Post on 23-Oct-2020
甲信見どころ(下)
諏訪。松本・上高地・天竜峡
5
,ント………:。……:.……4
コースポイ山
2
松本~上高地
下諏訪~松本…………………………団
下諏訪~和田峠~大屋
塩尻~天竜一舷
Ⅱ
115189 7
下諏訪~和田峠~大屋
/〆
お二人の神様をかたどった翁、おうなの二体
を安置し、大勢の氏子達がハッピ姿で掛声も
いさましく、ひき歩くそうです。その壮観を
一目見ようと近郷近在から、沢山の見物人が
集まり、さしもの大通りも、この日一日は通
行止になってしまいます。
鎧下諏訪温泉
両側に温泉旅館のカソ尋ハソが見えておりま
すが、中仙道の宿場の面影が残っており、当
鎧秋宮
前方に秋宮が見えております。八月一日の
あおしばふね
~卜・賃、.。・・、I・’ji・;!;:.,
主尭劣りに届祈伏α面影を伝雲えた青柴舟に、
7
鑑旧中仙道
只今通っておりますこの道路は、旧中仙道
只今の国道一四二号線で、和田峠から長門を
へて丸子町に通じます。
時の頃がしのばれます。
こちらの温泉は徳川時代から多くの旅人に
知られ、和田峠越しに東信へ抜ける旅人のつ
かれをいやす場として親しまれておりました。
現在の湯出口は一五で一日約二千トンが湧
き出し、旅館は三十四軒、公衆浴場が九ヶ所
あります。
雑一新道と旧道の分れ道
8
一」れより尋ハスは左手に折れて新道を通って一
参ります。まっすぐのせまい道は両側に装い
も新にした温泉旅館の立ち並んだ旧道です。
鎧春宮
左の奥に諏訪大社の春宮の森がのぞまれま
す。諏訪大社には四シのお社があり、諏訪市
に本宮と前宮、この下諏訪町には、春宮と秋
宮がございます。
大昔はそれぞれに別の神社であったと伝え
られますが、小さな集落が一つひとつ合併す
るようになり、やがて大きな集落となって、
行われ、八月には春宮から秋宮に移るお舟祭
れぞタテミナヵタのミコトのお妃にあたりま
す。
なお、御祭神のヤサカトメのミコトは、春
られております。八坂刀売命は、本宮に祁ら
神社の祭神も同じになったといわれます。
りが賑やかに行われます。
兼一諏訪大社の伝説
昔むかしのこと、諏訪湖のほとりの守屋山
は春宮に、秋は秋宮におすまいになり、毎年
二月には秋宮から春宮に移られる御遷座祭が
に御夫婦の神様が住んでいらっしゃいまし
こちらの春宮と秋宮には、八坂刀売命が祁
9
10
たO
男神様はタテミナカタのミコトといい、女
神様をヤサヵトメのミコトと申しました。大
変仲の良い二神様だったのですが、永い年月
の間には種々なことがありまして、ある時、
男神様のタテミナカタのミコトはよその女神
様と浮気をなさいました。
このことが(してしまい、遂に御夫婦が別
居することになりました。
妃のヤサカトメのミコトは大粒の涙を流し
ながら、諏訪湖の向う側に住まいを移してし
まったのです。こうして両神様は別々にお住
いになり、一年に一度だけお逢いになるので
す。
それは、諏訪湖に氷のはる寒い時期のこと
で、男神様は諏訪湖の氷の道を歩いて妃のャ
諏訪大社の昔話しでございました。
米一花見新道
桜の並木の多いこの辺りからこの先の慈雲
寺にかけては、花見新道といいます。
花見新道は慈雲寺の上にあり、展望の良い
寺凸
水引園と共に、諏訪地方随一の桜の名所で、
花見時の四月中旬は、花のトンネルが続き、
夜はボンポリもついて実に見事です。
恭一慈雲寺
す○
サヵトメのミコトに逢いに行かれます。
諏訪湖に見られる氷の道はタテミナヵタの
ミコトの恋の通い路だと伝えられ、結氷する
現象を「御神渡り」とよんでおります。
なお、下諏訪温泉は、妃のヤサヵトメのミ
コトの涙が落ちてお湯が湧いたと伝えられま
11
q
来る展望のよい所です。
園内には地元俳人の句碑を始め、芭蕉や蕪
村、子規等の句碑も見られます。
水月公園の句碑は
しばらくは花の上なる月夜かな
芭蕉
水月園は、全山桜と松林におおわれ、諏訪トー
湖を中心にした、諏訪盆地の全景が眺められ、一
など
遠くに富士山、八ヶ岳の連峰等を望む事が出
右に見えるお寺は、臨済宗妙心寺派の慈雲
寺です。安正二年(一三○○)元から日本に
帰化した一寧一山国師が開いたといわれる古
いお寺で、御本尊は千手観音菩薩です。
兼一水月園
慈雲寺より一一○○メートル程小道を登りま
すと、桜の名所水月園があります。
だな
信濃路や宿借る家の蚕棚
うずのと
不一一ひ、とつ埋み残して若葉かな蕪
村子規
撚一注連掛
このあたりは注連掛です。諏訪神社御柱祭
の際、この奥の山から反り出した柘柱を、こ
の辺りまで山出しをし、後は里びきとなりまトー
すので、声」声」で一度御柱を安置し、お注連を一
かけますので、この名がつけられております。
なお、下社の御柱は霧ヶ峰から切り出され
ます。
燕一宮の湯
左手の建物は宮の湯鉱泉です。その昔今は
亡き、秩父の宮殿下が、下諏訪御来遊の折、
御休憩なされたところでございます。
撚一砥川
左の中仙道にそって流れている川は、砥川
です。和田峠に源を発し、中仙道にそって流
れ、下諏訪町で諏訪湖にそそいでおります。
この川にはヤマメ、アユ等の魚が沢山おり、
大公望にはおなじみの川です。
撚一落合発電所
程なく渡ります川は、東俣川といいますが、トー
上流一一○○メートル程の所に、明治一一一十一一一年一
