Horio sadaharu

Post on 25-May-2015

843 views 0 download

description

Horio Sadaharu

Transcript of Horio sadaharu

                                       

 堀尾 貞治  Horio  Sadaharu

  1939 年 -  出身国: 兵庫県、神戸市生まれ(73歳)  活動拠点:日本 、兵庫県神戸市。

< 作家紹介 >  現代美術作家 堀尾貞治( 1939 年神戸市生まれ・在住)は、 1965 年具体美術協会会員となり、 72 年の解散まで参加。1965 年から関西を拠点に日本の戦後美術界 をリードした具体美術協会のメンバーとして活動しました。 1972 年の具体美術協会の解散後、 1985 年頃から現在においては「作品は、生活から出てくる もの」という言葉の通りに、「あたりまえのこと」という一貫したテーマのもと、パフォーマンスや作品の制作を精力的に展開しています。

 堀尾氏が掲げるテーマ「あたりまえのこと」とは?

「百均絵画」とは? 具体とは?

この3点を中心に、堀尾貞治氏の魅力に迫りたいと思います。

< 略歴 >    1939年  4月5日 兵庫県神戸市 生まれ。

小学生時代  5 年生のとき放課後、かくれんぼで図工室に隠れ、その時、図工の担当の         喜岡先生にみつかった。たまたまそれがきっかけで先生に印象派などの画集を                             見せてもらったりして、いろんなことを話すようになった小学生時代。

中学生時代 図工部に入部。で中 1 の夏休みに喜岡先生に絵を見せに行った帰りに、       運動場を横切っている途中で「一生絵を描いていこう」となぜか思ったのが、                             作家になろうと思ったきっかけ。

三菱重工の   状況が許さなかったこととかあるけど、やりきれないものがあった。養成校時代   それでも、なんとか続けて頑張っていこうと思う養成所時代。 1955     三菱重工神戸造船所に入社。サラリーマン生活を続けながら旺盛な作家活動を展開。 1957 2 つの団体の公募展に出品し、どちらも入選。だが、団体がどんなものか事情を知らず、        隣でやっている公募展にも入選したという事を喋ってしまい酷く叱られ、吊し上げにあい         それからは、その手の団体とかかわりをもつことは二度とありませんでした。1958 第 10 回「芦屋市展」に入選。そこで、吉原治良氏に出逢う。1965   第 15 回具体美術展に出品。1966   具体美術協会会員となる。主に、流木、廃棄物、石、砂の物質を生かしたアートを作る。 1968   木村昭子と結婚1972   具体美術協会解散まで在籍。

    1975 松谷武判氏の誘いで、坂本昌也氏とパリへ行く。日本だと、雑誌などの論評に作品が       影響されたりしたが、パリに行くと、ミニマル、フォーヴなど各々を専門とする画廊が分       かれていて、驚く。それをみて、自分の生き方を貫く事を決意する。       パリから帰国し、個展を行う。そこに、菅井汲さんに、       「君のやっていることはそれでいいんだ」と言われ、自信になる。    1979    東門画廊を創設、   1985 六間画廊を側面から支援、 1987 画廊ポルティコの運営を任される。神戸における実験的な発表の場づくりに尽力してきた。

   1985    「あたりまえのこと」というコンセプトのもとに、パフォーマンスと平面や立体作品による                          コンセプトの具現化        を続ける。様々なオブジェに毎日特定の色を一色塗り重ねる行為を開始、現在も継続中。        年間 100 回近い個展、グループ展、イベントなどをこなす        超人的な活動ぶりは、個々の作品の完成度よりも「生きる」ことと「美術」とを同一視する、                          独特な哲学に 裏づけられている。

芦屋市立美術博物館における個展( 2002 年、 38 日間)、横浜トリエンナーレ 2005 ( 2005 年、 82 日間)では、 いずれも会期中毎日日替わりでパフォーマンスを行ない話題となった。   1995   阪神淡路大震災にて、神戸で被災。九死に一生を得る。 1996   現場の様子を記録スケッチを始める。    2005   横浜トリエンナーレにて , 「百均絵画」始動。 2009   ベネチアビエンナーレ出品。収蔵 福岡市立美術館他         ピカソ・フォンタナの展示された館で床面にインスタレーションを行う。

