切ごかしは、さらにその他人を限定していく。赤ずきんちゃん」のおおかみは、森で木こりが

困っていたり、男の子が道に迷って泣いていたりしても、親切にはしない。それらを無視して、

ひたすらに、赤ずきんちゃんのみにと親切の対象を限定する。それは、彼女のみが自分の目的

とするもの(下心)を満たしてくれるからである。自分の求めを満たしてくれるものにと限定

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我々の親切は、誰にするのか

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して、親切の相手を選択するのである。

親切ごかしの、「猿かに合戦」の猿にしても同様である。困窮している無産の蟹どもに親切を

しようとはしない。柿の木の所有者である蟹にのみ親切にしていく。自分の欲しいものを充足

してくれる相手にと限定しての親切である。下心ある親切も親切ごかしも、親切にする相手の

困惑や求めに応えていくのではあるが、その真の目的は、他人への手助けではなく、自分の欲

望の充足である。つまりは、「自分に親切にする」のだということができなくもない。

(隣近所との親切の交換)親切は、たまたま隣あった他人にするが、この隣が固定するときが

ある。隣近所である。隣近所と親切にしあうのも、単純に親切をするというのではなく、別の

意図(下心)あってのものである。好意的であって敵意や悪意はもっておらず、穏やかな隣同

士でいたいこと、ぎくしゃくした関係にはなりたくないことを、親切をもって表示しあうので

ある。好意や親切は、他人を対象とし近すぎず離れすぎず親しみあい、ほどよい隣近所との関

係をつくりだす。これも下心があるのだといえば、いえる。たまたまに隣だから、仲良くして

おこうというだけのことである。

だが、そのことをもって、親切が不純だとはいわないであろう。他人同士が近づくきっかけ

はそうあるものではない。親切は、それを実現する。しかも、親切では、他者距離を維持し、

遠慮しあって、他人であることを超えないものだとの相互了解をもつ。ささやかな贈与、ちい

さな手助けに限定しあっているのである。隣とは、できるだけ和やかな関係でありたいが、他

人であることを超えてうちに踏み込んでこられるのも、困る。親切と好意は、そのことをうま

く実現する。親切は、ここでは手段となっているのであるが、良好な隣人関係をつくろうとい

うだけで他意はなく、これはよい利用の仕方である。

親切の好意には、ひとは、好意をもって応えたくなる。それにふさわしい「感謝」の気持を

もち、親切なひとの負担に配慮して「遠慮」もするし、自らも親切で応えようとする。この好

意の応答には、さらに親切と好意が帰ってくる。隣近所に好意の好循環が形成される。他人で

あることを超えず、好意的に交わるという親切の好循環である。

(こんどうよしき 広島大学大学院文学研究科教授)

[キーワード]

親切 同情 好意 善意 他人

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ウィトゲンシュタインの規準概念と行動主義

ウィトゲンシュタインの規準概念と行動主義

― クック著『ウィトゲンシュタイン、経験論、そして言語』1をめぐって ―

中谷隆雄

1 行動主義の意味

本稿では、クック著『ウィトゲンシュタイン、経験論、そして言語』を手掛かりに、ウィト

ゲンシュタインの規準概念と行動主義について考察してみた。

後期ウィトゲンシュタインは行動主義を採っている、とクックは言う。ただ、クックがそう

言うときの行動主義(以下、行動主義Ⓦと略)は、ふつうその語によって意味されているもの

とは多少異なっている。行動主義Ⓦは、もちろん、心的存在を否定する。つまり、行動主義Ⓦ

は、その存在論的側面については従来の行動主義と変わらない。しかし、その言語的側面につ

いては、行動主義Ⓦは従来の行動主義と異なる。このことは還元という観点から説明されるが、

ただ従来の行動主義はさらに二つに分けられ、計三つの行動主義が区別される2。

[存在論的側面] [言語的側面]

1.実質的行動主義 ○ ×

2.分析的行動主義 ○ ○

3.行動主義Ⓦ ○ △

この三つの立場はともに還元的であるが、立場によって「還元的」の意味が異なる。

実質的行動主義3が還元的なのは、単に心的存在を否定することによって存在者の種類を減少

させるからであり、それ以上の理由はない。

1 Cook, J. W., Wittgenstein, Empiricism, and Language, Oxford, 1999. 2 Cook, ibid., p.48-9. 3 議論を分かりやすくするために、実質的還元主義を実質的行動主義、分析的還元主義を分析的行動主義と言

い換えた。このように言い換えても、クックの論旨を大きく損なうことはないと思う。

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ウィトゲンシュタインの規準概念と行動主義

分析的行動主義は、二つの意味で、還元的である。それは、第一に、行動用語(泣く、笑う、

……)への翻訳によって心的用語(悲しい、うれしい、……)を消去するからであり、第二に、

そうすることによって、心的存在を否定して存在者の種類を減少させるからである。

第三の行動主義Ⓦも、前二者と同じく、心的存在を否定して存在者の種類を減少させる点で、

還元的である。しかし、行動主義Ⓦは、心的用語に対する態度が前二者とは異なる。実質的行

動主義は心的用語についていかなる見解も採らず、分析的行動主義は物的用語への翻訳によっ

て心的用語を消去可能にすることをもくろむが、行動主義Ⓦは、この二者のいずれとも異なり、

心的用語の用法を記述するだけで、心的用語を消去しようとはしない。

心的存在については、行動主義Ⓦも否定する。ただ、分析的行動主義が心的用語を消去する

ことによって心的存在を否定するのに対して、行動主義Ⓦは、心的用語の用法を記述すること

によって心的存在を否定するわけではない。心的用語の用法を記述するからといって、心的存

在が否定される必要はないからである。ならば、なぜ心的存在が否定されるのか。クックはそ

れをウィトゲンシュタインの前期思想の残滓だと説明する。クックによれば、『論考』4は分析

的行動主義であったが、『探究』では、それが捨てられて行動主義Ⓦが採られたという。たしか

に、ウィトゲンシュタインは、『論考』で分析的行動主義を明言しているわけではない。しかし、

『論考』には、命題は完全に分析可能である (3.201, 3.23, 3.25) という思想がある。それに加え

て、そこに経験論的傾向があったのだと解釈できるなら (5.5561, 6.363)、ウィトゲンシュタイ

ンは潜在的に分析的行動主義者であったと言えるであろう5。つまり、そう解釈できれば、心的

用語を含む命題は、経験可能な物的用語のみを含む要素命題に完全に分析可能となるために、

前者は消去可能となるからである。ところが、後年、「完全な分析」は否定される。『哲学的文

法』でウィトゲンシュタインは次のように言っている6。

「私は以前には『完全な分析』というところまで語っていた。そして、そのときに考えて

いたのは、哲学は、すべての命題を分析し、その結果、あらゆる連関を明らかにして、誤

解のどんな可能性をも取り除かなければならないということであった。・・・以上すべての

根底には、言語の用法についての誤った、そして理想化されたイメージがあった。」

(Anhang 4B)

コンテキストを考慮すれば、ここで命題の、ひいては概念の「完全な分析」という思想が撤回

されているのは明白である。そして、前期の分析的行動主義から後期の行動主義Ⓦへの転回点

がこのあたりだと言えるかもしれない。というのも、このあたりを起点にして、ウィトゲンシ

ュタインが心理用語の記述へと向かうのが、これ以降のように思えるからである。ただ、クッ

4 使用したテキストは、Tractatus Logico-Philosophicus (『論考』)、Philosophische Grammatik (『哲学的文法』)、

Zettel (『断片』)、 "Wittgenstein's Notes for Lectures on 'Private Experience' and 'Sense Data'" ed. Rush Rhees, Philosophical Reviews, vol. 77 (July 1968) (『講義ノート』) 、 Philosophische Untersuchungen (『探究』) であり、

『講義ノート』のみ頁を、他は節番号を、それぞれ本文中に記した。 5 Glock,Hans-Johann, A Wittgenstein Dictionary (Blackwell 1996) p. 56. 6 Cook, ibid., p. 56-7.

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ウィトゲンシュタインの規準概念と行動主義

クによれば、ウィトゲンシュタインはその経験論的傾向を払拭できなかった。そのために、心

的存在は依然として否定されつづける。

とかもく、「完全な分析」という思想を捨てたのは、「言語の用法についての誤った、そして

理想化されたイメージ」が覆されたからだ、とウィトゲンシュタインは言う。それは、言語の

道具的性格が把握されたからである、とクックは推測する7。そもそも、心的用語にしろ、行動

用語にしろ、言語ゲームによって作られた道具である。心的用語が行動用語に還元できるか否

かは、心的用語が行動用語で代替的に使用できるか否かにかかっている。しかし、何らかの心

的用語を含む言明を行動用語のみを含む言明に置き換えたとしても、後者が前者と同じ機能を

果たせないであろう。なぜなら、何らかの言語ゲームによってできた道具が、それとは基本的

に性格を異にすると思われる言語ゲームによってできた道具で代替使用ができるとは言えない

からである。

そこで、ウィトゲンシュタインは、心的用語を行動用語に還元することではなく、行動用語

によって心的用語の用法を記述することをもくろむ。ただ、その際、行動だけでなく、行動を

取り巻く状況にも言及せざるをえない8。「歯が痛い」の用法を例に考えてみる。かりに、①②

③という三つの事態があるとしよう。

① 彼女は歯が痛い。

② 彼女は歯が痛いふりをしている。

③ 彼女は芝居の中で歯が痛む演技をしている。

「彼女は歯が痛い」という文が適用されるのは、①に対してである。ところが、彼女の行動の

みに言及することによって、①の事態を記述しなければならないとすればどうなるか。①の記

述は、例えば、「彼女はその手で頰を押さえる、彼女は顔をしかめる、等々」というようなもの

になるであろう。そして、②を記述しても、③を記述しても、同様のものになるであろう。つ

まり、彼女の行動の記述のみによっては、おそらく、①②③を区別することはできない。区別

できなければ、「彼女は歯が痛い」という文の用法の記述には、彼女の歯が本当に痛い①だけで

なく、彼女の歯が本当は痛くない②や③も含まれてしまう。その結果、①②③は、行動の記述

のみによっては区別できなくなる。①②③は、行動の記述だけでなく、行動を取り巻く状況も

考慮に入れなくてはならない。そして、そうすることによって、「彼女は歯が痛い」の用法が同

定可能になるはずである。つまり、「彼女は歯が痛い」が、②でも③でもなく、①にのみ使用さ

れることを意味する記述とするには、その記述には、行動の記述だけでなく、行動を取り巻く

状況の記述も含めなくてはならない。

7 Cook, ibid., p.57-60. 8 Cook, ibid., p.84.

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ウィトゲンシュタインの規準概念と行動主義

2 規準の登場

このように、身体行動のみによっては、ある人物に痛みがあるかどうか判断できない9。現に、

『断片』でウィトゲンシュタインはこう言っている。

「かくかくの状況のもとでしかじか振る舞っている者について、私たちは、彼は悲しんでい

ると言う。」(526)

何らかの状況のもとでの何らかの身体行動に基づいて、私たちは、「彼は悲しい」と言い、また、

それとは別の状況のもとでの別の身体行動に基づいて、私たちは、「彼女は歯が痛い」と言う。

したがって、「悲しい」とか「歯が痛い」とかの表現の用法の記述には、行動の記述のみならず、

その状況の記述も含まれなくてはならない。しかし、状況というものは、漠然としていて、記

述しがたい。①の課題に答えるのは容易ではない。そこで、戦略的に、課題は①から②へシフ

トする。

①「いかにして心的用語は使用されるのか?」

②「いかなる規準で心的用語は使用されるのか?」

求められるのは、心的用語の用法の記述ではなく、心的用語の使用の大まかな目安の記述とい

うことになる。大まかな目安が、すなわち規準である10。そして、ウィトゲンシュタインの規

準概念は、六つの規則に従っているとクックは言う11。ここでは、そのうち、特に、行動主義

Ⓦにかかわる次の二つについて検討したい。

[規則#2] もしYがXの規準であるとすれば、ある意味では、XとYは二つの別個のもので

はありえない。

[規則#3] もしYがXの規準であるとすれば、XとYは同じものではない。それは、ちょう

ど、義理の母と私の配偶者の母が同じでないのと同様である。つまり、「X」と「Y」

は同義ではない。

既述の通り、「完全な分析」が断念されて、心理用語は他の種類の用語に置き換えられない。そ

れが規則#3に反映している。他方、ウィトゲンシュタインは次のようにも言っている。

「しかし、私が真正の表情と偽りの表情とを明示的に区別しないとすれば、もし恥ずかし

9 Cook, ibid., p.84. 10 クックによれば、規準概念を導入せざるをえなかったのも、規準概念が込み入ったものになったのも、ウィ

トゲンシュタインの経験論的傾向によるという。そして、このことは、『ウィトゲンシュタイン、経験論、そ

して言語』の主要テーマの一つになっている。これはさらに一考を要する問題であり、ここでは検討する余

裕がない。ただ、経験論的傾向が規準概念導入の唯一の理由ではないと思う。Cook, ibid., p.77. 11 Cook, ibid., p.78-85.

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ウィトゲンシュタインの規準概念と行動主義

さの表情によって私が意味するものが、あなたが『表情+感情』によって意味するものだ

と私が言えば、どうだろうか。私が思うに、真正の表情を表情と他の何かの和と述べるこ

とは誤解を招く。」(『講義ノート』p.302-3.)

ここでは、「表情」という表現を広く解釈して、「ある特定の状況下での表情」と理解しておく。

このように「表情」を広く解釈しようと、字義通りに取ろうと、引用文の論旨には影響しない。

ともかく、ウィトゲンシュタインが言わんとしているのは、真正の表情を「表情+感情」とみ

なすことは誤解を招くということである。つまり、何らかの感情について、それが(装われた

ものではなく)真正のものとなるのは、そのときの表情に感情なるものが加わることによる、

と言うのは誤解を招くというのである。ここから、ウィトゲンシュタインは表情と感情の二元

論には与さない、ということが帰結する。

かりに、ある表情Yがある感情Xの規準であるとしよう。しかし、真正の表情は「表情+感

情」とみなせないのだから、表情Yが感情Xとは別個のものであると考えることはできない。

この事情が、規則#2で、「もしYがXの規準であるとすれば、ある意味では、XとYは二つの

別個のものではありえない」と表現されている。「ある意味では」というのは、典拠から推して、

「存在論的に」と言い換えられるであろう。つまり、規則#2に従えば、感情Xというのは、

存在論的に、(ある特定の状況下での)表情Yとは別個のものにはならない。そして、この規則

から行動主義が帰結する。

しかし、規則#2は規則#3と矛盾するように見える。規則#2が「ある意味では、XとY

は二つの別個のものではありえない」と言っているのに対し、規則#3は「XとYは同じもの

ではない」と言っているからである。しかし、クックによれば、この二つの規則は相互に矛盾

しているように見えるが、実際はそうではない12。そのことを彼はトランプゲームを例に説明

する。例えば、私が五枚のスペードを所有しているとする。しかし、単にそれだけでは、私に

フラッシュの手があるとは言えない。私にフラッシュの手があると言うためには、そのとき私

がポーカーゲームに参加していて、そしてその五枚のスペードがそのゲームで使用されている

五十二枚のカードのうちの一部であるという条件が必要である。言い換えれば、五枚のスペー

ドがフラッシュとなるためには、その五枚のカードがポーカーゲームでプレイヤーに扱われて

いるという状況が必要である。五枚のスペードは、それを取り巻く状況がある種の条件を充た

すことによって、フラッシュとなる。

以上の話を前提した上で、五枚のスペードが「スペードのフラッシュ」の規準であるとする。

そのとき、スペードのフラッシュは、規則#2の言うように、(存在論的には)五枚のスペード

以外の何ものでもない。しかし、五枚のスペードを持ったからといって、直ちに、スペードの

フラッシュの手を持ったとは言えない。それゆえ、規則#3の言うように、「五枚のスペード」

と「スペードのフラッシュ」とは同義ではない。このように考えれば、たしかに、規則#2と

規則#3との矛盾は解消する。

12 Cook, ibid., p.80.

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ウィトゲンシュタインの規準概念と行動主義

3 行動主義Ⓦか否か

クックによれば、たいていの注釈家は、規則#2を度外視して規則#3に飛びつき、ウィト

ゲンシュタインは行動主義Ⓦに反対していると解釈した13。例えば、その一人ケニーは言う。

「概念の適用のための規準が行動的だからといって、概念そのものが行動的であることに

はならない。XがYの規準であると言うことは、『探究』では、XがYの定義であるとか、

<Y>はXを意味すると言うことではない。」14

つまり、ケニーはこう考える。観察不可能な心的状態や過程は、その規準となっている(観察

可能な)行動とは別個のものである。ウィトゲンシュタインは行動を規準として使用している

が、だからといって、彼が行動主義者になるわけではない15。それゆえ、心的状態と行動との

二元論は維持される、と。

このケニーの解釈も、クックはポーカーで説明する。先と同様、五枚のスペードが「スペー

ドのフラッシュ」の規準である。「概念の適用のための規準が行動的だからといって、概念その

ものが行動的であることにはならない」のだから、ケニーの場合も、概念の基準と概念そのも

のとは同義ではない。それは、「五枚のスペード」と「スペードのフラッシュ」が同義でないの

と同じことである。ゆえに、規則#3は充たされる。ただ、ケニーの場合、五枚のスペードが

フラッシュになるのは、五枚のスペードを取り巻く状況によるのではなく、五枚のスペードに

(存在論的に)何かが付加されることによる。つまり、フラッシュは、(存在論的に)同じ種類

の五枚のカード以上のものになる。ケニーがこのような解釈をしてしまうのは、規則#2を考

慮に入れなかったからである。ウィトゲンシュタインの規準概念には、規則#2が含まれてお

り、そして、それゆえに、その立場は行動主義Ⓦとなる。

行動主義Ⓦには二つの側面があった。一つが、心的用語の「完全な分析」を放棄して、心的

用語の記述を目指す、という言語にかかわる側面であり、もう一つが、二元論には与さないと

いう存在論的側面である。ケニーとクックが対立しているのは、前者ではなく、後者について

である。ケニーは、ウィトゲンシュタインが「観察不可能な心的状態や過程」の存在を認めて

いると解釈するのに対し、クックはそれに反対する。しかし、考慮すべき選択肢は、二つだけ

ではない。つまり、選択肢は、心的存在を否定して行動主義Ⓦを採るか、心的存在を肯定して

行動主義Ⓦを拒否するかの二つだけではない。心的存在を否定することもなければ肯定するこ

ともせずに、ひたすら心的用語の用法を記述することに専念する、という選択肢もある。心的

用語の記述に取り組むからといって、必ずしも二元論に与する必要もないし、一元論に与する

必要もない。ウィトゲンシュタインが存在論的にいずれにも関与していないことをほのめかす

典拠は二つある。一つは、規則#2のために引用した文の続きである。先の引用はクックに倣

13 Cook, ibid., p.198. 14 "Criterion," in The Encyclopedia of Philosophy, ed.Paul Edwards (New York 1967),vol.2, p.260. 15 Cook, ibid., p.197.

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ウィトゲンシュタインの規準概念と行動主義

ったものであって、『講義ノート』では次の文が続いている。

「ただ、もし真正の表情は特定の行動であってそれ以外の何物でもないと言うとしても、

同様に誤解を招く――私たちの表情の機能を誤らせる。」(『講義ノート』p.302-3)

先の引用と合わせて考えると、ここでウィトゲンシュタインが言わんとするのは、真正の表情

を「表情+感情」とみなすことも誤解を招くし、真正の表情を「表情+無」とみなすことも誤

解を招くということである。つまり、何らかの感情について、それが(装われたものではなく)

真正のものであるとき、そのときの表情に、存在論的に感情なるものが加わっていると言うこ

とは誤解を招くし、そのときの表情に、存在論的に何も加わっていないと言うことも誤解を招

く。つまり、表情と感情の二元論には与する必然性もなければ、感情を差し引いた表情のみの

一元論に与する必然性もない。こう解釈できるなら、行動主義Ⓦの拠り所である規則#2は、

裏付けを欠くことになる。

もう一つの典拠は『探究』からのものである。その304節でウィトゲンシュタインはこう

言っている。

「『でも、痛みを伴う痛み振舞いと痛みを欠く痛み振舞いとのあいだに違いがあることを君

は認めるだろう。』――認めるだって。それほど大きな違いはあるだろうか。『それでも君

は再三再四、感覚そのものは無であるという結論にたどり着く。』――そんなことはない。

感覚は、何らかのものではないが、しかし、何ものでもないというわけでもない。何もの

でもないものが、何事も語られない何らかのものと同じ働きをするというのが結論である

にすぎない。私たちは、ここで私たちに迫ってこようとする文法を退けたにすぎない。」

たしかに、痛みを伴う痛み振舞いと痛みを欠く痛み振舞いとのあいだには明白な相違があるが、

だからといって、痛み振舞いの背後に「何らかのもの」を想定する必然性もなければ、「何もの

でもないもの」を想定する必然性もない。なぜなら、いずれの「もの」も何の機能も果たさな

いからである。要するに、存在論的にいずれか一方の見解を採るべき理由はない。

以上の文献的証拠だけでは、後期ウィトゲンシュタインが行動主義Ⓦを採っていなかったと

断定するには十分でないかもしれない。しかし、少なくとも、彼が行動主義者であったと解釈

することが容易でないとだけは言えると思う。

(なかたにたかお 近畿大学非常勤講師)

[キーワード]

ウィトゲンシュタイン C.W.クック 規準 行動主義

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

本田 敏雄

2004年7月中旬、神戸高専H氏研究室にて

今日も朝から暑い一日、忙しい授業の合間やっととれた昼下がり静かな時間に、H が一

人クーラーを効かせ、散らかった机上の隙間に本を開いている。コーヒーの匂いが部屋に

満ちている。彼が居るのは 6F 建ての建物で、低学年1~3年生までの HR 教室が4F まで

入っているが、解放廊下でありそれに H の部屋が6F 山側の一番奥突き当たりにあるので、

いつもそれなりに静かである。そこへ、非常勤に来ている後輩 I 氏が講義を終え、足取り

も軽やかに部屋に近づいてくる。今日で夏休み前授業の全日程が終わるので、I 氏はかな

りリラックスして楽しそうに見える。しかし学校側の一方的な都合で、6年続いた非常勤

が今年前期で終了することになっている。

軽くノックの音。H が顔を上げると、ドアを開けて I が入ってくるのが見える。外は暑

いのにどこかさっぱりした顔をしている。

I ああ、涼しい~、生き返りますよ。

H やあ、お疲れ様、コーヒーを入れといたよ。

I はい、いつもありがとうございます。

I は、いつものソファに座るために部屋の奥に進みながら、H の机上の本にちらっと眼

をやる。H が席を立ち、入り口横の流し台に置いてあるコーヒーを I に入れてあげるつい

でに、自分のカップにも注ぎ足して入れている。H は一日に 4,5 杯は飲むだろう。

H 今年も、ご苦労様でした。きみは明日から夏休みかい。それとも他の非常勤先はまだ

あるのかい。

I いえ、よそは、もう先週で終わりました。

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

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H それは、いいね。ぼくも今日水曜午前までで授業がすんだし、明日からは二日間木金

とスポーツ大会だから、実質今朝で仕事から解放されたから、今からもう夏休み気分なん

だ。

H からカップを受け取り、一口すすってから、

I 今年の夏、何か書かれる予定があるのですか?

H は、部屋の真ん中に位置する机に戻り座るところだったが、首だけそちらへ向けて

H うん、今春、阪大の里見、浅野両先生が退官されただろ。その記念号を出すのに原稿

を出して欲しいと言われたのでね、それの準備をするつもりなんだ。

I ああ、そうですか。

H 僕なんかが書いていいのかどうか、ちょっと迷ったんだけど、フィヒテについて書い

てもかまわないというので、お受けすることにしたんだ。里見先生に僕のD論の副査をし

て頂いてるから、できれば何か書きたいと思ったんだよ。里見先生はぼくが2回目の4年

生をやってる時に来られたのだったかな。いろいろとあって、お二方に学生時分は縁がな

かったし、神戸高専に勤務するようになり阪大へ週に一回通うようになっても、フィヒテ

の勉強に大峯先生の処へ行くばかりだったからねえ。浅野先生は、僕が学生の時分、医療

短大に勤務されていて、高橋先生のカントやヘーゲルの演習には一緒に参加されていた。

でも高橋先生に、「この子もキルケゴールをやりたいと言っている」と紹介されたとき、「足

手まといになるだけです」と一蹴されたのを覚えているよ。どんな人だと思ってしまった

が、でもその日の演習の後スイカを皆で食べてる時、人の良さそうな顔で、「これを今食べ

ると夜のビールが美味しくないんだよな」なんて言ってみんなの笑いを誘いつつ、言葉と

裏腹にぱくぱく食べていたっけ。今思えば優しい人だったな。もっと話しとけばよかった。

両先生の思い出はそれぐらいなので、30 枚なんてとても書けたもんじゃないんだけどね。

里見先生には、文学研究科が社会人枠を作るとき、要項の文言も同時に作る時だったので、

溝口先生からの働きかけが大きかったのだろうけれど、僕は修士中退なのに、既発表論文

等の書類審査の末、結局修士修了相当ということで、社会人枠入学一期生として後期課程

に入学させて頂いたのだしね。その後も、公平なご配慮を頂いたと感謝しているんだ。端

から見ていて、そう感じていたんだけど、先生は好悪を優先せず、するべきことを粛々と

なさる方だからね。

I そうでしたね、その話は以前にもお聞きしていましたね。で、(と言い、両手をソファ

の肘掛けについて身を前にのめり出すようにしながら)今回の論文ではどういう当たりを

書こうとされているのですか、よければ教えてくださいよ。

H うん、構想がまとまってきてたらそうさせてもらうんだけどね、最近依頼を受けたば

かりだから、まったくこれからなんだよ。

I そうですか・・・ うん、D論で思い出したのですが、公開審査の時、K 君が「知的直

観を持ち出されても、なんだか誤魔化されているようだ」って言ってましたよね。

H そうだったね。知的直観をとっつきにくいと思っている人には、どうしようもないの

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

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だろうね。名前で拒否反応起こしてるんじゃないかな。実際はフィヒテが言ってるように、

決して特殊な人にしか備わっていないものじゃなくて、我々のどの一人だって、それがな

けりゃ手も足も動かすことのできないというごく当たり前の能力のことを言っているのだ

けどね。知的直観は、我々の行うあらゆる働きに随伴し、それらの働きが直ちに自分の働

きだと知らしめる働きであって、その役割をそう名づけているだけだ。K 君だって生きて

いて生きていることを直に知っているというだけで、もう知的直観を生きているのにね。

I うーん、でもそこを説明しようとして反省の俎上に載せると、途端に、「生の直接性に

密着した直知」なんて表現になるから、胡散臭いって思うんでしょうね。

H そう、でもそんな言葉がどうして出てくるかを理解するには、言葉尻を反省でこねく

り回すのではなく、自分の身を振り返って自身に沈潜してみたら、すぐに了解できること

なのにね。その生の事実を、反省により直接意識から翻って、反省の言葉(命題)で捉え

直そうとするから、そして、反省の言葉で表現されたものだけに真という価値を与えよう

とするから混乱するだけなんだよね。あの時、それを十分に説明できたとは思ってはいな

いんだけど、でも、あそこを突破しないとフィヒテは解らないし、さっぱり理解できない

んだよな。でも、それはフィヒテの責任ばかりじゃなくて、そもそも反省に長けた哲学徒

の誰もがかかる罠に落ち込んでしまうからなんで、それを理解できない我々の方の責任で

もあるんだよね。

それに実のところ、デカルトの cogito ergo sum だって、知的直観が解らなきゃ、解らな

いと思うんだけどね。何故なら、思惟の働きが媒介を入れずに直ちに現存在ないし存在で

あるという事実を、我々一人一人が直接に確信することができるのは、そもそも何であれ

知るという働きを働くことが直ちに知が知で在ることに他ならず、さらに知のこの原事実

こそが現に我々一人一人の在り方であり、その無媒介性を支えているのが知的直観に他な

らないからだよね。このあたりに関して、大峯先生がフィヒテ演習中、デカルトは、cogito

ergo sum で正しいところに出たけれでも、でもそこを res cogitans とし、思考実体と捉え直

したところで、また通常の伝統的な実体概念の枠組みの中へ落ちてしまったというような

ことを何度か口にされていたことを思い出すよ。僕もその通りだと思っている。デカルト

は、従来のアリストテレス以来の概念装置(実体-属性関係で命題構造を捉え、これに基

づく論理構成で世界を記述できるし、又それが直ちに世界(Sache)の構造でもあるとする)

を用いた段階で早くも、せっかく到達した cogito の本質を掴むのに失敗してるけど、フィ

ヒテはそこを乗り越えようとして、独特の記述方法論、プラトンのでもなく又ヘーゲルの

とも違う彼独自の弁証法を案出してくるんだよね。

I では、そのあたりがまだ十分に皆さんに伝わっていない、理解されていないというので

あれば、今回の論文では、そこのところを詳しく書かれたらいいんじゃないですか。

H うーん、でもねその辺は、デカルトと切り離してだけど、D論で真っ正面から十分論

じ尽くしたはずなんだよね。フィヒテの方法(生成的方法、一切を Genesis に翻す、一切

の生成の現場に入り目撃する)に即して十分書いたはずなんだ。まだやるとすれば、別の

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

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アプローチから迫るのがいいかもしれないね。溝口先生にも、フィヒテに即してばっかり

じゃなく、文献をたくさん読んで、比較から入ることを言われたからね。

I でも H さんの考えでは、それだと、知識学の展開というか、知識学の伝達には、不十

分にしかならないんでしょう。フィヒテもそれを知っていたから、講演で直に相手に伝え

るということをしようとしたと言うんでしょう。つまり作品(書かれたもの、gesetzt)と

それを setzenしているものたるenergisches Denkenとを同時に提示してその生成の現場での

聴講者ないし読者の体得(Realisieren)を求めるという方法をとったということでしたよね。

H そう、その通りなんだよね。でも、今回は別の視点から、比較から入ることにしよう

と思っているんだ。

と、言いながら、H は、机上に開いていた本を手に取り、I に示して

H 実はいまデデキントの『数について』なんか読んでいるんだけどね。その理由は、論

理学者や無限を扱う数学者達の方法との対比を通して、フィヒテの超越論的哲学の方法

(Methode)を浮かび上がらようと思っているからなんだ。ま、それでなくてもこれはこれで、

無限集合を扱っていてとても面白い本だけどね。

H は、本を机上に戻しながら、「うん決めた」という顔で

H そうだねえ、やはり、聞いてくれるかい。ここ数年は、いつもこんな風にして聞いて

もらい、君からの質問を斟酌しつつ対話の中でじっくりと自分の考えをまとめてきたんだ

ものねえ。

I は満足そうに

I ええ、いいですよ。授業は終わったし、時間はたっぷりありますから。

そう言って、I は、コーヒーカップをゆったりと口へ持っていった。H は、椅子の背に

深くもたれ掛かると、両手を頭の後ろに当て、部屋の中空を見据えるようにしながら語り

出した。

H そもそも論理学者たちの立ててくる同一律、矛盾律からしてフィヒテのそれとは同列

に扱うことはできないと思うんだ。フィヒテは同一律から矛盾律を出すのだが、彼らは、

自己と他者との区別を先行させ、両者の区別を介して、同一性へと進んでいるのだから。

しかもフィヒテの言う同一律 Ich=Ich は、A=A というような対象認識に際して使用される

同一律ではなく、唯一自己言及する無限の運動体たる知の全構造の根底をなす同一律であ

って、そこから対象認識上の同一律 A=A、矛盾律 A・A=0 も導出される同一律だからね。

I ちょっと、そこのところを詳しく説明してください。

その声に H は座り直し、今度は I の方に顔を向き変えて

H うん、僕が思うには、デカルトやフィヒテと論理学者達また常識に立つ人たちとの大

きな相違は、前者は同一律 Ich=Ich が対象認識の同一律や矛盾律の根底にあることを要求

するが、後者は矛盾律から同一律を導出するという根本的なものなんだ。

後者の命題論理における教科書的な定義を見ても解ることだが、同一律は A≡A よりは、

A⊃A と記されている。こう表記することが何故可能かというと A⊃B かつ B⊃A であるこ

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

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とを A≡B と同値とし、この B に A を代入することで、(A⊃A)・(A⊃A)≡(A≡A)と

なり、A⊃A かつ A⊃A は、A⊃A の繰り返しであって、ブール代数において又集合論にお

いて、A・A=A1なのだから、A⊃A 一つで十分だからなんだよ。含意関係にある前件と後

件とが同一であって、逆も又成立するという特殊な場合というわけだよね。つまり、彼ら

の世界観においては、対象存在たる A, B 等の区別がすでに存在している世界から出発し

ているのだ。そして原理的にそれ以前に立ち戻ることはないということだ。ここだけから

見ても、彼らの論理は対象認識の世界しか相手にしていないし、またしえないということ

が見えるよね。

I いや、ちょっとまってくださいよ。対象認識の世界しか相手にしていないということは、

事実そう言えるとしても、その論理は対象世界しか相手にしえないとまで言えるでしょう

か。彼らは、対象認識の世界を構成する論理を扱う論理としてメタ論理ということも言っ

てくるでしょう。

H 確かにね。でもね、論理の構造を記述するメタ論理と世界を対象としそれを記述する

論理との区別は、論理の整合性を救うためにのみ、しかも論理学者の中でだけ行われてい

る区別なんじゃないかな。両者に適用される論理法則が変わるわけではないんだろう。

僕が言いたいのは、彼らの基本に使っている論理法則の体系を一つの反省理論の体系と

呼んで良いと思うんだが、それによっては、世界構造の記述は可能だが、そもそも反省理

論が抱えている矛盾は引きずったままであって、それは後期に入ってフィヒテが開始した

超越論的方法でないと克服できないということなんだ2。ここを、論じてみると、

と言い、H は今度は俯いて机上のペンを手に取りそれを弄びつつ、また顔を上げて

H 先の同一律の考え方において、A≡A の左辺の A と右辺の A とは同一とされてはいる

が、それに先だって左辺と右辺とに置かれているのであるから当然区別されても居るはず

だよね。A は A だと言うときに主語の A を反省して述語の A が得られ、それとの同一性

を≡が立てているよね。

I はい、認めます。

H そこのところをデデキントのこの本『数について』の「§有限と無限」に即して立論

してみようか。今、φを任意の集合 A が自己を自己自身に映す合同写像であるとすると、

φ(A)=A となる。自己自身を写像するという限りφ(A)=A であり、A にφ(A)を

代入すると、φ(φ(A))=φ(A)=A となる。そしてこれは、A が写像つまり自己内

反省を繰り返す限り、無限に進行するべきものであるが、この A を数字の1とすると、我々

は限りなく数を増大させることができる。このようにして我々は量の概念を確保できる。

ところで、その無限進行を支えているものは、いったいなんだろう。デデキントは、ここ

1 文中、≡と=とが混在するが、命題の同値関係は≡で示され、クラスや概念の等しさは=で示される。

対象のレベルの相違によって使い分けられるということで、等号としての機能は同じ。 2 フィヒテによる反省理論の矛盾の指摘と、それを克服するための哲学史上例のない深い洞察、それに基

づく知識学の展開という立論は、D.ヘンリッヒ『フィヒテの根源的洞察』(座小田豊、他訳、法政大学

出版、1986 年)を嚆矢とする。

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

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でこのような無限集合として自我を例示するだけですませており、そんな問いを立てては

いないしまた答えてもいないが、代わりに答えるとすれば、それは、観察者(数学者、哲

学者)による写像の無限遂行可能性とその遂行に他ならないだろう。そしてその無限遂行

可能性が人間理性にとって普遍的に妥当するということを受け入れるものは、観察者(数

学者、哲学者)本人の自己反省遂行能力への確信(Gewissheit)に他ならないでしょう。これ

らのことは、既に『全知識学の基礎』その他で、フィヒテが自己意識の反省ないし定立の

限りない反復可能性(Wiederholung des Setzens)として取り上げていることでもある。

今、私が言っていることは、A を Ich と考えると、A=A は、A の自己内写像、そして自

我の自己内反省を意味すると考えることができるということだ。そして、デデキントは Ich

のこのような思考の世界は、無限集合となるというのだ。そりゃそうだ、反省は無限に反

復可能だし、理性はそれを見通すことができるからね、この点に文句はない。デデキント

ではここまでだけど、しかし、このような自己自身をも含む集合の集合としての A、又自

己言及する Ich の自己自身についての体系(これも一つの集合)は、ラッセルが指摘する

周知のパラドックス3に陥ることになる。この点から生じる自己矛盾に関して、別の切り口

からだけど、フィヒテも『知識学の新叙述の試み』の中で指摘している。反省作用によっ

て、自我が自我を捉えようとすると、現に反省を遂行している主観としての自我を捉える

ために無限遡及に陥って、けっして現に反省をする主観たる自我に届かないと。ならば自

我は自分が自我であることの認識に決して達し得ないのだろうか。いやそうではない、自

我は自己内反省を遂行し、自分が自分であることをちゃんと了解できている。自我は自分

を自我であると知るために自己内反省を遂行したのだから。しかし、その反省ではその反

省を遂行した自我が残される、そうすると再度・・・という風に無限遡及に陥ってしまう。

だからといって、Ich の思考世界は、成立し得ないのだろうか。この矛盾によってその成

立の可能性が奪われてしまうのだろうか、否である。この循環を発見して慌てるのは、反

省であり、その解決を目指して働くのも反省だろう。しかし反省はこの矛盾を克服できな

い。何故なら、反省が即、知全体であるのではないからだ。この事実から明らかになるの

は、反省を根底で支えているものは、実に反省作用ではなかったということだ。自我は、

この反省構造も含めて自身(知)の全貌を明らかにするためには、反省を遂行するしかな

いのであるが、反省が反省であることを支えているのは、実は反省作用では有り得ないと

いうことだ。普段は決して意識に上ることなく反省を支えているもの、それをこそフィヒ

テは知的直観と言ったのだ。自我は反省によって、自己を自我として(Ich als gesetzt)知るの

であるが、自我の直接意識(Ich als setzend)は常に反省に随伴し、働き持続しているのだ。

3 「今それ自身を要素として含まない集合のすべてを考えよう。明らかにこれは一つの集合であるが、こ

の集合はそれ自身を要素として含むであろうか。その集合がそれ自身を要素の中に含むとすれば、それ

は自分自身を含まない集合の一つとなり、従って自分自身の要素でなくなる。またもしその集合がそれ

自身の要素でないとすれば、自分自身を要素として含まない集合の一つとしてそれ自身の要素になる」

Bertrand Russell, Introduction to Mathematical Philosopy, Routledge, London and New York, 1995, p.136. 訳は、

『数理哲学序説』(平野智治訳、岩波文庫、1974 年)、179 頁を利用させて頂いた。

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

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現に我々は日々眠り起床し、毎日同じ自我を生きることができる。それが可能なのは、自

我が、眠る都度、生まれたり消えたりするのではなく、自己反省を働かなくとも、直接意

識として持続しているからだろ。自己反省もせず眠っていても、目が覚めて、「あ、眠って

たんだ」なんて思えるのも直接意識が働き持続していたからだよね。誰かある人に知的直

観の存在を認めさせるには、反省だけでは自己意識の成立を説明し得ないことを無限遡及

という問題で気づかせ、次いでそれでも自己意識が成立しているという事実を本人の身に

照らして納得させ、そして今の眠りからの覚醒のような何らかの例示によって、わが身に

振り返らせて、納得させるという方法をとるしかないと僕には思える4。

反省とこの直接意識たる知的直観とは、点と線(延長)のような関係にあると僕には思

える。点は点であり線ではない、線も又そう。だけどこの線上に、点は連続に並ぶという

ことかなあ。この点ということで僕は一瞬一瞬を切り取ってきて静止した認識をもたらす

反省を想定しているのだが、その反省が働いているときに、それが連続であること、一定

の法則の下に隣接点を持つ形で並んでいること、つまりそれらすべてが自分の反省である

と知り、それらを統一的に把握できるのも、あらゆる知の働きに随伴している知的直観が

その連続性を保証するからだよね。そしてそれは、現に働く反省を支えるのに統一するの

に働いているのであって、反省の成果である命題のように、反省の中に現れてくれない。

それで知的直観と反省との総合としての知の全体は、反省の働きを通しては、矛盾する命

題によって指し示されることとなるしかない。例えばボルツァーノが『無限の逆説』5で、

点と直線とに関して、「与えられた延長体をどんなに分割しても、特に分割の結果生じる部

分の数が有限な場合には無論のこと、先に見たように無限に分割を続ける(たとえば連続

的に二分する)場合ですら、必ずしも単純な部分に至るものではないということが認めら

れなければならないであろう。にもかかわらず、ひとは、あらゆる連続体は、結局は点か

ら、しかもただ点だけから構成されうるということをあくまでも主張せざるをえない。そ

して、この二つの考えは、正しく理解された場合にのみ十分によく調和するのである」と

言う。この言い分から、点と延長の両者の存在を理性は認めざるをえない(正しい認識)

が、しかし、延長の分割という操作では、点に至ることはできないという指摘からは、分

割という操作(分析、反省の繰り返しの遂行)による点と延長との一元性を説明できない

という不十分さの表明が見て取れるよね。

僕はしかし、ボルツァーノと異なりカントに倣って、その構成要素は点(単一な部分)

としか考えられず、しかもその延長も実在と考えざるをえないものは、時間と空間という

我々の認識の形式すら産出する我々の知であると思う。点と延長(延長的連続)とにまつ

わる不可解さは、直観と反省(概念的把握)をそのどちらか一方に還元したり、導来しよ

4 知的直観を掴まえさせる時だけではなく、一つの知の十全なる姿を掴まえさせるのにもフィヒテが取っ

たのはこの方法であると、私は思うし、反省の対象からするりするりと常にその背面に逃げていくもの

を知らしめるには、そうするしかないと思う。 5 ボルツァーノ著『無限の逆説』(藤田伊吉訳、みすず書房、1978 年)、81、82 頁。

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

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うとしても我々の反省作用ではできないことの写しであると思えるのだ。デデキントやそ

の他、集合論によって数論的に連続を論じる論者達は、ひたすら直観と切り離して反省の

みによって、論じ尽くそうとしているようだ6。しかし、それは先に言ったような逆説に陥

ったり、相矛盾する命題をどちらも認めざるを得ないという結果になるしかない。

これに対してフィヒテは、知という生ける働きの両側面として反省と直観とを捉えるこ

とにより、生ける働きの生成現場においてそれを一元化させようとした、そして特に後期

知識学の叙述には、その現場を如何に読者や聴講者である我々の内に現出させるかという

ことに腐心しているのが見て取れる。こういう生なものを捉えまた伝えるには、そうする

しかないだろうと思えるよな。

ボルツァーノや論理学者達が忘れているのは、このようなフィヒテの超越論的視点だ。

それを欠いているから、対象として客観的に提示できる点と延長(連続)という二つだけ

に注目しているのだけど、実際にはこの現場には、それら二点に注目する我々の理性作用

も存在しているのであって、じつは三者が存在しているのであるから、それら三者の関係

を解明しない限り、上記二点についての正しい把握は決してできないのだと言いたい。超

越論的な眼の中ですべてが生起しているということだ。先のパラドックスを避けるために、

論理型(Type)を区別するだけですますのは、恣意性の誹りを免れえず、単なる不徹底だ。

相反する二つの断片としての考えをボルツァーノの要求するように正しく理解すること

は、それら両方とも成立するとして受け入れることができ、点も線も自らの思考空間の内

に自由に引くことのできる現に生きている理性としての数学者自身しかいないだろ。同じ

ように自己言及する自我の自己の全貌についての発言内容は、命題として切り取ると、二

つの矛盾する命題として並べられるしかないが、それらを受容し受け入れることができる

のは、現に生きた哲学者の確信の内でしか可能ではないんだよね。そこを記述できるのは

フィヒテの弁証法しかないと、僕は確信している。ラッセルは、彼の西洋哲学史の中で、

デカルトの cogito について、「私は考える(I think)ということが彼の究極的な前提であった。

しかしここで私(I)という語はまさに不当である」7と言っているが、それこそ、不当な発言

だ。超越論的自我は、知の一切の出来事を成立させる場であり且つその一切を目撃すると

いう働きでもあって、世界の内に入っていると同時に出てもいるという世界の限界たる眼

として存在しているのだからね。これを捨象しては、世界の記述が完成するどころか、そ

もそも始まるはずもないのだから。

I うーん、面白いですね、こういう解釈は初めて聞きました。点と線、それに反省と直観

6 「…私は、幾何学的な明証に逃げ道を求めていた。いまでも私はこのように幾何学的直観に助けを借

りることは、…。しかしこのような微分学への導入が科学性を有すると主張できないことは、誰も否定

できないだろう。… 私は、無限小解析の原理の純粋に数論的な全く厳密な基礎を見いだすまではいく

らでも永く熟考しようと固く決心した。」デデキント、『数について』(河野伊三郎訳、岩波文庫、1984年)、9 頁。但し文中「…」は、論者による省略部を意味する。

7 Bertrand Russell, History of Western Philosophy, Routledge, London and New York, 1946, p.519.

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『フィヒテ論攷』成立の頃とそれから

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を対応させるところは、ちょっと議論が荒い気がしますが。

H うん、認める。僕も口にするのは初めてだからね、こういう分野にまで言及するのは。

議論が多少乱暴な点は勘弁してください。ちゃんとした論文にするにはもう一息というと

ころだと自分でも思っているよ。

I でも、おかげで H さんの最近の関心の在り所が解りましたよ、そして今後のお仕事の

方向も、だいたい。

H そうだね、あと超越論的視点といってもヘーゲルのそれだと何にもならない8ので、ヘ

ーゲルの方法論との比較も僕の『フィヒテ論攷』の中でやったのより、もう少し徹底的に

やりたいと思っている。それになんと言ってもフィヒテの宗教論を論じておきたいんだ。

今日の話で取り上げたのは、絶対知の成立あたりまでで済んでしまう問題ばかりで、これ

らは、フィヒテの 1801 年までの考えで処理できる範囲のことだ。しかし、フィヒテの真骨

頂はその先にあって、絶対知の自己滅却と表裏しての絶対者の登場にある。ここで哲学上

のあらゆる問題が論じられる場が開かれると思っている。神秘主義者達との接点もでてく

る。フィヒテの Denken の凄さは、そこまで行かないと分からないからね。

I そこからの話は、この部屋で何度も議論させてもらいましたね。ああ、もう日も大分傾

いて外も涼しくなってくる頃です。コーヒーどうもごちそうさまでした。

H いやあ、これから寂しくなるけど、またいつでも遊びに来てくださいね。

I の帰り支度をする姿を、H は立ち上がって、眼を細めじっと見つめていた。

(ほんだとしお 神戸市立工業高等専門学校教授)

[キーワード]

超越論的視点 絶対知 論理学 パラドクス

8 両者とも同じく超越論的哲学と言えるが、ヘーゲルの立場と後期フィヒテの立場の違い、両者の弁証法

の展開の仕方に関して、拙著『フィヒテ論攷』第五章で、総合における媒介という側面から基本的なと

ころは明らかにした。しかし、後期知識学とヘーゲルのエンチクロペディとを題材に取り、絶対知と絶

対者の関係を中心に据え、学の展開の実際に即し、両者の学の体系の全貌を詳しく比較検討したいが、

それは今後の課題である。

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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三種類の「なぜ」の根は一つか?

