ペリー来航以来の日米文化 交流と「Japan2019」(上) ·...

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1はじめに その訃報に接して ―ドナルド・キーン(コロンビア大学教授)(1922年‐ 2019年))

インタビューに答えるキーン氏(2012年9月26日)ドナルド・キーンへのインタビューに基づく『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』(ドナルド・キーン/河路由佳、白水社、2014年)より転載

今年、2月、ドナルド・キーンの訃報に接した。かつて、某新聞に連載されていた彼の「百代の過客 日記に見る日本人」、名前からして外国人と思われる著者による、おそらく日本人でもあまり読んだことがなさそうな昔の人の日記を自在に読み解く文章に、ただものではないと思った記憶がある。

戦中の米軍日本語通訳・翻訳官としての経験の後、戦中に日本を勉強した、いわゆる日本研究者の「第二世代」として、日本文学研究に志し、その第一人者となった。以来、古典から現代に及ぶ数多くの日本文学の翻訳・紹介を行っており、日本文学の翻訳と著作を通じての日本文化紹介において絶大な貢献。日本文学の研究、海外への紹介などの功績により、1962年、菊池寛賞、90年、全米文芸評論家賞、93年勲二等旭日重光章受章、2002年文化功労者、2008年文化勲章受章。

1922年に生まれ、成績優秀で16歳でコロンビア大学に入学したドナルド・キーンが日本に興味を持ったきっかけは、18歳の時にニューヨークのタイムズスクエアの売れ残った本を扱う本屋で、山積みになっていたアーサー・ウェリー訳の源氏物語を、面白そうだという理由ではなく、当時としても「価格からして買い得のような気がして」(2巻セットで49セント)買って読んだことだという。

翌年、コロンビア大学で日本思想史を学び始めた年の12月に日米開戦。20歳で、語学の習熟能力によって有名大学の上位5%の学生たちが選ばれたという米海軍日本語学校に入学、11か月の日本語習得訓練では卒業生総代となる。その後、海軍情報士官として従軍。日本軍に関する書類の翻訳、日本兵の日記読解、日本兵捕虜の訊問や通訳などに従事。最初に読んだ生の日本語はガダルカナル島の日本兵の日記だったという。「戦時中、日本の兵士がつけていた日記には、時として耐え難いほどの感動を誘うものがある」と言い、「海軍日本語学校の卒業生で日本や日本人が嫌いな人は一人もいません。…日本人捕虜とは、みんなすぐ友達になりました。」と語る。

戦後、コロンビア大学に戻り、日本文学を学び、ハーバード大学、ケンブリッジ大学でも学ぶ。1953年には京都大学に留学。京都では、「能を勉強すれば日本の伝統文化も自然に覚えるだろうと思っていたが、一方、能は難しすぎるのではないかとも懸念して、結局は狂言を勉強することとした。その後、2年半にわたった狂言の稽古は、日本でのすべての体験の中でも、最も楽しい一時だった。」という。1956年には狂言の太郎冠者を谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、八代目松本幸四郎らの前で演じている。1955年

「日本文学選集・古典編」、56年に「日本文学選集・現代編」を編集刊行。今日、世界中の多くの研究者が

ペリー来航以来の日米文化交流と「Japan2019」(上)

元国際交流基金 吾郷 俊樹

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最初に日本文学に出会った本だといわれる。帰国後、コロンビア大学助教授に就任し、日本語・

日本文学を教える。70有余年に及ぶ日本研究による著作は膨大で、ドナルド・キーン全集だけでも全15巻。かつては日本文学の翻訳は大体英語によるもので、英語から独、仏、スペイン、イタリア語に訳されていたという。日本文学を研究するに英語でなければ、というのはドナルド・キーンの功績によるという。初来日した1953年「当時、日本文学を学ぶ外国人留学生はほんの数人しかいなかったから、高名な作家も…喜んで自宅に迎え入れ、時間も気にせずに接してくれた」幸運と、京都に住み始めて間もなく、のちに文部大臣にもなった永井道雄と偶然出会い、そのお蔭で彼の幼馴染の中央公論社社長、嶋中鵬二とも出会い、多くの作家を紹介されたという幸運もあり、日本人でもめったにないことだが、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、安部公房、司馬遼太郎ら文豪とも親しく交流。特に三島由紀夫や安部公房は親友で、三島由紀夫が亡くなった時は、三島の机の上にドナルド・キーン宛ての手紙が残されていたという。

能、文楽、歌舞伎に通じ、ことに能については、「どうしてもアメリカ人に能を見せたいという気持ち」から、本職の興行師に「日本でさえ難解とされるものが、外国でわかるか」などど断られたため、自分で各地の大学に連絡をとって資金を集め、能のアメリカ公演を実現。アメリカ、メキシコでの合計36回の公演はどこへ行っても大変な成功を収め、以来、能の公演が海外でも行われるようになっているという。今月まで日比谷公園内にある日比谷図書文化館で、ドナルド・キーンを偲ぶ展示が行われていて、米海軍日本語学校で使った日本語の教科書や辞書、彼の半生を記した「かなえられた願いー日本人になること」が掲載された小学校の国語の教科書などが展示されている。「戦争中に日本語を勉強した仲間たちが、戦後日本

の文化の理解者になり、研究者になって次世代に日本語や日本の文化を伝えた。いまはその教え子が指導者となり、また次の世代を育てている。今や日本文学は世界中の多くの人が知るところとなった。戦争前には考えられなかったことである。あの戦争で日本は負けたが、日本文化は勝利を収めた。これは私の確信するところである。」と語る。