十二月発電開始という、長野県で最も古い落
合発電所があります。最大出力は二○○キロ
ワットという小さな発電所です。
繋一落合(萩倉薬師)
右の道をおよそ一キロ程行きますと、萩倉
という部落があり、そこには信濃三薬師の一
つ萩倉薬師があります。
萩倉薬師は、昔行基菩薩が萩の木で彫った
というお堂で、一名医王渡堂ともいわれます。
萩倉からは霧ヶ峰高原の、ツンドラ地帯と
いわれる、天然記念物七島・八島高層湿原地
帯、(八島高原ともいう)や、一七八九メー
トルの鷲ガ峰へ登れます。海抜一六六○メー
0〆、〃夕L、ざ〃rTJrI、P、、
’八〃v,一”ノ匡雲崖一F医腸》に
少1つ』画『■一■ワ心一●。●一B■ワop
L『.一一●F(、刀一一一.』一.一一八〈/[月舎に、●一正睡疋害醒りこ
メシヤクナゲ、ツルコケモモ、ミヤマキソポー51
ウゲ、タヵネイ簿ハラ等一一一八種類の高山植物一
が咲き乱れ、奥日光の尾瀬沼と並び称されて
おります。
なお、諏訪神社のお柱は萩倉の奥、蝶ヶ沢
の辺から切り出されるそうです。
撚一中仙道について
只今車は旧中山道にそって進んでおります。
この先には旧中山道時代からの和田峠が残
醇
らは、一時交通量がへりました。
その後明治三十七年には、現在の道が開か
れ、昭和七年十一月に峠の頂上にトンネルが
出来ましてからは、冬期間の交通も楽になり
ました。
それから甲州街道、諏訪方面から丸子、上
11田
をへて、群馬県に抜ける自動車道路として、
がはげしく、利用価値も高かったのです。し一61
かし、明治一一一十六年中央線が開通しましてか一
り中山道の難所の一つだったといわれます。
中仙道は始め岐蘇路といわれ、今からおよ
そ一二九○年前の「大宝二年」に開発されま
したが、その後一六四三年の寛永二○年、徳
川三代将軍家光公が諸大名に、参勤交代制度
を定めまして以来、大名行列の往来をはじめ、
江戸と京都を結ぶ{表街道として、人馬の交通
一
兼昏一一
利用価値も高まったのですが年之増加する車
の通行をスムーズにするために、新しくトソ
ネルが造られました。
鷲ヶ峰(一七九八メートル)
わし,,
前方に鷲ヶ峰が見えております。和田峠の
頂上は鷲ヶ峰の左側です。
0-兼
一樋橋茶屋本陣跡
右の碑は樋橋茶屋本陣跡です。71
茶屋本陣とは、大名が宿泊をせずに休憩す一
るだけの立場茶屋のことで、中山道の昔は、
下諏訪から和田峠をへて、この先の和田宿の
間が二十一キロメートルもあり、大変困難な
道中でした。そのため、途中三ヶ所に立場茶
屋を置いて通行する人々の便宜を計ったので
したO
撚一樋橋
こちらの橋は樋橋です。
程なくして橋を渡りますが、橋を渡りまし
た左側に、水戸浪士の浪人塚が見えて参りま
す。
鎧水戸浪士の浪人塚
左の石碑は、水戸浪士を葬った浪人塚です。
今から一二五年程前のこと、元治元年(一
八六四)十一月のこと、武田耕雲斉の率いる一81
水戸の天狗党一千人余りが、和田峠付近で諏一
訪、松本両藩の連合軍と戦い、多くの戦死者
を出しました。この時亡くなった天狗党の人
盈を葬ったのが浪人塚です。
今から百二十年も前のこと、世は幕末の頃、
世の中は政治を天皇にお返しして新しい時代
を迎えようとしておりました。しかし、これ
をおさえようとする徳川幕府との間に争いが
各地でくり返されたのでした。
その頃、水戸の尊皇派であった藤田小四郎
は、水戸家の家老・武田耕雲斉とともに、天
狗党を結成し、京都の天皇にその心情を訴え
ようと京都に向ったのでした。
京都に向う途中、群馬県の下仁田で高崎藩
と翰一.てこれを敗り.更に兵を進めてこの和
田峠にさしかかりました。
9
声」の和田峠には、幕府の命を受けた松本、乱
諏訪両藩の連合軍が待ちうけ、両軍激しい戦
いがくりひろげられました。
しかし、ここでも天狗党の勝利に終り、松
本、諏訪両藩は兵を引き上げております。
しかし、天狗党も百名に近い負傷者を出し、
さらに二十名余りの党員が戦死しました。
こうして天狗党は中山道を京都に向ったの
寒さの中で遂に力つき、越前(福井県)の敦
が賀で加賀藩を通じて降伏したのでした。
捕えられた党員のうち、武田耕雲斉を始め
〃ざい
とする主謀者達、一二百五十名余りは斬罪の刑
に処せられ、更に二百五十余名は島流しに、
ですが、戦のくり返しと旅の疲労、更に冬の
残る一一百三十余名が水戸に護送されました。
三百五十名にものぼる人々が首をハネられ卜2
ると一一一戸う悲惨な出来ごとは、明治維新を迎え一
ること、わずか四年前のことでございます。
新しい明治の御代を夢見ながら、その夜明
けを待たずに逝った多くの犠牲者の霊は、そ
の後、気比の松原をのぞむ地(福井県敦賀市)
に手厚く葬られました。
幕末の悲惨な歴史のひとこまがしのばれま
す。
堂香炉岩(大砲岩)
左手の断崖につき出た大きな岩は香炉岩で、
水戸浪士と諏訪松本連合軍との合戦の時、
水戸浪士軍は、この岩の上に大砲をすえて、
連合軍を射撃したといわれ、一名大砲岩とも
呼んでおります。
号一・・..1..1
諜一崎征記
だんだん峠も近ずいたようですから、峠にト2
まつわる昔のおはなしを御紹介しましょう。|
古い書物に、和田峠のことが一番最初に登
場しますのは、慶長五年(一六○○)九月、