入江幸男

1 はじめに

これから二つのことを論じたい1。第一は、「なぜ」で始まる質問が次の三種類、つまり出来

事の原因を問う「なぜ」と、行為の理由を問う「なぜ」と、信念の根拠を問う「なぜ」に分類

できるということである。このことを示そうとするときに判断に迷ったことは、行為の正当性

を問う「なぜ」をどのように位置づけるか、ということであった。第二は、これら三種類の「な

ぜ」は適用の対象が異なるだけであって、問答の関係は同質の一つのものであるのか、それと

も問答の文の形式が似ているだけで、本来異質な三つの関係を扱うものであるのか、という問

題である。

まずは、「なぜ」の問いを三種類に分類できることを示すために、それらを順番に考察しよう。

2 原因を問う「なぜ」

ある出来事pの原因を「なぜ、pか」と問うことができる。このとき q⊃p、q├p と

推論して「なぜなら、pだから(qなのです)」と答えたのだとしよう。このp⊃qは因果法則

(ないしは因果法則に基づくもの)である。この因果法則には、自然的な因果法則だけでなく、

社会的な因果法則もある。そこで、次のように分けることが出来る。

(1-1)自然的原因を問う「なぜ」

「なぜ地すべりがおきたのですか」「雨で地盤が緩んでいたからです」

1 「なぜ」疑問文については、これまでに拙論「問答の意味論と基礎付け問題」(『大阪大学文学部紀要』第

37号、1997年3月)と「発話伝達の不可避性と問答」(『大阪大学文学部紀要』第43号、2003年3月所収)で

論じてきた。これらの論文や本論文において、「なぜ」疑問文を取上げる背後にあるのは、知の基礎付け、

ないし正当化の問題への関心である。

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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(1-2)社会的原因を問う「なぜ」

「なぜ就職状況が悪いのですか」「不景気だからです」

(1-1)が自然の因果法則に基づいて答えられるように、(1-2)の社会的原因の場合にも、「不景気

ならば、就職状況が悪い」というような社会の一般的因果法則に基づいて答えられる。

3 行為の理由についての「なぜ」

次に、ある行為pを行う理由について「なぜpするのか」と問うことが出来る。この理由に

ついての「なぜ」は、次のように区別できるだろう。

(2-1)因果法則による説明

(2-1-1)自然的因果法則による説明

(2-1-2)社会的因果法則による説明

(2-2)社会的ルールによる説明

(2-1-1)で行為の理由を自然的因果法則によって説明するとは、例えば「なぜスピードを落と

すのですか」という問いに「カーブを曲がるためです」と答えるときに、「スピードを落とさな

ければ、カーブを曲がることは出来ない」というような因果法則(ないし因果法則に基づく命

題)が前提になっているということである。(2-1-2)で行為の理由を社会的因果法則によって

説明するとは、例えば、「なぜ、貨幣供給量を増やすのか」という問いに「デフレを緩和するた

めです」と答えるときに、「貨幣供給量が増大するならば、物価は上昇する(あるいは、下落が

緩和する)」というような社会的因果法則が前提になっているということである。ただし、自然

的因果法則の場合にも、社会的因果法則の場合にも、より精確に言うならば、因果法則が行為

の理由であるというよりも、〈「因果法則がある」と信じていること〉が、行為を行う理由にな

っている。

(2-2)で行為の理由を社会的ルールによって説明するとは、例えば「なぜ、梅田までの切符

を買うのですか」という問いに「梅田に行きたいからです」と答えるときに、「電車に乗るため

には、目的地までの切符を買わなければならない」という社会的ルールが前提になっていると

いうことである。この場合にも、精確に言うならば、この社会的ルールの存在よりも、〈この社

会的ルールの存在を信じていること〉が、行為の理由である。

念のためにここで、社会的ルールと社会的因果法則の違いについて二点確認しておきたい。

(i)社会的ルールは、規約によって成立するが、社会的因果法則は、規約によって成立するの

ではない。たとえば、「不景気になると、自殺者が増える」「ガソリンの値段が上がると、ガソ

リンの消費量が落ち込む」などの社会的因果法則は、規約によって成立するのではない。

(ii)社会的ルールは、各人がそれを信じることによって、ルールとして成立するのだが、社会

的因果法則は、各人がそれを信じていなくても、因果法則として成立する。

4 正当性を問う「なぜ」はどれに分類されるのか

行為の理由を問う「なぜ」について詳しく分類して検討したのは、正当性を問う「なぜ」を

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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どう扱うべきか、つまり行為の理由を問う「なぜ」に分類すべきなのか、根拠を問う「なぜ」

に分類すべきなのか、それとも第四の分類項目として独立に扱うべきなのかについて、明確な

答えを出すために行為の理由を問う「なぜ」について明確な理解を得ておく必要があったから

である。一般に正当性を問う「なぜ」は、次の二つに区別できる。

(1)行為の正当性を問う「なぜ」

(2)ルールの正当性を問う「なぜ」

(1) 行為の正当性を問う「なぜ」について

おそらく我々は、全ての行為について様々な意味でその正当性を問うことができる。そして、

その問いに答えるときには、規範的ルールに基づいて答えることになる。例えば「なぜ本を貸

し出しできないのですか」という問いに「もう6時半ですから」と答えるとき、〈図書の貸し出

しは6時迄である〉という規範的ルールと、〈今、6時半である〉という事実の二つが前提とな

って、〈貸し出しできない〉ということが結論となる、推論が行われている。このとき、二つの

前提のうちのどちらの前提も、〈貸し出ししないという行為〉ないし〈「貸し出しできません」

という発話行為〉を正当化するものだといえる。

ちなみに、おそらく(上述の(2-2)を含めて)すべての社会的なルールは、同時に規範的ル

ールでもあると言えるだろう。それゆえに、我々は、同じ社会的ルールにもとづいて、行為の

目的を説明することもあれば、行為の正当性を説明することもある。たとえば、今仮にある社

会的ルールが「pを実現するためには、qを実現しなければならない」という形式だとしよう。

次の問答は、このルールにもとづいて、目的を説明することになっている。

「なぜ、qを実現するのですか」「なぜならpを実現するためです」

そして、次の問答は、qを実現することの要求を正当化する問答である。

「なぜ、qを実現しなければならないのですか」「なぜなら、pを実現するためです」

このように同じ社会的ルールに基づいて、行為の目的を説明することも、行為の正当性を説明

することも出来るのである。そこで、行為の正当性を問う「なぜ」は、行為の理由を問う「な

ぜ」の一種であるように思われることになる。しかし、そうではないことを次に確認しよう。

行為の正当性を問う「なぜ」は、一般的に次の二つの形式をとる。

「なぜ、xは、・・・しなければならないのですか」

「なぜ、xは、・・・できるのですか」

「x」には「私」や「あなた」が入ることが多いと思われるが、しかし第三者の行為の正当性

について問うことも可能であるし、また組織や集団の行為の正当性について問うことも可能で

ある。これらにおいて、「xが・・・しなければならない」と「xが・・・できる」は、xの

行為について述べているのだが、行為自体を記述しているのではなくて、行為が義務であるこ

と、ないし許可されていること、を述べている。従って、これらは行為についての価値判断で

あるといえるだろう。この正当性を問う「なぜ」は、価値判断の根拠を問うものである。従っ

てこれは根拠の「なぜ」に属することになるだろう。

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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(2)ルールの正当性を問う「なぜ」について

ルールの正当性を問う「なぜ」は、行為の正当性を問うこととは異質なことであるように見

えるのだが、これは以下に示すように、行為の正当性を問う「なぜ」に還元することが出来る。

今仮に社会的ルールが「pを実現するためには、qを実現しなければならない」という形式

になるとしよう。たとえば、「本の貸し出しは、6時までである」を、この形式で言い直せば、

「本の貸し出しを実現するためには、6時までに貸し出し手続を実現しなければならない」と

なる。このとき、このルールに関する「なぜ」の次の問いは、三つの意味を持ちうる。

「なぜ、本の貸し出しは、6時までなのですか」

①「本の貸し出しが6時までである、と決められた理由は何ですか」

②「本の貸し出しが6時までである、と決めた行為の正当性は何ですか」

③「本の貸し出しが6時までである、というルールの正当性は何ですか」

①は、(ある人、ないし集団が)ルールをそのように決めたという行為の理由を問うている。

この①の意味で質問が行われているのならば、これは正当性を問う「なぜ」ではなく、行為の

理由を問う「なぜ」である。②の意味で質問が行われているのならば、これは行為の正当性を

問う「なぜ」である。 ③はある命題がルールであることの正当性を問うものであり、この意味

で理解されたとき、この「なぜ」はルールの正当性を問う「なぜ」だといえるだろう。ところ

で、ある命題がルールとして正当であるとは、それに従わなければならないということである。

従って、この問いは、次のように言い換えることができるだろう。

④「なぜ我々は、そのルールに従わなければならないのか」

④は、「我々」の行為の正当性を問うものである。③は「我々」に言及していないが、④は

「我々」に言及しているという違いがある。しかし、社会的ルールは、つねにある社会(集団

や組織)のルールであり、ここでの「我々」はその社会(集団や組織)の構成員のことである。

③の中の「ルール」はつねに「社会構成員にとってのルール」であり、この「社会構成員」が

「我々」である。つまり、③のなかでも、「我々」は潜在的に言及されていると考えられる。

従って、③と④は同義であると考えられる。従って、社会的ルールの正当性を問う「なぜ」は、

行為の正当性を問う「なぜ」に還元することができるのである。

行為の正当性を問う「なぜ」は、規範的ルールによって答えられるが、この規範的ルールの

正当性についての問い、つまり③のような問いは④に還元され、④の答えはさらに別の規範的

ルールによって答えられることになる。では、このような遡行を続けると、いずれはそれ以上

遡りえない最終的な規範的ルールに辿り着くだろう(それが一つであるか、複数であるかは、

今は問わない)。そのとき、その最終的な規範的ルールの正当性への問いに対して、どのよう

に答えることが出来るだろうか。もし答えられないとすれば、その規範的ルールの正当性は失

われ、それに基づいている別の規範的ルールの正当性も失われ、…… その系列に属する全ての

規範的ルールの正当性は失われる、ということになるだろう。

この特徴は、根拠の「なぜ」の特徴でもある。根拠の「なぜ」に答えられないとき、我々は、

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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その主張を撤回しなければならなくなる。これに対して、原因や理由を問う「なぜ」の場合に

は、答えられなくとも、その出来事や行為が成立していることを否定する必要はない。このこ

ともまた、正当性を問う「なぜ」を根拠の「なぜ」の一種とみなすことの論拠になるだろう2。

5 根拠の「なぜ」の分析

最後に、信念の根拠を問う「なぜ」について説明しよう。信念や認識や主張の根拠を問う「な

ぜ」に答える方法は、次の二つに分けられる。

(3-1)推論によって根拠付けが行われる場合

(3-2)判断以外のものに基づいて根拠付けが行われる場合

(3-1)は、「なぜpか」に対して、ある別の判断qから推論によってpを導出できるときに「な

ぜならqだから」と答える方法である。この場合のqとpの関係は、根拠と帰結の関係の典型

例である。

(3-2)は、もはやそれ以上別の判断に遡ることが出来ないときに、判断以外のものに基づく場

合である。例えば、ショーペンハウアーは、このようなものとして感性的直観にもとづく経験

的真理と、悟性と感性の形式にもとづく先験的真理と、思考の形式的条件にもとづくメタ論理

的真理(同一律と矛盾律と排中律と根拠律)の三種類を挙げていた3。我々は、これらの他にも、

実践的知識、超越論的語用論的前提、問答論的必然性4、に基づいて信念を根拠付けるという議

論を想定することができる。感性と悟性のアプリオリな形式に基づく先験的真理を認められる

かどうか、基本的な論理規則を <理性の思考の条件> といったものに基づけることができるか

どうか、については別途批判的に吟味しなければならないが、これらの根拠付けの仕方そのも

のは、この(3-2)に属するものである。また、例えば「私は存在する」という主張については、

内的な直観、実践的知識、超越論的語用論的前提、問答論的必然性などに基づいて <根拠付

2 原因の「なぜ」、理由の「なぜ」、根拠の「なぜ」についてのこのような問いの反復およびそこから生じる

問題については、不充分ながら拙論「問答の意味論と基礎付け問題」(『大阪大学文学部紀要』第37号、1997年3月)で考察したので、ここではこれ以上触れない。

3 ショーペンハウアーは『充足理由律に関する4つの根について』の中で、認識根拠を4種類に分けているが、

これは根拠の「なぜ」に対する4つの答え方になっている。(1)論理的真理、これは、ある別の判断qか

ら、推論によってpを導出できることから、「なぜなら、qだから」と答えるやり方である。(2)経験的

真理、これは、感覚ないし知覚にもとづいて、pと認識したことから、それに基づいて「なぜなら、そのよ

うに知覚したので」と答えるやり方である。(3)先験的真理、これは、例えば、「二直線は、空間を囲む

ことはない」「なにものも原因なしには生じない」であり、これらは悟性と感性の形式から成立する(カン

トの言う)「アプリオリな綜合判断」である。それゆえに、これらについて「なぜ」と問われたならば、た

とえば「なぜなら、我々の悟性と感性の形式によって、このような認識が生まれるのである」と答えること

になるだろう。(4)超論理的(metalogisch)真理、これは論理学の基礎となる判断であり、「理性のうちにあ

る一切の思考の形式的諸条件」に基づく判断である。ショーペンハウアーはこのような判断として4つ(同

一律、矛盾律、排中律、根拠律)をあげている。これらの命題について「なぜ」と問うたならば、ショーペ

ンハウアーならば「なぜなら、理性のうちにある一切の思考の形式的諸条件によって、我々はこのように思

考せざるを得ないのである」と答えるだろう。参照、生松敬三訳「根拠律の四つの根について」(『ショー

ペンハウアー全集1』白水社、1972年)第三十節―第三十三節。Vgl. Shopenhauer, Sämtliche Werke, Bd.1, Brockhaus Mannheim, 1988. S.106-110.

4 問答論的必然性については、拙論「問答論的矛盾」(文部省科学研究費共同研究報告書 課題番号10410004 『コ

ミュニケーションの存在論』、2001年3月)の参照を乞う。

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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け>ようとする議論が考えられるが、いずれが正しいにせよ、これらの根拠付けの仕方は、(3-2)

に属する。

6 「なぜ」の問いは三つである

「なぜ」の問いは、上述の三種類だけであると思われる。我々は平叙文で語ることができる

どのような事柄pについても、「なぜpなのか」と問うことができるだろう。ところで、平叙

文で記述できる事柄を、①自然的出来事ないし状態、②心的作用および行為、③思考ないし言

語の世界、に分けることが出来るとすると、①について「なぜ」と問うときには、原因を問う

ことになるだろう。②については、感覚や知覚や記憶について「なぜ」と問うときには、原因

を問うことになり、感情、想像、意志、思考および行為について問うときには、理由を問うこ

とになるだろう。そして③について「なぜ」と問うときには、根拠を問うことになる。思考の

客観的な内容は③に属するが、思考作用が心的行為と見なされるときには②に属することにな

るので、「なぜ」によってその理由が問われる。また②の心的作用および行為が、自然的出来

事と見なされるときには①に属することになるので、「なぜ」によってその原因が問われるこ

とになる。このように考えるとき、「なぜ」の問いは、原因と理由と根拠を問う三種類で尽き

るように思われるのである5。以上では、まだ充分な論証であるとは言えないが、少なくとも言

えることは、現在のところ反証例が見つからないということである。

7 三つの「なぜ」の根は一つか? それらの同質性と差異性について

我々は「なぜ」の問いを、原因、理由、根拠を問う「なぜ」の三つに区別できることを見て

きた。言語の発達史においても、幼児の言葉の発達の上から言っても、「なぜ …… なのか」

「なぜなら …… だから」という問答の発生が先行し、その後「原因」「理由」「根拠」など

の言葉が発生したのだと思われる。ただし、ここでは発達の上での順序ではなく、事柄の本質

上、三つの「なぜ」の根が一つなのか、それとも三つなのかについて考察したい6。三つの「な

ぜpなのか」の問いの違いは、「p」が出来事であるか、行為(感情、想像、意思)であるか、

信念(認識、主張)であるか、の違いだけなのだろうか。つまりこの問いが適用される対象の

違いだけなのだろうか。答えによって明らかになる、原因-結果、理由-行為、根拠-帰結、とい

5 ショーペンハウアーは前掲書『根拠律の四重の根について』において、根拠律を次の四つ、①生成の根拠律

=因果律、②認識の根拠律、③存在の根拠律、④行為の根拠律=動機付けの法則、に区別している。この①

②④はそれぞれ、原因を問う「なぜ」、根拠を問う「なぜ」、理由を問う「なぜ」に対応するものである。

③の存在の根拠律とは、空間と時間の形式的関係であり、これを命題で表現した幾何学や算術は、カントに

ならってアプリオリな綜合判断と見なされている。我々は、幾何学や算術の定理についての「なぜ」は、根

拠の「なぜ」に属し、事実としての空間と時間の形式に関しての「なぜ」は、原因を問う「なぜ」に属する

と考えることができるのではないだろうか。 6 ショーペンハウアーは、前掲書『根拠律の四つの根(四重の根)について』において、根拠律を四つに区別

するが、「根拠律は、偶然に同じ判断に行き着いた四つの異なる根拠をもつ判断ではなく、四つの形態をと

って現われる一つの根拠をもつ判断であって、私はそれを比喩的に、四重の根と呼んだ」(Ibid. S.110. 前掲

邦訳p.146に手を加えた)。このようにショーペンハウアーは、四つの根拠律の根は一つである、と考えてい

る。

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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う三種類の関係もまた、名前が異なるだけであって、本来同質の関係なのだろうか。それとも、

これらの関係は本質的に異なるものであって、それらが q⊃p、q├ pという類似した推論

構造を背後にもつことは、偶然の一致に過ぎないのだろうか。

(1) 原因-結果と理由-行為の関係について

ここで原因-結果と理由-行為の関係が同質であるかどうかという問題を検討する前に、この

問題が、行為の因果説対反因果説という論争とどう関係するのかを確認しておきたい。<行為

の因果説が正しければ、理由-行為の関係は実は原因-結果の関係であることになり、反因果説

が正しければ、この二つの関係は異質であることになる>のではないだろう。なぜなら、行為

の因果説とは、意図が行為の原因であるという主張であるが、厳密に言えば、意図の発生が行

為の発生の原因である、という主張である。これに対して行為について「なぜ …… するのか」

と問うときには、行為の理由(意図の内容)が問題になっており、意図の発生が問題になって

いるのではない。仮にある意図の発生がある行為の発生の原因であるとしても、行為の「なぜ」

の問答によって明らかにすることが求められている理由-行為の関係は、その意図の内容と行為

の内容との関係なのである。つまり、この二つの問題は、一方の答えから他方の答えを一義的

に導出できるというような仕方で、直接的に結合しているものではないと思われる。

さて、原因-結果と理由-行為の二つの関係を比較しよう。原因-結果は、時間的な前後関係に

なるが、理由と行為は時間的な前後関係にはない。 意図の発生は行為に時間的に先行するかも

しれないが、意図の内容は、行為の目的を述べたものであり、行為は目的の実現に時間的に先

行するか、あるいは同時である。例えば、「なぜポンプを押しているの」と問われて「灯油を

ストーブに入れているんだよ」と答えるとき、行為はその目的の実現と同時である。つまり、

時間関係を考慮するとき、この二つの関係は異質なものであり、一方を他方に還元することは

できない。

この二つの関係にはもう一つ差異がある。行為の理由を説明するときにも、因果法則が使用

されることがあるが、前述のように、精確に言うならば、因果法則やルールが存在しているこ

とではなく、それらが存在しているという信念が、行為の説明に必要なことなのである。この

点でも、この二つの「なぜ」の一方を他方に還元すると言うことはできそうにない。

では、この二つの「なぜ」をともに、根拠の「なぜ」に還元する可能性についてはどうだろ

うか。

(2) 他の二つの関係を根拠-帰結の関係に還元できるのだろうか?

原因と結果の関係も、理由と行為の関係も、厳密な推論に仕上げられるならば、論理的な前

提と結論の関係になるだろう。ゆえに、それは根拠と帰結の関係になるはずである。このこと

を原因-結果の関係を例に説明しよう。いま仮に「なぜFaなのか」という問いに「なぜならG

aだから」と答えるときに、その背後には ∀x(Gx⊃Fx)、Ga├Fa という推論が

あり、∀x(Gx⊃Fx)が因果法則であるとしよう。このときに、∀x(Gx⊃Fx)と

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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Gaを比較して、もしGaの方がより自明であれば、おそらく「なぜなら∀x(Gx⊃Fx)

だから」と答えることになるだろう。ところで、∀x(Gx⊃Fx)はFaの原因ではない。

というのも、∀x(Gx⊃Fx)という法則自体は、無時間的であるので、これとFaの関係

は、因果関係のような時間的な前後関係ではないからである。この答えが原因を答えているの

ではないとすると、この問いは原因を問う「なぜ」ではないことになる。しかし、「なぜFa

なのか」と問われて「なぜなら∀x(Gx⊃Fx)だから」と答えるときにも、Faという事

実が成立していることを前提した上で、その成立の根拠(ないし広義の「原因」)を答えてい

るのだといえる(ここでの「根拠」は、事実の成立根拠を意味するものであり、信念や主張が

真である根拠を意味するものではない)。つまり「なぜFaなのか」という問いに答えるとき

に重要なのは、その(狭義の)原因を示すことではなく、むしろより重要なことは、問われて

いる出来事を結論とする推論構造を示すことであるように思われる。そして、同じことが、お

そらく理由-行為の関係についても成り立つはずである。

一般的に言うと、いま仮に「なぜpなのか」と問われて、q⊃p、q├pという推論にもと

づいて「なぜならqだから」とか「なぜならq⊃pだから」と答えるとき、本来の精確な答え

は「なぜなら、q⊃pであり、またqであるから、pなのである」という推論の全体を述べる

ものである。我々は、より自明である方の前提を述べることを省略して、「なぜならqだから」

とか「なぜならq⊃pだから」というような省略形で答えているにすぎない。このことは、三

種類の「なぜ」の問答に妥当することである。そうだとすれば、三種類の「なぜ」の根は一つ

であり、それは問われている事柄を結論とするような推論構造を知ろうとすることである、と

いえるのではないだろうか。推論における前提と結論は、根拠-帰結の関係にあるので、原因を

問う「なぜ」と理由を問う「なぜ」の問答は、厳密に答えられるときには、同時に根拠を問う

「なぜ」の問答としても解釈できるものになっているということである。前提の中の法則とな

る命題(上の例ではq⊃p)が、因果法則を表わしているときには、もう一方の前提(q)が、

問われていた事柄(p)の原因となり、法則となる命題が、目的と手段の関係を表わしている

ときには、もう一方の前提と問われていた事柄の関係が、理由-行為の関係になるのである。

しかし、これに対しては次のような反論が考えられる。それは、原因と結果の関係、理由と

行為の関係は、厳密な推論にはなりえないということである。なぜなら、それらには、デフォ

ールトな条件が常に付きまとうからである。ゆえに、それらに関する推論は、必ずデフォール

ト推論になる。それに対して、根拠-帰結の論理的な関係が、単調推論つまり通常の演繹推論に

なるとすれば、これらは異質である。

たしかに、例えば、数学や論理学での定理の証明は単調推論である。しかし、経験的な判断

の場合には、それらとその根拠となる判断との関係は、多くの場合にデフォールト推論になる

のではないだろうか。従って、反論が指摘する推論の質的な差異は、それほど決定的なものと

は思われない。では、三つの「なぜ」の問いは一つの共通の根をもち、それは推論構造を示す

ことである、と言えるのだろうか。

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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(3) 根拠の「なぜ」の(3-2)について

「なぜ」の問いへの答えは、通常は推論になるのだが、そうならないように思われるケース

がある。それは、命題以外のものが根拠になる(3-2)の場合である。命題以外のものが根拠とな

るので、ふつうに考えると、これは推論の関係にはならない。それは根拠というよりも、原因

であるようにも見えるのである。以下に詳しく説明しよう。

(3-1)の場合には、信念の発生の原因は、信念の根拠とは明確に異なる。たとえば、数学の

定理の証明を友人に教えられたとすると、その定理についての信念の発生の原因は、友人に教

わったことであるが、信念の根拠はその証明である。

しかし、(3-2)の信念が判断以外のものに基づいている場合には、信念の発生の原因と信念の

根拠の区別は曖昧になる。たとえば、「これは白い」という判断の根拠が感覚である場合、こ

の信念の発生の原因が、感覚であるということも出来そうである。この場合に、「これは白い」

の判断の根拠は、その感覚と言うよりも、より精確に言えばその感覚の質であるというときに

も、その感覚の質が「これは白い」という判断の発生の原因でもあると言うことも出来そうで

ある。

同様のことは、「私が存在する」ということをある内的直観に基づいて主張する場合にも妥

当する。この「私が存在する」という信念の根拠は、ある内的直観であるとも言えるが、この

信念の発生の原因が内的直観であるとも言えそうである。つまり、「私は存在する」という信

念の根拠と原因の区別が曖昧になる。

同様のことが、論理法則の根拠についても妥当する。その根拠は論者によって、理性の思考

の条件と考えるか、超越論的語用論的前提と考えるか、などの違いがあるが、具体的な論証は

すでにアリストテレスが述べていたこととあまり変わらない7。矛盾律を否定してみると、およ

そ何事かを考えたり、対話したりすることが不可能になるという仕方での論証である。このと

き生じる事態は、矛盾律を真と見なさざるを得ないという根拠であるとも言えるし、原因であ

るとも言えるだろう。

このように(3-2)の「なぜ」は、原因の「なぜ」に似ているが、しかし次の点で異なっている。

それは、<白さ>の感覚が発生するとき、つねに「これは白い」という判断が発生するわけでは

ないということである。「これは白い」という判断(あるいは信念や認識)が生じるのは、「こ

れは白いですか」とか「これは何色ですか」と問われて(あるいは自問して)、それに答える

ときではないだろうか。そのような問いに答えようとするときに、我々はその感覚に問い合わ

せて、「これは白い」と答えるのである。このような問答において、<問い合わされるもの>

が、感覚である。このような問答関係の中に組み込まれることによって、感覚は初めて判断の

根拠/原因になりうるのである。

7 アリストテレスは、『形而上学』第4巻第4章で、矛盾律を否定することが不都合に陥ることを示すという

「弁駁的」(1006a8)な論証を行っている。

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三つの「なぜ」の根は一つか?

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このように、「これは白い」という判断は、「これは何色か」とか「これは白いのか」など

と問われたときに、感覚に問い合わせて得られる答えであるとすると、「なぜこれは白いとい

えるのか」という問いは、より精確には「『これは何色か』という問いに対して、なぜ『これ

は白い』と答えたのか?」という問いであるといえる。この問いに対して、ひとは例えば「な

ぜなら、私がもっている色の語彙の中で、「白」がもっとも、この感覚にふさわしいと思われ

たからである」と答えるかもしれない。この問いは、推論構造を明らかにしようとするという

よりも、問答関係を明らかにしようとするものだといえるかもしれない。

ところで、推論構造と問答関係は、異質なものではない。むしろ、推論は問答関係の中での

み可能になるものである。なぜなら、たとえば三段論法で二つの命題を前提として一つの命題

を導出するが、しかし、その二つの命題から導出可能な命題は、論理的には無数にあるからで

ある。その中から一つの命題を結論として取り出して推論を構成することが可能になるのは、

ある問いに対する答えを導出するために、推論が行われているからである。

(4) むすび

残念ながら「三種類の「なぜ」の根は一つか」という問いに、ここでは答えを出すことは出

来なかった。しかし、この問いに答えようとする過程で、三つの「なぜ」の特徴が明らかにな

ってきた。この問いに果たしてどのような哲学的な意義があるのかまだ不確定であり、この問

い自身がまだ形成途上にあるのかもしれない。しかし、この問いに取り組むことが、三つの「な

ぜ」を分析するための有効な視点を提供してくれることは確実であるので、改めてここに問題

提起しておきたい。

(いりえゆきお 大阪大学大学院文学研究科教授)

[キーワード]

基礎付け問題 討議倫理学 行為論 因果法則 デフォールト推論

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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主権概念の解体と平和論

田中 誠

EUの拡大や統合強化、経済的・文化的ないわゆるグローバル化、そして環境問題などに象

徴される世界全体のリスク共同体化といった状況を前にして、主権国家システムの基礎が揺ら

いでいるように見える。しかしこうした事態に対して、このシステムが頑強な抵抗力を示して

いることもまた事実である。カントは国家法と国際法という従来の法の枠組みから、世界市民

的法へと踏み出していくことによって、永遠平和の可能性を展望しようとしたが、そこで主権

の概念は、議論の方向を限定すると同時に、動揺や不整合を生じさせている。J.ハーバーマ

スは、二百年の歴史的隔たりを踏まえて、こうしたカントの平和論を、自らの社会理論に基づ

いて修正・補足を加えながら再生させようとしている1。

本稿でわれわれはまず、カントの平和論や法論がすでに内包している問題を摘出することに

よって、現代の平和論が解決すべき課題を明らかにし、ついでハーバーマスの試みがこうした

課題にどのように答えようとしたかを検証、吟味したい。その際に、導きの糸となるのが主権

概念である。

1 「共和制」と平和

『永遠平和のために』(1795 年)2 においてカントは、永遠平和のための三つの確定条項を提

示しているが、これらはそれぞれ、国家法、国際法、世界市民法という、『人倫の形而上学』

(1797 年)の『法論』3で示された彼の公法体系の構成と対応している。「理論と実践についての

俗言」(1793 年)では、国際法に関する節の考察が「世界市民的意図」に基づくとされていて、

1 Jürgen Habermas, Kants Idee des ewigen Friedens-aus dem historischen Abstand von 200 Jahren, in: Die Einbeziehung

des Anderen, 1996.(以下 KIeF と略記し、ページとともに文中に示す。) 2 Kant, Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf, 1795, Ⅷ.(以下『平和論』と略記し、ここで示したアカ

デミー版カント全集の巻におけるページとともに文中に示す。) 3 Kant, Die Metaphysik der Sitten. Metaphysische Anfangsgründe der Rechtslehre, 1797, Ⅵ.(以下『法論』と略記し、

ここで示したアカデミー版カント全集の巻におけるページとともに文中に示す。)

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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世界市民法については触れられていない4。カントが、当時も、また今日においてさえ法として

確立されているとはいえない世界市民法というもう一つの法概念を導入した意義を見定めるた

めには、まずもって、国家法と国際法が、とりわけ永遠平和という課題に照らして見るときど

のような問題を内包しているのかが問われなければならない。

カントは、永遠平和を追求するうえで最も望ましい国家体制は「共和制」であるとするが(『平

和論』349)、彼のいう共和制の特徴は次の三点に要約することができるであろう。すなわち、

①三権、とりわけ立法権と執行権の分離、②代表制、③特定の個人に依存することなく法が支

配すること、以上の三点である。そしてこのような基準を満たした国家では、戦争を行うには

国民の賛同が必要であり、国民は多くの負担をともなう戦争には賛同を与える可能性は低いと

彼は考えるのである(『平和論』351)。ここで二つの疑問が生じる。すなわち、国家の政策を国

民が拒絶する可能性について、言い換えれば、民意による政策のコントロールについて、カン

トはどのように考えていたのか、そして、自らの生命や財産の維持という国民の利害関心は、

戦争を防止する要因としてどの程度の力を持つのか、この二つである。

国家形態についてのカントの議論を導く重要なモチーフは専制の拒否あり、その点で、執行

権と立法権の分離によって定義される共和制(『平和論』352)があるべき政体とされるのは当然

である。しかしカントにおいて、国家権力が持つ三つの側面は、国家設立に関わる根源的契約

の際の人々の統合された意志にその源を持つ(『法論』338)。したがってそこには、三権の分立

と同時に、統合された人民意志としての三権の統一という含意があるといえる。事実カントは、

「これら三つの異なる権力によって国家はその自律を保つ。つまり、自己自身を自由の法則に

従って形成し維持する」と述べた後、「これら三つの権力の統一において国家の安寧(Heil)は成

り立つ」としているのである(『法論』318)。

根源的契約において人は、「野蛮で無法則な自由を全面的に放棄する」ことによって、国家

の成員として自由(つまり、自らの立法的意志によって生じた法則に従うという意味での法的

自由)を再発見するとされる(『法論』315f.)。人民(Volk)から国民(Staatsbürger)への移行を貫く

のは立法意志であり、このことから、三権のうちでも「立法権は、人民の統合された意志にだ

け帰属する」(『法論』313)ことが強調される。したがって分権制は、人民に帰属する立法権か

ら他の権力、とりわけ執行権を切り離すものでなければならない。代表制の概念はこうした理

論上のコンテクストで導入される。「代表制的でないすべての統治形態は奇形である。という

のは、代表制でなければ、立法者が同一人格において同時に彼の意志の執行者でもあるからで

ある」(『平和論』352)。これがいわばカントにおける代表制の原型であるといえるが、具体的

な政体についての議論においては、代表制の概念は拡張され、立法権を含めたすべての権力が、

国民自身ではなく、その代表によって行使されることになる。「すべての真の共和制は、人民

の代表制である以外にはない。それは、人民の名において、その権利を守るために、すべての

国民が一致してその代表者たちを通じて行動するような制度である」(『法論』341)。

4 Immanuel Kant, Über den Gemeinspruch: Das mag in der Theorie richtig sein, aber nicht für die Praxis, 1793, Ⅷ, 307.

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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カントは最高の権力の源泉は人民にあると考えており(『法論』341)、その点では国民主権の

立場をとる。しかし彼は、権力を人民が直接掌握するような体制、すなわち「言葉の本来の意

味での民主制」(『平和論』352)を拒否するのであるから、カントのいう代表制は、権力の本来

の帰属先と、その行使者とを分離するメカニズムという色彩が強い。たしかに人民の代表者た

ちは、国民を自らの所有物のように扱ってその同意なしに戦争における危険な役務を強制する

ことはできないとされるが(『法論』345)、他方でカントは、三権の尊厳を強調し、そこでの決

定に対して、国民が非難したり抵抗したりすることを禁じている(『法論』316)。しかもこのよ

うな抵抗権否定の主張を展開する際に、カントは一貫して君主主権を承認しているのである

(『法論』319ff.)。君主は本来、執行権者であることからすれば(『法論』316)、今日の常識では、

国民に帰属する立法権を代行する者たちとの間で、権力の分立が成立し、両者の間でチェック

機能が働くはずであるが、カントはこうした見方に対してはきわめて冷淡である(『法論』319)。

ここで確認しておきたいのは、カントの国家論が、専制の拒否というモチーフと、国家の存立

・安寧に関わると彼が考える「三つの権力の統一」、つまりは「一つの主権的意志」(『法論』

372)との間で揺れ動いているということである。そして結局彼は、当時の現実の政体において

一つの主権的意志を顕現していた君主の主権を容認せざるをえなかった。したがってここでは、

民意による戦争抑止を可能にする政治体制上のメカニズムについては、ほとんど論じる余地が

なくなってしまう。この場合問題なのは、カントが抵抗権を否定していることそれ自体よりも、

むしろ、そこにある主権の論理である。国家の存立・安寧を維持するための「一つの主権的意

志」は、その後、国家主権を外的に主張するための強力な武器になっていく。その問題性は、

国民主権の実現が現実的な課題となっていく過程で、歴史によって証明されたのであった5。

2 国際法の限界と世界市民法

民意によって国家の政策をコントロールし、戦争を抑止することは、カントが理念上想定し

ていた国民主権が、現実の政体において実現されることによって可能になると考えるのが自然

であろう。しかし歴史がそのような方向へは進まなかったことは周知のとおりである。しかも

その過程で、われわれのもう一つの疑問がクローズアップされてくる。ハーバーマスは、共和

制の平和的性格についてのカントのオプティミズムは、ナショナリズムによって打ち破られた

と述べている(KIeF 200)。それは国民に、一致して、自らの生命や財産の保全という利害関心を

超えて、国家のために死ぬ覚悟を与えたのである。

カントはたんなる「一群の人々」(『法論』311)としての人民(Volk)から根源的契約の理念に

基づいて国家の法的状態を構成したが、ナショナリズムによって、国家形成の基体は、出自、

5 I.マウスはカントの国民主権の理念を擁護する立場から、主権的意志の不可分割性の意義を強調する。国 民主権の不可分割性は、「主権がもっぱら、諸決定の影響を自らが受ける人々に帰属し、委任されて法の適 用を行う権力を司る人々に帰属するわけではけっしてないという単純な事実」を示していると彼女はいう。 こうした発言の批判的意味は理解できるが、少なくとも、国家間の関係を視野に入れなければならない平和 論においては、主権概念は、後述するとおり克服されるべき対象である。Ingeborg Maus, Zur Aufklärung der Demokratietheorie, 1994, S.218.(浜田・牧野訳『啓蒙の民主制理論』、法政大学出版局、1999 年)。

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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宗教、言語などを共有すると想定された民族へと実体化される。ハーバーマスは次のように述

べている。カントは人々に、他者との共同生活を、全員が公的な強制をともなうルールに従っ

て平等な自由を享受することができるように、共同で規制する権利を与えたが、しかしこのこ

とではまだ、「誰が、誰とともに、いつ、こうした権利を実際に行使して、社会契約という基

礎に基づいて、自己決定する公共体を結成することを許されるのかが確定されない」6。この「誰

が、誰とともに、いつ」という問題は、絶対君主制が衰退して、国民主権の実現が現実的な課

題となってくるにつれて切実なものとなる。この問題は、たとえばアメリカ合衆国の場合のよ

うに、民主的な立憲国家を築こうとする建国者たちの行為と、それに賛同する人民の存在によ

って解消されるように見える。しかしハーバーマスによれば、こうした見方が妥当するのは、

国境問題が顕在化していない場合である。国家の内と外の区分は、領土的な意味でも、自国民

と外国人の区別という人的な意味でも、通常は歴史的偶然によって決定されており、そのかぎ

りではこの問題を払拭できない。それは、国民主権に基づく国家形成にとっては、規範的な欠

陥である。こうした状況でナショナリズムが求められたとハーバーマスはいう(Inkl 168)。それ

は彼によれば、「臣民が自らの国家と同一化する能動的市民になるという望ましい変化の手段」

(KIeF 200)であったと同時に、自民族の「同質性」を脅かす周辺的、あるいは外部的存在と対立

し、これを抑圧する根拠にもなった。こうして、カントが永遠平和の追求にとって適合的だと

した共和制の構想に含意されていた国民主権が実現されていく過程で、かえって戦争への危険

が高まることになり、実際、その後の歴史において、悲惨な戦争が繰り返された。国家の存立

・安寧との関わりにおいてカントが要求し、結局、君主に帰されることになった「一つの主権

的意志」は、国民主権のナショナリズム的形態において、同質的国民の意志へと反転しつつ、

同一の論理を維持するのである7。

さて、そうした悲惨な経験に基づいて、国家の意志を外部から法的に制限しようという発想、

つまり、自らの側から戦争を起こすこと、すなわち侵略(攻撃)戦争は、国際法上それ自体罰

せられるべきだという考え方が支配的になっていくが(KIeF 195, 207)、それでもたとえばC.シ

ュミットは、戦争権が主権国家固有の権利であるという前提のもとに、侵略戦争と防衛戦争の

区別を否定したのであり、その後も、ナショナリズムやそれと共通の論理を含む思想は、依然

として強力な影響力を保持し続けた。そこで、こうした問題に対応する国際機関が要請される

が、それは従来の国際法の枠組みを超えた存在でなければならない。このことを確認するため

にも再びカントの所説から始めよう。

周知のようにカントは、永遠平和のための第2確定条項で、自由な諸国家からなる連合制度

Föderalism(国際連盟 Völkerbund)の設立を提唱している(『平和論』354)。この構想は、彼の

国際法理解にのなかにある、国家を「道徳的人格」(『法論』343)と見なして、国家間の法的状

6 Habermas, Inklusion-Einbeziehen oder Einschließen? Zum Verhältnis von Nation, Rechtsstaat und Demokratie, in: Die

Einbeziehung des Anderen, S.167.(以下 Inkl と略記し、ページとともに文中に示す。) 7 ハーバーマスは、ナショナリズムが国民主権実現の過程で果たした「触媒」としての役割は認めるが、それ

はけっして必然的な前提ではないことを強調する(Inkl 158)。しかしここでわれわれが問題としているのは、

こうした過程を貫いている主権パラダイムである。

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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態を個人間の法的状態とパラレルに考える発想と、それを否定する見解の葛藤の結果であると