東日本大震災後、日本に帰化。昨年、ロンドンで古浄瑠璃のイベントでメインスピーカーとなる予定だったのが、体調を崩されて参加されず、心配していた矢先だった。近くに来られる機会があったので、直接お話しできたらと思い、全集を読み進めていたが、それも叶わぬこととなったのは残念。

ここでは、ドナルド・キーンのように日米文化交流に貢献した人たちを中心にペリー来航以来の日米文化交流を振り返り、今年、米国で日本や日本文化への理解・関心の裾野を広げる目的で開催されている「Japan2019」をご紹介することとしたい。

2ペリー来航(1853年、1854年)

国立国会図書館デジタルコレクションより ペルリ提督日本遠征記

日米の交流を遡ると、1853年の黒船来航に至る。ペリー提督が歴史家に編纂を依頼し、監修し、米国議会上院に提出した提督の日本遠征の報告書の翻訳「ペリー提督日本遠征記」によると、「日本という帝國は、昔からあらゆる面で有識者の並々ならぬ関心の的となってきた。加えて、200年来の鎖国政策がこの珍しい国の社会制度を神秘のベールでおおい隠そうとした結果、日本への関心はますます高まった。…分野は種々雑多であれ、そこには人々の心情をひとつに結び付ける一つの結びつける共通の関心がある。宗教家も哲学者も、航海家も博物学者も、また実業家も文学者も、この豊かな魅力溢れる研究領域を徹底的に調査してみたいという思いに、みな等しく駆られていたのである。」として、1295年、マルコポーロがヨーロッパの人々に体験談を紹介し、コロンブスが到着すると考

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えていた「ジパング」、即ち、当時の日本に対する西欧諸国の関心の高さを記す。遠征記には、必ずしも正確ではないが、領域、地理、日本人の起源、政府、宗教、西洋文明諸国との関係、産業技術の進展と文明の水準、文学と美術、自然生産物について解説している。例えば、政府については、「二人の皇帝が並び立っているという奇妙な特徴がある」とし、産業技術の進歩と文明の水準については、「日本人はきわめて勤勉かつ器用な民族であり、製造業の中には、他国の追随を許さないほど優れたものもある。…日本人は外国から持ち込まれた目新しいものを素早く調べて、その製造技術をすぐに自分のものにし、非常に巧みに、また精緻に同じものを作り出すのである。…木材や竹材加工において日本人と比肩しうる国民はない。…日本人が織った絹の最高級品は中国産のものより上質である。」としている。

日本の印象については、1854年の二度目の日本訪問の際、条約に基づき開港された下田と函館について、「下田は文明の進んだ街であることが見て取れ、町を建設した人々の衛生や健康面への配慮は、わが合衆国が誇りとする進歩をはるかに上回っていた」とし、箱館では、「実際的および機械的な技術において、日本人は非常に器用であることが分かる。道具が粗末で、機械の知識も不完全であることを考えれば、彼らの完璧な手工技術は驚くべきものである。日本の職人の熟達の技は世界のどこの職人にも劣らず、人々の発明能力をもっと自由にのばせば、最も成功している工業国民にいつまでも後れを取ることはないだろう。人々を他国民との交流から孤立させている排外政策が緩和すれば、他の国民の物資的進歩の成果を学ぼうとする好奇心、それを自らの用途に適用する心構えによって、日本人はまもなく最も恵まれた国々の水準に達するだろう。ひとたび文明世界の過去及び現代の知識を習得したならば、日本人は将来の機械技術上の成功を目指す競争において、強力な相手になるだろう。」という。そして、吉田松陰らの黒船への密航企図事件について、「日本人は間違いなく探求心のある国民であり、道徳的、知的能力を広げる機会を歓迎するだろう。あの不運な二人の行動は、同国人の特質であると思うし、国民の激しい好奇心をこれほどよく表しているものはない。…この日本人の性行を見れば、この興

味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか、そして付言すれば、なんと有望であることか!」と記述しており、その後の日本の発展を見通しているかのようだ。

3フィラデルフィア万博への参加(1876年)

国立国会図書館デジタルコレクションより フィラデルフィア万博の日本館(即売会場)

明治維新後、日本は万国博覧会を国威発揚の場として活用した。ペリー来航から13年後の明治9年、米国独立100周年を祝うフィラデルフィア万博に、明治政府は、大久保利通を総裁、西郷従道を副総裁とし、1873年のウィーン万博に次ぎ、2回目の正式出品。

当時、機械や技術など本来万博で競われるものは未熟であり、出品できないという事情や、当時欧米でジャポニズムブームがあり好評を博することが予想されていたことから、政府はウィーン万博同様工芸品を展示の主要に据えた。ウィーン万博で陶磁器が好評であったこと、この当時アメリカへの主要輸出品の一つが陶磁器であったことなどから、出品された1966点の多くは、工芸品、とりわけ陶磁器である。会場内でも日本の工芸品は人気が高く、それの多くは販売され、155点が褒章を受けた。そのほか製造部門には漆器類、刺繍、扇、生糸、絹糸が出品された。製造物に次いで美術部門、農業部門の出品物が多かった一方、機械部門への出品は無かった。現地での評判は、とりわけ陶磁器などの工芸品への展示物への関心が高く、日本政府館建設のために日本から派遣された大工たちは見物人の人気を博したが、これも日本人そのものと、日本の建築技術、技法への珍しさからの人気であったという。

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4 Tale of Genji(源氏物語の名訳)(1925年‐ 1933年) ― アーサー・ウェリー(1889年‐