具体とは?「具体美術協会 ( 略称:具体 ) 」とは、戦後まもない 1954( 昭和 29) 年、関西の抽象

美術の先駆者・吉原治良と阪神在住の若い美術家たちで結成されたグループです。

• グループ名の「具体」には、「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」 (機関誌『具体』創刊号より ) という思いが込められています。

リーダーの吉原治良(よしはらじろう)が掲げたグループのモットーはただひとつ、「これまでにないものをつくれ!」というものでした。吉原はまた、野外公園や舞台、空中を使った作品発表など奇想天外な企画を次々と打ち出し、実現させました。吉原の厳しい指導と、これまでの常識をくつがえす斬新な発表の場に刺激され、メンバーはさまざまな方法を駆使し、他に例のないユニークな作品を生み出しました。

• 「われわれは、われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」と願う吉原治良へ堀尾貞治は師事して、「絵を描くという行為そのものにこそ絵を描く意味がある」と制作活動を今日まで続けている。

『具体美術宣言』 吉原治良 1956年、『具体美術宣言』吉原治良

今日の意識に於いては、従来の美術は概して意味あり気な風貌を呈する偽物に見える。

芸術は創造の場ではあるけれど、未だかつて精神は物資を創造したためしはない。精神は精神を創造したにすぎない。精神はあらゆる時代に芸術上の生命を産み出した。しかしその生命は変貌を遂げ死滅してしまう。 「具体美術に於いては、人間精神と物質とが対立したまま、握手している。」

ベネチアに「具体」旋風 ビエンナーレ展 朝日新聞より

• イタリア・ベネチア市で開催中の「第53回ベネチア・ビエンナーレ」は、同時代美術の国際的な祭典だ。国別参加部門には77カ国、企画展示部門には90人を超すアーティストが集う。では、日本はというと、日本館と金獅子賞のオノ・ヨーコをのぞけば、展示は関西発で半世紀前に発足した「具体美術協会」(具体)のみ。ベテランたちが気を吐いている。

         ■関西での発足から半世紀     具体は54年に芦屋市で結成された美術集団。主導した吉原治良の「人のまね

をする    な」 を教えに、前衛的な作品を数多く生み出した。海外にも進出、吉原が

亡くなる72年    まで続いた。

•  具体はすでに93年に、ベネチア・ビエンナーレで大々的に取り上げられた。80年代半ばからは、欧州での個展や展示が繰り返され、驚くほど知られている。「グタイ!」と喜ぶ鑑賞者も目立った。

•  滋賀県立近代美術館の山本淳夫学芸員は「具体の作品はあっけらかんとしていて、見れば笑いが起きるほど。メッセージ性の高いほかの作品との落差が人気の理由では」と話す。

•  祭典中は公式行事のほか、市内で多くの展覧会が開かれる。ベネチア市の美術館財団などが市内の邸宅で開いた「無限」展もその一つ。古美術と現代美術の作品を並べて見せる展示が話題を集め、長い行列ができた。ここでも具体は目立った。

• 吉原、白髪、村上の絵画がかけられ、具体では若手の堀尾貞治(70)の作品が最上階に置かれた。堀尾は毎日のように作品を発表する「あたりまえのこと」というシリーズで知られる。ここでは、廃材に毎日絵の具を塗り重ねて「無限絵画」としたり、つるした筆を床に置いた紙にぶつけたり。堀尾は「日本より反応が全然いいので驚いた」と話す。

•  兵庫県立美術館の河崎晃一学芸員は「戦後、美術の中心を米国にとられた欧州にとって、米国外で独自性を持って出てきた具体は評価すべき存在。白髪や田中を筆頭とする具体の作品は、欧州の美術市場で盛んに取引されるようになっている。今後、評価はさらに高まるだろう」とみる。(西田健作)