いえる。たとえばカントは、「国家(をなすもの)としての諸人民 Völker als Staaten は、個々

の人間と同じように判断されてよい」(『平和論』354)という。こうした類比を文字通りに理解

すれば、国際国家や世界国家の設立が要請されてしかるべきであるが、彼は結局それを断念す

る。その理由は、ハーバーマスも指摘しているとおり、彼が国家主権を克服不可能な制約と考

えていたからである(KIeF 210)。たしかにカントは、諸国家が自らを超えた法の強制に従うこと

はないと考えており、だからこそ、「国際法においては、一般に自然状態においてそうである

のと同様に、各国は自らの紛争事件において裁判官である」(『法論』349)とさえいうのである。

このかぎりでは、国際法の領域で達成可能なのは完全な法的状態ではなく、いわば準法的状態

であることになる。しかしハーバーマスは、カントが諸国家の連合組織に求めた永続性という

キーワードを手がかりに、カントの議論に不整合があることを指摘し、これを解消する道を探

る。すなわちカントは、国際連盟が永続的な会議と呼びうるものであるとしているが、この永

続性は、国際連盟における統合を、国際法の結合力(準法的状態)を超えたものにするメルク

マールである。ところがカントはその直後で、この組織は、任意のいつでも解消しうる会合で

あるとしており(『法論』350f.)、ここには明らかな矛盾がある(KIeF 196)。つまり、諸国家の連

合組織が、永続的でありながら、それを構成する諸国家の主権を尊重するという構想には一貫

性がないのである(KIeF 208)。そこでハーバーマスは、カントの主張を整合的なものにするため

には、国際連盟に国家主権を制限する法的拘束力を与える以外にないと考えるのである。

とはいえ、カント以後二百年を経た今日の国際連合を中心としたシステムにおいても、国家

主権は自明の前提とされている(KIeF 209)。そこでハーバーマスは、カントの公法体系における

第三の要素である世界市民法を、国際法とは明確に区別された独自の法概念として提示する必

要性を強調し(KIeF 195)、これに国家主権を超えて各国政府を拘束する力を期待するのである

(KIeF 208)。しかしここには、カントが結局放棄したとハーバーマス自身が考える発想(KIeF

195)、すなわち、世界市民的状態への移行を、国家法における国家設立による自然状態からの

脱出と類比的に考えるという発想に接近する可能性が生じる。事実ハーバーマスの記述には、

国家法と世界市民法の機能を対応させている個所がいくつか見られる(KIeF 195, 198, 208, 226)。

しかし、国際法上の(準)法的状態と国家法レベルでの法的状態とを区別する国家主権の問題

は、その国家主権の制限・克服をめざす世界市民法の構想において国家法との類比を行うこと

によって、つまり、国家を個人と重ね合わせることによって、棚上げされることになりかねな

い。そして、国家主権をより上位の権力の強制のもとに置くことが、原理上(主権概念の定義

上)も、また事実上も、困難であることには依然として変わりがない。

このような類比的発想を回避するための手がかりは、すでにカントの国際法についての記述

のなかに与えられている。彼によれば国家法の場合と異なり国際法においては、国家と国家の

関係はもちろん、ある国家の個人と他の国家の個人の関係、さらにはある国家の個人と他の国

家そのものとの関係も考察の対象となる(『法論』343f.)。ただし、ここでいわれている個人は

さしあたり国家に所属するかぎりでの個人である。つまり国際法の世界では、個々人は主権的

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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存在としての国家を通じてのみ他国あるいは他国に属する個人と関わりを持つことができる。

こうした国際法の限界を突破するためには、世界市民法は、国家間の関係だけでなく、国家主

権を飛びこえて、個人の間や、国家と個人の間の関係を保障し、また規制しうるのでなければ

ならない。そしてカントによれば、あらゆる法的状態は、各人が普遍的法則に従って平等な自

由という根源的な権利(人権)を保障された状態である(『法論』230, 237, KIeF 210)。このよう

な法の普遍的原理は、「地上のある場所での権利(法)の侵害があらゆる場所で感じとられる」

(『平和論』360)という状況を想定する世界市民法においてこそ、最終的に貫徹されるのでなけ

ればならない。したがって世界市民法は、国家と個人の双方を名宛人とすることによって、国

家主権の枠組みを、上位の権力によってではなく、いわば、その構造自体を揺さぶることによ

って超え出て、人権の普遍的実現をめざすという点で、国家法や国際法と区別された独自の法

概念として構想されうるのである。

国家主権を飛びこえて個人をも名宛人としうるという世界市民法の性格は、たとえば、国務

や軍務によって犯された人権侵害の責任を個人に対して問う場合に明らかになる(KIeF 211)。そ

してこのような個人の責任追及は、理論上、戦争を始める権利を主権国家に固有の権利と考え

るシュミットのような立場とは両立不可能である。というのは、いかなる個人的な責任も排除

する「道徳的に中立な戦争概念」だけが主権国家の戦争権と両立可能だからである(KIeF 227)。

このことは、世界市民法が個人を名宛人とすることよって、国家主権を相対化する可能性を示

している点で重要である。

さて問題は、こうした世界市民法にいかにして実効性を持たせるかである。ハーバーマスは、

国家主権に介入して人権を貫徹させる強制力を持った執行権力の不在が問題であるとして

(KieF 212)、世界市民法に各国政府に対する拘束力を持たせるために、国際社会による制裁の威

嚇や(KIeF 208)、国連による戦力保持(そして将来的には武力の独占)(KIeF 209)という方策を

提示しているが、これらは依然として国家法とのアナロジーを引きずるものである。世界市民

法に実効性を持たせるためには、先に述べた、個人をも名宛人としうるという世界市民法の特

質を、さまざまな国際機関の組織や活動に反映させる8ことによって、主権パラダイムを超えて

人権原理の普遍的実現を追求していくことを考えなければならないが、ハーバーマスの所論に

は、上述の方策を含めて、こうした方向とは必ずしも合致しない主張が見られる。そこで次に、

世界市民法の構想による人権原理の実現を阻む現代の思想的傾向の一端に触れたうえで、ハー

バーマスのいう「憲法愛国主義」がこうした動向にどのように対応しているかを見ることにし

よう。

3 主権・人権・平和

ハーバーマスは、現在の世界が、せいぜい国際法から世界市民法への移行期にあるにすぎず、

多くの指標は、ナショナリズムへの退行を示していることを認める(KIeF 213)。すでに触れたよ

8 このことについてハーバーマスは、国連に政府代表からなる現在の総会とは別にもう一つの議院を設け、そ

れを世界市民の代表に割り当てるという興味深い提案を紹介している(KIeF 218)。

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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うに、国民主権の実現を追求する過程で、ナショナリズムは国家の基盤を、国民の自然的ある

いは文化的同質性に求め、それによって国家の独立、つまり外的主権を確保しようとした。ナ

ショナリズムによる「国民の実体化」(Inkl 161)は、C.シュミットを経て、今日の民主主義の

ある種のバージョンにも受け継がれている。

たとえばM.ウォルツァーは、その共同体主義的立場から、主権国家に対する外部からの人

道的介入に否定的立場をとるが、そこにはシュミットと似た論理が見られるとハーバーマスは

いう。ウォルツァーは、文化的遺産を共有する共同体としての国家の自己決定権から出発し、

人道的介入に厳しい条件を設定するが、彼が介入を容認するケースは、要するに、独裁的な政

府に市民たち自身がはっきりわかる抵抗運動を行い、それによって政府が国民の真の意志と対

立し、共同体の統合を脅かしていることが立証される場合である。したがってウォルツァーに

よれば、ある秩序の正統性は、政治が、国民のアイデンティティにとって構成的である文化的

な生活形式と一致しているか否かによって測られる。ここでは人権の侵害は介入を正当化する

理由にはならない(Inkl 177f.)。こうしたウォルツァーの立場そのものが好戦的であるわけでは

ないが、彼の発想は、主権的存在としての国民国家を支える、国民の同質性というイデオロギ

ーをナショナリズムと共有している。今日の戦争の多くは社会的原因から起こることを踏まえ

て、平和の概念も、そうした原因を取り除き、戦争を抑止する方向へと拡大されねばならず、

また世界はその方向へと向かっているが(KIeF 195, 232Anm.)、こうした傾向が持つ介入的性格

に、ナショナリズムや共同体主義は異を唱えるのである9。

このような共同体主義的国家観に対して、ハーバーマスは憲法愛国主義を対置する。それは、

人権を「基本権」として憲法に組み込んだ体制としての立憲制と、国民主権の手続き主義的解

釈を前提としており、そのかぎりで、人権の普遍性と、手続き主義の抽象性によって、国民の

実質的同質性を強調するナショナリズムや共同体主義とは異なるスタンスをとる。しかし同時

にそれは、近代初期の社会では身分制によって成立していた住民の統合の解体に対応しようと

した国民国家の意義を評価する点で、共和主義の伝統を継承しており、その意味では、ナショ

ナリズムと出発点を共有していることをハーバーマス自身が認めている(Inkl 158)10。ここで確

認されなければならないことは、憲法愛国主義が一つの統合原理という意味を担っていること

である。それは、行政権力や貨幣をメディアとするシステム統合に社会統合を対置するという

彼の図式11において、社会統合の一つのあり方としての「民主的な国民資格(Staatsbürgerschaft)

を通じて作動する政治的統合」12の原理であるといえる。

9

国家主権に基づいて内政干渉に反対する主張が、第二次大戦後、大国による恣意的介入に対して小国が抵抗

する根拠として機能してきたことは事実である。しかし国家主権の原理は、次にハーバーマスの議論との関

連で見るように、大国の責任を問うことを困難にするという機能も果たしうるのである。 10 身分制秩序とそれを支えていた中間団体の解体は、一方では、国家による権力の独占と相即した過程であり、

一方では、人権の主体としての個人を、そうした国家といわば「まる裸で」向かい合う存在として生み出し

た。したがって、人権の第一義は、主権国家からの自由にある。(樋口陽一『人権』、三省堂、1996年、35-6

頁)。 11 Habermas, Legitimationsprobleme im Spätkapitalismus, 1972, S.13f. 12 Habermas, Staatsbürgerschaft und nationale Identität, in: Faktizität und Geltung, 1992, S.644.(河上・耳野訳『事実性

と妥当性(下)』、未来社、2003 年)。

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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ハーバーマスは、憲法愛国主義や、それを支える手続き主義的国民主権を、くりかえし特定

の政治文化と結びつけている。たとえば、「たしかにこのように手続き化された<国民主権>

も、それに合致した政治文化という後ろ盾がなければ、すなわち、政治的自由に慣れ親しんだ

人々の、伝統と社会化を通じて継承された心情なしには作動することはできないであろう」13と

彼はいう。この場合の政治文化においては、「生活世界の合理化」という今日西欧世界ではす

でに伝統となったと彼が考える歴史的動向が念頭に置かれている。したがって彼にとっては、

こうした政治文化を共有する西欧諸国において、従来の国民国家の枠組みを超えた、「ヨーロ

ッパ的憲法愛国主義」(VaV 651)およびそれに基づく「ヨーロッパ連邦国家」(VaV 643)が可能

であり、また必要でもある14と考えることに何の論理的飛躍もないであろう。しかし、このよ

うな「超国家的組織への主権概念の転用」(Inkl 160)によっては、世界から主権国家の数を減ら

すことはできても、主権パラダイムを超えることにはできないことは明らかである15。

憲法愛国主義は、国民の実質的統合の重要性を強調する保守派から「生彩のない」概念とし

て非難された(Inkl 157)。しかし憲法愛国主義に対する批判は、むしろ普遍的人権を特定の社会

や国家の統合の原理と考えることそのものに向けられなければならない。人権は本来、人々の

普遍的な結合の原理にはなりえても(カントの世界市民法はまさにこうした立場から構想され

ている)、特定の社会の統合原理にはなりえない。それが可能であるかのように考えられるの

は、自らの社会が人権を十全に実現しているという前提のもとに、そのことによって自らと他

者を区別するかぎりにおいてである16。こうした自己理解は、人権に関して外部からの容喙を

拒絶すると同時に、自らは他者に介入する権利を持つという独善に陥るであろう。憲法愛国主

義も国家統合の原理という意味を持つかぎりこうした危険にさらされているのである。

ハーバーマスの議論は、カントが想定した国民主権の理念を西欧の国民国家が実現しようと

した試みのなかで生じた思想的問題、とりわけナショナリズムやそれと論理を共有する思想に

応答しようとするものであり、それは彼にとっては、国民国家において、システム統合とは区

別された、また国民の同質性に根拠を置くのでもない社会統合の可能性を追求することを意味

した。このことが、本来、人権の普遍性を基礎に置くべき世界市民法や平和についての彼の議

論の方向を限定している。湾岸戦争などにおける欧米諸国を中心とした軍事的介入を、留保を

つけながらも、世界市民的状態への移行期における過渡的出来事として容認する彼の議論や

13 Habermas: Volkssouveräniät als Verfahren, in: Faktizität und Geltung, 1992, S.626f.(以下 VaV と略記し、ページと

ともに文中に示す)。 14 彼がEUの連邦国家化を求めるのは、すでに官僚主導の体制、すなわちシステム統合が進んでいるEUにお

いて、国民国家的な政治統合が追いついていないという状況に対処するためである(VaV 632, 646 参照)。 15 遠藤 乾「ポスト主権の政治思想」(『思想』945 号、2003 年)、222-3 頁。 16 移民問題についてのハーバーマスの見解も、このような方向に解釈される可能性をはらんでいるように思わ

れる。彼は、(人権を中核とする)普遍主義的な憲法原則を実現している国家においては、そこへ移住しよ

うとする者は、その国の政治的文化と結合している法原理に基づくアイデンティティだけは侵害してはなら

ないが、それ以外の点では自らの文化的生活形式を放棄する必要はないという(VaV 658f.)。こうした主張が、

ナショナリスティックな移民排斥論に対する批判として持つ意味は認めなければならないとしても、「普遍

主義的な憲法原則を実現している」と自負する人々の政治文化に対する、移民してきた人々や外部からの批

判を封殺する方向で作用する危険性は依然として残る。なお、人権原理の実現における欧米諸国の「欺瞞性

・独善性」については、井上達夫『普遍の再生』(岩波書店、2003 年)、89 頁以下を参照。

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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(KIeF 212f.)17、またとりわけその背景にある、素朴といっていいほどの国家発展段階論(三世

界論)への彼の信頼(KIeF 214f.)は、国民主権を基軸として展開されたハーバーマスの議論が、

国家間の関係を理解する際の足枷になっていることを示している。ここでは、人権や民主主義

が、その達成度によって、世界を区分する基準、とりわけ「第一世界」に属するとされる国々

と他の二世界に属するとされる国々を区別する基準として利用され、場合によっては人道的介

入の根拠とされる。こうした見方は、第二、第三世界に属するとされた国々の多様性を、たと

えば「権威主義的」「不寛容」などのレッテルによって見えなくしてしまうばかりでなく、世

界で起こるさまざまな紛争の原因を、これらの国の「後進性」に帰して済ませてしまうことに

なりかねない。「第一世界」に属するとされる国々は、自らの人権概念が、とりわけその外部

の人々を視野に入れたとき、再検討の余地はないか、また、世界中で起こる紛争の原因のうち

には自らの関与によって生じたものはないかを検証しなければならないはずである。このよう

な反省を欠いたまま、「第一世界」の国々では国境問題が次第に重要でなくなっている(KIeF

215)といったところで、そこから生み出されるのは先にも述べたとおり、たとえばヨーロッパ

連邦という新たな巨大主権国家であってそれ以上のものではない。こうした状況では、たとえ

国連のような国際機関の決議や決定によるものであっても、特定の国家に対する介入は、結局

国家主権をめぐる争いに帰着してしまうであろう。

このようにハーバーマスは、一方で、超国家的組織による国家主権の超克をめざし、他方で、

憲法愛国主義に象徴される国内の統合を重視する立場をとる。これら二つの方向での試みは、

いずれも主権パラダイムにとどまっているために、まさにその主権概念をめぐって衝突する。

現在および将来の紛争や、その他の危険に対して、世界全体が「リスク共同体」として対処す

ることができるという希望(KIeF 217)が維持されるためには、そうした危険に対する「第一世界」

に属する国々の責任をも含めて、主権国家という枠に縛られずに自由に議論する場が、「永続

的な会議」として制度化されねばならない。すでに述べたように、個人と国家の双方を名宛人

として、人権原理の普遍的実現を追求するという世界市民法の構想こそが、こうした要請に答

えることができるのではないだろうか。国家主権に対する拘束力は、上位の権力ではなく、個

人や、諸個人が国境を越えて自発的に結成し、運営する集団に求められるべきである。こうし

た個人や集団の参加が、この会議の永続性というメルクマールに抵触することはない。という

のは、彼らは、こうした会議で永遠のメンバーシップを与えられる必要はなく、しかるべき手

続きを経て順次交代することができるからである。こうした会議では、人権は、完璧に整備さ

れた権利の体系として参照されるのではない。誰もがその重要性を認めながら、いまだ生成途

上にあるこの人権について共通の理解を得るために、国家の枠組みを超えて議論が積み重ねら

17 「地上のある場所での権利の侵害があらゆる場所で感じとられる」ことを要求する世界市民法の実現にとっ

て、たしかに、湾岸戦争などの報道が「世界公共圏」に政治的リアリティを与えたこと(VaV 659f.)は前進だ

としても、そこでの個別のテーマについての関心は、依然として国家的公共圏の枠組みに縛られている(KIeF 205)。ここでいえることは、「世界公共圏」を形成するための技術的基盤は整備されつつあるが、思想的基 礎はいまだ整っていないということである。その意味でもやはり、主権国家の壁が問題とされねばならない。

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主 権 概 念 の 解 体 と 平 和 論

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れ、そのことが紛争原因の発見・除去につながるのである18。このような場での主権国家の相

対化は、主権概念の解体を促すことはあっても、必ずしも国家の否定を意味しない。いわゆる

社会権や、近年新たに登場した種々の人権概念は、その実現のための重要な機関として国家を

必要としているし、また、国際社会を構成する一つの要素としても国家は存在し続けるであろ

う。しかしその場合も国家が、住民の意志を集約する唯一の回路であるべきだという前提はも

はや成り立たないのである。

(たなかまこと 関西学院大学非常勤講師)

[キーワード]

平和 主権 人権 カント ハーバーマス

18 たとえば今日、欧米の自由権中心主義に対して、貧困や飢餓に苦しむアジア、アフリカの諸国からは生存権

こそが最重要だという主張がなされている。こうした対立を解消するためには、その背景にある問題、つま

り先に述べた「第一世界」の国々の責任や、また、「第三世界」のいくつかの国に見られる独裁政権の責任

が、国際機関の公開の場で公式の論題とされなければならないが、主権国家のみから構成される機関ではそ

れは困難であろう。なお、現在の国連の人権委員会が、加盟国の政府代表によって構成され、個人やNGO

からの人権侵害についての通報を審査する際には非公開であることの問題性については、大沼保昭『人権、

国家、文明』(筑摩書房、1998 年)、96 頁を参照。

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アーレントのカフカ論

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アーレントのカフカ論 - 最小限の権利を求める闘い ― 黒瀬勉

アーレントはいくつかの著作でカフカに言及している。それほど長くない言及が多い中で、

アーレントがまとまってカフカを論じているのは、1944年に発表された二つのカフカ論で

ある。あまり間をおかずに発表されたので、二つの論には内容的に重複する部分があるが、違

いもある。本稿では、1944年のカフカ論におけるアーレントの解釈とその問題点について

考えてみたい。そのさい、『暗い時代の人々』(1968年)に収められた「ベンヤミン論」で

カフカに言及している箇所や、1944年以後に刊行されたカフカの著作物や戦後のカフカ研

究を参考にする。以後、二つのカフカ論を便宜的にA論とB論と呼ぶことにする。

A論-「隠された伝統 第4章 フランツ・カフカ-善意の人間」

B論-「フランツ・カフカ 再評価-没後20周年に」1

1 カフカは『城』でユダヤ人問題を取り扱ったか

初に、アーレントによるカフカの小説『城』の解釈について考える。A論でアーレントは、

カフカの『ある闘いの記録』と『城』では「パーリア」が登場し、『城』を「カフカがユダヤ人

問題を扱ったとほとんど言っていい」作品としている。アーレントが『城』をそう解釈する理

由は二つあると考えられる。ひとつは、主人公Kが「(ユダヤ人に)典型的な一定の状況と曖昧

さに陥っていく」からである(65/62)。次に、『城』でユダヤ人の同化の問題が取り扱われてい

ると見るからである。この二つの理由は密接に関係している。

ユダヤ人に典型的な「状況と曖昧さ」についてアーレントは具体的には説明していないが、

『城』の主人公Kが測量技師として村へ招聘される問題に関係すると考えられる。支配者であ

1 アーレントはカフカ論を英語で書いているが、本稿ではその独訳をテキストとする。Hannah Arendt: Die

verborgene Tradition, suhrkamp 1976.引用箇所については、独訳と邦訳『パーリアとしてのユダヤ人』(寺島俊

穂他訳、未来社)のページ数を記した。『城』(原田義人訳)、『審判』(本野亨一訳)、『アメリカ』(中井正文

訳)については、ページ数を示さないが、すべて角川文庫から引用した。訳語を変えた箇所もある。カフカ

のドイツ語は、Franz Kafka:Gesammelte Werke in zwölf Bänden,Fischer Taschenbuch Verlag からの引用。

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アーレントのカフカ論

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る城は村に測量技師を召し抱えるように命令するが、村はその必要はないと返答する。ところ

が、村の返答を記した書類の入った封筒が城の担当課に行かず、別の課に行き、おまけに、届

いたのは封筒だけで、肝心の中身の書類は行方不明となった。以後しばらく、その課と村長と

のらちのあかないやりとりが続き、やっと問題が落着するに至るが、その後しばらくして、「城

から招かれた」として、Kが村にやって来る。Kは自分の招聘に関する一連の経過を村長から

聞き、「万事がとても曖昧で(unklar)未解決のままで」、自分は村から追い出されるのかと問う。

それに対して、村長は「あなたを引き留めはしないが、あなたを追い払うこともしない」と答

える。結局、Kは追放されはしないが、村で滞在する確実な根拠がないという曖昧な状態に置

かれるのである。官僚機構での一連の「笑うべき混乱」の中でKの村での存在理由が曖昧にな

っていくように、カフカは『城』の物語をつくっている。Kがいくら奮闘しても、問題は曖昧

なままで、解決はたえず先延ばしされていくように、物語は仕組まれている。

同化の問題に関しても、 後まで未解決の状態が続く。城の支配者からの手紙で、Kは「見

かけは民衆に属しながら、実際は政府に属するか、現実的な政府の保護を完全に断念して、民

衆にかけるか」の二者択一を迫られ、後者を選ぶ(66/64)。つまり、城の権力者とできるだけ

離れて村の労働者として生きることで、城に自分の存在を認めさせようとする。Kは村人と「区

別のつかないもの」になろうと努力するが、これは同化を求める努力である。村の一員になり、

家、仕事などを 小限の権利として得ようとするが、Kはその目的を達成することができない

(94/85)。いつまでも、彼は「どこにも組み入れられないよそ者」で、城の人間でも村の人間

でもない。彼は「なに者でもない(nichts)」のである(65/63)。

上で述べた二つの選択肢の中で、アーレントは後者の民衆への同化の道を選ぶ主人公の姿が

『城』で描かれているとするが、これは一面的な解釈だと思われる。というのは、物語全体を

通じて、Kは城の権力者クラムに何とかして接触しようと懸命になり、クラムの愛人フリーダ

と結婚しようとするが、クラムに接近するための結婚だとフリーダに非難される。そんなKを

見ていると、Kは城の権力者に取り入って、何とか「成り上がろう」としていると読めなくも

ない(これについては注15を参照)。いずれにせよ、物語の内容、そしてカフカがユダヤ人で

あることを考えると、Kの姿からヨーロッパ社会に同化しようとしたユダヤ人を連想する読者

がいても不思議はない。『城』にユダヤ人が置かれた状況を見て取り、Kをユダヤ人とするアー

レントの主張に一定の説得力があるのは確かである。

カフカの小説では「ユダヤ人」や「ユダヤ教」という言葉は出てこないが、日記や手紙には

よく出てくる。ここでは、アーレントが言及しているカフカの手紙を挙げてみよう。1921

年の手紙の中で、ドイツ語で書くユダヤ人作家について、カフカは「父親のユダヤ性から離れ

ることを、ドイツ語で書き始めた大ていの者が望んでいた、彼らはそれを望んでいたけれども、

いたいけな後脚ではまだ父親のユダヤ性にしがみついていたし、前脚は新しい大地を見つけか

ねていた。そうした絶望が彼らのインスピレーションだった」と言っている。彼らがドイツ語

を使うことは「他人の所有物の横領」であり、「たとえたったひとことの言い違いも立証され

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アーレントのカフカ論

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なくとも、他人の所有物であることに変わりはない」のである2。『暗い時代の人々』の「ベン

ヤミン論」で、アーレントはこの手紙に言及して、1870年代以降、中央ヨーロッパのドイ

ツ語を話すユダヤ知識人の間に「ユダヤ人問題」があったと言っている3。カフカがアーレント

の言う「ユダヤ人問題」を自覚するようになるのに、プラハにやってきたイディッシュ語演劇

団との出会いが一つの大きなきっかけとなった。1911年10月の日記で、カフカはこの演

劇団の公演の様子を詳細に書いている。その中で、ドイツ語の„Mutter‟でユダヤ女性を表現す

ることの不適切さについて述べ、「„Mutter‟と呼ばれるユダヤ婦人は滑稽であるばかりか、よそ

よそしいものになるのである」と言っている4。プラハのユダヤ人はチェコ人からはドイツ人の

仲間として忌避され、ドイツ人からはユダヤ人として拒否され、プラハ・ドイツ語を使うユダ

ヤ人は、言葉によっても「よそよそしさ」を体験していたのである5。

こうしたことを考えると、カフカの小説がユダヤ人の置かれた状況の問題性に関連すること

は確かである。しかしそれでも、アーレントが主張するように、Kはユダヤ人で、『城』がユダ

ヤ人問題を取り扱っていると言っていいのだろうか。というのは、Kは村での存在根拠が曖昧

で、それゆえ村への同化を求めるのだが、共同体での存在根拠の曖昧さと同化の問題はユダヤ

人に限った問題ではないからである。

『城』でユダヤ人問題が扱われていると言う一方で、A論には、完全にそう言いきれないこ

とをアーレント自身が認めていると読める箇所がある。それは『城』の人物像を論じた箇所で、

アーレントは主人公のユダヤ的特徴が放棄されることで、その人物像が抽象的になって、「純粋

にユダヤ的問題性の領域をはるかに超える」ことになると言っている(67/65)。カフカの人物

像が抽象的であることに関しては、B論でも、アーレントはカフカの小説の特徴を論じ、主人

公は日常出会う人間ではなく、人間一般の様々に変化したモデルであると言う(101/96)。アー

レントによると、カフカの芸術は抽象化して本質的なものだけを残す芸術である。人物が抽象

化して描かれていると、それだけその人物を具体的に特定の民族と関連づけることが困難にな

る。小説を読んで、ユダヤ人を連想することがあっても、Kをユダヤ人と断定しにくくなって

くる。カフカが小説では「ユダヤ人」という語を使用していないという事実は、彼の小説がユ

ダヤ人問題を取り扱っていると断定することを困難にするのではないか。その事実を重視する

と、『城』のKをユダヤ人と言うべきではないだろう。

さらに、何らかの問題をユダヤ人に固有の問題と見なすことに対する批判が『全体主義の起

源』にある。ロシア革命などの政治的な激動で、第一次世界大戦後のヨーロッパでは、大量の

亡命者・難民が出現したが、彼らには所属すべき共同体もなく、居住などの 小限の権利すら

保証されなかった。彼ら無国籍者は完全な権利喪失者となった。アーレントは無国籍者の問題

をユダヤ人の問題に限定すべきでないとする。両大戦間の時期に、ユダヤ民族が無国籍者と少

2 決定版カフカ全集9(新潮社、以下カフカ全集と略記)369頁、マックス・ブロート宛書簡。

3 Arendt: Men in dark times, p.183. Harcourt Brace &Company. 邦訳『暗い時代の人々』(阿部斉訳、河出書房 新社)221頁。

4 カフカ全集9、85頁。

5 クラウス・ヴァーゲンバッハ『若き日のカフカ』(中野孝次他訳、ちくま文庫)「世紀転換期のプラハ」の章。

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アーレントのカフカ論

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数民族の問題を典型的に代表していたので、この二つの問題をユダヤ人特有の問題と考えやす

いが、そうすれば、この「2つの問題の射程範囲を無視する」ことになるとアーレントは言う。

無国籍と少数民族の問題をユダヤ人に特有の問題とすると、イスラエル建国でそれらの問題は

終わったとされて、大量のパレスチナ難民が発生して、新たな無国籍と少数民族の問題が生じ

た事実が無視されることになる6。『全体主義の起源』で言われていることをカフカ論に適用す

ると、ユダヤ人がヨーロッパ社会での存在根拠の曖昧さと同化の問題を典型的に代表していた

ので、それらの問題をユダヤ人問題と考えやすいが、そう考えると、問題の「射程範囲」を無

視することになる。だから、そう考えるべきでない。

カフカが小説でユダヤ人問題を取り扱ったかどうかは、戦後のカフカ研究でも問題になって

いる。アーレントが言及していないカフカの作品を挙げると、『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二

十日鼠族』での二十日鼠族とヨゼフィーネの関係を考えると、多くの人がユダヤ民族とその救

済者の関係を連想するだろう。しかしそれでも、カフカがこの物語でユダヤ民族の運命を再現

した言うべきではない。再現したとすると、作品の意味を一義的に固定してしまうことになる。

物語の中に「ユダヤ的」要素が読みとれたとしても、そこから進んで、作品が「ユダヤ民族の

運命」を扱っているとするのは、部分を全体とすり替えることである。「部分的見解を全体的見

解と宣言する」(『ヤノーホとの対話』でのカフカの言葉)ことに等しい。カフカの作品は一義

的な割り切れた解答を求めていないのである7。

2 最小限の権利と人間らしい生を求める闘い

B論では、アーレントはユダヤ人問題を持ち出さずにカフカを解釈し、テーマとして同化の

問題を扱わずに『城』を論じている。また、アーレントは自らの解釈と対照的なものとして、

カフカの「神学的」あるいは「宗教的、形而上学的」解釈を批判している。ここでは、B論で

のカフカ解釈とその問題点について考える。

アーレントは、カフカの小説の中心的なテーマは、「摩擦なく機能する機構の形態で表される

世界と、そんな世界を破壊しようとする主人公の間の軋轢である」と言っている(100/95)。ア

ーレントの意図を汲んで、これを言い換えると、機構の権力の行使とそれに対抗する主人公の

闘いがカフカの中心的テーマということになろう。このテーマの観点から、アーレントは『審

判』、『城』、そして『アメリカ(失踪者)』を論じていく。ここでわかるように、B論はユダヤ

人問題をカフカの中心的テーマとせず、より普遍的な問題の観点からカフカを解釈している。

実際、『審判』や『城』と違って、『アメリカ』にユダヤ人問題を読み取るのは難しい。

中心的テーマとの関係で、アーレントが重視しているのは『審判』でのヨーゼフ・Kと教誨

師との対話である。二人は「掟の前の門番」の話について議論し、教誨師が「門番は掟に仕え

ているのだから、人間の批判はおよばない」と言ったのに対して、ヨーゼフ・Kは「その見解

6 Elemente und Ursprünge totaler Herrschaftt, Piper, S.451. 邦訳『全体主義の起源』2(大島通義・大島かおり訳、 7 高木久雄「カフカの物語『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族』論考」(『ドイツ文学散策』所収、ナカニシ

ヤ出版)、66頁。

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アーレントのカフカ論

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に従うならば、門番の言ったことをすべて真実だと思わなければならないことになる」と反論

する。それに対して、教誨師は「すべてを真実だと思う必要はない。必然だと思えばいい」と

言う。ヨーゼフ・Kは、それでは「嘘が世界の法にされる」と教誨師の考えを受け入れること

ができない。教誨師の「すべてを必然だと思えばいい」という言葉を、アーレントは巨大な機

構の権力を前にして人々が感じる驚きと恐れに関連づけて解釈する。官僚機構のような権力に

対して、人は恐怖や驚嘆の感情を持つが、そうした感情から、機構の権力の行使が必然的なも

の、自分では制御できない運命的な力のように見えるようになる。アーレントの考えでは、権

力に対する人々の恐怖と驚嘆から「必然性の仮象」が生じるのである(90/81)。

アーレントの解釈では、 後まで「必然性の仮象」と闘ったのは『城』の主人公Kである。

Kとちがって、 後まで抵抗できなかったのが『審判』の主人公ヨーゼフ・Kである。『審判』

の冒頭、ヨーゼフ・Kは理由も分からないまま逮捕され、「巨大な組織」に巻き込まれていく中

で、抵抗し闘うが、 後には処刑される。彼は「すべてを必然だと思えばいい」という考えに

納得していなかったが、 終章では、権力の働きとしての処刑が「必然」であるかのごとく、

抵抗せずに2人の男に連れていかれる。一方、『城』においては、Kがやって来た村では、すべ

てのことが運命として、不可解な出来事として、あるいは施し物として受けとめられていた。

その中でKだけが、出来事を恐怖の念を持って解釈することなく、自分の理性を使って判断し

ていった。そして、Kは村人が必然と見なすもの、運命と見なすものが「必然性の仮象」でし

かないことを見て取ったのである。

アーレントのカフカ解釈で基軸になるのが「善意の人間」の概念である(以下、善人と略記

することもある)。この点に関しては、A論とB論に違いはない。「善意の人間」でアーレント

が考えているのは、人間の行為が秘密に満ちた権力によってでなく、人間自身によって決定さ

れる世界、人間自身がつくった法によって支配された世界を目指す人物のことである。アーレ

ントの解釈では、『城』の主人公Kは善人である。自分が要求するものを、上からの、あるいは

「城からの施し物」としてでなく、自分の権利として主張し、人間としての権利を実現するた

めにKは闘う。『アメリカ』の主人公カール・ロスマンは、『審判』や『城』の主人公と比べる

と若く、未熟で無邪気と言う方が適切ではあるが、善人である。『アメリカ』の「オクシデンタ

ル・ホテル」の章に、機構の力とロスマンの善意が衝突し、善意が機構に屈するエピソードが

ある。アーレントはそのエピソードに言及している。ロスマンはオクシデンタル・ホテルでボ

ーイとして働くことになるが、酔った知人が仕事中の彼のところに来て、騒動が起こり、結局、

ホテルを解雇される。騒動の過程で、ロスマンは門衛長の思い違いを指摘するが、門衛長は「自

分に間違いはない」と言い張って譲らない。ロスマンは善意に満ちた対応をするが、人格がま

るで機構の一部となったような門衛長たちの悪意に満ちた疑いに敗れる。「(相手に)善意がな

いなら、弁解することも不可能じゃないか」と、新たな道を歩むことになる。

「善意の人間」を軸にしたアーレントの解釈と対照的なのが、「神学的」解釈、「宗教的、形

而上学的」解釈である8。カフカの主人公の抽象性についてはすでに1で述べたが、この人物の

8 城山良彦「カフカ論の系譜」(『カフカ』所収、同学社)では、多くのカフカ論が紹介されているが、その中

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アーレントのカフカ論

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抽象性ゆえに、人物は理念の体現者とか意見の代弁者と見なされやすくなる。そして、カフカ

の作品の恐るべき物語から、一部の論者はカフカに「神学」を当てはめて解釈するようになり

(99/94)、「悪魔的な神学」のうちに深い解釈を見るようになる(92/84)。ここで、カフカの友

人マックス・ブロートの解釈を例に取ってみると、ブロートは「『審判』と『城』で描かれてい

るのは、(中世ユダヤの神秘説であるカバラの意味における)神性のふたつの現象形式―裁きと

恩寵―なのである」と解釈し、『城』でのアマーリアとソルティーニの挿話はキルケゴールの『お

それとおののき』と対応関係にある物語であると言っている9。

アマーリアとソルティーニの挿話とは、城の役人ソルティーニが使いの者に手紙を持たして、

バルナバス家の娘アマーリアに自分のところに来るように言ったが、アマーリアに拒絶された

事件である。ソルティーニは権力を利用して若い女性を自分の言いなりにしようとしたのであ

る。城の役人を恐れる村人たちはソルティーニを批判するどころか、バルナバス家を村八分に

する。そんな中で、Kだけが、「役人の中には、ソルティーニのようなやつがいるんです。お父

さんは当局へ行って強く抗議したでしょうね。…私が恐れを感じるのは、ソルティーニのよう

な役人と、権力のこうした濫用があり得るということです」と言って、不正を不正としたので

ある。アーレントからすれば、この挿話では、カフカの中心的テーマ、つまり、役人による「権

力の濫用」に対してどう対処するかが語られている。今日的に言うと、男が権力を利用したセ

クハラでしかない。カフカがキルケゴールを読んだのは事実だが、挿話を『おそれとおののき』

に対応させる必要はない。アーレントの次の言葉はブロートのような神学的解釈を念頭に置い

ている。カフカの恐ろしい物語から「一見深遠そうに見える解釈を求め、それを宗教的現実の

カバラに基づく叙述や悪魔的な神学のうちに見いだす」(92/84)。こうした解釈は、アーレン

トからすれば、「必然性の仮象」にとらわれた解釈でしかない。

カフカの作品の中で、特に宗教的、形而上学的に解釈されるのが『審判』である。例えば、

ゲルショム・ショーレムは「カフカの作品の唯一の対象は神の裁きである」と言い、ユダヤの

カバラを理解するためには、「今日ではまずカフカの著作を、とくに『審判』を読んでおかねば

ならない」と言っている10。これに対し、アーレントは『審判』を神学的に解釈しない。宗教

的観念に拠らず、『審判』を解釈する。それでは、アーレントは主人公が処刑されるのをどう説

明するのか。宗教的観念を持ち出さずに、説明できるのか。アーレントは、主人公が理由も分

からず逮捕されたことが呼び起こした「罪悪感」がだんだんと膨れ上がり、彼は「ある巨大な

組織」の命じる役割に自分を順応させていき、 後の処刑の場面では彼の内面の展開と外部の

出来事が一致し、抵抗もせずに権力の行使に従ったとしている。そして、この「罪悪感」は人

はだれも罪を免れていないという事実に基づくとする(91/82)。アーレントのこうした解釈に

は説得力がない。『審判』を読んでも、主人公がアーレントの言う理由で「罪悪感」を持ち、そ

れが膨れ上がっていったとは読めないのである。

の一つに、「宗教的、形而上学的」解釈がある。カフカに「神学」を当てはめる解釈である。

9 カフカ全集6、396頁、マックス・ブロート「初版あとがき」。 10 K・E・グレーツィンガー他編『カフカとユダヤ性』(清水健次他訳、教育開発研究所)23頁。

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アーレントのカフカ論

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ここで、戦後のカフカ論を参考にしてみよう。1967年にカフカのフェリーチェへの手紙

が出版されて、カフカとフェリーチェの婚約と婚約破棄という事件が『審判』に強い影響を与

えていることが明らかになった。フェリーチェへの手紙の中で、カフカは結婚することへの肉

体的不安、結婚生活で執筆活動が阻害されることへの不安などを書いている。カフカには強い

不安や負い目があった。1914年6月に婚約、数週間後の7月に婚約破棄。そして、婚約に

関しては、カフカは「罪人のように縛られていた」と書き、婚約破棄に関しては、「法廷」と「絞

首台」という語で表現している。カネッティが言っているように、この重大な二つの事件が『審

判』の物語に色濃く反映している11。カネッティは婚約と婚約破棄がともに「屈辱的な衆人環

境の中で」行われたことを重視し、『審判』では屈辱が主要なテーマになっていると言う。カフ

カは「法廷」という言葉で小説を始め、「絞首台」で小説の結末を予測していた。カネッティの

解釈から明らかなように、宗教的観念を持ち出さなくても、主人公が処刑される物語をカフカ

が書いた動機といったものを説明できるのである。

また、『審判』の 後には、主人公の内面の展開と外部の出来事が一致するとアーレントは解

釈しているが、この点に関しても、アーレントの解釈をすんなり受け入れることはできない。

後から2つ目の章「聖堂にて」での、ヨーゼフ・Kと教誨師との対話についてはすでに触れ

たが、そこでは、ヨーゼフ・Kは教誨師のいうことに同意していなかった。「すべてを必然だと

思えばいい」という考えに納得したわけではなかった。ところが、次の 終章「処刑」では、

抵抗もせずに、つまり処刑が「必然」であるかのごとく、ヨーゼフ・Kは2人の男に連れられ

ていく。読んでいて、彼は本当に納得したのだろうかと思う。2つの章の間に飛躍あるいは不

連続を感じるのである。ドゥルーズとガタリは「聖堂にて」の章の後に「処刑」の章が続き、

物語が終わることに疑問を出している12。 近の研究はカフカが『審判』の 初の章と 後の

章をほぼ同時に書いたとしている13。

見てきたように、アーレントの『審判』の解釈には説得力がない点がある。資料上の制約も

あった。しかし、戦後の研究を参照すれば、宗教的観念を持ち出さずに『審判』を解釈する方

向性は可能であると言える。アーレントがカフカ論を発表したのは1944年だが、研究者に

よると、40年代にはカフカを「宗教的、形而上学的」に解釈する研究書が出版されて、それ

が「カフカが熱狂的に迎えられた時期の代表的見解の一つ」となった14。例えば、1946年

に出版されたある研究書は、カール・バルトの「世界の全形式は神の詛いの下にある」という

言葉に関連づけてカフカ文学を考察している。神学的解釈に対するアーレントの批判には、1

940年代のカフカ研究でのこうした傾向への反発があったのかもしれない。アーレントが「善

意の人間」を軸にして解釈するのは、カフカにとって重要なのは、秘密めいた権力によってで

はなく、人間の活動が人間の自発性によって支配された世界を構築することだと考えたからで

ある。人間らしく生きたいという願い、それを実現するための闘いにカフカの重点があると考

11 エリアス・カネッティ『もう一つの審判』(小松太郎・竹内豊治訳、法政大学出版局)121頁。

12 ドゥルーズ/ガタリ『カフカ』(宇波彰・岩田行一訳、法政大学出版局)88頁。

13 明星聖子『新しいカフカ 「編集」が変えるテキスト』(慶應義塾大学出版会、2002年)237頁。 14 前掲、城山著、116頁。

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アーレントのカフカ論

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えたからである。神学的解釈では、こうした点が無視されてしまう。

神学的解釈への批判には同感できるとしても、「善意の人間」を軸にしたアーレントのカフカ

解釈に難点がないわけではない。役人の権力の濫用で苦しんでいるバルナバス家の人にとって

は、Kは権力と闘う善意の人間かもしれないが、1で述べたように、Kには完全にそう言い切

れない側面がある。Kは城の権力者に何とか接触しようとして、フリーダを利用しようとする。

少なくとも、そう思われても仕方がない行為をする。ところが、アーレントの解釈はKを善意

の人間として論じるだけである。この意味において、B論での解釈は一面的で、『城』を「ただ

一つの批判的意義に還元」するものである15。

村に受け入れられないKは、無権利状態のままで、人間らしく生きることができなかった。

というのは、「ある人民(民族)の中でのみ、一人の人間は人々の中で一人の人間として生きる

ことができる」からである(72/74)。 小限の権利を求めるKの闘いに関するアーレントの解

釈を読んでいると、『全体主義の起源』での無国籍者の問題を連想する。アーレントによると、

故郷を喪失し新しい国に受け入れられない無国籍者は幸福追求権や所有権のような特定の権利

を喪失するだけでなく、人権そのものを失う。アーレントは特定の権利の喪失と人権の喪失を

区別し、第一次世界大戦後に出現した無国籍者は完全な無権利状態にあり、人権自体を喪失す

るとする。無国籍者の問題の考察から、アーレントは「諸権利を持つ権利というようなもの」

が存在すると言う16。この権利は「諸権利に対する権利、あるいは人類に属するという各人の

権利」と言い換えられる。この権利を喪失すると、人は奴隷よりも悪い状態に陥ることになる。

というのは、奴隷が一定の政治的・社会的関係の中で生きているのに対して、難民収容所など

に収容された無国籍者はその関係を失うことで、人間によって構築された世界との関係を失い、

世界から閉め出されるからである。無国籍者のこの無世界性こそ、彼らが専制国家に殺害され

る危険をうみだす。このような『全体主義の起源』での無国籍者論を考慮に入れると、人間ら

しく生きるための闘いにカフカの中心的テーマを見るアーレントの解釈には、ユダヤ人難民と

してアメリカへ逃れた彼女の体験が反映していることが見て取れる。二つのカフカ論全体を通

して、アーレントが『城』に重要な意義を与えて共感を込めて論じているのはその現われであ

ろう。

(くろせつとむ 近畿大学非常勤講師)

[キーワード]