1966年)「ペリー提督日本遠征記」では、「日本の書物の価値

については、はっきりした判断を下すことはできない。日本語の読めるヨーロッパ人やアメリカ人はほとんどおらず、その習得も決して生易しいものではないからである。…遠からずヨーロッパ人やアメリカ人が日本語を完全に習得する日の来ることを期待し、その上で日本文学について語ることとしたい」とされ、当時は日本文学については知られていなかったと分かる。

以前、シンガポール人のオーナーに買収されたという東北のあるホテルの図書室で、「Tale of Genji」という源氏物語の英訳と思われる本を見つけたが、それが欧米でも知られた名著だとは知らなかった。アーサー・ウェリーは、その源氏物語の名訳「Tale of Genji」により、ドナルド・キーンを日本文化の世界に導くなど、米国人の日本文化への理解に大きな影響を与えた英国人。日本語や中国語だけでなく、サンスクリット語、モンゴル語、ヨーロッパの主要言語にも通じ、ケンブリッジ大学でドナルド・キーンが初めてアーサー・ウェイリーに会った時、ウェイリーはアイヌ語の叙事詩を講義していたという。ドナルド・キーンも

「私が中国語と日本語の研究を始めて以来影響を受け続けていた偉大な翻訳家」と言い、「ウエーリ先生は天才でした。…『日本の古文、古語を読めるようになるには3か月あればいい、3か月で誰にでもできるはずだ。』と書いています。困ったものですね。そんなことができるのは世界広しといえどもウエーリ先生位でしょう(笑)」と語る。

1925年から六分冊で刊行された「Tale of Genji」について、「この翻訳が行われた直後の英米マスコミの反応を見てみると、出版されてすぐに『タイムス文芸付録』と『ニューヨークタイムズ・ブック・レビュー』がほぼ1面全部を使ってとりあげ、それぞれ

「文学において時として起こる奇跡の一つ」、「疑いもなく最高の文学」と絶賛した。」という。

このようにTale of Genjiが高い評価を受けたのは、ウェイリーの名訳によるところも大きく、当時、日本

でも、原作の源氏物語よりも面白いといわれ、「ウェイリー著 源氏物語」として、近年、現代語訳されている。

ウェイリーが文豪谷崎潤一郎自身から贈られた「細雪」をドナルド・キーンに贈り、それに魅了されたドナルド・キーンが留学先として当時谷崎が住んでいた京都を選び、谷崎作品の英訳の原稿を谷崎に渡すように友人から頼まれて谷崎を訪問したことが、その後の谷崎とドナルド・キーンとの交流のきっかけともなった。

5「菊と刀」(1946年) ― ルース・ベネディクト(1887年‐

1948年)「第二次大戦中の米国戦時情報局による日本研究を

基に執筆され、後の日本人論の源流となった不朽の書」とも言われる「菊と刀」の書名は知っていても実際に読んだ人はどれくらいいるかわからないが、今読んでも、深い。「日本人はアメリカがこれまでに国をあげて戦った

敵の中で、最も気心の知れない敵であった。…このために太平洋における戦争は、島から島への一連の上陸作戦を決行するだけ、軍隊輸送・設営・補給に関する容易ならぬ問題を解くだけでなく、敵の性情を知ることが主要な問題になった。われわれは、敵の行動に対処するために、敵の行動を理解せねばならなかった。困難は大きかった。…日本人について書かれた記述には、世界のどの国民についてもかつて用いられたことのないほど奇怪至極な「しかしまた」の連発が見られる。まじめな観察者が日本人以外の他の国民について書く時、そしてその国民が類例のないくらい礼儀正しい国民である時、「しかしまた彼らは不遜で尊大である」と付け加えることはめったにない…ところがこれらすべての矛盾が、日本に関する書物の縦糸と横糸になるのである。それらはいずれも真実である。刀も菊もともに一つの絵の部分である。」で始まる本書は、第二次大戦中、1944年に国務省の委嘱を受けた文化人類学者のルース・ベネディクトによる、日本を占領統治する戦争目的のために書かれた作品。「日本人の行動や文化の分析からその背後にある独特な思考や気質を解明、日本人特有の複雑な性格と特徴を鮮やかに

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浮き彫りにする。“菊の優美と刀の殺伐”に象徴される日本文化の型を探り当て、その本質を批判的かつ深く洞察した、第一級の日本人論」とされる。生涯、日本に一度も行ったことがない作者がインターネットもない時代に日本の精神生活や文化についてこれだけの分析をしていること、さらに、雑誌上の読者からの身の上相談など、分析の前提となる膨大な事実を集めたことにも驚く。

本書について、当時の日本人がどのように感じたかについては、本書巻末の「評価と批判」によると、

「私は…あの敗戦の直後に、本書を一読した時の深い感銘を忘れることができない。…本書は今までの多くの本のどれにもない新しい感覚と深く鋭い分析とを持っている。私はすべての日本人が本書を読むことを希望する。」という。

6夏目漱石とも交流したロシアの大富豪 ― セルジュ・エリセーエフ(ハーバード大学教授、イェンチン研究所所長 /日本研究)(1889年‐1975年)

帝政ロシア時代のサンクト・ペテルブルクのエリセーエフ商会(ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」やトルストイの「アンナ・カレーニナ」にも出てくる、当時の最高多額納税者。)の御曹司で、アメリカにおけるジャパノロジー(日本学)を打ち立てたロシア人。生家は、今も高級食料品店として現存するという。1900年、11歳でパリ万博の日本館を見て素晴らしい異文化の存在に感動、日露戦争中は報道を通