吉原 治良(よしはら じろう)• 1905 年 1 月 1 日 - 1972 年 2 月 10 日)は、日本の抽象画家、および実業家。

吉原製油社長。大阪府生まれ。表現のオリジナリティを求め続けたほか、若い画家たちと具体美術協会を立ち上げた。

• シュールレアリスム、抽象表現主義などの時代を経て、晩年の吉原は悟りの境地を思わせる円を繰り返し描くようになりました。黒を塗り込み、白地を塗り残す手法で白い円を浮かび上がらせた本作品は、そうした連作の一つです。吉原は自身の「円」について、その形態への追求の深さを示すかのように、「一つの円も満足に描けない」と語りましたが、実際、それらの「円」には、一つとして同じものはないのです」

• 「論理から徹底的に離れようとした吉原の考えは禅的なものに近いかもしれない」

松谷武判(まつたに たけさだ)• 1937 1月1日大阪市に生まれる。

• 1954 大阪市立工芸高校日本画科に入学。2年後病気のため中退。

• 1960 具体美術展に初出展。 • 1963 具体美術協会々員に推挙される。 • 僕が具体美術協会の会員になれたのは , 木

工用のボンドを画材として取り入れてからです。

• 1966 フランス政府留学生選抜第1回毎日美術コンクールでグランプリ受賞。

• 1967 S.W.ヘイターの版画工房アトリエ17に入門。69、70年助手を務める。

• 1970 アトリエ17を辞し、モンパルナスにシルクスクリーン版画工房を造る。

• 1974  白と黒に視点を合せ鉛筆で描き重ねて黒の線、面を構築し現在に至る。

• ※10 メートルのキャンバスを鉛筆で塗りつぶす。

   2002 現代美術の普及・振興に貢献       西宮市民文化賞を受賞。 • 現在、パリと西宮(丸橋町)に住まい• 工房を持ち創作活動に励む。

坂本昌也(さかもとまさや)

• 鳥居本在住

菅井汲(すがいくみ) 本名は、貞三。1919 年 3 月 13 日 - 1996 年 5 月 14 日•洋画家、版画家。国際的に最も高く評価されている日本人画家の一人である。• 1919 年、神戸市東灘区に生まれる。大阪美術工芸学校に学んだ後(病気の為に中退)、 1937 年から阪急電鉄宣伝課で商業デザインの仕事に就く。• 952 年渡仏。日本画を学んだこともある菅井の作品は、東洋的なエキゾティシズムをたたえたものとして、パリの美術界で高い評価を与えられた。当初はアンフォルメルの影響を受けた、象形文字のような形態を描いていたが、 1962 年頃から作風は一変し、幾何学的な形態を明快な色彩で描いた「オートルート」のシリーズを制作するようになる。

• 1970 年代からは、ほとんど円と直線の組み合わせから成る、より単純化され、無駄を省いた作品を描くようになった。モチーフはほとんど機械的に組み合わされ、一つひとつのモチーフは正確に描かれる。 • 彼の「無駄を省く」姿勢は実生活にも及び、朝食、昼食、夕食のメニューはそれぞれ決まっていて(たとえば朝食はコーヒーとチーズ、昼食はスパゲッティ・トマトソースとソフトサラミなど)、同じメニューを 1年 365 日、 20 年間食べ続けたという。

• 菅井は「なぜ同じ絵を描き続けてはいけないのか」と問い、同じパターンを描き続けること行為自体に個性があると考えた。リトグラフやシルクスクリーンの作品も多く残した。

木村昭子(堀尾昭子)堀尾貞治氏の奥さん

• 「具体」の美術家• 貞治氏と正反対にも見

える緻密な作品を作る。• 「結婚して子供がうま

れて、当時彼の兄弟もまだ独身で、彼等の結婚とか親のことやらいろいろ大変で。十年間は美術をすることはできなかったの。でもね、私の祖母も母もそうしてきたし、当然のことだと思っていたのよ。」