ユダヤ人問題 機構の権力との闘い 善意の人間 小限の権利 無国籍者

15

マルト・ロベールは『城』のKは二つの役を演じているとする。第一の役は、城の高官の愛人であるフリー

ダを誘惑して、自分の目的のために利用し、成り上がっていこうとする役。第二の役は、特権階級の権力濫

用と不公正の象徴である城に対して、弱い者と女性を擁護する者としての役。アーレントはKを第二の役を

演じる者として論じる。このような解釈は『城』を「ただ一つの批判的意義に還元」しようとするもので、

矛盾が多い。マルト・ロベール『古きものと新しきもの』(城山良彦他訳、法政大学出版局)186頁。 16 前掲、Piper, S.462、邦訳281頁。

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理性の自律と決定論

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理性の自律と決定論

― H.ヴァルターの見解を中心に ―

武田 一博

はじめに

われわれは、自己の判断や行為は自己の明確な意識(自我)や理性に基づいて自由に作り出し

ている、ないし、自由に作り出すことができると考えがちである。しかし、われわれの判断(思

考)や行為は、実際には自然的本能や社会的慣習、流行やイデオロギーに突き動かされ、いわ

ば無自覚的・無意識的になされたものにすぎないことがしばしばある。たとえば、われわれは

自分では「悪い」と思うことも、「つい」行なったりたりするし、「よい考え」も自分の頭で作

り出したものではなく、理由もなく突然ひらめいたものであることに気づいたりする――そう

でなければ、「よい考え」は「自由に」「いつでも」可能であろう――。あるいは、自分で気づ

かないうちに他人を「蔑視」したり、「力への意志」を行使したりしようともする。もっと非日

常的な状況下では、人間は殺人も厭わないし、戦争も「簡単に」遂行する。

こうした人間の振舞いは、デカルトやカントらからすると、理性的存在者としての人間にあ

るまじき姿であるが、しかし、それが現実である1。人間のこうした現実は、フロイト以後の現

代哲学からすれば、別段不思議ではない。理性は自律しているようで、自律的ではないのであ

る。すなわち、理性機能といえども脳の働きにほかならず、遺伝的・神経生理学的・化学的メ

1

しかし、理性の自律を説いたカントですらも、山本博史によれば、理性の根底にアロゴス的なものを想定し

ていたと言う。すなわち、カントにとって「インテリゲンツ[知性、知性的存在]であることはいかにして

可能であるのかという問題は、人間理性にとっては解明不可能な問題であり、この意味においてインテリゲ

ンツそのものはアロゴスな性格をもっている」と(山本 2002 p.11、強調は山本)。山本はそうした「アロゴス

なものをロゴスの働きの基底にその根拠として置く点に、カントの批判哲学のドグマ性がある」(同前)と解

釈している。だが、インテリゲンツの「アロゴス的性格」は、思惟する我の存在がいかに確かなもの(事実)であろうとも、それが実際に何(was)であり、いかに(wie)在るかについて、理論理性は結局のところ規定でき

ないという点にあるとすれば(同前 p.10)、カントの理解は必ずしもドクマ的とは言えない面を持っているの

ではないか。つまりカントのそうした理解は、すぐれて現代的な理性把握の先駆けではないだろうか。それ

だからこそ山本も、「ロゴスの働きの基底に置かれたアロゴスなものとしてのカントのインテリゲンツは、

西洋近代がもつ両義性のカント的表現である」(同前 p.11)と見なすことができるのではないか。

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理性の自律と決定論

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カニズムに支配されるのであり、かつ、脳や身体と結びつく自然的・社会的環境との相互関係

の中で成立するものであることは、今日の脳科学が明らかにしているところである。

しかし他方、もはや人間は自己の理性能力に信頼を置くことはできず、理性主義的発想は解

体されねばならないのだろうか。理性すなわち「考える我」は自己の内に(常ではないが)明

確な気づきを伴って成立していても、その理性は自律的存在でないとすれば、自分は自分の判

断や行為の特権的(唯一の)原因者=主体者と見なすことはできないのであろうか。そうだと

すれば、人間はもはや自己の行為に道徳的(法的)責任を感じなくてよいのであろうか。

こうした問題はとてつもなく大きな問題であるが、この小論では、脳生理学の現代的知見に

基づく現代哲学の立場――とりわけ心の唯物論――からすれば、理性の自律の問題はどのよう

に論じられるかを、ヘンリック・ヴァルターの見解を中心に、考えることにしたい。その際の

中心論点は、(1)自由意志に従ってわれわれが判断や行為を行なっている(と思っている)時、

それはいったい何を意味しているのか、(2)自由意志に従うことは、自然的本能や社会的なもの

に従うことと何がどう違っているのか、(3)自由と決定論はどのように関係し合っているのか、

ということである。

ヴァルターは、カントに代表される「理性の自律」ないし「自由意志」という近代哲学のパラ

ダイムを、現代の脳生理学から相対化(決定論の内に包摂)しようとする。すなわち、カント

では「自己自身の行為をある法則の概念[道徳律]と合致するように決定する」ことができる

能力が理性であり、その「理性を保持する能力として、意志を定義する」(Walter 2001 p.5、以

下 Walter 2001 からの引用は頁数のみを記す)。この自己立法者としての理性は、「自己自身の内

にのみ起源をもつ」点で「絶対的自発性」すなわち自由をもつが、他方で、自己の行為は理性

によってのみ決定され、「自由による因果性」の内に据えられる。こうしてカントでは、「自由

意志と道徳律に従う意志とは、同一」ということになる。

カントの以上の議論は、ヴァルターによれば、次の三点を特徴としている。「第一に、自然法

則による決定と、自由による決定とは、互いに排除するものと見なされる。第二に、自律的行

為とは、『知的』行為すなわち原理に従って行為することを意味する。第三に、道徳性は、起源

という考えを介して、知的であることと関係づけられ、実践的概念としての自由意志と道徳性

とは完全に同一である」(p.6)。

こうしたカントの見解は、今日でも多くの哲学者に受け入れられていると言える。すなわち

一般に「自由意志とは、(1)別様にもなしうるという自由、(2)知性によって知ることができる

(intelligible)行為、すなわち理解可能な行為としての意志作用(volition)、(3)行為を生み出すもの

(agency)[行為の発動者(originator)]という、三つの特徴をもつもの」と見なされる(ibid.)。しか

し、ヴァルターによると、こうした自由意志のリバータリアン的捉え方はもはや正しいとは言

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理性の自律と決定論

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えない。というのも、まず第一に、われわれが自分が自由であること2を、いつでも欲するまま

に「別様にもなしうる」と考えるとしたら、それは誤った「フォーク・サイコロジー的直観」

(p.9)でしかないからである。われわれがあることをなそうとする(あるいは実際にする)とき、

たしかにそれを決断し実行するのは自分であることを日常的意識は直観しているが――ただし、

常にではない(ex.「我を忘れて」「無我夢中で」行なう場合)――、そして、そのかぎりでは

自由意志はたしかに存在していると言えるが、しかし、その決断や実行を支え、実際に生み出

しているのは、「どのようにでもなしうる」というような抽象的な自由や意志作用ではなく、自

己の脳である。そして、われわれの意識は、そうしたものに対してはおどろくほどわずかしか

知っていないのである3。あるいは、われわれが知っているのは、脳の働きの結果(の一部)で

しかないのである4。あるいは、われわれの欲求・願望・期待はわれわれの理性が勝手に思い描

き、作り出すのではなく、脳を含む身体(あるいはスティーブン・ピンカー(Pinker 2002)の言い

回しを使えば、人間本性)に根ざしたものであり、また、社会的関係に規定されて出てくるも

のなのである5。

以上のことをヴァルターの言葉で要約して言えば(p.12)、「自由意志にとっての・・・問題は、

われわれの行為や決断が、実際にそれらがなされたのとは別のものでありえたかどうかという

こと」ではなく、われわれの行為や決断を(したがって自由意志をもまた)現実のどのような

メカニズムがそのようなものとして発現させたか、ということである。換言すれば、「別様にも

なしうる」(=自由)のは意識の主観性においてのみであって、実際には、意志や意識の在り方

は別のところ(脳ないし/および社会的関係)によって決定されているのではないか6、という

点にわれわれを導く。いわゆる決定論の領域である。

2 伝統的には哲学は「行為の自由」(人がしたいと欲することを行なう自由)と「意志の自由」(人が欲するこ

とを欲する自由)を区別してきたが、ヴァルターはここで両者を同一のものとして議論している(p.7)。 3 フォーク・サイコロジーに対する心の唯物論(意識は身体と結びついた脳の状態にほかならないという説)

からの批判に関しては、武田 1999 参照。 4 意識の自覚的部分(自我)が脳内に占める領域がいかに小さいか、また、われわれが意識するのは、脳が実

際に起動する時間より常に 0.5 秒遅れである点に関しては、Norretranders 1998、Gazzaniga 1998 などを参照。 5 ただしピンカーは、人間の行為を生み出す環境的要因や社会的関係性を、非常に小さく見ている(Pinker 2002)。

しかし、それは彼が狭い自然主義=遺伝子決定論に立っているからと言うよりは、遺伝子の生存戦略の中に

社会性(利他主義、自己犠牲、結婚願望、子どもへの愛情などとともに、他者に対する支配・抑圧性・暴力

性)が組み込まれている、つまり社会的関係性は外から人間を規定するのでなく、むしろ人間本性の内から

(一定の条件を介して)発現するものだ、と考えている。そして、その点からピンカーは、人間を社会的関

係や環境的要因から「どのようにでも作られうる」という思考パターンを「Blank Slate」説(=タブラ・ラ

サ説)として批判している。 6 ヴァルターは、常にそうだと言うのではない。「普通のケースで普通の状況においては、われわれは別様に

なしうる」ということを認めている(p.12)。たとえば、障害や病気や強制がなければ、われわれは手を挙げる

決断もできれば、脇に置いたままにすることもできる。しかし、そうしたケースがわれわれの行為や決断の

パラダイム・ケースではない、ということである。いや、もっと強く言えば、手を挙げるか挙げないかが「無

条件に自由」であるとすれば、そのどちらであっても、それは単なる偶然=理由がないということにすぎな

いのである。それは、自由意志による行為とは言えないだろう。逆に、そのどちらかの状態(行為)がなさ

れるべき理由(欲する/欲しないでもよい)があったとしたら、その時には、もはや「別様ではありえない」

(p.13)。

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理性の自律と決定論

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ヴァルターの定式化によると、決定論とは「生起するすべてのものごとには条件があり、こ

の条件が存在し続ければ、そのことのみが生起しうる」という仮説のことである(p.13)。この決

定論の考え方からすると、(1)すべてのものごとは因果性によってあらかじめ(先行条件によっ

て)決定されており、(2)したがって、自由意志は結局の所存在せず、それは脳や身体の因果原

理に従っているか、社会的規定性(法やモラルや慣習)に依存しているか、だけである。

こうした決定論は、これまで(今でも)哲学においてはとんと人気がないが、ヴァルターは、

決定論はキリスト教思想の基本的人間観をなしている、と指摘する。たとえば、アウグスチヌ

スもルターも「アダムはリンゴを食べるかどうか選択する自由があった」とは見なしてはいな

い。したがって「人間は[必然的な]堕落の後では、善と悪との自由な選択は、もはやもって

はいない」と考えていた。つまり、「人間は自由な決定を行なう能力をもっていない」と考えら

れているのである(p.14)。こうした「人間は本性上、悪のみを行なうことができる」という決定

論がキリスト教で要請される主な理由は、「神の恩寵(に帰依すること)だけが、人間を救済へ

と導く」という教義との整合性であろうが、こうした決定論は自由意志を排除することになり、

深刻なジレンマを抱えることになる。すなわち、人間はなぜ悪(信仰しないこと)のみが可能

でありながら、善(信仰)が可能となるのかが説明できない。キリスト教をベースにしながら、

ヨーロッパでは結局決定論を斥け、自由意志論が主流になったのも、そうした理由からであろ

う。

しかし、ヴァルターは次のように考える。少なくとも科学の世界では、決定論は受け入れら

れている(量子力学も含めて)。この科学的決定論と哲学的見解が相反するとすれば、決定論を

とらない哲学を退ける以外にない、と。「互いに矛盾し合う二つの理論が、共に正しいというこ

とはありえない」(p.16)からだ。あるいは、「矛盾が存在するなら、われわれは科学と形而上学

とを両立するようにしなければならないのである」(ibid.)。

ところで、決定論はこれまで(古典的な形では)予測可能性(予言可能性 predictability)と

表裏一体に考えられてきた。すなわち、因果的に決定された事象であれば次の状態は予測可能

であり、予測可能でなければ(別の状態も可能であれば)その事象は因果的に決定されていな

い(自由である)、と。意志に基づく人間の行為がそのような予測可能性をもたない(つねに別

様にも行為しうる)のであれば、それは自由(決定されていない)というわけである。

だが、ヴァルターによれば、「決定論は予測可能性と同時に成立するものではない」(p.18)。

そのことは、たとえば空中を小さな紙片がどのように落下するかは(重力場においては決定さ

れていても)正確に予測できないように、古典力学でも言えるのである7。そのことは量子力学

7 ヴァルターは、決定論の概念をニュートン力学に結びつける伝統的理解を、次のように批判している

(pp.20-21)。すなわち、ニュートン力学では粒子の速度は任意に決まるのであり、いくらでも加速可能である。

しかし、もし無限大の速度をもつ粒子が存在するなら(それは理論的には排除されていない)、その粒子は

突然「どこからともなく」瞬間的に出現するだろう。そうした事態はもちろん予測できないだけでなく、ニ

ュートン力学の決定論的性格を破るものとなる、と(そのことは、光速より速い粒子タキオンが存在するな

ら特殊相対性理論が、質量が無限大になる特異点が存在するなら一般相対性理論が、非決定論的なものにな

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理性の自律と決定論

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においても同様で、量子の状態は(位置と運動量を共に正確に記述するという意味では)確率

論的にしか予測できないが、しかし、全体としてはその物理量は決定されていると見なしうる

(pp.23-24)。つまり、科学においては、ある系の状態や運動が予測できないとしても、その系が

決定されていることを妨げないのである。

ここからヴァルターは、決定論をめぐる議論を i)存在論的レベル、ii)認識論的レベル、iii)方

法論的レベルの3つに区分する(p.19)。つまり、存在論的レベルにおいてある事象が(事実とし

て)決定されているとしても、それが決定されていると認識されるか否かは別問題であり、ま

た、認識されているとしても、その認識がどのようにして獲得されたかの方法論的妥当性は、

もうひとつ別の問題だ、と言うのである。言い換えれば、「決定論が正当だということから、す

べての事象が予測可能だということをわれわれは自動的に結論づけることはできない」

(pp.19-20)し、予測不可能だということは認識論的に非決定を意味するだけで、存在論的非決定

性を含意するわけではないのである。

以上のことは、人間の自由意志に関しても適用できる、というのがヴァルターの考えである。

すなわち、もしわれわれが「フォークサイコロジー」的に、自己の行為が自己の理性ないし自

由意志によって「つねに別様になしうる」と自覚していたとしても、「別様にもなしうるという

ことが、同一の自然法則の下で、あるいは同一の制約条件と初期条件の下で、別様に行なうと

いうことを意味するとしたら」、すなわち存在論的レベルでそうしたことが成立しているとすれ

ば、それは決定論の中で言いうるのである――量子力学における不確定性原理のように――。

この意味では、「決定論は自由意志を排除する」(p.26)のである。あるいは、認識論的レベルで

自由意志が成立するとしても、そのことがはたして存在論的レベルでも妥当するか否かを、方

法論的レベルで吟味することが必要である。すなわち、「自分は確かに自由意志をもっていると

信じている」というだけでは不十分なのである。

また、「別様にもなしうる」ということが自由意志によるものであるとしても、それは行為が

行なわれる前の時点ではなく、行為が行なわれているまさにその時点で必要なことである。と

いうのも、「別様にもなしうる」ということが自由意志の機能であるとすれば、それは抽象的可

能性としてではなく、現実的可能性=実質的に行為を生み出す原理として実際の場面で機能し

なければならないはずだからだ。しかし、実際にはそのようなことは起こらない。たとえば、

あるドライバーが、事故を起こす前の時点ではいかに「事故が起こらないように、もっとゆっ

くり慎重に運転する自由をもっている」と考えることができても、事故が起こったその時点で

は、その自由を行使することはできないのである。そこでは「行為は、行為者の性格と状況に

完全に決定されている」(ibid.)のである。もちろん、運転という行為は自発的なものであること

は否定できない。「彼らはこの[運転するかしないかという]選択においては、自由である。し

るという点では、同様なのであるが)。しかし、問題は、そのような非決定論を裏付ける存在論的事実はな

いし、あるかどうか認識論的に確かめる方法がない、つまり決定論が偽であることを証拠づけるものはない

ということである。

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理性の自律と決定論

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かし、ひとたび決断がなされると、必然性の渦につなぎ止められるのだ」(ibid.)8。

以上のことは、われわれに深刻な問題を突きつける。すなわち、人間の「魂は[行為がなさ

れた]その時点で、本当に別の選択肢(alternative)をもっているのだろうか。それとも魂は、そ

れがとった以外の他の選択を行なうことは[本当は]可能ではないのだろうか」(p.27)という問

題である。

ロバート・ケインによると(Kane 1996 pp.21-31)、自由意志とは「私は、私がしたいことを、

なしうる」という仕方で定義できるとしても、「私がしたいこと」ということの意味は、

i)私がしようと欲求する(want)/願望する(desire)/選好する(prefer)こと

ii)私がしようと選択する(choose)/決心する(decide)/意図する(intend)こと

iii)私がしようと試みる(try)/努力する(endeavor)/骨折る(make an effort)こと

という三つの側面に区別される。しかし、ケインの考えでは、i)は「単に望んでいること(simple

wishing)」に過ぎない。それはよく言って、「欲求的意志(appetitive will)」であり、現実に何かを

なそうとする/なしうるとは限らない。ii)は「理性的意志(rational will)」と呼ばれうるものであ

り、熟慮(deliberating)や思考(thinking)などと関係するが、同時にそれは実践的判断であり、行為

のための理由や目的を吟味することにほかならない。iii)は時に「努力的意志(striving will)」と

言われ、この意志はもっとも行為と関係していると言えるが、しかし、そうした表現が意味す

るものは、「意志の弱さ」すなわちわれわれの意志は、欲することを実際に実行するには、無理

に努力しなければ達成できないほど、弱いものであることを物語っている。

いずれにしても、われわれは自己の自由意志が自己の行為を生み出すものでないことを(認

めたくないとはいえ)十分に知っているのである。たとえば、カントが実践理性を自律的なも

のとし、自己立法した原理(道徳律)に自ら従うと主張したところで、現実には人間はそのよ

うな原理(道徳律)にのみ従って行為をしているわけではない――それほど人間は強固な理性

的存在者ではない――ことを、カントに対して「リゴリズム(厳格主義)」「形式主義」と批判

することで表現している(とはいえ、そうした理性的存在者を人格性として受け入れることに

よって、人権概念が可能になったことは否定できないが)。

だが、だからといってわれわれの意志は単なる受動的なものでも機械的なものでもない9。そ

8 しかし、逆に、世界がもし非決定論的であったとしても、そのことによって自由意志が可能になるわけでは

ない。言い換えれば、世界が非決定論的であることが自由意志の必要条件ではない。というのも、「もし、[世

界の]非決定論が正しいとすれば、おそらくアメーバにさえ別様に振る舞うことができるだろうが、われわ

れはアメーバに自由意志を付与したりはしない」(p.27)からである。ロジャー・ペンローズらのように、意志

の自由と科学的世界観を調停するために、意識現象を脳内のマイクロ・チューブリンの量子論的不確定性に

求める議論は、この点からすれば、無駄と言うほかなくなる。 9 ハーバード大の心理学教授ダニエル・ヴェーグナーはヴァルターと同様、われわれの意識や意志が行為を生

み出す原因であるように見えるのは幻想にすぎず、実際の行為の原因は「脳内の無意識的な原因」であると

主張するが、しかし彼は同時に、そうした無意識的な「深層構造」は、たとえば催眠術が示すように、たや

すく他者や状況に引きずられ、いわば「自動的に」行為を生み出すものでもあることを強調している(Wegner 2002、特にその第 3,4,5 章を参照)。

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理性の自律と決定論

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れは自発性、志向性という能動性をもつものである。しかし、問題はそうした自発性や志向性

がどこからくるのかということである。もしわれわれが意識や意志の主観的理解(心的なもの

は、ただ内的に気づかれるという仕方でのみ存在する)に留まることなく――その理由の一つ

が、先のフォーク・サイコロジーの誤りである。理性の叡知性の解明不可能性という議論は、

そのことをカントもうすうす分かっていたのではないかと思わせる――、その実在的根拠を問

い正そうとするなら、それは自由意志の存在論的根拠に向かわざるをえないし、現代科学は自

由意志を脳内メカニズムの中で解明しようとしているのである10。そして、ヴァルターはそう

した科学的知見と合致した形で心の哲学を構成しようとするのである(ヴァルターのこうした

立場は、Neurophilosophy と名づけられているが、その詳細はこの小論ではふれられない。Walter

2001 の2章、3章を参照のこと)。

ところで、ヴァルターからすれば、自由意志を「別様にもなしうる」と捉える立場では、理

性を行為の原因者と捉えることも否定せざるをえないことになる(彼は、行為の志向説も同様

と考える。pp.32-33)。というのも、理性が因果的に行為を決定するのであれば(カントが「自

由の因果性」で唱えたように)、行為はともかくも因果的に制約されざるをえないからである(そ

れはカントが考えたように、唯一の普遍妥当性をもつ行為とならないまでも、どのような行為

でも可能なわけではなくなる)。しかし、もし理性が行為にとって因果的な効力をもたないなら、

あるいは、理性に帰せられる志向性が、行為においていかなる因果的役割をもはたさないなら、

理性ないし自由意志の自律性(行為の唯一の起源、始動者、「最初の原因者」)はいったいどの

ような仕方で確保されることになるのだろうか。この問題は、行為者(agent)の理解、すなわち

われわれは自身の行為の主体者と言えるのかという問題にわれわれを導く。

この問題を考える手掛かりとして、ヴァルターは興味深い思考実験を提出している(pp.34-35)。

その思考実験とは、こうである。量子力学の不確定性原理を応用し、かつ、理解可能な決定を

行なう能力をもつロボットを、われわれは作製することができたとする。そのロボットをマー

チンと名付けよう。このマーチンは自由意志をもつと言えるであろうか。「別様になしうる」(因

果的に決定されていない)こと、および自己自身で理解可能な決断を行なうことを自由意志の

条件と考えれば、答えは「イエス」となろう。しかし、それでは問題が残る。というのも、わ

れわれがマーチンの「頭脳」にそのような行動をとるようにプログラムしたのであって、マー

チンは自己の行動がどのようなものであろうと、それに対する道徳的責任をもたないからであ

る。マーチンが真に行為者(行為の主体者)と言えるためには、自己の行動を自分自身で作り

出した(強制・命令・操作されていない)と言えなければならない。

しかし、ことはいささか面倒である。というのも、われわれ自身、われわれの行為を全面的

に自分自身で作り出したとは言えないからである。行為を生み出す脳のプログラムは、遺伝的・

10 志向性など意識の能動性に関する心の唯物論の議論は、武田 1997a、1997b を参照。

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理性の自律と決定論

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神経生理学的・電気化学的に決定されたものも多いからだ。躾けや教育や社会的強制から後天

的に学習し獲得したものも、自分自身を起源としない点では同様である(しかし、ピンカー

(Pinker2002)は、そのような文化的・社会的・環境的要因が、人間の自然的本性に由来する行為

の在り方に、いかにわずかしか――それも一時的でしかない――変様を生み出さないかを、説

得的に示しているが)。

しかし、ヴァルターはだからといって道徳的責任が一切問いえないと言いたいわけではない。

そうではなく、「何でもなしうる」という意味での自由意志が存在しなくても、道徳的責任は成

立しうる、と言いたいのである。そして、そのことは決定論と両立可能と見なすのである。

その議論は、もはや紙数が尽きてきているので、ここでは要点のみを記すことになるが、簡

単に言えば、自由意志を「外的強制から自由」であると弱い形で解釈しながら、しかし、行為

は自己の内的(身体的・心理的)にもっとも強い理由から選択されるという仕方で決定される

のであり、かつ、それを自己の意志において決定したという意味で、行為の遂行者、行為の発

動者と(その意志の保持者を)見なすことができる、というものである。この意味で自由意志

をもつ個人は、自己の行為の道徳的主体と見なしうるのであり、その道徳的・法的責任が問い

うるのである、と(pp.36ff.)。

おわりに

今日にいたるまで哲学は(一部を例外として)決定論や心の唯物論的理解を、自由意志と和

解・調停できない議論として、厳しく退けてきた。その結果は、存在論的二元論に落ち込むこ

とでしかなかった。しかし、二元論は結局、意志と行為との関係を説明できない。非物質的存

在(意志)が物質的存在(身体)に作用することは、原理的に不可能だからだ。したがって、

われわれは精神的なものをもはや単に観念的存在として見るのではなく、身体と結びついた脳

という物質系の産物として見なければならない。今日の発達した脳科学は、そのことを日増し

に詳細に解明しつつある。実際、われわれの意識は(本文でふれたように)脳で生じている過

程(それもごく一部)を遅れて自覚的に気づいているに過ぎない。人間の真の主体は意識や意

志ではなく、自己の脳なのである。

だが、このように人間を理解するからといって、それは人間の自由を否定するものでもなく、

世界をすべてあらかじめ出来上がったものと見なすことでもない。そうではなく、かえって自

由の意義を正しく認識することを可能にするものである。というのも、われわれが自己を意識

し、自己の行為に関し自己が主体であり、自己に責任があるという自覚はまぎれもない事実で

あるが、その事実は主観的にではなく、客観的に、すなわち進化論的・社会的に意味のあるこ

とだからである11。つまり、動物と違って人間にはよりよい方向に行為を選択することによっ

11 「社会的に」というのは、マルクス主義的な意味でではない。マルクス主義は人間の自由を決定論的に解釈

してきたが、ピンカーの指摘するとおり、その自由は社会的に「どのようにでも形成うるもの」という仕方

で捉えてきたのである(「人間は、社会的関係のアンサンブル」、「意識は存在を反映する」)。この点で、マ

ルクス主義もまたタブラ・ラサ説に立つものと批判されねばならない。

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理性の自律と決定論

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て、生存確率を個人的・社会的に高めることに成功しうるからである。ただ、それはいつも成

功するとは限らず、また、選択は恣意的に「何でもあり(anything goes)」というわけにはいかな

いのであるが。しかし、それだからこそいっそう科学的・合理的理性の客観的判断が重要とな

るのである。そうした理性にわれわれの本能的欲求や傾向性をうまく制御させるなら、人間の

自由も、それを制度的に保障する社会も、よりよいものにすることが可能となるだろう。

文献

Gazzaniga, Michael S. (1998) The Mind's Past, Univ. of California Press.

Kane, Robert (1996) The Significance of Free Will, Oxford Univ. Press.

Norretranders, Tor (1998) The User Illusion: Cutting Consciousness down to Size, tr. by Jonathan

Sydenham, Penguin Books(『ユーザーイリュージョン――意識という幻想』柴田裕之訳、紀伊

國屋書店、2002 年)

Pinker, Steven (2002) The Blank Slate: The Modern Denial of Human Nature, Penguin Books.

武田一博 (1997a)「心の唯物論と現代科学――ニューロ・コンピュータ理論による心=脳モデ

ル」、梅林・河野編『心と認識――実在論的パースペクティブ』昭和堂、pp.165-218 所収。

―――― (1997b)「人間の合目的性の科学的探究とは何か――サールの心の哲学批判」上下、『総

合学術研究紀要』沖縄国際大学、第1巻 pp.1-16、第2巻 pp.1-19 所収。

―――― (1999)「フォーク・サイコロジーは心の唯物論に何をもたらすか――アンディ・クラ

ークの所説の批判的検討」、『唯物論研究年誌』第 4 号、青木書店、pp.242-270 所収。

―――― (2001b)「心の唯物論と人格性の問題」、『唯物論研究年誌』第 6 号、青木書店、pp.87-111

所収。

―――― (2003)「現代唯物論の認識論的枠組み――構成説に立つ投射説(志向説)について」、

『唯物論研究年誌』第 8 号、青木書店、pp.290-312 所収。

Walter, Henrik (2001) Neurophilosophy of Free Will, tr. by Cynthia Klohr, The MIT Press.

Wegner, Daniel M. (2002) The Illusion of Conscious Will, The MIT Press.

山本博史(2002)『カント哲学の思惟構造――理性批判と批判理性』ナカニシヤ出版。

(たけだかずひろ 沖縄国際大学教授)

[キーワード]

理性の自律 自由意志 決定論 ニューロ・フィロソフィー H.ヴァルター

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哲学の制度化と折衷主義

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哲学の制度化と折衷主義 ― 七月王政期クーザンの国家戦略 ―

伊東道生

この論文では、19 世紀初頭とりわけ革命と帝政、王政復古を経て、社会的混迷の続く七月王

政期の哲学が、秩序の回復、すなわち国家による管理と制度化への道と歩みを共にするプロセ

スの一端を素描する。この立役者の一人は、V.クーザンである。彼は、「客観性 (objecjectivité)、

主観性 (subjectivité)、同一性 (identité)、同時性 (simultanéité)、つかの間性 (fugitiveité)などの性

(té)で終わる用語」や、「感覚論、観念論、独断論、批判論、仏教論などの論(isme)で終わる言葉」、

「情熱(affection)、感覚(sensation)、インスピレーション(inspiration)、議論(argumentation)のよう

なionで終わる」言葉が氾濫し、思想の「まったくの混乱」1のなかで、折衷主義を標榜して秩

序化を図る。

哲学史においては、現在、折衷主義はほとんど省みられない立場であるし、折衷という概念

自体は、完全で論理的な理解と摂取というよりも、むしろ状況、とくに社会状況を鑑みて、取

捨選択するという2、哲学としては、はなはだ曖昧な立場として理解される。「1830 年以前、彼

(クーザン)は、新しい哲学を算出しようと試みていた。その後、彼は理論的意図をすべて断

念し、哲学の政治を管理することに専念し、それに適用するために、自分の講義と論文をひた

すら改訂することで満足した」3。しかし、哲学の問題を解決する理論とはいかないまでも、哲

学が「現実の知」(ヘーゲル)である以上、社会情勢の混乱や、大学をはじめとする知を算出す

るシステムの不安定期において、それが有効であるかどうかは別にして、クーザンの提出した

1 Honoré de Balzac <<Des mots à la mode>>, dans La Mode du 22 mai 1830. cité par Patrice Veremern, Victor

Cousin,l’Etat et la revolution, dans Corpus,n º18/19, 1991. 2 折衷主義という概念自体、語源上「選択」を意味する。例えば、W.T.Krug, Allgemeines Handwörterbuch der

philosophischen Wissenschaften nebst ihrer Literatur und Geschichte,1827-34, Aetas Kantiane 152 「折衷主義に反対

するものは、何が良くて悪いかを決定する厳格で首尾一貫した方法がかけていると主張する」という批判も

当然存在する。Adolphe Franck, Moralistes et philosphes, Didier, 1872. 3 Patrice Vermeren, Victor,Cousin, Le jeu de la philosophie et de l’État, L’Harmattan, 1995.

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哲学の制度化と折衷主義

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折衷主義という立場は、それなりに達した結論である。「哲学とは何かという・・・問いに対す

るヴィクトール・クーザンの回答は、その形式と内容において 19 世紀前半を動かしている、革

命後の社会をどのように建設するかという問いと不可分なものである」4。

クーザンが、哲学における折衷主義を標榜するとき、いくつかの場面が想定される。

まず、最終目標としての国家と哲学の折衷。近代国家の正当化は、近代哲学の役割の一つで

あるが、ここではさらに具体的なかたちをとる。哲学が教育を媒介に国家と折衷する、すなわ

ち、哲学を含む学問全体ならびにそのための教育体制の国家管理と制度化にすすむのである。

そもそもこの哲学の制度化に際して、三つの問題が指摘されている。一つは、革命期と帝国

期に生まれた哲学の「職業化」、つまり哲学教師の育成(というよりも、むしろ誕生 5)、二つ

目は、哲学の状況、三つ目は近代国家と大学組織におけるイデオロギー支配の問題であった6。

最初に、これに重なるのが、教会との折衷である。とりわけ、上記の最初と三つ目の問題に

かかわる。教育の主導権をどちらが握るかという場面においては、折衷というよりも闘争に近

いかもしれない。しかし、思想的立場としては、もちろん無神論を孕むようなコンディアック

を代表とする十八世紀以来の「感覚主義 sensualisme」や、その後継者とも言うべき「観念学派

idéologie」は排除し、形而上学と弁神論を一部残すかぎりでは、カトリシズムとの折衷という

べきであろう。二元論のかたちをとったスピリチュアリズムがその結果である。この中で二番

目の問題である、哲学の自分自身との折衷がでてくる。これは教育体制を伴う哲学教師の育成

(ENS をはじめとする中高等教育の整備)、アカデミー(とくに道徳政治学部門 7)の再建、哲

学の(分)科学としての確立(哲学史と、哲学の内部門の確定)である。さらに、教育体制と

哲学史をめぐっては、ドイツ(教育と哲学)との折衷がある8。

ところで、一般に近代国家の成立に際して、国家の普遍教会からの独立がある。「現実の歴史

過程としては、諸国家はさまざまな形で普遍教会から自律していった。「教皇のバビロン捕囚{ア

ヴィニヨン捕囚 筆者記}」(1309-99 年)以来、フランスではカトリック教会が教皇権から離

れて王権に服するようになった。ドイツではプロテスタンティズムが反教皇・反皇帝の勢力か

4 Philosophie,France,ⅩⅨe siècle, Écrits et Opsucules éd. par, Stéphane Douaiiler, Droit Roger-Pol, Patrice

Vermeren,Libraire Générale Française, 1994. 5 公務員としての哲学教師の誕生については、Joseph Ferrari, Les philosophe salariés, Sandré, 1849, réédition Critique

de la politique, préface de Stéfan Douallier et Patrice Vermeren, Payot,1983. 6 Renzo Ragghianti, Cousin et l’ “institutionnalisation” de la philosopphie, De Cousin à Benda, Portraits d’intellectuels

antijacobins, L’Harmattan, 2000. 7 ギゾーは、ルイ・フィリップ宛の書簡(1832 年 10 月 26 日付け)で、道徳政治学部門(la Classe des sciences morales

et politiques)の再建を訴えている。「この申し出の動機は、・・・政治原理そのものにあります。社会の境遇に

直接影響し、政治や習俗を修正します。・・・この学に欠けていたのは真に科学的という性格です。」 Institut de France Académie des sciences morales et politiques, Notice biographique et bibliographique, à la date du 1er janvier 1981 なお、クーザンは 1832 年にアカデミーのメンバーに選出されている。

8 「ヨーロッパの南はフランスによって代表され、北部はドイツによって代表される。」Victor Cousin, Cours de l'histoire de la philosophie, introduction à l'histoire de la philosophie, Pichon et Didier, 1828 哲学に関してはスコッ

トランド学派の、リードなど常識派との折衷も重要であるが、ここでは扱えなかった。

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哲学の制度化と折衷主義

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ら支持されて、教会に対する国家の優位を確立する上で決定的な役割を果たしたが、ビスマル

クの「教皇至上主義」に対する「文化闘争」(1781-88)に至る長いしこりが残った」。イギリス

では、ヘンリー八世の統治下、1534 年に成立した「首長令」と「英国国教会 Anglicana Ecclesia」

の設立である。「いずれにせよ、国民国家が普遍教会から自立し、主権国家となった上で、その

地上を支配する国家のもとに「信教の自由」(複数教会の共存)が保障されるという経過を辿る。

キリスト教はいずれの宗派もいちじるしく内面化され、「神のものとカイゼルのもの」の分離と

いう聖書解釈を近代史が隔離する形となる」9。

フランスでは、教皇捕囚以降の展開のなかで「ガリカニスム galicanisme」という特有の現象

が現れる。ガリカニスムとは「ローマ教皇庁の介入を制限し押さえることを目指し、昔の既得

権を根拠とする聖職者と国王の一致」と定義できる10。 つまり、近代国家成立前夜の、国家(国

王)と教会の妥協の産物ともいいうる。もともと「「ガリカニスム」という語は、一九世紀、一

八七〇年に結論に達した第一ヴァチカン公会議の白熱した宗教論争のなかでつくり出された」

言葉であり、「基本的に旧体制の一現象である」。『ガリア聖職者の宣言の弁護 Defensio

declarationis cleri Gallicani 』(1685)の著者ボシュエ(Jacques Bénigne Bossuet,1627-1704)は、「ス

コラ哲学など眼中に置かない。とりわけ教皇至上主義の教説を拒絶する」11。1801 年の政教条

約ならびに第一ヴァチカン会議(1869-70)を経てガリカニスムは衰退するが、近代国家の成立

から国家と教会の分離に至る前段階で、教皇至上主義が頭角をあらわすことになる。

十九世紀初頭の王政復古時代、直接ローマ教会につながり、ボナルドやメーストル(彼はガリ

カニスムをフランス革命の原因のひとつと考える)を思想の柱とする反革命としての「伝統主義

traditionalisme」や「教皇至上主義 ultramontanisme」が復古するなかで、ラムネも、ガリカン教

会の自由を排斥する。1830 年の七月革命に際して、機関紙『未来 l'avenir 』を創刊し、「新憲

章」(1814 年ルイ 18 世により公布されたものに 1830 年修正)によって約束された自由を主張

し、「リベラル・カトリック」を標榜(1834 年破門)、モンタランベールらとともに、「教育の

自由」をめぐって思想闘争を行う12。 教育の自由は、国家ではなく、「家族の父親の自然権」

に属すると主張する彼等の思潮は、近代国家とその制度を否定するのである。こうした、多様

で微妙なカトリック思想との闘争と折衷戦略が、とりわけ「教育」をめぐって多面的に行われる。

帝政期、ナポレオンの教育体制は、monopole université と呼ばれ、「ユニヴェルシテ」と「独

占 monopole」から成立し、「帝国ユニヴェルシテ Université impériale」という国家のもとでの中

央集権的な教育機関が成立していた。つまり、高等教育の学部やリセ、コレージュなどの教育

施設、教員すべてが教会ではなく皇帝に属するのである。復古期には、教会側はこれを逆利用

しようと図り、時の公権力と共に、曲がりなりにも1848年の第二共和制まで続くことになる。

王政復古下、一時期ギゾーやロワイエ=コラール等の「純理派 doctrinaire」を中心とした自由

9 加藤尚武『戦争倫理学』ちくま書房、2003。 10 グザヴィエ・ド・モンクロ『フランス宗教史』波木居純一訳、白水社、1997。 11 エメ=ジョルジュ・マルティモール『ガリカニスム』朝倉剛・羽賀賢二訳、白水社、1987。 12 1841 年には、ウィルマンが法案を提出後、ミシュレ、モネ等とイエズス会の間で激しい論戦までもが起きる。

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哲学の制度化と折衷主義

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主義的傾向があった政治が、1820 年 2 月 13 日のベリー候暗殺を契機に一挙に反動に向かう。

この事件は自由主義的教育のもたらした事件として象徴的にとりあげられ、21 年にはウルトラ

のみで構成されるヴィレール内閣が成立し、翌 22 年に、高位聖職者フレシヌー猊下

(Denis-Luc-Antoine Frayssinous,1765-1841)がユニヴェルシテの総監に任命され、公教育を担当し、

ギゾーやクーザンの講義が停止される。革命前に追放されていたイエズス会も活動を再開し、

神学校を復活し、聖職者の「教育」を目論む。

こうした複雑な敵対勢力を相手にしながら、七月王政は、教育の国家管理をすすめるが、そ

の背後には、従来の政策と異なり、「七月王政期に民衆への配慮が、救貧政策から教育政策の領

域へと移動した」という事情がある。「初等教育の普及は、まさに新政権の安定にかかわる重視

すべき政治的課題となる」。さらに特徴として、「ギゾーを指導者とし、七月王政の主導的位置

にあった純理派の社会思想自体が、フランス革命後の新しい社会の秩序として社会的上昇にも

とづくエリート制度を中核とする能力主義を主張する面と、現状変化を(能力主義的教育によ

る新支配階層の形成さえも)社会的混乱として否定する面という、相矛盾する二面を持ってい

た。民衆教育に対する支配階層のいわば思想内在的な二面的姿勢がギゾー法にも反映される。

啓蒙主義と反啓蒙主義との対立はここにもまた存在していた」13。

クーザンは、教育体制を確立する準備として、プロシアとオランダに教育視察にでかける。

公教育大臣モンタリヴェ(Marthe-Camille-Bachasson, comte de Montalivet, 1801-1880)に 1831 年に

提出したその報告者は、ギゾー法に強い影響を与える。「ドイツの統一はまことに公教育におい

て実現されている」。「国家は内的にも外的にも社会秩序を守る権利と義務があり、内的秩序を

守る手段として最も強力なものが、一般教育であり、それは一種の知的で、道徳的な徴兵

(conscription)なのである」14。

そして、ダブル・スタンダードというべき仕方で、宗教と折衷する。クーザンの想定する中・

高等教育政策は、エリート制度を中核とする能力主義を制度化するための、中等教育、バカロ

レア・プログラム15、アグレガシオン16、高等師範学校(ENS)17 、アカデミーなどの制定と

13 小田中直樹『フランス近代社会 1814~1852』木鐸社、1995。 14 Victor Cousin, De l’instruction publique en Allemagne et en Hollande, Rapport sur l’état de l’instruction publique, dans

quelque pays de l’Allemagne, Lettre à M. Le Comte de Montalivet, deuxième lettre, Œuvre de Victor Cousin, tome trosième, Bruxelles, société belge de libre, 1841. 1832 年には直ちに Kröger による独訳も出版され、クーザンの

報告を借りながら、ハンブルグの教育事情についての報告も行われている。 15 「バカロレアは勉学の帰結であり、勉学を総括し、判定する。これはコレージュから高等教育と社会への通

路である」。「中等教育で何よりも大切なのは・・・バカロレアの改革であり、・・・試験をどこでも同じにし、

強化した」。Victor Cousin, ibid. J.-B.Piobetta, Le Baccalauréat de l’enseignement secondaire, Thèse principe pour doctrat ès lettre, J.-B.Ballière et fils,1937.