じて日本への関心を高める。戦争は相手国を理解しようとするきっかけとなるのか、1904年~1905年の日露戦争の敗因を理解しようとして日本研究を決意したという。1907年に18歳でベルリン大学で日本語を学び始め、後に広辞苑の編者ともなった言語学者、新村出と知り合い、その勧めで翌年にはもう「英利世夫」の名で東京帝國大学文学科入学。ベルリン大学の教室で新村がドイツ語で「失敬」と挨拶したところ、その学生が「どうぞ」と日本語で会釈したという出会いから新村との付き合いが始まったという。「古事記、万葉集から平安文学、鎌倉文学、室町文

学、徳川文学史の講義を受け、みちのくを行脚して書き上げた卒論芭蕉研究」は破格の評価を受け、「成績は上位3位に次ぐ優秀さ」で、明治天皇の最後の行幸となった「卒業式では明治天皇の前に銀時計組に伍して並ぶことを許された」という。「その間、日本語を読み、聴き、話せるようになるために東京は本郷弥生町の借家で家庭教師三人から毎日、朝八時から夜八時までの特訓を受けたという。」借家といっても、弥生町の8つの部屋の庭付きの借家で女中を3人使っていたという。

その頃、夏目漱石の弟子と知り合い、漱石に紹介され、漱石の自宅で開かれていた木曜会に出席、人脈を広げ、芥川龍之介、谷崎潤一郎、永井荷風、内田百聞、菊池寛、芦田均ら「明治大正の文壇、社交界の錚々たる人士と親交を重ね、自らも自宅に荷風などを招きエリセーエフ文学サロンを開いた。」という。

ロシア革命で投獄され、フィンランド経由でパリに

国立国会図書館デジタルコレクションより エリセーエフが日本館を見て感動したという1900年のパリ万博 世界一周パノラマ舘の日本芸者達

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亡命。ロシア革命の際のフィンランドへの逃亡紀を書いた『赤露の人質日記』は、パリに着いてすぐに日本語で直接書きおろされ、『大阪朝日新聞』紙上で連載。パリでは、フランス国内初のフランス語による日本専門の雑誌『日本と極東』を発案。当時の彼はパリのギメ美術館の研究助手を務めながら、駐仏日本大使館の通訳として働いていた。1908年から1917年にかけて日本に三度滞在し、東京帝国大学では日本の文学と美術を学び、東京の文壇や歌舞伎界とも親交があったため、当時のパリにおいては、同時代の日本とその文化について最も精通した人間の一人として抜きんでた存在だったという。エリセーエフが中心となって、

『日本と極東』誌において、1909年から1923年までに書かれた夏目漱石、森鴎外、永井荷風、志賀直哉、谷崎潤一郎、菊池寛などの主要作家の短編12篇という形で、同時代の日本の文豪の初のフランス語翻訳を掲載し、その後、彼らが国際的名声を得るきっかけにもなったという。パリにいながらにして『中央公論』や『新小説』といった主要な文芸誌や、『近代文芸史論』といった最新の文学史の本を読み、「日本と極東」において「我々は日本文学を、現在、最も活き活きとした文学のひとつと見なすことができる。ニッポンの作家たちは世界文学において重要な位置を占めるにふさわしいと思われる」と書いている。

彼の「赤露の逃亡日記」は読み物として面白いかはともかく、本人は相当に洒脱で面白い人だったようだ。大学の「「卒業祝い」で柳橋のきれいどころを総揚げして隅田川に屋形船を繰り出し」、「打ち上げは吉原」だった」といい、羽振りが良く、江戸っ子流の日本語の達者なこのロシア人は芸者衆には文字通りモテモテだったという。亡命後、パリをへて、1935年から仏文部省からハーバード大学に派遣され、東洋語学部教授兼、同大の東洋研究所であるイェンチン研究所の初代所長として1957年まで、23年間、ジャパノロジスト(日本学者、日本研究家)を育成。第二代所長のエドウィン・O・ライシャワー元駐日大使もその薫陶を受けた一人。ドナルド・キーンも当時のアメリカではもっとも有名な、伝説的な日本文学の教授だった彼に学んだという。ただし、ドナルド・キーンは「彼の文学史の授業は、古いノートを一本調子に読み上げるだけの無味乾燥なもので、新たな情熱を感じさせる

ものはなにもありませんでした。」として「すっかり失望されられました」という。

米軍が京都を攻撃しないようにマッカーサー元帥に要請し、晩年、訪れた日本人にニコニコしながら「先日は折悪しくフロをとっておりまして、武士はフンドシもつけずに電話に出るのは失礼かと思いましてー」といって流暢な江戸便で出迎えたという。

7フルブライト奨学金を創設 ― J・ウィリアム・フルブライト(元米国上院議員、フルブライト教育計画推進者)(1905年~1995年)

Senator J. William Fulbright(日米教育委員会提供)

フルブライト奨学金を創設に寄与した米国の上院議員。1946年に提案され、1960年フルブライト・ヘイズ法に拡大吸収されたフルブライト法の提案者として、戦後の日米相互理解の上で極めて重要な役割を果たした。

戦争はまた、国際交流の必要性を実感させるフルブライトは、諸国民の間での人物交流による相互理解が悲惨な戦争勃発を防げるとの強い信念から、1945年9月にアメリカと世界各国との教育交流計画を議会に提出し、1946年8月に批准された(フルブライト法と呼ばれる)。そのプログラムにより日本を含め現在160ヶ国以上が参加し、これまでに世界中で約36万人以上が恩恵を受けてきた。