豊臣軍と徳川家康が戦いました関ヶ原の天下
分け目の合戦の時、徳川秀忠の家来、榊原康
政が、一千騎の大軍を率いて峠を越え、関ヶ
原の合戦にかけつけたという記事が、関ヶ原
紀要という書物に書かれております。
=
一二
一
里
一 L二
F
卿と武士の合体論の犠牲者となられた、皇女
和宮様が、徳川十四代将軍家茂公のもとへ、
御降嫁なさる際の、お輿入道中でございます。
和宮様御一行が峠を越えられましたのは、
一八六一年の文久元年十一月六日、道には砂
利を敷き、道中奉行の警戒はきびしく、諏訪
も旧道には接待と言う地名が残っております。-2
1,2
和田峠を越えたお話の中で、最も豪華版と一
それ以来商人、旅人そして参勤交代の大名
行列の往来がさかんでした。
この峠は下諏訪と和田宿の間が大変長く、
二一キロもあった為、旅人は大変なんぎでし
た。そのため、冬は旅人におかゆを、馬には
マグサを与える場所が設けられて、これを、
|永代人馬施行小屋」とよびました。今日で
して、今尚語り伝えられておりますのは、公
23
藩では人足や馬数万をくり出し、荷物の運搬
に当り、峠の名所香炉の岩には落石を防止す
る為にシメナワをめぐらした程で、大納言、
中納言、殿上人や京都、江戸側の役人、それ
に物を運搬する雲助まで動員してその数三万
人もの行列になり、宿屋は旅人をしめだし、
.Ⅱ今引一tう:;一i、・・・1。…I
ql理工に13》てL茅α大行列となこて峠を
越えたと伝えられております。
繋一西餅屋
この辺り西餅屋です。
一寸変った地名ですが、街道の昔は立場茶
屋があり、お餅やおだんごが売られておりま
したので、そのまま地名になったようです。
徳川時代には下諏訪からこの先の和田宿ま
での道のりが二十一キロもあり、その上、和
田峠という難所もあって旅人の苦労は大変な
ものでした。
く、量も多く出たようです。
とくようせき
黒耀石はガラスのような光沢を持ち、色は
そのため、下諏訪と和田宿の間に立場茶屋
を置き、先程の樋橋とこの西餅屋、そして和
田峠を越えた東餅屋の他合計六ヶ所で旅人の
便宜を計りました。
鵜一鷲ケ峰(一七九八)
右手に見える山は鷲ヶ峰です。
鷲ヶ峰は展望の良い山で八ヶ岳連峰、南北
アルプス、富士山、浅間山等の沢山の山が望一42
めます。叉、鷲ヶ峰の東南の麓には、鷲ヶ峰一
高原の、七島八島の高層湿原地帯があります。
兼一黒耀石
とくようせき
この和田峠の付近は、黒耀石のとれる所と
して有名です。日本では、各地で黒耀石がと
れたのですが、この霧ヶ峰付近の石は質も良
この黒耀石を求めて遠く関西や関東から人
とうえき
々が集まり、霧ヶ峰が交易の場として栄えた
りつしよう
季か立一証されておりますc
さいくつ
今日では用途も少ない為、ほとんど採掘さ
黒く、割り口がするどい為、先土器時代の人
ひつじゆひん
々の生活必需口中でした。
もち
当時の人々は、一」の黒耀石を矢じりに用い
たり、ナイフとして使ったりしたようです。
-25-
れておりません。
鎌一新和田トンネル
これより新和田トンネルに入ります。
トンネルの手前、左の細い道が昔の国道・
一四二号線で、カーブの多い峠の道でした。
参考
正式名称・新和田トンネル有料道路
.-ハメ
延消火器。
非常警報装置・押ボタン式
非常電話・十
一道路部分・アスファルトコンクリ
舗装{
一トンネル部分・セメントコンクリ
道路幅員
防災設備・非常駐車場。
一・基本照明一
照明設備{}ナトリュウム灯
一・緩和照明}
設計速度・時速五○キロメ
工
(このうち
長・四・八キロメートレノ
期・昭和四十九年九月~
事業費・七一一億円一合計事業費八
十億円
関連公共事業費。八億円一
本入消火器を五○メ
トンネル部分
基。
トレノ 昭
和五十四年三月
○○メートル間隔
ヶ所 ト
ノレ
、
九
トル間隔で
メ
トル)
トト
ー26-
遅れておりました。
しゆ
そのため、昭和四十六年から県内の東西主
三十八基
貯水槽・八ヶ所
消火水槽・一ヶ所・貯水量。四○トン
和田側杭口附近
排煙ファン・六基
換気設備・ジェットファン・六基
透方監祈詔備・管理事務所内にあり、通行車
両台数やトンネル内の風向、煤煙濃度、-
72
トンネル外の霧濃度、無線設備など管一
理事務所内で行う。
鎧新和田トンネル設置について
この長野県は、南北に細長く、封舞識雛騨遅
路はほとんど整備されておりますが、東西を
結ぶ(横断する道路)主要幹線道路の整備が
公社」を設立して、国と県と民間と三団体か
どうにゆう
ら資金を導入して工事にかかりました。
要幹線道路の整備に力を入れ、「長野県道路
県内を東西に結ぶ主要幹線(横断道路)は、
この新和田トンネル有料道路の他に、三才山
トンネル有料道路があります。
この二本の横断主要幹線の完成によって、
県内の東北信地方と中南信地方の連絡がスムー82
‐ズになり、長野県全土の一体化に大いに役一
立っております。
そして更には、中京、関東方面の動脈とし
て、長野県の経済、産業、観光、文化の発展
に役立つことを期待される道路でもあります。
米一和田峠の今昔I
今日では、一一キロメートル足らずのトンネ
ルによって通過出来る和田峠ですが、昔の和
お助け小屋が諏訪側に造られたり、和田側に
は三メートルもの雪が旅人の往来をはばみ、
にんぶ