16 「教師の補給という大変困難な問題がある。・・・師範学校とアグレガシオンが支え」あう。Victor Cousin, ibid. 17 王政復古期に途絶えていたエコール・ノルマルの名称が七月革命直後(1830 年 8 月 6 日)に復活する。クー

ザンは 1810 年の帝政期の一期生である。10 月 30 日の規則で文科と理科に分けられ、在学期間は 3 年、教育

は学校内部と大学で施されるようになった。アグレガシオンは専門別になり、場合によっては博士号ととも

に学業の終点となった。1831 年には入学試験が、その試験問題、時間について厳格に規定され、縁故や不正

を防ぐことになった。学校の最終的な名称エコール・ノルマル・スュペリエールは、大臣サルヴァンディの

提案にもとづく 1845 年 12 月 6 日の王令によって決まる。ジャン・メナール「エコール・ノルマル・スュペ

リエールの創立」横山裕人訳、『思想』1997,1 月号所収、岩波書店。

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哲学の制度化と折衷主義

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制度化に向かいながらも、啓蒙一色というわけではない。初等教育については、教育への宗教

勢力の介入を排除しながら、とくに貧困階層の道徳化という形で、宗教を導入する。初等教育

に関しては、1833 年 6 月 28 日の初等教育法(ギゾー法)によって男子初等学校の設立が各市

町村に義務付けられる。しかし、その思想といえば、「民衆教育は、宗教的雰囲気のなかで与え

られねばならず、宗教的印象と慣習がすみずみまで貫徹していなければならない」18というも

のであった。「初等教育の様々な目的のなかで、道徳的かつ宗教的教育は第一のものである。な

ぜなら、道徳教育は人間と市民を形成するものだからである」。「キリスト教は、結局のところ

人民の宗教なのである」。「民衆教育の目的は、結局のところ、貧困階層の道徳化という形で考

えなければならない」19。これを称して「その名はもっていないが、一種のガリカニスム教理

問答書」20 と言うものもいる。

「七月革命を経て支配階層の座を獲得した中間層は、財産所有など後天性原理によって階層

化された社会構造を志向し、社会的上昇の可能性という民衆への配慮を提示することによって

自己の支配に対する支持の調達を図った」。「統治政策の中心は、救貧政策を媒介として、初等

教育政策に置かれることとなる」。しかし、1840 年ころになると、「自己の政策的成功によって

いざ一部民衆の社会的上昇が先駆的に実現されるや、彼らはそれを脅威とみなし、教育すなわ

ち啓蒙主義と社会的上昇をともに否定しはじめる」21のである。

次に、哲学の制度化にみられる歴史との折衷を取り上げる。これは二つの側面から考えられ

る。まず一般的な問題として、フランス革命の歴史的な位置付けがある。

しかし、この課題は制度化という実践としてはともかく、学問的には先送りされる。「一九世

紀をつうじて、フランス革命史家が専門の研究者や大学教授であることは稀だった。たいてい

は、ジャーナリスト、著述家、闘士、政治家だったが、これらの活動は両立しないものではな

かったし、容易に区別しうるものでもなかった」。「もっとも重要な人物の名前だけにとどめて

も、ティエール、ミニェ、ミシュレ、ルイ・ブラン、キネ、トクヴィル、およびテーヌがいる。

彼らの誰一人として、ソルボンヌに研究許可や身元証明を求めるにおよばなかった」。「このこ

とは、七月王政末期にはっきりと見てとれた。キネとミシュレがカトリック教会との闘いのた

だなかで革命史をコレージュ・ド・フランスでの彼らの講義計画に入れようとしたときのこと

である。彼らは教授であり、歴史家だった。とくにミシュレは、『フランス革命史』を育む糧と

なった私文書の広範な渉猟をこの時期に開始していた。しかし、彼らの講義は信仰告白であり、

カルティエ・ラタンの熱狂のなかで公開の集会のように行われた」。結局のところ、フランス革

18 Patrice Vermeren, Victor, Cousin, Le jeu de la philosophie et de l’État, L’Harmattan, 1995, Guizot, Mémoire pour servir

à l’histoire de mon temps, Michel Lévy frères, 1860, tome Ⅲ. 19 Patrice Vermeren, ibid. 20 Ibid. L’article Cousin du Dictionnaire des contemporains de G.Vapereau, 4˚édition, Hachette, 1870. 21 小田中直樹、前掲書。

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哲学の制度化と折衷主義

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命史の講座の創設は、1886 年のパリ大学文学部にようやく、初代教授オラールの着任によって

なされるのである」22。十七世紀後半から十八世紀前半にかけて「批判(批評)」と結びついて

きた「歴史」概念は、十八世紀後半以降、哲学と結びつきを強くするが、ここにいたって哲学

とも決別し、独立した科学的言説を取り始める。つまり十九世紀後半になってようやく、歴史

が実証主義のもと史料批判を通した厳密な「歴史学」として成立し始めるのである23。

ちなみに、フランス革命史の講座が創設されるころ、革命の原理が、教育の分野で実現をみ

ることとなる。ジュール・フェリー(Jules Ferry, 1832-1893)は、1881 年と 1882 年に初等教育に

関する法を制定し、無償、義務、世俗的な公教育(l’instruction publique gratuite,obligatoire et laïque)

という共和国の教育を基礎付ける。これらの概念は、教育の分野において、自由、平等、博愛

の概念に対応するものである。無償であることは、あらゆる人が、未来の市民の形成に貢献す

るという博愛の原理の翻訳であり、義務であるということは、知識のアクセスに関して個人間

の平等をかたちづくるものであり、世俗的であるということは、個人の意識の自由を保障する

ものである24。こうして名実ともにフランス革命が歴史上の事件ではなく、現代にも生きる概

念として制度化される。1830 年代からはじまる教育闘争は、教会だけでなく、革命原理との折

衷でもあった。

次に、哲学と歴史の折衷として、「公認の哲学史」の制定が問題となる。

1830 年以前、クーザンは哲学史の概念に折衷主義を方法として持ち込む。近代フランス哲学

史上、自らの立場を折衷主義として積極的に標榜したのは、ディドロである。『百科全書』の項

目「折衷主義」でかなりの頁数をさいているが、まず彼は、折衷主義者としてブルッカー(Jacob

Brucker, 1696-1770)をひきあいにだす25。ブルッカーはさまざまな哲学史を描き、近代哲学史の

祖とも言いうるドイツの哲学史家である26。その上で、ディドロは、ベーコンとデカルトを近

代の折衷主義者として評価している。

クーザンの折衷主義は、さしあたってディドロのそれを受け継いだものではない27。19 世紀

初頭のスピリチュアリズムの傾向として、18 世紀哲学-とくにコンディアックであるが-、に

対して批判的な面があるが、反キリスト、反伝統に関しては、行き過ぎを認めない限りクーザ

ンとディドロに共通点はある。ベーコンやデカルトの評価も同様であるが、まず何よりもクー

22 フランソワ・フェレ/モナ・オズーフ編『フランス革命事典 7 歴史家』河野健二・阪上孝・富永茂樹監訳、

みすず書房、2000、項目「大学における革命史」。 23 伊東道生「哲学史の変奏曲」(『カンティアーナ』第 23 号、大阪大学文学部哲学哲学史第二講座(大阪カント

アーベント)、1992.これ以前に、十九世紀前半のフランスでは、歴史哲学とはっきり銘をうったものは多く

ないが、T.Jouffroy の論文にしろ、フィヒテをはじめ、ドイツ哲学の影響を受けた Barchou de Penhoën の『歴

史哲学』にしろ、フランス革命をまともに取り上げているものは少ない。 24 Anthologie proposé par Philippe Muller, Vive l’école republicaine !, Liblio,1999. 25 D.ディドロ「折衷主義」大友浩訳、小場瀬卓三/平岡昇監修『ディドロ著作集 2 哲学Ⅱ』法政大学出版

局、1980, 所収。 26 伊東道生、前掲論文。ブルッカーの哲学史は、簡約本や訳書も多数あり、フランスの初期哲学史家である A.F.

Burteau-Deslandes (1690-1757)、J.M. de Gérando (Degérando) 等は当時顧みられなかったようである。 27 Victor Cousin における初出は、1817 年 12 月の講義である。「ロックやカントとともに、真理が見出されると

ころには、どこにでも・・・折衷主義と呼ぶものがみうけられる」。Victor Cousin, Cours de L’histoire de la philosophie, Pichon et Didier,1828.

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哲学の制度化と折衷主義

- 103 -

ザンが、哲学史の正統化として引き合いに出すのは、ライブニッツである。「プラトンやアレク

サンドリア学派の思想にすでにあり、たえず、ライブニッツによって実践され、新しいドイツ

哲学の豊かな視点のあらゆる箇所から噴出してくる」28。そのうえで、ヘーゲルと同じように

哲学と哲学史の同一視をする。しかし、「哲学史と哲学の同一化は、まったく単純に、哲学をそ

の歴史に還元することである」。哲学の内容を歴史に探る、つまり「折衷主義の教説の素材は、

したがって歴史の中にある」というようにである。さらにこの方法は、ヘーゲル流の思弁的方

法ではなく、実験的(経験的)方法と、思弁的方法を併せ持った折衷的なものである。「観察に

制限されるなら、哲学は懐疑主義の宣告をされる。観察をおろそかにすると、仮説になってし

まう」。真の道は、「理性の不順な飛躍と、不毛な観察という不幸な出来事に縛り付けられた臆

病な智恵との中間 un juste milieu である」29。実験的方法と思弁的方法、すなわち 18 世紀フラ

ンス哲学の実験的(経験的)方法とドイツ形而上学の思弁的方法との折衷、さらに、体系と哲学

史と心理学とが折衷されているのである。しかしながらその結果導出されるのは、感覚主義、

懐疑主義、観念論、神秘主義の循環というかなり怪しげな図式である30。

さて、より具体的な哲学史に関しては、1830 年以降、教育体制に組み込まれたものが証とな

ろう。

ここでは中等教育の要とされたバカロレアを見てみる31。 1832 年のアレテ(Arrêté du 28 sep.

1832)で決められたプログラムによれば、ラテン語はバカロレアで廃止され、哲学の授業はフラ

ンス語でされる。そして、クーザンによるバカロレアの構成はこうなっている。

序(Introduction)、心理学(Psychologie)、論理学(Logique)、道徳(Morale)、哲学史(Histoire

de la philosophie)(それぞれ各項目に細目として質問が付加されている)。

1840 年 3 月 1 日付けの公教育省宛て報告では、若干の改訂がある。

全体に簡素化され、道徳は、道徳および弁神論(Morale et Théodicée)となり、家族への義務が

28 Victor Cousin, Fragments philosophiques, Ladrange, 1833. Baruchou de Penhoën の『ドイツ哲学史』(Histoire de la

philoosphie allemande, depuis Leibnitz jusqu’à Hegel, Charpentier Èditeur-Libraire, 1836.)をはじめ、ライブニッツ

は、近代ドイツ哲学の祖とされる。おそらく、ブルッカーならびにアカデミーを含め、ヴォルフ学派のかな

りの影響が、ライブニッツの位置付けに寄与していると思われる。 29 Martial Gueroult, Histoire de l'histoire de la philosophie, Aubier, 1988. Juste Milieu とは、七月王政、とりわけロワ

イエ=コラールやギゾー等「純理派」の合言葉である。王権主義も過激な民主政治も拒否し、富裕層にのみ

選挙権を与える([金持ちになりたまえ]ギゾー)、文字通り「中道右派」である。個人の自由、出版と言論

の自由を認めながらも、敵対者には制限を加える。トクヴィルやマルクスはこれを狭窄な利己主義的階級の

発露とみなしている。クーザンの政治哲学は、この中道右派を基礎付けるものである。 30 Victor Cousin, Cours de l’histoire de la philosophie, introduction à l’histoire de la philosophie, Pichon et Didier, 1828. 31 1830 年代半ばから、とくに 40 年代に入って、哲学教師によるバカロレア向けの教則本(manuel, programe,

élélments, cours といった表題)が多量に出版されるようになり、中等教育のプラグラムの浸透が伺える。これ

と平行してライブニッツも含め近現代哲学としてのドイツ哲学史も盛んに研究されるようになり、哲学史そ

のものだけでなく、哲学史に対するドイツ哲学の影響も見られる。アカデミーの懸賞論文にも掲げられる。

しかし、クーザンにとってはこれも折衷的である。「私はあなたのエンチクロペディーを待望しています。私

はそこからいつも何かをつかまえるでしょうし、あなたの偉大な思想のいくきれかを私の身長に合わせるよ

うに努力するでしょう」(1826 年 8 月 1 日のヘーゲル宛ての書簡、下線は筆者記、K.ローゼンクランツ『ヘ

ーゲル伝』中野肇訳、みすず書房、1983.)。なお、哲学史についてのアカデミー懸賞論文の項目については、

伊東道生「ねじ曲げられたフィヒテ」(『フィヒテ研究』第4号、日本フィヒテ協会編、1996 年)参照。

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哲学の制度化と折衷主義

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追加され、市民の権利と財産の基礎と並べられる32。これは当時の教育論争の影響と思われる。

最後の項目に取り上げられている「哲学史」は、30 年代から 40 年代、50 年代ほとんど変化は

ない。1833 年以降、提示されるアカデミーの懸賞論文の項目もほぼ、この公認哲学史に沿って

いる。細目はこうなっている。

[哲学史]

・ 哲学史の研究にはいかなる方法が、用いられるか

・ 哲学史は、いくつの一般的時代(époque générale)に分けられるか

・ ソクラテス以前のギリシア哲学の主要学派を明らかにせよ

・ ソクラテスと彼が作者となった哲学革命を明らかにせよ

・ ソクラテスからアレクサンドリア学派の終わりにいたる主要なギリシア学派を明らか

にせよ

・ 主要なスコラ哲学者は誰か

・ ベーコンの方法はいかなるものか-Novum Oragnum を分析せよ

・ デカルトの方法はどこに存するか-Discours de la Méthode を分析せよ

・ ベーコンとデカルト以降の主要な近代学派を明らかにせよ

・ 哲学自身にとって、哲学史の研究からどういう益がひきだせるか

一瞥して理解できるように、古代、スコラ、近代のきわめて明快(安易)な、哲学史である

が、これが中等教育、そして高等教育に伝えられていったのである。

哲学の制度化と教育の国家管理を軸にした、クーザンの国家戦略はさらに続く。自分の弟子

を各地方の大学に送り込み33、哲学史にもとづいた著作を翻訳し、全集版34を出版していく。そ

の一つの成果といえるものが、クーザンの弟子 Adolphe Franck (1809-1893) 指導による『哲学事

典』35である。折衷主義をディドロから引き継いだものではないとはいえ、クーザンと折衷主

義学派の「哲学的百科全書」が出来上がったのである。ここには今では見られない「フランス

哲学」「ドイツ哲学」といった、国名を冠した哲学の項目がある。

1848 年の革命と第二共和政によって、折衷主義学派は後退を余儀なくされたとはいえ、十九

世紀にふさわしい「国家(国民)哲学 National Philosophy」は、こうして準備されていった。

(いとうみちお 東京農工大学助教授)

[キーワード] 折衷主義 制度化 教育 哲学史 教会

32 Victor Cousin, Œuvre de Victor Cousin Instruction publique , tome deuxième, Gagnerre, 1850. 33 例えば、Damiron はパリ大学、Bouiiler はリヨン、Gatien-Arnout はトゥルーズなど。クーザンも 1840 年に

8 ヶ月公教育省大臣になる。 34プラトン全集(1822/40)、デカルト全集(1824/26)など。

35 Dictionnaire des sciences philosophique, une société de professeurs de philosophie, 1844-47, 2º éd. Hachette, 1875.

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美的判断は本当に普遍性をもつのか?

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美的判断は本当に普遍性をもつのか?

甲田純生

1 序

J.デリダは、『判断力批判』に関する論考「パレルゴン」の中で、次のように述べている。

「第三『批判』の核心ないしは根底が何であるか …… このことほど決定しにくいことはほか

にないように思われる」1。『判断力批判』がいかなる目的をもって書かれた書物であるのかに

ついて、我々は哲学史の常識として多くのことを知っている。すなわち「それは二つの批判を

橋渡しするために書かれた」、「美という現象の分析を通して、合目的性を判断力の原理として

基礎付けるために書かれた」、「目的論的世界観の構築のために書かれた」…… 等々。ところが

実際にテクストにあたってみると、我々はこれらの課題に対するカントの回答をはっきりと見

いだすことができないばかりか、この書が我々をどこへ連れて行こうとしているのかすら、は

っきりとは見きわめがたい。『判断力批判』を読んだときに抱くこのような印象の原因の一つは、

カントが読者をあちこちに寄り道させるように見える、というところにある。共通感覚論しか

り、美の理想しかり、崇高論しかり、美への知的関心しかり、天才論しかり…等々。『判断力批

判』にちりばめられたこれらのモチーフが相互にどのように関係しあい、どう主題へと収斂し

ていくのかが、見えにくいのである。他の二つの批判書と異なり、『判断力批判』においてカン

トは読者を霧の中に置き去りにして一向に憚らないかのようである。

霧の中を進むためには、明らかなこと、確実なことから少しずつ歩を進めるしかない。例え

ばこの書のキーワードは「合目的性」である。これは周知の事実であり、またこの語が『判断

力批判』で使用される頻度から考えても間違いない。また、この書の出発点もはっきりしてい

る。美の分析である。ところが、カントはその出発点においてすら、「美的判断はある種の普遍

性をもつ」と言って、我々を困惑させる。この発言が我々を困惑させるのは、その発言内容も

1 J.デリダ「パレルゴン」(『絵画における真理・上』高橋允昭、阿部宏慈訳、法政大学出版局、1997 年)103

頁。

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美的判断は本当に普遍性をもつのか?

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さることながら、カントが、それをあたかも当然であるかのごとく語るからである。美的判断

は、本当にカントの言うように、ある種の普遍性をもっているのであろうか?

先に挙げた論考「パレルゴン」の中で、デリダは次のようにも語っている。「第三『批判』は

本質的な仕方で …… 反省的人間主義と名づけられるようなものに依存している。人間学への

このような依拠は、この書の権利上・形式上の審級において認められ、その内容によって、美

感的判断力に関するこの純粋と称する演繹の上に、大々的にのしかかっている」2。『判断力批

判』というテクストは、その背後にいくつかの前提を隠しもっている。ここでデリダが言って

いる「人間主義」はその最たるものである。その「人間主義」は、『判断力批判』の重要な箇所

でつねに大きな磁場を形成し、この書を決定的に方向づけている。そのことを見極めるために、

ここでは、「美的判断はある種の普遍性をもつ」というカントの主張をあらためて問い直し、美

の普遍性およびその演繹に関するカントのディスクールを分析することを通して、カントのテ

クストが隠している前提を明るみに出そうと思う。

2 美的判断における普遍性

2-1 無関心性からの導出

まずは美的判断の普遍性に関するカントの議論を追っておこう。美的判断の普遍性は、分析

論における「趣味判断の第二の契機」においてはじめて導入される。第一の契機において「美

の無関心性」を確認したカントは、さしあたりこの「無関心性」から直接、美的判断の普遍性

を導き出す。つまり、美的判断は無関心性にもとづく、いいかえれば「美しいものにおける満

足‥は主観のどのような傾向性にも基づかず、かえって判断者は、彼が対象に寄せる満足に関

しては、己を完全に自由と感じるのであるから、彼は満足の根拠として自分の主観だけが依存

するであろうような個人的制約を見出しえず、したがって趣味判断には …… あらゆる人にと

っての妥当性の要求が結びついていなければならないのであるが、それは客体に置かれた普遍

性を離れてのことであるから、趣味判断に結びつくのは主観的普遍性への要求でなくてはなら

ない」(211f.)3のである。

もちろんここでの議論は「美は無関心性に基づく、つまりは美的判断は個人的な制約から離

れたところで成立するものであるのだから、何らかの普遍性を要求できるだろう」という要求

ないしは推論のレベルにとどまるものであって、美的判断の普遍性をなんら保証するものでは

ない。

上の引用から明らかなことは、①美的判断は普遍性を要求するが、②その普遍性は客体に置

かれた普遍性ではないから、主観的普遍性と言うべきものである、ということである。では、

美的判断が要求することのできるこの特殊な「普遍性」(主観的普遍性)とはどのようなもので

あろうか。

2 前掲書、176 頁 3

『判断力批判』からの引用は、アカデミー版カント全集第 5 巻のページ数を、引用の後の括弧内に示す。

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美的判断は本当に普遍性をもつのか?

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2-2 二つの普遍 普遍的賛同(投票)と普遍的伝達可能性

この問いに答える前に、注意しておかなければならないことがある。それは、「普遍性」に類

似する表現として、「普遍的賛同(投票)(allgemeine Stimme)」と「普遍的伝達可能性 (allgemeine

Mitteilbarkeit)」という二種類の表現を、カントがテクストの中で使っていることである。美的

判断の要求する「普遍性」の内実を考える上で、両者を区別しておくことは重要である。

結論から言えば、美的判断の要求する特殊な普遍性とは、普遍的伝達可能性のことではない。

なぜなら、カント自身「認識および判断は、それらにともなう確信とともに、普遍的に伝達さ

れうるのでなければならない」(238)と述べているように、普遍的伝達可能性とは、すべての認

識・判断が伴わなければならない普遍性であり、美的判断にのみともなう特殊な普遍性では決

してないからである。

2-3 普遍的賛同の内実

したがって、美的判断の要求する特殊な普遍性とは「普遍的賛同」に他ならない。それは、

カントが『判断力批判』の第 8 節で述べている次の言葉からも明らかである。「ここにおいては

次のことが認められるべきである。すなわち、趣味の判断のうちに要請されるものは、概念に

媒介されない満足に関するそうした普遍的賛同、したがって同時にあらゆる人に対して妥当す

るとみなされうるような美的判断の可能性に他ならないのである」(216)。

では、普遍的賛同とはいかなる普遍性であるのだろうか。それは当然のことながら、自然法

則がもつような普遍性ではありえない。いいかえれば、すべての人にあまねく妥当するような

ものではありえない。実際カント自身も「反省趣味については、その判断(美しいものに関す

る)があらゆる人に対して普遍的妥当性を要求したとしても、その要求は経験の教えるとおり、

拒否されることがしばしばである」(214)ことを認めている。

美的判断がある種の普遍性を要求する、とカントが言うとき、カントは allgemein という語の

日常的な用語法に従っている。この語はその通常の使用においては、「多くの人において当ては

まる」ということを意味するにすぎない。つまり普遍的賛同の内実とは、ある人が「このバラ

は美しい」と言ったならば、他の人もだいたいにおいてその意見に賛同するであろう、という

ことに他ならない。だからこそカントは、先の引用文で「趣味の判断のうちに要請されるもの

は …… あらゆる人に対して妥当するとみなされうるような美的判断の可能性に他ならない」

(下線筆者)と言っていたのである。

2-4 美的判断の要求する必然性の謎

美的判断の要求する普遍性が以上のようなものであるとするならば、美的判断に対しての、

次のようなカントの要求は、過剰なものであるように思われる。「美しいものについては、我々

は、それが満足へのある必然的関係をもつと考える」(236)。「趣味判断はある普遍性と必然性

とを申し立てる」(286)。カントは、美的判断にはある必然性があると言っている。この必然性

の内実は、第 22 節における次の言葉で明らかになる。「…… 共通感覚は、ある当為を含む判断

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美的判断は本当に普遍性をもつのか?

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に権利を認めようとするものである。すなわち共通感覚は、あらゆる人が我々の判断と一致す

るであろう、ではなく、あらゆる人が我々の判断と合致するべきである、と言うのである。そ

して私はここで、趣味判断をそういう共通感覚の判断の一例として示しているのである」(239)。

このカントの発言からわかるように、美的判断の要求する必然性は、「当為」の必然性なのであ

る。ある人が「このバラは美しい」と言ったならば、他の人も「美しい」と言うべきだ、と言

うのである。

最初、あらゆる人に対して妥当するとみなされる可能性が要求されていたにすぎない美的判

断に対して、カントは、記述が進むにつれて徐々に、「当為」の必然性を要求し始める。

カントは一体何に基づいて、これほど過剰な要求を美的判断に背負わせるのであろうか。論

理的手続きに従えば、その根拠は当然、演繹論に求められるはずである。しかしながらこの疑

問は、カントが行う演繹を見ても一向に解消しないのである。この疑問を念頭に置きながら、

とりあえず演繹論を検討してみよう。

3 美的判断の演繹論の検討

カントは演繹論の冒頭で「美的判断は、あらゆる主観に対する普遍的妥当性を要求するが、

この要求は、なんらかのアプリオリな原理に基づかねばならない判断として、演繹を必要とす

る」(279)と述べた上で、第 31 節でその演繹の課題を具体的にこう述べている。「ある対象の形

式の経験的表象がもつ主観的合目的性を表現しているある個別的判断、この判断の普遍妥当性

を、判断力一般に関して示すべきである。これは、あるものが単に判定されることにおいて(感

官感覚ないし概念を離れて)我々に満足を与えうることがどのようにして可能であるかを説明

するためであり、また認識のために対象を判定することが一般に普遍的規則をもっているのと

同様に、ある一人の人の満足が他のあらゆる人に対しても規則として告げられてよいというこ

とがどのようにして可能であるかを説明するためである」(280f.)。

カントのこのような所信表明とは裏腹に、「趣味判断の演繹」と題された第 38 節は、そのあ

まりの短さとあっけなさで、読む人を驚かせる。

「判断力は、判定の形式的規則という点から見れば、いいかえれば一切の質料(感官感覚

も概念も)を欠いた場合には、判断力一般(これは特殊な感官のあり方にも特殊な悟性概

念にも適合しない)を使用する際の主観的諸制約へと向けられうるにすぎない。すなわち、

すべての人間に(可能な認識一般にとって必要なものとして)前提されうる主観的なもの

へと向けられる。ゆえにある表象が判断力のこの制約と合致することは、あらゆる人に妥

当するものとしてアプリオリに想定されうるのでなければならない。」(290)

これが演繹のすべてである。この演繹の直後にある注でカントは、①判断力の主観的制約が、

認識能力と認識一般との関係に関しては、すべての人間において同一であること、②美的判断

は判断力の形式的制約を顧慮しただけのものであり、純粋であること、この二点が認められれ

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ば演繹は十分であると述べている。

上の演繹で言われている「判断力一般を使用する際の主観的諸制約」とは、第 35 節によれば

「構想力と悟性の調和」のことである。とすれば、演繹は「美的判断において働く構想力と悟

性はすべての人に備わるアプリオリな能力であるから、その判断も普遍性を要求できる」とし

か言っていないように見える。もしそうであるならば、この演繹は明らかに不十分である。な

ぜなら、円谷裕二氏も指摘しているように、ここで示された根拠は「認識判断をも含めた判断

一般の根拠であり、したがってそれは、趣味判断に固有の根拠とは言えないからである」4。

第 35 節を詳細に検討すれば、美的判断において働く構想力と悟性の状態は、単なる調和では

ないことがわかる。つまり、「構想力と悟性の調和」は判断力が働くときの一般的制約にすぎな

いが、美的判断については次のように言われているからである。「趣味判断は、自由のうちにあ

る構想力と、合法則性をともなう悟性とが相互に活気づける活動が単に感覚されることに基づ

かねばならない。それゆえそれはある感情 ― 自由に戯れる認識諸能力の活動を促進するこ

とへ向けて表象(これによってある対象が与えられる)が示す合目的性にしたがって、対象を

判定させる感情 ― に基づかねばならない」(287)。要するに、美的判断において働く構想力

と悟性の状態は、単なる調和ではなく「戯れ」なのである。しかしながら、「調和」が「戯れ」

になったからといって、それですぐさま演繹の課題が成就されたとは到底思われない。

演繹論は、美的判断がもつとされる普遍性の根拠づけに、はたして成功しているのであろう

か。またカントは何を根拠にして、美的判断に対して「当為の必然性」を求めるのであろうか。

これらの問いに答えるヒントは、合目的性の概念そのもののうちに隠されている。

4 合目的性概念の両義性

合目的性の概念は(序論を除けば)「趣味判断の第三の契機」において導入される。それは周

知のように、『判断力批判』を貫くキーワードであり、この書の中で最も重要な概念である。

この合目的性の概念について、E.カッシーラーは『カントの生涯と学説』の中で次のよう

に述べている。「十八世紀の言語使用では『合目的性』は、もっと広い意味で用いられる。すな

わち、多様なものの諸部分が一つの統一へと調和していることのすべてに対する一般的表現と

して用いられる。その際、この調和が何に基づき、いかなる源泉から由来するかは問われない。

この意味で『合目的性』という言葉は、ライプニッツが彼の体系の中で『調和(ハルモニー)』

という表現で示した概念の、その書き換えとドイツ語への翻訳を表しているにすぎない」5。

確かにカッシーラーの言うように、当時の言語使用においては、合目的性という言葉はその

ような使われ方をしていたのかもしれない。しかしながら、合目的性の概念を「調和」と置き

かえることによって、決定的に重要なことが『判断力批判』のテクストからこぼれ落ちていく

のである。それは、合目的性の概念がカントのテクストのうちで孕むある〈ズレ〉のうちに見

4 円谷裕二「美の両義性と道徳」(『カント読本』浜田義文編、法政大学出版局、1989 年)238 頁。 5 E.カッシーラー『カントの生涯と学説』(門脇卓爾、高橋昭二、浜田義文監修、みすず書房、1986 年)305~

306 頁。

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美的判断は本当に普遍性をもつのか?

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出される。

カントのテクストを詳細に検討すると、合目的性の概念は、非常に重要な、二つの使われか

たをしていることに気付く。「第三の契機から推論される美しいものの定義」は次のように書か

れている。

「美とは、ある対象の合目的性が目的の表象をもたずに対象において知覚される限り、こ

の対象の合目的性の形式である。」(236)

また序論には次のような記述も見える。

「…合目的性は客体の認識に先行し、それどころか客体の表象を認識に使用しようとする

ものでもないが、にもかかわらず客体の表象と直接に結び付けられる。そのような合目的

性は、全く認識の一部とはなりえないものであり、客体の表象の主観的なものである。し

たがってこの時対象は、ただその表象が直接に快の感情と結合しているゆえにのみ、合目

的的と呼ばれるのであって、この表象そのものが合目的性の美的表象なのである。」(189)

ここで言われている「合目的性」とはもちろん、「目的なき合目的性」のことである。カント

は、「目的なき合目的性」「主観的合目的性」「形式的合目的性」「主観的・形式的合目的性」など

いくつかの表現を使っているが、これらはさしあたりは同じ意味である。これらの概念が意味

するところは、要するに、ある対象(の表象)が、実質的には目的をもってはいないにもかか

わらず、「合目的性の形式」だけは備えている(いいかえれば「あたかもある目的をもっている

ように見える」)、ということである。美的対象について言えば、美しい対象が、あたかも我々

に快を与えるという目的をもっているかのように見える、ということであり、これが美的対象

のもつ形式的合目的性である。

形式的合目的性の以上の規定から確認しておかなければならないことが二つある。第一に、

ここでは合目的性は対象(の表象)について言われている。合目的性の形式を示しているのは、

あくまでも美的対象なのである。第二に、合目的性の概念は単に「調和」を意味しているわけ

ではない。この概念は、ある種の「方向づけ」を含意している。そうでなければ、ある対象は

「ある目的をもっているように」は決して見えないであろう。美しい対象は我々を喜ばせるた

めに(für uns) 存在しているように見える。いいかえれば、その対象のもつ美しさは「我々へ(für

uns)」と向けられているのである。もちろんこの「方向づけ」は実質的なものではない。対象

の美は、我々を喜ばせるために、我々のほうへ向かっている「かのように」見えるだけである。

合目的性の概念のうちにこのような「方向づけ」を読み込むことは、『判断力批判』を読む上で

決定的に重要である、ということを念頭におきながら、合目的性に関する次の用例を見てみよ

う。

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美的判断は本当に普遍性をもつのか?

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「…悟性の合法則性へと構想力が自由に一致することのうちに存する主観的合目的性 ―

それは求められたものでも意図的なものでもない ― は …… ただ主観の自然だけが生

み出しうるような、これらの能力の釣り合いと調和とを前提する。」(318)

「…… 美しいものが判定されるのは、概念に従ってではなく、構想力が概念一般の能力と

調和に向かって合目的的に調子づけられることにしたがってでなくてはならない。」(344)

ここで言われている「主観的合目的性」や「合目的的」という言葉は、対象の表象について

ではなく、認識能力について言われている。対象の表象が合目的的なのではなく、我々の認識

能力が合目的的なのである。つまりカントが『判断力批判』の中で、「主観的合目的性」や「合

目的的」という言葉を使うとき、それが対象の表象について言われている場合と認識能力につ

いて言われている場合とがあるのである(後者の場合、「合目的性」という名詞の形ではなく、

「合目的的」という形容詞ないしは副詞の形で用いられることが多いようである)。

ここでまず問題となるのは、我々の認識能力(構想力と悟性)が合目的的に調和するという

ことはどういうことなのか、ということである。それは確かにカッシーラーの言うように、あ

る種の「調和」ではあるが、単なる「調和」でもない。というのも、先に確認したように、合

目的性の概念はある「方向づけ」を含んでいるからである。とすれば、美的判断における認識

能力の調和が合目的性を示すのであれば、そのとき我々の認識能力はどこかに向かって、意図

せずして「方向づけられて」いなければならないはずである。

合目的性が対象の表象について言われている場合、対象(の表象)は我々の認識能力に向け

られていた。では、美的判断における認識能力の自由な戯れは、一体どこへ向かって方向づけ

られているのであろうか。

5 道徳の象徴としての美

カントは美的判断力の弁証論の中で次のように言っている。「趣味判断はなんらかの概念に関

係しなければならない。でなくてはあらゆる人に対する必然的妥当性を要求することは絶対に

不可能であるであろう。…我々がこのような見地をとらなければ、趣味判断の普遍妥当性への

要求は救われえないであろう」(339f.)。ここでは、美的判断が要求する普遍妥当性と必然的妥

当性が「何らかの概念」に基づいていることが言われている。この概念が「超感性的なものの

理性的概念」であることは、弁証論の記述から明らかである。もちろんこの概念は美的判断の

うちにあるわけではない。美的判断は、この概念へと関係づけられることによって、普遍性と

必然性を獲得するのである。いいかえれば、美的判断における認識能力の自由な戯れは、超感

性的なものの概念に向かって方向づけられているのである。

この方向づけは、美的判断力の批判の最終節(第 59 節)においてさらに具体化される。そこ

でカントは次のように言う。「私は、美しいものが道徳的に善いものの象徴であると言う。そし

てただこの点を顧慮してのみ …… 美しいものは、あらゆる他の人の賛同への要求を伴って、

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美的判断は本当に普遍性をもつのか?

- 112 -

我々に満足を与える」(353)。美は道徳の象徴である、とカントが主張するのは、道徳的善へと

向かう我々の認識能力の状態と、美的判断における認識能力の状態とが類比的であるからであ

るが、このことは次のことを意味している。すなわち、美しい対象を前にしたとき、構想力と

悟性はお互いを生気づけあい自由に戯れながら調和するが、この戯れは、意図せずして、道徳

性へと向かっているのである。これこそが、「構想力が概念一般の能力との調和に向かって合目

的的に調子づけられること」(下線筆者)の内実である。美は決して道徳的善を意図しているわ

けではないが、にもかかわらず、美を前にしたとき、我々の認識能力は、意図せず道徳的善へ

と向かう性向がある、とカントは言いたいのである。

ただし、一つ注意が必要である。このように我々の認識能力が意図せずして道徳性へと向か

うのは、自然美を前にしたときだけである。なぜなら、「超感性的なもの」へと我々を誘うのは

自然美だけであり、また「芸術美…に対する関心は、道徳的善につながる思惟様式、あるいは

単に道徳的善へ傾向する思惟様式の証明とはならない」(298)ことが経験的にも認められるから

である。

以上のことから、カントが美的判断の普遍性と必然性を主張したことの意味および演繹論の

意味が明らかになるだけでなく、カントの議論が前提としている人間主義が明るみに出る。カ

ントは、道徳的に陶冶された人間だけが、自然に対して美を感じる、と暗黙のうちに考えてい

る。しかも、それを単なる経験的事実としてではなく、ある種普遍的な事実として前提してい

るようである。だからこそ美的判断のもつ普遍性は「普遍的賛同」なのであり(なぜなら、道

徳的に陶冶されていない人は自然に美を見いださないであろうから)、にもかかわらず美的判断

は当為の必然性を要求するのである(なぜなら、我々が道徳的に陶冶されることは当為の必然

性をもち、したがってそのように陶冶された人間は当然自然を美しいと感じるはず(べき)だ

からである)。

また演繹論は、構想力と悟性の自由な戯れが道徳性へと意図せず方向づけられているという

ことを前提にした場合にのみ、美的判断の普遍性と必然性を根拠づけることができる。しかし

なぜ「構想力と悟性の自由な戯れが道徳性へと意図せず方向づけられている」のかは、我々に

は謎のままである。結局のところ、「美は道徳の象徴である」(厳密には「自然美は道徳の象徴

である」と言うべきであろう)と主張する第 59 節は、美的判断力の批判の結論なのではなく、

批判の全体が依拠してきた前提に戻ってきたにすぎない。

最後に本論考の表題へと戻ろう。美的判断は本当に普遍性をもつのだろうか。カントの議論

に従えば、普遍性を保証されるのは、自然美に対する美的判断だけである。道徳的人間だけが

自然に美を見出しうるという前提を認めたうえで。

(こうだすみお 広島国際大学助教授)

[キーワード]

美的判断 普遍性 合目的性 道徳 象徴

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対象と自己意識

- 113 -

対象と自己意識 ―「三段の綜合」における自己意識 ―

壹岐幸正

『純粋理性批判』の「純粋悟性概念の演繹」は、純粋な悟性概念であるカテゴリーがいかに

して経験に妥当し得るかの証明を目的とする。それは純粋な自己同一性の意識である「超越論

的統覚」の概念によってなされる。ところが、意識の持つこの自己意識であるという性格(反省

的・自己言及的性格) は、一見十分な根拠づけなしに無造作に前提されているかのようである。

果たしてそうだろうか。第一版では、カントは演繹の本論に先立つ節で、読者の理解を容易に

すべく準備的な説明を行なっている。「三段の綜合」で知られるこの箇所は、カントが自己意識

の概念をいかに導出(厳密な証明によるものではないにしても)しているかを見る、格好の部分

であると思われる。一方で、この箇所はさまざまな要素が整理不十分なまま並べられ、叙述に

混乱が見られるように思われる箇所でもある。本稿では、この自己意識導出の過程と、加えて、

直観的表象の成立と判断の関係を中心に、三段の綜合を検証してみたい。

1 「再生の綜合」が可能であるための条件

感性的直観によって与えられる多様を、我々認識主観は一挙に知覚するわけではない。一瞬

のうちに与えられた多様は単なる雑多であって、決して表象にはならないだろう。そのような

多様から一つの表象が生じるには、我々に多様な印象を時間のうちで順次受けとり、それらを

結合して統一する綜合のはたらきがなくてはならない。カントはこれを「直観における覚知の

綜合」と呼ぶ。この綜合は綜合である以上、感性に属する働きではない。

覚知の綜合はだが、先に取り入れられた印象を再生する働きを前提する。諸印象が時間とと

もに消失してしまったのでは、相前後して受けとられた印象を結合することができず、したが

って一つの表象は生じないだろうからである。この再生作用をカントは構想力(再生的構想力)

に帰し、この綜合を「構想における再生の綜合」とした。この作用で構想力は「連想」を原理

とするが、連想は現象に現実にある合法則性があることを前提としている。

再生の綜合が可能であるためには、もとの印象とその再生されたものとの同一性が保証され

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対象と自己意識

- 114 -

ねばならず、そのためには印象を再生する認識主観の側の、その過程を通じての同一性が必要

である。「概念における再認の綜合」と名づけたこの作用を可能にする条件として、カントは意

識の同一性を導入する。超越論的統覚の概念が示されるこの再認の綜合の箇所は、三段の綜合

の中でもとくに重要と思われる。そこで、ここでは議論を少し詳しく追うことにする。

「我々が考えているものが、まさに我々が一瞬前に考えていたのと同じものだ、という意

識が無ければ、表象の系列におけるあらゆる再生は無駄になるだろう。」(A103)1

この節で最初に「意識」という語の出て来る文である。再生された印象と新たな印象とが識

別されなければ、すべてがその時々に得られた新たな印象であると同じで、再生は成り立たな

い。この主張は一見したところ、問題無く受け入れられる。ただし、ここでいう「意識」がど

のような意識か、また、いかにして印象の同一性の確認がなされるか、は、ここではまだ不明

である。前者に関していえば、これが対象に向かうだけの意識なのか、反省的な自己意識の性

格を持つ意識なのかが、この短い説明ではわからず、また「我々」が特に意味の無い主語なの

か、あるいはここにすでに自己言及が含まれているのかも判然としない。後者については、こ

れが判断ではなく判断成立前の、直観的表象の成立の局面を述べていることを考えると、果た

してどのような説明が可能なのか、疑問である。二つのものの同一性が確認できるからには、

そのそれぞれについて既に何らかの認識があると考えられるからだ。

カントは上の部分に続けて、この意識が再生の綜合に必要な統一を与える、とも述べている。

また、その綜合の統一の意識の中でのみ、概念は存立し得る、とも言う。

「というのも、この一つの意識が、多様なもの、次々に直観され、そしてまた再生された

ものを、一つの表象へと統一するものだからである。この意識はしばしば微弱で、我々は

それを働きの結果において、だがその作用自体においては、つまり、表象の産出と直接に

は、結びつけないということもありうる。」(A103ff.)

対象意識が当の対象を意識していてなおかつ微弱だということはありえない。また、対象意

識を表象の統一の作用に向けることもありえない。ここで、「意識」とは「自己意識」を伴うそ

れを指していることが読みとれる。ならば、遡って、最初の引用にあった意識も、意識が綜合

に必要な統一をもたらす、という表現からして、自己意識を伴うものと考えてよいだろう。カ

ントはさらに、「それ[意識]なしには、概念、そしてそれとともに対象の認識も、まったく不可

能になるだろう」(A104 [ ]内は筆者補足)とも述べている。先の引用部は(少なくとも表面的には)

直観的表象の成立の条件としての意識を述べたものであるのに対し、この引用部の意識が認識

との関わりで述べられているのは明らかである。そして、以降の段落で、カントは超越論的対

1 『純粋理性批判』からの引用は文中( )内に慣例にしたがって示す。

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対象と自己意識

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象の概念を導入し、それに対応するものとして超越論的統覚を提示する。この超越論的統覚が

あらゆる経験に先立ち、それを可能にする条件とされるのである。

カントの議論を整理すれば、次のようになる。我々の直観は時間にしたがう。異なった時点

に得られた諸印象を統一して一つの知覚表象にするには、先行する印象を保持、再生して新し

い印象と結びつけなければならない。ところが、再生が意味をなすには、再生された印象と元

の印象の同一性が保証されねばならず(別のいい方をすると、再生された印象がまさに再生され

たものと確認されねばならず)、そのためには時間を通じて同一の自己意識が必要である。この

意識が、とりも直さず、経験を可能にする原理である。

問題は2つある。(1)カントは意識を自己意識の性格を持つものと前提しているように見える。

そのとおりだとしたらそれは認められるか。違うとしたら、その導入に際して論拠は示されて

いるか。(2)カントは知覚表象成立の局面から、断わりなしに認識成立の局面に移行している。

これは議論の必然的な展開だろうか。もし(1)で意識の自己言及的性格を認め、(2)で認識の局面

を論じることを認めれば、カントの議論は大方認められるだろう。だが、その場合には、「三段

の綜合」の議論自体が無用の長物化する。カントがこの節で見出したのは、経験を可能にする

原理としての超越論的統覚、つまりア・プリオリな自己意識である。(1)(2)を認めるということ

は、経験(認識)の局面で自己意識を前提に議論をする、ということになり、それならば三段の

綜合に触れなくても構わないはずである。(1)(2)が否定されるなら、それぞれを議論に沿って、

新たな前提を加えること無く、導き出さなくてはならない。さらに、上の 2 つと関係があるか

もしれない問題として、(3)再生印象の同一性確認の可能性をどう説明するか、も検討を要する

問題である。

2 対象概念と意識の同一性

カントは「覚知の綜合」「再生の綜合」では「意識」という語は用いてはいない。だが、知覚

が意識でないことはありえないから、ここでも意識は前提されているはずである。この意識を

とりあえずは自己意識を伴わないものとして、そこから自己意識が帰結するかが問題である。

出発点は、再生の綜合を可能にする条件であった。足し算をするのに、足すべき数を片端か

ら忘れたのでは、和は得られない。足し算の間、先行する数を保持する心の働きが最低限必要

で、つまり、この間同一であり続ける意識がなくてはならない。では、意識の同一性はどのよ

うにして保たれるのか。また、ここでは同時に、元の数と再生された数の同一性も確認されな

ければならない。それはどのようにして可能か。

もし、元の印象とその再生されたものの同一性が先に与えられていれば、両者の同一性を知

り得る意識は同一でなければならないだろう。だが、その両者の同一性を前提にすることはで

きない。そもそも、両者の同一性が言えるには、それぞれを何らかの仕方で規定できるのでな

ければならないが、それがそもそも可能であるか否かは、ここではまだ分かっていないのであ

る。同一の意識がなければ対象表象も不可能であり、概念も、したがって対象認識も不可能で

あると述べたあとで(ここではだから、概念は表象を前提とすると考えられているのだが)、カ

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対象と自己意識

- 116 -

ントは表象の対象という概念の意味を改めて説明する。

カントによれば、表象の対象は、感性的直観を通じて与えられる以上、それ自体何であるか、

どうであるかは我々には不可知であり、「何かあるもの=X」でしかない。したがって、対象そ

のものとその表象との一致をもって正しい認識とするのは、もちろん不可能である。だが一方、

我々が対象に言及する際、「我々のあらゆる認識のその対象への関係についての思考には何ら

かの必然性が伴う」(A104)。同じ対象について、その時々にまちまちの規定がなされたとした

ら、それは特定の対象の規定ではなくなるだろう。ところで、再生は構想力の働きであった。

ある表象がしばしば他の表象と相次いで、または他の表象を伴って生じると、ついにはその一

方から不在のもう一方の表象が産出され、両者が結びつけられるようになる。この経験的な「再

生の法則」(A100) をカントはまた、「連想」とも呼んでいる(A121)。綜合一般は「それなしに

は我々は総じて決して認識を持ち得ないであろう」(A78=B103)ものだが、同時にそれは「構想

力の、心の不可欠の機能ではあるが盲目のはたらき」(ibid.)にすぎない。再生が連想によるもの

であるかぎり、ある表象にどの表象を結びつけるかは、まったく偶然的であり、そのような表

象には何の必然性も一貫性もないだろうだから、ここには何か対象と表象との結合に必然性を

付与するものがなくてはならない。

綜合的統一が単なる連想によって行なわれるのではなく、何らかの規則にしたがう場合、そ

の綜合には必然性があると考えられる。そして、その規則となるのが、カントによれば、概念

なのである。カントによれば、連想も、現象が現実にそのような規則のもとにあるということ

を前提にしている。ある事象 A に続いて事象 B の生じる頻度が、他の事象の頻度より高くなけ

れば、AB 間の結合は生じないだろうからである。「この再生の法則は、しかし、次のことを前

提している。つまり、現象自体が現実にそのような規則のもとにあり、現象の諸表象の多様に

おいて、ある特定の規則に応じて、随伴や継起が生じることを」(A100)。もし現象のうちに規

則性が無かったとしたら、構想力は「死んだ、我々自身に知られない能力として我々の心の中

に隠されたままであり続ける」(ibid.)であろう。構想力が概念を規則として表象を産出するなら、

同じ概念に対しては同じ表象が対応するという一貫性は得られ、そういう意味でその綜合はあ

る種の必然性をもつ。カント自身の例によれば、「我々は、それにしたがってそのような[三角

形の]直観がつねに提示されるような規則にしたがって 3 つの直線を構成することを意識する

ことによって、三角形を対象として考えるのである」(A105 [ ]内は筆者)。この綜合によって我々

は「表象における多様なものの綜合の意識における形式的な統一」(ibid.)を得るであり、「我々

は直観における多様のうちで綜合的統一をもたらした場合に、対象を認識する」(ibid.)。再生の

綜合に必要な同一性は、このように、再生印象と元の印象のそれではなく、綜合の結果生じる

べき概念への、各表象の適合性ととらえなおされるのである。一見唐突に見えるこの転換は、

カントの認識論の前提からからみれば、理由のないものではない。つまり、判断作用なくして

一つの表象の成立はありえず、したがって、表象に統一される以前の諸印象については、直接

その同一性や差異を比較することはできない、ということである。引用中に見られるように、

この綜合は自己意識を伴うものと考えられている。

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対象と自己意識

- 117 -

3 超越論的統覚

概念を規則とする表象の統一が、すなわち意識の形式的統一である、という結論を受けて、

カントは次のように言う。

「あらゆる必然性にはつねにその根底にある超越論的条件がある。したがって、我々のあ

らゆる直観における多様なものの綜合のうちに、よってまた客体の概念一般のうちに、し

たがってまた経験のあらゆる対象のうちに、つねに意識の統一の超越論的な根拠がなくて

はならない。」(A106)

この「意識の統一の超越論的根拠」は、超越論的統覚に他ならない。

こうして「超越論的統覚」の概念が導入される。カントは、経験的統覚と超越論的統覚を対

比させつつ、

「内的な知覚における、我々の状態の規定にしたがった自己自身の意識は単に経験的で、

つねに変化し、常住不変の自己は内的現象のこの流れの中にはありえず、これは通常内感、

あるいは経験的統覚と名づけられる。数的に同一であると必然的に表象されるべきものは、

そのような経験的なデータによって考えられることはありえない。それはあらゆる経験に

先立って、経験自体を可能にするような条件でなくてはならず、この条件がそのような超

越論的前提を妥当なものにするのである。」(A107)

と述べる。意識は経験的であるとア・プリオリであるとを問わず自己意識の性格を持ち、経

験的統覚に対して、経験を可能にする意識が「数的に同一」なものとして提示され、この「純

粋で根源的で不変の意識」(ibid.)が超越論的統覚として、あらゆる経験の可能性の条件とされる

のである。経験的概念にとどまらず、時間や空間の概念も、直観をこの超越論的統覚に関連づ

けることで可能になるとされる。時間や空間は直観の形式であるばかりでなく、それ自体が一

つの表象であるべきものである。ア・プリオリな綜合作用の根底にあって規則となる概念は、

いうまでもなく純粋悟性概念、カテゴリーである。超越論的統覚は、「心が多様なものの認識に

おいて、その機能の同一性を意識すること」(A108) により生じるとされ、したがって、「自己

自身の同一性の根源的で必然的な意識は、同時に、あらゆる現象の、概念にしたがった、つま

り、規則にしたがった綜合の、同様に必然的な統一の意識である」(ibid.)とされる。表象を統一

して対象に関連づける作用において、その統一の根拠は感性を通じて与えられる不可知の対象

側には求められないことから、意識はそれを自己に帰せざるを得ない。自己意識は自らの作用

の所産を介してその機能を知ることによって生じる、反省的な意識である。カントが繰り返し

行なう超越論的統覚の特徴づけに共通しているのは、この意識が認識主観の綜合作用の意識で

あること、認識ではなく、かといって仮象ともされないこと、である。

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対象と自己意識

- 118 -

「この超越論的対象の純粋な概念(それは我々のあらゆる認識を通じてつねに同じ==X だが)

は、我々のあらゆる経験的概念一般において対象への関連を、つまり、客観的実在性を与え得

るものである」(A109)。超越論的対象の概念は、だが、特定の直観に対応するものではなく、

認識における多様なものが対象との関係で考えられる際の、多様なものの統一を表現している

にすぎない。そして多様なものの対象への「この関連はしかし、意識の必然的な統一、したが

ってまた、多様なものを一つの表象において結びつける心の共同の機能による多様なものの綜

合の統一以外の何ものでもない」(ibid.)。この意識の統一が表象と対象との関連づけに客観的実

在性を与え、つまり経験的認識を可能にするのだから、現象は「経験において統覚の必然的統

一の条件のもとに」(A110)立たねばならないのである。

経験は、カントによれば、ただ一つであり(ibid.)、その中であらゆる知覚は一貫した合法則的

な関連において表象される。いいかえると、経験とは「概念にしたがった、現象の綜合的統一」

(ibid.)である。カントは再度経験的概念にしたがった綜合は偶然的なもので、そこからは考えを

伴わない直観は生じても、認識は決して生じないことを指摘した上で、こう主張する。「可能な

経験一般のア・プリオリな条件は、同時に経験の対象の可能性の条件である。ところで、私は

主張する。先に述べたカテゴリーは、時間と空間が直観に対して直観の条件を含むのと同様に、

可能な経験における思考の条件にほかならない。したがって、それらはまた現象に対する客体

一般を考えるための根本概念であり、したがってア・プリオリに客観的妥当性をもつ」(A111)。

このようにして、カテゴリーが演繹されることが示される。

演繹論の本論では、カントは「三つの認識源泉」(A115)として感性と構想力、それに統覚を

挙げ、それぞれに経験的使用と経験を可能にする超越論的使用を認めている。

「全知覚に対しては、しかし、純粋直観(表象としては内的直観の形式、時間)、連想には

構想力の純粋綜合、そして経験的な意識に対しては、純粋統覚、すなわちあらゆる可能な

表象における自己自身の一貫した同一性が、ア・プリオリにその根底にある。」(A115ff.)