フルブライト計画により渡米した邦人及び来日した米国人日本研究者の数は5,000名以上の多数に上るが、これら両国から派遣されたいわゆるフルブライターは、帰国後それぞれの国の学術、文化のみならず政界、官界、実業界でも多数活躍している。日本人の

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フルブライト奨学生には、国連事務次長の明石康(国際関係学)、小柴昌俊(ノーベル物理学賞)、下村脩

(ノーベル化学賞)、利根川進(ノーベル生理学・医学賞)、根岸英一(ノーベル化学賞)、竹村健一(ジャーナリズム)らもいる他、フルブライト奨学生は、国会議員として、或いは財務省などの省庁でも活躍。

8夫人が日本人、日本生まれの学者大使 ― エドウィン・O・ライシャワー(ハーバード大学教授、元駐日大使/日本研究)(1910年‐ 1990年)

ケネディ大統領記念図書館博物館より ©Abbie Rowe. White House Photographs. 1961年6月20日 ホワイトハウス大統領執務室 後列左より、朝海浩一郎駐米大使、ディーン・ラスク国務長官、小坂善太郎外務大臣、エドウィン・ライシャワー駐日大使、ジェームス・ウィッケル通訳官、前列左よりジョン・F・ケネディ大統領と池田勇人総理

一般には、ケネディ政権時代、日米両国間の対話の確立を目指し、両国間の相互理解と親善のために尽力した駐日アメリカ大使として知られる。ただ、駐日大使時代は彼と日本とのつながりの一部に過ぎない。父は、明治学院の教師として来日し、新渡戸稲造らと東京女子大学を設立した宣教師であり日本研究家。1910年に東京で生まれ、16歳まで日本で過ごす。東京女子大キャンパス内の大使が住んでいた家は、大使から東京女子大に寄贈され、ライシャワー館という外国人用の迎賓館として利用されているという。伝統的な日本学の専門家で、中国語を習って中国文化圏の国の一つとして日本の歴史、宗教、文化を勉強する第一世代と

言われる極めて少数の戦前の日本研究者の一人。セルジュ・エリセーエフの弟子で、日本、特に近代

日本の政治、外交史に関する著作は多数にのぼる。欧米の読者を念頭におきつつ、日本の読者をも頭において書いた日本史の本「Japan:The Story of a Nation by Edwin O. Reishaure(邦題「ライシャワーの日本史」)では、その冒頭で「日本は、世界の中でもきわだって特色のある、洗練された文化を長年保ってきた国である。その日本が今日では経済大国に成長し、しかも世界第三位を占めるにいたっている。そして、人類の文明が到達した偉大な進歩のうち、多くの分野で最先端か、もしくはそれに近い位置に立っているのである。…この国がなぜこれほど大きく発展したかは、地理的条件や資源では説明することができない。それは、ひとえに、国民のすばらしさと特異な歴史的経験の賜物なのである。」と紹介している。駐日大使としても日米間の友好親善に尽力。このような多岐にわたる活動を通じて日米間の文化交流のみならず、広く諸外国の対日理解の増進に多大の貢献があったという。

日本出身で初の米国歴史学会会長となった入江昭ハーバード大学教授によると、日本生まれの彼が「大正デモクラシーの雰囲気に直接触れたことが日本観の原点を形成するものであった。」という。大学進学のためアメリカに帰るが、日本及び中国の歴史と文化を研究してハーバード大学で修士号を取り、1930年代には、ハーバード・燕京研究所から派遣されて、パリ・東京・京都の各大学などで学ぶ。大学院生として日本古代史研究のため再来日した際、以前とは全く違った日本の政治や社会を見出したという。中国にも詳しく、9世紀の口語と古典中国語の入り混じった難解な僧円仁の「入唐求法巡礼行期」を英訳し、論考も書き、また、中国の歴史や文学についての日本人が書いた論文を読みたい人たちの日本語学習のためにエリセーエフとともに『大学生のための日本語基礎』を書いている。

入江昭は、また、「戦時中は学究生活を中断して、国務省や陸軍で、主としてアメリカ軍将校への日本語教育や対日占領政策の立案に専心したが、この間にも日米関係の好ましい在り方についてつねに考えていた。」という。近代日本は根本的にはより民主化され、より国際的な方向に向けて歩んでいたこと、敗戦に

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よって、日本は再び1920年代の流れに遡って、国内政治や国際関係を再構築していく可能性があることという見方は、のちに「ライシャワー路線」と呼ばれたという。

戦後、助教授としてハーバード大学に戻り、東洋言語や日本史を講じ、ハーバード・燕京研究所長、東アジア研究所長などの要職にあったところ、1961年、ケネディ大統領の要請で日本大使を引き受けた。ハーバード大学の若き助教授時代には、同大学で学んでいたドナルド・キーンとも親しく交流していたという。

日本生まれの日本研究の歴史学者であり、ハル夫人は明治の元勲、松方正義の孫娘。駐日大使就任の際には、主要国の元首級の扱いで大歓迎を受け、「ライシャワーブーム」とも言われたという。

大使在任中の1964年に米国大使館前で統合失調症の少年に刺されたライシャワー事件は、東京オリンピック、新潟地震、新幹線などと並んで、10大ニュースに入ったという。事件直後に大平外相が見舞い、池田首相も見舞おうとしたが、入院先の虎の門病院は報道陣などでごった返していて一歩も入れなかったという。また、輸血により、日本人の血をもらったのだから、これで自分は日米の「混血」だという発言は、日本人に大歓迎されたという。入院中の虎の門病院には見舞いの電報や手紙、花束、品物は溢れんばかりで、この事件はまた、精神に障害がある人の処遇を見直すきっかけともなったという。