当時欲諏訪蕃と上H害ドフ、僧.《一J4言・善一訓菖
…ii、、1’一’一、yZiノラぞLL17国一一『4
田峠は文字通りの命がけの道でした。
徳川時代に五街道が整備され、中山道が江
戸と京都を結ぶ幹線道路として利用されたの
ですが、中山道のなかで一番高い所がこの和
田峠でした。標高一五○○メートルの峠の冬
一キロメートルという長い距離で、峠の高さ
しゆくばおうらいなんぎ
に加雲えて宿場の少なかった事が往来の難儀を
みをしたり、牛馬の荷物を運ばせたりしたの
でした。
じゆく
その上、下諏訪宿と和田宿のあいだが一一十
一層きびしいものにしていたようです。
29
古い記録によりますと、ひと冬に十人近い
そうなんしや
遭難者を出した年もあり、これを救うための
与え休ませました。この小屋の置かれた所は
せったい
「接待」という地名でよばれ、今日も地名だ
えいだいじんばせぎようとや
は「永代人馬施行小屋」が設けられた、ソして、
冬の間は旅人にはおかゆを、馬にはマグサを
をきわめ、下諏訪宿と和田宿の間に置かれた
六ヶ所の立場茶屋が、多くの人々の命を救っ
けが残っております。
とん方ん
峠の冬もさることながら、夏の暑さも困難
ら少し東に寄った所に新しい道が造られ、更
に明治二十九年に旧和田トンネルの国道が整
備されたのでした。
が残り、街道の昔をしのばせます。
みちすじ
和田峠の道は、明治九年に中山道の道筋か
30
ております。六ヶ所の立場茶屋とは、下諏訪
》とよはしにしもちやせったい
側から、落合、樋橋、西餅屋、東餅屋、接待、
からさわもう
唐沢に設けられたもので、今日では地名だけ
越えて信越線で横浜へ送られて行ったのでし
た。明治三十八年、中央本線の開通は和田峠
さび
の往来を淋しいものにしましたが、県内を東
はた
西に結ぶ主要街道として重要な役割を果しま
ひき
した。所和ヨトンネレワヒこま、藍』ユコニ仏乱一
.〃く-11一ラーーーュド:、くと
明治の道は、長野県東部や群馬県からのマ
きいと
1を諏訪方面に運び、諏訪の生糸は再び峠を
もの思いを残した三筋の峠道が残り、その一一13
部は信濃自然歩道として再びよみがえってお一
ります。
兼一蹄派獄
只今通って参りました和田峠の頂上は、塩
尻峠と同じように、分水嶺になっております。
とがわ
峠の頂上に降ります雪や雨は、南は砥川、
よだちくまがわ
北は和田川、依田川となり、千曲川へと流れ
ちい
ております。叉、峠は諏訪郡下諏訪町と、小
二キロ程参りますと、男女倉という部落に参
ります。叉、男女倉からは、霧ヶ峰高原へ行
く、男女倉越という道があります。
こちらの部落は、観音沢です。
兼一唐沢
只今通っております部落は、和田村の唐沢
と申します。ごらんのように古びた家が並ん
ルです。
繋一評如創則お
めぐらぐら
こち繰りは男女倉口と申します。右手の道を
-32-
さがた
県郡和田村L」の境になっております。
粥一難維雌
右手に蓉科山が見えております。
撚一大出山
右手前方に見えております、頭のかけた様
な山は大出山と申し、高さは一五九三メート
場茶屋が置かれ、旅人で賑わった所です。
とびら
兼一扉峠への分岐点
ひょうしき
左手に「美ヶ原高原登山口」という標識が
屋根を少し高くして風を入れております。
しゆう
一般に朝鮮人参とよばれるこの植物は、収
かく
ねだん
獲までに五年から六年もかかり、値段も大変
建っておりますが、左手の道を登りますと、
ちやうすやま
一六六一一メートルの扉峠を越え、茶臼山を経
に高い人参です。
れんさく
全日は一度収獲すると連作が出来ず、五十年
て華天ケ京一司京、主へイレ史ナ0
..…1J・’-1》、‐TIJ4雪‐く}
でおりますが、中仙道の昔は和田峠越えの立
-33-
鎧薬用人参
ちようせんにんじん
ところどころに、わらで囲った朝鮮人参の
ちよくしやにつこう
畑が目につきます。薬用人参は直射日光や雨
かと
をきらう為、各畝蓉」とにわらで囲い、北側の
穫高は長野県が第一位です。日本の収穫高の
七○・ハーセソトが長野県で、福島県の会津地
方が二○・ハーセント、島根県が一○・ハーセソ
ぐらいは同じ所で作ることが出来ませんでし
ソト位です。
さいばい
朝鮮人参の栽培は、種を直接畑にまく方法
なえどこ
と、苗床で育ててから移植する方法し』があり
たが、今日では良い消毒薬が出来まして(ド
しゆうかくど
ロクドールという消毒薬)収穫後、クスリを
卜の割合となっております。
ちようせんにんじん
日本で栽培される朝鮮人参の七○パーセン
ぼんとん
卜は香港に出荷され、国内消費は一二○・ハーセ
34
まいて一年間たてば作れるようになりました。
ちようせんにんじんさいばいち
日本の朝鮮人参の栽培地は、』」の長野県の
らハさが乞
東信地方(小県・佐久地方)のほか、福島県
あいづ
の会津地方、そして、島根県などですが、収
種がとれますが、人参を育てるのが主な目的つ
ですので、そのほとんどは花を咲かせずに摘
ます。花は五月下旬頃から咲き七月下旬には
みとってしまいます。(これを芯どめという)
しゆうかく
こうして人参を育てますが、収穫は五年か
-35-
ら六年後になります。そのため、お値段も張
るDです策、平句ひろ宣受ま、亘蚤』、ご/吟
‐..、,:。く・露111if一ノ》、、二・