「親戚のさだはるさん」 作品集

• 代美術作家の堀尾貞治さんは、会社員時代から数十年にわたり年間 100 回以上もの展示・パフォーマンスを続けており、ゆえに作品の数は莫大です。

• それらの氷山の一角として、貞治さんの親戚にあたる、木村家および松田家が所蔵する作品をご紹介します(木村家は貞治さんの妻・昭子さんの実家、松田家は昭子さんの妹で私の母にあたる和子の嫁ぎ先です)。

• 本作品集は、 1960 年代から 2000 年代まで、古い作品を優先し、手紙を含めた平面作品を中心に計 120 点を掲載しました。その大部分は、折々に昭子さんが選んで送ってくれたものです。猫の作品の数が比較的多いのは、親戚内に猫好きが多いという理由によります。このように親戚の家にご縁あって集まった作品を並べることによって、貞治さんの活動の一端やお人柄が伝わる一冊になれば幸いです。

                          松田陽子

                         

                 

展示先の美術館へ向かう朝のパフォーマンス風景です。 きっと嬉しすぎて街に抱きつきたくなったんでしょうね。いいなぁー。

堀尾氏の息子さんが書いているブログ「オフィス」より

作品紹介「あたりまえのこと」1977年急性白内障になり、79年頃にノイローゼ気味で不眠症になり、とても精神的につらい時期があり、会社の同僚の進めでワラをもつかむ思いで新興宗教にも行き、そこで神様に頼れば大丈夫という話をされ、信用できなかったので、「信者を食いものにしてるんだろ」と言った。そしたら、君は神様はいないというのなら、この空気は見えるかと。「見えない」と言ったら、君は空気がないというのなら、鼻と口つまんで 1時間寝てろと言われたのがきっかけで、空気を見えるようにするにはどうしたらええのか、ということで色塗りを始めた。色を塗るという行為そのものは単純やからできるけど、コンセプトがなければ続かない。つまり哲学がないとこんなバカなことできへんわけですよ。だから色を塗るということは現象面ではなくて、その人の哲学の問題なんです。と言っておられる。

あたりまえのこと

(囲む ) (場にあわせて ) (色のポジション)(場、物、時間)(境界紙)( ATSUKAN )(五つのお願い聞いてよね)(黒)(パンによる)(同時空間四角連動)(ピカソでなくヒソカにピカソ) (めをつぶって 1234567) (トラドシハ何がなんでもトラマーク)( 12枚リーズ)(等量絵画)(大阪の街)(ストライプのこと)(百塗れば百の表情)(スーパーボール五千)

など、展覧会のサブタイトル

あたりまえのこと

「あたりまえのこと」というテーマでいろいろと作品づくりをしてきました。 あたりまえとは、空気を吸わないと死んでしまいます。その空気の問題をずっとやっていて、その空気の存在を視覚の上で楽しむような事をしております。 今回は、境界で空気感が変化するのをみるというか、形にするようなことを考えております。山があって空がある、その山の稜線のあり方をみるというようなことですが、日常の中に万とあるので今からいろいろ考えつづけるような個展になりそうです。

2011 年 10 月 4 日朝 堀尾貞治 あたりまえのこと(境界紙)より

堀尾貞治展  あたりまえのこと(スーパーボール五千 より)

あたりまえのこと

• あたりまえのこと(空気=色)。僕の中のあたりまえというのは、空気のことを表現していて、その空気というのはみえない。

• それを色でみせようとするこの表現は、森羅万象そのものが空気とかかわっていないものがないので、いろいろのオブジェはそのまま言葉や表情を持っている。色を塗るという行為は表現であると同時に表情も持っていると考えている。

•           あたりまえのこと(百塗れば百の表情 より)