そうして、経験の可能性の必然的条件としての超越論的統覚を確認する。

「我々はア・プリオリに、我々の認識に属し得るあらゆる表象に関する我々自身の、あら

ゆる表象の可能性の必然的な条件としての一貫した同一性に気づいている。」(A116)

「『あらゆる異なった経験的意識は唯一の自己意識に結びつけられていなければならな

い』という綜合命題は、我々の思考の端的に最初のそして綜合的原則である。」(A118 Anm.)

再生の綜合で、再生的構想力の再生の原理は、現象そのものにそれを可能にするような合法

則性を前提とする、と述べられていたが、それが超越論的統覚のもとにある現象の統一である

ことはいうまでもない。そして多様なものを綜合して認識にもたらすア・プリオリな能力とし

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対象と自己意識

- 119 -

て働く構想力の綜合は、再生の綜合におけるそれと区別して、「構想力のア・プリオリな産出的

綜合」(A118)と呼ばれ、「統覚に先立つ純粋な(産出的)構想力による綜合の必然的統一の原理は、

したがってあらゆる認識、とりわけ経験の認識の可能性の根拠である」(ibid.)とされている。

「我々は人間の心の根本的能力としての純粋な構想力をもつ。これを介して我々は一方には直

観の多様を、そして、他方には純粋統覚の必然的統一の条件を、結びつけるのである。最も離

れた両端、つまり感性と悟性は、構想力のこの超越論的な機能を介して必然的に関わらなけれ

ばならない」(A124)。このように、構想力は経験の可能性の条件とされるのだが、「構想力によ

る綜合に関わる統覚の統一は悟性であり、この同じ統一が、構想力の超越論的綜合との関わり

においては、純粋悟性なのである」(A119)と、超越論的統覚が純粋悟性のはたらきにほかなら

ないことが示され、純粋悟性概念であるカテゴリーが経験を可能にするものであることが確認

されるのである。

再生の綜合の箇所で、現象の側の、構想力による連想を可能にする根拠を、カントは「親和

性」(A113)と名づけているが、親和性とは取りも直さず超越論的統覚の規則のもとにあって経

験を可能にする原理としてはたらく産出的構想力の綜合によって秩序づけられた現象であり、

そのような現象界をカントは、「自然、すなわち現象における多様の、規則にしたがう綜合的な

統一」(A127) と呼ぶのである。

4 議論の分岐点

概念を規則として、直観における多様なものを一つの表象へと綜合し、その綜合を意識する

ことが同時に自己同一性の意識を生じさせる。このようにして、カントは自己意識を導き出す

ことに成功している。だが、ここで注意しなければならないのは、カントの説明が、綜合の結

果生じる概念に対する、結合される諸表象の適合性を述べるにとどまっていて、再生された表

象ともとの表象との同一性を可能にする条件には触れていないことである。もう一つ、再生の

綜合を可能にする条件としての同一の自己意識は、せいぜい一つの表象をつくりだす過程を通

じて同一であればよく、カントは彼のいう純粋で不変の同一性の自己意識である超越論的統覚

を導き出すには至っていないことである。再認の綜合を論じた箇所で、一見唐突に見える「対

象」概念への言及は、どのように説明できるだろうか。

カントは、第一版への序文で、演繹論には「純粋悟性の対象に関わり、そのア・プリオリな

概念の客観的妥当性を示し理解させるべき」(A XVII)側面と、「純粋悟性そのものを、その可能

性と自らが依っている認識諸能力との関連において、したがって主観的な関連において考察す

る」(ibid.)側面との「二つの側面」(ibid.)を持つと述べている。その上で、前者が本来の目的に

とって重要であり、後者の論証の成否は前者の成否に影響しないとしている。

クレメは、この二つの側面の分岐点を、演繹第 2 節では再認の綜合に関して超越論的対象へ

の言及がなされる直前に見ている2。つまり、再生の綜合を可能にする条件として意識の同一性

2 H.F.Klemme, Kants Philosophie des Subjects, Hamburg, 1996, S.153.

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対象と自己意識

- 120 -

を述べた部分までが主観的側面、対象概念に関する説明以降が客観的側面に関する叙述で、カ

テゴリーが経験の可能性の条件であることを示して、演繹は一応完結する、ということである

(もちろん、本来の演繹は次の節でなされる)。

いま、彼の解釈にしたがってみると、カントが演繹の本来の目的とした、カテゴリーの経験

的対象への客観的妥当性の証明に関しては、再生の綜合を可能にする条件をもれなく論じるこ

とは必ずしも必要ではなく、再認の綜合で意識の同一性を必要条件として示せばじゅうぶんだ

った、と考えることができる。動物や言語習得前の幼児にも何らかの直観表象はあり、それに

反応して行動していると思われるが3、ここでは人間の認識の条件が問題で、そのような他の認

知の仕方まで検討するには及ばない、ということである。再生された印象ともとの印象との同

一性の確認についても同様である。

一方に、再生の綜合の前提として要求される意識の同一性がある。これが自己意識の性格を

持つか、また、再生表象の同一性はいかに保証されるか、は未決定だとする。もう一方に、対

象の概念の意味を吟味することによって、経験的認識を可能にする最高の条件としてとりださ

れた、純粋な自己同一性の意識である超越論的統覚がある。「数的に同一」の自己意識があって、

同じ主観の経験的意識がそれに含まれ得ない(自己意識が経験的意識の内容にアクセスできな

い)ことはあり得ない。カントの言葉によれば、「あらゆる表象は可能な経験的意識に関わりを

持つ。それがなく、それらを意識することがまったく不可能だったとしたら、それはそれらが

まったく存在しないと言うのと同様だろう。あらゆる経験的意識は、しかし、超越論的な(あら

ゆる特定の経験に先立つ)意識、つまり根源的統覚としてのわたし自身の意識に関わりを持って

いる。だから、私の認識においては意識が一つの(わたし自身の)意識に属することは端的に必

然的である」(A117 Anm.)。これによって、超越論的統覚が再生の綜合成立の条件を満たすもの

でもあることが示された以上、議論の目的は果たされたのである。

(いきゆきまさ 博士後期課程単位取得退学)

[キーワード]

綜合 カテゴリー 意識 超越論的統覚

3 『判断力批判』には次のような記述がある。「我々はまったく正当に類推によって推論することができる。動

物もまた表象にしたがって行動する(デカルトが主張するような機械ではない)と」(アカデミー版全集V464 Anm.)。筆者はこれを以下の指摘により知った。T.Rosefeldt, Das logische Ich, Berlin/Wien 2000, S.13 Anm.

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欲望・善・利己主義

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欲望・善・利己主義

― J.S.ミルによる「功利性原理」証明の一つの帰結 ―

大石敏広

以下で私は、しばしば嫌悪の目で見られる「利己主義(egoism)」の真実を明らかにするため

の一つの考察を提示したい。

「利己主義」には二つの種類がある。「倫理的利己主義」と「心理的利己主義」である。「倫

理的利己主義」は、「人間が実際に利己的であろうとなかろうと、利己的であるべきだ」と主張

する。これに対して、「心理的利己主義」は、「人間の行為は、事実として、常に、自己利益に

よって動機付けられているのであり、人間は本質的に利己的な存在である」といった立場であ

る。本論で考察の対象となるのは「心理的利己主義」1である。

「心理的利己主義」について考えるに当たり、J.S.ミルの『功利主義論』は有益である。

その第4章では、「功利性原理の証明」と一般に呼ばれる議論が展開され、「功利性原理」の妥

当性が主張されている。その証明において、「心理的利己主義」が重要な役割を果たしており、

「心理的利己主義」の真理性が示されていると考えられる。本論では、その証明の一部に焦点

を当て、「心理的利己主義」が真理であることの一端を示そうと思う。

1 ミルの証明

ミルの『功利主義論』第4章における「功利性原理の証明」の要点を順次述べると、次のよ

うになる。

(1)あるものが望ましいことを示す唯一の証拠は、人々がそれを実際に望んでいるとい

うことである。(第3段落)

(2)各人は、自分自身の幸福を望んでいる。(第3段落)

(従って)

(3)各人の幸福は、その人にとって善いもの(a good)である。(第3段落)

1 これは、個人の事実に関する記述である。また、本論で述べるように、この「利己主義」は、〈傍若無人に振

る舞う自己中心的な人の性格〉を指すのではなく、より広い概念を表す。

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欲望・善・利己主義

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(従って)

(4)全体の幸福は、すべての人の総体にとって善いものである。(第3段落)

(従って)

(5)幸福は、人間的行為の究極目的の一つとして、従って道徳の基準の一つとして資格

がある。(第3段落)

(ところで)

(6)人間は本性的に、幸福の一部でも幸福の手段でもないようなものは望まない。(第4

段落~第10段落)

(従って)

(7)幸福と幸福の手段が、唯一望ましいものである。(第9段落)

(従って)

(8)幸福は、人間的行為の唯一の究極目的であり、幸福の増進はあらゆる人間行動を判

断する基準である。よって、幸福は道徳の基準でなければならない。(第9段落)

以上が証明全体の大筋であるが、本論では、(1)の命題をめぐる問題を議論の中心におく。

この部分では、「望ましい」と「望まれる」の関係が述べられている2。

命題(1)に関してミルは第3段落で次のように論じている(引用文(a)としておく)。

「ある対象が見える(visible)ということを証明するには、人々が実際にそれを見る(see)以外

にない。ある音が聞こえる(audible)ということを証明するには、人々がそれを聞く(hear)以

外にない。そして、我々の経験の他の源泉についても、同様である。同じように、何かが

望ましい(desirable)ということを示す証拠は、人々が実際にそれを望んでいる(desire)という

こと以外にない、と私は思う。」(4.3)3

このミルの説明に対していくつかの反論が考えられる。次にこれを見ておこう。

2 ミルに対する批判

この命題(1)に関するミルの説明を読んでまず言えるのは、ここで使われている‘visible’、

‘audible’と‘desirable’の類推は成り立たないのではないかということである。確かに‘visible’

は、「見ることができる(can be seen)」を意味しており、それゆえ「ある対象が見える(visible)」

ということを証明するには、実際にそれを見てみればよいということになる。しかし、

‘desirable’の場合はそうは言えない。なぜなら、‘desirable’は、「望むことができる(can be

desired)」ではなく、「望ましい(worth desiring)」を意味しているからである。人がある対象を実

際に望んでいるからといって、必ずしもその対象が望ましいとは言えないのである。このよう

2 なお、命題(1)~(3)から分かるように、ミルは、「望ましい」と「善い(よい)」を、相互に入れ替え

可能な言葉と考えている。 3 『功利主義論』からの引用、並びにそれへの参照については、ページ番号ではなく、章、段落番号をこの順

で本文中に記入する。

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欲望・善・利己主義

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に、一見したところでは、ミルの説明は間違った類推に基づいているという印象を与えている

ことは確かである。

この批判についてはG.E.ムーアも指摘しているが、彼はさらに積極的な批判を提示して

いる。ムーアによれば、ミルは、「自然主義的誤謬(the naturalistic fallacy)」を犯しているという。

ムーアの批判は、功利主義に対して致命的な打撃を与えたと言われており、現在もなおその影

響力は失われていないと考えられる4。では、「自然主義的誤謬」とはどんな誤謬か。

まず、ムーアが「自然主義的誤謬」によって何を意味していたかは、「この誤謬〔自然主義的

誤謬〕は、善とはまさに、自然的性質を表す言葉で定義されうるある単純な、あるいは複合的

な観念を意味すると主張する点にある、と私は説明した。ミルの場合、善とはこのように単に、

欲求されるものを意味すると考えられており、そして欲求されるものはこのように自然的な言

葉で定義されうる何かあるものである」5という彼の記述からはっきり読み取れる。「自然主義

的誤謬」とは定義上の誤謬だということである。ムーアは、ミルの証明を、非自然的性質を示

す「望ましい」という言葉を、自然的性質を示す「望まれる」という言葉で定義する企てだと

見なし、批判していると言える。

だが、「自然主義的誤謬」の別の解釈によれば6、ミルが犯しているのは、「非価値(事実)判

断」から「価値判断」を導き出す誤りである。ミルは、「ある対象が望まれている」という事実

認定的な前提から、「その対象は望ましい」という価値評価的な結論を引き出している、という

わけである。

さらに別の解釈も可能である7。ミルは「自然的性質」と「非自然的性質」を同一視する誤り

を犯している、という解釈である。つまり、ミルは、「望まれる」という言葉によって意味され

る「自然的性質」と、「望ましい」という言葉によって意味される「非自然的性質」とを区別で

きていない、ということになる。

「自然主義的誤謬」でムーアが、後の二つの解釈で示されているような誤謬を考えていたか

どうかははっきりしないが、問題は、ミルの証明がそうした三つの誤謬を犯しているかどうか

である。もしこれらの批判がミルの議論に当てはまるなら、その議論は妥当ではないと言える。

事実はどうか。この点について答える前に、ミル批判に対するミル擁護者の反論を取り上げ、

その反論が問題の解決になっていないことを示そう。

3 ミル弁護論

ミルは、「仮に功利説が提案している究極目的が、理論と実践の上で、究極目的として認めら

れていないとするなら、それが究極目的であると誰にも確信させることなどできないであろう」

4 Cf. Susan Leigh Anderson, On Mill (Wadsworth, 2000), p. 54. また、平尾透『功利性原理』(法律文化社、1992 年)、

165-166、172 頁参照。 5 G. E. Moore, Principia Ethica (Cambridge, 1903), revised ed., p. 125. Cf. ibid., pp. 111, 118-119. なお、〔 〕内は引用

者の補足であり(以下同様)、下線部分は原文ではイタリック体となっている。 6 Cf. Roger Crisp, Mill on Utilitarianism (Routledge, 1997), p. 74, 平尾、前掲書、171 頁。 7 Cf. Crisp, loc. cit.

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欲望・善・利己主義

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(4.3, cf. 1.4)と述べている。ミルは、あらかじめ、全体の幸福が道徳の究極目的であるという確

信をもっていたと言える。さらにミルは、「究極目的の問題は、普通の意味では証明することは

できない。推論による証明ができないということは、すべての第一原理に共通のことであり、

行動の第一前提にとってそうであるのと同様に、知識の第一前提にとってもそうである」(4.1)

と述べているが、他方で、「知性的な人々にこの学説〔功利説〕を承認するかどうかを決定させ

るにたる考察を提出することができるであろう。そして、これは証明と同じことである」(1.5, cf.

4.12)と主張している。つまり、ミルにおいて、「功利性原理」は第一原理として前提されてお

り、それは普通の意味では証明できない。ミルは、知性的な人々を説得して、「功利性原理」を

受け入れさせるための議論をしようとしたのであり、これを「証明」と称していたということ

になる。

ミル弁護論の主流は、この「功利性原理の証明」の意味に注目し、それをもとに上記引用文

(a)についての解釈を与えている8。もちろん、主流的見解として一つの統一的解釈があるわけで

はないが、次に、本論の論旨に必要な限りで、主流的見解の本質的論点をまとめておこう。

ミルは厳密な証明を意図していたわけではないのだから、引用文(a)の証明も厳密な証明では

ない。事実、そこでミルは、「見える」、「聞こえる」については「証明(proof)」という言葉を使

っているが、「望ましい」については「証拠(evidence)」という言葉を使っているし、「見える」、

「聞こえる」について言えることが、「望ましい」について「同じように(In like manner)」言え

ると述べているのであって、「同一の仕方で(In the same way)」とは言っていない。それゆえ、「見

られる」が「見える」を必然的に含意しているように、「望まれる」が「望ましい」を必然的に

含意している、とは主張されていないのである。ここでの類推は、「事実に関する知識の問題」

と「実践の究極目的に関する問題」の間の類推である(cf. 4.1)。「事実に関する知識」の場合に

我々は、事実を判定する、視覚、聴覚といった「感覚的経験的能力」に依存している。同様に、

「実践の究極目的」の場合に我々は、「欲求という経験的能力」に依存しているのである。つま

り、我々は、「見る」という経験があるからこそ「見える」について語ることができるのと同じ

ように、「望む」という経験があるからこそ「望ましい」について語ることができるわけである。

もしこうした解釈が正しいとするなら、前章で述べたミルに対する批判はミルに対する誤解

であり、その批判はミルの議論には当てはまらないということになろう。ところが、こうした

解釈には重大な欠陥がある。

4 ミル弁護論の批判

まず、ミルは、引用文(a)で、「何かが望ましい(desirable)ということを示す証拠は、人々が実

際にそれを望んでいる(desire)ということ以外にない」とはっきり述べているという問題がある。

8 Cf. J. Seth, “The Alleged Fallacies in Mill’s “Utilitarianism””, Philosophical Review 17 (1908), 474-476, E. W. Hall,

“The “Proof” of Utility in Bentham and Mill”, Ethics 60 (1949), D. D. Raphael, “Fallacies in and about Mill’ s Utilitarianism”, Philosophy 30 (1955), 346-349, N. Cooper, “Mill’s “Proof” of the Principle of Utility”, Mind 78 (1969), 278-279, 小泉仰『ミルの世界』(講談社学術文庫、1988 年)、166-172 頁、Crisp, op. cit., pp. 70-77, H. R. West, An Introduction to Mill’s Utilitarian Ethics (Cambridge, 2004), pp. 124-128.

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欲望・善・利己主義

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ミル擁護論の主流は、先に見たように、その発言は文字通りに理解されるべきではなく、その

真意は別のところにあったと言うであろう。しかし、この発言は明らかに、「ある対象を望んで

いるなら、その対象は望ましい」ということを述べているのである。それゆえ、もしミルの真

意が主流の解釈する通りであったのなら、ミルはこのような誤解を招く発言をすべきではなか

ったのである。知性ある人々を説得するつもりなら、なおさらである。この発言は不注意な発

言であったと言わざるをえないことになる。

ところが、これと同様の発言が、別の箇所にも現れているのである。ミルは次のように語っ

ている(前者を引用文(b)、後者を引用文(c)としておく)。

「もし人間の本性が、幸福の一部でも幸福の手段でもないものを求めないようにできてい

るならば、これらのものが唯一望ましいものであるということの証明として、ほかにどん

な証明も得られないし、またどんな証明も必要ないのである。」(4.9)

「あるものを望むこととそれを楽しく思うことは、またあるものを嫌うこととそれを苦痛

に思うことは、全く切り離せない現象であり、あるいはむしろ、同じ現象の二つの部分で

あり、厳密な言葉で言えば、同じ心理的事実の二つの異なった呼び方である。ある対象を

(その結果のためではなく)望ましいと思うことと、それを楽しいと思うことは、まった

く同じことである。」(4.10)

引用文(b)は、「人間は幸福だけを望む」という結論を引き出すための具体的な考察をした後

に述べられた文章である。そしてこの文章から、本論第1章で挙げた証明(8)(幸福は、人間

的行為の唯一の究極的目的であり、幸福の増進はあらゆる人間行動を判断する基準である。よ

って、幸福は道徳の基準でなければならない)が引き出されている。この文脈から、この文章

では、引用文(a)とは若干異なり、「もし幸福だけが望まれるなら、幸福だけが望ましい」とい

った主張がなされている。問題の解釈にとってこの主張は、「あるものが望まれているなら、そ

のものは望ましい」といった主張とは異なり、妥当な主張であろう9。しかしそれは、「望まし

くない幸福もあるが、望ましいのは幸福だけである」を前提してのみである10。もしこの主張

が、「もし幸福だけが望まれるなら、(すべての)幸福だけが望ましい」ということを意味して

いるなら、その主張は問題の解釈にとって認めることができない主張となる。なぜなら、その

時は、その主張は、「望まれる」から「望ましい」を推論していることになるからである。

引用文(c)では、「望むこと」と「楽しく思うこと」の一致と、「望ましいと思うこと」と「楽

しく思うこと」の一致が並べて述べられている。この二つの一致が認められるということは、

「望むこと」と「望ましいと思うこと」の一致も認められるということである。つまり、「ある

9 Cf. R. F. Atkinson, “J. S. Mill’s “Proof” of the Principle of Utility”, Philosophy 32 (1957), 161-162. 10 ただしその場合は、次で述べる本流的解釈への批判と同様の批判が、この引用文を含めた第9段落に関して

も当てはまることになる。

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欲望・善・利己主義

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対象が望まれているなら、その対象は望ましい」ということになる。これも、問題の解釈にと

って認めることができない主張である。

以上のように、主流的解釈に従えば、ミルはたんに不注意であったというより、むしろあま

りにも不注意すぎた、ということになる。しかし、そうすると、これほど不注意に語られた議

論で知性ある人を説得しようと意図しているということ自体が理解しがたいことである。

次に、主流的解釈は、「功利性原理の証明」そのものを破壊してしまう。こうした解釈に従え

ば、引用文(a)では、「望まれているものなら、それは望ましいものである」と推論されている

わけではない。しかし、「望ましいものなら、それは望まれているものである」といった推論が

引用文(a)の主張として認められていると言える。この推論を認めるということは、「望まれて

いるもの」がすべて「望ましいもの」ではないが、「望ましいもの」なら、それは「望まれてい

るもの」であるということを認めることである。これは、「望まれているもの」の中のある部分

が「望ましいもの」であるということを意味する。つまり、「望まれるもの」の中には「望まし

くないもの」も存在するということである。

だが、そうすると、引用文(a)が提示されている第3段落の記述に不都合な点が生じてくる。

第3段落では、本論第1章で述べた証明の命題(1)~(5)について論じられている。問題

の解釈に従うと次のようになるであろう。(2)の命題(各人は、自分自身の幸福を望んでいる)

は、少なくとも「自分の幸福」は「望まれているもの」の集合に入る、ということを意味する。

そこで、「望まれているもの」の一部が「望ましいもの」であるのだから、(3)の命題(各人

の幸福は、その人にとって善いもの(a good)である)は、「望まれているもの」である「自分の

幸福」は、すべてではないが、その一部が自分にとって「望ましいもの(善いもの)」であると

いうことを意味することになる。ここから、(4)の命題(全体の幸福は、すべての人の総体に

とって善いものである)が出てくるわけだが、命題(4)も命題(3)と同様に解釈されるで

あろう。つまり、「全体の幸福」は、すべてではないが、その一部が「善いもの」である。「全

体の幸福」の中にも「善くないもの」が存在することになる。だがミルはこの結論を受け入れ

ることができないのではないか。なぜなら、ミルの「功利性原理」において「全体の幸福」は

すべて「望ましいもの(善いもの)」であると考えられるからである11。

5 「望ましい」の二つの意味と「心理的利己主義」

以上、ミル批判、ミル擁護論、そしてミル擁護論の欠陥について述べてきた。ミルの「功利

性原理の証明」の議論は曖昧なところが多く、ムーアに代表される強力な批判に晒されてきた。

ミル擁護論はどうかといえば、ミル擁護に成功しているとはとても言えない。それではミル批

判は的を射ているのだろうか。私はそう考えない。

そもそも我々は、「望ましい」、「善い(よい)」といった言葉をどのように使っているのだろ

11

こうした結論を避けるために、 命題(3)から命題(4)への移行において何らかの操作が可能だろうか。

可能だとは思われないが、この問題はここではこれ以上論じないでおく。また、主流的解釈以外にも、「望ま

しいものなら、それは望まれているものである」といった命題のみを認めるべきだとする主張には、これと

同じ批判が当てはまるであろう。

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欲望・善・利己主義

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うか。その使用に注目すると、こうした言葉の意味には、使用上の重要な区別があることが分

かる。私が、例えば、「人が困っているとき、手助けをすることが望ましい(よい)」と語ると

き、私は、「困った人を助けるのは社会全体にとって望ましい(よい)」といった意味でそう語

っている。私は、社会全体の視点から「望ましい(よい)」という言葉を使っているのである。

すなわちそれは、〈道徳的な意味〉での「望ましい(よい)」という言葉の使用である。これに

対して、例えば、「 近太り気味なので、適度の運動をすることが望ましい(よい)」と私が語

るとき、私は、「適度な運動をすることは、私にとって望ましい(よい)」といった意味でそう

語っているのである。私は、個人の視点から「望ましい(よい)」という言葉を使っているわけ

である。それは、〈非道徳的な意味〉での「望ましい(よい)」という言葉の使用である。この

意味での「望ましい」ものの中には、〈道徳的な意味〉で「望ましくない」ものもある。また逆

に、〈道徳的な意味〉で「望ましい」ものの中には、〈非道徳的な意味〉で「望ましくない」も

のもある。このように、「望ましい」、「善い(よい)」といった言葉には、〈道徳的な意味〉と〈非

道徳的な意味〉の区別がある。我々が日常においてこうした言葉を二つの意味を区別しながら

使って生活しているということは言語使用上の事実である。

こうした視点からミルの証明を見てみると、「望まれる」-「望ましい」の関係について述べ

られている問題の引用文(a)の数行後に、「各人は、自分自身の幸福を望んでいる」(証明の命題

(2))と言われており、さらにその数行後に、「幸福は善である。すなわち、それぞれの人の

幸福はその人にとって善であり、それゆえ、全体の幸福はすべての人の総体にとって善である」

(証明の命題(3)(4))といった記述がある。特に、「それぞれの人の幸福はその人にとって

善であり」という文章が注意をひく。つまり、この記述の前の部分では、各人の「欲求」、「望

ましさ」、「幸福」が考察の対象であって、この記述において、個人の視点から社会全体の視点

への移行が語られているのである。この個人が社会に生活する個々の具体的な個人であること

は、この記述の後に命題(5)の主張がきて、段落が変わって、実際に人間が心理的に幸福の

ほかに何も望まないこと(証明の命題(6))が、「徳」、「金銭」等を具体例として、自己と他

人についての観察を通して主張されている、という点に示されていると思われる。

要するに、引用文(a)では、個人のレベルでの「望まれる」-「望ましい」の関係について述

べられているのである。ある人が「望むもの」は、その人にとって「望ましいもの」であり、

その人が「望んでいるもの」以外に、その人にとって「望ましいもの」はありえない。つまり、

個人それぞれにとっては、「ある対象が望まれているなら、それは常に望ましいものである」と

言えるのである12。これは、引用文(b)(c)の記述についても当てはまる。この段階では、〈道徳的

な意味〉での「望ましい」は問題となっていないのである。

それゆえ、本論第2章で挙げたミル批判は当てはまらない。「望まれる」-「望ましい」の論

12 この問題に関連して平尾透氏は、認識論的仮説として、非社会的な「絶対的単独者」といったものを措定し

て、その「絶対的単独者」の視点から「望まれているものは、望ましいものである」という主張を救おうと

している(平尾、前掲書、175-179 頁を参照)。しかし、私のいう「個人」とは、本論で述べているように、

「我々生身の人間個人個人」のことである。私は、社会に生活する人間一人一人に注目して、本論のような

論述を展開しているのである。

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欲望・善・利己主義

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点が個人のレベルにあるので、ミルが言うような類推は間違っていはいない。また、ミルは定

義を企てているわけでもない。さらに、ミルの議論に対して、「事実判断」から「価値判断」の

導出は禁止されると批判されるとき、ミルは、「個人的な事実に関する判断」から「道徳的な価

値に関する判断」を導出していると考えられているのであろう。「自然的性質」と「非自然的性

質」を区別すべきだというミル批判の場合も、「個人に関する性質」と「道徳的な性質」をミル

は同一視していると考えられていると思う。しかし、今見たように、ミルの議論をそのように

解釈すべきではない。その議論では、「道徳」はまだ考察の対象ではないのである。ミル批判者

の根本的な誤りは、「望ましい」、「善い(よい)」といった言葉における〈道徳的な意味〉と〈非

道徳的な意味〉の区別を明確に認識できなかったことにある。また、ミル擁護者も同様の過ち

を犯しており、その擁護論が不整合に陥ったのは当然のことである13。

個人にとって、「望まれるものは、望ましいもの」であった。逆に言えば、ある人にとって「望

ましいもの」とは、その人が「望んでいるもの」だけである。つまり、ある対象がある人の「望

んでいるもの」であるなら、同時にその対象は、その人にとって「望ましいもの」であるとい

うことである。従って、個々人それぞれが「望んでいるもの」は、個々人それぞれにとって「善

い(よい)もの」であり、「快いもの」であり、「利益あるもの」であり、「幸福」である。つま

り、個々人の「利益」、「幸福」は、個々人が「望んでいるもの」のすべてに渡ると考えてよい。

人間はそれぞれ自分の利益、幸福を望んでおり、各人の幸福は各人にとって善(よいもの)な

のである(「心理的利己主義」)。

「功利性原理」を証明するにあたり、こうした「心理的利己主義」を認めていたということ

が、ミルにおいてまず注目すべき点である。もちろん、「心理的利己主義」から「功利主義」へ

の移行が可能かどうかは別の問題である。

6 おわりに

以上、ミルの「功利性原理の証明」のうち、「望まれる」と「望ましい」に関する命題(1)

をめぐる対立を、「心理的利己主義」という視点によって解消し、「心理的利己主義」の真理性

に照明を当ててきた。これに関連して残された問題は、日常の言葉遣いにおいて「幸福」と区

別されるものを人が望むことがあるという現象を説明することである。この問題を処理するこ

とによって、「心理的利己主義」の真理性がより鮮明になるだろう。また、「心理的利己主義」

から「功利主義」への移行の問題もある。これらの問題についての考察も順を追って行ってい

く予定である。

(おおいしとしひろ 大阪大学非常勤講師)

[キーワード]

功利性原理の証明 欲望 非道徳的善 幸福 心理的利己主義

13

ミル自身がこの二つの意味の違いを明確に意識していたかどうかは、一つの問題点である。ただここでは、

明確に意識していたのなら、別の論述の仕方があっただろうということを指摘しておく。

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悲劇の歴史性

- 129 -

悲劇の歴史性 ― 歴史の三形態と『悲劇の誕生』―

茶園 陽一 一八八八年に執筆された自伝的著作『この人を見よ』(Ecce homo)において、ニーチェは、『悲

劇の誕生』(Die Geburt der Tragödie)がヴァーグナーを信奉する者のために利用され、そのため

に、この本の根底に隠されている、より価値の高いものが理解されないままになってしまった

ことを述べている(Vgl.EH,S.309.)1。ニーチェ自身が『悲劇の誕生』を執筆した当時、「リヒャル

ト・ヴァーグナーに捧げる序言」を付し、ヴァーグナーの音楽のうちに古代ギリシアの悲劇の

精神の復活を見出していたこともその理由として挙げられるであろうが、同書のタイトルは何

度も「音楽の精神からの悲劇の再生」と間違われていたという。 ニーチェによれば、むしろ『悲劇の誕生』は、「ギリシア精神とペシミズム」(Griechenthum und

Pessimismus)と題されるべきものだった。つまり『悲劇の誕生』は、「汝にとって最良のものは、

全く到達不能である。すなわち生まれて来なかったことであり、存在しないこと、無であるこ

とだ。しかし汝にとって二番目に良いものは―すぐに死ぬことだ」(GT,S.35.)という厭世的な

伝承を残した古代ギリシア人たちが、何をもってペシミズムを克服したのかを最初に教えた著

作であった(Vgl.EH,S.309.)。ニーチェはこの点にこそ、『悲劇の誕生』という書物が画期的な著

作であった根拠があると評価している。 『悲劇の誕生』に対するニーチェの「自己批判」は、さらに続けられる。彼は同書が、ヘー

1 ニーチェの著作からの引用は、下記の全集に拠った。なお、引用したドイツ語は、下記の全集の古い書体の まま記した。 Nietzsche,Friedrich:Sämtliche Werke,Kritische Studienausgabe in 15 Einzelbänden(以下 KSA と略記す る),hrsg.v.G.Colli und M. Montinari,Deutscher Taschenbuch Verlag de Gruyter,Berlin/New York,1988. 本文中の引用箇所には、著書名の略記・頁数を記す。邦訳として理想社版および白水社版のニーチェ全集を

参照した。引用部分は筆者が原文から直接行った。また、上記の全集において隔字体で表記されている箇 所については、本論文において日本語で引用する際、下線を引いて表記する。 GT:Die Geburt der Tragödie,KSA.1.(『悲劇の誕生』) UBHL:Unzeitgemässe Betrachtungen Ⅱ(Vom Nutzen und Nachtheil der Historie für das Leben),KSA.1.(『反時代的考察』第二編「生に対する歴史の利と害について」) MAⅡ:Menschliches,Allzumenschliches Ⅱ,KSA.2.(『人間的、あまりに人間的』第二巻) EH:Ecce homo,KSA.6.(『この人を見よ』)

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悲劇の歴史性

- 130 -

ゲル的な思考形式に従って執筆されていると述べる(Vgl.EH,S.310.)。すなわち、一つの理念、

すなわち「ディオニュソス的-アポロ的対立」という理念が、形而上学的なもののうちへと翻訳

されており 2、また、歴史そのもの(die Geschichte selbst)がこうした理念の展開として捉えられ

ていて、悲劇のうちに「ディオニュソス的-アポロ的対立」が統一へと止揚(aufheben)されてし

まっていると評される。 ニーチェは『この人を見よ』執筆の二年前にあたる一八八六年に、それまで刊行されていた

著作に新しく序文を付した。ニーチェの自著に対する「自己批判」は、この一連の序文群にお

いても看取することが出来る。『人間的、あまりに人間的』(Menschliches, Allzumenschliches)第二

巻の序文において、ニーチェは以下のように述べている。「私の全ての著作は、無論唯一の本質

的な例外を除いて、遡って日付を記入するべきである。それらは常に<私の背後>(Hinter-mir)

について語っている。『反時代的考察』(Unzeitgemäße Betrachtungen)の最初の三編のように、二

三のものは、それより先に出版された本の成立時期や体験時期のさらに背後に遡ってさえいる」

(MAⅡ,S.369)。「それより先に出版された本」とは、無論のこと『悲劇の誕生』を指す(ebd.)。 したがって、ニーチェの処女作である『悲劇の誕生』は、『反時代的考察』において展開され

るニーチェの思想的圏域のうちに含まれるのみではない。むしろ、『反時代的考察』の叙述の内

容から、あらためて『悲劇の誕生』を解釈する必要があるだろう。 上述したように、『悲劇の誕生』は後年のニーチェによって批判がなされてはいるが、とはい

えそれは、「ディオニュソス的なもの」(das Dionysische)「アポロ的なもの」(das Apollinische)の

対立を軸にした、ギリシア悲劇をめぐる歴史的展開の記述という側面を有する。本稿では、『反

時代的考察』において叙述されるニーチェの歴史観から鑑みて、『悲劇の誕生』におけるギリシ

ア悲劇の歴史的記述はどのような地位を占めているのかを明らかにしたい。 一 悲劇の歴史的展開 まず、『悲劇の誕生』において記述される、ギリシア悲劇の歴史的展開を概観してみたい。ニ

ーチェは同書において、ディオニュソス的芸術およびアポロ的芸術がいかにして悲劇芸術とし

て結びつくか、そうして誕生した悲劇がいかなる運命を辿ったかを叙述する。悲劇の歴史的展

開は、三つの段階に区別することが出来る。すなわち「悲劇の誕生」、「悲劇の死」(der Tod der

Tragödie)、「悲劇の再生」(die Wiedergeburt der Tragödie)の三段階である。 (一) 「悲劇の誕生」 ニーチェは、「芸術の進展はアポロ的なものとディオニュソス的なものとの二元性(Duplicität)

に結びつけられること」(GT,S.25.)を示す。悲劇の歴史的展開の第一段階は、「悲劇の誕生」の

段階である。それは、造形芸術を象徴する「アポロ的なもの」と、音楽を象徴する「ディオニ

ュソス的なもの」という相対する二つの芸術衝動(Kunsttrieb)の宥和(Versöhnung)によって発生す

2

『悲劇の誕生』においては、我々の生存(das Dasein)と世界は、美的現象としてのみ義認(rechtfertigen)される と述べられている(Vgl.GT,S.47.)。

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悲劇の歴史性

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る。また、「アポロ的なもの」は夢、「ディオニュソス的なもの」は陶酔という人間の生理学的

現象(physiologische Erscheinung)に対応したものとみなされる(Vgl.GT,S.26.)。 「アポロ的なもの」に対応する夢は、目覚めている時と比較すれば仮象(Schein)に属する。夢

においては、そこに登場する様々なものは、仮象としての形姿をとって現れる。「アポロ的なも

の」は「個体化の原理」(principium individuationis)(GT,S.28.)を本質的特徴としてもち、形象化の

働きをなすために造形芸術一般を成立せしめるものとして規定される 3。 他方、「ディオニュソス的なもの」に対応する陶酔は、「個体化の原理」を破壊する作用を持

つ。陶酔状態にあっては、個々人の間の隔たりや、人間と自然との間の隔たりが解消され、主

観的なものは完全な自己忘却(Selbstvergessenheit)へと消滅する(Vgl.GT,S.29.)。 こうした「アポロ的なもの」と「ディオニュソス的なもの」という芸術衝動が結びつくこと

によって、悲劇という芸術形態が誕生した。ただし、ニーチェにとってギリシア悲劇の根源

(Ursprung)は、あくまでも「ディオニュソス的なもの」にあり、その起源は「コーラス」(Chore)

である。ディオニュソスを讃える「ディオニュソス的ディテュランボス(酒神賛歌)」に端を発

する「コーラス」すなわち合唱隊は、ギリシア悲劇においては、ドラマの筋に関係する詩を詠

い、同時にドラマのうちで特定の役割を与えられ、ドラマに参加しつつ、それを眺めるという

重要な働きをなす。 「コーラス」の音楽的効果による陶酔において、悲劇の観客は各々の現実的生活の拘束や節

度を破壊され、恍惚状態に陥る。この状態では、観客は過去の個人的体験を忘却し、悲劇のう

ちへと忘我の境地で没入してゆく。こうして悲劇の観客は、「事物の根底にある生は、諸々の現

象のあらゆる変転にもかかわらず、破壊しがたく力強く、喜びに満ちていること」(GT,S.56.)