ケネディ大統領暗殺後、1966年にジョンソン大統領の慰留を断って大使を辞任後は、再びハーバード大学教授となり、70歳で定年退職後も、執筆・講演活動を続け、ハーバード大学の日本研究所もエドウィン・O.ライシャワー研究所と名付けられ、教授、学生、近辺の日本研究者の集う場所として各種の会合を主催し、訪れる人に便宜を提供。日本から帰国後に長年住んでいたボストン郊外の家も、ライシャワーハウスとしてゲスト・ハウス並びにカンファランス・センターとして利用されているという。

9『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で米国人に警鐘 ― エズラ・ヴォーゲル(ハーバード大学フェアバンク東アジア研究センター所長)(1930-)

長年にわたって日本研究の発展と若手日本研究者の指導・育成に尽力するとともに、我が国との学術交流に努めた。また、「日本の中産階級」、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」等の優れた著作をはじめとし、日本研究を通じて諸外国における日本理解の増進及び日米関係の発展に多大な貢献をした。

占領政策が終わり、戦後の高度経済成長時代になると、米国でも日本経済への関心が高まるのか、エズラ・ヴォーゲルは、1958年、ハーバード大学社会学科で博士号を取得し、2年間、他の外国人とは一切離れて、日本語を勉強し、「日本の生活様式の中に飲み込まれるようにして暮らし」、日本の家族を詳細に調査し、その心理的特性を研究。その結果は「日本の新中産階級(Japan’s New Middle Class)になって出版され、アメリカの日本研究者の必読の書だったという。日本研究に着手してから、毎年日本を訪れ、「20年間というもの、日本の社会に対する私の好奇心は湧き上がる泉のごとくで、決して涸れることはなかった。」といい、1979年に『ジャパン・アズ・ナンバーワンーアメリカへの教訓』を出版。その20年間に驚くほどの飛躍・発展を遂げていた日本について、「日本の幾多の成功をまともに正視し、それらの提起する問題点をつぶさに検討してみることは、今のアメリカにとって、国の将来にかかわる急務である」との問題意識で書かれた。当時の日本について、「少ない資源にかかわらず、世界のどの国よりも脱工業化社会の直面する基本的問題の多くを、最も巧みに処理してきたという確信を持つにいたった。私が日本に対して世界一という言葉を使うのは、実にこの意味においてなのである」という。日本人の成功の原因は伝統的国民性、昔ながらの美徳によるものではなく、むしろ、日本独特の組織力、政策、計画によって意図的にもたらされたものであるという。アメリカ人は困難にぶつかってもしり込みせず、学び、適応していくと信じて生まれたともいうこの本は、社会の様々な面で行き詰まりを感じているアメリカにとって、現在の日本のや

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り方を一つのモデルとし、そこから得るものが大きいことを示唆。日本についての講演依頼が全米中から殺到したという。40年前に書かれたこの本は、当時、日本でも70万部も売れたというベストセラー。中国の朱鎔基、シンガポールのリー・クアンユーは日本のことを勉強するために本書を読んだという。

近年、中国の台頭により、米国におけるアジア研究の関心が日本から中国に移っているが、ライシャワーやドナルド・キーンなど多くの日本研究者が中国研究者でもあるように、もともと世界的に日本語と中国語の双方に堪能な東アジア研究者として知られたエズラ・ヴォーゲルは、2000年に70歳になり、ハーバード大学での講義から引退。「そこでこれから、いったいどのような研究をしようかと考えた。…どの研究に絞るか考えたとき、私はこれから何十年にもわたり中国の台頭こそが、東アジアについてアメリカ人が理解しなければならない最大の課題だということに疑いを抱かなかった。」そして、毛沢東以降の中国の構造変動を主導し、その結果が中国の基礎になっている鄧小平を研究。発刊した「Deng Xiaoping and the Transformation of China」の中国語版(2013年1月)も、出版から半年で60万部以上売れたという。

日本、中国でそれぞれベストセラーとなったこれらの本の問題意識は、「急速な経済発展を遂げた国を、他人がほとんど不可能と思っていたような体制改革を、その国の人々がどう実現し、発展につなげていったのか、その国の視点に立って分析し、結果を自分達への教訓として謙虚に吸収しようとする」点で共通しているという。

1979年から40年後の今年、エズラ・ヴォーゲルは、「ジャパン・アズ・ナンバーワンの「日本語版の序文で私は次のように書いた。『日本人も傲慢の虜になる危険性はある。』…米国の世論に根強くあった日本の実力を軽視する見方に対し、日本社会の強さを米国人向けに分かりやすく紹介するのが執筆の狙いだった。…だが、強烈なタイトルに目を奪われた日本人は、序文の警告に注意を払わなかった。ある日本の財界人は当時、米国から学ぶべきことは何もない、と平然と言ってきた。…円高ドル安と大規模な金融緩和を好機に、外国で土地や株を買いあさった。かつては非常に謙虚だった日本人の性格が変わってしまったかに

見えた。ハーバード大学で同僚だったエドウィン・O・ライシャワー氏が冗談めかして「この本は米国では必読書だ。だが日本では発禁にするべきだ」といったのは的を射ていた。」と語る。

⓾候補者宅に居候して日本の選挙を分析 ― ジェラルド・カーティス(コロンビア大学教授)(1940年~)

安倍フェローシップ25周年記念シンポジウム、2016年11月15日、於虎ノ門フォーラム 「激動する世界と我々の未来」基調講演者 ジェラルド・カーティス(コロンビア大学バージェス記念名誉教授)「不確かな未来に備える」