あたりまえのこと• あたりまえのこと、例えば日々の食事は誰でも

がしていることです。また空気も目にみえませんが、それでも吸っていないといけないのです。

• こうした日々のなんでもない、あたりまえのことを意識の中に持ち込むことで、いろいろの場面や状況に、新鮮な輝きを持たしてくれるのが美術ではないかと思っています。

                あたりまえのこと について

あたりえのこと「本と記録」より

あたりまえのことということから いつも始まります。 あたりまえのことというのは、 僕にとって空気の問題です。 そのことを色々な方法で形にして 自分なりの世界を創っているのですが、 今回も本というスタイルと記録という 方法の中で、自分なりに面白いと 感じていることを形に出来ればと 思っています。 本について、ページを開く時の 期待感を楽しみたいと思っております。 記録については、今自分が感じている ものと、その時に決定された時間の差、 又は自分の思考の在り方をみたいと思います。

・・・作者の言葉より・・・

あたりまえのこと

• 「あたりまえののこと」と「空気」が根底意識であり哲学的命題といっていい。

• 空気は存在を意識しないが生存のために必須なもの。堀尾氏は「作る」「行う」は必須なものとして貫き通してみせている。

  

堀尾貞治展に関して 堀尾にとって生きることは、「日々、創造」である。

展覧会のタイトル「あたりまえのこと」とは「日々、如可に創造しているか」ということを堀尾に皆が問われている、ということではないか。

「毎日、あなたたちは何を創造していますか?」     すなわち、それが堀尾の言う「アート」である。堀尾は美術館ですべてのものに魂をぶつけている。それもほぼ毎日・・・。子供たちは、喜々として参加して喜んでいるが大人になったら、この展覧会の意味が判るときが来るであろう。

堀尾はパフォーマンスの時にしきりにメッセージを発信する。

「あたりまえのこと」     それ以上は口には出さないが、彼は、こう言いたいのだろう。

「あたりまえやん。生きてるんやろ!」 (文中敬称略)graf 増地 孝泰

   堀尾貞治日記より 

•「日々のこと」  11/AUG /2007•   1985 年頃から意識的に毎日何かをするというような形にして、単純に色を塗るというようなことを義務づけてやっていた。色というのは空気のことで、空気を見るみたいに色という意識づけをしている。それがいつの間にか、日々飯を食べるようなことになっています。それに関連して、エスキース 日々の中で、個展とかグループ展等のプランを書いていたのですが、そのまま30年程続いています。•  もともと絵を描くのが好きで、最初は出来るだけ自分の感情や思い入れをなくしたいという考えで1分間くらいで絵を描くのを続けていました。今もそれを日々おやつを食べるようやっています。それを1分打法と名づけています。これは、王貞治 今はソフトバンクの監督の一本足打法をこじつけています。僕も貞治という名前ですので、 一本足打法(王貞治)=一分打法(堀尾貞治) このような意識の中で、作品つくりを日々の仕事にしています。

 

• 阪神淡路大震災の図  90×90  布・アクリル

 

• 堀尾貞治「震災のあと、生きていてよかった…ジワッと実感がわいて来た。」 神戸市兵庫区の震災のまっただ中、火の中で九死に一生を得た作者が綴る震災の絵。震災をテーマに多数の展覧会を行う。

                                          2005年 4月

作品紹介 横浜トリエンナーレ 2005  「百均絵画」 堀尾貞治+現場芸術集団「空気」  83 日間連続パフォーマンス(横

浜)会期中、約1万枚の作品を描かれた。

現場芸術集団「空気」現場芸術集団「空気」(げんばげいじゅつしゅうだん・くうき) 2002 年の「堀尾貞治展 あたりまえのこと」(芦屋市立美術博物館)の会期中、堀尾の活動に共感する主に阪神間在住の不特定多数によって自然発生したグループ。 翌年の空気美術館(神戸の兵庫運河で約1年間にわたり展開された野外展)において堀尾によって正式に「空気」と命名された。 以来、堀尾と活動を共にし続けている。 メンバー構成はフレキシブルであり、

ほとんどが神戸の居酒屋「ぼんくら」での月に一度の会合の参加者でもある。

メンバーは、 友井隆之、山下克彦、原口研二、清水公明 など

 • 彼は、百円でコミュニケーションしている。• -コラム的連載 芸術はゴミか•  堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 3