を目の当たりにする。これが悲劇芸術の最も直接的な作用である。 「ディオニュソス的なもの」が悲劇において露わにするのは、秩序づけられ節度を保ってい

るかのように見える個別的生の根底に横たわる、有為転変し絶えざる生成のもとにある「生」

の位相である。「生」の根元的力は、同時に我々の個別的生存の限界を暴露する。個々人の「生」

は、個別的かつ有限である。しかもプロメテウスの担ったような苦悩へと縛り付けられている

がゆえに、理不尽さ、混沌、矛盾を内包する。 ニーチェは古代ギリシア人の抱いていた、仮象による救済への飽くなき欲求―晴朗な造形

芸術や壮大な神話体系の創出―の根底に、ある「形而上学的仮定」(die metaphysische Annahme)

を導入する。すなわちそれは、「真に存在するものかつ根元的-一者(das Ur-Eine)は、永遠に苦悩

するもの、矛盾に満ちたものとして、同時に魅力的な幻影を、喜びに満ちた仮象を、自分の不

断の救済のために必要とする」(GT,S.38.)という仮定である。 「生」の根底に関わる厭世的な視点を抱いていたにもかかわらず、この「生」そのものを肯

定し、したがってペシミズムを克服していた点に、古代ギリシア人の偉大さがあるとニーチェ

は見ている。

3 アポロン神は光の神(Lichtgottheit)でもある(Vgl.GT,S.27.)。光が個々の事物を輪郭づけるように、「個体化の 原理」は、アポロン神のごとき輝き(Schein)によって事物を分節化する作用をもつ。

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悲劇の歴史性

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(二) 「悲劇の死」

「ディオニュソス的なもの」と「アポロ的なもの」との宥和によって誕生した悲劇は、「ソク

ラテス的なもの」(das Sokratische)の登場によって死を迎える。「ディオニュソス的なもの」およ

び「アポロ的なもの」が芸術衝動であったならば、「ソクラテス的なもの」とは論理的、学問的

衝動である。ソクラテス個人はあくまでも「ソクラテス的なもの」のもたらす論理的、学問的

衝動の仮面であり、その背後にあるのは「論理的ソクラテス主義」(das logische Sokratismus) (GT,S.91.)である。 この「論理的ソクラテス主義」のもとでは、芸術はただ単に非理性的な領域に属するものと

理解される。ニーチェによれば、ソクラテスは悲劇を、ただ心地よいもののみを描出し有用な

ものを描出しない、とるに足らない芸術とみなしたという(Vgl.GT,S.92.)。ニーチェにとって、

論理的、学問的人間の類型たるソクラテスは、理性のみを頼りとし、論理を徹底させることに

より「真なる認識を仮象と虚偽(Irrthum)から選り分ける」(GT,S.100.)ことが可能であるとする楽

観主義者として位置づけられる。このようなソクラテス的オプティミズムは、ニーチェが『悲

劇の誕生』において提示した、古代ギリシア人のペシミズムとその克服という観点とは対立す

るものである。 (三) 「悲劇の死」

学問的傾向の過多は、論理を徹底させることによって事物の本質を把握し、真なる認識を仮

象や虚偽から選り分けることが可能であるという楽観主義を伴うものであった。しかしながら、

我々が生きるところの「生」そのものが苦悩に満ち、矛盾を孕んだものであるならば、そうし

た楽観主義は挫折せざるを得ないことになる。ニーチェは、学問の精神が限界まで導かれ、こ

の限界において学問のもつ普遍妥当的な真理への要求が否定された後に、「悲劇の再生」が到来

することを予期する(Vgl.GT,S.111.)。したがって、「悲劇の再生」は、学問が自己の限界を認識

するに至る時点において生じる。ニーチェは、そこから再び芸術に対する本質的な洞察がもた

らされると考える。この洞察をニーチェは、「概念において把握されたディオニュソス的英知」

(die in Begriffe gafasste dionysische Weisheit)(GT,S.128.)と規定する。 ニーチェは「悲劇の再生」の具体的な表出をヴァーグナーの楽劇に見出していた。そのこと

は後のニーチェ自身によって否定されてはいるものの、『悲劇の誕生』は、こうした新たな「悲

劇的文化」の到来を予感させるヴァーグナーの音楽に対する賛美であり、「悲劇の再生」に対す

るニーチェの熱望が表現されていたのである。 二 『悲劇の誕生』における歴史性

ニーチェは一八七〇年八月、普仏戦争に志願看護兵として従軍した。同年の九月、ヴァーグ

ナー宛の書簡において、負傷兵らを看護する間に、ニーチェ自身が赤痢とジフテリアに罹患し

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悲劇の歴史性

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た旨を書き記している 4。この時期既にニーチェは『悲劇の誕生』の着想を得ていた。ただし、

『悲劇の誕生』は徹頭徹尾政治には無関心であり、「非ドイツ的」であるという(Vgl.EH,S.310.)。

この意味で同書は「反時代的」(unzeitgemäß)(EH,S.309.)著書であった。 前述したように、『人間的、あまりに人間的』第二巻の序文において、ニーチェは『反時代的

考察』の最初の三編を、『悲劇の誕生』の成立時期や体験時期のさらに背後に遡っているものと

して捉えていた。ニーチェは、『反時代的考察』の第一編「ダーヴィト・シュトラウス、告白者

と著述家」(David Strauss der Bekenner und der Schriftsteller)を、彼がまだ学生であった時に抱いて

いた「ドイツ的教養」や「教養俗物」(Bildungsphilister)に対する嫌悪感に端を発していると述懐

する 5。 またニーチェは第二編「生に対する歴史の利と害について」(Vom Nutzen und Nachtheil der

Historie für das Leben)を、「私が<歴史病>(die historische Krankheit)に反対して語ったところのも

の、それを私は、<歴史病>からゆっくりと、骨を折って快癒することを学んだ者として、そ

して以前<歴史病>に罹患していたから、今後は<歴史>を放棄するという意志の全くない者

として語った」(MAⅡ,S.370.)と回想する。 さらに第三編「教育者としてのショーペンハウアー」(Schopenhauer als Erzieher)については、

ペシミストであり、最初にして唯一の教育者たるショーペンハウアーに対する崇敬を表現して

はいたが、その当時ニーチェは、あらゆる従来のペシミズムに対する批判およびペシミズムの

深化のうちにあったと述べられる(ebd.)。 このように、ニーチェは『悲劇の誕生』執筆以前に、既に『反時代的考察』の諸論考の萌芽

となる思索を行っていた。以下では、『悲劇の誕生』を、それが古代ギリシア悲劇の歴史的展開

の記述であるという観点から、『反時代的考察』の、特に第二編「生に対する歴史の利と害につ

いて」を中心に展開されるニーチェの歴史観に基づいて検討したい。 (一)「非歴史的なもの」とギリシア悲劇 ニーチェの歴史に関する認識は、次の命題に集約される。すなわち、「非歴史的なもの(das

Unhistorische)と歴史的なもの(das Historische)は、ある個人や民族や文化の健康にとって等しく

必要である」(UBHL,S.252.)。動物は過去に対する倦怠も憂慮も知らず、ただ現在の瞬間のみに

生きている点で、完全に非歴史的に生存している。したがって動物の生存に特徴的なものは「忘

却」(Vergessen)である。認識のうちでは過去と言えるものを持たず、それゆえ過去への悔恨に

悩まされることのない動物の生は幸福である。幸福の第一条件は、「忘却-し得ること」(das

4 Nietzsche,Friedrich:Sämtliche Briefe,Kritische Studienausgabe,Bd.3,hrsg.v.G.Colli und M. Montinari,Deutscher Taschenbuch Verlag de Gruyter,Berlin/New York,2003,S.142f. 5 ニーチェ自身による学生時代の記録は、シュレヒタ版ニーチェ全集に収められた「二年間にわたる私のライ プツィヒ時代への回顧」(Rückblick auf meine zwei Leipziger Jahre)に詳しい。ライプツィヒ大学で古典文献学教

授であるリッチュルの愛弟子となったニーチェの学究生活の記載とともに、当時のニーチェの学問的教養に 関する立場が記されている。一例として、当時同じ文献学の学生であったキンケルが、文献学の背後に政治 的な目的がなければならないと主張したのに対し、ニーチェは、学問が中立性を保つことの重要性を指摘し、

反論している(Vgl. Nietzsche,Friedrich:Werke in drei Bänden, Bd.3,hrsg.v.K.Schlechta,1973. S.136.)。

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悲劇の歴史性

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Vergessen-können)、つまり非歴史的に感覚することにある(Vgl.UBHL,S.250.)。 それに対して人間は、過去を「想起」(Erinnerung)する能力をもつ。子供は未だ否定すべきよ

うな過去をもたず、現在のうちでこの上なく幸せに戯れているかのように見える。しかし、そ

うした子供の「忘却」の世界における幸福な戯れも、「そうであった」(es war)という言葉を学

ぶことにより、終わりを告げる(Vgl.UBHL,S.249.)。過去の「想起」によって、人間は完全な「忘

却」の世界を生きることは出来ない。この過去を「想起」する能力こそ、「歴史的感覚」(der

historische Sinn)の源である。ただし、「歴史的感覚」に固執する者は、あたかも眠ることを止め

るよう強いられているような人間に似ている。不眠すなわち「歴史的感覚」の過剰は、一人の

人間や一民族、一文化を毀損してしまう(Vgl.UBHL,S.250.)。 したがって、「歴史的感覚」の程度を規定し、また、必要に応じて過去のものを「忘却」する

ための限界を規定しなくてはならない。そのために精確に知っておかなければならないのは、

一人の人間、一民族、一文化の「造形力」(die plastische Kraft)がどの程度大きいかということで

ある(Vgl.UBHL,S.251.)。「造形力」とは、自ら独自の仕方で成長し(wachsen)、過去のものと疎

遠なものを改造し(umbilden)吸収し(einverleiben)、傷を完治させ(ausheilen)、失ったものを補い

(ersetzen)、破壊された形式を自ら型に合わせて作る(nachformen)力を意味する(ebd.)。 上述のような「造形力」を強く保った存在者であればこそ、歴史を自らにとって有用なもの

とすることができるのである。「造形力」の形成には、適切な時期や度合いで過去を「忘却」す

る術を持っていること、どのような場合に歴史的に感覚し、あるいは非歴史的に感覚するべき

かを察知し得ることが肝要なのである。 ただし、ここで留意すべきは、「非歴史的感覚」は「歴史的感覚」の生起に先立つということ

である。ニーチェは、「我々はある一定の度合いにおいて、非歴史的に感じ得る能力を、それが

何か正しいもの、健康なもの、偉大なもの、何か真に人間的なものがそもそも初めて成長し得

る基礎である限り、より重要な、そしてより根源的な能力であると見なさねばならないだろう」

(UBHL,S.252.)と述べる。そしてギリシア人こそが、この「非歴史的感覚」を、その民族が最も

偉大な力を有していた時代に保持していたという(Vgl.UBHL,S.273.)。その時代とは、どの時期

に妥当するのだろうか。ニーチェが念頭に置いているのは、まさに古代ギリシア人が悲劇芸術

を創出していた時代である。なぜならば、悲劇芸術を生み出した古代ギリシア人は、その芸術

形式において「忘却」の手段を有していたからである。 ギリシア悲劇は「アポロ的なもの」と「ディオニュソス的なもの」との結合によって生じた

芸術形態であったが、悲劇の最も本質的な要素は、あくまでも「ディオニュソス的なもの」で

あった。「ディオニュソス的なもの」のもたらす陶酔状態において、他者との間に横たわる隔た

り、人間と自然との間の隔たりが解消され、主観的なものは完全な自己忘却へと導かれる。そ

して、主観的なものの「忘却」をもたらす「ディオニュソス的なもの」の作用によって、悲劇

の観客は、個別的有限的「生」の根底にある、有為転変しつつも永遠の生成を意味する「根元

的-一者」と合一する体験を持つに至るのである。

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悲劇の歴史性

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(二)歴史の三形態と『悲劇の誕生』 「非歴史的感覚」は「歴史的感覚」の生起に先立つものであった。しかし過去を「想起」せ

ざるを得ない人間は、歴史を「生」への奉仕のために必要とする。歴史は三つの形態において、

生きている者に奉仕する。すなわち、活動し努力する者に属する「記念碑的(monumentalisch)

歴史」、保存し敬慕する者に属する「骨董的(antiqualisch)歴史」、苦悩し救済を必要とする者に属

する「批判的(kritisch)歴史」の三つである(Vgl.UBHL,S.258.)。以下では、これら三つの歴史の

形態と、『悲劇の誕生』でのギリシア悲劇に関する歴史記述との連関を検討してみたい。 まず、「記念碑的歴史」において、『悲劇の誕生』はどのような地位を占めるのだろうか。ニ

ーチェは、ソクラテス以前に登場したギリシア悲劇に、芸術の最高の到達点を見る。「記念碑的

歴史」が要求するのは、「個々人の戦いにおける偉大な諸々の瞬間が一つの連なりを形作ること、

諸々の瞬間において、数千年を通じた人類の山脈が結びつくこと、そうしたはるか以前に過ぎ

去ってしまった瞬間の最高のものが私にとってなお生き生きとして(lebendig)、明らかで(hell)、

偉大であること」(UBHL,S.259.)である。この要求は、「偉大なものは永遠であるべきだ」(ebd.)

という要求に等しい。偉大であった過去の瞬間を賞賛しつつ、それを現在の自己自身にとって

生き生きとしたものとして現前させること、このことによって「記念碑的歴史」は「生」に奉

仕する。過去を記念碑的に考察することは、「一度はそこにあった偉大なものは、少なくとも一

度は可能だったのであり、それ故おそらくもう一度可能であるだろう」(UBHL,S.260.)との推察

へと導かれる。よって、ギリシア悲劇という偉大なる芸術形式を賛美し、さらにその精神が将

来において再び到来するであろうという期待は、ニーチェの「悲劇の再生」への熱望と一致す

る。 つぎに「骨董的歴史」に関してはどうであろうか。「骨董的歴史」とは、自分が由来したもの、

そして現在の自分自身と成らしめたものを、忠節(Treue)と愛をもって保存し敬慕する者に属す

る(Vgl.UBHL,S.265.)。さらに「骨董的歴史」は、自己が現在の自己として生じてきた様々な条

件を、自分の後に生じる者のために保存することを目的とする。古典文献学を出自として持つ

ニーチェが、自己自身を陶冶せしめた古代ギリシアの精神を『悲劇の誕生』という書物に纏め

あげた事実こそ、「骨董的歴史」の実践そのものである。ただし、ニーチェは、「骨董的歴史」

における危険性をも指摘する。「骨董的歴史」は、現在の新鮮な「生」が魂を吹き込み(beseelen)、

霊感を吹き込む(begeistern)ことがなければ堕落してしまい、たんに過去の事例を無造作に集め

ようとする収集熱(Sammelwuth)に駆られるのみとなる(Vgl.UBHL,S.268.)。また「骨董的歴史」

に過度に執着するならば、現在の「生」の成長を阻害することになる。なぜならば「骨董的歴

史は、まさにただ生を保存することのみを心得ているのであり、創造する(zeugen)ことを心得て

はいない」からである(ebd.)。 それでは、現在の「生」をより創造的なものとし、より豊かなものにするためには、「記念碑

的歴史」や「骨董的歴史」の他に過去に対してどのような態度が必要なのか。新しい将来の「生」

を創造するためには、過去に対する批判的態度もまた必要である。もし過去が現在および将来

の「生」を毀損するならば、「人間は生きることが出来るために、過去を破壊し解体する力を持

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悲劇の歴史性

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ち、時折適用しなければならない」(UBHL,S.269.)。こうした力を持つ歴史認識の在り方が「批

判的歴史」である。「批判的歴史」においては、過去を法廷に引き出し、断罪することもまた、

現在と将来の「生」に奉仕するために必要なこととされる。 悲劇は「ソクラテス的なもの」および「論理的ソクラテス主義」と呼ばれる学問的論理的思

考形態の介入によって死を迎えた。ニーチェはこれらを批判し、学問的探求によって我々の生

存の全てが明らかにされ得るという近代の楽観主義的な「ソクラテス的文化」(die sokratische

Cultur)に対して、悲劇の根幹であるディオニュソス的な精神の再来を希求するのである。 ニーチェは、『反時代的考察』の最初の三編の着想を、『悲劇の誕生』を執筆する以前に得て

いた。したがって、「悲劇の誕生」から、その死、再生への歴史的プロセスを記述した『悲劇の

誕生』という著作自体が、「生に対する歴史の利と害について」において展開されるニーチェの

歴史的観点の実践であると言えよう。

(ちゃぞのよういち 大阪樟蔭女子大学非常勤講師) [キーワード] 悲劇の誕生 反時代的考察 歴史性 自己批判 歴史の三形態

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超越論的現象学と世代発生的現象学

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超越論的現象学と世代発生的現象学

前田直哉

超越論的哲学は端的に言えば「所謂『基礎づけ主義』の代表であり、しかも近代において『第

一哲学』は形而上学ではなく認識を基礎づけることであったから、言わば『超越論的転回』に

よる『基礎づけ主義』は近代哲学の王道であった」1。里見軍之先生は本誌第 28 号に収められ

た「超越論的哲学の可能性――カント哲学の位置づけ」の中でこのように述べ、「近代哲学の王

道」の中でカントの超越論的観念論が占める本来的位置を、フッサールの超越論的現象学およ

びアーペルの超越論的遂行論との比較検討を通して論究されておられる。これとともに第二の

問題として、いかにも「古色蒼然」とした響きをもった「超越論的哲学」の「基礎づけ主義」

が、相対主義的風潮の濃厚な現代にあって、いまなお「サヴァイヴァル」可能であるか否かが

吟味されている2。その中で、超越論的哲学が追求する「基礎」とは、最終的にそれ以上遡り問

うことのできないもの、すなわち「背後遡行不可能なもの」のことであるとの解釈が示される。

この場合「背後遡行不可能性」とは、およそ何らかの主義主張が展開される際、その実質的な

主張内容がいかなるものであろうと不可避的に前提せざるを得ない諸条件、つまり懐疑論であ

れいわゆる「反基礎づけ主義」であれ、何某かの主義を掲げる以上は暗黙のうちに服従せねば

ならないような諸前提を意味している。従って、おのれの知について自己言及的に問い返しつ

つ「背後遡行不可能なもの」を露呈しようとする超越論的基礎づけの企図は、いわゆる相対主

義でさえ、その上に立脚せねば自己の主張そのものを維持し得ない諸条件を発見する限りにお

いてサヴァイヴァル可能ではないか。このような見解が示されていると筆者は理解している。

さて、こうした「基礎づけ主義」としての「超越論的哲学」に対して、アンソニー・スタイ

1 里見軍之「超越論的哲学の可能性――カント哲学の位置づけ――」、『メタフュシカ』第 28 号、1997 年 12 月、

117 頁。 2 同上、118 頁。

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超越論的現象学と世代発生的現象学

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ンボックがその著作”Home and Beyond”3の中で試みた「超越論的」現象学の「非-基礎づけ主義」

的な展開は注目に値する。この企図を果たすため、彼は主に遺稿として残された膨大な草稿群

を批判的に吟味し、晩年のフッサールがいまだ確たる自覚を伴わぬまま発見し開拓しつつあっ

た「世代性(Generativität)」という「現象学の或る新奇な次元」(HB,3)を積極的に切り開き、こ

の次元に適合する特有の方法として、新たに「世代発生的現象学」と呼ばれる方法を提唱して

いる。本稿の課題は、フッサールによって創始された超越論的現象学をその「デカルト主義」

との連関で捉え、スタインボックによる世代発生的現象学の試みを紹介しつつ、「超越論的」な

「基礎づけ主義」について再検討することにある。

一 フッサールの超越論的現象学

1900 年公刊の『論理学研究』によって「現象学」は創始されたが、それは現象学的探求への

「突破口」として、あくまでもその「端緒」をなすものに過ぎなかった。「事象そのもの」に即

した更なる分析の中で、現象学はいわゆる「超越論的転回」を遂げ、公にされた著作としては

『イデーン・Ⅰ』に至って初めて「超越論的」と形容されることになった。この用語が現在一般

に理解されている、かの特有の哲学態度を意味するようになったのは、言うまでもなくカント

の有名な定義によってである。しかし、しばしば指摘されるように、フッサールの超越論的転

回においてカント哲学が実質的に果たした役割はそれほど重大なものではなかったようである。

なるほど現象学とカントの超越論的哲学との「本質的な親近性 Wesensverwandtschaft」はフッサ

ール自身が認めるところであり、「超越論的」という「カント的用語」を「継承」した旨を述べ

てはいる。しかしそれは現象学的分析にとって「カントの根本前提、指導的問題、諸方法は遠

くかけ離れているにもかかわらず」(VII,230)行われた、留保付きの用語「継承」であったと

いうのが実状であると考えられる。

むしろ現象学の超越論的転回は「動機」の面から見ても、またそれを実現する「方法」的観

点からしても、やはりデカルト思想の直接的な影響下で引き起こされたと見るのが妥当であろ

う。方法に関しては周知のように『イデーン・Ⅰ』では世界の可疑性とエゴ・コギトの不可疑性

に依拠したデカルト的還元論が展開される。ただし「現象学的エポケー」は、疑わしきを否定

する方法的懐疑とは異なり、世界に対する存在確信としての「一般定立(Generalthesis)」を「作

用の外に置く」という仕方で一時停止させ、世界全体を廃棄することなく一挙に「括弧の中に置

き入れる(einklammern)」方法として定式化されている。そしてエポケーを蒙ることなく残り続

ける「現象学的残余(das phänomenologische Residuum)」(III/1,66)を、「世界無化」によってもなお

残る「絶対的意識」として析出するための諸考察が、デカルト的還元論の中核をなす。これに

よって意識は世界の存在如何に関わりなく存在し得る「絶対的存在」として、他方、事物世界

3 Anthony J. Steinbock, Home and Beyond: Generative Phenomenology after Husserl, Northwestern University Press,

Evanston, 1995. この著作からの引用は HB と略記し頁数とともに本文中に記す。

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超越論的現象学と世代発生的現象学

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は意識に依拠した「相対的存在」として明らかにされる。この絶対的な「純粋意識」が諸々の

「超越」を「意味の統一」として志向的に「構成」するが故、それは「超越論的意識」と呼ば

れ、その構成的諸問題の全幅に渡る解明こそが超越論的現象学の「事象そのもの」に即した研

究主題と定められたのであった。

この還元論では、デカルトとの相違を特徴付ける「括弧入れ」の方法が「世界無化」の想定

に至ってその本来的意義を不明瞭なものとし、これが『イデーン・Ⅰ』以後のさらなる方法論

的反省を促す一要因となった。その後「現象学的心理学」や「生活世界」を経由する道程など

「超越論的意識」の無限の広がりを充分に汲み尽くし得る還元の方途が案出されたが、超越論

的転回を遂げた当初の段階では、やはり「厳密な学的哲学」がその上に拠って立つべき絶対確

実な「基礎」をまずもって領域的に確保するという志向、「動機」が強く働いていたと推察され

る。

この「厳密学」の樹立という目的意識もまた、当然デカルトから受け継がれたものであった。

フッサールはデカルトに由来する学問的「動機」を「超越論的」という用語に結び付け、次の

ように述べている。「私自身は『超越論的』という言葉を最も広い意味で、、、、、、、

、デカルトによって近

代哲学全体において意味あるものとなり、そこにおいて言わば自己自身に還帰し、真正でかつ

純粋な課題形態と体系的成果を獲得しようとする…原的な動機(originale Motiv)に対して用い

る」(VI,100)と。「究極的な基礎づけに基づく学」(V,139)の樹立というデカルト的「動機」は

彼にあって「超越論的」現象学の哲学態度を根本において規定するものであった。

本節では、フッサールの「超越論的転回」は動機と方法の両面において、あるいは双方が一

体化した仕方で「デカルト的」に遂行されたことを再確認したが、こうした超越論的エゴへの

還元、およびそれに基づく認識論的基礎づけという彼の目論見は、これまで様々な批判を蒙っ

てきた。次節ではフッサールのデカルト主義を斥け、超越論的現象学の基礎づけ主義からの解

放を目指すスタインボックの研究に焦点を当てる。

二 共に基づけ合う構造としての故郷世界と異郷世界

スタインボックは”Home and Beyond”序文の冒頭で、この著作が「社会的世界」における「同

一性と差異(identity and difference)の問題」(HB,1)に取り組むものであることを明言し、この問題

の解決を目指してフッサールの現象学を「超越論的、、、、

」でありながら、同時に”non-foundational”

な学へと展開することを宣言している(HB,3)。”foundation”の原語”Fundierung”は通常「基づけ」

と訳されるが、以下に見るように、スタインボックはこれを「非-基礎づけ主義的」という意味

合いで使用している。本来「基づけ」は『論理学研究』第三研究の中で、部分と部分あるいは

部分と全体とのイデアールな論理学的関係を精査するために用られたものである。この場合、

当該の「対(Paar)」は、一方が他方に依存する「一方的(einseitig)」関係か、互いに依存し合う「相

互的(gegenseitig)」関係、いずれかを形成する。しかしながら「基づけ」概念はその後『イデー

ン・Ⅰ』において「明証(Evidenz)」と結び付けられ、認識論的な問題設定の中で「一方的」な

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超越論的現象学と世代発生的現象学

- 140 -

「基礎づけ(Begründung)」概念へと変様したとされる(HB,10)。

意識による世界の「基礎づけ」というデカルト的思想は、「第五」の「デカルト的省察」にお

いて「自我」と「他我」の関係が静態的に分析される際、すなわち時間性を度外視した上で「他

者」の妥当構造が問われる際に、そのまま反映されている。そこにおいて他者は、この「私自

身の変様 Modifikation meines Selbst」(I,144)として、根源的自我による一方的な基礎づけを要す

るものと考えられている。この議論に対しては、むしろ自他は「等根源的」なものとして把握

されるべきであるといった批判が向けられることもある。自我による他我の基礎づけを斥ける

限りにおいて、スタインボックの見解はその種の批判と大いに重なり合うものである。つま

り”non-foundational”な現象学において探求されるのは、一方向的な「自己移入(Einfühlung)」に

よって捉えられた自他の関係ではなく、何らかの「共に-基づけ合う(co-founding)」ような関係

性に他ならない。

しかし「第五省察」においても、その静態的な自己移入論は実際、「対化(Paarung)」と呼ばれ

る受動的現象の発生的究明を介して展開されている。すなわち「私の身体」と知覚された「物

体」は「類似性」をもとに「対」を形成し、その間では相互的な「意味の移入 Sinnesübertragung」

(I,142)が起こると考えられている。こうした時間発生的な諸分析の成果をわれわれは『省察』

以降のテクストに多々、見出すことができる。それにもかかわらず、第一の「静態的現象学」

はもとより、第二の「発生的現象学」にも留まらず、第三の方法として「世代発生的現象学」

が提唱されるのは何故であろうか。この新たな方法が探求する「世代性」の次元はフッサール

自身によっていかなる仕方で開拓されたのであろうか。

差し当たり「世代」とは、他の人間たちの誕生と生殖行為、そして彼らの死によって連続的

に形成される、歴史全般にわたる人間的「生」の連鎖であると言うことができよう。従ってそ

れは、後期現象学の主題である「相互主観性」と「歴史性」の問題系の結節点に位置し、フッ

サールは 30 年代、折に触れてこれを思索の事柄とした。その際、超越論的分析の中心となるの

は「繁殖(Fortpflanzung)」によって形成される諸「世代」を通じて、諸々の「意味」の統一が内

容的には変様を蒙りつつも連続的に後世へと継承されるその「伝播(Fortpflanzung)」の過程、す

なわち意味の「世代発生」の過程である。

しかし現象学が超越論的な自己省察である以上、「世代」形成の根幹にかかわるはずの「誕生

と死」の現象からしてすでに極めて扱い難いものと言わざるを得ない。自己の「生」に対する

遡及的な眼差しをどれほど「過去」へ遡らせようと、自己自身の「誕生」の場面を視野におさ

めることは不可能であり、「死」もまた同様の困難を抱えている。スタインボックは発生的分析

における「誕生と死」のような現象を、「与えられることができないものとして与えられる『現

象』」という意味を込めて「限界現象(limit-phenomena)」と呼ぶ4。しかし彼によれば「誕生と死」

が「所与性の限界」に位置するのは、あくまでもその際に適用される「発生的現象学」の方法

4 Anthony J. Steinbock, “Limit-Phenomena and the Liminality of Experience”, Alter: Revue de Phénoménologie No.6,

1998, p.275

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超越論的現象学と世代発生的現象学

- 141 -

論的限界に起因する。発生的現象学の持つ限界および世代発生的現象学は以下のように特徴付

けられる。「個的な主観性、同時代の個々人の共時的領野、自我論において基礎づけられた相互

主観性、こうしたものの生成に制限された発生的分析とは対照的に、世代発生的現象学が取り

扱う諸現象は、まさにそもそもの始まりから、歴史的、、、

、地理的、、、

、文化的、、、

、相互主観的で規範的、、、、、、、、、

な、諸現象である」(HB,178)と。つまり世代発生的現象学は個々人の「生」に制約されず、「そも

そもの始まりから」してすでに「相互主観的」であるような地理的、歴史的現象としての「世

代性」を自らの「事象そのもの」と見定める。そこでは「自我」と「他我」に代わり、「故郷世

界」と「異郷世界」を根本現象の地位を占める。そして「基礎づけ主義」を免れた新たな現象

学の可能性は、この故郷世界/異郷世界の枠組みを「共に-基づけ合う」構造として把握するこ

とによって探求される。しかし故郷と異郷はいかなる意味で「共に-基づけ合う」のか、次節で

はこの問題とともに、世代発生的現象学が「超越論的」現象学の一方法として確立され得る理

論的根拠をスタインボックの議論をもとに明らかにする。

三 スタインボックの世代発生的現象学

スタインボックは、世界全体を一挙に「括弧に置き入れ」、超越論的領界へと至るデカルト的

な「前進的アプローチ」ではなく、あらかじめ与えられた「生活世界」に立脚してその先所与

性へと発生的、遡及的に問いかける「後退的アプローチ」の方を重視する。言うまでもなくこ

れは『危機』における「生活世界」を経由する還元の道のりであるが、この「生活世界」論は

疑念の余地なく明確な仕方では提示されていない。「生活世界」概念の孕む「二義性」を鋭く指

摘したウルリッヒ・クレスゲスは、客観的諸学に対して「地盤」的機能を果たす狭義の「生活

世界」と、諸学の対象としての世界のみならずその他一切の「特殊世界(Sonderwelt)」を「全き具

体相」のうちに包括する広義の概念を、フッサールにおける「世界」概念一般の二義性と結び

付けた。すなわち広義の生活世界は、存在論的観点に基づく世界の「総体(Inbegriff)」的解釈に、

他方、学の基礎としての生活世界は、世界を「地平」と捉える超越論的観点と結び付けられる。

その意味において「フッサールにおける生活世界概念は…はじめから存在論的-超越論的な中間

的概念(Zwitterbegriff)である」5と述べられる。

スタインボックもまた世界の「総体」的解釈を斥け、生活世界を超越論的観点から「領土

(territory)」という概念によって捉える。彼は(1)原理的に直観可能なもの、(2)意味の基礎

foundation、(3)主観的-相対的な真理の領域、(4)知覚世界の本質構造(HB,87)といった様々な規定

を、生活世界の「暫定的(provisional)概念」と見なす。これに対して生活世界の「超越論的概念」

とされるのは「世界-地平(world-horizon)」並びに「大地-地盤(earth-ground)」という二つの概念

である。これについてフッサール自身は次のように述べている。「世界は一つの存在者、一つの

5 Ulrich Claesges, “Zweideutigkeiten in Husserls Lebenswelt-Begriff”, in U. Claesges und K. Held (hrsg.), Perspektiven

transzendentalphänomenologischer Forschung, Den Haag, 1972, S.97

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超越論的現象学と世代発生的現象学

- 142 -

対象のように存在するのではなく、唯一性(Einzigkeit)において、すなわちそれに対して複数が

無意味であるような唯一性において存在する。あらゆる複数とそこから取り出される単数は、

世界地平(Welthorizont)を前提とする」(Ⅵ,146)。あるいはまた「生活世界は…その世界において

目覚めて生きているわれわれにとって、つねにすでにそこにあり(immer schon da)、われわれに

とってあらかじめ存在し、理論的実践であれ理論以外の実践であれ、あらゆる実践のための『地

盤(Boden)』となる」(Ⅵ,145)と。

事物的対象と原理的に異なり「つねにすでにそこにある」という仕方であらかじめ与えられ

ている地平と地盤は、あらゆる事物経験を可能にする構成的条件として「超越論的」機能を果

たす。スタインボックによればこの両者は「領土」としての生活世界の「二つの様相」を為す

ものである。それでは「領土」というこの超越論的解釈によって、いかなる生活世界論が示さ

れているのであろうか。彼は次のように述べている。「領土は…他のものに対して無差別に並置

された一つの生活世界ではあり得ない。それはわれわれの歴史的、文化的領土として限界づけ

られる。つまりそれは『故郷世界』として規範的に重要なものであり、異郷世界との共-構成的

(co-constitutive)かつ共-世代発生的な(co-generative)関係のうちにある」(HB,122)と。つまり「領

土」は、相対的に完結した諸々の生活世界の並列的共存を示唆するものではなく、むしろ「わ

れわれ」の帰属する地理的、歴史的に「限界づけられた」一定の領界を、その向こう側に広が

る「彼ら」の領界と「共に」指示するものである。こうして、われわれにとって馴染みのある

通常の「故郷世界」と馴染みのない異質な「異郷世界」は、「限界」によって隔てられつつ「共

に」存立する構造として明示される。

しかし両者は決して固定した「限界」によって画然と隔てられているわけではなく、その「限

界」は経験の経過を通じて常に推移する。つまり、故郷はわれわれの帰属する家族、村、何ら

かの組織、民族等々、様々な規模と範囲で、そのつど新たに限界づけられて構成される。フッ

サールは、異他的なものとの遭遇とその理解を通して「周囲世界」が漸次的に拡大を遂げる過

程を、「中心」から「環状に(ringförmig)」(XV,429)、あるいは「円錐状に(kegelringförmig)」(XV,438)

広がる連続的拡大であると見なしたが、これに対して世代発生的現象学は、故郷と異郷を多層

的で変動的な枠組みとして捉える。故郷/異郷は「共-世代発生的」なものとして、経験連関の

中で常に新たに生成され続けるのである。

それではこの関係性はいかにして「共に-基づけ合う」ものとして経験され得るのであろうか。

スタインボックは故郷/異郷構造に対する経験様式を、「共に」連関しながら「限界」の「向こ

う側」を暗黙のうちに構成する、「限界づける経験遂行(liminal experiencing)」として記述してい

る。故郷/異郷を「限界づける経験」としては「我有化(appropriation)」と「侵犯(transgression)」

という二つの様式が挙げられている。「我有化」とは故郷の文化的伝統を引き受ける意味構成の

過程であり、この過程を通じて、異郷がわれわれにとっては「馴染みのない」、「異常なもの」

として暗黙のうちに限界づけられつつ共に構成される。また「異郷との侵犯的遭遇」(HB,181)

によって、突如「理解不可能なもの」として眼前に現出する「異常なもの」が「異郷」として構

成される一方、こちら側の「正常性」そのものが際立たせられることによって、故郷的なものが

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超越論的現象学と世代発生的現象学

- 143 -

共に構成されるのである。世代発生的な「超越論的」分析は、この二種類の「限界づける経験

遂行」が、意味の世代発生において「構成的な二重奏(duet)」(HB,179)として機能する場面を記

述する。

以上のように故郷/異郷の「共-構成的」解釈は、確かに「一方的」な基礎づけ関係とは異な

るものである。しかしまた、故郷/異郷は単純に「等-根源的」なものでもない。二項が「等-根

源的」であると言われる場合、その二つの根源が真に「等しく」根源的であるとするならば、

両項は相互に転化可能なものでなければならないだろう。しかし明らかにわれわれは「異常性」

として際立たされる異郷の側に立って、これを「故郷」として経験することはできない。われ

われはあくまでも故郷のうちに生きるのであり、それは故郷/異郷が「不可逆性(irreversibility)」

あるいは或る種の「非対称性(Asymmetry)」を有するということを示している。世代発生的現象

学はこの不可逆的で非対称的な枠組みの中で生ずる意味の連続的発生に入り込み、意味生成の

超越論的分析を試みる。それではこの新たな分析方法によって、フッサールの超越論的現象学

は「基礎づけ主義」から解放され得るのであろうか。また世代発生的現象学はフッサールの超

越論的現象学に対してどのような関係にあるのであろうか。

四 超越論的現象学と世代発生的現象学

フッサールにとって「哲学」の意味を決するのはまさに「世界内的主観性(人間)から『超越

論的主観性』への上昇」(Ⅴ,140)以外の何ものでもなかった。「生活世界」はあくまでも「超越

論的主観性」へと至る途上で経由する地点であり、晩年の彼は還元の矛先を、今まさに機能し

つつある主観性へと先鋭化し、「生き生きした現在」や「原-自我」、「先-自我」の問題系の解明

に取り組んだ。しかし反省は本来的に事後的な確認に過ぎず、意識の機能現在をありのままの

姿において捉えることを目指す究極的な還元は、現象学的意味での「形而上学」に道を開くも

のであった。「誕生と死」を例に挙げて確認したように、「世代」に関わる諸問題もまた、フッ

サールの発生的現象学においては「形而上学」的課題に他ならない。

これに対して、超越論的主観性への還元を斥けるスタインボックの試みは、地理的、歴史的、

相互主観的な世代的発生の次元について、「生活世界」の地盤に立脚した上で積極的に語り得る

視座を提供しようとするものであった。それは、世界や他我の基礎としての自我に代え、異郷

世界という他なるものを常に「限界」の向こう側に予感する、われわれの故郷世界への注目を

促した。故郷と異郷を「共に-基づけ合う」関係において把握する限り、自我という絶対的「基

礎」に依拠することのない現象学的分析は確かに可能であり、フッサール自身、こうした分析

を相当な程度において実際に遂行していた。しかし故郷/異郷がまさに世代発生的現象学の根本

的な構造的枠組みとして取り出されるのだとすれば、この方法はやはり超越論的な「基礎づけ

主義」を完全に免れることはできないのではないか。少なくともフッサールならば、今まさに

故郷/異郷を「限界づける経験」を遂行している当の主観に対して「発生的現象学」の立場から

遡及的な眼差しを差し向けるものと思われる。これが「背後遡行不可能性」の探求という意味

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超越論的現象学と世代発生的現象学

- 144 -

での「基礎づけ主義」として解されることは、はじめに述べた通りである。

また、世界経験のアプリオリな「構造」把握は、むしろ『イデーン』期以来「静態的現象学」

の分析課題ではなかったか。しかし、スタインボックもその著作を締め括る最終節では次のよ

うに述べている。「現象学の事象は世代発生的であり、従って絶えず生成しつつある事象なので

あるから、世代発生的現象学は静態的から発生的、世代発生的へ、また世代発生的から発生的、

静態的へ、等々、絶えず『前後に』に行き来することを要求するであろう」(HB,268)と。従っ

て、「静態的現象学」ならびに「発生的現象学」というフッサール自身によって定式化された二

つの分析方法は、決して昇りつめた後に捨て去られるべき「梯子」を意味するものではない。

さらにスタインボックは、この永続的な前後運動としての現象学それ自体が、「世代性」という

意味の生成発展過程に対する学問的な「参加(participation)」活動であるという点を強調する。

つまり、現象学を営むということは単なる「記述学」の遂行に留まらず、むしろ「世代発生の

過程のうちにある相互主観的で歴史的な構造の意味的発展に対する参加」(HB,268)を意味する。

フッサールにとって「究極的な基礎づけに基づく学」は、「究極的な自己責任」によって引

き受けられるべき学問的課題を意味していた(V,139)。スタインボックも言うように、ヨーロッ

パ諸学の「危機」を訴え、その克服を目指すフッサールの学問的企図は、歴史的世界に対する

哲学者としての倫理的な参加活動であった。絶えず変化のうちにある「世代性」を理論的根拠

としてフッサールの「主観性」への還元を批判した世代発生的現象学が、現象学を営む省察者

自身に対して「主観的」反省を促す側面があるとすれば、それは現象学の遂行をこうした責任

ある「参加」として自覚すべきだという倫理的観点であろう。その限りにおいて、フッサール

の「超越論的」哲学の内的「動機」は、世代発生的現象学によって積極的に継承されていると

言うことができる。

(まえだなおや 大学院博士後期課程)

[キーワード]

フッサール、スタインボック、世代性、世代発生的現象学、故郷/異郷

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【書評】朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』

- 145 -

【書評】

朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』1

舟場保之

J.ハーバーマスは、現代ドイツを代表する哲学者として、主要な著作のみならず、新聞や

雑誌に掲載された時事的な発言に至るまで、数多くのものが邦訳されている。ハーバーマスの

入門書やハーバーマスをメインに据えた研究書の類は少なくない。さらに、これらの入門書や

研究書のうち、ハーバーマスが 1970 年代初めから提唱するようになった討議倫理学について、

何らかの形で言及するものが大半を占めていることもたしかである。しかし、討議倫理学とい

う名称をそのままタイトルに含む著作は、評者の知るところ現在朝倉氏のものが唯一である。

「ハーバーマスの討議倫理学の理論的形成の流れを視野に収めた論考は寡聞のため知らなかっ

た」(232)とあとがきで記されるように、実際、ハーバーマスの討議倫理学がどのような経緯を

経て形成され彫琢されていくかを主題として、綿密に分析し、その意義と可能性をさぐる本格

的な試みは、これまでなされてこなかったと言えるだろう。こうしたコンテクストにおいて、

『討議倫理学の意義と可能性』は非常に意欲的な仕事である。以下では、まずは本書において

論じられている事柄を各章ごとに要約する。次に、全体を振り返り討議倫理学の意義と可能性

がどこに見出されているのかを明確にする。最後に、評者にとってのいくつかの疑問点を論じ

ることにしよう。

「複合的社会における理性的同一性形成の可能性」というタイトルがつけられた序論では、

本書全体のもつ方向性が示されている。現代社会においては、多元的な価値観ができるかぎり

尊重されるべきであると考えられており、これまでとは異なり、特定の伝統や形而上学によっ

て個々の行為を正当化することが困難になっている。しかし、行為の「正当化」が問題とされ

る以上、現代社会においてなお、合理性を確保することが可能であると考えられているのであ

り、ハーバーマスは一貫して合理性について包括的な理論を構築しようとしてきた。その成果

1 朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』、法政大学出版局、2004 年。引用箇所のページ数を丸括弧内に記す。

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【書評】朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』

- 146 -

が討議倫理学として結実するわけである。したがって、「討議倫理学は、このような[正当化の]

課題にどう答えることができるのだろうか」(2)という問題提起に対する解答が、討議倫理学の

もつ意義と可能性として第一章以下に展開されることになる。

第一章「二つの論争――討議倫理学構想の契機」においては、ハーバーマスが解釈学論争お

よびシステム論論争を契機として、どのように討議倫理学を確立するようになったかが論じら

れている。朝倉氏によれば、ハーバーマスはこれらの論争を通じて、「複合的社会において自我

同一性と集団的同一性をいかに理性的に形成するか」(13)という問いに対して答えることを課

題とするようになり、「妥当要求の認証を吟味する討議の形式に合理性を求めるほかない」(14)

という結論を明確に導いた。したがって、討議倫理学は形成されるその端緒においてすでに、

序論において示された問題状況に応えるものとして構想されていたことになる。さて、ハーバ

ーマスは実証主義を批判するうえでガダマーの解釈学に対して高い評価を与える。事実に対し

て一般的規則を適用する際に必然的にともなう実証主義の循環の問題を、解釈学が明るみに出

すからである。しかし同時に、解釈学は言語を実体視することによって、解釈が行なわれる際

に依拠する規範などの準拠体系を不可視にする。それは、事実として妥当しているにすぎない

準拠体系が自明視され、その妥当性については問われないことを意味している。同じことは、

ルーマンのシステム論についてもあてはまる。システム論では、事実として通用しているにす

ぎない事柄が、複雑性の縮減というロジックによって機能主義的に正統化されてしまうからで

ある。それに対して討議倫理学は、<事実としての妥当>や<事実としての通用>を、(後の章

で詳細に分析される)妥当要求の事実的な承認にすぎないととらえ、妥当要求は要求である以

上その妥当性に関してつねに批判的な討議にさらされ、認証される必要があると考える。こう

した討議こそは、コミュニケーション的合理性を成立させるものである。しかもこの合理性は、

袋小路に陥っていた批判理論に対して、新たに規範的基盤を与えることができる。『啓蒙の弁証

法』が道具的理性批判によって理性を全面的に批判し、理性自身の反省による自己批判を不可

能にしてしまったのに対して、対話による意見形成や意思形成を可能にする対話的公共性を規

範として、生活世界の病理や歪みとして現れるシステムによる生活世界の植民地化を批判でき

るようになるからである。

すでに第一章において、本書で主張される事柄の大枠が示されたのに対して、第二章「討議

倫理学の一般的性質と討議の諸タイプ」では、討議倫理学が精緻化されてゆくとともにハーバ

ーマスの用語の意味がどのように変遷してきたかに関して、ありうる誤解を避けるために文献

学的な考察がなされる。まず、ハーバーマス自身の言葉に従って、討議倫理学がもつ4つの一

般的性質(「義務論的」、「認知主義的」、「形式主義(手続き)的」、「普遍主義的」)について簡

潔な説明がなされた後、A.フェラーラの論文に則り、「討議倫理学の発展行程」(41)が4つの

時期に区分される。それによれば、準備期(1972-81)およびコミュニケーション・パラダイムの

古典的定式化の時期(1982-83)において、実践的討議の意味は曖昧であるが、調整期(1984-91)に

おいて正義(Gerechtigkeit)と善(Gut)が厳密に区別され、規範的妥当性は法的、道徳的、政治的妥

当性に、そして実践的討議のタイプも3つに分類されるようになる。さらに現在の段階(1992-)