知日派政治学者として、日米欧にわたる文化紹介・相互理解に多大な業績を上げ、優れた後進の育成にも尽力している。日本の政治過程分析における第一人者として、日本政治を鋭く分析しており、日米両国のメディアを通じての発言は日米相互理解促進に大きく貢献。

日本が経済大国になると、その政治にも関心が高まるのか、ジェラルド・カーチスは、1967年、大学院生のときに、衆議院議員総選挙における自民党衆議院議員候補の陣営を取材。立候補から初当選までの日本の選挙運動を分析し、博士論文を執筆。それを基にして『代議士の誕生』を出版。時事放談にもしばしば登場するなど内外のマスコミで活躍。コロンビア大学東アジア研究所長、東京大学、慶応大学、政策研究大学院大学など客員教授を歴任。中日・東京新聞のコラムニスト、ニューズウィーク編集長特別顧問、旭重光章受章。

アメリカ人はプラグマティックな国民で、アメリカは日本と一戦を交えることが避けられないとなると、徹底的に敵国のことを知ろうとしたという。米国では

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1907年以来、米陸海軍はそれぞれ2人の将校を日本に送り米国大使館で日本語を学習させ、日本の情報収集を担当させたという。1920年代には日本語の暗号解読チームが結成され、米国では戦争に備えて本国陸海軍での語学兵の教育体制が準備され、開戦前に最初のクラスが開校。一流大学から語学の才能に恵まれているドナルド・キーンのような優秀な学生を募り、彼らに日本語を叩き込んだ。この時期にアメリカの陸海軍で要請された日本語の語学将校は5千名余りに上るという。ソ連がスプートニクを打ち上げて、アメリカが大きなショックを受けていたとき、ケネディ大統領が、安全保障のためにアメリカ人が外国のことをもっと知る必要があると訴えて成立した国防教育法は、アメリカ人が注目していなかった言語を勉強させる目的だった。ジェラルド・カーチスはこの国防教育法の奨学資金で日本語の勉強を始め、日本語に魅力を感じた。動詞が最後に来るので最後まで行かないと分からない日本語を勉強すれば、考え方の手法そのものが広がるのではと思い、一生懸命勉強。戦争が終わって20年たっていたのに、戦時中の米軍陸、海軍日本語学校で使用された教材もまだ使われていて、彼は、漢字を何時間練習しても飽きなかったという。

さらに日本に行って集中的に勉強しないと上達しないかと考え、1年間日本語を勉強することとなったのが「知日派」の始まりという。東京オリンピックが開催された1964年に初来日し、西荻窪の月10ドル足らずの家賃の部屋に下宿し、近くの大衆食堂で鯖や秋刀魚を食べながら東京の日本研究センターで1年間、日本語を勉強。いったんコロンビア大学に戻り、1年後、博士論文の研究をするため、1966年、再来日。

「図書館で調べられる研究なら、優れたジャパン・コレクションを持つコロンビア大学の図書館で勉強すればいい。せっかく日本に滞在するなら日本の現代政治の実態をもっとわかるような研究をしたい」と思い、

「文化人類学者がやるようなフィールド・リサーチ(足を使っての実態調査)をして日本の政治を発見したいと考え」、地方の選挙区に入り、候補者の選挙運動を分析すれば、日本の民主主義のグラス・ルーツが分かるとして、候補者の自宅に1年間居候して、

「ニューヨーク訛りの大分弁を喋る唯一の人間だ」と自負できるまでになったという。

フォード財団の日米議員交流プログラム運営に長年携わったことで、日米双方の政治家と知り合う。歴代総理の多くに直接面識があり、同プログラムに参加した多くのアメリカ議員はのちのアメリカの政界で重要なリーダシップを発揮。ハワード・ベーカー上院議員はレーガン政権の首席補佐官、駐日アメリカ大使、トマス・フォーリー下院議員は下院議長、駐日アメリカ大使、若手の下院議員だったドナルド・ラムズフェルドは、フォード政権の国防長官となり、ブッシュ政権の国防長官。同プログラムに携わった議員たちのほとんどが生涯にわたって日本に関心を持ち続けたという。

たまたま2016年の米大統領選挙の翌週、講演を聞いた。日米の政治に精通した彼でも、講演の冒頭、大統領選挙の結果を受けて、「この一週間の間に用意していた講演の内容を全部入れ替えなければならなかった。」と話していた。

ジェラルド・カーチスによると、日本研究者は5世代あるという。極めて少数(太平洋戦争が始まった1941年、アメリカの全大学で日本専門家は十数人しかいなかったという。)で、エドウィン・O・ライシャワーのように宣教師の子弟が多かったという第一世代。

日本と戦った経験があったため、日本について思い入れが強かったドナルド・キーンのような第二世代。この第二世代が中心となって、政府やフォード、ロックフェラー財団などに働きかけて、地域研究のための支援を仰いだことから、1950年代から1960年代は日本研究の黄金時代となり、その時代にジェラルド・カーチスら、ただ日本に好奇心のある第三世代が生まれたという。

その後に来る第四世代、第五世代は多元的だが、強いて言えば、70年代後半から80年代にかけて、アメリカで「日本脅威論」が流布され、日本への批判が高まったことから、第四世代は、日本をより懐疑的な目、批判的な目で見る傾向があり、その後に続く、第五世代は、第三世代の「うまく機能する日本の政治経済システム」への好奇心ではなく、全く逆の「うまく機能しない日本の政治経済システム」への好奇心から出発しているという。