•  絵らしい絵、ビシャビシャの絵、これでも絵か、本日のおすすめSADA絵画、音の出る絵、とか、まあいいかげんな十一の絵画商品名が書きつけられている。

•  興味ある人は、先ず百円を穴に入れる。百円コインは箱の中の床に落ちる。床には鉄板が置かれていて、チャリンと音がする。それから、ペットボトルを切断した伝声管みたいな口に、話しかければ良い。一番下さい。四番。とか十一種の変なカタログから、たったの百円で買いたいモノの番号を箱の中に話せば良い。

•  木製の箱の中には堀尾貞治が座り込んでいて、オーダーに応じて、絵を描いてしまう。一点三十秒くらいかな。もう少しかかるのもある。音のする絵を注文したら、ガンガンと箱の中で音がして、たがねで紙に穴があけられたモノが、作品出口の穴から出てくる趣向も用意されている。

•  何とも言い様がないくらいに馬鹿馬鹿しい。しかし、人がどんどん集まってくる。そして実に多くの人が百円を箱に入れる。下の穴からつるりと作品がすべり出てくる。伝声管に小声でしゃべり掛ける人がいると、箱から堀尾さんが飛び出してくる。

• 「大きい声で言って、聴こえないから。」• 又、出てきては、• 「百円入れてから、話さにゃー。同時にしたら聞きとれまへん。」

• アッという間に三十名くらいの人が百円を入れて、堀尾さんの作品を入手してしまった。箱をのぞき込んでみたら、床に正座した堀尾さんが一心不乱に制作しているのが視えた。箱の片隅には百円コインが散乱している。

年間 100 回以上の展示・パフォーマンスを行っている。 堀尾氏の搬入は、乱暴といえるほどの早業。1 年に 100 回を超える展覧会という経験は、彼にスピードと咄嗟の判断を与えました。

多作がいいとは言えません。しかし、考えていることほど愚かなことはなく、行動することによって初めて何かが得られるように感じます。

堀尾氏の作品は、彼自身を含め作品である。

作品を展示するということ。• 「神奈川県民センター(とかいうところだっ

たと思う)で、大きな部屋のまんなかに小さくまるめた紙を一つ置くという作品を展示したとき、親戚の人が見にいってくれたのはいいけれど、何もなかったって言われてね。まいったよね。でもね、もし展覧会をやって、誰も見にこなかったとしても、その時、その場所に確かに作品があったということは、歴史の目が見ているんだよ。だから、もしそうでも落胆したらいけないし、展示する以上、絶対手を抜いてはいけないんだ。」

堀尾貞治氏にとって、芸術とは?「毎日が楽しいことは芸術」  人から誉められたり、売ったりすることがワイの芸術ではない。  「毎日が楽しいことは芸術」であると考えて「即行動」する。そうすると忙しくなる。「忙しいことは幸せ」であると堀尾は言うのである。

「即行動」 “考えたらアカン、即行動することや”と言う。朝五時に起床したら、畳一枚程の土間(前は道)に立って、木片に一日一色の色を塗る。木片は、大中小、壁に掛けてあるのを手に取って塗る。お経を唱えるように、毎朝塗る作業から一日が始まる。 「多忙は幸せ」  堀尾は、一月に数本の個展をかついで忙しい毎日を送っている。大阪、神戸、京都の展覧 会へもまめに足を運ぶ。実に忙しい毎日を朝から晩まで過ごしている。  近場は自転車、遠くは電車と徒歩でどこでも行く。  「家の中を走ってまっせ!」と言うのが堀尾の口ぐせだ。  二階がアトリエになっていて、ざぶとんの右側に墨汁と筆と紙とえのぐなど、いつでも取りか  かれる準備がしてある。  勿論ハガキも置いてある。  多忙な人は几帳面である。

 

芸術はやりすぎるということはありません。やればやる程神が力をかしてくれます。そして楽しくうれしいことばかりになります。           堀尾貞治

パフォーマンス「水形」

              水を撒き、チョークで型を取る。だが水は、型をはみ出していく。