メートル、長さ一五センチメートル位で八千
円ほどです。
つい最近(六二年七月)、韓国の五台山山
中で野生の人参が発見されましたが、その値
段がなんと、五億ウオン、日本円にして一億
円もするそうです。
その人参の重さは三七・六グラムという、
百グラムに満たないのですが、六○○年をへ
た人参でした。
き
野生の人参は、栽培物の十倍も効くという
いろいろ
ことです。人参は人参で津b、種々とあるもの
の宿場として栄えたところで、最盛期には、
はたごや
一五○~一六○の旅篭屋が並んでおりました。
36
ですね。
鵜一和田発電所
右手に見えております発電所は、和田発電
所です。
最大出力一五八○キロワットを発電してお
ります。
鵜一和田村大出
只今通っている部落は、和田村の大出です。
この辺りからおよそ二キロ先の和田村の中
心、上和田まで家並が続いております。
撫一和田宿の歴史
和田は、和田峠をはさんだ下諏訪宿の反対
わぬ所から指しのべられました。と申します
いえもち
のは、文久元年皇女和宮様が、徳川家茂公に
ごこうか
御降嫁のため、中仙道をお通りになり、和田
文久元年の一一一月三日、宿場の一角から火が
出て、あとかたもなく焼けてしまい、再建不
可能とまでいわれましたが、救いの手は、思
-37-
宿にお泊りになるとハう印らせでし上。
そこで幕府は、早速再建の準備にとりかか
り、建築用材を払い下げると共に、全国から
大工さんや、左官を集め、焼跡を整理し、た
ちまち復興させ、十一月六日には無事、和宮
様御一行をお泊めすることが出来たのだそう
です。
現在は美ヶ原高原への登山口となっており
ます。
兼一上和田
しい宿屋の代名詞になっておりますが、昔は
べ物をお湯にひたして食べましたが、その時
きちん
お湯をわかします薪代、木賃をはらいました
問屋、
昔の宿場の中心は、この先の和田上町で、和
と、お湯をわかしてもらい、焼き米などの食
ので、木賃宿と呼ばれたのです。
旅に出る時には、食物は申すまでもなく、薬、
あかりの道具まで持って歩き、宿に着きます
りになられた歴史的な所でございます。く
げ
全日の宿場は本陣を中心に、大名や公卿のお
つきの者が泊る脇本陣、馬や人の世話をする
ておりました。
8
きちんやど3
木賃宿と申しますと、只今では、みすぼら一
″
田上町には本陣跡・もあり、皇女和宮様・》もお泊
l
こちらは、和田村の行政の中心上和田です。
■■■Eq‐
般の旅人を一泊める旅篭等から形成し
粥一水沢発電所
右手和田川の向うに見えます発電所は、水
沢発電所と申し、大正十一年に出来た発電所
です。
出力八九○キロワットです。
繋一下和田
この辺りは、上和丑と計して下訂日し一泊〆
尋;、。ニノ-くf‐
ます。
蓋青原
39
右手和田川のそばに見えております発電所
は青原発電所です。この発電所は、大正十四
年に発電開始、最大出力一六○○キロワット
でございます。
恭一中山公園
右手のつき出た小高い岩山は、つつじの名
所中山公園です。
右手の道は、海抜
今燕 諜号潔号 兼一和田川
落合と申します。
峠を越え、白樺湖を通り、茅野市で甲州街道
和田川とは下流で合流し、依田川と名前が変
ります。
●◆口
別れ、長門町の落合に入ります。
長門町は、昭和
に合流する大門街道です。
塞感恥町
落合
04
この辺は川が落合う所から、部落の名前も一
大門街道
渡る川は、大門峠に源を発する大門川です。
大
門
和田川を渡りますと、いよいよ和田村とも
町
十
四四年
九月三十日、長久
メ
トルの大門
中仙道と諏訪街道の分岐点に位し、中仙道を
ねり歩いた大名庁別や、洞Ⅷぢ訂ぬうに3ヒド
…;:I,/房rZ:1-ノド山
を通り、善光寺へお詣りに行く人々で賑わっ
た宿場です。天保五年の古い本には、三十五
軒の旅篭屋に七十人の飯盛女がいたと記され
じんく
ており、長久保甚句にも
いつき
長久保よいとこ何時来てみても
しやみたいと
一二味や太鼓の音がする
とうたわれ、仲々にぎやかな宿場だったよ
うです。
長久保は町村合併以前は、長久保新町とい
保新町、長窪古町、大門村の二町一力村が合
併し、それぞれの頭文字をとって、長門町と
名付けた町で、人口はおよそ七千人です。
長久保な
がくぼ
町の中心長久保は、中仙道の宿場の一つで、
41
弓鶏・-
街道造りの家が並んでおりますね。二階から
とくちよう
上が、特に道路側につき出た特徴があります。
のきば
これは道巾がせまいため、馬や荷物を軒端に
おうらいじゃ左
置いても往来の邪魔にならないように、叉、
雨が降ってもぬれないように造られたもので
われ、戸数僅か二五○戸という、県内で最も
小さな町で、町会議員さんの数も八名という
少人数だったようです。
ちょっと両側の家造りをご覧下さいませ。
42
す。
兼一中仙道と諏訪街道の分岐点
こちらで道は、中仙道と諏訪街道に分かれ
ております。昔の宿場は、この辺が中心地だ
ったようで、右手の道が旧中仙道の笠取峠か
ら芦田宿方面で、中仙道は、約二キロ先の海
抜八八六メートルの笠取峠を越え、北佐久郡
やはたしおなだいわむらたおだ
の芦田、望月、八幡、塩名田、四石村田、小田
い井、追分宿L」昔の宿場を通って、軽井沢へと
続いております。
なお、下諏訪から通ってまいりました国道