ジェラルド・カーチスは、また、最近の知日派について、(1)地域研究が評価されず、大学の教授ポス

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トを獲得できないため、若い学者は実態調査よりも理論を重視し、最近のアメリカの社会科学一般の傾向として、広く知識を得ようとするよりは、狭い分野で専門的な知識を深めようという傾向が強いという。日本研究のための奨学資金が少なくなり、博士課程の学生は授業料の高い大学院で時間をかけて日本語を勉強する余裕がなく、日本研究の蓄積により英語の文献も多く、日本語の書物をあまり読まずに議論するという。(2)他方、1987年にスタートした、総務省、文部

科学省、外務省による語学指導などを行う外国青年事業(The Japan Exchange and Teaching Program,いわゆる「JETプログラム」は毎年数千人の外国人の青年を招くプログラムで、2007年には5500人の参加者のうち半分はアメリカ人だったという。このような「JET世代」とも呼べる新しい知日派が台頭していて、第二次大戦のときの陸海軍日本語学校に匹敵するほど多く、コロンビア大学で大学院に入って日本の勉強をする学生にはJET卒業者が多いという。

米国の学者による日本研究の成果は学術・文化の世界のみにとどまらない。米政府が日本研究者の意見を求めることは勿論、「回転ドア」と言われる、アメリカの政権交代に伴う政府高官の交替により、ライシャワー駐日大使のように、政権の中枢に知日派が入ることもあり、他の国での日本研究以上に意義があることだという。

しかし、1990年代のバブル崩壊後。米国人の日本の経済、政治への関心が薄れる中、日本研究をする人が少なくなっているという。そんな中でも最近、日本文化への関心を高めてきた人たちのご紹介、そして、今年、米国で日本文化への理解・関心のすそ野を広げる目的で開催されている「Japan2019」については、次号に譲る。

(主な参考文献)外務省 外交青書2018年版ドナルド・キーン、「ドナルド・キーン著作集 第1巻~第15巻」、新潮社、2011年~2018年ドナルド・キーン「続 百代の過客 日記に見る日本人」、朝日新聞社、1988年ドナルド・キーン/河路由佳『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』白水社、2014年ドナルド・キーン 松宮史朗訳「思い出の作家たち 谷崎・川端・三島・安部・司馬」新潮文庫、2019年東京新聞 2019年3月6日「ドナルド・キーンさんを悼む」

ドナルド・キーン「かなえられた願いー日本人になること」国語六創造、光村図書出版、2014年M.C.ペリー、F.L.ホークス編纂、宮崎嘉子監訳「ペリー提督日本遠征記 上・下」、角川ソフィア文庫、2014年吉田光邦、「改定版 万国博覧会 技術文明史的に」NHKブックス 1985年伊藤真実子『明治日本と万国博覧会』吉川弘文館 2008年紫式部 アーサー・ウェイリー英語訳 佐藤秀樹日本語訳「ウェリー著 源氏物語Ⅰ-Ⅵ」 平凡社 2008年ルース・ベネディクト 長谷川松治訳「菊と刀」、講談社学術文庫、2005年エリセーエフ、赤露の人質日記、中公文庫、1976年クリストフ・マルケ、「雑誌『Japon et Extrême-Orient/日本と極東』と1920年代フランスにおける日本学の萌芽、クリストフ・マルケ、日仏会館創立90周年記念シンポジウム「両大戦間における日仏関係の新段階」」2014年倉田 保雄、「日本学の始祖エリセーエフ (私たちが生きた20世紀--全編書き下ろし362人の物語 ; -忘れえぬ人-」、文芸春秋 78(3)、2000年川口久雄、『涼しい眼光がとらえた日本 エリセーエフ『人質日記』、G,B.サンソム『日本文学史』』朝日ジャーナル、1977年小町恭士「巻頭随筆 ジャパノロジ―の誕生とエリセーエフ」、GAIKOFORUM2000-12、2000年The United States and Japan, Viking Press, 1965, 3rd ed. 『ライシャワーの見た日本』 徳間書店、1967年/徳間文庫、1991年Japan The Story of a Nation, C.E. Tuttle, 1978, 3rd ed. 『ライシャワーの日本史』 文藝春秋、1986年/講談社学術文庫、2001年『ライシャワー大使日録』 ハル夫人との共著、入江昭監修、講談社、1995年/講談社学術文庫、2003年エズラ・ヴォーゲル、訳者 広中和歌子 /木本彰子「Japan as No.1」、TBSブリタニカ、1979年エズラ・ヴォーゲル 訳者 益尾知佐子、杉本孝「現代中国の父 鄧小平 上・下」、日本経済出版社、2013年エズラ・ヴォーゲル 平成経済の証言 1980年代に生じたおごり 長い停滞の引き金に 週刊東洋経済 2019.4.6ジェラルド・カーチス山岡清二・大野一訳、『代議士の誕生』、日経BPクラシックス , 2009年ジェラルド・カーチス『政治と秋刀魚――日本と暮らして四五年』、日経BP社 , 2008年

Website等外務省のWebsite https://www.mofa.go.jp/mofaj/国会図書館デジタルコレクションのWebsite http://dl.ndl.go.jp/国際交流基金のWebsite https://www.jpf.go.jp/j/about/area/japan2019/index.htmlhttps://japonismes.org/ジャポニスム2018 事業報告書https://www.jpf.go.jp/j/about/area/japonismes/pdf/japonismes2018_report.pdfフルブライトジャパンのWebsite https://www.fulbright.jp/JETプログラムのWebsite http://jetprogramme.org/ja/Russia BeyondのWebsie アレクサンドル・クラーノフhttps://jp.rbth.com/blogs/2014/07/24/49311

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