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【書評】朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』

- 147 -

では、これまで周縁的な地位が与えられていたにすぎない善に関わる倫理的討議が、プラグマ

ティクな討議および道徳的討議とならぶひとつの重要な実践的討議として、数えられるように

なっている。これらの3つの討議は、それぞれ実践理性のプラグマティクな使用/倫理的使用

/道徳的使用に対応し、自己の目的と選好を出発点とする行為者自身のパースペクティヴ/自

分自身の善や生活設計というパースペクティヴ/自己中心性から完全に決別したパースペクテ

ィヴから、合目的性/善/公正さをテーマとし、行為の技術的・戦略的指示/臨床的忠告/道

徳判断を形成する(57ff.)、といった具合に分類されることになる。

倫理的討議の位置づけが変わった理由は後半の章で論じられ、第三章「コミュニケーション

的行為と正統化の問題」では、第一章で論じられた事柄の裏づけが行なわれる。つまり、ハー

バーマスによって「正統化問題がいかにして正当化の問題として論じられるにいたったか」が

検討され、このような展開がもつ「正統化問題に対する意義とその可能性(69)について考察さ

れる。さて、資本主義社会における行政システムの正統性は、それがサンクションや個々の成

員の利害関心に基づくかぎり、合理的な動機づけを得られず、危機的状況を免れえない。では

合理的な動機づけはどのようにして確保されるのか。ハーバーマスは、正統性をひとつの妥当

要求ととらえる。したがってそれは「つねに議論の余地を残しており」「正当化を必要とする」

(81)。正当化は、討議の参加者すべてが議論を通じてよりよい論拠に基づいて合意を達成する

ことにおいて見出されるので、このプロセスによって合理的な動機づけが確保され、手続き的

正統化が果たされることになる。ハーバーマスの見るところ、近代国家は市民が自発的に法秩

序を承認するように求めており、またこうした意味での正当化の能力をもっているのでもある。

しかしこのような形で、正統性の問題が正当性の問題へ「還元」(83)されてしまうことに対し

て朝倉氏は批判的であり、むしろハーバーマス自身の正当性に関する議論のなかに、正統性の

問題に対してもちうる意義と可能性を求めている。それは、ハーバーマスの市民的不服従に関

する議論である。ハーバーマスはここで、対等な対話状況にない現実において、正当性の観点

からなされる象徴的行為として市民的不服従を認めている。このときハーバーマスは、「包括的

で開かれた民主主義のプロセスを通じて形成される意見や意思にもとづいて、国家がいわば下

から正当化されなければならない」(85f.)と考えていることになる。既存の正統性はつねに議論

において吟味されなければならず、そのための制度も整えられなければならないのである。

第四章「討議原理と道徳原理」では、前半において『道徳意識とコミュニケーション行為』

(1983)で論じられた討議原理と道徳原理の関係が『事実性と妥当』(1992)では再考されているこ

とが明らかにされ、後半においてこの再考と同一の見解に基づいたハーバーマスのアーペル批

判が再構成される。再考は、2つの原理の根拠づけ関係に関するものである。当初は、道徳原

理が討議原理を根拠づけると考えられていたが、『事実性と妥当』では、討議原理が道徳と法に

対して中立的であり、討議原理から相互補完的な道徳と法が等根源的に導出されうると考え直

されている。討議原理こそが道徳原理と民主主義原理とを根拠づけるのであり、「道徳理論が法

規範ないし法理論の上位に立つことはない」(97)。これが再考の結論であり、このスタンスか

らハーバーマスは、同じく討議倫理学を論じるアーペルを批判する。ハーバーマスによれば、

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【書評】朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』

- 148 -

討議倫理学の課題は判断形成の不偏不党性を保証する手続きを示し、討議に普遍的かつ必然的

に含まれる論議の規則を明らかにすることにある。ハーバーマスにとっては、このような「討

議の語用論的前提の解明それ自体」(107)が論議の規則の根拠づけを意味している。なぜなら、

道徳的命令はそれ自体がすでに規範であるからであり、にもかかわらずさらにこの命令を反省

して義務づけを根拠づけようとすれば、それは<超規範(Supernorm)の根拠づけ>を意味してし

まうからである。アーペルはこうした<哲学的な>試みによって、「道徳原理に政治的意思形成

という意味での政治理論的・法理論的問題設定を抽象的に先取りして組み込もうとしている」

(109)ことになるが、それは道徳原理によって法および民主主義原理を根拠づけるというハーバ

ーマスが斥けた発想に他ならない。道徳的問いは、哲学が特権的に答えを与えるべきものでは

ない。どのように答えるかは――ハーバーマスの討議倫理学に従えば――それぞれのコンテク

ストを背景として賢慮ないしは反省的判断力を働かせる討議の参加者たち自身に委ねられるこ

とになるだろう。

第五章「妥当要求、妥当と妥当性」では、真理性要求と規範的正当性要求に関するハーバー

マスの区別の仕方が批判的に考察されるとともに、第一章でふれられた妥当と妥当性のダイナ

ミックな関係がもつ可能性について論じられる。ハーバーマスは、真理性要求が関係する事実

の世界について、事態は真なる言明によって確認されるかどうかに関わることなく存在し、し

かも実在する事態と真なる言明との間には一義的な関係があると考えている。朝倉氏はここに

「ハーバーマス流の『物自体』」(121)を読み取り、「鉄は磁性をもつ」というハーバーマス自身

が挙げる例に則して反駁を試みる。ハーバーマスは、鉄が磁性をもつことを事実的・客観的世

界に属する事柄として考えているが、しかし物がある性質をもつということは、われわれが「機

能連関を物に帰属させ」たことの「結果」に他ならないのであって、「われわれの間主観的・実

践的連関を抜きにしてはありえない」(124f.)ことである。したがって、真理性要求も規範的正

当性要求と同じように、間主観的に承認されるものである。ところで、真理性や正当性に関し

て間主観的な一致が見られるときというのは、何が真理であり何が正当であるかを定める基準

に関して、間主観的な一致が<事実として>成立しているときである。すると、間主観的な一

致とは「しょせん」(129)<事実として通用していること>にすぎなくなるのだろうか。ここで、

討議において考えられるすべての論拠を顧慮するとともに関連するすべての異論を汲み尽くす

という理想的な条件を想定し、このような条件下で同意・了解に達した事柄こそが妥当性をも

つと考えることで、妥当と妥当性のダイナミズムが見えるようになる。ある妥当要求は当事者

たちにとってのみ通用しているだけかもしれないため、その妥当性を問われなければならない

が、しかしまた、討議において新たに異議申し立てがなされるまでは、それは一般的な妥当を

もつことになるのである。

妥当と妥当性のダイナミズムは、インフォームド・コンセントなど医療に関する問題におい

て、実例を見ることができる。第六章「医療における討議倫理学」では、これらの問題への討

議倫理学の適用が検討される。1960 年代以降、主としてアメリカを中心にパターナリズム医療

への対抗モデルとして自分自身の生命に関する患者の「自律(自己決定権)」(141)が力をもつ

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【書評】朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』

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ようになった。しかし、M.ミースや C.ギリガンが適切に批判するように、自律的な主体と

いってもそれは実際には、たとえば「財産所有者」(149)のような限られた人間でしかなかった

点を見逃してはならない。討議倫理学は、「『傷つきやすい人間への尊厳』を基礎とし、自律を

損なうことなく共同性を確保することを目的」(161)としており、それゆえ医療倫理への適用が

試みられるのである。たとえば、討議倫理学が重要視する<当事者のパースペクティヴに立つ

こと>を可能にするために、従来とは異なり、痴呆症患者自身の言葉を聞き取ることが当為と

されたり、またQOL測定基準をめぐるコミュニケーション状況を討議倫理学的視点から反省

することによって、疾病がたんに物理的・身体的現象にすぎないのではなく文化的なものでも

あることが判明し、こうした認識から始まる新たな対話が提案されたりする。ハーバーマス自

身も討議倫理学を適用し、人間のクローン化に反対する論拠の一つとして、クローンとして生

まれてきた当人の<かけがえのない同一性形成>が阻害されることを挙げている。これは、討

議倫理学によって行為者自身のパースペクティヴが導入されたことに基づく論拠であり、また

朝倉氏も、「討議倫理学は……当人のパースペクティヴという『道徳的自己理解』の観点を導入

することで、生命・医療倫理の新たな次元を開く可能性をもっていると思われる」(163)と言う。

第六章において討議倫理学の医療倫理への適用が検討されたのに続き、第七章「正義(公正

さ)とケアについて」においても、討議倫理学の応用問題が扱われ、副題(「討議倫理学とケア

倫理学の架橋のために」)が示すように、両倫理学の連携ないしは統合が企てられる。まず、ケ

アの概念史が簡潔に論じられた後、(倫理性と自然的性差とを本質主義的に関係させる点が批判

されつつ)ギリガンのケア倫理の特徴が示される。ギリガンは、公正さや権利といった抽象的

な理念や、自律および人格への尊敬といった不偏不党的な原理を内容とする<正義の倫理>に、

ケアや愛、友情といった(具体的な)他者に対する関係を価値の中心におく<ケア倫理>を対

置する。「ケアの倫理が強調するのは、他者を含む環境の諸要素との密接な相互連絡網を認識し、

対話を重ね、関係網を強化することの重要性」(190)である。ギリガンの批判を受けたコールバ

ーグはケア倫理を保証するものとして<善意>をもち出すが、ハーバーマスは<善意>が「ス

ーパーエロゲーション的行為であり」「道徳的義務として根拠づけることはできない」(192)た

め、コールバーグとは別の仕方で2つの倫理を統合しようと試みる。出発点となるのは(コー

ルバーグと同じく)、社会化を通じてしか個体化されえない人間の傷つきやすさであり、傷つき

やすい個々人に対する等しい尊敬である。各人は相互承認関係のネットワークのなかでのみ、

傷つきやすいアイデンティティを相互に確立でき、かつそれぞれが帰属する集団のアイデンテ

ィティによってこれを安定させることができる(vgl.193)。ハーバーマスは、<各人の尊厳に対

する等しい尊敬>を「一個同一の根源」(173)として、各人が自己自身を規定する自由を等しく

もつことの<正義>と、生活形式を間主観的に共有する仲間の福祉に関係をもつ<連帯>とい

う相互補完的な原理を導くのである。

末尾の第八章「討議倫理学の意義と可能性」においては、討議倫理学を内在的に批判するこ

とによってこれに意義を認めつつ可能性をさぐる3つの研究が検討される。S.ベンハビブは、

ギリガンが具体的な人間関係にもとづくケアと責任の問題を道徳の中心問題としたことと、普

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【書評】朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』

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遍主義的正当化とケアの問題に対して対話モデルを提供したこととを評価する(vgl.205)。対話

は、「すでに確立されている一連の規範や慣習の再生産」の場としてではなく、これらの「規範

や慣習に疑問を投げかけ、普遍的観点から承認に値する妥当性を有するのかどうかを判定する」

(208)場として重視される。また、具体的な人間関係への着目から、自己は、無時間的なアイデ

ンティティではなく、物語的な統一体としてのアイデンティティをもつものとして考えられる。

W.レーグは、「不偏不党性とケアの関係について『適用の討議』で答えようと試みる」(210)。

必要なのは、規範の妥当を根拠づける正当化の討議とともに、ある状況においてありうる観点

すべてを不偏不党的な立場から熟慮し、規範をその状況に適切に根拠づける「適用の討議」な

のである。しかも、適用はたんに意味論的明確化の問題ではない。もしそうであれば、正当化

のレヴェルでさまざまな規範の意味に同意することは、それらの規範の優先順位を決定するラ

ンクづけについてもすでに同意していることを意味するからである。<適用の討議>において

は、対立する規範や利害関心のまさしく明確化とランクづけが間主観的なテストを通じて新た

に行なわれるのであり、さらにまたこの討議は正当化の討議によって補完され、討議の結論が

普遍化可能かどうかについて、「再度問われなければならない」(214)。フェラーラは、道徳的

討議が万人にとっての善とは何であり、人類の一員としてのアイデンティティとは何であるの

かという倫理的討議からは厳密に区別できないどころか、むしろ前者は後者の特殊な事例であ

ると考える。したがって、不偏不党性や公正さは「人類にとっての善に関するわれわれ自身の

直観と両立可能でなければならない」(218)と言う。

これらの内在的批判のうち、朝倉氏はまずフェラーラの議論に対して、道徳的討議を倫理的

討議の一審級ととらえるのではなく、ハーバーマスに則って両者の区別を堅持しつつ、しかし

カントの公的/私的の区別と同様にこれを相関的な区別と考え、2つの討議の「相互作用性・

相互補完性」(221)を強調する。レーグについては、2つの討議が区別される点と普遍化原則に

関して「強い」解釈を行なわない点に関して、ハーバーマスとの一致が見出される。ベンハビ

ブは、ケアの倫理を主張しつつも、それが「具体的人間関係にとらわれやすいことと、差異が

強調されることに慎重」(223)であり、レーグとは一定の距離がある。しかし、ベンハビブが普

遍主義と具体的な他者の欲求および福祉とを相互補完的なものとして考えようとしていること

は、普遍主義対相対主義という二元論的対立を克服する取り組みとみなすことができ、ここに

おいてやはりベンハビブとハーバーマスの一致が見出されている。

以上のような各章ごとの要約から明らかとなるのは、本書では序論において示された方向性

どおりに、価値観が多元化する現代社会においてどのようにして生活形式の文法を正当化しう

るのかという問題に対して、討議倫理学の意義および可能性を論じることによってひとつの解

答が与えられようとしていることである。第一章では、確立されるその端緒においてすでに、

討議倫理学がこの問題に答えようとする議論であったことが検証され、第三章において、討議

倫理学が正統化問題を正当化問題として捉え、正統性はひとつの妥当要求であるからつねに討

議を通じた合意に基づく正当化を必要としていると考えていることが示される。この正統化/

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【書評】朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』

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正当化の問題は、第五章で示されるように妥当/妥当性のダイナミズムの問題として論じるこ

ともできるが、それは討議倫理学が、討議において考えうるすべての論拠を汲み尽くすという

理想的な状況を想定するからこそである。第二章、第四章は、それぞれ討議倫理学をこのよう

に解釈するうえで問題となりうる用語の使用法を文献学的に整理し、全体の論旨をフォローす

る章となっている。この2つの章も含めて第五章までは、いわば討議倫理学の理論的見地から

の意義と可能性がテーマ化されているのに対し、第六章、第七章では、その応用編が展開され

ている。医療倫理への適用やケア倫理学との対話から、傷つきやすい個々人に対する等しい尊

敬を要求し、当事者のパースペクティヴに立つことを当為とする点に討議倫理学の意義と可能

性が見出され、この倫理学がたんに理論的な営為にすぎないというわけではないことが確証さ

れる。このような応用問題を踏まえた上で、第八章において討議論理学が総合的に検討される

のである。

さて、著者は本書末尾で、討議倫理学が今後克服すべき課題として、討議における主体の変

容についてどのように論じることができるかということ、また生命・自然への人工的介入・操

作という現実を前に、自然観の変容をどのように論じることができるかということを挙げてい

る(226f.)。以下では、これらの課題以外に評者が問題となりうると考える事柄について簡単に

指摘しておきたい。討議倫理学の意義と可能性は、傷つきやすい各人の尊厳を等しく尊敬する

ことを根本原理とし、この観点から、既存の規範や慣習をたんに反復するのではなく、その正

統性ないし妥当を討議にかけ正当性に関する問いに答えを与えうるような問題構制を討議倫理

学が備えている点に見出されていた。ポイントは、評判の悪い理想的発話状況のようなものを

提出するだけではなく、<当事者のパースペクティヴ>という具体的な視点が確保されたうえ

で、正当性が論じられたことにあるだろう。しかし、抽象性を克服することになっているこの

具体的な視点が、非常に問題を孕んでいると思われる。たとえばアイデンティティ・ポリティ

クスの主張者に見られるように、討議において妥当要求の論拠が当事者性におかれる場合、当

事者であるということが妥当要求を認証する決め手となり、いわば当事者のパースペクティヴ

が特権化されてしまうので、当事者以外の視点からの異議申し立てはもはや受けつけられない

ことになってしまうだろう。しかし妥当/妥当性、正統性/正当性の区分は、そもそも当事者

にとって通用する事柄が必ずしも普遍性をもつわけではないことを視野に収めていたはずであ

る。<当事者のパースペクティヴ>の強調は、場合によっては、討議におけるよりよき論拠に

基づいた強制なき合意という討議倫理学の基本構想の存立そのものを危うくするのである(ク

ローン人間でもないハーバーマスが、クローン人間として生まれてきた<当事者のパースペク

ティヴ>に基づいてクローン人間に反対する議論には、<当事者のパースペクティヴ>を僭称

する問題も見出される。討議倫理学が<当事者のパースペクティヴ>をわがものとする論拠は、

しかしどこにもないだろう)。「具体的な他者の声を聞き届ける」「原理や手続き、制度の精緻化

とその実現」(226)はたしかに重要であろう。しかしベンハビブの言うように、「具体的人間関

係にとらわれやすいことと、差異が強調されることとに慎重」(223)であるべきではないだろう

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【書評】朝倉輝一『討議倫理学の意義と可能性』

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か。

(ふなばやすゆき 大阪大学大学院文学研究科助教授)

[キーワード]

討議倫理学 妥当/妥当性 正統性/正当性 連帯

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Zur Weltanschauungslehre Wilhelm Diltheys Tokuichiro ONO

Zunächst habe ich im 1. Abschnitt versucht, darzustellen, wie Dilthey auf Grundlage der Struktur des Seelenlebens die Entstehung der Weltanschauungen erklärt, wobei ich zugleich darauf aufmerksam gemacht habe, dass seine Weltanschauungslehre einen Keim der Wissenschaftssoziologie enthält, obwohl er noch nicht imstande ist, die weltanschauliche Totalität auf die soziologische Begriffsebene zu beziehen, wie der Soziologe Karl Mannheim einmal mit Recht in seiner Arbeit ‚Über die Eigenart der kultursoziologischen Erkenntnis‛ gezeigt hat. Dann habe ich im 2. Abschnitt dargestellt, wie Dilthey in seinem Aufsatz ‚Das Wesen der Philosophie‛ drei Typen der philosophischen Weltanschauung entwickelt hat, wobei ich auf den Versuch von Karl Jaspers, mit noch treffenderer psychologischer Einsicht in das menschliche Seelenleben die Weltanschauungspsychologie als wissenschaftliche Erkenntnis und als Lebenslehre zu entwickeln, hingewiesen habe. Schließlich habe ich im 3. Abschnitt erörtert, ob man überhaupt der Behauptung Diltheys zustimmen kann, dass seine Weltanschauungslehre die Antinomie zwischen dem Anspruch der Weltanschauungen auf die Allgemeingültigkeit und ihrer Relativierung durch das geschichtliche Bewusstsein lösen könne. Mein Fazit: trotz seiner Behauptung ist er in diesem Gedankenkreis leider dem historischen Relativismus zu nahe gekommen.

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Der junge Hegel und die “Geheimbünde” ― Vom “Tübinger Bund” zum “Homburg-Frankfurter Bund” ― Ichiro TAMURA

Vor zehn Jahren publizierte ich ein Buch mit dem Titel Deutsche Gedanken im 18. Jahrhundert und Geheimbünde, das die Beziehung zwischen dem deutschen Idealismus und den damaligen Geheimbünden behandelte. Die zweite Hälfte des 17. Jahrhunderts und die erste Hälfte des 18. Jahrhunderts nennt man sowohl die “Goethe-Zeit”, wie auch die “Zeit der Geheimbünde”. In diesem Zusammenhang untersuchte ich die Ideen von Kant und Fichte.

Diesmal möchte ich die Beziehung des jungen Hegels zu den Geheimbünden untersuchen. Im Tübinger Stift schloss Hegel gemeinsam mit Hölderlin, Schelling und Sinclair einen Bund, welcher später in Frankfurt erneuert wurde. J.D’Hondt betrachtet diese beiden Bünde besonders als freimaurerisch. Ist dies aber tatsächlich der Fall? Anhand der Umstände der Geheimbünde in Württemberg, so wie in Bern und Frankfurt, möchte ich auch die Gültigkeit seiner Interpretation prüfen.

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Die Metaphorik der Kunst und ihre Wirkung Kazuko YAMAGUCHI

Die vorliegende Arbeit untersucht ausgehend vom Metaphern-Begriff bei A. Danto und G. Lakoff die Struktur der Kunsterfahrung. Sie geht dabei von folgenden Voraussetzungen aus : 1) Metapher ist nicht nur sprachliche Erscheinung, sondern das zentrale “Sinnesorgan”, durch das der Mensch sich und die Welt versteht, in der Welt handelt und die Erfahrung konzeptualisiert; die menschliche Erfahrung ist metaphorisch begründet. 2) Das “Sehen als” ist die Struktur der Metapher überhaupt. 3) Die der Metaphorik zugrundeliegende Ähnlichkeit ist einealternative, sich von der logisch-identischen und deren Dichotomie unterscheidende Erkenntnisform.

Die Metapher bildet nach Danto die Struktur der Kunst und er betont ihre rhetorische Wirkung, die den Zuschauer “bewegt”, sein Gefühl und seine Haltung verändern kann. Aber er sieht in der Metapher der Kunst dieselbe Wirkung wie in der sprachlichen Metapher, d.h. den “Befehl” oder die “Forderung”, das Subjekt als das Prädikat zu betrachten und durch den “Prototyp” des prädikativen Begriffs zu betonen. Dieses Verständnis metaphorischer Wirkung scheint uns jedoch vereinfachend und nur ungenügend unserer Erfahrung von Kunst zu entsprechen und muss von daher mit Lakoff ergänzt werden. Nach Lakoff versteht man die neue Metapher durch die vergangene Erfahrung, sie erinnert uns an ähnliche Erfahrungen und gibt ihnen neue Aspekte. Die metaphorische Kraft der Kunst besteht ihm zufolge in der Erinnerung an das vergessene und unmerklich versteckte Leben unter neuen Gesichtspunkten.

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Zu wem sind wir freundlich? ― Das zwischenmenschliche Verhältnis in der japanischen Freundlichkeit ― Yoshiki KONDO

Es ist unsere Freundlichkeit (shinsetsu im Japanischen), dass man dem Fremden, der in Schwierigkeiten ist oder Forderungen hat, spontan kleine Hilfeleistungen gewährt. Das Wort dieser Definition mag "Freundlichkeit" im Deutschen oder "kindness" im Englischen sein. Während die Freundlichkeit im Deutschen (kindness im Englischen) sowohl für Menschen als auch für Tiere oder Pflanzen gebraucht werden kann, ist das Objekt unserer Freundlichkeit nur der Mensch.

Noch mehr können wir Japaner keinen Säugling, keinen paralysierten Menschen, keinen Leichnam freundlich behandeln. Unsere Freundlichkeit betrifft wahrscheinlich nur den Menschen, der unsere freundliche Aktion als Freundlichkeit verstehen kann.

Ferner ist unser Objekt der Freundlichkeit (shinsetsu) auf Fremde beschränkt. Wir behandeln nur den Fremden freundlich. Im Deutschen (Englischen) kann die Freundlichkeit (kindness) auch in der eigenen Familie gebraucht werden. Aber gewöhnlich verwenden wir die Freundlichkeit (shinsetsu) nie für die eigne Familie. Ich denke, die Zuneigung in japanischen Familien ist so beschaffen, dass man mit der Freundlichkeit als kleinem Liebesbeweis des Außenstehenden nicht zufrieden sein kann.

Weiter muss dieser Fremde, den wir freundlich behandeln, im konkreten Sinne in Schwierigkeit sein oder eine Forderung in Bezug auf die Freundlichkeit haben. Wenn der Mensch mit der gegebenen Freundlichkeit nicht zufrieden ist, ist diese Hilfe keine Freundlichkeit, sondern nur nutzlose Unterstützung oder eine Einmischung. Mühe wird erst dann zur Freundlichkeit, wenn der Empfänger sie mit Freuden annimmt.

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Wittgenstein’s Concept of Criterion and Behaviorism ― On J.W.Cook’s “Wittgenstein, Empiricism, and Language” ― Takao NAKATANI In this paper I discuss a problem from Cook's "Wittgenstein, empiricism, and language". The

problem concerns Wittgenstein's concept of criterion and behaviorism. According to Cook, Wittgenstein's

concept of criterion consists of six rules. The second and the third of those rules have to do with behaviorism.

They are as follows; Rule #2: If Y is our criterion for X, then there is a sense in which X and Y cannot be two distinct things.

Rule #3: When Y is our criterion for X, X and Y are not the same thing, as my mother-in-law and my

spouse's mother are, that is, "X" and "Y" are not synonymous.

Only Rule #3 has been discussed by commentators. Therefore Wittgenstein has been considered

non-behaviorist. But Cook says both that not only Rule #3, but also Rule #2 constitutes the concept of

criterion, and that behaviorism follows from Rule #2. But I consider that the textual evidence which supports

Rule #2 is not strong. In reality, Wittgenstein does not accept any kind of ontology.

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Fichte Ronko damals und heute Toshio HONDA

Als Andenken an die zwei älteren Professoren SATOMI und ASANO erinnere ich mich an Professor SATOMIs Gerechtigkeit, die er allen Studenten, besonders einem so faulen Studenten wie mir widerfahren ließ, und an Professor ASANOs Großmütigkeit. Dank der beiden Professoren MIZOGUCHI und SATOMI konnte ich vor drei Jahren meine Doktorarbeit Fichte Ronko vollenden. Seither arbeite ich noch immer über Fichtes Wissenschaftslehre. Besonders beschäftige ich mich jetzt mit dem Vergleich zwischen Fichtes transzendentaler Denkmethode und Denkmethode der Logiker, wie Russell, Bolzano, Dedekind und so weiter. Hier möchte ich einen Rohbau meiner Gedanken darüber vorstellen. Diese Logiker treffen immer Paradoxe beim Räsonieren des Unendlichen und können sie nie überwinden. Eben auch Russells ‘Theory of Types’ konnte sie nicht adäquat lösen, so glaube ich. Weil es ihnen an dem transzendentalen Gesichtspunkt mangelt. Ohne diesen könnte man nie zwei entgegengesetzte Sätze zur Synthese bringen. Denn an dem Ort, wo man nur zwei entgegengesetzte Sachen oder Sätze findet, kann der transzendentale Philosoph wie Fichte eigentlich drei Momente sehen. Diese drei bedeuten zwei entgegengesetzte Sachen oder Sätze, und die Vernunft selbst als der lebendige Beobachter. Nur in dieser lebendigen Vernunft könnten alle Paradoxen adäquat gelöst werden.

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Do Three Kinds of Why-Questions Have One Root? Yukio IRIE In this thesis I argue two points. The first point is that we can classify why-questions into three kinds: why-questions on the causes of events, why-questions on the reasons of actions and finally why-questions on the grounds of beliefs (or knowledge or assertions). We can divide furthermore each kind of why-question into the following subclasses:

(1)Why-questions on the causes of events (1-1)Why-questions on the natural causes of events (1-2)Why-questions on the social causes of events (2)Why-questions on the reasons of actions

(2-1)Explanations of actions by causal laws (2-1-1)Explanations of actions by natural causal laws (2-1-2)Explanations of actions by social causal laws

(2-2)Explanations of actions by social rules (3)Why-questions on the grounds of beliefs (or knowledge or assertions) (3-1)Foundations of beliefs by inference (3-2)Foundations of beliefs by being grounded otherwise than on judgments

It was difficult to classify the why- question on legitimacy. We can divide this kind of why-question into two kinds:

(1)Why-questions on the legitimacy of actions (2)Why-questions on the legitimacy of rules

In this thesis we indicate that this kind of why-question belongs to why-questions on grounds of beliefs. The second point is whether these three kinds of why-questions belong to the same type of question, which are accidentally different in the objects which they ask about, or whether they are essentially different kinds of question in spite of having similar sentence forms.

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Die Zerlegung des Souveränitätsbegriffs und die Friedenslehre

Makoto TANAKA

Angesichts der EU-Erweiterung, der wirtschaftlichen und kulturellen

Globalisierung und der Zusammenschließung der ganzen Welt als einer Risikogemeinschaft scheint uns das System der souveränen Staaten in seinen Grundfesten erschüttert zu werden. Trotzdem ist es auch eine unbestrittene Tatsache, dass dieses System dagegen eine hartnäckige Widerstandsfähigkeit zeigt. Kant machte wichtige Vorschläge, um dem ewigen Frieden eine Möglichkeit zu bieten. Da begrenzt aber der Souveränitätsbegriff seine Erörterungen, und führt darin Schwankungen herbei. Aus dem Abstand von 200 Jahren will Jürgen Habermas Kants Friedenslehre dadurch regenerieren, dass er sie auf Grund von seiner eigenen Gesellschaftstheorie verbessert und ergänzt. In dieser Abhandlung machen wir zuerst die Aufgaben klar, die die heutige Friedenslehre übernehmen soll, indem wir auf die in Kants Friedens- und Rechtslehre enthaltenen Probleme hinweisen. Und dann klären wir auf, wieweit Habermas' Versuch diese Aufgaben bewältigen kann. Gegen die nationalistischen oder die kommunitaristischen Standpunkte stellt er den >>Verfassungspatriotismus<< und das prozeduralistische Verständnis von Volkssouveränität, und doch können diese Ideen das Souveränitätsparadigma nicht überwinden. Die Hoffnung auf den ewigen Frieden würde sich nur mit der weltweiten Durchsetzung von Menschenrechten erfüllen. Dazu müssen verschiedene Personen und Gruppen nicht nur aus der so genannten Ersten Welt, sondern auch aus der Zweiten und der Dritten Welt mit Vertretern der Regierungen zusammen frei und ungebunden über Menschenrechte diskutieren und auf eine Übereinstimmung zielen können. Aber die Staatssouveränität wirkt hemmend auf solche öffentliche und offizielle Diskussionen ein. Vom Gesichtspunkt der Friedenslehre aus ist zu befürchten, dass der >>Verfassungspatriotismus<< Menschenrechte in der Ersten Welt einschließt.

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Arendts Aufsätze über Franz Kafka ― Kampf um die minimalen Menschenrechte ― Tsutomu KUROSE

Im Jahr 1944 veröffentlichte Hannah Arendt zwei Aufsätze über Franz Kafka, nämlich >Franz Kafka:Der Mensch mit dem guten Willen< und >Franz Kafka:Eine Re-evaluation<. Hier nennen wir den ersten Aufsatz A, und den zweiten Aufsatz B. In Aufsatz A behauptet Arendt einerseits, dass Kafkas >Das Schloss< das jüdische Problem abhandelt und das wirkliche Drama der Assimilation der Juden schildert, und dass der Held K. ein Jude ist. Aber andererseits sagt Arendt, dass K.’s Vorhaben und Verhalten weit über den Kreis jüdischer Problematik hinaus gehen. In Aufsatz B behauptet Arendt, dass das Hauptthema Kafkas der Konflikt ist zwischen einer Welt, die durch die geheimnisvollen Mächte regiert wird, und einem Helden, der versucht, eine solche Welt zu zerstören. Nach der Meinung Arendts ging es Kafka darum, eine neue Welt zu erbauen, in der die menschliche Gesellschaft nicht durch die geheimnisvollen Mächte, sondern durch die von den Menschen selbst vorgeschriebenen Gesetze regiert wird. In Aufsatz B erwähnt Arendt nichts von dem jüdischen Problem. Im >Schloss< unterwirft K. sich nicht der Macht der bürokratischen Maschinerie, under verlangt das Minimum menschlicher Existenz als sein Recht. Aber sein Kampf um dieses Minimum und die minimalen Menschenrechte bleibt erfolglos.

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Autonomy of Reason and Determinism

― Concerning H.Walter's Thinking ―

Kazuhiro TAKEDA

Modern philosophers, for example Immanuel Kant, think our reason is autonomous. Autonomy

means that the state of our reason is determined by our self (will), because our will is free, and the freedom

of our will comes from immateriality, which is not ruled by causal rules. Therefore, determination by natural

law and freedom are thought to be mutually exclusive.

Recently, however, almost all neuro-scientists have accepted that man's intellectual faculties are all

dependent on the brain, and that the material world (including our brain) is determined by natural laws. In

other words, freedom must be made compatible with determinism.

The German philosopher Henrik Walter claims in his recent book "Neurophilosophy of Free

Will"(2001) that it is an illusion that the freedom of our will and determinism are incompatible each other.

He calls this illusion "libertarianism about freedom". The libertarianistic apprehension of freedom is that

man could always act otherwise (freedom as being able to do otherwise). Walter, however, says man could

not act otherwise because our acts (actions) are predetermined or linked to conditions (material and/or

social), and humanity finds moral responsibility for its actions in the conditions of existence.

In this paper I use Walter's arguments in order to void subjectivistic thought and to stablish the

grounds for materialistic thought of reason. This contributes to humanity's moral responsibility for the

environment and society.

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Institutionalization of Philosophy and Eclecticism ― State Strategy by Victor Cousin under the July Monarchy ― Michio ITO In the first half of the nineteenth century in France, after the Revolution, Napoleon’s Empire

and the Restoration, philosophy under the July Monarchy period (1830-48) kept pace with the order of

society, that is, the national control and institutionalization of society or sciences. One of the leading players

was Victor Cousin (1792-1867), a philosopher known as being right of the center (juste milieu), and the

founder of the school of eclecticism, a synthesis of various doctrines.

First, he synthesized the modern state, which is the central theme of institutionalization.

Second, there was the ecclesiastic doctrine. To establish an educational sytem, Cousin traveled to Prussia

which led to the “Guizot law” (1833). However, in the process of trying to legitimize the modern state and to

separate the church from the state, including a dispute with the French Church, which was opposed to

state-controlled University’s monopoly, there occured the polemic on the liberty of education. Third, he

discussed the placement of the 1789 Revolution in history. Was it the beginning or the end-point? The

history of philosophy, which was contained in the secondary education the “baccarauléat”, also needed to be

rehabilitated, with the help of German and Scottish philosophy. Finally, philosophy was “eclecticized”,

including: experimental methods and speculative methods, and psychology and systems, both German and

French, and so on. Moreover, the field of philosophy, psychology, logic, moral (ethics) or theodicy, as well

as the history of philosophy was set. This gave rise to National Philosophy.

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Hat das ästhetische Urteil wirklich eine Art von Allgemeingültigkeit? Sumio KODA

In Kritik der Urteilskraft sagt Kant, dass das Wohlgefallen am ästhetischen Gegenstand , da es erst möglich sei, wenn es ohne alles Interesse zustande komme, eine Art von Allgemeingültigleit verlange, denn man könne keine individuelle Beschränkung als Grundlage des Wohlgefallens auffinden. Außerdem setzt er für das ästhetische Urteil Notwendigkeit voraus. Das heißt, wenn jemand eine Rose für schön hält, dann erwartet er, dass jedermann ihm beistimmt. Aus welchen Gründen erhebt Kant so überzogene Ansprüche in Bezug auf das ästhetische Urteil? Die „Deduktion der ästhetischen Urteile“ löst diese Frage nicht. Der Schlüssel zu dieser Frage liegt im Begriff der Zweckmäßigkeit. Gemäß diesem Begriff ist das Spiel unserer Erkenntnisvermögen im ästhetischen Urteil ohne Absicht an etwas orientiert. Aber woran? Die Auslegung, die hier von Kants Text vorgetragen wird, zeigt, dass es sich dabei um die Moralität handelt. Tatsächlich setzt Kant in allen Argumenten der dritten Kritik voraus, dass nur der moralisch kultivierte Mensch die Natur als schön ansehen kann. Und aus diesem Grund kann er am Ende der „Kritik der ästhetischen Urteilskraft“ behaupten, dass die Schönheit das Symbol der Sittlichkeit sei.

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Gegenstand und Selbstbewusstsein ― Selbstbewusstsein in der “dreifachen Synthesis” ― Yukimasa IKI

Das reine, ursprüngliche Bewusstsein seiner selbst, das Kant das "transzendentale Bewusstsein" nennt, spielt die Hauptrolle bei der "Deduktion der reinen Verstandesbegriffe" in Kritik der reinen Vernunft.

Obwohl es sich also um einen sehr wichtigen Begriff handelt, scheint Kant ihn bloß vorausgesetzt, aber nicht ausführlich bewiesen zu haben..

Im 2. Abschnitt der Deduktion gibt Kant eine vorläufige Erklärung, um den Leser auf die Deduktion vorzubereiten. Dort gibt Kant eine revidierte Version von seiner Theorie der Anschauung. Diese Erklärung, bekannt unter dem Namen "die dreifache Synthesis", gibt seinen Lesern eine Gelegenheit, seinen Gedankengang genauer zu verfolgen, aber wegen der Kompliziertheit seiner Erörterung ist sie zugleich sehr schwer verständlich. In diesem Absatz möchte ich zeigen, wie der Begriff des Selbstbewusstseins dort abgeleitet wird. Es wird gezeigt, dass anschauliche Vorstellungen die Voraussetzung des Bewusstseins, aber das Urteil die des einzigen Selbstbewusstseins notwendig macht.

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Desire, Good and Egoism ― One Consequence of J. S. Mill’s Proof of the ‘Principle of Utility’ ― Toshihiro OISHI In this article I discuss psychological egoism. J. S. Mill, in his proof of the principle of utility in

his Utilitarianism, says the sole evidence that it is possible to show that anything is desirable is that people

do actually desire it. He seems to be inferring that what is desired is what is desirable from the fact that what

is seen is what is visible. Many people have discussed this analogy. The most famous and influential

criticism of Mill is that of G. E. Moore in Principia Ethica. He criticizes Mill for his commitment to the

naturalistic fallacy. On the other hand, the orthodox defenses of Mill insist that Mill’s proof is not strict and

the analogy is that between our knowledge of sense experience and the ultimate ends of conduct. According

to these defenses, as all our knowledge of sense experience depends on actual sense experience itself, the

ultimate ends of conduct depend on the experience of desire. That is, they claim Mill does not acknowledge

that the objects of our desires are desirable. But this means Mill acknowledges that what is desirable is what

is desired by us and there are desires that are not desirable. Furthermore, Mill insists that each person desires

his own happiness and each person’s happiness is desirable and hence general happiness is desirable.

Consequently, if Mill acknowledges that there are desires that are not desirable, then some parts of one’s

happiness are not desirable and therefore some parts of general happiness are not desirable. This means that

the orthodox defenses are wrong, because Mill believes all general happiness is desirable. I show ‘desirable’

has two meanings, that is, ‘desirable for society’ and ‘desirable for an individual’. When Mill talks about

‘desire’ and ‘desirable’ in his proof, he talks about an individual. For an individual all the objects of desires

are desirable. Therefore Moore’s criticism is not true of Mill. Here Mill talks about the truth of

psychological egoism.

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Die Geschichtlichkeit der Tragödie bei Nietzsche Youichi CHAZONO

Die Hauptabsicht dieser Abhandlung ist, die Geschichtlichkeit der griechischen Tragödie bei Friedrich Nietzsche aufzuklären.

1888 übte Nietzsche Selbstkritik an seiner Schrift die Geburt der Tragödie. Er kritisierte die, die die Idee des Gegensatzes dionysisch und apollinisch ins Metaphysische übersetzt hatten. Er zeigt auch, dass die Geschichte selbst als die Entwicklung dieser Idee aufgefasst wird, und in der Tragödie der Gegensatz zwischen dionysisch und apollinisch zu einer Einheit aufgehoben wird (Ecce homo).

Und dann schreibt Nietzsche in der Vorlesung Menschliches, Allzumenschliches II, dass seine Schriften “zurückzudatieren” sind, und sie dazu immer von einem “Hinter-mir” reden. Die hier angeführten Schriften sind die drei ersten Unzeitgemässen Betrachtungen. Nietzsche hat ihre Konzeptionen früher als “die Entstehungs- und Erlebniszeit eines vorher herausgegebenen Buches” konzipiert. Das Buch bedeutet freilich die Geburt der Tragödie. Die Geburt der Tragödie gehört also nicht nur zu dem gedanklichen Bereich der Unzeitgemässen Betrachtungen, sondern ist auch von der Darstellung darin so auszulegen.

Die Historie der Tragödie macht die drei Stufen aus, d. h. Geburt, Tod und Wiedergeburt der Tragödie. Die Schrift die Geburt der Tragödie als solche, die den Prozess der griechischen Tragödie darstellt, ist die Praxis des historischen Gesichtspunktes Nietzsches.

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Die transzendentale Phänomenologie und die generative Phänomenologie Naoya MAEDA

Die transzendentale Philosophie wird als ein typisches Beispiel für den philosophischen Fundamentalismus angesehen. Edmund Husserl gebraucht häufig das Wort „letzte Begründung“, vor allem als seine transzendentale phänomenologische Philosophie unter Beschuss geriet. Demgegenüber hat Anthony J. Steinbock in seinem Werk “Home and Beyond” versucht, Husserls transzendentale Phänomenologie vom Fundamentalismus zu befreien. Zu diesem Zweck legt er sein Augenmerk auf die neue generative Dimension, die Husserl in seinem späten Denken eröffnet hat. In der Tat wurde seine transzendentale Analyse seit etwa 1930 allmählich in Richtung auf das „Generative“ erweitert und vertieft. Steinbock entwickelt für diese generative Dimension eine dritte phänomenologische Methode und bezeichnet sie als generative Phänomenologie.

Diese geht nicht von einem transzendental reduzierten absoluten Ich aus, sondern von der sich wechselseitig konstituierenden Struktur von Heim- und Fremdwelt, die sowohl durch die geschichtlich als auch geographisch bedingte Erfahrung kultureller Kontexte bestimmt wird und die Steinbock als das zentrale generative Phänomen seiner neuen Phänomenologie betrachtet. Die Erfahrung von Heim- und Fremdwelt besteht dabei zum einen in der „Übernahme “ kultureller Tradition in der Heimwelt, und zum anderen in der „Überschreitung” ihrer relativen Bedingtheit durch die Begegnung mit der Fremdwelt. Insofern Steinbocks generative Phänomenologie die Beziehung zwischen Heim- und Fremdwelt als sich wechselseitig konstituierend betrachtet, unterscheidet sich sie vom Cartesianischen Fundamentalismus. In meinen Augen sollte jedoch die Heim-/Fremdwelt- Struktur selbst als Grundlage der generativen Phänomenologie angesehen werden .

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【執筆者一覧】

志 水 紀 代 子 (追手門学院大学教授)

大 野 篤 一 郎 (神戸女学院大学名誉教授)

田 村 一 郎 (鳴門教育大学名誉教授)

山 口 和 子 (岡山大学教授)

近 藤 良 樹 (広島大学大学院教授)

中 谷 隆 雄 (近畿大学非常勤講師)

本 田 敏 雄 (神戸市立工業高等専門学校教授)

入 江 幸 男 (大阪大学大学院教授)

田 中 誠 (関西学院大学非常勤講師)

黒 瀬 勉 (近畿大学非常勤講師)

武 田 一 博 (沖縄国際大学教授)

甲 田 純 生 (広島国際大学助教授)

伊 藤 道 生 (東京農工大学助教授)

壹 岐 幸 正 (大阪大学大学院博士後期課程単位取得退学)

大 石 敏 広 (大阪大学非常勤講師)

茶 園 陽 一 (大阪樟蔭女子大学非常勤講師)

前 田 直 哉 (大阪大学大学院博士後期課程)

舟 場 保 之 (大阪大学大学院助教授)

【編集後記】

『メタフュシカ』第 35 号別冊、里見軍之教授、浅野遼二教授退官記念号をお届けいたします。

執筆いただきましたみなさまに心より御礼申し上げます。また、企画が遅くなったせいで、

ご寄稿いただけなかった方々には心よりお詫び申し上げます。

僭越ながら、里見先生、浅野先生のますますのご活躍を祈念いたします。 (舟場)

『メタフュシカ』第 35 号別冊、里見軍之教授、浅野遼二教授退官記念号編集委員

入 江 幸 男

舟 場 保 之

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メタフュシカ 第 35 号別冊 里見軍之教授、浅野遼二教授退官記念号

2004 年 12 月 20 日 印刷

2004 年 12 月 25 日 発行

編集兼発行者

大阪大学大学院文学研究科哲学講座

〒560-8532 豊中市待兼山町1-5

印刷所

株式会社 ケーエスアイ

〒557-0063 大阪市西成区南津守7-15-16

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浅野遼二名誉教授

里見軍之名誉教授

退官記念号

第 号 別冊

大阪大学大学院文学研究科哲学講座

年 月

メタフュシカ

第三十五号

別冊

四年

大阪大学大学院文学研究科哲学講座

スミスミ