一四二号線は、こちらから右へ別れ、芦田、
茂田井、望月をへて佐久市の中込に通じます。
塞笠枚串
・・・一〃..11
へとべよとべとく笠取峠
34
とべば長久保近くなる
と長久保甚句にあります笠取峠は、中仙道
の旧跡地の一つになっております。
初めは雁取峠といわれましたが、峠を登り
切った旅人が、峠の茶屋でかぶった笠をとり、
名物の力餅を食べながら休みました所から、
笠取峠と呼ぶようになったそうです。
鎚笠取峠の松並木
今から一二九○年余り前の大宝二年(七○
ぎようきぼさつ
一一)に名僧・行基菩薩によって開かれ、その
おとろさい
後、一時は衰えましたが、天台宗の開祖・最
ち工う
澄によって再興されました。
台宗信濃五山の一つとして栄えました。
松の樹令は二百年から三百年ほどで、およ
みごと
そ一一キロメートルにわたって美事な並木を作
れる松並木が残っております。
かさとり
旧中仙道の笠取峠には、県の史跡に指定妾。
44
り、街道の昔をしのばせます。
く燈
ふもし一
なお、並木を下った峠の麓が、徳川時代の
あしだとんにちたてしな宮ち
芦田宿で、今日の立科町の中心にあたります。
蓋恵日山津金寺
きがんしよ
芦田宿には、小諸藩の祈願所にあてられた
つがねじ
津金寺がございます。
えにちさんしゆがくいんつがねじ
正しくは、恵日山修学院津金寺といい、天
となっております。
かんえい
くだって、徳川時代の寛永十七年(一六四
かんえいじしゅんかいに:ざんしようかんのん
○)に、上野寛永寺の舜海が入山し、聖観音
ぼさつぼんぞんあみだどうみようけん
菩薩を本尊として、観音堂、阿弥陀堂、妙見
どうにおうもん
堂、仁王門が再建されております。
しげの
境内には滋野氏一二代のお墓のほか、寺宝に
てんだいしんどん
その当時は、法相宗を始め、天台、真言、
そうとうしゆうだんぎ
曹洞宗の四一示派の談議所(学問所)として知
もなったお寺でした。
まつじ
戦国時代には、百八ヶ寺の末寺を持つ大本
さかきしん
山として栄え、武召言玄も寺頂一千戸。.ご与誰一
‐‐..・・.産1『一一一ノ』ノく冒膿、I
は、武田信玄の朱印状や徳川氏の朱印状、そ
しておりますが、天正十年(一五八二)に織
へいか
田信長の兵火にかかり、そのことごとくが灰
■
- 45-
られ、平安期から鎌倉時代にかけては、この
とうしんおさしげのしもちづきしきがんしよ
東信地方を治めた滋野氏や望月氏の祈願所に
りりゆうみんねはんぞう
して、李竜眠の画いた浬薬像などがあり、今
一一年(一二一一○年)四月八日に滋野氏が
こんりゆうきざ
建立したと刻まれております。
かるく
他の一基は、嘉禄一一一年(一一一一一七)十
滋野氏は奈良時代から東信地方に栄えた
うじぞくぼつかん
氏族で、牧場経営にたずさわった牧官で
が三基あります。
しやか
一二基のうちの一一基は、塔の正面に釈迦
たほぅぼんじあらわfう費?
と多宝の一一仏を党字で表してあり、承久
した。
つがねじ
津金寺には、滋野氏の勢力が最もさか
とんりゆうとう
んであった鎌倉時代初期に建立された塔
46
日では、佐久観音霊場めぐりの結願所として
多くの信仰を集めております。(結願所とは
三十三番目の霊場のこと)
註滋野氏の墳墓三基
只今走っております道は、諏訪街道です。
弓牒
長門町の古町、丸子町を通り大屋までおよそ
みちのり
一二十分の道程です。
依田川を渡りますと古町です。
古町は町村合併以前は長久保新町に対し、
長窪古町といわれ、新町同様小さいながらも
町制を施いておりました。
昔は芦田下野守の出城長久保佐衛門の居城
諏訪街道
恭一古町
しげのもりみちほつけきよう
ロロに建立され、中には滋野盛道が法華経
ぽだい
一二部経を写して納めてあり、父母の菩提
をとむらったと印されています。
ほうとう
鎌倉期の宝塔は各地に見られますが、
この滋野氏の宝塔は他とは異った大変珍
らしい宝塔です。
47
48
長久保城がありました。長久保城は武田信玄
の川中島遠征の際焼き払われてしまい、右手
の岩山に城跡だけが残っております。
なお、この古町から国道の二五四号線に入
ります。
鎌一立岩
右手をごらん下さい。依田川沿にそびえ立
った岩壁を立岩といい、およそ一○○メート
ルの長さです。岩の一部におよそ五メートル
の駒形が自然に現われておりみごとです。
この駒形は伝説によりますと、弘法大師が
こちらを通りました折、余りにも見事な岩壁
にみほれて足を止められ、自然の美しさを愛
されて杖で画いた跡だと伝えられます。
鎧美ケ原高原
左手に美ヶ原高原が見えております。
ご覧のように広々とした高原で、広さは二
○平方キロメートル、平均海抜二○○○メー
トル、一面つつじと数百種の高山植物が美し
く咲き乱れる高原です。
山本小屋の先代山本俊一翁が、大正十四年
の夏初めて美ヶ原高原に登り、日本アルプス
や富士山、八ケ岳連峰、夷笥山等、山岸一兆ゐ、
展望があまりにもすばらしいのに心をひかれ、-9
観光地として目をつけ、現在の山本小屋を建到
てられ、開発に着手されました。
昭和二十九年、高原の中央に建てられた美
しの塔には、山本翁の功績をたたえ、胸像が
はめられております。
たけし
繋一武石川
これから渡ります川は、美ヶ原高原から流
たけし
れてくる武石川です。このすぐ下流で、依田
鑑内村温泉郷
れいせんか
内村温泉郷は、霊泉寺温泉、大塩温泉、鹿
けゆ
そうしょう
教湯温泉など二一つの温泉の総称で、それぞれ
川と合流しております。た
けし
武石川を渡りますと武石村です。
道路をへて松本に通じます。
参考霊泉寺温泉
に泉質が異った温泉です。
いづれも東信地方の名湯として知られ、そ
二十分余りの道のりでございます。
みさや童
なお、内村温泉郷から一二才山トンネル有料
の歴史も古く、山合の静かな温泉郷です。
まると
別名を丸子温泉郷ともよばれ、声」ちらから
50
鑑内村温泉郷、松本方面
左に岐れる道は内村温泉郷をへて松本方面
を結びます。
が発見したと伝えられる。昔は霊泉寺の寺の
湯として病人の入浴のみ許されたのでした。い
厚生省の国民保養温泉に指定され、温泉医
綴臓謎も整い、泉質は扉獣節澱で、湯温四十一
度、高血圧に効く。
参考大塩温泉
内村川に面した山沿にひらけ、厚生省の国
民保養温泉。川中島合戦の折、武田信玄が兵
士の傷をなおしたと伝えられる。泉質は単純
泉で、湯温三十九度、高血圧や外傷に効き目
あり。
かけゆ
参考鹿教湯温泉
内村川の支流にあたる霊泉寺川に沿った温
わどう
泉で、和銅年間(七○八~七一五)に平維茂
-51-
内村温泉郷の中では一番大きく、その垂旦
もんじゆぼさつけしん
かりうど
文珠菩薩の化身である鹿が、信仰厚い猟人に
温泉のありかを教えたと伝えられる。昔から
高血圧に効く名湯で、リハビリテーションセ
ンターを始め、各種団体の医療施設が整って
おり、厚生省指定の国民休養センターに指定
される。温泉は単純泉で、湯温四十六度、飲
用も出来る。
けいりゆうぞいもみじ
なお、内村川の渓流沿いは、紅葉の名所で、
ととの
文珠堂や五台橋などの散策コースも整って、一
にぎ
25
春、秋の行楽には賑わうO
恭一丸子町
玄るこ:
ひがち2に$:
丸子町は、町村合併により、東内、西内、
よだ
依田、長瀬、塩川と五つの村を合併し、人口
およそ二万六千人の町です。
丸子町という呼び名は、天正時代この地に
住んだ豪族、鞠子有光の姓をとり地名にした
ものです。かつて勢力のあった祖先の名をし
のんでのことでしょうが、丸子とは何となく
親しみのある地名です。昔は須坂、岡谷、諏
訪、上田等と共に製糸の町として栄えました
が、最近は紡績、染色、諸工業の機械等の工
業地として栄えております。
叉こちら依田窪地方の農業、林産物等の集
荷地になっており、又君付温泉郎、美ヶ東司
原、白樺湖等の観光地への玄関口的役目をし一3
それぞれ
5
ており、夫々の観光地へ定期寺ハスが出ており一
ます。丸
子町の特産品としてはアユ、りんご、松
茸、山ごぼう、みそ、薬用人参、こんにゃく
等があります。
鑓丸子町の製糸工業
この丸子町は諏訪、岡谷とともに、製糸工
業で栄えた町です。
昭和の初めには工場数二十二、従業員一千名
を数える県下第二の製糸の町に発展しました。
せんい
今日では、電気機械を中心に、食料口中と繊維
られます。
生糸が、この丸子を通って信越線の大屋駅へ
運ばれて行きました。(中央線の開通以前)
左の道を十三キロメートルほどまいります
くっしよ
と、別所温泉です。
けいとうてんのうみこ
別所温泉の歴史は古く、景行天皇の皇子・
や富と#るのみこと償ばつ
日本武尊が東国征伐の折、入浴されたと伝え
工業の町として発展しております。
迷別所温泉への分岐点(長瀬丁字路)
これを見た丸子町でも、明治三十二年(一
どくじ
八九九)に下村亀一一一郎氏が独自で工場を建て、
した時代に、中仙道の和田峠を越えて沢山の
『
」一疎こいと
諏訪や岡谷が日本の生糸の一二分の一一を生産
54
師堂、そして、木造神将立像などの重要文化
ぜんざんじ
財が多く、ことに、前山寺の一二重塔は、未完
わよう
の完成塔として知られ、鎌倉時代末期の和様
からようせつちゅう
唐様折衷の調和美が見る人の心をとらえます。
ぺつしよ
温泉と史跡の町別所は、信州の鎌倉とよぱ
寺の八角三重塔を始め、常楽寺の石造多宝塔一5
きたむきやくしによらい
5
や北向観音、さらに、中禅寺の薬師如来と薬一
と古歌にも見られる古い温泉です。
べっしよ
別所は温泉もさることながら、鎌倉時代の
ゆいいつ
史跡に一邑承、我ヨでま佳一レーヘう⑩5、美鴬
.’:1.I’一‐I』久1ノ〃一’一、ラ
湯とよばれ、
や富い
世の人の恋の病のくすりとや
字
』一》“一』一壷如一心クユ込口。』叩》一
塩田平の西南隅にあって、別名を七苦離の
七久離の湯の湧きかえるらむ
れ、訪れる人の絶えることがございません。
撫一依田城跡
か六ヶ月足らずのことですが、この城で軍馬
げんじさいこう
を整へ、源氏再興のために都へ兵を進めて行
城でした。
じしよう
治承四年(一一八○)の九月、一一十七才の
きそよしなか
木曽義仲は木雷白谷で兵をあげ、平家追討に立
かさはら
ち上りました。そして一千の兵を集め、笠原
よりなおやぶ
頼直を木曽谷に敗って上州へ兵を進めたので
した。
えんこ
義仲は亡き父の縁故を頼って軍勢を集める
山には依田城跡がございますO
鎌倉時代に源氏の流れを汲む依田二郎の居
よだ
この丸子町を流れる依田川のほし」り、金鳳
56
目的でしたが、思うように行かず十二月二十
四日に信州へ引きかえし、依田二郎の迎えに
応じて丸子の依田城に入りました。
木曽義仲が、この依田城にあったのはわず
今溌b-
ヨ心霊ズ」〆」ろヘノと《エリへ泥、
一‐,、局‘軍‐’》画八
ったのでございます。
けいこく
依田川の渓谷に囲まれた依田城は、小さい
かたやまじるとんにちじようかく
ながら守るに堅い山城で、今日残る城郭やか
おうじ
ら堀に往時の姿がしのばれます。
石尊の辻跡
左手の「石尊の辻跡」と書かれた白い塔が
でワ一つ・フ十《月司・▽〈1〃、
』ダレ・』1..06.ト〃Ⅱ信にし頂隅飼‐16つ
三一↓コヨコュらユU
E-FF屋にトユメ釦
-57-
エ門の修業したかくれ土俵のあった所でござ
います。
謙一大屋橋
程なくして千曲川にかけられた、大屋橋を
渡ります。
温泉地として知られるようになったのも極
わず
く新らしく、明治の中頃までは商人宿が僅か
昭和になって、観光資源の開発が行われ、
たて
諏訪湖を始め、霧ヶ峰、夢の海などがクロー
ズアップされました。
これにともなって、温泉旅館もでき、現在
十五軒ほど立ち並んだ淋しい町でした。
いと
いわば、街道筋にそった「憩い」の地であ
鵜一諏訪市について
長野県には、県庁の所在地の長野市を始め、
松本市、上田市などの大きな市があります。
士士八hリ士士’一号」○
・11、‐、や.』
この諏訪市も、古くから開けた文化と、豊
いでゆ
かな出湯と、美しい諏訪湖や霧ヶ峰高原など
おんけい
自然の恩恵に浴した、景勝の町として栄えて
ったに過ぎなかったのでした。
61
りました。
すわたいしや
業一諏訪大社!
;…
諏訪市の象徴は、諏訪大社でございます。
たけJ〃たかたのみこときさき
諏訪大社の御祭神は、建御名方命と、お妃
やさかとめのみこと
の八坂刀売〈叩の御二柱がお祭りされておりま-26
す。
創建は、遠く神代と伝えられ、信濃国一の
宮として、広く尊敬されております。
御神体は軍神ともいわれますが、農業の神、
開拓の神様でもございます。
この大社のお祭りは、大変に有名で、昔か
おんぱしら
ら「人を見たければ諏訪の御柱へ」といわれ
おんぱしらまつり
るほど、盛大な御柱祭があります。
まり、東洋のスイスとさえいわれるようにな
では大小九十軒におよんでおります。
けんびきょう
その他、時計、顕微鏡などの精密工場が集
F一
けを新しく建て直すことになったのでした。
おんばしら
御柱は、四本とも長さが違い、五月初め、
かみしやしもしやひぎしき
上社、下社の両社に曳きたてる儀式が行なわ
なわれます。
れます。
そる
このお祭りは、大人も子供も、お揃いのく
きや
ツピで、木遣りの声もいさましく、盛大に行
日本三柱と呼ばれています。
ゆらい
御柱祭りが行われるようになりました由来
かんむてんのう
は、桓武天皇の、諏訪神社を七年目ごとに新
みことのり
しく造るようにとの勅命りが下ったことから
しかし、それは、事実上大変なことでした
りやくしきよすみ
ので、七年目ごとに略式として、四隅の柱だ
でした。
63
いせ
七年に一度行われますこの御柱祭は、伊勢
とうたいじんぐう
皇太神宮の心柱し」、出雲大社の大黒柱と共に
有数の温泉郷に数えられるようになりました。
とはんほうふわ
温泉は、湖畔の至るところから豊富に湧き
だたんじゆんいおうせんいちようびよう
出し、泉質は単純硫黄泉で、胃腸病、リュウ
おりました。
どう
只今では、温泉郷として熱海温泉や、九州
のぼりくつ
の別府、北海道の登別温泉などと共に、我国
中心地となっております。
しゆくえき
昔は甲州街道の宿駅で、諏訪一二万石の城下
さか
町として栄えておりました。
間もなく上諏訪温泉です。
上諏訪は、この地方の交通、文化、産業の
もとみや
なお、諏訪大社は上諏訪に本宮し」前宮の一一
叉、製糸業の盛んなことでもよく知られて
64
つがあり、下諏訪に春宮と秋宮の二つがあり、
やしろ
合わせて四つのお社がございます。
鎧型諦謝戯就
マチなどに効き目があるといわれております。
撚一霧ヶ峰入口
右手の道を、十一キロほどまいりますと、
スキー場で有名な霧ヶ峰高原です。
-◇-
左手は、上諏訪駅です。
夏はポート遊びや、つり、冬はスケートに
そな
最も良い条件を備えているため、ここを訪れ
ります。
より三五メートルも高くなっております。
る人が大変多いようです。
周囲はおよそ十八キロ、深さは七メートレノ
ぼん
ほどありますが、盆のように丸い形をしてお
65
膳一雨肌十〃胡
型宕一二二口一一二に、Y1
ひら
左の方に、美しく展けてまいりました諏訪
かいばつあしと
湖は、海抜七五九メートルで、箱根の芦ノ湖
そのため、冬でもここだけは氷が張らない
ようです。
参考
てんねんげんしよう
諏訪湖には、天然現象としてめずらしい、
セツ釜とは、湖水の中心部数ヶ所から八十
ふんしゆつ
度以上の熱い湯が噴出しているところで、そ
すうまんごく
の皇塁は、一日に数万石もあるといわれます。
すあたりが、有名なセツ釜です。
湖の底からは天然ガスが発生しておりまし
ねんりょうとうか
て、以前は、燃料や灯火用として家庭で使わ
66
れておりました。
只今では、この天然ガスを土地のガス会社
が一手に買いうけて配給しております。
が食
撚一七シ釜
このあたりを、諏訪市大和と申します。
うめたてち
埋立地に、赤い屋根の小屋がみえておりま